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「ただいま」と「おかえりなさい」

木々がさわさわと枝を揺らし、森に住む命のために子守唄を歌っている。そして月の淡い光が森全体をすっぽりと包み込み、すべての悪意から守ろうとしている。そんな夜は何の変哲のない森が全く違ったものに見えるのだから不思議だ。

 ぼくは昼間動物たちと話していたネズミ君の違和感が気になってなかなか寝付けずにいた。あんなふうに笑う彼をぼくは知らない。そして、その笑い方が不快でしかたなかったんだ。それはチリチリと胸を焦がすような衝動をぼくに与えるものだったから。あまりにも漠然としていて形をなさない思いをぼくは嫌悪した。

「ねぇ、ネズミ君。」

「ん?」

 そっと寄り添うように与えられる温もりはどうしてこんなにもあたたかいのだろう?ぼくと彼とが触れている場所からじんわりとした温もりが伝わるたびに胸が一杯になった。

「どうしてニンゲンになりたいの?」

 昼間感じた思いの正体を突き止めたくて、彼にそんなことを聞いてみる。

「あぁ、そういえば君はニンゲンの女の子に助けてもらったんだよね?」

 返ってきた声はやわらかいものだった。そっとぼくの毛先をすり抜けていくネズミ君の指の感触が心地いい。彼はよくこうやってぼくを撫でてくれたんだ。お母さんに撫でられるのとも違う小さな、ほんとうに小さな温もりに涙がでそうになる。

へんなの。

悲しくなんてないのにね?

「うん。ちぃちゃんのことでしょ?彼女ね?ぼくに泣きながら何度も、何度も謝ってくれたんだ。謝る必要なんてどこにもなかったのにね?」

 ぼくはそっと抱きしめてくれた優しい匂いを思い出した。家族とはぐれて絶望の縁に立たされていた自分を掬い上げてくれた幼い手を持つ女の子。それがちぃちゃんだ。

 ぼくは彼女のことが好きだった。いつも明るくて、優しくて、壊れ物を扱うようにぼくに触れてくれたちぃちゃん。子ども特有のやわらかな髪をピンクのリボンで止めていて、お日様の匂いがする彼女のことがぼくは大好きだったんだ。    

彼女のそばで過ぎていく毎日は一人ぼっちのときだったころとは何もかもが違っていて、ぼくの日常に鮮やかな色がついたみたいだった。どの瞬間も楽しくて、温かで、幸せで。こんな毎日が続いたらいいと願っていた。

でもね?ぼくはちゃんとわかっていたんだ。別れはいつも唐突で、自分の意思とは関係なくやってくるものだって。

まだ寒さの残る早春、彼女は小さな体を丸めて、目がとろけてしまうのではないかと思うほど、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。

「ごめんね?ごめんね?新しいお家にうさちゃんを一緒に連れて行ってあげられないの。だからお父さんと、お母さんがさようならをしてきなさいって。ごめんねうさちゃん、ごめんなさい。」

 彼女はずっとぼくの頭を撫でてくれた。漏れ出すそれをぬぐう事もせず何度も、何度も。  

でもぼくは彼女に謝ってもらいたいとは思わなかった。ちぃちゃんとさようならをすることはとても悲しいことだったけれど、ぼくは“ありがとう”と言いたかったんだ。

助けてくれてありがとう。

たくさんの思い出をくれてありがとう。

そして、優しい温もり与えてくれてありがとう。って。

そう伝えたかった。笑っていて欲しかった。

「ふふふ、やさしい女の子なんだね。」

 ネズミ君はぼくの話をきいてそっと空気を震わせるように笑った。そうするたびに触れている場所から伝わる微かな振動が、ぼくの体をもゆるゆると揺らす。小さなゆれにぼくの体から力がぬけた。

「僕も―」

「え?」

「あってみたいなぁ。」

あぁ…

「お日様の匂いのする優しい彼女に。」

あわせてあげたいよ。涙が出るような温もりを持つ君を彼女に。

「ニンゲンにもいろいろあるのだろうけれど。やっぱりぼくはニンゲンになりたいなぁ。」

 ネズミ君の声はぼく専用の子守唄だ。すっと体の中に染み渡り、ほわりとした安堵を与えてくれるもの。

「どうして、ニンゲンになりたいの?」

 撫でられる感触と、とくりとくりと響き渡る鼓動が心地よくて、ぼくは目を開けていることが億劫(おっくう)になった。眠りが思考をとろとろと溶かしていく。

「彼らは力を持っているから―」

 ネズミ君の声がぼくを眠りに(いざな)う。ききたいことは山ほどあるはずなのに、霞がかかったような意識に阻まれて考えがまとまらない。

「ちから?きょうりょくな?」

呂律の回らない言葉が口から飛び出した。

ぼくの体がまた小さくゆれる。

「ふふふ、僕が言いたいのはそういう意味じゃないよ。」

 それは眠りに落ちる間際に聞いた言葉。

「じゃあ、どんな?」

 ふっと空気が動いた。

「それは―」

 ぼくは彼の答えを待たずして意識を手放した。


        ***


 パチリと目を覚ますと同時に目の前を掠めた淡い桃色。思わずぼくはそれを追うように指を伸ばしたんだ。けれどそれは腕をすり抜けて空へと吸い込まれていってしまった。つかもうと伸ばした手がむなしく空を切ったまま取り残される。

「ありがとう。」

「ッ!?」

 突然耳に聞こえてきた覚えのある声に驚いて振り向くと、そこには一匹のウサギがいた。薄汚れた毛がみすぼらしく、痩せた体が貧相な幼いウサギは琥珀色の瞳を持っていた。

 風が吹くたびに桜の花びらが舞い上がり、それと同時にウサギの小さな体がふらふらと頼りなげに揺れる。


 これは…夢なのだろうか?


「ありがとう。」

 桜の木を見つめる幼いぼくの瞳は穏やかで、嬉しそうだった。いいや、実際このときぼくは嬉しかったんだ。

 なぜならぼくには頭上から絶えることなくハラハラと降り注ぐ花弁が涙に見えたんだもの。 

この世で一番美しく、優しい涙。そして悲しみではなく喜びを与えてくれる涙。

だから、そんなことはないと分かっていても、この桜の木がぼくのために泣いてくれているような気がして嬉しかった。

幼いぼくは小さな手でそっと桜の幹に触れている。この時弱っていた体はそうすることも億劫で、触れた場所からじんわりとした温もりが伝わるたびに、自分の体が氷のように冷たいんだなってぼんやりと思っていた。でも、

「どうしてお礼を言うんだい?」

「ッ!?」

 ふいに声をかけられて幼いぼくの体がビクッと跳ね上がる。おそるおそる振り返るぼく。

「どうして桜の木にお礼を言うんだい?」

 もう一度かけられた声は優しくて、少し幼さが残るネズミ君のものだった。ぼくをじっと見つめる黒曜石のような瞳は昔も今も変わらない。ずっと見ていたいと思わせるような、何でも見透かされてしまうような心持にさせるもの。

「えっと、やさしいから!!」

 幼いぼくは慌ててそう答えていた。前後の繋がりがない文章ほど分かりにくく、相手に伝わらないなんてことは、この時のぼくには考えられなかったんだ。だって、早くネズミ君に返事をしなければならないと焦っていたからね?

「優しい?この木が?」

 案の定ネズミ君が怪訝そうな瞳を幼いぼくに向けた。

その瞳に見つめられるとね?何も(やま)しいことなんてしていないはずなのにドキドキするんだ。

幼いぼくは妙に緊張していてしどろもどろになりながらも言葉を綴っていた。

「あ、あのね?これはぼくの勘違いかも知れないけれど、この桜の木がね?ぼくのために泣いてくれているような気がしたんだ。だからぼく、嬉しくて。」

 俯くぼくのそばに彼がゆっくりと近づゆく。さくさくと草を踏みしめる音が聞こえた。

「何か…」

「?」

「悲しいことでもあったの?」

「かなしい、こと?」

 ネズミ君はそう言ってぼくの頭をすぃっと一撫でした。幼いぼくは不思議そうな瞳を彼にむけていた。


親とはぐれて見捨てられること。

食べるものも帰る場所もないということ。

一人で生きていかなければならないこと。


 それらは悲しいことなのだろうか?そう自身に問いかけても、それが悲しいことだとは思えなかった。もちろん、今でもその考えは変わらない。だって、ぼくたちの世界では全てが当たり前のことだから。

 動物の世界では弱いものは死に、強いものが生き残る。これは変えることができない普遍の真理だ。だからこそぼくは悲しいことだなんて思わなかった。ぼくだけがこんな目にあっていたのではない。

「悲しいことじゃないと思う。だってそんなもんでしょ?これが当たり前のことで、ぼくたちの日常なんでしょ?悲しいことなんてどこにも…」

「ないと思う?」

 いたずらっぽく瞳を輝かせる彼。

「ふふふ、悲しいことではないという君の言葉は本当のことなんだと思う。桜の木を見つめる君は小さく笑んでさえいたんだから。」

 ネズミ君はそう言ってくすくすと笑った。彼がもたらす空気は全てがふわふわして、あたたかい。

「でもね?」

 ふいに伸ばされる腕。

「だったら君は何で泣いているの?」

「え?」

 ぼくの頬に添えられた指が涙をぬぐうように動く。幼いぼくは慌ててごしごしと目をこするのだけれども、そこに涙の後を見つけることはできなかった。

「涙はでていないよ?でもぼくには君が泣いているように見えたんだ。」

「泣いている?ぼくが?」

 どうしてそう見えたのだろう?未だにぼくにはその理由が分からない。

 ネズミ君は幼いぼくの腕をつかんだ。

「へ?」

 グイッと勢いよくそれを引っ張られて、ぼくの体がふらふらと彼に引き寄せられる。もちろん体力の残っていなかった体はその力に抗うことができず大きく傾いてしまう。けれど、倒れそうになる自分をネズミ君はそっと受け止めてくれたんだ。触れ合った肌からはいい匂いがしていて、ほっと力がぬけた。

「ふふふ、今日は春のくせにやけに冷えるよね?外に出ていたらそれこそ凍えてしまうよ。」

 彼はそう言って笑うと幼いぼくの体を桜の木の下にある空洞に押し込んだ。倒れこんだぼくを敷き詰められていた枯葉がパフンと受け止める。するとそこに降り積もっていた桜の花びらがふわりと待った。

「この桜の木はね?ぼくの家なのさ。」

「えっ!?そうなの?もしかしてぼく、“ふほーしんにゅう”しちゃったのかな?ごめんなさい!」

 ぼくは慌てて起き上がると、彼に向かってペコリと頭を下げた。それを見てキョトンとしたネズミ君。けれどその表情は悪戯を思いついた子どものようなものにすぐに変わった。

「ふふふ、それを言うなら僕が君を誘拐してきたっていったほうが正しいんじゃない?」

「えっ!?そうなの!!いや、うん。でも、それはないよ。」

 一人で納得している幼いぼく。

「おや?それはまたどうして?こうやって親切にするふりをして君をだましている悪いヤツかもしれないだろ?」

「だからそれはないって!!だって君はとっても綺麗な目をしているじゃないか!!」

「は?」

 目を見開くネズミ君。

「えっと、君の目はとっても綺麗で、やわらかくて、吸い込まれそうになるもので。だからぼくはドキドキするんだけど、でも、ほっとするほど安心できるものっていうか。だからきっと大丈夫!!」

 幼いぼくは満面の笑みを浮かべていた。それを端で聞いたぼくの頬が熱を帯びる。

 自分は何て恥ずかしいことを言っているのだろう。これじゃあ下手な口説き文句と同じじゃないか!!いくら幼かったからといってこれは酷い。

「ふっ、あはは。君って本当に面白いウサギだね?うん、でもそう言ってもらえて嬉しいよ。ありがとう、ウサギさん」

 彼はそう言ってお腹を抱えて笑い出した。それは侮蔑(ぶべつ)や軽蔑、からかいなどとは程遠いもので、ぼくの心を軽くしてくれたんだ。

「ぼくも、お家に上げてくれてありがとう、ネズミさん。」

 はにかんだ笑みを見せるぼくに彼がふっと目じりを和らげて微笑む。

「それにしても“ウサギさん”っていうのは響きがよくないね?」

「そう?でもそんなこと言ったら“ネズミさん”だっておかしいよ。」

「ふむふむ。そういわれれば確かに違和感がある気もしなくもないね。ぼくが思うに、この呼び方はよそよそしいから変に聞こえるんじゃないかな?」

「そうだよ!!もっと砕けた感じで呼んでみない?」

 幼いぼくはそういうと大きく息を吸い込んだ。


「ネズミ君!!」

「ウサギ君!!」


 新しい呼び方。それがまるでタイミングを計ったかのようにピタリと合わさったことがおかしくて、ぼくたちはお互いにお腹を抱えて笑いあった。

 久しぶりだった。あんなに笑ったのは。毎日生きるか死ぬかの間をさ迷っていたぼくには笑いなんて必要なかったんだ。それに必要なことだとも思わなかった。

 でもね?確かにこの時ぼくの心は震えていた。すぐ隣にぼくに向けられた笑顔があるという、ただそれだけのことに感動していたんだ。

「あはは、たくさん笑ったからお腹がすいてしまったね?ウサギ君は何が食べたい?」

「えっ!!ぼくぅ!?」

「???そうだよ?どうかした?」

「えっと、ぼくは―」

 あまりにも当たり前のように言われた台詞は、自分が想像していたものなどとは全く違っていて、嬉しい驚きを与えてくれるものだった。だからぼくは余計に悲しくなったんだ。

「ありがとう、ネズミ君。でもそこまでしてもらうのは悪いし、もう少し寒さがやわらいだらぼくは帰るよ。」

 いくら冬ではないからと言って、一つの命をつなぐだけの食料を見つける難しさと苦労をぼくは嫌というほど分かっていた。自分に温もりを与えてくれた彼に迷惑をかけたくなかったんだ。

 なによりこれ以上彼のそばにいれば“さようなら”を言うことが辛くなってしまう。優しくされればされるほど、別れに対する恐怖と、悲しみがついて回る。

ぼくはそう思っていた。

「帰る?って、どこに?」

 ネズミ君はあの全てを見透かしてしまうような瞳でぼくを見つめた。それに耐えられなくなったかのように幼いぼくは俯いてしまう。

 帰るところなどどこにもなかった。ぼくを待っていてくれる温もりなんてどこにも。

「ねぇ、ウサギ君。」

 うなだれるぼくを見つめるネズミ君の瞳はしっとりとぬれているようで美しい。

「ぼくはずっと探しているものがあるんだ。」

「さがしているもの?」

「うん。ずっと探している風景があるんだ。」

 おずおずと顔をあげる幼いぼく。

「それがどこにあるのか分からなくてね?もしかしたらこの森の中にあるのかもしれないし、もっと遠くの見たこともないような世界にあるのかもしれない。」

 ネズミ君の瞳がすっと細められた。

「本当に見つけられるかもどうかも分からない。でも、諦めることもできないんだ。僕はその風景がある場所に帰りたい。そしてそれはウサギ君にもあるはずだよ?」

「ぼくにも?」

「君にも君だけの風景がある。君だけにしか見つけられない風景がある。」

「ぼくだけの風景…」

 幼いぼくは不思議そうに首を傾げていた。   

ぼくだけの風景とはなんなのか。それは目をみはるほどの美しい情景が広がる風景だろうか?それとも、ほっと息を抜くことができるような光景が広がる風景?いろいろ考えてみたのだけれど結局ぼくには分からなかった。

「だからね?君も探してみないかい?君だけの風景を。」

「ぼくも?」

 伸ばされた腕が幼いぼくの頭上に乗せられる。

「そうだよ?だから君もその風景が見つかるまでここにいればいい。ここを仮の宿とすればいいんだ。」

 そうだね、君はぼくにそう言ってくれた。自分が君のそばに、この場所にいる理由を与えてくれたんだよね?

「ぼくは…さようならを言わなくてもいいの?」

 彼を見つめる自身の瞳は期待と不安に揺れていた。

「どうしてさようならを言う必要があるんだい?君は“ただいま”って言えばいいんだ。」

 ぼくと幼いぼくの口から同時に言葉がついてでる。

「…ただいま。」

「おかえりなさい、ウサギ君。」

 ぼくの瞳から涙がポロリと零れ落ちた。

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