動物たちの日常
そっと頬をなでる風。
まるで天国から降り注いでいるかのような木漏れ日。
さわさわと枝を揺らす木々の声。
ぼくたちの周りに溢れているのはきまってそんな日常だった。まるでゆらゆらとゆりかごに揺られているような時間がそこには流れていて、それがもう何十年、何百年と続いていたんだ。
「ねぇ、最近変な音が聞こえるっていうんだけど、本当なの?」
「変な音?」
まろやかな木漏れ日が降り注ぐような場所はぼくたちの格好の溜まり場だった。誰かがここに集まろうなどと声をかけずとも、いつの間にかみんなが集まってしまうのだから、不思議と言えば不思議なことだよね?
「なんでも昼夜関係なく甲高い音や、地響きみたいな音が聞こえてくることがあるんだって。」
ぼくたちの間でとり行われる会話はいつもたわいないものだった。桑の木の下にある鈴蘭が一番きれいだとか、小川の向こう側にある木苺は絶品だといった具合にね?
「ふぅーん。ぼく、初めて聞いたや。」
「えっ!?結構有名な噂なんだけどなぁ。みんなは知らない?」
と瞳を輝かせながら話しかけたのはたぬき君。
彼は好奇心旺盛で、いつもクルクル変わる表情が印象的だった。
ふふふ、でもね?
そのくせ森一番の臆病者だったりするんだ。
「知らないかだって!!僕はそのせいで昨日眠れなかったんだ!!まったく僕みたいに美しく歌えないのかな?」
そう嘴を尖らせてピーチク文句を言うのは小鳥くん。
彼の歌声は森中の動物たちが認めるほどきれいなものだった。
「まあまあ、そんなに興奮すると体に障るぜ、小鳥の旦那。あんたさんはただでさえ些細なことに目くじら立てているお方なんだから。そのうちストレスで頭のてっぺんが禿げるんじゃねぇーの?」
おやおや、キツネ君には困ったものだ。彼はそうやって相手を怒らせたり、からかったりして楽しんでいる、ちょっと意地悪な動物さん。
「ちぇ、あんたの言うことは聞かないようにしているんだ。相手にしていたらそれこそ禿げてしまうよ。」
「おやまあ、俺も嫌われたもんだな。あぁ、胸がいてぇーや。」
そう言ってニヤニヤと笑いながらキツネ君は大仰に肩をすくめて見せた。その姿を小鳥くんがキッと睨みつけるものだから、たぬき君はおろおろと二匹の顔を見比べ、ぼくは小鳥くんをなだめることに必死になる。
これが森の日常。
ぼくたちの日常だった。
「そ、そうだ!!最近ネズミ君の姿をあまりみかけないけど、どうかしたの?ウサギ君何か知らない?」
たぬき君はこれ以上空気が険悪なものにならないように慌てて話題をそらした。あまりにも急な問いかけに驚いたのはぼく。ビクッと体を跳ね上がらせて
「えっ!?ネズミ君!?」
といった具合に妙に上ずった声をだしてしまったんだ。
「そういえばそうだね、僕も彼を見かけないな?ネズミ君は元気にやっているかい?」
「あっ、病気とかじゃないから心配はいらないよ?。ただね?」
「ただ?」
ぼくはうつむいた。
「最近朝から晩までフクロウじいさんのところに行っているんだ…」
沈んだ声は胸にべったりと張り付いた寂しさという名の思いのために出てしまうものだ。けれど、ぼくはそうだからと言って駄々をこねるわけにはいかなかった。もう子どもではないのだから――
するとそんなぼくを見ていたたぬき君が、ふっと思い立ったように質のよろしくない笑みを浮かべた。この顔は要注意の証。ぼくの背中に嫌な汗がじわりと浮かぶ。
「ははぁ~ん、だからウサギ君は寂しいと思っているわけだ。」
「なっ!!」
「あぁ、なるほど。だからそんなに耳が垂れてしまっているわけだね?」
「ちょっ!!」
「ネズミの旦那もすみにおけねぇーな。同居人にそんな顔をさせるなんて。」
含みを持った三匹の瞳がいっせいにぼくに注がれた。その生ぬるいような視線を浴びると尻尾のあたりがむずむずするような心持で一杯になる。
顔が赤く染まっていなければいいのだけれど。
「へぇー、ウサギ君ってまだ彼と一緒に住んでいるんだ。ほんと、仲良しさんだね。」
「だろ?どこかに行くにもいつも一緒なんだぜ?」
「うわぁお、それはすごい。」
あぁ。今度こそぼくの顔は真っ赤に染まっているに違いない。
「あっ、うん。まだ、ネズミ君のところに厄介になっているんだよ。」
ぼくはもごもごと口を動かしながらそういった。はにかんだような笑みが浮かぶ。
「それにしても初めて彼が君を連れてきたときはビックリしたよ。あのネズミ君がウサギの子どもを誘拐してきたのかと思ったんだから。」
バツが悪そうに笑うたぬき君。
「急な話だったもんね?でもぼくは、ネズミ君に出会えて本当に良かった。」
そっと囁いた声は風に運ばれて空へと吸い込まれていく。動物たちは互いに顔を見合わせると、ふっと目じりを和らげて微笑んでいた。
ぼくとネズミ君が始めて出会ったのは桜の花びらが散る春のこと。両親や兄弟とはぐれ、そして彼らに見捨てられてしまったころのことだった。
食べるものもなく、帰る場所もない。ただ自身の体が弱っていくのをゆっくりと、けれど確実に実感していかなければならない日々を過ごしていたぼくを助けてくれたのが、他でもないネズミ君だったんだ。そしてその出来事が種族の違うぼくたちを結びつけたきっかけとなった。
「僕は違う意味でビックリしたなぁ。だってウサギ君、自分のことを“ぼく”なんて呼んでいるんだもの。」
「そ、それはぼくの家族が兄弟ばかりで――」
「その癖が移った、だろ?」
キツネ君の言葉に小さく頷いた。
「ぼくもね?何度も直そうと思ったんだよ?でもなかなか直らなくて…だって“わたし”ってなんだかしっくりこないんだもの。それにネズミ君も無理に直そうとしなくていいって言ってくれたし…」
俯きかげんでぼそぼそと話すと、頭上からキツネ君の盛大なため息が聞こえてきた。
あまり呆れないでほしいなぁ。
「はぁ。だからって、じょーちゃんなのに“ぼく”はねぇーだろ?初めて聞いたときはわが耳を疑っちまったもんさ。なぁ?」
「そうそう、それに呼び方も“くん”付けだし?」
「どうしてぇー!!って感じだったよね?だいたい響きが言いなんていわれても僕たちにはさっぱりだよ。」
とみんなはそれぞれ思い思いの感想を述べている。
「まあネズミの旦那らしいっていえばらしいけど。しっかし、俺には旦那みたいな芸術肌のヤツの考えているこたぁわかんねぇーな。」
とキツネ君はポリポリと頭をかきながら呟いた。すると、
「ネズミ君は彼特有の雰囲気を持っているじゃない?彼自身の世界観みたいな、ね?」
と言ってたぬき君がやわらかく微笑んだんだ。それにつられて小鳥くんからもクスリとした笑みがこぼれた。
「そうだった。だから僕は彼が苦手だったっけ。もちろん今じゃ平気だけど、これもウサギ君のおかげだね?」
「ぼく?」
「そうそう。ウサギ君と一緒に住み始めてからだもんね?彼の空気が丸くなったの。なんかこうほわぁって感じ?」
「ククク、これもウサギ効果ってやつかねぇ。なんていたってネズミの旦那にとっておじょーちゃんは特別みたいだし?」
ふいにぼくの視線が含みを持ったキツネ君のそれとバチリとぶつかった。とっさに下を向いたのだけれど、そんなことで恥ずかしさは消えてくれやしない。穴があったら入りたいとはまさにこのことを言うのだろう。けれどその時、
「あまり彼女をからかわないであげてくれないかい?」
ふいに聞こえてきたやわらかなテノールの声。突然の来訪者に三匹の視線がいっせいに彼に向けられた。もちろん、ぼくにはその声だけで誰かなんてすぐに分かったけれどね?
「こりゃまた久しぶりだな、ネズミの旦那。丁度あんたさんの話をしていたところさ。」
キツネ君がヒョイと片手を挙げて挨拶をすると、ネズミ君も同じように挨拶を返した。
「やぁ久しぶり。それにしても、君も相変わらずだなぁ。あんまり彼女をからかって遊ばないであげてくれよ。」
「おやおや、心外だ。俺にはそんな気はこれっぽちもねぇーよ。なにしろ旦那が特別に思っているお方ですからねぇ?」
キツネ君は妙に芝居がかった仕草で両手を広げると、目を細めてニヤニヤと笑った。
もう!!やめてよ、キツネ君!!
「ふふふ、まぁね。僕が彼女を大切にしていることは否定しないよ?」
「へッ!?」
ネズミ君がさらりとそんなことを言ってのけてしまったのだからさあ大変。ぼくは顔を真っ赤に染めて、キツネ君はキョトンとまぬけ面をさらすしまつ。たぬき君はたぬき君で面白そうに野次をとばすし、小鳥くんはヒューと口笛を吹いて見せたんだ。
つまるところぼくが一番テンパっていたのだけれど。
「ちぇっ、旦那も相変わらずなお方だ。こうも素直になられちゃ、からかいがいがねぇーってもんだぜ。」
キツネ君はつまらなそうに舌打ちをすると、ふいっと顔をそらしてしまった。どうやら彼の意地悪もネズミ君には効果がないみたい。それを横目にたぬき君が瞳を輝かせながら彼に詰め寄った。
「ねぇねぇ、ネズミ君。君がフクロウじいさんのところに行くなんて珍しいじゃないか。そりゃあ、彼は君の育ての親だし、会いに行くのも分かる気がするけどさ。いったいどんな用があるっていうんだい?」
はぁ。どうやらたぬき君持ち前の好奇心がむくむくと顔を除かせたみたい。ぼくだっていろいろ聞きたいのを我慢して聞かなかったのに。
おずおずと視線を彼に向けると、ネズミ君は俯いていてその表情をうかがうことはできなかった。
「君も相変わらずだね、たぬき君。たいしたことじゃないんだよ?ちょっとニンゲンについて聞いていたのさ。」
「ニンゲン?」
パチパチと瞬きをするたぬき君。後ろでキツネ君がポンッと手を叩いた。
「あぁ、聞いたことあるぞ。なんでもそいつらってのは石の町にすんでいるんだろ?よくあんなカチコチの場所にいれるもんだねぇ。」
それを受けて小鳥くんもすかさず名乗りを上げる。
「キツネ君、どうやらそれだけじゃないみたいだよ?彼らは水がまずくて、空気も汚いところに家をつくるっていうんだ。なんでまたそんなところに家を作るのか僕は理解に苦しむね。」
「えぇ!?そんなことしているの!!ニンゲンってバカで変わり者なんだ。」
ニンゲンがバカ?
変わり者だって?
そんな台詞を言ってのけた動物たちの会話をぼくはまぬけな面をして聞いていた。そしてすぐにでもお腹のそこから笑がこみ上がってくる。思い立ってネズミ君の様子をうかがうと彼は口元に苦い笑みを浮かべていた。
ふふふ、そうだよね、ネズミ君。君も知ってのとおりニンゲンはそんな生き物じゃないよね?
ぼくが視線で彼に笑いかけると彼も同じようにそれを返してくれた。ぼくたちはお互いの心の中でお腹を抱えて笑っていた。
森の動物たちは知らないけれどぼくは彼に助けられる前、ニンゲンの女の子と一緒に過ごしていた時期があったんだ。それはほんの一ヶ月にも満たない間の話のこと。けれど、その思い出はとても大切なものだった。
「どうやらみんなはニンゲンがあまりお気に召さないみたいだね?」
そういうネズミ君。
「???じゃあ旦那はあいつらを気にいっているってのかい?」
「そうだなぁ。気に入るとか気に入らないとかじゃなくて、僕は――」
「?」
「僕はニンゲンになりたいんだよ。」
「え?」
そう言って笑うネズミ君はとてもきれいで、けれど淡雪のように儚げだった。いつものネズミ君とどこか違う雰囲気に、じわりじわりと何かが這い上がってくるような感覚がぼくの気持ちを焦らせる。
「ど、どうしてだよ、ネズミ君!?」
心底驚いたといった態のたぬき君の声に、ぼくはハッと我に返った。先ほどまで感じていた不快な感覚を消したくて数回首を横に振る。顔をあげればたぬき君に詰め寄られて困ったように笑うネズミ君の姿がみえた。
「そんなに驚くことかなぁ?確かにニンゲンは君たちが言っていたようなこともなくはないけれど・・・」
「けど?」
「ニンゲンはそれだけじゃない。彼らは自分たち自身でたくさんのことができるんだよ。」
「たくさんの?」
ネズミ君はそっと目を閉じた。
「そうだね。例えば彼らは食べ物を自分で作り出すことができるし、寒さを防ぐ道具を作り出すこともできる。だからね?僕は彼らには悩み事なんて何もないように思えてしまうんだ。彼らがうらやましいんだよ。その力が―」
どうしてそんなこと言うのだろう?ぼくはネズミ君らしくない言葉に途惑っていた。
「結局ニンゲンっていいものなの?悪いものなの?」
頭にクエスチョンマークを浮かべるたぬき君。
「はっ!!そんなの知るかよ。俺には旦那の言っているこたぁよくわかんねぇーけど、やっぱりニンゲンになるなんてごめんだね!」
キツネ君ははき捨てるようにそういった。
「まあまあ、キツネ君もたぬき君もそんなに深く考える必要なんてないじゃないか。僕たちはニンゲンにはなれないし、関係ないことだよ。そうだろ?ネズミ君。」
小鳥くんの問いかけに
「あぁ、そうだね…」
と彼は言うと、どこか遠くを見つめて微笑んだ。