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『あしひきの 山の際照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも』
(山間を照らすように咲いている桜の花がこの春の雨に散ってゆくのか)
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり―――。
不死の山のふもとで翁と嫗に拾われたなよ竹のかぐや姫は、美しく成長し、五人の公達と帝に求婚される。けれど、彼女はついに故郷である月の都から迎えがきて帰ることを決意した……。
時代はうつろい、それは、妄想で形作られた単なる御伽噺としてこの世に浸透していった。
悠久の夢にまどろむ追憶。
歴史が紡ぐまやかし。
どのような言葉で語られたとしても、過去が導いた今という一瞬が、未来という一本の道を築いていくのだ。
* * *
足元を、黒い蛇が音もなく動いていた。
これは自分に属するものではなく、制御などできない。けれど、自分に害をなすものでもないことを知っていた。
(いっそ俺を、食い殺してくれたほうがいい)
そうしたらすべてが終わるのに。綺麗に。簡単に。―――彼にも後悔はなく、周りの人々もおそらくは見えない心の奥底でそっと安堵する。
「……危険すぎる。それがお分かりではないのですか」
思ったよりはっきりとした声が耳朶を打ち、我に返った。そこに恐怖の震えはなく、また勇気を搾り出しているかのような切迫さも見られなかった。
むしろ冷静で。
冷静すぎると、逆にこちらの手が震えそうになる。
その女は、両手を縛られて座らされているというのに、毅然とした双眸で見上げてくるだけの覚悟があった。だから、躊躇いもなく真実の返答ができる。だが、偽りなど許さないその光は、はたして強さなのか。
「わかってる、そんなこと」
感情を抑えて吐き捨てた。
誰よりも自分が、自分を恐れていること。わかっている。それは殺されたくらいでどうにかなるものではないことも。
「いいえ、真にわかっておられるとは思えませぬ。月夜見尊の媛など、貴方様の御為になったことがありますか。手放すことに何を躊躇っているのですか」
蛇が自分の足元から彼女のほうへ移動していた。それを止めることはもう、できない。
(俺だっていらない、あんなもの……)
あれほど危うく、ひび割れた硝子玉のようなものは扱えない。
なのに、古の記憶が縛り付ける。自分の意思とは無関係のところで、そのわずかな希みにしがみつく。そしてそれさえも咎められ、身動きができないままもがくのだ。
「……だったらなんで、あんたが関わろうとする。俺は……俺は、何もしたくなかった」
毅然と言葉を発したつもりだったのに、情けない言い訳にしか聞こえないと我ながら思った。案の定、彼女はくすりと笑う。
「貴方は私には干渉せずにはいられず、これから殺すおつもりでしょう? 同じことではありませぬか」
あまりにも率直な一言。
「…………」
―――違う。そう口にしたはずが、声は出てこなかった。
彼女は、自分の見えすぎた近い未来にも、悲観的な声ではなかった。むしろ淡々としていて、牛や魚をさばくときほどの価値すらないかのように聞こえる。
自分や自分の大切なものを守るために、他を切り捨てるしかないだけだ。
だが、たとえそれを伝えることができたとしても、返答はどこかでわかっていた。彼女もまた、自らの身や信念やそのほかの大切ななにかを守るために、切り捨てるものを選んだのだと。
「月夜見尊の媛を貴方様が手に入れて、それですべて元通りになるとでも」
彼女は薄い微笑を崩さない。余裕、を、たぶん演じている。そうだと自分が都合よく信じていたかった。
「元通りになるものなど、ない。わかっているだろう、あんたが常世に余計なことをした事実だけが残る」
月は満ちては欠け、昼に現れ夜に現れぬときもあるほど、気まぐれなもの。そんなものは信じない。
「余計だったとは思うておりませぬ。私も―――たぶん貴方も」
「……『あれ』を返せ。もうあんたがつかさどるものではない」
過ちのすべてを生んだ元凶。けれど、処分することもできぬものだ。
だが、彼女はそれには何も答えなかった。失われてはならないそれを失ったと知られれば、流罪で済まされないほどの咎を背負うことになるというのに。
(……何をいまさら、この女の身を案じてどうなる)
もう彼女に罪だの咎だのといったところで、意味はないのだ。女もそれをわかって、軽く首をかしげて微笑む。
「お優しい若君。されど、害あるものは消しておかなければならぬのです」
「まだ俺を、そう呼ぶのか……」
もはや自分は、この女をどう呼んでいいのかわからなくなっているのに。
「ええ、残忍な鬼のようなあの気性を隠していられる間ならば」
鬼、物怪、妖。
どう呼ばれようとも、もう眉一つ動かすこともなくなった。顔のすべてが麻痺したかのように。
それを知りつつ、彼女は淡々と言葉を続ける。
「耀やかなる一族の若君」
愛おしい誰かを呼ぶような、甘美な声で。
「……天神の末裔たる貴方に、地祇である倭皇様の御世は辛うございましょう。よいのですよ、もう。……この過ちを正しても、よいのです。所詮、まほろばは常世とは相容れぬ世なのですもの」
何千年も続く世の理を、いとも簡単に彼女は否定した。
今更何を間違いとし、何を正しいとするのかは誰もわからないというのに。彼女の理論はひどく危うい。それなのに、確信を持って告げることのできる心が、彼には恐ろしく感じた。
「―――ならば、まほろばは当の昔に滅ぶべきだったとでもいうのか?」
女はその言葉に、少しだけ驚いたようだった。
けれど、それだけだった。驕りだと、嘲笑うことも……なかった。
蛇が、待ちかねたように彼女の身体を這い上がる。
その鋭く細い牙が首筋に触れる瞬間まで、どちらもお互いから目を逸らさないでいた。