2
紗夜は萌葱の言うように、野菜を保管している倉庫で土の匂いに囲まれて一夜を過ごした。
夜中は突然の雷雨で心細い思いをしたが、そのおかげというべきかきっと村中を焼いた火はすっかり消えただろう。
泥の色になってしまった川の冷たい水で顔を洗い、改めて水面に映る自分の姿を見てみると、ぼろぼろになった服がいやおうなく紗夜の気分を沈めてしまう。小さな火傷はいくつもあるもののたいした怪我がなく、それだけは幸いだったが、着替えどころか自分の荷物もどこにもない。身ひとつでここに立っているだけだった。
「紗夜はこれからどうするん?」
萌葱に尋ねられるまでもなく、それは紗夜が早急に考えなければならない命題だ。
「昨日言ってた、えっと……にほ……とかいうところに行くんか?」
「そうしたいけど、行き方もわかんないし……」
衣食住のすべてをなくした経験などない紗夜は、とりあえず萌葱がそばにいてくれるだけで少し安心した。
「だったら京に行くしかないな。たっくさん人がおるって話やし、紗夜が行きたい場所のこと知っとる人もいるかもしれん」
「京、かぁ」
目的が何もないよりいいかもしれない。
(そんな簡単にいかなそうだけど……乗り物もないんじゃ歩くしかないし……。でも地図もないのに辿り着けるとは思えないよ)
電車やバスがありそうな雰囲気ではない。そうなると、古風な乗り物といえば馬しか紗夜には思いつかなかった。もちろん乗馬などできないが……。
所持金がゼロというのもなんとも辛く心もとない。一日だけ働かせてくれるようなお店を探してみるしかない。日本で何の不自由もなく安穏と暮らしていた紗夜に、そんなサバイバルができるだろうか。初めてのバイトすら失敗したのに。
だが。
「ひとりで行くんはやめたほうがええよ。山を超えていかなならん。昼は物取り夜は妖ってな。なんの備えもせんと行くんは無理や」
「え? そんなに治安悪いの? ずいぶん日本とは違うんだ……」
前途多難すぎる。
紗夜がアヤカシって何と尋ねる前に、萌葱が口を開いた。
「押領使に頼めへんこともないけんど……あたいが言ってもだめやろなあ。京に行くなんてだぁれも考えとらん」
冷たくないのか、萌葱は水の中にざぶざぶと入り、手足をこすって泥を取った。紗夜も埃っぽい身体を洗いたかったけれど、まだそんなサバイバル生活には慣れていない。
「京なぁ、なんとかならんもんかな」
「せめて地図とか泊まるとことかあればいいんだけど」
こんな子供に頼りきっている自分が少しおかしかった。だが、いま彼女の『地図』になってくれそうなのは萌葱しかいなかった。
「けんど、あたいも邑を出たことなんて―――」
「萌葱っ! あんたいったいそこでなにやっとん!」
突然、甲高い声が聞こえて紗夜と萌葱が顔を上げると、対岸で数人の村人たちがこちらを見据えていた。萌葱はぱっと顔を輝かせた。
「よかった、無事やったん!」
「昨日戻ってこおへんから、焼かれてしまったんやないかってみんな朝からあんたのこと探しとったんよ!」
「なしてすぐに帰ってこおへんのっ」
そのうち一人の女が土手を降りようとして、別の男がそれを止めた。
「……一緒におるんは、あの妖か?」
はっと村人たちに緊張が走るのが、紗夜にもはっきりとわかった。……アヤカシ?
「―――ち、違うっ!」
萌葱はとっさに叫んでいたが、村人たちは顔色を変えて今にもその場から逃げ出しそうだ。
「その女は妖なんやって!」
「そうやわ! 邑全部が燃えてしもうたんはこいつのせいやってみんな言っとる!」
牢屋の中でも、妖だとか殺すだとか、理不尽なことを言われていたことを思い出す。
(あたしは……アヤカシなんていうものじゃない。火もつけてない。勝手に誤解しといて理不尽なことばっかりだ)
けれど、どう言ったらわかってもらえるのだろう。
村人たちのあの態度には怒りを覚えたけれど、何かの誤解や、彼らなりの主張があるに違いない。彼らの恐怖や偏見を、鞘に納めることができるだろうか。
「違うんよ! このお人は火なんてつけておらん。あたいが行ったとき、まだ塗籠におって逃げれんようになっとった!」
萌葱は、声を聞きつけて続々と集まってきた大人たちにすら気おされることはなく、毅然と見上げて叫んだ。―――だが、誰一人それに頷くものはなかった。
「焼かれて死ぬいうても、人間やのうて生き返ることもあるかもしれんよ」
「違う! そんなんありえん! あたいがあげた握り飯も食っとったで。妖がそんなもの食うんか」
紗夜ははっと顔をあげる。
窓枠に置かれていたおにぎり。紗夜は警戒しつつもそれらを勝手に食べてしまっていたが、彼女がわざわざ持ってきてくれていたのだ―――おそらくこの大人たちの目を盗んで。
「だったらなんやの? もう一人の男やってなんやええもん着とったけんど、妖やなかったら京のおひととしか思われへんよ。こぉんな小っこい邑に来るわけないんや」
「この妖のせいで畑は全部なくなってしもうた!」
「今年は稲だけで生活しなあかんのやで」
萌葱一人がどんなに否定しても、大人たちは数で圧倒しているぶん強気だった。
「紗夜! ここまで言われとっていいん? なんか言いたってや!」
ついに怒りが浸透したのか、少女は涙目になりながら、紗夜を精一杯見上げた。
妖かもしれないという躊躇いも、相手は年上だからという遠慮も、そこには何もなかった。ただ少女の主張が理不尽に虐げられていることへの純粋な哀しみと怒りがその双眸に宿り、燃えるような力を紗夜も感じた。
凄烈で痛い、村人たちの視線。
邑を焼かれて、その憤りの矛先がどこにもなくて。けれど、紗夜もそれらを受け止められるほど器が大きくない。
彼らにただ自分は違うのだと言ったところで、意味がないような気がした。
「……あ、あたし、は」
関わりたくない―――そう言ってしまいたかった。逃げるしか、今の紗夜に思いつく方法はなかった。
(鞘なんてここにはない。冴やかなひかりも、見つけられない)
村人たちを正視できなくて足元に落とした視界はどこか暗く、それが紗夜の行く末を予言しているかのようだった。
(出ていけばいいんでしょ出ていけば)
それがお互いにとって最善で簡単。
(別にあたしはこの村出身でもないし、見ず知らずのひとに優しくしてもらういわれもない)
一歩あとずさる。そうすると、もう前に出る勇気はなかった。数歩、下がった。背を向けるのは、なんて簡単なんだろう。
「すっすみません……っ」
「紗夜っ」
踵を返して走り去る紗夜を、萌葱だけがとっさに追いかけようとした。大人たちに阻まれて悔しそうにしている少女を紗夜が見ることは、なかった。