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「お前なんかやばいもん持ってるだろ」
「はぁ? なにその抽象的な罵倒っ」
走りながら、雨音に負けないように声を張り上げた。瑚月は足が速い。なのに、振り返りもせずに紗夜の速度に合わせている。手をつないでひっぱられていても、紗夜の足がついていけなくならないように。
こんなときでも冷静な彼の背中を、紗夜はじっと見つめた。
「バイトっつってたよな」
「そうだよっ」
二人は書店から少し離れたところにある、つぶれたラーメン店の軒先でようやく足を止めた。再び借りたタオルで黙って身体を拭いながら、かばんの中から小さな紙切れを取り出す。
大学構内の掲示板にあった、アルバイト募集の張り紙。
「これがそのバイト。証拠」
「なんでまた、こんなもん持ってくんだよ」
ちっと瑚月の舌打ちが聞こえた。紙切れはひったくられた。こんなものと言われてもたんなる紙切れだ。
「―――紗夜」
「なに?」
「……今ほんっとうにやべえことになってんだよ」
「はぁ?」
髪の毛を拭いていたタオルの隙間から見上げた瑚月の横顔は驚くほど真剣で、まっすぐに向けられた視線の先を紗夜も自然と追いかける。
大雨で視界はあまりよくない。
けれど、紗夜たちがやってきた方角は、それを差し引いても明らかに視界が悪すぎた。不自然に、暗いのだ。
黒い、煙。
「え? なに火事っ?」
炎は見えない。そもそもこんな大雨で、燃え続けるだろうか。
『……火中に―――』
目の前で、燃えていく……何かが、何かが。
イタイ。
『―――……』
炎がまるで生き物のように何かを包み込んでいく……そんな映像が浮かんで、はっと紗夜は我に返った。……今、自分は何を考えていたのだろう。
(火事? ってそんなの見たこともないのに……)
記憶の断片が、浮かんですぐに消えた。けれど、紗夜には火事にあった経験も、遠目に見たことすらもない。
(ホントに、そうだっけ……)
わからなくなる。何かが闇の中にあって、けれど取り出してはいけないもののような気がする。
瑚月が手を握ってきた。無意識に紗夜も握り返す。些細なことだが、それで少し安心した。まだ現実だと実感できたから。
くすぶった大気が、揺れる。
それとともに、瑚月の緊張も高まった気がした。
「離れんなよ。なんとかしてやっから」
あっさりとそんなことを言ってのける彼は、それなりに頼もしくはあったが、だからといって何ができるのだろう。
あの暗い煙のようなものがなぜだか危険らしいということは紗夜にもなんとなくわかる。ねっとりとして気持ち悪かった。普通に何かを燃やして生まれる煙とは思えない。
そう思いながら改めて瑚月を見上げると、彼は左手をぶんと軽く振った。
(―――え? 手品? なにこれ……えぇ?)
紗夜には本当に種も仕掛けもないように見えた。一回だけ振ったその手には、刃物が握られていたのだ。
刀―――だ。
時代劇か博物館でしか見ることがないような、日本刀。
だが、抜き身のその日本刀は、柄や鍔だけでなく、その刀身までもが吸い込まれるような深い黒の光沢を放っていた。
紗夜が声を出せないでいる間にも、煙はこちらに近づいていた。
薄暗い中で、黒い刀身がぼんやりと光を帯びる。
それは、奇妙なほど静寂によく似合い、たしかに綺麗だった。
煙は刀身を避けるようにして進む。いや、刀身だけではない。そこから形作られる薄い膜のようなものがあることに紗夜は気づいた。円形状のそれは刀身から放たれ、黒い煙はその内側に、つまり紗夜と瑚月のほうには入って来られなかったのだ。
薄い膜に当たった煙は、ばらばらと力をなくしたように大気の中に消えていく。
瑚月がいるおかげか、不思議なことが起こっているという自覚はあるのに恐怖はなかった。彼の存在こそが、現実に引き止められる証のような気がする。幼い頃からそばにいるのが当たり前だったから。
「どーすっかなー……」
ようやく瑚月が一息ついて、軽い口調でそうつぶやいた。緊張していた大気が少し和らいだ気がして、紗夜はその手を離した。―――何気なく。
……音が、消えた。
「―――紗夜っ?」
異変に先に気づいたのは瑚月だったが、遅かった。
「……え?」
一度だけ、紗夜は呟いていた。たぶん無意識に。
けれど、その声を聞く者は、もうどこにもいなかった。
足が浮いた、と思った。
(落ちる―――)
そう思ったのは、落ちる前だったのか、それとも落ちたあとだったのか。
「紗夜っ!」
そして、少し遠くから紗夜を呼ぶ声も……何処にも届かなかった。




