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一人になってますますどうしていいのかわからなくなった。
一晩泊まった野菜の倉庫の裏は人の手が入っていない山のようだったから、素人の紗夜が無事に通り抜けられそうにはなかった。山で遭難なんてみじめすぎる。
京は北にあると萌葱は言っていたが、そもそも北がどちらかわからない。方位磁石なんて都合よく持っているはずもなく、自分の方向感覚なんて怪しすぎて頼れない。
とりあえず川沿いに、村が見えなくなるまで進んでから腰を下ろした。
ため息を一つついたところで、視界にいくつかの影が入り込む。
「なぁなぁ、どこ行くんー?」
顔を上げると、紗夜を追いかけてきたらしい若い男が四人、こちらを見下ろしていた。
笑顔……には違いないのだが、彼らの声や顔つきにはどこかからかう様子が見えて紗夜はそっけなく首を振った。
「なんやー、やっぱ妖なんかやない」
「なぁ、よう見れば悪うないやろ」
「追い出すなんてもったいないな」
純粋な親切心から紗夜を追いかけてきたのではないことが明らかだった。だが、立ち上がって逃げるのも今は億劫で。
「な、どっから来たん? 行くとこないんやったらうち来てもええよ。匿ったる」
「いえ、大丈夫ですから」
伸ばされた手を避けるようにして身をよじると、いつのまにか後ろにいたもう一人の男に腕をつかまれる。
「ええやん。助けたる言うてるんやから」
「―――ちょっ」
「遅い。何をしている」
紗夜の反論は思わぬところからかき消された。この男たちとは違う、少し離れたところから―――それは流れるこの水のように静かな、けれどどことなく不機嫌そうというよりも無感情な男性の声音。
目を上げると、男たちは先ほどまでの勢いはどこへやら、ただ呆然と口を開いたまま紗夜の後ろのほうを凝視していた。紗夜の腕をつかんでいた男も、反射的に放してあとずさりしている。
何があるのかと紗夜が振り返るより早く、ぐいと腕を別のほうから引かれて、無理やり立たされた。
(なにこの非常識男は)
少し顔を傾けて彼の顔を確認しようとしたが、逆光でよくわからなかった。笑顔でないことだけはたしかだろう。鋭くもないが柔らかくもない、淡白な一瞥が向けられたのを感じた。
「―――あ、妖……っ!」
紗夜にはずいぶん強気だった男たちが、なぜか彼の出現では蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
(……アヤカシって)
昨日からその言葉ばかりを聞いている。
あまりいいものではないのは確かだったから、化け物みたいな顔を想像しながら、紗夜はようやく振り返った。
「あ……あのときの……」
火事の中で見たサングラス。
ジーパンにチェックのワイシャツとサングラス。このなんの変哲もない、日本のごく普通の若者らしいファッションがひどく懐かしく感じた。時代劇は終わったのだろうか。
「…………あ、あのー」
紗夜の腕をつかんだまま、サングラスの奥からじっと覗く双眸の冷めたような暗い光を感じる。……そういえば紗夜に向かって莫迦とかなんとか、初対面のくせに罵倒してくれた。
「ふぅん……」
紗夜の顔を無遠慮に覗き込んだりするし。
「―――ちょっと……っ」
いつまで腕をつかんでいるつもりなのかと、紗夜は彼の手を振り払った。瑚月以外の男にここまで間近に迫られたことはなく、気恥ずかしいのもあった。
紗夜の力で男性の腕を振り払えるはずはないのだが、彼はそんな態度を取られるとは露ほどにも考えていなかったようで、わずかな驚愕の視線とともに端然とした声が返ってきた。
「ずいぶんな態度だな、この俺に」
たしかに、サングラス越しでもわかる、女に拒絶されたことがないというのもうなずけると思わせるには十分な容姿を備えていた。残念ながら、そこに議論の余地はない。
(でもだからってそっちの態度のほうがずいぶんじゃないの。この俺ってどの俺なわけ? 知らないし、ちょっと自意識過剰すぎなんじゃないの?)
見知らぬ女の腕をつかんで平然としているほうがよほどおかしい。
そう毒づく反面、紗夜はとりあえずほっとしていた。醜美はこのさいどうでもいい。時代劇の世界ではなく、やっぱりちゃんと日本を知る人がいるのだとわかったから。アヤカシとかいう恐ろしいものにも見えないし。
「……っていうか、誰なんですか?」
彼は、紗夜を一瞥したが、何も言わずに踵を返した。……質問は無視された。
(白馬に乗った王子様って雰囲気もないし、まぁこの怖そうな態度にびっくりしてあの人たちは逃げてったのかな)
いちおうはこの場を治めてくれたのだから、紗夜を助けてくれたのだとは思うのだが、こちらを気遣うどころか友好的な雰囲気は欠片もない。新たな誘拐犯だったら、頭から信用するのは間抜けすぎる。
(でもどっかで見たことあるような気がするんだけどなぁ。でもこんな無愛想な知り合いいたっけ)
知り合い程度では紗夜の記憶には残らない。どうでもいい人間関係ならいらない。その信念のもと、考えて手繰り寄せれば思い出せそうな気がした細い糸を、紗夜は自ら切り捨てた。紗夜の新しい交友関係といえば大学のクラスメイトだが、目の前の彼は紗夜よりもいくらか年上だ。まだサークルの見学なんかもしていないから、年上の知り合いもいない。他人の空似と決め付けておいた。
「あの、いちおう……ありがとうございます……」
「礼などいらん」
意外に優しいひとだ……そう思ったのは一瞬だった。
「別に俺が助けたくて助けたわけではないからな」
「―――は?」
なんだか酷いことをさらりと言われたような気がする。……そして、似たようなことを昨日も言われた気がする。
「そんな言い方はないだろう? ほら、女性にはもっと優しくしてあげて」
紗夜が怒りを覚えるよりも早く、その冷徹な威圧感を包みこむほどの柔らかい男性の声が少し離れたところから聞こえた。
世良とは少し形が違うものの、洋服ではない格好をした男性が少し離れた竹やぶの間から現れた。育ちのよさそうな、優雅な容姿が全身から放たれている。思わず後ずさりたくなるほど美形だった。
(肩に、何かがいる……)
黒っぽくて長い、それは蛇のようなもの。
だが、紗夜が目を凝らしたときにはすでにどこかに消えていた。彼も気づいていないようだったから、紗夜の気のせいかもしれない。そうに違いない。肩に蛇など乗っていたら、紗夜だったら彼のように笑顔ではいられないだろう。
「……くだらない。そもそも昨日だってお前が出てくれば面倒はなかったんだ」
優しげな雰囲気を漂わせた青年は、サングラス男の言葉をすべて無視して紗夜に笑顔を向けた。
「すみません、愛想がない人で」
「あー、いえ」
サングラス男の代わりに彼が二倍の愛想を表現しているかのようだった。
彼のおかげであの男たちを追い払うことができたのだが、このサングラス越しの威圧感は、紗夜でも逃げたくなる。
「そんなことよりあの蔵人がいない」
「宮を見てきたけれど、あのあたりにはいないと思う。それにしても蔵人を無意味に捕らえていたのでは京に目を付けられてしまうから逃げてくれてよかったのかもしれないけれど」
「だが、どうする?」
「螢惑が強くなっている。……あまり猶予はないよ」
現れた紳士の声はどこまでも優しく、誘拐犯と決め付けることを躊躇わせる。が、騙されるものかという意志で身構えた。
(だめだめ、人を見た目で判断しちゃ。泥棒がいかにも泥棒って顔してるわけないでしょーが)
悪人顔の善人だっている。そしてその逆も。顔はたしかに二人ともやたらといいが、イケメンの悪人だってもちろんいる。
(でもあたしなんかを騙して何があるっていうんだろ?)
地位、女子大生。容姿、普通。所持金、ゼロ。
彼らのその顔なら女の子もよりどりみどりで、紗夜程度をナンパする必要もなさそうだ。
「この先に宮がありますから傷の手当てをしましょう。女性がこのような姿でおかわいそうに」
紳士は涼しげな瞳をそっと曇らせる。―――騙されてもかまわないと叫ぶ女が殺到しそうな、完璧な視線。
とはいえ、サングラス男は日本人のようだがやたらと冷たいし、紳士は確かに優しげだが格好は十分にあやしい。へんな集まりだったら困る。
紗夜が躊躇っていると、紳士が手を差し伸べてきた。
「少し山を登ることになりますが、もし辛いようなら馬を探しましょう。車はこの山を登ることはできませんから」
「―――えっと、でも」
やはり交通手段は馬しかないのだろうか。馬なんて探してこられても困る。
「いやなら別に来なくてもいい」
サングラス男の冷淡な口調で、紗夜は手を取るのを再び躊躇した。
「かわいらしい姫君にそんな言い方はないだろう」
諌めるというよりもからかうように、紳士はくすくすと笑う。
(姫、君って……時代劇じゃないんだから……)
だが、紗夜の十八年の人生の中で一、二を争う美形たちに、そんな俗世っぽいツッコミはしにくかった。
どうするべきか悩んでいると、すっと彼の視線が細められた。
「……どうやら話をしている時間はなさそうです」
紳士は紗夜の手を取った。あまりにも自然すぎて、紗夜も抵抗を忘れるほどだ。逡巡する間もなく、サングラス男の手に無理やり握らせる。
「おいっ」
紗夜よりも先に、男が振り払おうとしたが、紳士のほうがそれを許さない力で二人の手を包み込んだ。
「姫を頼むよ。宮の用意はできているから」
そして彼は紗夜のほうを向く。
「貴女も、山火事にでもなったら昨日のように逃げられるとは限りませんから、しっかりと彼のいうことを聞いてくださいね」
「…………」
軽い口調だったが、明らかに脅している。紳士的だと思ったが、彼も案外優しくなんてないのかもしれないと紗夜はぼんやり思った。
(……昨日、の、ように?)
はっとその意味に気づいて口を開きかけたが、彼はすでに馬にまたがっていて、その視線は遥か上になっていた。
(―――あれ? 馬なんていたっけ?)
金色の混じった白馬。こんな大きなものがそばにいただろうか。
「私の名は崚。もしお一人で宮に着くことがあったらこの名を思い出してくださいね、紗夜さん」
「え?」
聞き返したときにはすでに、彼は馬を走らせ、山に続く傾斜とは異なるほうへ向かってしまった。見事な馬捌きだった。
(……どうしてあたしの名前、を)
怪しい。
おもいっきり怪しい。
最後に残した言葉も意味不明だ。
(こんな無愛想男と二人きりだなんて最悪なんじゃ……)
こんな見知らぬ土地でひとり取り残されるよりは、いくらかましだと思えるものの、彼との会話はとても長続きしそうにない。紗夜に向ける視線は相変わらず南極の氷のごとくだ。
「……仕方がない。だが面倒をかけるな。あんたの目なら見えるはずだ。幻に惑わされるな、違和感を逃すな」
昨日と同じ言葉。だが、その意味はまだわからない。その感情が正直に出ていたのか、サングラス男は紗夜を見て諦めたような表情に変わった。何を? ……たぶん、期待するのを、諦めた。
そう思った瞬間、胸のどこかが痛んだ。
会ったばかりのこんな男に期待されたからといって、または期待されなかったからといって、紗夜に関係があるとも思えないのに。
「まあ、いい」
不機嫌を隠そうともしない口調ながら、彼はつないだ手を離そうとはしなかった。
―――その違和感はなぜか不快ではなかった。