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第一帖 月冴ゆる宵の鼓動  作者: 水城杏楠
一章  あはれとや言はむ あなうとや言はむ
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 世良(せいら)と話していても無駄な気がして、紗夜はもうずっと黙ったままでいる。

 何の小細工もない静謐の中に、膝を抱えて丸めた身を置いているのは、ひどく居心地が悪いものだった。

 音が、ない。

(……こんなに静かだったんだ)

 日本はいつも、夜ですら何かの音が聞こえている。遅くまで走っている電車や車、隣の部屋から漏れるテレビ、メールの着信音。

 けれど、ここにあるのは自分の息遣いだけ。

 耳の奥でキーンと高い音が鳴っているような気がする。

 苦しい。

 息すら潜めることを強要されているような錯覚に襲われて、ここにあるはずの酸素を上手く吸い込めない。

(なんであたしがこんな思いをしなきゃなんないんだろう?)

 ここは塗籠(ぬりごめ)というらしいが、閉じ込められているのだから紗夜にとっては牢屋と変わらない。連子窓(れんじまど)とかいう小さな窓の外も、相変わらず暗いままだ。

 牢なんて惨めすぎて泣きたくなる。

 けれど、静寂すぎて、声をあげることもできない。

(……泣いたらもっと、哀しくなる)

 なんとなくそれがわかったから、堪えた。堪えられるうちは、まだ大丈夫。言い聞かせる。まだ辛くない。

 けれど、こうしてじっと我慢しているのはやはり理不尽な気がして、思い出したように隣を見てみれば、世良(せいら)は部屋の真ん中で四肢を投げ出して豪快に熟睡していた。寝息も聞こえなかったが、胸が上下に規則正しく動いている。さほど広くもない部屋の半分以上を使って、なんの敷布団もない木の床だというのに、よくそこまで眠れると思う。

 無神経さと図太さが、少し羨ましい。

(でも、風城(ふうじょう)はここの状況なんかわかってるっぽかったしなー)

 だったら不安に思うことなど何もないのだろう。意味不明な説明しかしてくれなかったが、少なくとも知り合いがそばにいるというのは、たとえ役に立たないとしても、紗夜にとってこの上なく心強いものだった。

 一人でなくてよかった。

(疲れたなぁ……いつまでここにいればいいのかな……)

 食事は運ばれてきたから空腹ではなかった。だが、人影は見ておらず、紗夜がうとうとしていたときに小さな物音が聞こえてはっと起きたら、おにぎりが連子窓(れんじまど)の枠に置かれていたのだ。

 荷物も手元からなくなっていた。携帯電話……気になるのはまずそれだ。

 何時間が過ぎたのだろう。暗くて何もわからない。携帯電話なしでそれを知る手段は紗夜にはない。体内時計なんて嘘つきだ。誰にでも平等に刻まれるはずの時間なのに、今は一秒がいつもより長いなんて。

 意味もなく湧き上がる焦燥感が、さらにそれを遅らせる。

 もどかしい。だのに、何を焦っているのかわからない。

 じっと見つめていたわけではなかったが、無意識に視線を向けていた世良(せいら)が、なんの前触れもなくむくっと起き上がった。上半身を起こしながら覚醒したように、紗夜には見えた。

「よかったねー。サヤちゃん助かりそう。誰か来るよ」

 脈絡のない一言だったから、寝言かもしれないと聞き流すことに勝手に決めた。紗夜の耳には足音や話し声など聞こえなかった。

 だが、やがて紗夜にもその足音が近づいてくるのがわかって軽く目を瞠る。

(そんなに耳がいいの……?)

 先ほどまであんなに熟睡していたくせに、と言ってやりたかったが、それより早くその足音は壁を一枚はさんだところで止まった。

 がちゃがちゃと鍵かなにかを開ける音。

 続いて、がたがたと扉が揺れたかと思ったら、ばたんと勢いよく開けられた。

「―――え?」

 紗夜を閉じ込めた農民AやBを想像していたのだが、拍子抜けだ。

 そこにいたのは、小学生か中学生くらいの小さな女の子だったから。とはいえ、紗夜の中から警戒心が抜けたわけではなかった。

「あんたら……ずうっとここにおったん?」

 少女のその質問はひどく滑稽だと紗夜は思うが、こんな小さな子供に腹を立てても仕方がなかった。

(ここにいたって……あんたたちが閉じ込めたんじゃないの。出れるもんなら出たかったよほんとに)

 初対面の少女に、紗夜は主張を飲み込んでかろうじて小さく頷く。

「あ、あのな……っ!」

 何か言いかけたが、相当焦っているようで上手く言葉が出てこないようだ。

 だがそれより早く、世良(せいら)が立ち上がった。

「サヤちゃん……焦げ臭いよこのあたり」

「―――えっ?」

 耳だけではなくて鼻もいいのか……と尋ねる余裕はなかった。耳を澄ませば、何かが燃えるバチバチという音が、紗夜にもすぐに聞こえてきたから。

「そ、そうなんよ! あのなっ、火事やっ! ほかのみんな、もぉ逃げてしもうたん、あんたらの崇りやて。嘘や言うても誰も聞かんの! 早う逃げよっ!」

「えぇっ?」

 走り出した少女の背を見て、紗夜も何がなんだかわからないまま彼女を追いかけた。それしか選択肢はなかった。―――だって、火事?

 開けられた扉から外に出ると、夜だというのに一角だけが奇妙に明るかった。

 それは鮮やかすぎるオレンジ色をしていて……。

(―――ほ、ほんとに燃えてるっ)

 和風要素満載の縁側を飛び降りて背後を見ると、その平屋の奥のほうの屋根が燃えていたのだ。乾いた藁のようなもので出来ているらしく、炎の巡りは恐ろしく早い。

 降り立った庭にも草木が生えていて、こちらに燃え広がるのも時間の問題だろう。

 炎、炎、炎……。

 まるで生き物のように蠢いている。

(―――こんな光景、前にもあった……)

 なぜそのときそんなことを思ったのか、紗夜にはわからない。

 昔のおぼろげな映像と、重なる―――。

 煙にまかれて、炎に追い立てられて……それでも二人で手をつないで逃げた、あの、遠い日、を。

 怖かった……けれど、二人だから乗り越えられた。

(―――二人? あたし、今……なに考えてた?)

(……火事なんて、見たことないはずなのに)

 瑚月(こげつ)と逃げたあの雨の日とは違う。けれど、あのときもたしかに、同じことを思った。もっともっと、昔の出来事。

 だが、そんな回想に浸っている余裕はすでになくなっていた。

 自覚しているが、自分の運動神経はゼロ以下だ。そして、誘拐犯だらけのここでは誰も紗夜に手を貸してくれないだろうことは容易に想像できた。

 後ろをちらりと振り返ったが、そこに世良(せいら)はいなかった。

(うそ……はぐれちゃったのっ? いきなり一人っ? ちょっと困るって! あたしこれからどこに行ったらいいのひとりで……)

 煙で視界が悪くなっていたが、炎がどんどん近づいているのだけが紗夜にもかろうじてわかった。世良(せいら)もあの部屋から逃げる余裕はあったのだから、まさか取り残されているということはないだろう。

 紗夜は自己ベストではないかという勢いでとにかく走った。ヒールの高いパンプスでなくてよかった。下はコンクリートではなくて砂利道だったけれど、なんとか転ばずに済んでいる。

 これが本当の火事場の馬鹿力だ。

 小さな民家の間を走り抜けると、目の前に見えてきたのは高い壁だった。

「ええっ!」

 思わず声が漏れる。

 竹だか藁だかで出来ている塀。これも燃えればあっというまに消えてしまうだろうが、今は紗夜の行く手をただ阻んでいた。

(ここなにっ? 道路はどこっ? っていうか消防車とかないわけ? 誰も火を消してないっ)

 塀を登ろうとしてみたが、一瞬で諦めた。紗夜の運動神経では無理だった。落ちて頭を打つどころか、落ちるほどの高さまで登ることすら不可能そうだ。

「こっちや! 早うっ」

 そのとき、右側から先ほどの少女の声が聞こえてきた。煙で相変わらず姿は見えなかったが、紗夜は迷わずその声を追った。

 街灯も何もなく、皮肉なことに火事の炎だけが唯一の灯り。それが煙の合間を縫って足元を微かに照らしている。……ここには電気すら、ないのだろうか。

 これほど燃えているのに逃げる人の姿が見えないということは、少女の言うとおりすでにみな避難済みということだろう。あんなところに閉じ込められて、この少女がいなかったら確実に逃げ遅れていた事実に気づいて、紗夜は背筋に嫌な汗がにじむのを感じた。

 尋常でない速度で、燃え広がっていく炎。

 隣の民家へも次々と。そんなに乾燥している季節というわけでもなさそうなのに、誰も消化していないせいかすべてを燃えつくす勢いだった。

 時折、火の粉がこちらに舞って来る。熱いと感じられるほどに、近い。袖で口を押さえてはいるが、頭がくらくらしてくる。どことも知れず必死で少女の後を追ったが、運動の苦手な紗夜の体力では、すぐに息が切れてきて足も遅くなった。

(なんでこんなに燃えてんのーっ? 広がるの早すぎでしょ!)

 しかも紗夜の逃げるほうに炎は広がってくる……気がする。被害妄想だろうか。

「あ~……もうだめ……」

 火事場の馬鹿力も長くは続かないのだ。

「休んどる暇ないってっ! 焼けてしまうんよっ」

「そ……そんなこと……言ったって……」

 やたらと元気な子供だ。無尽蔵の体力が少し羨ましい。

 少女は紗夜のほうに戻ってこようとしたところで、全身を強張らせた。その反応に気づいて、大きく肩で息をしながら後ろを振り返ると、いつのまにかすぐそばに炎が迫っていた。

(ちょっと……なんで……こんなに走って逃げたのに……っ)

 熱く、燃えて。

 紗夜のほうに向かっている。服がちりちりと焼ける音がした。

 皮膚に火傷を残していく。痛い……気がするのに、どこかが麻痺していてわからなくなっていた。

 顔や手が煤だらけになっていることも自覚している。

 ひどい格好しているんだろうなと思う。生きるか死ぬかの瀬戸際でそんなことは気にしていられないのだけれど。

(瀬戸際? そうなんだっけ……)

 そんな事態に陥ったことがなかったから、実感がわかなかった。

 いまはその瀬戸際なのだろうか。

 あのときはでも……未来に絶望なんてしなかった、のに。

(……あ、また)

 違う思考が、勝手に流れる。

 炎の、記憶。

 誰の? 自分の?

(―――違うっ。あたしはこんな目にあったことなんて……ない……)

 ただ、息苦しい。

 けれどそれは……煙だけのせいではないのかもしれない。

 意識が少し逸れていく。舗装されていない道に、視線を落とす。足が、たぶん痛いのだろうけど、感覚がなくなっていた。無意識にただ、前に動かしていた。

「ふぅん……あんたなんだ?」

 突然、腕を取られた。

 その力に促されて顔を上げる。男の声、だが瑚月(こげつ)ではない。……そう、瑚月(こげつ)はどこにいってしまったんだろう。なんでそばに、いないのだろう。いつもいてくれたくせに。どうして。

「頼まれたからな。仕方ないが助けてやる。莫迦じゃないならついてこい」

「―――……はぁっ?」

 初対面の人間に言う科白とは思えない。思わず紗夜は声を上げていた。

(だ、だってもう歩けないって見ればわかるじゃん。火傷してるみたいだし、痛いし、熱いし……このまま焼け死んじゃうかもしれないって、とき……に? ってあれ?)

 すくっと立ってみれば、多少の火傷はあるかもしれないが、ほとんど痛みはなかった。熱いと思っていた炎はそれほど近くもなく、民家や畑を燃やし尽くす勢いは相変わらずだったが、ここにいる紗夜にすぐに影響があるようなものでもなさそうだった。

(……ど、う、なってんの?)

 さっきまでたしかに、炎に飲まれそうだったのに。

 驚きをこめて、炎の灯かりに照らされた男の顔を見上げる。―――こいつが、何かをしたという確信を持って。

 瑚月(こげつ)よりも少し身長は低いだろうか。だが、紗夜よりはずいぶん高い位置にあるその顔は、どこか見覚えがあるような気が、した。

(……え? サングラス?)

 見ると服装も、時代劇の着物ではない。それだけで親近感を覚える。だから見覚えがあるような気分になったのだろうか。たったそれだけで、日本を懐かしく感じるほど。

「幻に惑わされるな」

「―――幻?」

 紗夜はただ呆然と彼を見上げた。けれど、定かなことは何一つなかった。


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