部屋の隅の同居者
庭の土まんじゅうをながめていたわたしは、酒を飲む手を休めて部屋の隅に目をやった。
室内は赤みがかった電球が一つ、ジジと音をあげて照らしている。電球一つではせまい部屋といえども隅々まで照らすにはいたらず、隅の角などは薄ぼんやりとした暗闇が存在している。そこに何やらうごめいているような気がしたのだった。
隅の闇へ、じっと目を凝らす。
見続けていると暗闇が広がったように思え、瞬きをして焦点を少しばかりずらしてみた。そうするとさっきよりも闇が薄く見えるのだ。
暗闇の中でうごめいているものが見え始める。それは一本の腕だ。
指からひじの手前まで見える細い腕は子供くらいの大きさで、しかし子供らしいまるみはなく完成された大人の腕であった。ひどく小さな大人の、それもおそらく女の腕。白く細く華奢で、水仕事など一度もしたことのないような手だ。それが壁から突き出ているのではなく、暗闇の中にぽつんと浮いていた。腕と壁との境はぼんやりかすんでいる。
ささくれた畳からこぶし一つ分浮いたあたりで五本の指がひらひらと風に揺れる布でもあるかのようになびいて手招きしているようだった。整った爪が電球の明かりを移してときどき鈍く光を返す。この照り返しが目の端に映ったらしい。
わたしは、もう自分は幻を見るほどしたたかに酔ってしまったのだろうかと考えた。こんなところに小さな腕など、幻でないならなんなのだ。
それほど飲んでいないつもりであったのだが、気づかず飲んでいたのだろうか。止める者がいないとどれほど飲んでいるのかはっきりしない。
腕を見ているうちに、酔いのためかわからないがわたしはこの腕が実在のものか幻であるかなどどうでも良くなった。それで、残り少なくなっていた茶碗の酒を飲み干すと、おおいおまえ腕があるなら酌をしてはくれまいかと言って、一升瓶を持って立ち上がった。隅に近づき、手に向き合って座ると茶碗を手の側に置いた。
手はひらひらさせるのをやめて戸惑っているようだ。愉快であった。
片手に持っていた一升瓶も腕の側に置いてやろうと目を腕から離し、再び隅に目をやった。するとどうしたことか茶碗の中に液体が注がれており、表面が室内の明かりを反射している。一升瓶の中身を見たが、減っているかどうかよくわからなかった。
ともかく一升瓶から手を離し、わたしは酌をしてくれたのかありがたいと礼を口にして茶碗を持った。
注意深く中身を見つめる。赤みがかった明かりの下で判別しにくいそれは、透明に近い色をしている。ひょっとすると本当に透明かもしれない。わたしがつい今し方飲んでいた酒は、焦げた色をしていたはずだ。
鼻を近づけにおいをかぐと、尖った酒精のにおいとは違う、甘い果実のようなにおいがかすかにする。
茶碗の欠けた縁を避けておそるおそる口を付け、ちびりと嘗めた。
淡い甘さと辛さが口の中に散る。そのまま口を離すことなく茶碗をあおった。飲み干してわたしは驚きに目を見開いた。うまいのだ。
わたしの飲んでいた酒は安物で、ただ酒精を体内に取り込んで酔うためのものであった。今飲み干したものは確かに酒精を感じたものの、私の飲んでいた酒と比べものにならないくらいおそろしく口当たりの良い酒だ。淡い味は口の中を濯いで、のどを灼くことなく腹に収まってしまった。未練がましく茶碗の中をのぞくが、あるのはにおいばかりで滴は残っていなかった。
すまないがもう一杯酌を頼むと茶碗を置く。じっと見ていても茶碗に酒は満たされず、わたしの視線を追い払いたいのか腕は四本の指を下に曲げては真っ直ぐに伸ばす動作を繰り返した。
顔を逸らしてまた茶碗を見つめた。もう酒は注がれていた。
今度は味わって飲むのだと、口を付けて一口飲み込む。口の中に入れるとたちまち飲み込んでしまい、しっかりと味わうことができなかった。もう一口、もう一口と続けて茶碗が空になる。
茶碗を置いて目を反らすと酒は注がれた。
茶碗に口を付けてあおる。ああうまい。これほどうまい酒はそうそうないだろう。この隅の手が酌をするだけでこんなにもうまい酒になる。
わたしはふと妻のことを思った。妻は田舎育ちでずんぐり骨太な身体の女だった。取り柄というものはない中で、唯一燗をつけるのがうまかった。
熱すぎずちょうどよいぬる燗をつけ、安物の酒でも一番うまい温度で出してくる。
その妻も今はいない。家を出ていってしまった。酒を飲むとわたしは気が大きくなって妻を叩いてしまうからだ。酔いがさめると痣だらけの妻に泣いて許しを請うた。しかし妻はいなくなり、わたしの酒を止める者がいなくなった。燗をつける者がいなくなったので酒量は減った気がする。
今は酌をする腕のお陰でうまい酒が飲めている。
茶碗を置けば酒が注がれ、わたしは次々に茶碗を傾けた。
そのうち良い心持ちになり、だんだんと気が大きくなってくる。
おまえも飲めと言って一升瓶の中身を茶碗に注いだ。腕の側に置いたが、腕は手のひらをひらひらさせて遊んでいる。
ええいおまえ聞こえているのだろう。わたしはそう言うと茶碗の中身を腕にかけてやった。
びくりと硬直した腕は縮こまるように指を曲げて壁のほうへ逃げた。愉快だった。よく見ると腕はぶるぶると震えていた。
なんだおまえ怖がっているのか。べつにわたしは怖い人間ではないのだ。腕の手首をつかみ引き寄せようとして、手の中でポキリと枯れ枝の折れる感覚があった。手に伝わる感触では枯れ枝が細かに折れている。あっと手を離すと小さな腕は粉々になって畳に落ちた。残ったのは手首から先だけで、それも間もなく消えてしまった。
2010/08/20 初出
2011/12/28 改稿・すぴばる小説部に投稿