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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
序章  この春雨に 散りゆかむかも
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(声が、聴こえる……)

 雨が降っていて、昼間だというのにずいぶん暗かった。

 もったいないなと紗夜(さや)は思う。この水は無駄にどこかに流れていくのだろう。手のひらに掬っても、いつまでも残しておけない。誰かの喉や乾いた砂漠を潤すこともなく、だのに何かを確実に侵食して。

「ね、水無瀬さんは見た? 昨日のドラマっ」

「え、あぁ……うん」

 窓際の席でぼんやりと外を眺めていた紗夜は、同じ講義を受けている友人たちの話に生返事をした―――ことにすら気づかなかった。けれど、興奮して話す彼女たちはそんな様子を気にすることなく、早口でまくしたてる。

維月(いづき)絳牙(こうが)ってホンっっっト、キレエだよね~」

「肌とかヤバイよあれ、うちらよかよっぽど化粧のノリいーし絶対」

「タキシードとかマジ似合う、似合いすぎっ」

「紫のカラコン、流行るよゼッタイこの春イケる」

 顔を友人たちに向ければ、ちゃんと会話が聞こえてきて、雨音とともに呼ばれているような感覚はきっと気のせいなのだと思うことにした。

 朝のワイドショーでそういえば、人気俳優初めてのドラマ主演とかを特集していたことを紗夜も思い出した。自分とは何の関係もない芸能人の離婚話とともに、視聴率が取れるとはとても思えない内容の恋愛ドラマを宣伝していた。

(……綺麗だった、かな?)

 思い出せるほど注視していなかった。けれど、彼女たちがそこまで言うからにはきっと世間一般の評価はそうなのだろう。テレビ越しに見る彼の姿は、リアリティがなくて作り物のようなのに。

 ドラマのストーリーなどはそっちのけで、俳優の顔や体つきやファッションや髪型なんかを話題にする。けれど別に、物語性を重視していない芸術品だから、きっと彼のその人気だけで視聴率向上という目的は達成されるのだろう。

 紗夜も人並みにドラマは見るし、芸能人にも興味があるつもりではいる。けれど、目の前にいない理想像に、そこまで熱を上げることができない。この目で見てみないと、何もわからないから。―――だからときどき冷めてしまう。

(本当に綺麗なものなんて、あるのかな)

 どこかに、あるのかな。

 この豪雨だって穢れを洗い流してくれないのに、いつだって人間は無条件に降り注ぐ浄化の雨を倣岸に願っている。けれど、天が降らせる雨がけっして清冽でも純粋でもないのは、きっと神様だって綺麗なものではないからだ。

 世界に灰色の霧をかけて、その奥で嘲笑っているのか微笑んでいるのか、地上からはわからない。

 ふと雨に、視線を戻せば、やっぱりまだ声は続いていて。

 何かを伝えようとしている―――。でも何を?

「―――雨、やまないね」

 桜。

 せっかく満開なのに、無残にあっさりと散っていく。

 今年はずいぶん遅咲きの桜。入学式が終わって一週間も経ってやっと、満開になったのに。

 無常。

 だからこそ、綺麗なのだと。

(そう言ったのは……誰だっけ―――)

 ならば、綺麗だという維月(いづき)絳牙(こうが)もきっと、無常なるものなのだろう。当然だ。人間はみんなそうだ。おかしい。こんなこと考えるなんて。

「ねー、こんな湿気じゃあ服もしわしわになっちゃうし~サイアク~」

「いいじゃん、電車でしょあんた。あたしなんてチャリだからもっと濡れる。ほんとやだ」

「駅まで歩けばおんなじだよ~」

 彼女たちの話題はあっさりと変わっていった。

 その程度。芸能人。

 余暇の中の一瞬を埋める程度で、すぐに忘れられてしまう。

(寂しい、な)

 誰が……?

 顔もよく思い出せない、テレビの中の男が?

 でもこの雨は、誰かの涙のようだった。きっと、神様が、泣いている。

 ひとりきりで、寂しくて。

「ねー? そぉいえばぁ、水無瀬さんのバイトっていつからだっけ?」

「今日からだよ。っていうか今日だけって聞いてるよ」

「……えー、でもーホント大丈夫なの?」

 いつになく神妙な顔をする友人たち。紗夜は不思議に思って首をかしげる。大学入学と同時にできた友人とはまだ付き合いが短すぎて、紗夜には彼女たちとの距離感や力加減が計れなかった。

 反応速度とその感度、とか。

「えーっと、なにが?」

 わからないから、紗夜は努めて普通に聞いたつもりだった。けれど―――普通ってなんだろう。それは相対的にしか決められないのに。

「何がって、水無瀬さん冷たいっ。だって心配してんだよ」

 体温は乗せたのに、まだ話が見えなかった。

「……えーっと、ありがとう?」

「じゃーなくーてー! ね、ね? そんなバイト、辞めたほぉがよくない?」

「あ、その話~?」

「その話! だっておかしいよ。時給五千円なんてさぁ、いまどきの不況に」

「どんな仕事かちゃんと聞いたのー?」

 二人に畳み掛けるように聞かれて、たしかに心配されていることを紗夜も理解して何度か瞬きした。

「聞いたよ~。なんかを受けとって、別の人に渡してほしいんだって。ちょ~楽だよ。できないことゆわれたらどーしよーて思ってたけどよかった」

 暢気な声で言ったら、友人たちは大げさなほど血相を変えた。

「ほらーっ! やばいってそれ」

「最近流行ってんじゃん。麻薬の取引とかさー」

 たしかに馬鹿な大学生が何人も逮捕されているニュースは、最近一番の流行といえる。

「まさかあ。こんな田舎で麻薬なんて誰がするの」

「ここだっていちおー東京だよっ! こないだのニュースで佐賀だってそーゆのあったんだってっ。しかもそのあと行方不明ってー、ゼッタイ殺されたんだよっ」

 さりげなく佐賀の人々に失礼なことを、堂々とこの友人は言っている気がする。もう講義も終わって生徒たちが少なかったから、きっとこの中に佐賀県出身はいなかったのだろうと思うことにした。そもそも誰も、他人の無駄話に興味はない。

(絶対って、断言?)

 世の中がそう決め付けた段階で、その人はきっと死んでいるのだ。正確には、社会から消されている……。絶対、なんて。それは完璧に綺麗な神様しかわからないのに。

「きっと見張り役とかやらされてさー、FBIに見つかりそうになったときに囮にされちゃったりするんだよ。手をあげろーとかって。そしたらその人が昔の知り合いでお互いびっくりーっとかー」

 それが最近コマーシャルでよく見るアメリカのサスペンスドラマのストーリーだということは、紗夜にもすぐにわかった。

 ここは日本だ。けれど、FBIはいないのだという指摘は意味を成さない気がして、出かかった言葉を飲み込んだ。いちおう真面目に心配してくれているようなので、代わりに不自然でない笑顔を引き出した。

「ドラマの見すぎだってー。んー、でもいちおう気をつけるよ、うん。ありがとう」

 何が起こるかわからないのは、いつだって当たり前のことで。

「でもぉ、今からでも断ったら?」

「だって今日なのに、しかも待ち合わせ二時で、そろそろ……」

「二時? 待ち合わせ、駅? あと十五分しかないけど」

 はっと顔を上げて教室の時計を見ようとして、ここはもう高校じゃないのだからすべての教室にいちいち壁時計などついていないことを思い出し、机の上に唯一出しっぱなしの携帯電話のボタンを押した。

 たしかに、一時四十五分。

「うっそ! ゆってくれたらよかったのにっ」

 その瞬間から、なぜか遅刻の言い訳を必死で考えてしまう。―――時計が止まっていた、講義が長引いた、途中の道で迷子のおばあさんを助けていた、とか……。

「てゆーか、うちらバイト何時からかなんて知らないし……って間に合うのっ?」

「走れば五分で着くしっ」

 それはたぶん嘘。走っても紗夜では十分はかかる。ましてやこの雨だ。

 バッグと携帯電話だけを引っつかんで、紗夜は広い講堂を飛び出した。傘忘れてるよと叫んだ友人の声は、雨音や自分の足音やほかの生徒たちのざわめきで、何も聞こえなかった。

(せっかく初めてのバイトなんだからっ)

 小学生だったら廊下を走るなとか言われそうだと思いながらも紗夜は走った。けれど階段だけは慎重にする。運動神経はゼロ以下だったけれど、不思議と足はもつれない。たぶんきっと、集中力ってやつだ。

 建物を出るときにやっと、その手に傘がないことに気づいた。

 だが、躊躇は二秒。

 桜を落とすほどの雨風の中、紗夜はお気に入りの靴が泥で汚れるのを少し気にしながら早歩きする。あっというまにずぶぬれになった姿を、構内を歩く人々は怪訝な表情で見送っていた。

 雨の匂いが、鼻につんと、いつもより強く感じた気がした。


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