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せっかく雨の中、急いで駅まで来たというのに、アルバイトの依頼主はいっこうに現れず、紗夜は瑚月と別れて駅の本屋でもう少し待ってみることにした。
(……やっぱりなんか騙されてたのかな)
時給五千円なんて、そんな美味しい仕事が、何の地位も経験もない十八の娘に転がり込んでくるはずがないのだ。きっとそれが現実というやつで。
紗夜が自慢できるものといえばその若さだけなのだが、今のところそれを武器に仕事をするつもりもない。
相手の態度もそうだが、あっさりと甘い罠に引っかかった自分の浅はかさを残念に思うものの、深く気にすることはすぐにやめた。地方から出てきた一人暮らしの大学生は、まだまだ経験値が足りないのだ。実質的な被害があったわけでもないのだからと楽天的に構えておくことにした。
意地を張らずに瑚月に相談してみればよかったかもしれない。だが、もう遅かった。
(瑚月ちゃんに怒られたまんまだなあ……明日、謝ろうちゃんと)
特に欲しかった本があるわけでもなく、紗夜は新書の本から雑誌まで適当にぶらぶらと見て歩いた。
雨のせいか、ほとんど人はいない。
それでも何気なく平積みされていた本を手にとってぺらぺらとめくった。興味があったわけではなく、ただベストセラーとか専門家大絶賛とか、帯に書かれた安っぽいフレーズが目についただけ。
そのとき、どさっと自分の左側で音がした。
(……なに、また?)
今日はよくものが落ちてくる。
紗夜が足元を見ると、今度は人間ではなかったからなんとなくほっとした。
ただの本だ。本棚を見ると、ずいぶん上のほうの棚がちょうど同じ厚みで空いているのがわかった。
きょろきょろとあたりを見回してみたが、脚立もなく店員も……客のひとりも見当たらなかった。
手を伸ばせばかろうじて、届かないわけでもない距離……な気がする。
紗夜は背筋を伸ばし、つま先をおもいきりたてて、腕を上げた。棚に本が触れるところまではいく。
けれど、それだけだった。
(う~んっ、それじゃ意味ないしー)
誰もいないことを確認し、紗夜はぴょんとジャンプした。
日本人の平均身長でも手は届くのだが、びっしりと詰まった書棚に重たい本を入れ込むのは、ジャンプした一瞬では無理だった。やらなくてもわかっていたことだが、やはり無理だった。
それでもここまで来たら意地になって、紗夜は何度かジャンプを繰り返す。
慣れてきた……でもいいかげん手が疲れてきた―――と思ったそのとき。
ぐらりと何かが揺れた。
(え? 地震?)
大きくは、ない。このくらいの地震、珍しくない。
そんな小さな揺れのせいとは思えないのだが、棚に入りきらなくて上に置いてあったらしい本の一冊が落ちてきた。……紗夜の頭上に。
反射的に身構える。さすがに逃げるだけの余裕はなかった。
けれど、それはどさっという先ほどより大きな音をたてて、紗夜の足元に落ちただけだった。予想していた衝撃はなかった。
足元を見ると、文庫本などというレベルではない、辞書よりも大きく分厚い本がそこにあった。当たり所が悪ければ死ぬかもと思う……運がよかった。
視界はすでに揺れていなかった。
「……いってーっ!」
「え?」
近くで違う声がして、紗夜ははっと顔をあげ、反対側に視線を向けた。
さっきまでは、たしかに誰も、いなかったのに―――。
誰?
すぐ隣。
ここまで近づかれて気づかなかったなんて、そうとう集中していたのだろうか。そもそも何度もジャンプしたりして、この短いスカートがめくれ上がっていたような、いなかったような……。
紗夜が声のしたほう、自分の右側を見ると、頭を抑えて座り込む、男がいた。
(……この格好ってなんか意味あるのかな?)
演劇サークルの学生だろうか。普通に外を歩ける格好ではない。少なくとも紗夜には恥ずかしすぎて無理だ。
いわゆる、神社の……神主が着ているような服。今日は着物姿にやたらと縁があっておかしい。
男が、顔を上げた。
驚いたことに、知っている顔だった。
「風城?」
「あー、いやあ、あははは」
同じ学科で、同じ講義を受けることも多い、同級生。たしか風城世良。子供っぽいけど可愛いと騒いでいた友人のおかげで、紗夜もその名前を覚えていた。
だがなぜそんな格好。
それになぜここに突然。
何から尋ねればいいのかわからない。
「ミナセサヤちゃん、今って講義中じゃなかったっけ」
「基礎物理は休講になったから。……ってそうじゃなくて」
そもそも彼も同じ講義を取っているはずだった。学科の必修なのだから。
ムードメーカー的存在の風城世良は、あはははとまた笑った。誰に対してもそんな態度だ。それほど仲がいいわけでも悪いわけでもない紗夜に対しても。
(なに、大学に行くつもりだったわけ? でもこんな格好でわざわざ? いや、実は実家がお寺とか、神主の家系とか? だからっていまどき普段からこんなカッコしないでしょー)
雰囲気はまったくもってそうは見えないけれど。いつもクラスメイトを笑わせてばかりで、真面目とは程遠い態度だが、人は見た目で判断できない。瑚月だって口は悪いが育ちはいいのだ。
「あっちゃ~。なんでこんなとこに出ちゃうかなあ、もう」
「すっごい大きな本だねこれ」
少し気になって、紗夜は本に手を伸ばした。
足元に転がっているそれは、雑誌ほどの大きさで、辞書以上の厚さだ。これが世良に直撃したに違いない。
表紙も背表紙も、何も書かれていない。
だが、博物館で見るようなずいぶん古いものに見える。ところどころ破けているし、日焼けしたような色をしていた。売り物にはあまり見えない。
いったい何の本なのだろうと、少し興味がわく。
「あーっ。待って……っ」
「風城んのじゃないでしょ」
プライベート満載の日記帳だろうかと思うほどのあわてぶりだったが、持ち歩くのもほぼ不可能なこんなサイズが日記帳のはずはない。そもそも本屋に置かれているものを見るなと言われるのもおかしな話だ。
「でもそれはね」
「え?」
紗夜は軽い気持ちで表紙をめくろうとした。
「触んな紗夜っ」
振り返らなくてもわかる、瑚月の声。
とたんに、また何かが揺れる。はっと顔を上げて、気づいた。地面は揺れていない。なのに、本棚だけががたがたと音を立てていた。
重たいハードカバーの本が落ちるそのさまを、紗夜はどこかぼんやりと見つめた。条件反射がまるで働かず、それらは紗夜の頭上に容赦なく降ってきた。ぶつかる……そう思ったはずなのに、眼前でそれらはまるで紗夜を避けるように地面へ落下した。透明ななにかが叩き落としたかのようだった。
(―――なに、いま、の……)
声を出すよりも先に手首をつかまれた。―――瑚月の、冷たい手。
「おい走れっ」
理不尽な命令口調。なんでそんなこと言われなければならないのかと反論したかったが、それよりも強い力で引かれ、紗夜はともに店を飛び出していた。
ふとクラスメイトのことを思い出して振り返ったが、誰も見えなくて……彼もこの異常事態にさっさと逃げ出したのだろうか。
雨は、まだやまない。