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どうやらこれは十二単ではなく、小袿という着物らしい。小袿を知らないと正直に言ったら、萌葱だけでなく卯花までも紗夜はずいぶんド田舎からやってきた娘なのだと思ったようだった。
日本や東京などと言っても意味がないことは証明済みだ。何も知らないことはとりあえず田舎者だということでとぼけておけばいいだろうと、紗夜は自分のプロフィールを作り上げておくことにした。
様々な色の着物を何枚も重ねた上に、これが小袿というものですと少し短めの黄色い着物を肩に掛けられながら丁寧に教えてくれた。一枚一枚はさほど厚い生地ではなかったが、こう何枚も重ねているとさすがに重量を感じる。服が重たいと思ったのは初めてだ。
「早急に御几帳なども揃えさせますわ。大納言様の客人ですもの。みだりに人に会わせてはならぬと申し付かっておりますし」
部屋を囲っている御簾というものを巻き上げて丸い装飾のついた紐で器用に止めると、少し陽の傾いた明るい陽射しが、紗夜の沈んだ表情にも等しく注がれた。
眼前に広がる光景に、思わず眩しさも忘れて見入ってしまう。
「……うわ、すご」
この部屋のつくりを見てある程度は予想していたことだったが、やはり一般的な現代日本の家とはずいぶん異なっている。
御簾の向こうには縁側のような床があり、手すりがついていた。壁がほとんどないせいかずいぶんと広く見える。庭には草木が適度に植えられ、すべてが調和のもとに整えられている様は、いまや京都の寺でしかほとんど見ることができなくなった伝統的な日本庭園だ。それを挟んでさらに、檜皮葺の屋根を持つ平屋の建物がいくつか見えた。
御帳台と呼ばれる寝室や部屋を囲む御簾には、金銀の鮮やかな糸が使われ、上質のものだとわかる緻密な文様の装飾が施されていたから、お金持ちの家なのだろうという想像はしていた。だが、紗夜の眼前に広がる光景は、予想を超える美しさと広さだった。
「しばらく滞在するだけの家、なんだよね。こんなに綺麗なのにもったいないね」
「京にある赫映様のお邸、耀月珠穂宮はもっと広くお美しいものですわ」
卯花は正面の御簾を三つ、半分だけ巻き上げながら、当たり前のことを子供に諭すように彼女は言う。
(―――そうか、ここのどこかにかぐや姫がいるんだっけ)
物語では、五人の男に無理難題を突きつけたあげくに求婚を断わり、悩みながらも最終的に帝までも振った絶世の美女。
ここがそのかぐや姫の家。御伽噺の中の? ……笑うに笑えない。
「あの、姫様?」
黙りこんでしまった紗夜を、卯花は心配そうに覗き込む。十七歳という年齢を先ほど聞いてあまりにも大人びた様子に驚いたが、その上目遣いは年相応の可愛らしさを含んでいた。
彼女は紗夜を当然のように姫と呼ぶ。なにもかもが、嘘のような世界。
「その、かぐやさまには会えるかな」
「大納言様のお許しがあればおそらくは。―――けれど今は、穢れによる禊を行っておりますから、当分お目にかかれないと思います」
「穢れによる禊? 何か、あったの?」
「本来ならばこのような寂れたところではなく、ちゃんとした宮がございますのよ。それを禊のためにとこちらを選ばれたのです。京で赫映様に近しい官人のひとりが、誤って毒を口に入れてしまい、別れに遭ったので……。悲しいことですわ……」
卯花は今にも泣き出しそうな瞳をそっと伏せた。彼女とも面識がある人物なのかもしれない。
毒……穏やかでない話だ。
「あのように尊い御方のご身辺でこのようなことがあるなんて」
卯花は、高い蒼穹を見上げてそっと頭を垂れた。まるでそこにかぐや姫がいるかのように。誉れと尊敬と憧憬……そんな感情が入り乱れる、熱のある瞳で。
彼女が信じているもの。それがこの世界を形作るものだった。
(……そんなふうに誇れるものを、あたしは知らない)
けれど、今の紗夜にとっては、そのかぐや姫だけが、希望の欠片だった。絶望よりは少しましなだけの思い。けれど、そのひとかけらが必要だった。
ただひとつの命綱のよう。
(なんとかして会って帰る方法を教えてもらおう。それに、ここがどういう場所なのかももっとわかるかもしれないし)
どこからか鶯の鳴き声が聞こえる平和な大気に覆われた、この広大な邸の主。それがかぐや媛。この世を救った英雄の末裔だという―――。
(なんだっけ……その英雄の名前、萌葱がゆってたのは、オウスのなんとか……)
紗夜は少し余裕が出てきて、このまほろばという場所のことに興味を持ち始めている自分に気づいた。もうここが狭い牢ではなく、きっと生贄からも解放されて、煌びやかな衣装を着せられて待遇がよくなったからかもしれない。
(けっこう現金なんだ自分も……)
贅沢が好きなわけではない。けれど、贅沢できて嬉しくないはずがない。長い裾で躓かないようにゆっくりと歩きながら、紗夜は縁側の手すりに近づくと、そばにあった桜の木が花びらの雨を降らせていた。
日本と同じ、桜の季節。
「ではこちらでお待ちくださいませ。夕餉を用意させて参ります」
紗夜の脱いだ服を抱え、ほとんど足音も立てず、卯花は簀子と呼ばれる廊下のようなところを歩いていった。監視の目など何もなかった。
問題はどうやってかぐや姫に会うか、だ。卯花の話では当分会えないらしいが、そんなに気長に待っていられない。
(この家のどっかにいるんなら自分で探しにいけばいいんだろうけど)
この重たい着物―――小袿を着て? 何枚か脱いでしまえばいいのだろうが、複雑すぎる着付けだったから、どこまで脱いで問題ないのかがわからない。壁もほとんどない開放的な部屋で、あられもない姿になって自力で元に戻せなかったら恥ずかしすぎる。
夕餉が来るというのなら、それを待ってから動いても問題ないはずだ。腹が減っては戦はできぬという諺もあることだし。
紗夜は簀子に腰を下ろし、庭に降る花びらを眺めることにした。
物憂げな音だけが、その庭に静かな影を落としていた。
(そういえば……)
静謐の中で思い出す。
ここでは何も、聴こえなかった。
(呼ばれていた気がしたのに)
誰に、何処に。