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遠く深い蒼穹に鷹が一羽、優雅に飛んでいる。
いい天気だ。
「これなら田起こしも捗ってるんねえきっと」
「なあに? 萌葱ってば誰を想って言っとん?」
「……ほぇ?」
予想外のその言葉に驚きすぎて、引き抜こうとした牛蒡に力が入らず、尻餅をついてしまった。正月に新しく仕立ててもらったばかりの小袖は、まだ真新しい生成りの色をしていたのに、畑の土がべっとりとついた。
「なにぃそれ? あたいは田起こしってゆったんよ」
「萌葱ももうこの春で十三になったん、田起こししてる誰のことが気になるんかっちゅう話やね」
萌葱は立ち上がり、小袖についた泥を払いながら顔をしかめた。
芹を籠に入れながら笑いあう少女たちだって、萌葱より二つ三つ年上なだけの子供だった。
「ねえやだってまだなぁんも決まっとらんに、あたいがどうすんね?」
そう言ってやったら、すぐそばにいた姉が抜いたばかりの牛蒡を振り上げて鬼のような形相で睨みつけてきた。
「萌葱っ! くだらねえこと言っとらんと、さっさと終わらし!」
「おっかねえ顔すっと、男も逃げてくんでねえ?」
すでに相手が決まっている年上の女がそう言い、皆が一斉に笑った。
姉はもう十七でそろそろ邑の男を選ぶ時期だろう。けれど、萌葱は知っている。彼女は気が強いことで有名ではあるが、すでに密かに決めたひとがいるのだ。おっとりとした両親が気づいていないだけで。
「ね? 萌葱はほんにまだだぁれもおらんの?」
「あたいはいつか京に行くんよ。赫映様に会うて、このまほろばのすべてを見たいんやから」
「―――はあ?」
聞いていた少女たちは、思わず作業の手を止めていた。
「なに言っとんのー」
「また萌葱の夢物語が始まったんよ。ほら、前だって倭皇様の下女になる言うてたやん」
「あぁ、そうやそうや。まほろばの生き神さまにうちらが会うなんて無理やのにな」
「けんど、お若くて美しい倭皇様やって話やからなぁ、一目見てみたいってのはわかるわぁ」
「そういう意味と違うんやけど……」
赫映や倭皇を邑の人々と同じように噂に上らせるのは本来なら無礼極まりないことではあるが、こんな田舎でその威光を直に感じることはまったくない。若いと聞けば自分たちが思い浮かべることのできる精一杯の美しさをその身に重ねて、夢を描く。
萌葱の反論などなかったかのように、彼女たちの話題は進んでいった。
「その前は国学に入りたいて言うとったんよ」
「国学~っ? 萌葱が学生になるんっ? 無理や無理。頭よくないとなれんって」
「そやそや、うまいこと国学を出たあとは官人になれるんやろ。この邑にそんなんはだぁれもおらん」
萌葱以外、ここでは誰もそんな突飛なことを言わないせいか、彼女たちはみな萌葱の言葉をよく覚えている。半分はからかうためだろうと萌葱は勝手に思っていた。
「昨日は日の蝕尽があったけん、そないなこと言っとんや」
「じいも夜みたいに真っ暗になるのは今まで見たことないって言っとるらしいんよ」
「しかもすっごい数の鵠やったね。そろそろ北に渡るころやのにな」
「やっぱり、じいの言うてたことは本当やろか」
それを思い出すと、誰もがしばし口を閉ざした。神のほかに、いったい誰が空をあのように変えることができるだろうか。
あんなことがこの世で、目の前で、起こるなんて。
「……ほんに月夜媛様が降り立ったんや」
思わずつぶやいたら、再び奇異の視線が一斉に向けられた。だが、あの神秘を見たあとでは誰も萌葱のこの言葉をすぐに否定したりはしなかった。
「『日の蝕尽起りし時、倭皇おわすこの現し世に、月夜見尊の眷属、常世より現る。鵠を従え、天の羽衣を携え、天津の君を救ひける』……じいはそう言うてたんよ。あたいも会えるやろか」
常世にいるのならば会うのはあきらめる。だが、この世に現れたのならきっと……。
萌葱はそう期待をしたが、彼女たちは互いの顔を見合わせ、どこか納得していない様子で最後に萌葱に目を向けた。
「けどなぁ……」
「そや、萌葱。会いたいて言うてもこんなはずれの邑には来おへんよ? お偉い方は京におるし、京に行ったからて会えるもんでない。常世から来られる月夜見尊様の媛様かてこんな田舎に降り立ったりせん」
ほかの娘たちもそろってうなずいた。
「いまごろ京では宴に備えているんやろて、じいがゆうとるらしいよ」
「ええなあ、美味しいもんたらふく食っとんのやろな」
「京じゃみんな絹を着とるんやて、本当やろか」
「夜も明るうて歩くのに困らんとかって聞いたわぁ」
だが誰も……じいですら、本当の京は見たことがない。
「京て、えらい遠いんやて。どこにあるんやろなあ」
「うちらの足じゃ辿り着けんよ。あの山の向こうの向こうの向こうて、うちの兄やんが言っとったわ」
「赫映様ちゅうんは変わった目のお色で天伝ふ日のように麗しいんやて。見たらこっちの目が潰れてしまうんやなかろうか」
「うるわしいっ? なんやその言葉。聞いたことないなあ」
「萌葱もな、月夜媛様みたいな恋がしたいってなら、あたいらにも気持ちはわかるんやけどなぁ」
「そやなぁ。そらほんに憧れるわ~。けんど萌葱がかぁ?」
「ないない~。ないわ~」
この世の理はたしかにまほろばを形成しているのだろうけれど、笑い飛ばして終わってしまうほど、小さな邑の平凡な日常生活には関わりないことだった。
だが、萌葱は手の届かない空を少し見上げる。
「けんど、京やって常世よりは近いんちゃう?」
月の光の裏側にあると言われる常世。空を見上げればそんな場所にはたどり着けないだろうと萌葱も思う。けれど、邑でとれた米や野菜は、租税として京に渡るのだと聞いた。この空は小さな萌葱の手では届かないけれど、京はきっと繋がる大地のどこかにある。この、まほろばに。
だが、姉は萌葱の衣の袖口に残っていた土を払ってやりながら溜息をつく。
「耀京ちゅうんはずうっと北にあるらしいけんどな。そういう偉い御方は雲の上に住んどるって話やけ、鳥にでもならんと会えんて」
「嘘やそれ!」
「嘘やない。じいが言うてたよ。倭皇様は別の御名を雲居さま言うんやと。じいのお孫の一人は京で衛士をしとって、末の孫娘も京に働きに出とるって萌葱も知っとるやん」
「そや、あの娘っこも萌葱みたいに京に行きたい言うてもんたなぁ。京なんて夢ん中のようやね。ほんにあるんやねえ……」
「けんどまっさか赫映様や倭皇様の下女になんてしてもらえてへんよ。きっと下っ端の官人ん邸でこき使われてるんやなかろか」
じいは邑一番の長生きで、何でも知っている。邑のことも、邑の外のことも。
けれど、萌葱はまだ幼すぎて、じいと直接話をしたことはなかった。
「こぉらっ。なに手ぇ止めてんの?」
はっと顔を上げると、彼女たちよりずいぶん年上の女が様子を見に来たらしく、畑の外側から怒鳴りつけていた。ほかの女たちも話をしていたはずなのに、いつのまにか籠に牛蒡や芹などが入りきらないほどになっていて、萌葱の籠だけがまだ半分しか埋まっていない。
「なんや、みいんな終わってんのもう?」
「萌葱だけや、口動かして手動かさんのは。先行っとるよ? 場所はわかるね?」
「川辺やろ? かまわへん。すぐ追いつくけん」
「早うね。夜はまだ長いんやからすぐに暗くなってしまうんよ」
ひらひらと手を振ったあとも、彼女たちの笑い声は続いていた。
「萌葱はすばしっこいけんど、菜採りは遅いんの、向いてないんやろか」
「いつまでも男と駆け回ってるのが似合いそうやわ」
「だけんど萌葱は男も負かしとんのや、うちんとこにはだらしいない男たちばっかりやね」
「そしたらうちらも月夜媛様にはなれへんなぁ」
冗談を言い合う女たちの背中を見送ると、萌葱は残っていた牛蒡に手をかける。ここ数日でずいぶん慣れたと自分では思うのだけれど、やっぱりまだ早くはできなかった。
「早くやっとかんと、ねえやがまた鬼みたいな顔するにちげえねえ」
そう独り言を呟きながら、やっといっぱいになった籠を持ち上げると、思ったより重かった。男の子よりも男らしいと言われて、少し欲張りすぎたかもしれない。
(みんなが知らん近道で行ったる)
遊んでいるときに男の子たちと見つけた、畑から川まで続く藪の中の道だ。狭いが、子供ならこの籠を持っていても楽に通れるだろう。
藪の中に入ると、いつものように虫の声がして蝶々が飛んでいた。視界の端にてんとう虫もいて、春も終わっていくのを感じる。萌葱たちの邑は、京よりも南にあって暖かく、桜ももう散り始めて一足早く夏に向かっていたのだ。
短い藪の道には小川があって、年中小さな魚なんかがよく獲れた。男の子たちと競い合っても、萌葱はたいてい勝った。小川の反対側には小さな竹やぶがあって、その葉で舟を作って競争したりもした。
(もうすぐ夏やから水遊びできるなあ)
緩やかな下り坂を慎重に降りていくと、藪の隙間から前方に女たちの集団がかすかに見えた。重たい菜があって走って追いかけることはできないけれど、彼らに置いていかれないように懸命に歩いた。
風の音を、川のせせらぎが掻き消していて。
けれど萌葱は、水音がいつもより大きい気がして顔を上げた。ほんの少しの、違和感。
すべての自然には神が宿るという。―――八百万の神々が。
萌葱はもちろん神を見たことはないが、本当にいるのかもしれないと思うときがある。何も変わらないように見えるいつもの川にこうして違和感を覚えると、それを萌葱に伝えてくれる誰かがいるような気分になるのだ。
女たちから目をはずし、あたりを見渡してみる。特に変わったものはない、いつもの小川のはずだった。
「―――あ」
なんだろう。
水のそばに、何か大きなものが置いてある。
籠を置いて、少女は近づいてみた。ゆっくりと。……だってそれは、今まで見たこともないものだったから。
水の中に足の半分だけ浸かっているそれは、人間のようだった。
(でも、こんなひと……見たことない)
童のように短い髪の毛なのに、どう見ても大人のようだった。女、だ。奇妙な衣を纏っている。膝が丸見えの短い衣なんて、昔の奴婢か何かを想像してしまう。表着も麻や綿には見えないし、色も形もおかしな装束。
「―――……ん……」
その物体の指先が、突然ぴくりと動いた。―――動いた?
急に恐ろしくなって、気づいたら萌葱はあらん限りの声で叫んでいた。
「おっ父っ! おっ母っ! ねえやーっっ! なんかおるーっ!」




