5
「危ないっ!」
少女の甲高い声に、紗夜ははっと我に返った。
そのときには足が軽く宙を浮いていて、何かを思うよりも早く、紗夜の身体は砂利の下り坂をごろごろと転がっていた。が、幸いにも草がたくさん生えていたから、痛みは覚悟したほどではなかった。
「……いったー」
「平気か? この辺あんま足元見えんもんなぁ」
快活な彼女の声に、脳裏が少しすっきりとした気がした。
「あと少しや、この川渡っとれば火はこっち来おへんよ」
少女の言葉は一理あったので、紗夜は言われるままに最後の力でなんとか立ち上がった。土手の上を見上げたが、そこには誰もいなかった。
(あれ? ……さっきたしかに)
話をしたのに消えてしまった。
なぜか立て続けにそんな人たちばかりによく会っている気がする。
(……助けてやるとか言ってたのにどっか行っちゃったのかな。まさかあのひとだけ火に巻き込まれたなんてことないよね)
心配になって後ろを振り返るが、巻き込まれるほど炎はまだ近くない。
「どうしたん? はよ行こう」
「……う、うん」
真冬でなくてよかったと思いながら、膝ほどまでの浅い川を数メートル渡った。どこか皮膚が切れているのか、冷たい水がちくちくとしみて痛かった。……イタイとやっと、本当の意味で自覚できた気がした。それが紗夜の頭をよりはっきりと覚醒させた。
少なくとも目の前の少女と火事は夢ではない。
(とにかく『今』をなんとかしなきゃ)
急な流れではなかったため、紗夜は転ぶこともなく渡りきり、近くの草むらにようやく腰を下ろした。対岸ではまだ炎が消えずに残っていたが、砂利ばかりの川辺で燃えるものがあまりないことと、少し民家から離れていることで、炎はもうこちらに向かってくることはなさそうだった。
炎が遠いせいで先ほどよりあたりは薄暗く感じていたが、それでもずいぶん目は慣れていた。
ちょうど半分になった月の、さやかな光。
「大丈夫か? ここにおったら安全やけんな」
「……あ、ありがとう。火傷とか、してない?」
「あたいは平気やん。速う走れんのはあたいの特技や。すばしっこいてな、よう邑でも言われんの」
紗夜と正反対の特技だった。
この子が助け出してくれなかったら今頃あの炎の中だったかもしれないと考えると、あらためてぞっと背筋が凍る思いだった。
「なんで……火事があったの?」
「わからん。急に燃え出したとかゆっとる大人もおるんけんど、そんなはずないしな。あんたが奇術で燃やしたとか言うとるひともおるんよ」
「……は? キジュツ?」
「そうや。今は邑に近づかんほうがええ。奥に菜の倉庫があるけん、一晩はそこで我慢や。明日になったら邑から出たらええよ」
「村って……えっと、ここはなんていうところなの?」
当然の質問をしたつもりだったが、少女はまだ幼い瞳をきょとんと紗夜に向けた。
「なんや、迷っておったんか。ここは叉嗚邑やけ、どこに行くつもりやったん? おかしな格好しとるけんど、別の国じゃ流行ってるんか?」
「さお村? 何県の?」
聞いたこともない場所だった。
自分がどこにいるのかわからないことを迷子というのなら、今の紗夜は迷子以外の何物でもない。
「何けん? けんってなんや?」
「え? ここは東京? それとも神奈川のほうとか?」
いくらこの少女が幼いとはいえ、言葉を覚えたばかりの二歳児などではない。紗夜には少なくとも小学校高学年か、中学一年生くらいには見えた。住所を言えない年齢ではなかった。
「とうきょ? かなが……? ここは螢国の叉嗚邑や。けったいなとこから来たんやなぁ」
「国? 日本じゃないの……?」
なんだかマヌケな質問に思えてきた。
「にほん? それがあんたの邑の名前なん?」
「村じゃないよ。国の名前。日本だよ」
―――おかしい。
やっと紗夜はそのことに気づいた。
たとえ外国まで連れてこられたとしても、日本を知らないはずがない。いやもしかしたら、東南アジアとかの少数民族の集落とか中国の山奥とか? それならテレビもなくて日本なんて知らずに生活しているかもしれない。でも彼らは少し訛ってはいるが、ちゃんとした日本語を話しているのだ。
「国? このまほろばに国は七つしかあらへんよ。ここはそのうちの一つの螢国や。にほんなんて国はない」
「―――まほろばって?」
何度か聞いた気がする言葉だ。―――そう、風城世良が言っていたのだ。
(日本なんて国は……ない?)
風城世良の言葉がよみがえる。
『夢なんかじゃないよ。ここホントに日本じゃないんだよ?』
だからといって頭から信じることのできる話でもなかった。
友達というほど親しかったわけでもない彼の存在も、今となっては唯一の知り合いかもしれない。けれど、その程度の付き合いだった彼を頼りきることも、紗夜にはできない。
「まほろばって、何?」
「はあ? なんや、どうしたんや」
ごく普通の質問をしたつもりだったのだが、少女は太陽って何とでも尋ねられたかのよな、その驚愕を全身で表現して紗夜を見つめ返した。演技をしているようにも冗談を言っているようにも見えなかった。
「そのにほんてのはどんだけ田舎なん? あたいは国学に行っとらんけんど、そんくらい誰でも知っとることや。おっ母とかに教えてもらわへんの?」
「……あー、うん。こんなところに自分で来た記憶もないし」
紗夜は日本を大都会だとも田舎だとも思ったことはないが、少なくとも藁の家やこの少女の格好を見る限り、日本のほうが都会だと思う。それなのに、あっさりと少女の中ではド田舎認定されてしまったようだ。
「このあたりはまほろばって言われてるの?」
「すべてがまほろばなんよ。耀京と四つの国、三つの島がある。ここは京から南にある螢国ってとこや」
「……………………」
どれほど論理的かつ明晰な思考回路を持っていても、この話には混乱するに違いない。有名な学者ですら裸足で逃げ出す難問。ましてや一般的な大学生……しかも入学したての初心者でしかない紗夜にとっては、思考放棄したくなる出来事としか思えなかった。
「すべてがまほろばって……じゃあ日本はどこにあるの? あたしは帰れないの? まほろばのほかにはここに国はないの?」
突飛な質問だったのだろう。再び少女は怪訝そうな顔を紗夜に向けた。
「まほろばのほかっちゅうんは、常世のことやろか」
「常世?」
「そうや、まほろばの双子国。天の常世と地のまほろばや。昔は大国だったとかいう唐よりも今は豊かなんやっていうけんど、本当やろか。奴婢もおらん恵まれた楽土とか言われとる」
恵まれた楽土……かどうかはわからないが、日本が世界屈指の豊かさを誇っていることはたしかだった。―――だが、常世?
そういえば世良が、まほろばとともにそんな言葉も口にしていた。
「天地すべてを合わせて、倭と呼ぶこともあるけんど、もう二つの世は違いすぎるって話や。唐と交流しとったんも常世だけらしいしな」
「やまと……」
それは日本のことだ。古い言い方だが、たしかに日本と呼ばれる前はやまとという国名だったはず。やっと知っている言葉が出てきて、少しだけ落ち着いた。
「まぁでもな、常世からまほろばに来るんは、月夜見尊様の媛様とその守人だけらしいんや。日の蝕尽が起こったときに来るんやって」
「日の蝕尽?」
「昼間に日が消えて夜みたいな闇になってしまったやろ。昨日見いひんかったん?」
昨日……と言われても、昨日がいつなのか紗夜にはもうわからない。
(昼間に暗くなるって日蝕のことかな)
そして、日蝕とともにその媛様とかいうのが現れるという伝承があるらしい。聞いたこともない昔話だ。
「日の蝕尽が起こったとき、鵠を従え、天の羽衣を携えて、媛様が常世からやってくるときがあるんやって」
昔は日蝕や月蝕を凶兆だとか言って恐れていたかもしれないが、紗夜にとってはただの自然現象。それで何かが起こるとは思えない。しかもそんな突拍子もないこと。
(でも、今の話だと常世が日本ってことになる)
初めはこの少女の作り話かもしれないと半信半疑だったが、ここまで複雑な話を作り上げるとは到底信じられなかった。
ただ悲しいのが、今の話がすべて現実に起こりうるとはまったく思えない現象だということだ。
それはただの伝説や御伽噺というよりは、自然現象を身近に表しただけなのかもしれない。たとえば、月に住む兎だとか、座敷童だとか、その程度の迷信。
(だったら日本はいったいどこ? 大人に聞いてみないことにはわからないかな。でもあの村に戻るわけにはいかなそうだし、となりの村までバス……なんてありそうもないしここ)
考え込んでしまった紗夜の顔を、少女は覗き込んだ。
「なんや、常世に行きたいんか?」
「……えっと、そうなる……のかな」
行きたいのは日本なのだけれど……。
少女は複雑な顔をした。嬉しいような呆れているような、どう返したらいいのか迷っているような表情。
「……あのなぁ……あたいも邑ではおかしいとか言われとるけんね、常世に行きたいなんてそないなこと思うたことはないな」
「い、行けない、の? そこには」
「常世に行けんのは赫映様だけやと言われとる。あたいらには手の届かん話やね」
また、出てきた。
萌葱の口からも、かぐや姫という言葉が。
「ねえ、本当にいるの? その、かぐやさまっていうのがここに」
「何を言うとるん。おかしなお人やなぁ」
やけに大人びた口調でしみじみと言われたが、おかしな人だと言いたいのは紗夜のほうだった。
「政事を司る倭皇様と神事を司る赫映様やろ。どちらも世の御柱やけど、赫映様はまほろばの方ではなくてな、大昔に常世からやってきて滅びかけたまほろばを救ったっていう小碓尊様の末裔や。それ以来、赫映様は倭皇様とともにまほろばを守ってくださっておるんよ」
「………………」
「月夜媛様はそんな小碓尊様を助けて命を落としたんやけど、その魂だけはいまでも常世におって……っていうの、聞いたことないん?」
「………………」
―――聞いたこともない。かぐや姫がまほろばを救った英雄の末裔だなんて話は、竹取物語にもなかった。
スメラミコト……この言葉には覚えがある。天皇の別名だ。かぐや姫と天皇。やはりどこか日本に繋がるものがここにはある。―――けれど、日本ではない。それだけはもう疑いようのない事実として、ようやく紗夜の脳裏に刻まれた。
「なあ? あたいも聞いてええかな?」
「え……? う、うん。いいけど」
日本って何、とか聞かれたら、紗夜も明確には答えられない。そう思いながら、少しだけその質問内容に身構えた。
「名前。聞いとらんかった。あたいは萌葱や」
「―――あ、うん」
至極当然の質問に、紗夜はやっと少しだけ笑えた。この子のことは……信用していいのだろうか。
「紗夜だよ。水無瀬紗夜」
「さや? みなせ? 名前が二つもあるんか?」
「苗字が水無瀬で名前が紗夜だよ。ここには苗字がないの?」
「氏みたいなもんやろか。持ってるひとはお偉いひとだけやけんど、みなせってのは聞いたことがないな」
日本と比べると、ずいぶんと古風な、文明の遅れた場所に見えるから、そういうこともあるかもしれない。昔は日本でも一般人には苗字がなかったというし、海外では苗字がそもそも存在しない文化の国もあると聞いたことがある。
「紗夜でいいよ」
「そっか。紗夜って変わった名前やね」
「そう? 怒りとか憎しみとか、どんな剣も納められる『鞘』になりなさいって名づけたんだって。あとは『冴やか』って意味もあるらしくってね、明るく優しく誰かを照らせる光になりなさいって」
「へえ。そう言われるとええ名前やな」
口に出して説明したことで、久しぶりに自分の名前の由来を思い出していた。
紗夜―――鞘と冴や。
(瑚月ちゃんも怒らせたままなのに。……あたしは一番身近にいたひとに対してさえ、その鞘にも光にもなることはできなかった。謝ろうと思ったのに)
その思いが風化してしまう前に、再会できるだろうか。京都にいる両親は、どうしているのだろう……。
ここには雑音がなく、生き物の気配だけがする。ぴんと張った大気が、その空間に充満していた。