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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
終章  馴れぬる花の あとの夕暮
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 月夜見尊(つくよみのみこと)

 それは今、紗夜の頭上で細い有明月(ありあけづき)を迎えていた。

 双子国の神代(かみよ)からの理は、複雑なようで単純。

(―――維月(いづき)絳牙(こうが)が、赫映(かぐや)……あたしが、月夜媛(つくよのひめ)……)

 だが、世の理の一部をようやく知ったばかりの紗夜が首をつっこんでどうしようというのだろう。

 やはり絳牙(こうが)と話をしてみたくて、紗夜はもう一度彼の寝ている部屋に一人戻った。

 そっと御簾を開け、なるべく入口そばで正座をして絳牙(こうが)を見つめる。彼はさきほどと変わらぬ様子で眠っている……ように見えたのだが。

「―――用がないなら帰れ」

 怪我をして寝ていたとは思えないほど冷たい声がかけられた。

「……お、起きてたんですか」

 ちらりと目線をこちらに向けたが、すぐに逸らされる。

 不思議だった。

 何処かもわからない大地を抜けてもなお、ポスターやテレビの向こう側にしかいなかった作り物のような男が、自分だけに一瞬とはいえ目を向けて言葉を発しているなんて。

 これはもう、虚像ではない。紗夜の現実に組み込まれた実像があるだけだった。

 話してみたくてここに戻ってきたはずなのに、いざ彼を目の前にするとかけるべき言葉が何一つ思いつかなかった。落ちてきた静寂が、維月(いづき)絳牙(こうが)との距離を少しずつ遠ざける。

 沈黙は苦痛ではない。けれど、あまりにも重い闇が、本来目の前にあるはずの現実から紗夜を少しずつ引き剥がしていくかのように感じられた。

 それはまるで、闇の中にある、なお深い闇……。

(大丈夫だよ元気出してなんて陳腐な言葉はいらない)

 ゆっくりと上半身を起こす絳牙(こうが)に、手を貸すこともできなくて。

 誰からもあがめられる存在である『赫映(かぐや)』は、常世にあってすら美貌ひとつで名声を手に入れてしまった。けれど、彼がほしいものはそんな彼方にある薄い感情ではないのだろう。

 見上げた彼の横顔。

 わずかな燈台(とうだい)の灯りに照らされた、その陰がまるでドラマのワンシーンのようで。

 維月(いづき)絳牙(こうが)

(綺麗、だなあ)

 顔の造形だけではなかった。自然とそういう感想が浮かんできた。

 けれど、彼にあるのは穢れのない美貌だけではなかった。この世の成り立ちよりもよほど複雑な何かで、構成されている眼差し。

(綺麗だけど、ただ綺麗なだけじゃない)

 愁いや、哀しみ……。そして、悲痛な覚悟のようなものがその視線に見えたとき、維月(いづき)絳牙(こうが)がやっと生きている存在だと実感できた。

 それを見つめる視線があまりにも不躾だったのか、維月(いづき)絳牙(こうが)が気づいて再びこちらに視線を向けた。

「―――あ」

 視線が交錯する。

「……なんだ?」

「あー、えっと……」

 何と言われても、まさか綺麗すぎて見とれていたなんて答えられない。ぶっきらぼうな態度に怒声を浴びせられそうな気がして、紗夜は手をぶんぶんと大げさに振ってなんでもないとだけ早口に言う。

「―――帰りたかったのか?」

 維月(いづき)絳牙(こうが)がふと、抑揚のない口調で尋ねた。

 鋭く研ぎ澄まされた氷の刃の、その切っ先がほんの少し、融けかけた声。

「え?」

「常世……日本、に」

「えっと……」

 そんなことを聞かれるとは思っていなかった。だが、どんなときでも帰りたいに決まっていると即答できる自信があったはずなのに、そのときの紗夜にはすぐに答えが出てこなかった。

(帰りたいのと帰らなくちゃならないのとは違う)

 それをもう知っているから。

 まほろばという世界に呑まれてしばらく日本のことを忘れていた。けれど、それに気づきたくなくてずっと目を逸らしていたのだ。

 帰るべき場所ならちゃんとある。そんなのは決まっている。両親も友人もいる、普通の生活のできる世界。

 けれど、今となってはそれがどちらなのかわからなくなっている。

 しばらくの無言ののち、見つけたのは、正直すぎる一言。

「……べつに」

 どちらでもない、と。

(そうだよ……これが答え。あたしはまほろばでもいいと思っている)

 かつて当たり前に存在した日常というものから切り離されても、紗夜は生きていけることに気づいてしまったら妙に納得もした。だのに、まだ言い訳をしたい自分もいる。

「でも、ちゃんと大学、行かなきゃならない、し。もうずっと休んで、て……やっぱり心配だから」

 もともと行きたかった大学に入れたわけでは、たしかにない。第一志望が無理そうだったけど浪人なんて面倒だからしなかった。勉強を特別したいというわけではなく、まだ就職したくないから。行っておくと将来便利だから。社会人という重い言葉の責任を持てないから。瑚月(こげつ)と一緒にいられて楽だから。自由だから。

 そんな不純で消極的な理由ばかりで。

 けれど、そんな大学に入るために、これでも必死で勉強したのもまた事実で、簡単にその努力を捨てられない。

 すとんと落ちてきたはずの現実という言葉が、ひどく遠いもののように感じていた。

(だって日本じゃなくて本当にかぐや姫がいて御伽噺が現実になっちゃう世界にあたしはいる)

 考えれば考えるほど、わからなくなる。これもまた、紗夜の現実なのかどうか。

「さっさと帰ればいい」

 明確すぎる拒絶の、冷めた言葉だったが、その言葉に以前のような威圧感はなく、むしろほんの少しだが暖かい気がして、紗夜はそう感じてしまった自分に驚いた。

 今の絳牙(こうが)は、崚王(りょうおう)と同じような服装をしていて、日本の若者というイメージはなくなっていた。

 直衣(のうし)という男性の衣装を簡素に、だが慣れたように着こなす絳牙(こうが)は、常世からまほろばに戻ってきたとは思えないほどなじんでいた。これが本来の姿なのだろう。

 日常の光景。

 テレビの中の偶像は、やはり偶像でしかなかった。

 すべてのイメージが変わってしまったように見えたが、その紫の瞳だけはそのままに。

(帰る? 日本に? この維月(いづき)絳牙(こうが)をおいて?)

 赤の他人のはずだった。

 同情するような相手ではなかったのに、あのとき紗夜の腕をつかんで『ククイヒメ』を探していた絳牙(こうが)の姿が脳裏から消えない。

(このひとはずっと、ククイヒメが会いにきてくれるのを待ってた。ずっと、ずっと。それをククイヒメも知ってて会いたがってる)

 だから、紗夜が呼ばれた―――。

 自分の感情がどれなのかわからずに、ただ混濁した想いだけが溢れる。涙とともに。

 視線を落として目を閉じて、絳牙(こうが)を見ないようにしていても、瞼の内側に広がる光景はいつでも、暗闇にぽつりと光る男性。その雰囲気のすべては、彼に通じる。清廉でありながら、どこか近づきがたく、それでいて―――哀しく。それは、絳牙(こうが)であり、かつての赫映(かぐや)小碓(おうす)尊なのだろう。

「―――ずっと誰かに……呼ばれてた気がするんです」

 絳牙(こうが)は、顔を上げた紗夜を見つめ返した。その菫のような色の瞳には、驚愕がほんの少しだけ見えたけれど、すぐに何かに隠れて消える。

 そこに現れたのは、たぶん懐古だったり―――期待だったりした。

「お前は帰るんだ。常世に。まほろばなど忘れろ」

 けれど、絳牙(こうが)の感情のほとんどは紗夜には見えなかった。一瞬で通り過ぎる風のようにしかわからない。

「どうして。これだけ巻き込んどいていまさら……。赫映(かぐや)を救えるのは―――」

 そこまで言いかけて口を閉ざした。

(……赫映(かぐや)を救えるのがあたししかいないなんてそんな傲慢なこと)

 言いかけて、いた。

 月夜媛(つくよのひめ)といくら言われても自覚なんてなかった紗夜が、彼のために何をできるというのだろう。

「お前に何がわかる……さっさと帰れ、居座られるのは迷惑だ」

「わかんないよ。わかんないですっ。だからここにいて知ろうと思って何が悪いんですかっ」

 とっさに出てきた言葉は、紗夜自身をも驚かせた。

(日本に帰りたいって思ってたはずなのに)

 彼を見るたび、それを言えなくなってしまう。

 自分の思いの根本を、どこかで思い出されるから。それが、紗夜を連れていく。たぶんどこか、正しい位置に歯車をあわせるために。

 ただ感じるのは、哀しいということ。

 絳牙(こうが)自身の感情ではないような気がするのに、無視できない。それを深く強く感じ取るたびに、紗夜はまた涙が溢れそうになる。目頭に力を込めて、それに耐える。

(泣いたらだめだ)

 ここにはもう、哀しいことなんてなにもないはずなのだから。

 我慢して、目を軽く閉じる。

 だが、そんな紗夜にも絳牙(こうが)は容赦なかった。

「邪魔だ」

「……そ、そんな言い方ないじゃないですか。『赫映(かぐや)』が呼んだんだから。月夜媛(つくよのひめ)はそのためにいるんでしょ」

 思わず声を荒げてしまってから、紗夜ははっと口元を押さえたがもう遅かった。絳牙(こうが)自身を批難する言葉でしかなかった。そんなつもりはなかったのに……。

「……ああ、そうだ。俺がいるせいでお前はここに来るはめになった。だったらそれを取り除けばいいんだろ」

 絳牙(こうが)のそれは、淡々とした口調で、どこか他人事のように聞こえた。

 なにかやりきれない、どう表現していいのかわからないほど様々に絡み合った複雑な感情のすべてを抑えこむと、こうして無表情になる。

「『赫映』の力を封じているこの状況は、まほろばにも常世にもいい影響は与えないからな……」

 絳牙(こうが)は沈思して答える。

「だったらそれ、あたしにも関係する大事なことだから困る。勝手に帰るとか決められても、常世がおかしくなったら意味ないし」

「だから、お前が常世に帰り、俺が消えればいいだけだ。不安定な『赫映(かぐや)』などむしろ有害だろ。何も知らんお前でも常世にいることで少しは安定に導くことができることくらい知っておけ」

「は? 消えるって……消えるってなにそれ……!」

 絳牙(こうが)は枕元に置いてあった細い刀を手に取ると、その鞘を抜いてから刀身を紗夜に差し出した。柄のほうを紗夜に向けて。

「簡単な解決策だ。新しい『赫映(かぐや)』なら、またいずれ近い血筋から転生する」

 いっそ冷ややかなほどの口調で、絳牙(こうが)は言い切った。

「ククイヒメは小碓(おうす)のせいで死んだ。ならばその逆でもやってみるか」

「なっなにを言ってるんですか……」

「『赫映(かぐや)』は人ではない。ただの糧でしかない。まほろばを生かすための道具にすぎないんだ」

「―――だからそんな言い方……」

 安直に言葉を発しかけた紗夜は、絳牙(こうが)の横顔を見て口を閉ざした。

 ―――綺麗な薔薇には棘がある。そんな言葉が脳裏をよぎって、余韻を残したまま消えていった。

 まほろばのために生きることを強いられている。その瞳の呪縛と戦いながら。そして、壊れたら、新しいものに変える。

 本当に、道具のようだった。

 まほろばと常世という、大きなものを生き残らせるために、『赫映(かぐや)』はそうやって使い捨てられる。

(そんなのおかしい。ほかに解決策があるならそっちを試せばいい)

 そして、その解決策のために紗夜が必要なのだとしたら、もう紗夜が出すべき答えは一つしかなかった。

(あたしの、役目……。絳牙を助けることが?)

 できないと否定してしまうことは簡単だけれど、紗夜はそんな言葉で片付けたくはなかった。

 赫映という名前の、その特異性を知ってしまったから。

 彼を助けるために月夜媛(つくよのひめ)は命を落とした。本当に悲しいのか、それとも幸せだったのか、紗夜にはわからない。けれど少なくとも、紗夜の知る竹取物語よりはましなストーリーになる気がした。

「そんなの簡単って言わない。短絡的っていうんだよ」

「何?」

 紗夜は絳牙(こうが)が膝に置いた鞘を手に取った。

(あたしの名前は、刃じゃない。鞘のほうなんだから)

 柄を受け取り、鞘に納めてから絳牙(こうが)に返した。

「見張ってるから」

 自分は今ちゃんと笑えているのだろうか。それすら自信がない。

 けれど、やっと……覚悟のひとかけらが生まれてきたのだ。悲痛な顔ではいられなかった。

「最初よりもまほろばだって居心地悪くないし、萌葱(もえぎ)瑚月(こげつ)ちゃんも……綾姫(あやひめ)とかもいるし。(りょう)、さんは……ちょっと胡散臭いけどまぁいろいろ教えてもらえそうだし」

「―――あいつのことをそんな風にいう女は初めて見たな」

 絳牙(こうが)はやっと、少しだけ表情を和らげた。

(……わらった)

 笑顔というよりは苦笑だったかもしれないが、少なくとも嘲笑ではなく好意的なものに見えた。崚王(りょうおう)は、彼にとって唯一そういう顔を許せるひとなのかもしれない。

「でもあたしは崚さんのいい顔になんて騙されないし、維月(いづき)絳牙(こうが)の追っかけなんてしないし、サインだってねだりません」

 彼の不安定に揺れる瞳を見てしまったから。

 赫映(かぐや)を人ではなく道具だと言った彼は、その双眸でどんな未来を見つめているのだろう。

「だからまほろばで見張ってるよ。消えてなくなるなんて言わなくなるまで」


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