大好きなあなたに
いつも思っていた。自分の選んだ答えは本当に正しかったのだろうかって。本当はもっと最適な答えがどこかにあったのではないだろうかって。いつも、いつも後悔ばかりが心を占める。
でも、そんなことを言ったら君はきっと笑うんでしょ?
「どんな答えをだしても、上手くいかないこと、つらいこと、逃げ出したいこと。ぼくたちはそういったものと出会わずにはいられないだろ?ぼくたちは後悔することをやめられないんだ。」
君はきっとそう言って声を立てて笑うんだ。だから。どんな答えを選んでも後悔してしまうと言うのなら、信じようと思うんだ。ぼくが選び出した答えと未来を。
***
雨上がりの空気はどこか澄んでいてすがすがしい。それが満点の星空がのぞく波紋すらたたない湖面のような夜ならなおのこと。
ぼくはとぼとぼと歩いていた。泥だらけの畦道は歩き辛く、気をぬけば足をとられてしまうものだ。必然的に歩調がゆっくりとしたものに変わる。
フクロウじいさんと別れてからぼくはただひたすら歩いていた。行きたい場所などどこにもなく、けれど歩みを止めれば様々な思いと気持ちに足を取られてしまうような気がした。だから足を動かすことだけに意識を向けたんだ。けれどふわりと香った若葉の匂いにぼくのそれがピタリと止まった。下を向いていて歩いていたはずで、どこを歩いているかなどという自覚は全くなかったはずなのに、無意識に足はこの場所に向かっていたらしい。
ぼくが唯一帰る場所。そして一番帰りたくないと思う場所に。
おそるおそる顔を上げるぼく。視線の先にある闇夜に浮かぶ大樹はいっそすがすがしいほど神々しく、偉大に見えるものだった。風が吹くたびに揺れる枝葉の音は決して騒がしいものではない。その存在を誇張しているものではなく風景溶け込むようなものだった。そしてそこにポツリとたたずむ小さな陰一つ。月の光は弱弱しく、その姿をぼんやりと浮かび上がらせることしかできていない。けれどぼくには遠目からでもそれが誰かだなんて分かったんだ。
「ありがとう…」
ネズミ君の小さな呟きが風に運ばれぼくの元へと届けられる。それは真綿のような声音で、いつのまにかぼくは彼に歩み寄っていた。
「どうしてお礼を言うの?」
「ッ!?」
驚かさないようにそっとぼくは声をかけたつもりだった。けれどね?どうやらそれは徒労に終わってしまったみたいだった。
ネズミ君の体がビクッと跳ね上がる
「どうして桜の木にお礼をいっているの?」
大きく見開かれた彼のそれは宝石と同じだ。ネズミ君との出会いを連想させるような光景がぼくの心に多くの感情を呼び起こす。瞳が熱を帯びた。
「とても…感謝しているから。」
かみ締めるように言われた言葉。
「かんしゃ?」
ぼくの声は震えていないだろうか?
「うん。この桜の木はね?ずっと僕を見守っていてくれただろ?ぼくたちを、さ。」
彼の指が幹の上を滑るように動く。その仕草はぼくを撫でるものとよく似ていた。
「それに出会わせてくれたから。」
伸ばされた腕。
「君と…僕を―」
いつだって君はそうやってぼくに触れてくれたよね?まるでガラス細工を扱うように、宝ものに触れるように。
「ネズミ君…」
あぁ、そうか。
「ん?なぁに?ウサギ君。」
こうやって微笑みかけながら名を呼ぶ声も。毛先をすり抜けてゆく指の感触も。そしてぼくを覗き込む細められた黒曜石の瞳も。
いつだって彼の仕草にはぼくだけに向けられた優しさと、思いがあった。君は疑いようがないほどの愛情と好意をぼくに向けていてくれたんだよね。
「君にいいたいことがあるんだ。」
さようならを言おうとする君の気持ちはわからない。わかりたくもないけれど。
ぼくは君の気持ちを信じたい。
「ありがとう。」
君がぼくに向けてくれている思いと、ぼくが君に向けている思いは同じであると。
「同じ気持ちでいてくれてありがとう。」
大好きなんだ、君のことが。
そっと抱きしめた体はとても小さなものだった。彼をつぶしてしまうのではないかと内心ひやひやしながら腕に力をこめる。
「ウサギ君。」
ぼくはネズミ君がよく自分にしてくれるように彼の頭を撫でてみた。癖のないさらさらとした毛が指を通り抜けてゆくたびに、胸がつまるような愛おしさが込みあがってくる。
「僕はネズミだから君とは体の大きさも違えば、目線だって全く違う。僕たちはけっして同じものを見ることはできなかったよね?」
うん、そうだね。だからぼくは君を理解してあげられない。わかってあげられないんだ。そんな不甲斐無い自分でごめんね?ごめんなさい。
重くのしかかる痛みに顔をゆがめるぼく。
ネズミ君は晴れやかに微笑んでいた。
「でも君は僕を誰よりも理解してくれた。」
「え?」
そっと腕から抜け出した彼が大きく腕を広げてぼくを抱きしめる。もちろんそれはぼくを包み込むことができるほどのものではなかったけれど、なにより僕の心をギュッと抱きしめてくれるものだった。
「でもぼくは…君と同じものを見ることができなくて、君と同じ気持ちには―」
「ならなくてもいいんだ。」
寄り添う命は小さなものだった。けれどぼくにとっては何よりも価値のある温もり。
「同じ気持ちになれなくたってかまいはしない。君はいつだって僕に返してくれたじゃないか。」
「ぼくが?いったいなにを?」
「僕の気持ちを受け止めて、君の気持ちを返してくれた。そうだろ?」
彼はぼくの瞳をそっと覗き込んだ。
「相手を理解すると言うことは相手の気持ちを受け止めて、自分の気持ちを返すこと―
君は溢れんほどの信頼を、いつでも真撃な眼差しを僕に返してくれた。くだらないような雑談に微笑み、傷ついたときは同じように瞳を潤ませる。そして幸せをかみ締めるときには僕の腕の中で安堵の表情を浮かべてくれたじゃないか。」
そんな嬉しそうに笑わないで。
心が震えた。
「理解されているということ。受け止められているということ。それはいつでも僕の心を支えてくれた。不確かな未来に怯えそうになる僕を救ってくれたんだよ?」
頬をなでる指から伝わる思いがある。
「君と生きる未来は辛いことがあったとしても、後悔するようなことがあったとしても、乗り越えていけると信じることができるものなんだ。背筋を伸ばして真っ直ぐと自分の道を歩いていけると信じることができるものなんだ。」
ポタリとぼくの瞳からあふれだした雫が彼の体をぬらす。震えてしまう体をネズミ君は腕から離そうとしなかった。それは束縛する行為ではなく、そっと寄り添うということ。
「イヤだよ…」
今そばにある幸福と時間を手放したくないとぼくは切に願った。
「一緒にいたいんだ!!」
君はそうすることを望まない。けれど諦めたくなかった。だって、ぼくにとって君は―
「どうして一緒にいちゃいけないの?どうして君の未来にぼくはいないの?」
頬を音もなく涙が伝う。嗚咽を漏らすこともなくただ静かにぼくは泣いていた。苦しいわけでも悲しいわけでも、ましてや憎いわけでもない。ただ自分ではどうしようもできないという事実が存在しているというだけ。静かな諦観が波打つ心を急速に鎮めてゆく。だからこそぼくは静かに泣いていたんだ。
「ごめんよ、ウサギ君。ごめん。」
呟かれた台詞は何度も聞かされた謝罪の言葉だった。けれど枯れ枝よりも細く震えた声音がぼくの心に波紋を広げる。顔を上げれば苦痛に顔をゆがめるネズミ君の姿があった。
見ているこちら側さえも胸を押さえたくなるような衝動に駆られる。そんな表情だった。
***
「どうして?どうしてなんです!!」
今にも泣きそうな顔をしてあいつはオレに詰め寄った。
「あんなに純粋な思いを向けられているのに!!どうして、どうしてネズミさんは一緒にいてあげないんですか!!これじゃあウサギさんがあんまりです!!」
「…がう。」
「え?」
「違う!!一緒にいたくないんじゃない!!一緒にいれないんだ!!」
声を荒げたオレ。あいつの体がビクッとすくみ上がる。怯えたような眼差しが無言でオレを攻めるが、今はそんなことに気を使ってやれる余裕がない。
心の奥底でチロチロとくすぶっていたほの暗い炎が、勢いを取り戻そうともがいているのが分かった。力の限り握り締めた拳が小刻みに震える。
魂に刻まれた怒りと憎悪。忘れるつもりはもうとうない。オレは絶対に許さない。
残酷なほど穏やかな世界をオレは睨みつけた。けれど、
「ッ!?」
躊躇うようにそっとオレに触れたのは小さな手で、
「だいじょうぶ。」
酷く怯えを含んだあいつの声が体をすっと撫でてゆく。
何が大丈夫なものか…何も知らないくせに。でも―
「大丈夫ですよ?」
あいつはオレの凶悪な眼差しを受けて顔を引きつらせていても、その手を離そうとはしなかった。
触れられた場所から伝わる微かな震えがオレを過去から救い上げる。祈りはいったいどこに届くと言うのだろう。