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大学の門まで屋根はなかったけれど、なるべく桜の下を歩いて濡れないようにした。
昼間の風景とは思えないほど暗い視界。その中でたぶん、桜の花びらだけがくすんでいなかった。
落ちた花びらは、誰かに踏まれ雨に流れながらやがて土に還る。きっとそれも養分になって何年とか何十年とか経ってまた注目されるひとひらの色に生まれ変わるのだ。
少し顔をあげたら、濡れた前髪から滴った雨が目の中に入りそうになる。軽く目を閉じてそれを払った。
そうすると、雨の音がよけいに強く聞こえた。
「まだ風邪ひき願望でもあんのか紗夜」
視界がふっと狭まる感覚に目を開けたら、桜が消えていて、代わりに真っ黒いものが目の前にあった。
黒い、折り畳み傘。
自分のではないけれど、見慣れている。取っ手のビニールが少し剥がれている、それ。
「瑚月ちゃん、なにそれ」
「何って何が?」
脈絡がなさそうな問いにだって瑚月はちゃんと答えてくれる。だから、反問しながらも瑚月の目は笑っていた。
「小学校んときも中学んときも、お前マラソン大会やだっつってわざと風邪ひこうとしたのな。で俺が衣吹さんと千鶴さんに怒られんだ」
「ちょ……いつの話してんの~っ。時効だよそれじ・こ・う」
「幼馴染の情報網を舐めんなよ」
「それ違う~っ」
そういうのは情報網とは言わない。ただ幼いころからずっと一緒だったから、お互いのことを知っているだけだ。スパイのように得た貴重な情報ではない。
瑚月は軽そうな黒のかばんから取り出したタオルをぽいっとこちらに投げてきた。お礼を言うべき場面なのだろうが、なんとなく癪だったから黙って顔や手を拭いた。
「どこ行く?」
「……瑚月ちゃんがいないとこ」
「はぁ? なんだよそれ」
完全な拒絶ではないとわかっているから、瑚月は飄々とした態度のまま笑った。
「今からバイトなんだよー。二時に駅で待ち合わせてるから行かなくちゃ」
「急がなくていいのか? のろまのくせに」
わかりきったことをいちいち口に出さなくてもいい。
(急いでるよ。急いでるじゃん。それを引き止めたのは誰だと思ってるんだか……)
紗夜は歩き出した。
男物の傘は折りたたみでもそれなりに大きくて、紗夜の頭がそこからはみ出してしまう前に瑚月が隣に並んでついてきた。足元以外はもう濡れなかった。
(っていうか……傘―――)
紗夜が忘れて濡れていることを、まるでわかっているかのようなタイミングで。
(でもいまさらなんかありがとうなんて言いにくいし瑚月だし。どうせとろいとか馬鹿にするだけだし、でもこのまま一緒に駅に行くのかな……)
だが、瑚月は何も言わないで駅への道を歩いていく。紗夜もそれについて行くしかなかった。濡れなくて済むのはやはり助かるし、風邪をひかなくてももうマラソン大会なんて強要される歳ではなくなった。
「―――って、バイトっ?」
急に気づいたように瑚月は紗夜を振り返った。単純な驚愕を紗夜に見せることは珍しかった。
「なんだそれバイトって」
「えー? いいじゃん。あたしだって大学生だもんもう」
それは世の中のいろいろな禁止事項が徐々に解禁されていくころ。自由という得体の知れないものがついてきた。
「ふぅん? 大学生、ねえ」
「立場は同じだよ。なに他人事みたいに。瑚月ちゃんだってバイト……なんかやんないかやっぱ」
瑚月の実家は地元でも有名な旧家で、超がつくお金持ちで、庭に蔵なんかもあったりして数百年前のものがごろごろしている。バイトなんて世俗的なものは似合わない。
「それこそ他人事みたいに言うなって。お前だってカネに困ってるわけじゃねーだろ?」
「まあ、そりゃ……」
それどころか、アルバイト始めたなんて言ったら慌てて銀行に大金を振り込みかねない超絶過保護な父親がいる。そして、幼馴染の瑚月もそのことをよくわかっているのだ。
「でも今日だけのバイトだから楽だよきっと」
だが、内容を詳しく言うのはやめておいた。あの新しい友人たちが、麻薬だのと騒いでいたことを思い出し、瑚月も同じことを思うかもしれないから。
「瑚月ちゃんはさあ」
「んー?」
この小さな時間の隙間を縫って、雨音が聞こえてきた。ちゃんと、雨音だった。
「本当は……京都に、残りたかったんじゃないの?」
「―――はあ? なんだよいきなり」
「最初は残るつもりだったって弓月ちゃんに聞いたよ。それに弓月ちゃんの身体のことだって心配だろうし……」
そこまで言いかけて、紗夜は口を閉ざした。瑚月がそんな話を聞きたいはずがないのはわかっていた。その証拠に、険しい目つきで紗夜を睨むように見おろしていた。今更そんなことくらいで怯みはしないけれど。
(……だって、瑚月ちゃんは頭いいじゃん。ほかにいい法学部ならいっぱいある)
彼は、それなりの進学校として知られていた京都の私立高校で、常に学年上位の成績だった。模試で関西屈指の国立大学のA判定をもらっていたことも紗夜は知っている。東京に出るにしても紗夜と同じレベルの大学に行く必要などなくて、法学部で有名な大学を選び放題だっただろう。
(あたしの成績なんかいたって普通。中の中で。しかも分野が違う)
だが、国語や日本史、政経が得意な文系の瑚月は、数学や物理ですら理系の紗夜と同程度には点数を取っているのだ。
「俺が妥協したとか思っちゃってんの?」
怒られた。
それは静かで緩やかでしかも笑ってたりもして、怒声とはまるで正反対だったが、紗夜には彼の憤りが伝わってしまう。長く共有してきた時間の分だけ、瑚月のこころの真実に気づくのも早い。
「……それとも邪魔か? 勝手にバイト行きたくなるくらいに?」
「―――違っ。そうじゃなくて」
言いかけた紗夜の腕を、瑚月が強引に引いた。紗夜のすぐ横を、車がものすごいスピードで走り抜けていった。
「前見ろ、前。とろくてもそんくらいはできるっしょ。信号、赤だから」
瑚月が指差す歩行者用の信号は、たしかに赤。足元しか見ていなかった自分にやっと気づいた。
この通りを渡れば駅だ。
手に持っていたままのタオルを、紗夜は無言で瑚月に返した。彼も何も言わずに受け取った。
(瑚月ちゃんを邪魔だなんて思ったことは一度もないよ)
手ぐしでなんとか髪の毛だけでも整えながら信号を待ち、紗夜は空を見上げた。
その雨の一雫が見えた気がして、すっと追いかける。
あっという間に水溜りの中に消えて、どれなのかわからなくなった。
(こんな大雨で、一雫なんて見えないのに)
けれど、もう一度見上げると、やっぱり見える気がする一雫。
左手を伸ばした。
刹那のガラス玉のようなそれにも、届くような気がして。
(つかんだ……?)
五感の歯車が、一つずれて。二つずれる。
そうしたら、正しくゆっくりとベルが鳴り出す気がする。
(あたしの五感は、狂ってるほうが正しい)
ときどき、見えすぎる眼鏡や聴こえすぎる補聴器をもらったような気分になる。
と思ったのもつかの間、紗夜のすぐ隣に何かが落ちる音がして、何かやわらかいものがふわりと紗夜の足元を覆った。
一雫、ではなく。
叫び声すら引っ込んでしまうほどの驚愕で、紗夜は落ちてきたものを見おろした。無意識のうちに隣にいた瑚月の腕を掴んだ。彼もまた、素で唖然としていた。
「なんだっ?」
「―――……?」
思考が、止まる。
数秒経って、紗夜は少し上を見上げた。
落ちてくるとしたら、この並木道の桜からしかないのだが。
(登ってたの? 木に? えぇ? 雨だし、こんな格好で無理でしょ。てゆーか普通登る?)
突っ込みどころは満載だった。
桜の木以外となると……すぐそばにあるのは十五階はありそうな古いオフィスビル。いくらなんでもここから飛び降りるのは自殺志願者しかいない。
「……え、っと。大丈夫? ……です、か」
とりあえず、落ちてきたものに声をかけてみる。驚きすぎて声が掠れたが、年上かもしれないと思って、敬語を取ってつけた。瑚月が傘をそちらのほうに傾けてやったが、この豪雨ではまるで役に立たなかった。
紗夜からは、後頭部とほっそりとした肩、そして紗夜の足元にまで大きく広がる赤の着物だけが確認できる。
―――落ちてきたのは、時代劇のように艶やかなうちかけを羽織った、若い女性だったのだ。
薄暗い雨の、殺伐とした灰色の視界。そこにたったひとつ、落ちた赤。
鮮やかな、色。
しゃがみこんだままうつむいていた彼女が、顔を上げた。
思わず息を呑むほど……想像にたがわぬ、いやそれ以上に整った容貌。
感情の見えない静謐の瞳も、きめ細かく透けるような白皙も、絹糸のように艶のある黒髪も、まるで最高傑作の日本人形のよう。声をかけることすら躊躇ってしまう、玲瓏の女神。
雑駁だった大気が蕩けて、一つに収束していく。
なにもかもが、完璧になったように見える。
「大丈夫なわけねえだろ」
それなりに冷静な瑚月の声に、少しだけ安心する。けれど、こんなに有り余る湿気の中で、なぜか口の中が乾いているのを感じて、やっぱりこの雨は無駄に流れているのだと確信した。
それでも紗夜は、なんとか口を開いた。
「えっとーっ。そう、救急車っ。怪我、してるならっ。ね、瑚月」
「……いや、だけどこれって」
瑚月が当惑の声で何かを言いかけたが、紗夜は聞いていなかった。こんな体勢で木から落ちて、無傷ということはないだろう。紗夜は自分のバッグからごそごそと携帯電話を探した。
日本人形の顔は、変化がなかった。ぴくりとも動かない。ますますカラクリ人形かも説が、紗夜の中で有力視されていく。
(ど、ど、どうしよう……)
それでもようやく携帯電話を取り出して、救急車って何番だっけと思い巡らせていたとき、携帯電話を持つ右手を強くつかまれた。
痛い、よりも先に。
(―――冷たい)
いくら雨が降っているとはいえ、体温の感じられない手のひらは、まるで氷に触れたようで。
繊細な指先は、上質の絹のように滑らかだというのに。
「こんなとこじゃ風邪ひく、し……ってあれ?」
振り返った紗夜は、言いかけた言葉を止めた。
つかまれていたはずの手首には、まだたしかにその余韻が残っている。彼女がいたという証。
だのに、その場にはもう誰もいなかった。疑問の表情とともに見上げた瑚月も、あたりを見回したあと軽く肩をすくめた。
大雨の中には、紗夜と瑚月だけがたたずんでいる。
やけに静かだった。
正面を向けば、いつのまにか青になっていた信号がすでに点滅していて、紗夜の足を無機質に追い立てていた。




