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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
二章  散りのまがひに 家路忘れて
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『この里に 旅寝しぬべし 桜花 散りのまがひに 家路忘れて』

(この里で泊まってゆこうか、桜の花が散ってあたりが見えず家路を忘れたということで)


 久しぶりの大雨で、電車のダイヤが大幅に乱れていた。

 新幹線もいくつかの運休と徐行運転が続き、やっと京都にたどり着いたときには、新調したスプリングコートが重く濡れていたが、かまわずバスを乗り継いで小さな田舎町にたどり着く。

(せっかく体裁だけでも整えようと努力したのも水の泡か)

 水の泡―――その表現が今日の天候に相応しい気がして、少し笑うだけの余裕が出てきた。

 傘を差し、バス停からの道を歩く間、誰ともすれ違わなかった。

 ただ二台の自家用車が水たまりの上を容赦なく走り去っていっただけの、それは閑静な町。

 まだ田植えの始まっていない田園風景と古い民家の塀が続いている。それはすっきりとした黒のスプリングコートとカジュアルスーツを着こなした、都会のビジネスマンを連想させるこの青年が歩くには、似つかわしくないと思えるほど、典型的な農村だった。

(こういった風景は、よく似ているかもしれない)

 かの一族は、あえて似た場所を、本能のように選んでいたのだろうか。

 彼は、その旧家の門にたどり着き、時の長さを感じさせる荘厳な構えを見上げた。これだけの歴史を内に秘めながら、風化した様子もなく、瓦の一枚にいたるまで手入れが行き届いている。

 庭の風情を見て邸の主人の優雅を知る―――そんなことはもうここでは出来ないと思っていたけれど。

 この門にインターホンなどという世俗的なものはなかった。

 軽く叩いてみようと右手を持ち上げたとき、待ちかねたように内側からその門はゆっくりと開いた。

「ようこそおいでくださいました」

 その淡く儚げな微笑には見覚えがある。とっさにそう思った。

 真っ白なワンピースと桜色の傘。

 静かな雨音を響かせる庭に、それらがよく合っていた。

「―――……様」

 声を出したはずなのに、上手く口に乗らなくて。

 雨にかき消されてしまう。

「大きくおなりでしたのね。驚いたわ」

 彼女は気にした様子もなく、幼いころの記憶そのままの声で笑いかける。

 立ち止まったり引き返したり……そんなことが許されなくなってから初めて、ただ純真でいればよかった子供のころのわずかな時間を思い出した。

 永遠だと思っていたものが、実は一瞬だと知ったとき、もう子供ではいられなくなったのだった。

「……貴女も、お変わりなく」

 やっとそれだけを言えた。

 本当に変わらないものなんて何もないと知っているのに。

「いやだわ。もう皺も増えて、歳を取ったのに」

 くすくすと上品に笑う彼女の顔のどこにも、皺のような、年月の経過を感じさせるものは見当たらなかった。それでもきっと、以前より落ち着きや成熟といったもの―――魅力と表現できる数々のものを手に入れている分だけ、やはり長い時間がいつのまにか過ぎたのだろうと思う。

「雨の中、このような訪問で申し訳ございません」

「わたくしこそ、こんな汚れた手でお迎えしてしまって恐縮です」

 開いて見せた指先が、たしかに土にまみれていた。

 飛び石を歩く彼女のハイヒールの音。その後ろについていくと、案内されたのは玄関ではなく庭先だった。彼女に倣って大きな屋根のある縁側に腰を下ろす。

「……なにをなさっていたのです?」

「庭のね、ハーブを見に来ていたの」

 彼女が示した先には、たしかにいくつかのハーブと思われる植物が植えられていた。植物にはそれなりに詳しいと自負してはいたが、外来種のそれらを彼はほとんど知らなかった。

「ご自分でなさるのですか?」

「わたくしはもう、何のとりえもないただの女ですから」

 神性はなくとも、彼女にはたしかに人を癒す手を持っている。

 けれど、幼いころに見たはずの彼女の凛としたたおやかさが、穏やかな微笑みの中に消えていったことが、まだ信じられなかった。

「それでも、やはりまほろばとは関わっていかなければならない時が来たということでしょう? ―――(りょう)さん」

 自分の名をこのように親しげに呼べる者も、わずかになってしまった。

 ふと、自分がなぜここに来てしまったのかと自問する。本当に来るべきだったのだろうか、と。

 この女人は、彼がここに来た理由を正確に知りえていた。こちらが何かを伝える前からすでに。

 だとしたら(りょう)がこれから言おうとしていることは弁解にすぎず、それは彼女が欲しているものではない。

「―――力に目覚めずとも天羽(あもう)家の姫はご息女です。常世でも、佐伯が動くことになるでしょう」

 事務的な報告。

 これで、本当に正しいのだろうか。

 彼女はハーブを見つめるいとおしそうな双眸を、そのままこちらに向ける。

「申し訳ございません」

 謝罪で何かが変わるわけではない。けれど、言わずにはいられなかった。彼女の瞳がそうさせた。

「……いいえ。貴方も、多くのものを失っているというのに、わたくしのことなど捨て置いてくださっていいのですよ」

 失った多くのもの……。

 そんなもの、あっただろうか。

「―――私は、得たものも多いのです。まほろばで、耀京(かがやきのみやこ)で、耀月珠穂宮(かぐつきのたまほのみや)で。私が切り捨てたものは些細な……常世という(しがらみ)だけだった」

 この言葉を信じたのかどうか、彼にはわからなかった。ただ、今の彼にとっての真実を伝えたつもりだった。

 けっして偽りなどではなく、強がりでもなく……。

 彼は失いたくないと思えるものを常世で得る前に、すでにまほろばにいた。それほどまでに、まほろばでの歳月のほうが長い。

天羽(あもう)の姫には危険が迫っている。いやおうなく巻き込んでしまうことをどうかお許しください」

「どれほど隔たっていようとも、これが必然だったのでしょう。まほろばだけでなく、常世のためにも。あの子が生まれたとき、その輪廻の宿命を握っていたのだもの」

 でも、と彼女は儚げに笑う。

「―――衣吹(いぶき)さんは……怒るかもしれませんけれど、大丈夫。夫で父親だもの、わかってくれます」

千鶴(ちづる)、様……」

「でもせめて、あの子を、護ってあげてね」

 これから起こる様々な危険や葛藤や苦悩……そんなものたちから。

 彼女は手放すものの大きさを知っている。けれど、彼にはいまだにわからない。それだけの違いなのかもしれない。

 彼は、安易に頷きかけて……やはり首を横に振った。

「姫君をお護りするのは私ではありません。けれど、きっと彼が……すべてを護りますから」

 その答えに満足したのか、彼女は再び少女のような純粋な笑みを浮かべた。

足珠(たるたま)賀茂(かも)の君にすでに渡してあります。その力はきっとまだ封じられているのでしょうけれど」

 淡い余韻を残したまま、彼女は思い出したように付け加える。

「―――あの子ならきっと、追いかけるわ」


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