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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
二章  散りのまがひに 家路忘れて
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 少し山を登るなどと言っていたが、とんでもなかった。

 急勾配の、道ともいえない山道をひたすら歩かされる羽目になり、紗夜は安易に彼についてきたことを後悔し始めていた。そうまでして登り、目的地の宮とかいうところに着いたときには深夜になっていた。

(……なんでこんなことに)

 もう何度目かわからないこの胸中の叫びに、答えはいまだ見つからない。

 小さな小屋のようなところで出迎えてくれたのは四十代ほどの女性だった。淡い茶色の着物を清楚に着こなしている。やはりサングラス男のような格好のほうがこちらでは稀なのだろう。

 なぜこんな山奥に住んでいるのだろうという素朴かつ当然の疑問がよぎったが、六畳ほどの部屋に案内されて一人になると、そんなことはもうどうでもよくなり、ごろんと床に横になった。冷たい木の床だったし、灯かりもろうそくのようなものがいくつかあるだけだったが、疲れている身にはそれすら気にならなかった。

(けっきょく何も聞けなかった。まほろばのこととか、帰る方法とか)

 ため息をついて、何もない天井を見上げた。何の変哲もない日本家屋に思えるのに、どうしてここは紗夜の知っている場所ではないのだろう。

「女の身でこのような道を歩くとは、さぞお辛うございましたでしょう」

 優しいねぎらいの言葉とともに現れたのが先ほどの女性だったため、紗夜はあわてて居住まいを正した。

「あ、はい……いえ、えっとー」

 正直に言いかけて、慌てて言葉を濁す。ここが彼女の住まいだとしたら失礼なことだろうから。

「よいのですよ。このような寂れたところでは、人の訪れも稀なものです。ごゆるりとなさりませ」

「は、はい。ありがとうございます」

 少し目元はきつい印象を受けるかもしれないが、口調は優しい。今までで一番まともな話し相手な気がした。

「お疲れを少しでも癒されますように、菓子などいかがでしょう。粉熟(ふずく)などはお口に合いますでしょうか」

 彼女が差し出したのは、薄茶色の箱だった。石か土でできているように見える。中身は確認できないが、これが菓子箱なのだろうか。だが、粉熟(ふずく)という名前は聞いたこともない。

「……あー、ありがとうございます」

 正直疲れすぎていて、ほとんど空腹を感じなかった。それでも断るのは申し訳ない気がしてその箱に手を伸ばした。

 その瞬間、地面をたたく轟音が闇の閑寂を突き破り、紗夜は思わず手を引っ込めていた。

 箱はひどい音とともに床に落ちて転がった。

「あー……すっすみませんっ!」

「―――いえ、私も驚いたものですから」

 女性も固い声でそう告げる。

 聞いたこともない音だった。雷が近くに落ちたのだろうか。電気などなく薄暗いから外の様子どころか部屋の中すらはっきりとは見えない。ここには日本にあった当たり前のもののほとんどが、ない。

 外とは(すだれ)のようなものでしか区切られておらず、分厚い壁などはない。紗夜がそっとその簾を開けてみると、廊下の屋根からろうそくのような明かりが吊り下げられていて、思ったより庭が見えた。

 だが、雷が落ちた様子はない。

 空には半月よりも少し細い月が見え、雲のないいい天気だった。

「池が……」

 風もないのにひどく波打っている。

 池といっても、周りに石などで囲いがあるわけでもない、ただのくぼみに雨水かなにかが溜まっているというだけのものに見える。それでも直径十メートルはあり、庭に対してかなり大きく思えた。

(地下水が沸いてるみたい……。だって雷とかおかしいし、そもそもここに来る間も雨なんて一度も―――)

 そのとき紗夜は、少しだけ違和感を覚えた。何がと問われても、答えられないほどの瑣末なずれ。

 ここに、くる、あいだ。

 池の水に映る、月。

 ゆらゆらと、その形が崩れて溶ける。

「大事はございませぬか」

 疑問が形になる前に、目の前の女性に声をかけられて違和感は露のように消えた。……そう、歩いてここまで来たのだ。ひとりで黙々と、ここだけを目指して。

 彼女は初めに自己紹介をした。……いや、もともと知っているひとだったような気もする。名前、は―――。

(名前。このひとの、なまえ、は)

 小さな小屋でつつましい生活をし、華美でない着物を着る、この女性……は。

 カケラが、堕ちる。

 床に転がる石の箱。いや、これはそんなものではない……。

 彼女の白い指が、拾い上げる。ゆっくりと。床に落ちてひどい音がしたのに、欠けてもいない。

 どうして。どうして。

「どうなさいました。そのような青白い顔をなさって」

 目の前の女性が近づき、紗夜の手を優しく取った。親切のつもりだったのだろうが、触れたその指がひどく冷たく、恐ろしいもののように感じて思わず震えた。

 なぜ石の箱だけが転がっているのだろう。何かが入っていたはずなのに。

(何か、が?)

 自分の思考だというのに、奇妙に浮いていて実感がない。

(どうして、あたしは、ひとり、で……)

 (りょう)……という言葉が脳裏をかすめた。

「どうぞ、これを」

 彼女は再び、石の箱を渡してくる。中身の見えない、それを。

 無意識のうちに手を伸ばしたが、やはりそこにも違和感が消えなかった。受け取っていいのだろうかという漠然とした疑問と、なぜその疑問が脳裏を掠めるのかというさらなる疑問と……。

「―――あ、ありがとう、ござい……」

 声が震える。

 受け取ってはいけないような、受け取らなければならないような。どうしていいかわからずに、伸ばした手がとまる。

「どうしました?」

 柔らかい、女性の笑顔。

「……あ、いえ」

 その親切に対してあからさまな拒絶もできず、紗夜は改めて手を伸ばした。

 強い風が簾を大きく揺らした。

 それを受け取る前に、部屋にあったろうそくの灯かりも激しく揺れた。そのひとつが紗夜のほうへ倒れる。紗夜は驚愕で声も出なかったし、身じろぎもできなかった。ただ、倒れてくる灯かりを認識した。それだけだった。

 紗夜がそれにぶつからなかったのは、幸運以外の何物でもないように思われた。だが、第三者が見ていれば、その火はまっすぐと、まだ紗夜が受け取っていなかった箱を目指して倒れこんできたように見えただろう。

 紗夜が息を呑んだときには、女性は再び箱を取り落とし、同時に灯かりもひどい音とともに床に倒れた。

 そして、もちろん倒れたろうそくはそれだけでは終わらなかった。炎はあっというまに床を焦がし、勢いを増す。

 紗夜は立ち上がることすらできなかった。

 燃える炎と、舞う火の粉と。

 自身を包む、燃える匂い。

(炎……が……)

 近づいてくる。

 逃げなければ。

(違う……)

 逃げてはいけない。立ち向かわなければ。―――あのひとを、救うため。

 闇い海の、潮の香り。

 堕ちていく……どこかに……。

(―――(りょう)さんっ!)

 やっと、その名前を思い出した。


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