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崚王は絳牙を手近な部屋に運び入れ、すぐに手当てを始めた。
紗夜もそれになんとなくついてきたが、彼を手伝う余地などどこにもないほど的確で早い。
絳牙は目を覚まさなかった。
苦しげな息を、か細く繰り返すだけで。
「これでも私は日本で医師免許を持っていましたからね」
「―――え?」
冗談のようにつぶやく彼の本心がどこにあるのか、見逃してしまいそうになる。
「あの、それって……」
「紗夜さん、彼のことを知っていますよね」
質問を許さないタイミングだった。……だが、彼は崚王。倭皇の従弟で大納言という地位が、ここにある。それなのに、日本で医師免許?
紗夜は目を覚まさない彼の顔を見た。
一方で、日本ですでに確固たる地位をあっというまに築いてしまった……まほろばの人間。
「―――本当に、このひとが維月絳牙だっていうんですか」
いまだに少し疑っている自分がいる。
崚王は紗夜を振り返らなかったが、それが肯定になった。
テレビにそれほど依存していない紗夜ですら、彼の顔は知っている。一度見たら、忘れられない顔だった。ただ、綺麗だから……というのではなくて。
「彼は同時に、『赫映』でもあります」
「……かぐや……って、あの御伽噺のかぐや姫じゃないんですか?」
そうだ。混乱していたから深く考えないでいたが、そこからおかしいではないか。かぐや姫は女性であるはずなのに、目の前の『赫映』は―――男。……たしかに顔は姫のように綺麗かもしれないが。
「あれは女装していた小碓尊を書いたものですよ。ヤマトタケルという名を聞いたことは?」
「えっと……神話の、英雄かなんかだった気がしますけど」
「そう、それがかぐや姫の正体です」
「…………えっ?」
神話が現実に目の前にあって、それがしかも御伽噺のかぐや姫の真実だという。紗夜は手当てを続ける崚王の背中を見つめたまま、今まで聞いたいろいろな話を繋げようとしたが、脳が疲れて動かなかった。
代わりのように、一つの質問がすとんと落ちてきて。
何かを考えるよりも先に、それが口をついて出ていた。
「―――邑を、ひとつ滅ぼしたっていうのは……本当なんですか?」
崚王は、そのときやっと振り返った。
絳牙の手を、握ったままで。
「ええ」
その質問は予測済だったのか、崚王はすぐに頷いた。
(邑を、焼いたと言っていた……絳牙、さんが。かぐや、が……)
あの、萌葱の邑のように……だろうか。
「当時はまだ耀宮大夫ではありませんでしたが、あの涼風という女性は官人ですから京にいた。けれど、彼女の子供や家族や知り合いはみな、その邑にいたんです」
絳牙のそばにいながらいつも、復讐のときを狙っていたのだろうか。彼と深く付き合ってもなお、彼女の憎しみは根強く残り、最後まで消えることはなかった。
「もともと『赫映』の持つ力というのは不安定なもの。それを抑えるものがなく、暴走してしまったわけですが」
そこで崚王は複雑な視線を紗夜に向けた。
「すべてが燃えてしまったけれど、その中でなんとか、綾姫だけが生き残った。それでも重症で、私が特別な処置をしなければ生き延びることはできなかったでしょう。まだ乳飲み子でしたが、私と絳牙が引き取って親代わりになっています。あの紅の唐衣の姫です」
雨の日に会った、美しい少女。ほとんど感情を見せなかったあの表情を、思い出す。
「絳牙はそこで、猩猩緋の瞳に自ら切りつけたんです。幸い、失明するほどの傷ではなく、もう痕も残っておりませんが、何も見えないほうがいいと言い張る彼を説得して、私が瞳の力のほとんどを封印した……猩猩緋の瞳こそが『赫映』の特異な力の源でしたから」
けれど、と崚王は付け加える。
「ときどき本当に、彼は何も見えていないような仕草をする……。自ら拒否してしまっていると言ってもいい。彼はいまでも……あの瞳が暴れ出してしまうことを恐れている」
ただ綺麗なだけではない理由が、紗夜には少しだけわかった気がした。
「今はもうまほろばと常世は簡単に行き来ができない。涼風殿が貴女を狙っているのはわかっていたのですぐに保護したかったのですが、このようなことになって申し訳ないと思っております」
「―――でも、あたしはまほろばに来たんですよね」
「ええ、ある本があります。頻繁に行き来していた昔の力を秘めた古い本が」
「……あ」
風城世良が持っていた本だ。だが、彼の姿をあれから見ていない。もう、探すすべはないのだろう。
「あの女性は……涼風殿は、もう黄泉にいてこの世のしがらみがありません。そのため神出鬼没に現れることも可能だったのがやっかいでしたね……」
「……あの、煙……たしかに大学のそばでも見ました」
「涼風殿は、紗夜さんの大学で何かに細工をしておびき寄せた。ただ、雨だったためにあまり力を出せずに退散したようですが、けっきょく紗夜さんはあの本に近づいていたためにその術によってまほろばに来てしまったというわけです」
「はあ……」
わかるような、わからないような……。
「だからってあたしが狙われる理由はないんじゃないですか?」
「そうですか」
崚王はくすりと口元を緩めただけだった。
(否定してほしかったのに)
―――認めたくない、から。
じっと握りしめたままいまだ開くことのできない左手が、その存在を主張するように疼いた。




