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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
三章  とめむとめじは 花のまにまに
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『別れをば 山の桜に まかせてむ とめむとめじは 花のまにまに』

(別れのことは山の桜にまかせましょう、引き止めるかどうかは花のままに)


 寝返りを打った瞬間、身体がずきずきと痛んで、紗夜は目が覚めた。

 何度か瞬きして、低い天井を見る。木や空ではなく、ちゃんと家の中にいることにとりあえずほっとした。

 薬の―――日本にあるような白いカプセルの飲み薬や透明な塗り薬ではなく、原始的な薬草の、青っぽい匂いが鼻についた。

 目の前に手をかざしてみると、火傷のあとは残っているが、痛みや違和感はほとんどなくなっていた。この全身の痛みはもっと別の、疲労感からくるものだ。

(あれから……どうなったんだっけ)

 夢みたいな出来事がいくつもあった気がする。

 明け方に到着した家では、すぐに人が呼ばれて、手当ても十分にしてもらった。着ていた服はぼろぼろだったから、用意してくれた白い着物に着替えて……それから。

(―――それから、なんだったっけ?)

 ひどく眠たかったことだけは覚えている。昨夜はほぼ徹夜のようなものだったから、たぶんどのあたりかでいつのまにか寝てしまったのだ。

 ここでは熟睡できたらしく、今の目覚めは悪くなかった。ゆっくりと起き上がり、朝にはよく見えていなかった景色に目を向けてみる。

(……外に出ても、大丈夫なのかな)

 布で仕切られた小さな部屋。二つの柱には動物の角が、もう二つの柱には銀色の鏡が掛けられていて、古風な雰囲気だった。その中央に畳と布団が敷かれていて、その上で紗夜は寝ていた。枕は木で出来ていて痛かったから使わなかった。掛け布団はなぜか煌びやかな着物だったが、寝心地はよかったし、寒さも感じない。

 天蓋のような布を掻き分けて外を覗いてみると、家具のない広い部屋に出た。四方のほとんどは簾に囲まれていて、壁がほとんどない不思議な作りをしている。

 誰も、いない。

 牢屋からは解放されたけれど、ここにも拒否できないような条件を叩きつけられて連れてこられたような気がしなくもない。冷静にそう考えれば、自分に対する待遇はあまり変わらないかもしれないと危惧したが、ここは家具がないとはいえずいぶん豪奢で開放的な部屋に見えた。少なくとも閉じ込められているわけではなさそうだ。

 だが、同時に状況が好転しているわけでもないことに気づく。

 ここならもう安全……と思うには、この部屋も紗夜が知る日本の風景とかけ離れすぎているのだった。

(あのサングラス男がいても、やっぱりここは日本じゃないのかな……)

 ふいに湧き上がる不安。

 孤独は、牢の不自由よりも紗夜の身を強張らせる。

 泣き喚きたい。そう思う。けれど、大学生はもう、子供ではない気がする。大人の態度を強要される。従順なほうが安全だと、心のどこかで声がする。

(大学、どうなってるのかな)

 あれからたぶん何日も経ってしまった。大学の講義、さっそくサボっている……新入生なのに。週末に友人と映画を見に行く約束はもう守れそうにない。連絡もしない紗夜のことを怒るだろうか、呆れるだろうか、それとも見限るだろうか。

(メール、返事もできないし)

 たった数日、けれどいろいろなことが気がかりになる複雑な日本。全部見ようとチェックしていたドラマの続き。電話の着信。課題の提出。

(外に出ても、大丈夫かな)

 歩きにくい着物だが、転ばずに立ち上がることには成功する。だが、簾に近づいて指を伸ばしたちょうどそのとき、するするという衣擦れの音が聞こえてきて反射的にその手を引いた。

(なに? だれ? 朝いたひとたち……?)

 そんなことを考えているうちに、簾に人影が映った。

「お目覚め、でございましたか」

 向こうもそれに気づいたのか、外から声がかかる。監視されているかとも思ったが、驚いたことに若い女性の声だった。とはいえ不安が消えたわけではないが、うろたえて隙を見せてはいけないと思う冷静な自分もいて、そっと簾から離れた。

 彼女は簾を少し通り過ぎ、木の扉のほうを開けて姿を見せた。紫色の長い裾をしゅるしゅると引いて、手にはたくさんの衣を持って。重たそうな着物を纏っていたが、指先まで綺麗だと思わせる動きをしていた。

 この部屋に案内されてすぐに、会った気がする。顔を見て思い出した―――名前はたしか卯花(うのはな)。ゆったりとした話し方は、疲労と眠気に負けた脳裏にそれ以外の記憶を残してくれなかったが、紗夜に湯を持ってきて身体を拭いてくれたし、傷に薬を塗ってそのあとの着替えも手伝ってくれた。

 なんとなくほっとした。監視にしてはあまりにか弱く、頼りなさそうに見えたから。男では腕力で敵うはずもないが、おっとりとした雰囲気の彼女しかいないのであれば、何か遭っても逃げ出す好機もあるだろう。

「ずいぶんとお疲れのご様子でしたが、よくお休みになられましたでしょうか?」

「あーはい、ありがとう……ございます」

 やたらと丁寧な口調に、紗夜もつられて敬語になる。育ちがよさそうな女性。紗夜より年上かもしれない。華奢な体躯ながらずいぶん大人びていて、女性らしさや気品がありあまるほどに溢れている。

 彼女がその場に座って布を広げ始めたから、なんとなく紗夜も向かい側に腰を下ろした。

「急なことでしたから、御帳台(みちょうだい)の整いもお悪くございましたでしょう」

 この部屋のことを言っているのだろうかと思い、紗夜は首を横に振った。良し悪しを考える前に寝ていたが、謝ってもらうような待遇はひとつもなかった。

「替えの衣を用意させました。お手伝いいたしますね」

 彼女は、最上級の礼儀を尽くした仕草で居住まいを正して手を揃え、頭を下げた。京都の芸子のようだ。

「あ、別にこのままでも……」

 言いかけて、卯花(うのはな)がこちら側に差し出してきたものを見て、紗夜は言葉を詰まらせた。

 この家にはすべて古風にしろという決まりでもあるのだろうか……卯花(うのはな)が着ているのと同じような煌びやか過ぎる着物が、目の前でばさりと広げられたのだ。これと比べると今紗夜が纏っている着物は、あまりにもシンプルだった。

「どのようなものを好まれるのかわかりませんでしたので、花山吹(はなやまぶき)(かさ)ねにいたしましたけれど、もし何かご希望がございましたら」

「ちょちょちょっと待ってっ。あたし普通の服でいいですからっ。あの、着物とか、困るし」

 やはりふつうの洋服はここにはないのだろうか。それとも、十二単のような格好をさせて逃げられないようにする気だろうか。だとしたらなかなか敵も策略家だ。人相の悪い男たちに見張りをさせておくより、こちらの油断を誘えることは間違いない。

「普通の、とおっしゃられましても……小袿(こうちき)はお嫌でございましたか。では、細長(ほそなが)のほうが? 花山吹(はなやまぶき)(かさ)ねなどつまらないお色でしょうか。わたくしのような白藤(しらふじ)(かさ)ねのほうがよろしゅうございますか」

「……えーっと」

 難解な言葉が彼女の口から飛び出して、紗夜には理解不能だ。お互い日本語を話しているのに、どこか通じていない。奇妙だ。もともと慣れない敬語も、どこかへ飛ばされてしまった。

「ここは、あの……誰かの家なの?」

 そういえば、紗夜はサングラス男の名前すら知らなかった。卯花(うのはな)はその曖昧な言い方に少し首をかしげつつもうなずいた。

「こちらは螢国(ほたるのくに)赫映(かぐや)様が滞在なさる行宮(かりみや)にございますわ」

「えっ、かぐや? ここにいるの?」

「姫様は大納言様の客人(まろうど)として赫映(かぐや)様直々のお招きがあったのでございましょう? みな、お羨ましいかぎりと申してばかりでしたの」

 不思議そうに首をかしげる卯花(うのはな)の様子は、紗夜をからかっているようにはとても見えなかった。だからこそますます混乱する。

「だいなごん? って、誰だっけ? 名前?」

 変な名前だ、と思ったら、卯花(うのはな)は袖を口元にあててくすくすと上品に笑う。紗夜には一生真似できそうにない仕草だった。

「大納言様というのは、(みやこ)での役職でございましょう? 御名をお呼びするなどわたくしどもには許されておりませんわ」

「そう、なの?」

倭皇(すめらみこと)様の御従弟という尊きお血筋に加えまして、御年はお若いのに大納言などという高位に上られ、陰陽(おんみょう)使いとしても並ぶ者のないほどと言われ、本当に将来有望なお方なのですよ」

「はあ……」

 どこか異なる感覚に、紗夜は答えに悩む。卯花(うのはな)は友人でもなく、敵というにも味方というのもお互いを知らなさすぎる。どういった距離感で対峙したらいいのか紗夜も掴め切れないでいた。

 たしかにここは、萌葱(もえぎ)たちの住んでいた(むら)とはずいぶん格式が違うようだった。大名だとか貴族だとか、そんな感じの邸に見えた。

(サングラス男はここのひとじゃないだろうから、たぶんあのひとだ。変なカッコしてた、イケメン……天皇陛下の従弟って、そんなすごいひとだったのか)

 (りょう)と名乗ったあの男が、紗夜をここに預けたのだろうか。かぐや姫の家に?

「あの……いまいち状況がよくわからないんですけど、あたしなんでここにいるんでしたっけ?」

「わたくしは大納言様より姫様のお世話を頼まれております一介の女房ですから、詳しいこととなりますと……」

「え? あのひともここに?」

 だったらなぜ、あのとき行動をともにしなかったのだろう。

「ええ、わたくしどもに直に姫様をお願いすると仰せになりましたわ。本当にもったいないお言葉で、みな驚いておりました」

 憂いのこもった儚げな睫毛が、かすかに揺れる。手本にしたくなるような、完璧な可愛らしさと艶やかさを併せ持つ女性。彼女も十分、紗夜にはかぐや姫のような美少女に見えた。

(……っていうか姫様って誰だ)

 彼女の言葉の流れからはどう考えても自分としか思えないのだが、何かの間違いだろうと思うことで聞き流すことにした。

「……えっと、卯花(うのはな)さんはその大納言とかいうひとの奥さんなんですか?」

「おく、さん?」

「えっと、女房……とか言ってた気がするんですけど」

「え、ええ……そのとおりでございますが」

 卯花(うのはな)が怪訝そうな顔をして首をかしげたことに、紗夜もまた首をかしげてしまった。旦那相手にしてはやけによそよそしい態度である。他人のプライベートにこれ以上立ち入るほど紗夜は無神経にはなれず、これ以上尋ねるのはやめておいた。複雑な夫婦関係なのかもしれない。

「あの……わたくしでご不満でしたら、別の女房に変えさせていただきますけれど……」

「別の? 何人もいるってこと?」

「もちろんでございます。こちらには数名しかおりませんが、(みやこ)におります女房は五十人を超えましょう」

「……えっなにそれっ! 五十人って」

 彼の顔がイケメンと呼ぶ部類に入るだろうことは紗夜も認めるところだが、節操なしにもほどがある。妻が五十人……アフリカの部族でもあるまいに。

卯花(うのはな)さんも……そ、そのうちの一人って、こと……?」

「ええ、こちらでお勤めさせていただくのは、この上もない名誉ですわ」

「…………」

 あまりにも瞳を輝かせて臆面もなく口に出すものだから、紗夜ももうこれ以上何かを言うのはやめることにした。五十人の女たちと男が納得しているならそれできっといいのだろう。紗夜には考えもつかない複雑すぎる事情を知ってしまった。

(男も男だけど、女も女だよ。離婚とかになったら慰謝料問題、ものすごい金額になりそう。やだな、そういう男に限って金だけはあるんだ。痛くも痒くもないとかゆって、ぽんと何億とか全員にあげたりして……あぁそうか女はそれが目的なのかな、だったらわかりやすいけど)

 無理矢理に納得した紗夜だったが、もちろん当事者にそれを言うのはさすがに失礼だろう。彼女にそんな打算があるようには見えないが、やはり人は見かけによらないものだ。

(大奥みたいなとこかな……でも戦国時代っぽくはない、かも。もっと奈良時代とか平安時代っぽい、ような?)

 紗夜の生まれ故郷である京都の一部には、まだこのような場所が残っている。といっても一般家庭にではなく、歴史的建造物としてだが。

 どんなに推測しても納得できる答えは見つからなかった。どうせここは、まほろばという知らない場所なのだ。紗夜の考える常識など当てはめられるはずもない。

萌葱(もえぎ)の話だと昔は同じ国だったけど分かれたってことだったっけ。たしかに京都の古い文化をそのまま残してるって感じかも)

 あの牢を出てもなお、テレビで見る時代劇の雰囲気に似ている。紗夜は古典の授業で習った言葉を思い出していた。―――祇園精舎の鐘の声……いや、違う。そんな暗記はまったく役に立たない。知りたいのはここがどこかということと、帰れるのかということだけだ。

「あの……じゃあ、その大納言って人に会えるかな」

「大納言様にでございますか? もう(さる)の刻ですからそろそろお戻りになるかと」

「………………」

 時間の表現までも古風すぎて、今がいったい何時なのかも不明だ。よく(うし)の刻参りとかいうあの言い方である。

「お戻りになりましたらお知らせいたしますわね」

 彼女のまなざしにどこか羨望の色がかすめた。―――どんな知り合いなんだと聞きたい気持ちは紗夜にもわかる。むしろこちらが聞きたい。いったいどんな因果であんなひとたちと知り合ってしまったのか。

「それまでにお着替えも済ませてしまわなければ」

 やはりこのド派手な着物を着なければならないのだろうか。

「このままじゃダメなんですか?」

「まあ! 小袖で人に会うのでございますかっ」

 ……どうやらダメらしい。

 彼女が顔を赤らめたところを見ると、人に会うにはずいぶん恥ずかしい格好なのかもしれない。京都にいれば着物を着る機会があるとはいえ、ここまで本格的な十二単のような着付けは知らない。大人しく卯花(うのはな)に任せることにした。

「でもあたし、このままのほうが楽だし」

 ささやかな抵抗を追加してみたのだが、卯花(うのはな)の艶美な、だが芯の強い笑顔に毒気を抜かれ、紗夜はされるがまま着替えをした。


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