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崚王は更けていく夜を、耀月珠穂宮の行宮となったこの寝殿の簀子に座って待っていた。
小さな高杯の上に、提子が一つと杯が二つ。だか、ここには崚王一人だ。杯の片方は空のままだった。
落ち着いた静寂は、かつての耀月珠穂宮を思い出させる。あの空虚な頃を。
釣燈籠に灯りをともさず、頼りない月だけが崚王の横顔を照らしていた。
「明ならず暗ならず、朧朧たる月……」
呟き、杯を傾ける崚王に、ひとつの影が落ちる。
「『暖ならず寒ならず、慢慢たる風』……か」
風情ある漢詩だというのにそんな様子を欠片も見出せない淡々とした声音が返り、崚王はただ苦笑する。空だった杯に酒を注いでやれば、後ろから手が伸びて億劫そうにつまみ上げた。
たったの一口で強い酒を嚥下する音を聞きながら、彼もまた杯に軽く口をつける。
「嘉陵詩か」
この二句に続く言葉の最後は、『平明 、間事、心中に到る』―――夜が明けて、つまらないことばかりが心に浮かぶ。
ただこの月を見上げて、思いついたままを口にした。それだけなのに、彼は眉根を険しく寄せて、不機嫌そのものの表情のまま、高杯を挟んで崚王の隣に腰を下ろした。だが、灯りのないここではその表情までも隠してしまう。
見えないことを不安に思うよりもむしろ、ほっとしている自分がいることにどこかで気づきながら……。
彼は今日も、ラフな洋装とサングラスといういでたちだ。こちらの女房に見られたら確実に不審人物と思われるだろうに、彼は気にした様子もなかった。
「別に感傷的になっているわけでも、何かを憂えているわけでもないよ。ただ、紗夜さんがいるから、この邸も少しは明るくなったのではないかと思ってね。やっぱり姫君がいると華やいでいいね」
「綾姫がいるだろう」
くだらないとでも言いたげな口調だった。
「でも今は常世にいるからね、賀茂家に接触してもらうつもりでいる」
「俺から引き離して守らせる、か」
「―――そうだね。あの子はすべてを知っているけれど、それでも今の涼風殿に会わせたくはない」
当たり前のことを口に出してみれば、隣の気配はさらに鋭く研ぎ澄まされた。
彼女はそれをわかっていて引き受け、一人で常世に残っている。だが、崚王も別に彼の機嫌を損ねたいわけではないのだから、憤りの反駁を受ける前に話題を変えた。
「身の程知らずな標的だということにすら気づいていないようだけれど……そろそろ我慢の限界だろうね」
「互いにな。―――やはり内か」
「まだ春だというのに、このあたりの火気が少し強すぎる。夜刀が紗夜さんのいる東北の対のそばで、麦やら鳥の羽根が何度もばら撒かれているのも確認している」
あからさますぎるが、それだけ余裕がないということかもしれない。
陰陽道の五行で、炎は夏。そして、麦や鳥の羽根がその力を強めるのだ。
酒、つまり水気で清めておいたが、一時的なものでしかない。根本を断たなければ、いずれ大火事になりかねない。あの邑のように。
「まほろばにいて大丈夫なのかい?」
「常世などに縛られてたまるか。くだらない。お前よくあんなところに長居できたな。不愉快だ。やつら莫迦ばっかりだろ」
崚王は涼しげな目元に苦笑を忍ばせた。
取り繕うことなく罵詈雑言を吐き続けるのはいつものことだ。たしかに彼の気性には合わないだろうと崚王も思っていたが、蛇蝎のごとく嫌うのも困りものだ。
(かつてならいざ知らず、いまの常世ではそれもしかたない、か)
あまりにも異なる道を選んだ常世とまほろばだから。
「お前こそ、京に帰らなくていいのか」
「君がそんなことを心配してくれるとは思わなかったよ。でも長い物忌だと言っておいたから。実際、穢れに当たったのは確かだし、ね」
ほんの少しの気の緩みで、口に出す必要のない一言が漏れ、崚王は珍しく後悔した。けれど、それすら悟られたくなくて軽い苦笑で受け流す。
「―――あれはどうしようもなかった。実際お前が手を下したわけでもないだろうに」
淡々とした口調だったが、彼は感情を抑えることに、崚王のようには慣れていない。
「でも京の噂は当分収まりそうにない」
「大げさだな。大芹の食中毒死など京でも珍しくない。どこの水辺でも手に入る」
たしかに食用の芹とよく似た大芹を間違えることは多い。だが、京の中枢にいる官人の邸に、そんなものが置いてあったということを庶人は噂の種にしているのだ。
娯楽に乏しい庶人たちにとって、高い地位にいる官人たちの醜聞は格好の標的だ。その噂ひとつで世論すらも動く。
「でも、耀宮大夫のことだからといって、君が穢れを背負う必要はないんだよ。私だけで十分だったのに」
耀宮大夫とは京の官人で、『赫映』の住む耀月珠穂宮の管理を任されている役職だ。
「―――それは残酷な言い方だ」
「わかっているつもりだけど」
ひとりで背負うほうが楽だ。そう短絡的に思う自分がいることを、崚王は知っている。
(客観的に言えば、犠牲が一人で済んでよかったんだ)
崚王は自分の意思で、自分が大切なものを選んだにすぎない。その選択が、他者を切り捨てる結果になろうとも後悔はない。
(いまでも、君は……人間なんて嫌いだというふりをする)
すぐに壊れる脆いものだから、恐れている。遠ざけておくしか術がないと思い込んで。
(だがもう、それではすまないところまで……綻びは広がっているかもしれない)
空になった杯を見て提子に伸ばした手が、不自然に止まる。意識せず、軽く眉が吊り上がった。
『主様。かの姫が』
脳に直接届く、崚王が内に飼っている式神の言葉。特別な式神だけがその力を持ち、名前までも持っている。彼のそれを、夜刀という。
正式には夜刀神という名の、蛇神。
崚王は頷いてそれに応え、指だけで下位の式神に周囲を警戒するように命じた。
「おい、崚」
「―――君はここにいたほうがいい」
自室の御簾を降ろして、簀子から廂へと降りる。闇に属する式神の夜刀がついているおかげで夜目が利く崚王には、暗闇の中に動く女人の影がはっきりと見えた。
「涼風は、やはり『あれ』の力を解放しようとしている。山で休憩していただけで接触してきやがったからな」
「―――いまの紗夜さんなら、無自覚に解放できてしまう」
西門からおそらく外に出ようとしているのだろうが、邸の警備を任されている舎人たちがいて躊躇しているようだ。それでも決心をして、彼らに直接交渉していた。
彼女の飾らない感情は、嫌いではない……けれど。
(まったく、しかたのないお嬢さんだ。せっかく夜刀が火傷を治したというのに、また自ら飛び込むなんて)
動きにくかったのか、小袿装束のほとんどを脱いでしまって単にたった一枚の袿を羽織っただけの、あられもない姿で外を歩く常世からの客人に、崚王は嘆息する。
舎人たちは、その娘の姿に顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり、その対応には難儀していた。
そのうち、娘が強引に突破しようとしたため、彼女の格好に戸惑いを見せていた舎人たちもさすがに黙っていられなくなり、彼女の袿の袖を掴んで引き戻したりしていた。
崚王は、眉をひそめながら階を降りる。
寝殿を離れると同時に、湧き上がる違和感。
正常ならざるものを排除するために、崚王の結界で覆われている邸だが、やはり門のそばは気の出入りがあるせいか不安定になっている。
さらに目を凝らした。
娘の袿の裾が風で流れ、西門に触れている。その気配に誘われたのか、邸の外から手を伸ばす異形の影を崚王はたしかに視た。
「……まだ、残っていたのか」
「ちっ」
「―――待って!」
西門のそばの異変に、後ろに控えていたはずの彼が咄嗟に走り出すのを崚王は視界の片隅で捉える。気づいて声をあげたが、もう間に合わなかった。
娘が狼狽の表情ではっと振り返った瞬間、門の外に重い闇が落ちた。




