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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
五章  光をのみぞ たのむべらなる
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 翌日、卯花(うのはな)によって朝餉が片づけられたあと、紗夜は立ち上がった。動きにくい小袿(こうちき)のままだったが、しかたない。

(夜に出歩いたから悪いんだきっと。午前中なら崚さんだっていないし、あんな変なものも出てこれなそうだし)

 そして、萌葱(もえぎ)卯花(うのはな)に女房についての教育を受けている時間だった。ほかの女房などめったにこの部屋に寄り付かない。つまり、紗夜のそばには誰も来ない。

 きっとあの(やしろ)は、このそばにある。

 焼け焦げた西門はいま、そこで人も死んだということで宮の人々からは避けられているらしく、舎人などの警備もなかった。修繕する気があるのかもわからない。

 紗夜は隠れることなく堂々と、その門に近づいた。

 まだ、煙の匂いが残っている気さえ、する。

 真っ黒な炭と化した門。綺麗だったそれも、燃えてしまえばただの木でしかないのだと知る。触ると一部が簡単にぼろりと落ちた。

 紗夜はそこを抜け、邸をあとにした。

 けれど、どちらに行けばいいのかなんてわかるはずもない。闇雲に歩いても社なんて見つからないだろう。

(……あ、サングラス男と一緒に来た道を戻ればいいのか)

 だが、西門を出てすぐに広がるのは木ばかりの山だ。目印になりそうなものを記憶していようと思うほど、あのとき余裕があったわけもなく、紗夜は西門を出てさっそく安易に飛び出してきた自分の無策に後悔した。

(せめて萌葱に昔燃えちゃったっていう邑がどの方角なのかとかだけでも聞いとくべきだったな)

 家出も数分で終わりを告げそうだと思ったそのとき、すぐ先の幹のそば、何か影が動いた気がした。

 見間違いかと、最初は思った。

 だが、二度三度それを捕らえたとき、紗夜は確信した。―――わざと、存在を知らせている。それならばと、紗夜はその場で待つことにした。向こうから出てきてくれるのなら都合がいい。

(あんな意味わからないことで怖い目に合わされるなんて最悪。あたしはちゃんと、何が起きているのか聞きたい)

 たぶん、崚は知っているのだろう。

 あの笑顔の奥でいくつもの真実と嘘を隠している。紗夜にはそれをひとかけらも漏らさない。だったら自分で動くしかなかった。

「……やっと、出てきてくださいましたね」

 木の影から姿を見せたのはあの煙でもなんでもなく、あの夢の中、小屋で会った女性だった。あのときと同じ服を着て、同じように端的な視線をこちらに向けて。

(これが元凶。かぐや姫となんか問題を起こしたっぽいけど、それにあたしが巻き込まれてるのは、なんで……?)

 触ってはいけないと言われた、石の箱。紗夜を飲み込もうとした、煙。人を殺したこともあるというかつてのかぐや姫。いなければ滅ぶ……そう言われる今のかぐや姫。

「あたしは、聞きたいことがあって来たんです」

 精一杯の勇気を身体の奥底のほうからもかき集めてここに立っているはずだったのだけれど、これ以上は紗夜のほうからは近づけなかった。

 足が、動かなくて。

 声は……震えなかったと思うが、自信はない。

 紗夜の代わりに、女のほうが近づいてきた。さらさらとふわふわと、何枚も重ねた着物が軽やかに風に揺れる。それは、きっちりとまとめた髪や感情のない瞳とは、対照的な柔らかさで。

 一メートル未満の距離だけを保って、彼女は紗夜の前に立った。

 紗夜よりも少しだけ背が低い―――こうして並んで初めて気づいた。

 女の手がわずかに動く、それを視界の隅に入れただけで紗夜の肩はわずかに震えた。恐怖、ではない感情で。

「これを……お取りください」

 紗夜に向かって差し出してきた手のひらには、見覚えのあるものが乗っていた。

(―――こないだの『仏の御石の鉢』……だ)

 触るなとサングラス男に言われていたもの。

 紗夜にはただの石の箱にしか見えないが、あのかぐや姫の秘宝なのだ。今までだってこの世界ではいろいろ不思議なことがここでは起こっていたから、これにもそんな力があるのかもしれない。

(―――何かが起きるのなら、それがなんなのかも知りたい)

 そんな好奇心を抱いてはいけないと思う一方で、自分がこれに巻き込まれている理由の一部は確実にここにあった。

『とにかくあんたは『仏の御石の鉢』に触るな』

 ぶっきらぼうな声が反芻する。

 かぐや姫が探していた、五つの宝物。

(けれど、あたし……は……)

 触れてはいけないという声と、触れたい好奇心と。

 紗夜は躊躇いながらも、自分の腕がゆっくりとそれに伸びていくのを止めることはできなかった。

 伸ばした先が触れたのは、少し伸びた人差し指の爪―――ただそれだけだった。

「やめろ! 触れるなと言っただろうがっ」

 紗夜の行動を遮るようにして、ばりっとまるで金属が潰れるような音がした。それはたぶん、小さな音。けれど、鼓膜に響いた。

「動くなっ」

 空気を切り裂き、毅然と言い放つ男の声。続いて何かが紗夜の横を鋭く過ぎていき、女は後ろに飛んだ。着物を着ているというのに、それは、紗夜が思いもよらないほど軽やかな動きだった。

 彼女がいたところには、ナイフのような小さな刃が刺さっていた。

 紗夜がたたらを踏んで後ずさると、男の不機嫌そうな舌打ちが聞こえた。続いて紗夜と女性の間に割って入る影。サングラスがわずかに見えた。

「―――な、なんで……」

 この邸にいるとは思っていなかった。相変わらず、日本のふつうの服装だった。彼はあちら側の……日本にいるはずの人間ではないのだろうか。

 だが、何かを尋ねる余裕はなかった。

 彼が手に持っていたものの片方を放り投げた。剣の、鞘……。

 慣れた仕草で。

「貴方を……救ってさしあげたかったのに……」

 女性がうっすらと笑う。儚い様子で。

「……苦しみから、すべてから。僭越ながら、私にはそうする義務もあったのに」

「義務? あんたなら変えられるというのか? まほろばと常世の理を……『赫映(かぐや)』なくして生き延びられぬこの世を」

 男が剣を持っているというのに、女性は気にした様子もなかった。

「そう。そうでしたね……。貴方が、その力で……(むら)を滅ぼした。そして、今回もまたひとつ、犠牲になったのでした、ね。それでも理とやらのために、赫映(かぐや)様は……生きておられるのでした……ね」

 女はサングラス男のほうに一歩だけ近づいた。彼は逃げなかった。

「私の、あの子らは……あっさりと殺しておしまいになったのに……生き残った幼子はお引取りになっていたなんて……ねえ? そんな理不尽が、『赫映(かぐや)』様の世でまかり通るなんて……」

「―――それが本音だったのか。あんたは、綾姫のことまでも知って。常世と関わるなと暴言を吐いていたのは詭弁にすぎなかったのか?」

 首をかしげて、女はしばらく答えに悩んでいるように見えた。穏やかだったその表情がわずかに歪んで。

「貴方は……月夜媛(つくよのひめ)までも、手に、入れて……私にはなにひとつ……残して、くださらない、のですね。そうしてまで―――」

 女は、最後まで言葉を吐き出すことができなかった。

 彼のほうが先に動いたのだと思う。

 剣が一閃した。女の胴体を真っ二つにするつもりだったとしか思えない勢いで。実際、紗夜には腕の一本が吹き飛んだように見えた。

 だが、女の身体はゆらりと空気に溶けた。

 切られた部分が、黒い煙で覆われて。

 全身が大気に同化して揺れていた。―――さきほどまでひとでしかなかったものが、いまは異形としか言えないものになっていた。

『なぜ、媛は、殺さぬのです? そばにある……ものを、すべて灼き尽くすほどの……その力で。常世に干渉、するつもりはない……のでしょう? それならなぜ……排除して、しまわぬのですか』

「あんたなら綺麗に殺してくれるとでも言うつもりか」

『だって、ねえ。赫映(かぐや)様。私の役職は貴方様のためだけに、存在しているのですから』

耀宮大夫(ようぐうのだいぶ)月夜媛(つくよのひめ)を殺す、か……それも悪くない」

 彼は笑った。それは自嘲でもなく嘲笑でもなく、本当にそう思っているかのように見えた。

 女の視線がふいに男から外れ、紗夜を捕らえた。もはやどこが眼球かなんてわからないほど、ただひとの形を取ろうと必死になっている『なにか』でしかない。それでも、紗夜は女を見つめ返した。

 こんな女に近づけば、紗夜なんて一瞬で飲み込まれてしまうだろうに、今はその恐怖を必死で忘れようとした。紗夜が今感じているものは、恐怖……とは少し違う気がする。どくどくと心臓が、いつもの倍の速度で動き出した。

(あたしは、知らなきゃならない)

 逃げるのでは、なく。

『貴女なら、赦すことが……できるの?』

「え?」

『わたしの(むら)をすべて焼いて、わたしの子供も夫も、すべて……。どうして赦すことができるというの』

 このそばの(むら)が焼かれたという事件。萌葱がそんな話をしていた。それをこのサングラス男がやったというのだろうか。

(このひとの怒りは当然だ。もし本当にこのひとの(むら)を燃やしてしまったんだとしたら、このひとには恨む権利がある)

 けれど、その権利の使い方は危ういもの。

「―――うらんでいいと思う。それで満足できるなら」

 そんなことをしても意味がないとか救われないだとか。

 どうせ子供たちは戻ってこないだとか。

 不可抗力で、不幸な事故があっただけだとか。

 そんな偽善もあるけれど、彼女の哀しみが少なくとも癒えるのであれば、彼女にとってはこの男を恨む価値はあるはずだった。

(報復に意味があるかを決めるのは、報復するひととされるひとだけだ)

 紗夜には何も口出しできない。

「やめろっ! ―――何も……言うな、涼風(すずかぜ)っ!」

 はっと紗夜は振り返った。

 それは、あまりにも悲痛な……声だった。

 ……泣いて、いたのかもしれない。

 誰が?

 どちらが?

 乾かない彼らの涙が、流れていく先はどこだろう。

赫映(かぐや)、様……思い、出すでしょう? ねえ? あのころの、記憶、を……』

「…………っ」

 彼は唇を動かしたようだったが、声は何も出てこなかった。溜息のような嗚咽のような、なにか悲しいものが身体の奥底から漏れただけで。

『そうして、傷ついたふりを……するのですね。貴方は『赫映(かぐや)』という免罪符を、いつだって持っているのに……』

「―――ち……違う、俺は……!」

 彼の肩が、わずかに震えた。その手が剣をきつくきつく、握りしめた。紗夜はその背中を凝視することしかできなかった。身体が……動かしたいのに動かない。指先の一ミリですら、固まってしまっていて。

(―――かぐやって……かぐやって……どういうことなの?)

 この男に向かって、かぐや、と。

 動かなかった指先が、わずかに震えた。けれど、それだけだった。

『ねえ、赫映(かぐや)様……都久(つく)(むら)をすべて焼いて、わたしの子供も夫も、すべて……。それでも貴方は、生きるしか、ないのですね』

「や、めろ……っ。もう何も言うな……言う、な……」

 びりびりと風が震えた。

 煙に溶けた腕が、あの石の箱をどこからか取り出した。はっと、男が緊張するのがわかった。

『眠っていたこれも……月夜媛(つくよのひめ)が触れて……きっと目覚めた。わたしが、わたしが貴方を黄泉に連れていってあげましょう』

 その手から、箱から、放たれるものに、紗夜は息をすることすら忘れた。車のヘッドライトよりも強い閃光。

 ―――まぶしい。

 紗夜はやっと手をかざして目をつぶる。それでも光は、紗夜の瞼を超えてじりじりと瞳を灼くほどの力を放った。

「あぁぁぁ……っ」

 男のその声は、ただ苦しいというのではなかった。

 悲痛とも違う……絶望しきれない、声。

 ゆっくりと目を開けると、胸を抑えたまま男は片膝をついていた。うずくまる彼の背中が、紗夜には急にひどく小さいものに見えた。

「えっちょっと……っ! ねえ……」

 紗夜が駆け寄って恐る恐るその腕に触れてみると、彼の身体は異様に熱かった。驚いて手を離す。けれど覗き込んだ彼の顔は、対照的にひどく蒼白だった。

(……何? 何があったの、この一瞬で)

 地面に膝をついた姿勢のまま見上げると、女は蔑む視線で男と紗夜を睨むでもなくただ適当に見やった。

(なに……これ……)

 紗夜は、話を聞きたかっただけだった。

 こんなことになるなんて、想像もしていなかった。ただ、二人で話……を、と。

(でもあの夜、崚さんがいなかったら大変なことになってたのかもしれない)

 誰かがタイミングよく助けてくれるなんて、そんなことめったに起こるはずがないのに、どこかで大丈夫だと思っていた。初めて、純粋な恐怖を……抱いた。

『貴女……この赫映(かぐや)様をお助けするために、常世から来たのでしょう……かつて月夜媛(つくよのひめ)赫映(かぐや)様を救ったように』

 女の口調に怒気が混じる。

 それは、この男にではなく紗夜に向けられていて。

(何言ってるの? あたしがかぐやを助けるって……なにそれ。月夜媛(つくよのひめ)のようにって)

 萌葱が言っていた、月夜媛(つくよのひめ)

 日蝕とともに常世からやってくるという、月夜見尊(つくよみのみこと)の眷属。

『それとも、貴女が……赫映(かぐや)様を滅ぼす、の?』

「えっ?」

 ―――いなければ、滅ぶ……かぐや。

(あたしが、滅ぼすって……)

 女が一歩足を踏み出した。雲のようにゆらりとした手のようなものが、紗夜の首筋を目指して伸びた。

「―――や、やめろ……この女、は……関係、な、い」

 サングラス男が、紗夜の前にゆらりと立ちはだかる。手を払うと、伸びてきた女の手は霧のように雲散した。だが、男は片手で頭を抱えて、女と目を合わせようとはしなかった。

『……返して』

「頼む……もう、言わないでくれ……」

 男に腕を引かれた。

『返して返して返して返して返して返して返して』

 声が近づいてくる。それに気づいて身じろぎしようとした瞬間―――。

 急に視界が遮られて、真昼の太陽さえも見えなくなった。

 一瞬にして覆われる、紅の世界。

 紗夜の心臓は、早鐘を打って止まらなかった。


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