火ぶたは切られた! 怒凄恋VS双生児
―登場人物―
◆怒凄恋◆
牧島和人(まきしまかずと):主人公。気弱。諦めが悪い。
早乙女凛(さおとめりん):幼馴染。番長。和君大好き。
萩宮明日菜(はぎみやあすな):にゃもレッド。怪力。さほど好きじゃない?
◆双生児◆
坂本夕海(さかもとゆうみ):ユーミン。お嬢。和人様大好き。
坂本章(さかもとあきら):双子の弟。速い。番長?
剛田(ごうだ):パワー系。優しい。呻り声。
「んぐ……っく。ここは、どこだろう……?」
ようやく意識が覚醒し始めた頃、ぼやける視界しか映さない瞳に何とか活を入れて眺めると、そこはどこかの体育倉庫みたいだった。中は電気が点いていなくて、外から漏れる光を頼りに顔を動かす。
錆びついたバスケットゴール、空気の抜けたバスケットボール、中の段が抜けた不格好な跳び箱、途中で折れ曲がりささくれ立った平均台、入り口らしきところには体育祭のロゴが入った古い看板が掲げられていた。
そのどれもが今は使われていないのだろう、こんな私でも使ってくれる人がどこかにいないものかと、いつまでも待っているような哀愁が漂っている。
そして、今僕は埃かぶったマットの上で、頑丈そうな縄を使って両手両足を縛られていた。
「お、起きだ。お、おはようだな」
目の前には大きい男の人がいる。髪の毛の手入れというものを一切放棄したような、目元が見えないほどの長い髪、肺の奥底から出てくるようなくぐもった声、僕の二倍はあるであろうがっちりとした二の腕。
そんな大男が器用な手つきで僕の体を縛っている。
「なっ、なんで僕はこんなことになっているんでしょう……か?」
「オラは知らない。ただ、命令されたことを忠実にこなすだげ……すまない」
「いえ、別に、あなたが悪いと言った訳では……ごめんなさい」
こんな状況になっても、相手に謝罪されたらこちらも謝罪してしまう。自分でも本当、救われない性格してるなって思う。
それにしても、命令という言葉が引っ掛かった。
萩宮さんに腹部を殴られて意識を失った僕を縛り付けろだなんて、一体誰が……って冷静に考えて、萩宮さんしかいないじゃないか!?
自己問答の末のあっけない結末に、軽いパニックに陥っている間にも縄は僕を縛り付けていく。
でも、これが萩宮さんの命令だとしたらまだ救われたほうだ。彼女なら僕に対して致命的な危害を加えることはないだろう。僕は彼女を信用している。
だったら、彼女の思惑に付き合うのもいいかもしれない。彼女だって何か大事な要件があって僕を浚っていったのかもしれないじゃないか。
双生児学園の入学式には出れないだろうけど、明日があるさ。僕はもう一人じゃない、夕海さんがいるんだ。
「お前、いい奴だ」
「はい?」
唐突に発せられる、地竜の呻き声のような声。この人は喋るというより呻ると言ったほうがしっくりくる気がする。
「オラ、お前縛れないと怒られる。怒られるのイヤだ。でも、お前がイヤなら縄解こうど思っだ……でも、大人しぐ縛られてぐれる。お前、いい奴、オラ、そういうやづ好きだ。特別に腕の自由を少しでも利かせるだめに、前に回じてやる」
「あっ、ありがとうございます……でも違うんですよ。僕が今大人しく縛られているのはそういった理由じゃないんです」
髪の毛越しににかっと笑う笑顔を見ると、なんだかんだ、この大男さんはどこか親しみを持てそうな感じがする。どことなく、僕に似ているような雰囲気があるのだ。
見た目は怖いけど、中身は優しい。失礼だけど、僕は美女と野獣を思い浮かべてしまった。
「僕は、萩宮さんを信じているだけですから」
「萩宮……信じる?」
「ええ。僕は彼女を信用しています。だから、こうやって僕を縛ることにも、何かしら大事な意図が隠されていると思うんです」
昔からそういう人だった。早乙女さんのことが大好きで、いつも隣にいる僕に対して多少辛くあたってくることもあったけど、彼女はただ純粋なんだ。昨日だって牛乳を振り掛けてしまった直後に、コンビニでタオルを買ってくれた。
そんな彼女を信じるなという方がどうかしていると思う。
「ごめんな」
だが、僕の予想は全然違っていたようだ、縄縛りが完了したと同時に大男さんは、
「オラ、萩宮とがいうのは……全然知らないだ」
言いながら頭を下げた。
え? じゃあ誰が僕のことをここまで運んできたんだ……?
僕を気絶させたのは、萩宮さんじゃないのか?
混乱で頭がオーバーヒートになりそうな、まさにその時。
体育倉庫の重厚そうな扉が、勢いよく開かれた。
「よぉ~やく、目覚めたかい? 牧島和人ぉ。初めまして、俺は坂本章(さかもとあきら)ってんだ。坂本夕海の弟で、一応、双生児学園の番長やらしてもらってっからよぉ。そこんとこヨロシク」
外界からの光が一気にこちらへ漏れてくる。光が弱まってくるとわかる、その人が誰なのかを。
彼の端整な顔立ち、少年のような輝く瞳はまさに夕海さんと姉弟であることを示していたが、不格好なピアスと無理やり焼いたような浅黒い肌が奇妙な違和感を漂わせていた。
「あ、よ、よろしくお願いします」
だからなんで僕って挨拶を挨拶で返しちゃうんだろうなぁ。どう考えても向こうはこっちを挑発しているだけじゃないか。
ほら、目がキョトンってなってるよ、キョトンって。
「かははっ。やっぱあんたすげぇわ。カズから聞いてたけど、すっげぇお人好しっつーかなんつーか……お前、今縛られてるんだぜ、状況わかってる?」
乾いた笑い方は夕海さんには似ていなかった。あの人はもっと人を安心させるような笑みを浮かべる。
そういえば、萩宮さんはどこに行ったのだろうか。顔を必死に動かしても、彼の他に数人の取り巻きと思える男の人たちがいるだけで、肝心の彼女の姿が見えない。
「は、萩宮さんはどこですか……?」
「あぁん? なんだこいつ、自分の心配より他人の心配かぁ? あの猫娘か……あいつなら、今頃保健室で回されてんじゃねーかな」
「ま、回す?」
「なに、お前その年でんなこともわかんねーわけ? ようはヤられてんだよ。よく知りもしない思春期の男の子たちに、パコパコ腰振ってるわけ」
「なっ……! そん、な……」
指を輪っか状にして、円の中心を親指で突く動作をしながら話されれば嫌でもわかってしまう。
あの、純粋で太陽のようにはじけた笑顔が似合う萩宮さんが、回されてる?
「嘘じゃねぇよ。にゃあにゃあ言ってうるせぇけど、今頃は大人しくなってんじゃねぇの。かははっ」
嫌な冗談だ。胸が一気に苦しくなる。耳を切り落としたい気持ちに駆られるが、そうだ、今僕は縛られて身動き一つとれないんだった。
「いいねぇ、その表情。俺はそういう表情が大好きなんだ。姉貴なんかに関わるからこういうことになるんだぜ。あの猫娘も、お前が姉貴なんかに関わらなければ助かったのになぁ……ご愁傷様」
「ど、どうして、そんな酷い事を……」
「んなもん決まってんだろ? 俺たちは最初、一人のこのこと学園に来るお前を浚おうと思ってたんだ。だけど、姉貴と余計な約束しやがって、結局手が出せないで見ていた。そんな時にやってきた猫娘が都合よく姉貴からお前をかっさらってくれたからな。それをうちらが横取りしたってわけよ」
あのバカ猫娘もタイミングがわりーよなぁ、と彼が言えば、後ろの奴らも手を叩きながら派手に笑う。幸いだったのは、僕の隣にいる大男の人は笑わなかったことくらいだ。
「いいか、オメー。今日はタダで帰れると思うな。身ぐるみ剥がして血祭りにあげてやっ……んだ、電話。っち」
携帯電話の着信音が鳴り響き舌打ちを打つが、ディスプレイを見るとすぐに通話ボタンを押して耳に押しあてる。
「あんだよ姉貴。こっちは忙しいんだよ……あ? ちゃんと探しているかだって? 探してる探してる、バイクの免許持ってる奴総動員でてんやわんやだぜ。どうやら怒凄恋学園にはいねぇみたいだから、周辺を探した方がよさそう……って、もう切れやがった」
電源ボタンを叩きつけるような勢いで切り、鬼のような形相で僕を見る。
「あーあー、愛しの夕海さんは今頃血眼になってお前を探してるぜぇ。いいのかなぁ、こんなところで芋虫みたいに蹲ってて。早く抜け出して元気な姿を見せてやれよ。……じゃないと、そろそろ元気な姿じゃ、なくなっちゃうぜ?」
瞬間、風を切る音がした。一旦間をおいてから、それは僕の腹部を蹴る脚の音だということが分かった。
僕と彼の距離は三メートルほど離れていたはずだ。なのに、こんな一瞬で距離って詰められるものなんだ。
「……! はっ!」
先日噴水広場で蹴られたのなんか、比にならないほどの激痛。声にならない悲鳴。
サッカーボールのように飛ばされた僕は、空気の抜けたバスケットボールたちの仲間入りを果たす。
彼は番長なんだっけ……。番長ってよくわかんないけど、とっても強いイメージがある。そういえば、早乙女さんも番長だって、誰かが言っていたような気が……。
「よえぇ、よえぇな。こんなんじゃ姉貴に釣り合うどころか視界にすら入れさせたくねぇ。おめぇみてぇな雑魚が、姉貴のお気に入りになれると思ってんなよ」
姉貴……夕海さんのことだろうけど、彼は姉貴と言う度にどこか複雑そうな顔をする。夕海さんの何が彼の顔をそうさせるのか。
僕は嘔吐しそうな体を必死に堪えながら考える。
とりあえず萩宮さんを何としても助け出さないと。どうしたら助けられるのか。
五体満足に動くことすらできない、動けたとしてもこの人たちに敵うわけない、この状況で。
このまま、諦めるのか。
せっかく、友達ができたと思ったのに、せっかく、僕をまだ覚えてくれている人に出会えたのに。
神様はいつも残酷だ。人生が少しでも都合良くいくと、いつもこれだ。
僕は友達なんて持つべきじゃなかったのか? 懐かしい故郷に帰ってくるべきじゃなかったのか?
様々な負の思念が頭を覆い尽くしてゆく。顔を真っ赤にさせて、目に涙を浮かべて、鼻水は垂れ流しだ。
僕はどうしてこんなに、弱いんだろう。
『和は弱い……じゃない。……を持った、……なんだ』
また、まただ。僕が絶望を感じて弱気になる度に、またあの頃の彼女の言葉が蘇る。
……ダメだ、弱気なことを考えちゃいけない。今考えるべきは、萩宮さんの救出だ。僕の命に代えても、彼女だけは救わないと。あの純粋な笑顔を、少しでも守らないと。
考えろ、考えるんだ。誰もが絶望するこんな状況でも、僕は……諦めたりなんかしない。
「ふんっ! ふぐ、ふがっ!」
「お、なんだなんだ! おい、皆見てみろよ! こいつ、歯で縄を引き千切ろうとしてるぜ! かははっ、これほど無様な光景も中々みれねぇよなぁ!」
「ありえねー!」
「まるで犬みてぇ!」
みっとも無ければゲラゲラ笑えばいい、ムカつくのであれば、なんだったら僕を殴ったっていい。……でも、他の人を傷つけるのだけは絶対にして欲しくない。
前に回されて縛られている腕は、僕の歯なんかでは到底千切れそうもない。でもやらないと。
諦めないで、さっさと顎に力を入れろよ僕!
食い千切れよ! 早く走って、彼女を助けるんだろ!
歯の二、三本折れたっていい、嗅覚だって、視覚だって必要ならくれてやる。
だから、だからこの縄千切れろぉおおおおおおおおおお!
「かはっ! ごほっ、がっ!」
しかし、運命は容赦なくて、予想道理縄が切れることなんてなかった。せいぜい僕の唾液と歯型がついたくらいだ。
「無理なんだよ。そもそも歯の力だけで縄が切れるかっつーの。おい、もういいや、皆で後はボコして二度と……」
「ヤラぜない」
全力を出し切った僕の顎が力尽き、もう噛むことすらままならなくなった頃、大地を揺るがすタイタンのような呻り声が聞こえた。
こ、この声は……。
「オラ、ごいづの根性気にいっだ。いいやづだし、殴る蹴るはがわいぞう」
大男さんだ。大男さんが僕の目の前で仁王立ちしている。
「剛田(ごうだ)……お前、今何やってんのかわかってんの?」
「ぞれよりオラがわがらない。章の兄貴が、ごんな弱い者いじめをずるなんで」
「黙りやがれ剛田ぁ!」
取り巻きの男が不意に剛田と呼ばれた大男に向かって蹴りを入れる。ヤクザキックならぬヤンキーキックか、突き出された脚は剛田さんにあたるも、
「うわぁ!」
長寿の大木のように身じろぎしない彼の体に、逆に取り巻きの男は吹っ飛んで行ってしまう。どんな鍛え方をしたらあんな体になるんだろうか、不思議でしょうがなかったが、今は感謝の念でいっぱいだ。
「さすが、ウドの剛田。雑魚の蹴りじゃ逆にやられちまうか」
同じ感想を持ったのか、一連の様子を見て章さんも呆れた様なため息を漏らす。この隙に、剛田さんは僕の縄を掴むと、
「だ、だいじょうぶが? 今引き千切ってやるがら」
一気に、引き千切った。まずは両腕、次は両足。
一瞬にして僕を拘束していた縄が切れて、何ともいえない解放感が全体を包む。
しかし、今はこの余韻に浸っている場合ではない。なんとかしてここから逃げる方法を見つけないと。
「あ、あれだ……! 剛田さん、あの紐、引き千切れますか?」
僕が指したのは、入り口近くから伸びている、古びた体育祭の看板を釣り上げている紐だ。
剛田さんはすぐさま頷き、屈強な二の腕を震わせて紐を容易く引き千切る。
支えを失った体育祭の看板は章さんたちの真上を狙い澄ましたかのように落ちてゆく。木で造られた重厚な看板だ。怪我はしないだろうけど、多少の時間稼ぎにはなるはず!
「……なっ!? 剛田てめぇ、マジでゆるさねぇぞ! 姉貴にどこまでも毒されやがって!」
後ろに章さんの声を聞きながら、僕と剛田さんは全力で体育倉庫から抜け出した。
◆
双生児学園。今日僕が始業式を挙げるはずだった、その学園を、今は全力で走り抜ける。
「あっぢだ、あぞごが保健室」
剛田さんが指し示す教室のドアを怒涛の勢いで開け放つ。いつもは体力の無さでへばっているだろう距離を走ったが、脳内がもう疲労という情報をシャットダウンしているのか、疲れは感じなかった。
どうか、無事でいてくれ萩宮さん……!!
「こ、これは!?」
扉を開け放った先、そこには、
「誰も、いない……」
誰も、いなかった。萩宮さんも、双生児学園の生徒も、保健の先生も、誰もいない。保健室内はただクーラーの音だけが鳴り響いていた。
今し方まで何かをしていたという風でもなく、整理整頓されたいつもの保健室、というイメージ。
「あーあー、バレちゃ仕方ねーな」
「あ、章さん!?」
保健室の内装に気を向け過ぎていた。気が付けば章さんが扉を塞ぐ様に立っている。ふと窓の先を見れば、僕が今着ている双生児学園の制服を着た男の人たちがにやけた顔をしながら、様々な凶器を構えて待っている。
逃げ道が、無くなったか。嫌な汗が背筋を伝う。せめて萩宮さんだけは助けたかったのに。
「章さんって……いつからお前と俺は友達になったんだっつーの」
「それよりも、バレるってなんですか?」
「おいおい、急に強気になったな……まぁいいや。アレは嘘だよ。本当は猫娘も浚いたかったけど、逃しちまったんだ」
「逃し、た?」
「あれもバカに出来ないほどバイクが速いんで、しょうがないからお前だけ浚ったんだよ」
お前を浚うのだけでも一苦労だったぜ、と章さん。
なんだ、萩宮さんは無事だったのか。なんだ、なんだ、
「よかった~」
「よがっだ、本当によがっだ」
心の底から思う。彼女が回されるなんて、想像したくもなかった。嘘で良かった。僕は初めて嘘に救われた気がする。
嬉しさのあまり、剛田さんと一緒にハイタッチまでしてしまった。
「しっかし、どうすっかな」
後ろ手に頭を掻いて、気まずそうな表情を浮かべる章さん。
「もうそろそろ姉貴も戻ってくる時間だ。それまでに剛田を仕留めてお前をボコるってなると、相当気合い入れていかねーといけねぇし」
どうやら僕を何としても学園に来られないような体にしたいらしい。でも、僕はもうそれでもいいと思えた。
「剛田さん、もういいですよ」
だから、もういいんだ。
「え゛?」
髪の毛の奥深くにあるつぶらな瞳が丸くなるのを感じながら、僕は満足気に答える。
「もう、いいんです。萩宮さんの安全も確認できたし、後は僕だけの問題ですから。僕のために、剛田さんが傷つくなんて、それじゃあ本末転倒です」
「かはっ、かははっ、かはははは! ……だってよ剛田ぁ。よかったなぁ、隣にいる奴が真性のバカでよぉ! 今こっちにつくんだったら、さっきのアレは見なかったことにしてやるぜ?」
剛田さんは迷っているようだ。よほど章さんが強いのだろう。拳をぶるぶると震えるほど強く握りしめているのが見てわかる。
「お前、いだいぞ? ざっぎのなんが、比べられないほど、いだいぞ?」
「痛いのは慣れてるから、いいんです。僕なんかより、剛田さんが傷ついている方が、僕はよっぽど痛いんです」
そうだ、そうだったんだ、僕が苦しむ分にはなんだっていいんだ。ただ、夕海さんや、萩宮さんが傷ついている姿を、剛田さんが傷つく様を見たくないんだ。
皆笑って遊んだり、語り合ったり、励まし合ったりするのが僕の理想だった。今はもう到底叶いそうにないけれど、僕はいつだってそれを諦めずに望んでいたんだ。
僕は剛田さんと友達になりたいと思っている。僕をいい奴だと言ってくれたんだ。そんな剛田さんを僕が道連れにするわけにはいけない。これは、当然の選択だ。
「……オラ、オラ、ごんななりじでるげど、本当は涙もろぐで、人も殴りだぐねぇんだ」
「あはは……なんとなく、わかってました。縄で縛り付けながらごめんなさいなんて言う人はいないですから」
笑顔で言う、ここは言い切らなくてはならない。彼に不安要素を与えては駄目だ。すぱっと切らせないと、この人は僕と似ているから、残ってしまう。
後悔が、残ってしまうんだ。
「お前……お嬢に、似でる……」
「お嬢?」
なのに、僕が笑顔なのに、対して、
「やめろ剛田……」
「づよぐで、やざじぐで、何事もあぎらめない、お嬢ぞっぐりだ……」
剛田さんは、泣いていた。
「やめろ! こんな奴が姉貴に似てるはずがねぇ!」
「オラ、オラでぎねぇ。お嬢にぞっぐりなお前を、見捨でるなんで……でぎねぇ」
「やめろっつってんのが聞こえねぇのか剛田ぁああああああああ!」
「ゴブゥ!」
「剛田さん!!」
そして、目には見えない速度の拳が剛田さんの顔面に直撃した。振り抜いた様を見るに、多分アッパーカットを放ったのだろう。
剛田さんの巨体を天井まで届かせる章さんのアッパーカット。顔面をしたたかに天井に叩きつけ、剛田さんはそのまま床に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか、剛田さん!」
気絶している。たった一撃でこんなにタフそうな人を気絶させてしまうなんて。番長という肩書の恐ろしさを垣間見た気がする。
「はぁ、はぁ……ったく、手間ぁかけさせやがる。こんな屑野郎が姉貴に似てるなんてありえねぇ」
全力の一撃だったのだろうか、肩で息をしながら剛田さんを見やる。息も絶え絶えだったが、血走った目でこちらを見た。
「次は、お前の番だ。もうこうなった以上、一回ぐらいは地獄を見せなきゃ気が済まねぇ」
対峙する僕と章さん。いくら章さんが疲れていると言っても、格闘経験皆無の僕なんか赤子の手を捻る様にやられてしまうだろう。
でも、僕は構えた。
「なんだ、遂には俺に復讐か? 気弱な屑が一丁前に反撃か?」
反撃なんてできない。そもそも僕はどんな状況に陥ったとしても人は殴れない。
これは、剛田さんに対しての敬意だ。僕を、お嬢……章さんの言葉から察するに、夕海さんと似ていると言ってくれたことに対する、感謝と尊敬の表れだ。
「僕は……守る」
「何……?」
「僕は、章さんみたいに強くないし、ましてや人を殴ったこともない。強いて言うなら、人一倍殴られたことはあるってことが自慢なぐらいだ」
「かはっ、かははっ。それはそれは、大層な自慢じゃないか」
乾いた笑いを浮かべる彼も今は余裕がないみたいで、空元気のような無理をした笑みが顔面に広がっていた。
「章さんにだって、深刻な事情があってこんなことをしていると思うけど、僕にだって、たった今タダで殴られてやるわけにはいかなくなった」
章さんは剛田さんをちらりと見てからこちらに向き直る。
「あっそ。わざわざ俺の事情まで考慮してくれてありがとよ。で、それで?」
「だから、守るんだ」
「何それ? 意味わかんねーんだけど」
「僕はこれから何百と殴られ蹴られるだろう。これはいい、覚悟の上だ。……でも、僕は絶対に気を失ったりしない」
「かはははは! こりゃ傑作だ。俺の打撃をまともに受けて失神しない奴なんて、生きてきて見たことねぇぜ」
「そうだよね、章さんは強者だ。絶対的な自信があると思う。……だけどね、僕は弱者だけど、諦めないことに対しては絶対的な自信があるんだ」
正直怖いさ、尻尾を巻いて逃げたくなる。でも、それじゃあ剛田さんに悪いもんね。このままじゃあ、僕を見捨てないでいてくれた剛田さんに顔向けできないもの。
「僕は、剛田さんが目覚めたとき、自信を持った顔で出迎えたいと、さっき思ったんだ」
僕だけが傷つけば済む話だったのに、剛田さんは自分を犠牲にしてくれた。だったら僕も犠牲になることに、一体何の躊躇がいるだろうか?
「さぁ、打ってきなよ。天井まで届くアッパーでも、窓を突き抜けるキックでも、目が飛び出るような頭突きでも、何度でも打ってきなよ。でも、僕は何度だって立ち上がる。立ち上がって見せる。そしたら、僕の勝ちだ」
構えを解き放ち、両手を広げて迎え撃つ。章さんは驚きを隠せないようで、いつもの乾いた笑いもなしに、指を一本立てる。
「一撃だ。一撃でお前を殺す」
「いいよ。一撃どころか、三撃でも四撃でも僕は立ち上がる」
「んなこと言ってられんのも今のうち……だぜ!」
先ほどの一撃で体力を消耗したのか、辛うじて章さんの動きがわかる。僕の横顔を狙って跳躍し、回し蹴りを放ってきた。どうやら章さんが選択したのは窓を突き抜けるようなキックだったらしい。
まぁ、わかるからってどうということはないんだけど。
目をつぶる。もうすぐ彼の攻撃がやってくる、覚悟するんだ。
気絶を受け入れちゃダメだ。甘美な誘いに身を委ねるな。自己を地獄に陥れろ。そして、這い上がれ。
――僕は、絶対に立ち上がる!
「――――!」
何回転したのか、もしかしたら回転していないのか、わからないけど頭の中は回転していることだけはわかる。
こんなに脳がおかしくなるなんて、ロッカーに閉じ込められて箒で外から叩かれた時以来だ。あの時はすぐに耐えられなくなって失神してしまったけど、今は耐える時なんだ。
立ち上がろうと、暗闇の中で手をもがく。もがけばもがくほど深みに嵌っていく気がするけれど、僕にできることはそれぐらいだ。
希望の光はないのか、糸は、穴は、どこかにないのか! 必死に探す。
前にもこんなことがあった時、不意に夕海さんの胸を揉んでしまったこともあったっけ。
今そんな悠長なことを考えるような場合ではないけれど、少し微笑んでしまった。精神世界の暗闇の底で夕海さんの胸を揉んだことを思い出す僕って、本当、救えない。
手を伸ばす。その手を掴む者はいない。
瞳を見開く。しかし視界は漆黒の闇。
頭を叩く。曖昧な痛みが脳内に走るだけ。
指をあらぬ方向へ曲げる。痛みなく曲がる、そして元には戻らない。
思い切って視界を指で潰す。元々漆黒の闇なんだから変わらない。
あそこを叩く。一瞬ひゅんってなったけど、なんのことはない、ぽろっと取れただけだ。
首を絞めてみる。呼吸ができなくなった、死亡の日も近い。
がむしゃらに走り出す。疲れを知らぬその足だったが、やがて限界がきたのか全く動かなくなった。
もう一度だけ、最後に手を伸ばした。……その手を掴む者は、『いた』。
「この手、なんだか、懐かしい」
暖かい手だった、僕を優しく包み込んでくれるような手だった。そしてなにより……懐かしい、手だった。
僕を暗闇から救い出してくれそうな、懐かしい手をがっちりと掴む。
吸い寄せられていく。そうだ、僕はこの手を知っている。この懐かしい、自然と涙が溢れてくるような手は、
――僕の、憧れの人の手だ。
刹那、眩い光が僕の意識を取り込んでいき、一気に覚醒する。目覚めると、そこはグラウンドで、保健室の窓から飛ばされてここまでやってきたみたいだ。
そして、僕は立っていた。グラウンドに地に足つけて、確かに立っていた。
……彼女の手を借りて。
「和君。遅くなって、ごめんね。でも、やっぱり強いね、和君は。私、私……」
泣きながら、強者であるはずの彼女は泣きながら、僕の手をぎゅっと握っている。輝かしいポニーテールを後ろに下げて、瞳から真珠のような大粒の涙を流しながら、いつも僕を和と呼んでいた彼女が外見も気にせず、しかし最上級の喜びを見つけた様な顔をして。
そんな彼女を僕は知っていた。
いつだって僕を隣に置いてくれた、憧れの彼女。
僕を弱者なんて言わずに、対等に扱ってくれた彼女。
最後に別れた時は、笑顔で見送ってくれた彼女。
僕は馬鹿だと思った。それも最上級の馬鹿だ。彼女が僕を忘れるわけないじゃないか、それじゃあ逆に彼女に失礼だ。萩宮さんが僕を殴りつけるのもよくわかる。
僕は、なんていい友達を持ったんだろう。次々と涙が溢れてくるのを、僕は止められそうになかった。
こういう時、なんて言えばいいんだろう。なんて言うべきなんだろう。
だけど、この時の僕は迷いなくこう言ったんだ。
「ただいま、早乙女さん」
「おかえり、和君」
未だ忘れようのない、彼女の笑顔は世界のどんなものより美しかった。
―次回予告―
【夕海】「和人様が、いない。この悲しい事実は私に昔の記憶を思い出させた」
【夕海】「でも、私は頑張れる。嫌な思い出は、私に和人様を巡らせてくれたから」
【夕海】「皆、皆私を裏切って、楽しそうに笑うのが許せない」
【夕海】「和人様……私の心は、和人様だけのもの」
【夕海】「幼馴染だか何だか知りませんが、和人様を取り戻す。そのためには、もう、優しさなんて、いらないですよね……?」
【夕海】「次回、『夕海の追想、和人に抱く恋心』」
【愛唯】「来週も……お楽しみに」
【凛&明日菜】「私たちの出番は!?」