「さようなら」を言うものと、「さようなら」を言われるもの
知らないことと、知らないふりをすること。どちらが罪深いことかときかれたら、ぼくは間違いなく後者だというだろう。
ぼくは無知なウサギで無邪気だった。だから気がつけなかったんだ。
なんてことは理由にもならないのにね?
「ウサギ君もう朝だよ。ほらほら、起きて。」
ネズミ君はきまってぼくより早く起きていて、いつも体全体を使ってぼくを揺すり起こしてくれたんだ。
ふふふ、でもね?
ぼくなんかよりずっと小さな体にはぼくを揺すり起こすだけの力などなくて、ゆるゆるとした心地よい振動が伝わってくるだけだった。だからぼくは起きるどころかまた眠くなってしまうんだ。
「ふわぁ。おはよう、ネズミ君。」
ごしごしと目を擦るぼく。
「おはよう、ウサギ君。」
そう言って笑う彼。
ぼくはこの一瞬が大好きだった。
ぼくを映してふっとやわらかく細められる瞳や、ゆるやかな弧を描く口元。ネズミ君が見せるそんな一瞬の表情は心を弾ませてくれるものだったんだ。
「ネズミ君、あのね?ぼく、夢を見たんだ。」
「夢を?」
「うん。君と始めて出会った日のことを夢に見たんだよ?君は今も昔もちっとも変わっていないんだから。」
それをきくとネズミ君はぼくから一歩はなれた。与えられる真っ直ぐな視線にドキリと心臓が音を立てる。
ぼくたちの間を風が撫でるようにすり抜けていった。
「ウサギ君は…あれからずいぶんと大きくなったよね?もう立派な大人だ…」
「ネズミ君?」
彼の瞳がどこか遠くを見つめるようなそれに変わる。
「まだ君とは数年しか一緒にいないはずなのに、どうしてこう何年も前からずっと一緒にいるような気がするんだろう?」
それは誰に聞かせるつもりもない呟きだったのかもしれない。けれどぼくは
「だよね。きっとこれからもぼくたちはずっと一緒なんだろうなぁ。」
そう言って彼に笑いかけたんだ。しかし返ってきたのは困ったように笑う彼の表情で、体がギクリとすくみ上がる。
「ウサギ君、それは―」
それ以上言葉を聞いてはいけないと頭の中で警報がなり鳴り響いていた。
「無理だよ。」
「え?」
頭の中が真っ白に塗りつぶされる。
「ぼくはネズミで君はウサギ。ずっと一緒にはいられないんだ。僕たちはいつかさようならを言わなくちゃいけないんだよ…」
さようならを言うの?
ぼくが?
彼に?
口の中がカラカラに乾いていた。心臓をギュッと鷲づかみにされたような苦しさがじわりじわりと足元から這い上がってくる。ぼくの体から汗がにじみ出た。
「そう…だよね?ずっと一緒にはいられないよね?」
そんなこと自分は微塵も思っていなかったけれど。
「ごめん…」
「どうして?どうしてネズミ君が謝る必要があるの?始めからそういう約束だったじゃない。ここはぼくと君の仮の宿。ぼくたちは家族じゃない。そうでしょ?」
「ッ!!」
そうだ。何をぼくは勘違いしていたんだろう。
「君には君の帰る場所が、ずっと探している場所があるんだ。ぼくみたいな厄介者と一緒にいる必要なんてどこにも…」
「ッ!?違う!違うよ。僕はウサギ君と一緒に入れて楽しいし、嬉しい。厄介者だなんてそんなこと…思ったこともないよ!!」
すがる様なネズミ君の眼差しは彼の言葉が真実であることを肯定していた。しかし逆にそれはもう一つの考えを肯定してしまうものだということに彼は気づいていないのだろうか?
「でも―」
苦しくて息が上手く吸えない。
否定して欲しかった。
「君の未来にぼくはいないんでしょ?」
「ッ!!」
搾り出すように告げた言葉に彼はハッとする。ぼくに向かって伸ばされた手はパタリと落ち、糸が切れた人形のように彼はうなだれた。力なく伏せられた瞳にぼくの姿は映らない。
「ごめん…」
ポツリと呟かれた謝罪の言葉。
「あやまらないでよッ!!」
ぼくは思わず怒鳴っていた。
「そんな同情されるように謝られたって嬉しくもなんともない!!」
「ち、ちがっ!?同情なんて―」
「していないって?だったらなんで謝るんだよ!!ぼくが…惨めになるだけじゃないか!!」
「ウサギ君、ぼくは―」
「ききたくない。君の声も言葉も!!」
ぼくはこれ以上彼のそばにいることが苦しくてその場を逃げ出した。後ろからぼくを呼ぶネズミ君の声が聞こえる。けれどその声をきくだけでも気持ちが悪くなる。
ぼくとネズミ君はずっと一緒にいた。だからこそお互いが同じ思いを持っているんだと。同じものを見つめているんだと。そう信じていた。
ぼくは走って、走った。息苦しさにあえぎ、息が上手く吸えなくなっても走り続けた。何度も木の根に足を引っ掛け転び、体が泥だらけになってもぼくは走り続けた。そして足がもつれて体を地面にぶつけるように転ぶと、ぼくはとうとう走ることも歩くこともできなくなった。苦しくて、悲しくて、悔しくて。
その思いだけが体を駆け巡る。
バカな話だよね?
ぼくたちは同じものなんて見ていなかった。全く違ったものを見つめていて、それにぼくだけが気がついていなかったんだ。
ぽつり、ぽつりと落ち始めた冷たい雫がぼくの体に当たってはじける。見上げれば鉛色の雲が青い空と輝く太陽を覆い隠していた。
約束なんて何もなかった。けれどぼくは信じていたんだ。ずっと一緒だと。これから先も一緒にいられるのだと。それなのに与えられた真実は残酷で、ぼくは彼に裏切られたような気持ちを拭い去ることができなかった。
「ふっ…えっ…」
泣くようなことはしたくない。そんな卑怯者になるものか。
ぼくは縮こまるように体を丸めるとぐっと歯をくいしばった。ぽつり、ぽつりだった雨脚がさぁさぁというものに変わり、ざぁざぁといったものに変わってゆく。体に打ち付けられる雨粒が微かな痛みと、震えるような寒さを伴って容赦なく襲いかかった。
けれどぼくは冷えていく体をよそに、この雨が全てを洗い流してくれるのならばそれもいいかもしれないと思っていた。すると―
「雨は恵みを与えるもの。何も流してはくれんよ。悲しみも、苦しみも。そして己の醜さも。」
雨脚に負けないしわがれた声がかけられる。ぼくはゆっくりと体を起こすときょろきょろと辺りを見回した。
「ほぉ、ほぉ、こりゃまた珍しいこともあるもんじゃて。」
声がしたほうに視線を投じると斜向かいにあるクチナシの枝がカサカサと揺れていた。ぼくは雨と泥でぐちゃぐちゃになった体を引きずるようにその木の下に歩み寄る。
「お嬢さんがお一人でこのようなところにおるとはのぉ。」
「…フクロウじいさん。」
ぼくを見つめる黄金色の眼差しは優しげで、微笑む彼の目じりには幾重もの皴が刻まれていた。ぼくはクチナシの幹に背中を預けると崩れ落ちるように座り込んだ。
「ほぉ、ほぉ。こんなにずぶ濡れになって。ネズミのやつはどうしたんじゃ?」
その言葉に体がピクリと動く。途端に襲われる吐き気と頭痛。ぐるぐるとした思いはぼくの体を震わせるものだった。
「ぼくはウサギだ。いつも彼と一緒にいるわけじゃありません。」
微かな苛立ちを彼にぶつけるかのようにぼくはそう言った。ひどくトゲトゲしいものいいになってしまった自覚はあったが、今はその失礼を詫びる気にもなれなかった。
けれどフクロウじいさんはそんなぼくの態度に気分を害したふうでもなく、大きな羽を広げるとゆるりとした弧を描きながらぼくの隣に舞い降りた。その仕草は年長者としての貫禄と、威厳を現しているようだ。
「それは失礼なこと言ってしまった。確かにお嬢さんにはお嬢さんの。あやつにはあやつの時間がある。」
ズキズキと痛む心。
「やっぱり。」
「?」
「ぼくたちには埋められない溝があるとお考えですか?」
彼は軽く目を見張ると大仰に笑った。
「ほぉ、ほぉ。それはまたひどい勘違いじゃのぉ。わしが言いたかったのはそのような意味ではない。」
ピタリとかち合った互いの視線。彼の瞳はネズミ君のそれとよく似ているものだった。
「全ての生き物にはお互いに埋められない溝があるとわしは言いたかったんじゃ。」
紡がれた声音は単調であるが故に静寂を体現しているかのようだ。
「自分の気持ちは自分しか理解することができん。どんなに望んでもお互いが別の固体である以上、相手の気持ちや考えを一字一句間違えず読み取ることなどできはしないじゃろ?」
彼は子どものような笑顔を浮かべてぼくに問いかけた。
「そこに気持ちのずれが生じてしまうのは必然じゃ。微かなずれは溝として互いを隔て、それはどこまでいっても途切れることはない。それが生きていると言うこと、相手とともに生きると言うことじゃよ。」
低くしわがれた声は雨音の間をするりとぬけて響き渡るものであり、ゆっくりと波紋が広がるようにとどろくものだった。
ぼくはただ俯いていてざぁざぁという雨音をきいていた。
そんなことは分かっている。分かっているけれど、込みあがってくる悲しみと苦しみ、そして微かにネズミ君を恨む気持ちを止めることができない。
そっと手を伸ばせばそこに容赦なく雨粒があたりパチンッとはじけてちる。そんな光景を見ているうちにぼくの中にふとした疑問が頭をよぎった。別段たいしたものではなかったけれど、
「ねぇ、フクロウじいさん。」
ぼくは誰かに聞いてみたくなった。
「なんじゃ?」
答える声は穏やかで、ぼくの口からするりと言葉が出る。
「どうして雨は降るのでしょう?」
彼は鉛色の空を見上げた。
「そうさのぉ。」
間延びした声は心もとないものだった。
「地球が生きているから、かのぉ。」
けれど揺るぐことのないものでもあった。
「雨が降るという現象を説明することは簡単じゃ。水が温められ水蒸気に変わり、それが雲へと変化し、冷やされて雨粒となる。けれどそこに意味をこめるとしたら?」
「意味?」
「地球を意思の持つ一つの生命だと考えるのじゃよ。つまり、『なぜ雨が降るのか』ではなく『なぜ地球は雨を降らせるのか』ということ。地球はどうして世界に雨をふらせようとするのかのぉ。」
フクロウじいさんはそう言って目を細める。
ふと視線を下げると、そこにはまだ生まれたばかりの小さな命があった。風が吹けば折れてしまいそうな茎に支えられている2つの葉が大粒の雨を浴びて頼りなげにゆれていた。
「いいことがあるからじゃないかな?」
「いいこと、とな?」
「うん。だって自分にとっていいことがなくちゃ、何かをしたいって気持ちにはなかなかならないですよね?」
「ほぉ、ほぉ。なるほどのぉ。いいことか。」
雨に打たれている双葉をぼくは指でつついてみる。小さな命は屈することを知らないように、ただ真っ直ぐと天に向かって腕を広げているようだった。
「あぁ。そうか。」
ふと頭をよぎった考え。
「一緒に生きたいんだ。」
雲の切れ間から微かに青空が見えた。
「雨は恵みを与えるものですよね?命を育むもの。」
そっと空に向かって手を伸ばすぼく。
「だったらきっと地球さんはみんなと一緒に生きていきたいんだ。この世界に住むたくさんの命たちと一緒に未来を生きたいんだ。」
ざぁざぁと降っていた雨はいつのまにかその勢いを弱めていた。今は絹糸のようなそれが細い線を描きながら地上とぼくの手のひらに降り注いでいる。
「もしそれが本当のことなら―」
小さな声。
「地球はかわいそうなやつじゃ・・・」
「え?」
咄嗟に横を向いたぼくを寂しそうな彼の笑みが迎えた。ズクリとした鈍い痛みが走る。
「地球はどんな命よりも長い時の中を生きてきた。そしてそれはこれからも変わらんじゃろ?」
閉ざされた黄金色の瞳。
「地球は今までにいったいどれだけたくさんの命に“さようなら”を言ってきたのじゃろうか。そしてこれから共に生きていたいと願った命たちにどれだけ“さようなら”を言わなければならないのか。」
その言葉はぼくの心にポトリと落ちて、小さな波紋を広げる。先ほどまで感じていた憤りや悲しみがすっと色を失い、それと同時に得も言えぬ寂しさがぼくを捕らえた。
「わしには分からん。」
彼はゆるゆると首を横に振る。
「さようならを言うのと言われるのとではどちらが辛いことなのか。わしにはそれがわからんのじゃよ。」
ぼくにもどちらが辛いかなどということは分からない。けれど―
「さようならと言われるのは辛い…です。」
そう言ったぼく。フクロウじいさんは困ったように笑っていた。