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何が起こったのか、何がこれから起こるのかわからなくて、紗夜はただ目をきつく閉じた。
身体を覆う、柔らかい衝撃。背中に地面が当たったが、痛いという感覚はなかった。
何かを認識する前に、ずんという深い深い……聞きなれない音を間近で聞いた。
紗夜は……ゆっくりと瞼を押し上げた。―――見てはいけない。そんな気がするものを見るために。
地面に倒れこんだ紗夜の上に、覆いかぶさる影がある。
「―――あ……」
声が出なかった。
何を言おうとしたのかも、わからなくて。
強く、強く抱きしめられた。紗夜は何もできなかった。けれど、彼の熱いほどの体温を身近に感じても、不思議と不快だとは思わなかった。
ぽたり……と、紗夜の頬に水滴が落ちた。―――水滴?
(―――これ、は、な……に?)
この熱い、液体は。
無意識のうちに紗夜の手が、彼の背中に触れた。ぬるりとした、初めての感触に眉をひそめる。なにこれ、気持ち悪いもの―――。
紅い生命。
自分の呼吸が早い。止まらない。手をどこか別のところに伸ばしたかったけれど、彼の背中に吸い付いて離れない。
男は紗夜の上で身じろぎもしなかった。目のすぐそばに美貌の顔があって、片目でようやくそれを見た。
サングラスのフレームが欠けて、ずれていた。彼の右目の下が深く切れて、そこから血があふれていた。
何度か瞬きする。その間に、彼はわずかに身じろぎした。壊れたサングラスがぽろりと顔から落ちて紗夜の肩に当たった。
(……え?)
見たことのある、けれど直接見たことはない……印象的な瞳。
紗夜の目の前ではなく、テレビの中でのみ存在する幻想でしかないはずのものだ。それがなぜか、紗夜のすぐそばにある。おかしなことに。
(嘘でしょ……でもだってこれって……)
大学の講堂で友人たちが騒いでいた会話が、一瞬にして鮮明によみがえる。
『肌とかヤバイよあれ、うちらよかよっぽど化粧のノリいーし絶対』
……たしかに。
やたらと長い睫毛に縁取られて、女性なら誰もが嫉妬する美貌は、間接的に見ているよりも、やはり眼前にいるとその迫力は五倍増し。だが、紗夜の疑問も十倍増しだ。
『やはり、かばうのですか……どうして……貴方は、どうして』
彼はぴくりと肩を震わせたが、紗夜を抱きしめる腕だけは強いままだった。
目元が切れて流れる血が、横顔だけしか見えない紗夜には血の涙を流しているように見えた。―――けれど、紗夜は代わりに泣いてあげることなんて、できない。
菫色の瞳。
ぽたり、ぽたり。
紗夜の衣服を、冷たい大地を……鮮やかすぎる色が染める。
無意識に紗夜は、彼の……赫映と呼ばれた彼の背中に回す腕に力を込めた。自分に落ちる女の影をただ感じながら。
顔を上げる。黒い煙が再び女の姿に近づこうとしていたけれど、それはもう完全な人間の姿にはなりきれていなかった。どこか透けて、大気と同化していた。
すでにひとではないものになっていた。
(黄泉のものを食べたらそこから出られない……黄泉戸喫……)
もう、こちら側には戻れないのだ。
「本当に、このひとがなんの償いもしていないというの?」
麻痺しているかのように感覚のなくなっていた手のひらから、何かが滑り落ちていくような感覚だけが残る。血の体温と、痛み。
恐怖があったはずなのに、それさえもないふりをした。
(だってこの人こんなに、痛いほどの後悔を抱えてる……)
彼のこの後悔が、たとえこの女にとってなんの価値もないものだとしても、これ以上どうして彼を責められようか。十分に、彼は自身を責めている……。事故でそうなってしまったのだろうということくらい、紗夜でも推測できる。
『月夜媛……貴女も、危険な存在なのですね』
「だからなんなんですかその月夜媛とかなんとか。あたしは―――」
「―――紗夜っ」
反論の声は、どこからか割り込んできた……懐かしい、本当に一瞬にして懐かしいとわかってしまう声によってかき消された。
「八咫っ! 風をおこせっ」
その言葉とほぼ同時に、紗夜を中心にして小さな渦巻みたいなものができた。大気に近い状態の女は、それに飛ばされ雲散したかに見えた。
(―――こっ瑚月、ちゃん?)
紗夜の前に立つ、その背中だけでわかる。
(嘘、なんで……)
だが、紗夜からは表情を確認することはできず、呆然と背中を見上げるのが精いっぱいで、声をかけることも忘れた。
『まほろばの者では、ありませんね……。八咫烏は……常世に残る賀茂建角身尊の末裔に従う式神でしたか』
「ふぅん、よく知ってんじゃん」
話している余裕はなかった。女の背後から別の影がものすごい勢いで落ちてきた。両手に刃を持っている。
翻る、紅い着物―――紗夜はそれを覚えていた。
重そうなものを纏っているというのに、彼女のその動きはまるで映画のワイヤーアクションを見ているかのようだった。鋭く突き出される攻撃を、だが、女のほうもゆらりと紙一重でかわしている。袖から覗く華奢な指先が握っているものが、紗夜にはとても信じられなかった。
瑚月もどこからか刃を取り出した。あの日に見た、真っ黒な刀身の日本刀だ。彼がその刃をふるう姿を、紗夜は瞬きできずに見つめるしかなかった。運動神経がどうこうという問題ではない、とんでもない動きだった。
しかも、その剣……瑚月が振るうたび、電流が流れているように見える。バリバリといやな音がする。
女は、あっさりと引いた。踵を返しかけ、女は最後に紗夜のほうを向いたように見えた。だが結局何かを言うことはなく、森の奥に素早く姿を隠した。
「紗夜、これ持ってろっ。てかそいつを頼むな! ―――追うぞ、綾姫」
「は? えっ! ちょ……っと!」
瑚月は紗夜に何かを投げてきた。動けない紗夜でも手を伸ばせば届く絶妙な位置に、それはころんと落ちた。
着物の女性は瑚月の言葉に何も言わずにうなずいて、二人で森の中に消えていった。




