表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
観測範囲の日常  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/9

第六話 未処理領域

遷移を拒んだ、その瞬間からだった。

世界は、壊れたわけじゃなかった。

砕け散ったわけでも、爆発したわけでもない。

もっと静かに。

もっと気味の悪い形で。

二重に、歪み始めた。

湊は屋上に立っていた。

——いや、本当に“屋上”なのかどうか、もう自信が持てなかった。

足元には、たしかにコンクリートの感触がある。

フェンスもある。風も吹いている。秋の冷たい空気が頬を撫で、制服の裾を揺らしていく。見上げれば空がある。薄い雲が流れていて、夕方に近づく光が街の輪郭を少しだけ柔らかくしている。

なのに、その全部が“上に貼られた景色”みたいだった。

フェンスの向こうに広がっているはずの東京は、もうただの街並みには見えない。

その奥に、別の空間が透けている。

無数のモニター。

青白い光。

縦にも横にも果てが見えない、巨大な観測層の片隅。

自分たちは今、その二つのあいだに立っている。

下の階層——自分たちが“日常”だと思っていた世界。

上の階層——それを監視し、修正し、維持している空間。

その境界線の上。

湊は喉の奥がひどく乾くのを感じた。

「……まだ、見えてる」

真冬の声が、すぐ横でかすれた。

湊も同じものを見ていた。

フェンスの向こうの街の上に、半透明みたいに重なっている無数の画面。

一つひとつのモニターが、どこかの景色を映している。交差点。駅。住宅街。教室。コンビニの前。マンションの廊下。見覚えのある場所も、ない場所もある。

その下を、オレンジ色のグラフが脈打つように揺れていた。

感情値。

上がる。

下がる。

跳ねる。

沈む。

人間の心の動きが、数字になって流れている。

怒り、恐怖、安堵、混乱、興奮。そういうものが、街のあちこちで発生して、そのたびにグラフが波打つ。東京全体が巨大な生体モニターみたいだった。

本来なら、この空間には“観測者”だけが立ち入れるはずだった。

アプリはそう言っていた。

遷移に同意した者だけが、上位層から下位層の更新に参加できる。

なのに。

自分たちは、まだYesを押していない。

押していないのに、ここにいる。

それが何を意味するのか、湊は考えたくなかった。

正規の手順を踏まずに、境界の上へ押し出された。そういうことだ。システムの想定から外れた場所に、自分たちは立っている。

「……あれ」

真冬が息を呑んだ。

湊は彼女の視線を追う。

モニターのひとつに、見覚えのある校舎が映っていた。

自分たちの学校だ。屋上。フェンス。給水塔。少し錆びた手すり。見慣れたはずの景色。

その画面の中に、人影が二つあった。

湊は一瞬、意味がわからなかった。

次の瞬間、背筋が冷たくなる。

そこに映っているのは——自分たちだった。

フェンスにもたれ、スマホを見つめている男子生徒。

その隣で、少し肩を強張らせて立っている女子生徒。

神谷湊。

東雲真冬。

今ここにいる自分たちと、まったく同じ姿。

「……は?」

喉の奥で、声がひっかかった。

モニターの中の自分たちは、こちらに気づいていない。

ただ屋上に立ち、スマホを見て、何かを話している。さっきまでの自分たちを、少し離れた場所から盗み見ているみたいだった。

「パラレル……?」

真冬がつぶやく。

その言葉は自然だった。

別の世界。別の可能性。もう一人の自分。そういう発想に逃げたくなる。

でも、湊は首を振った。

「違うと思う」

自分でも驚くくらい、声が乾いていた。

「アプリに書いてあった。現実は多層構造で、上位層が下位層を修正するって」

言いながら、頭の中で言葉を並べ直す。

間違えたくなかった。ここでの理解のズレが、そのまま足場の崩れになる気がした。

「だから、これは横に分かれた別世界じゃない。上下なんだ」

真冬が画面を見つめたまま、ゆっくりこちらを見る。

「上下……」

「今見えてるあいつらは、一段下の層にいる」

そう言った瞬間、胸の奥がぞわりとした。

あいつら。

自分のことを、そう呼んでしまった。

でも、そうとしか言えなかった。画面の中の自分たちは、自分でありながら、もう完全には自分じゃない。修正され、整理され、理解可能な現実の中に置かれた“下位層の神谷湊”だ。

「じゃあ……」

真冬の声が小さくなる。

「あっちの私たちは、こっちのこと知らないの?」

「知らないと思う」

湊は答えた。

「修正されてるなら、たぶん。もしかしたら、あっちでは『遷移』の選択肢すら出てないのかもしれない」

その想像は、妙に現実味があった。

下の層の自分たちは、何も知らない。

屋上で少し変な通知を見て、でも結局は何も起きず、チャイムが鳴って、教室へ戻っていくのかもしれない。

あるいは、ここまでの異常そのものが、きれいに削除されているのかもしれない。

知らないままの自分。

忘れたままの自分。

それは救いにも見えるし、ひどく空っぽにも見えた。

そのときだった。

モニターのひとつが、突然、真っ黒になった。

ぶつり、と。

音はしなかった。

でも、そう聞こえた気がした。

湊は反射的にそちらを見る。

電源が落ちたような黒じゃない。

映像が消えたというより、画面の向こうから“黒そのもの”が染み出してきたみたいな黒だ。光を失ったのではなく、光を吸っている。そんな感じだった。

「……何」

真冬の声が硬くなる。

黒い画面の中で、何かが動いた。

最初はノイズかと思った。

でも違う。形がある。

シルエット。

人の形に見える。

頭があって、肩があって、腕があって、脚がある。けれど輪郭がぼやけている。ピントの合っていない写真みたいに、境界が曖昧だ。そこに“いる”のに、どこまでがその存在なのか定まらない。

湊は息を止めた。

その曖昧さに、見覚えがあった。

校舎裏の壁に混じっていた、三つ目の影。

図書館のひびの向こうに見えた、少しずれた人影。

あれと同じ種類の、“定義されきっていないもの”の気配。

スマホが震える。

画面に文字が走る。

『警告: 未処理領域からの侵入を観測』

未処理領域。

その単語を読んだ瞬間、湊の掌が熱くなるかと思った。

でも違った。

今度は、寒かった。

ぞっとするほどの冷たさが、背骨を下から上へ這い上がる。

朝の十八度の汗が嘘みたいに、身体の内側から熱が引いていく。指先が冷える。膝の裏が冷たくなる。首筋に氷の息を吹きかけられたみたいだった。

「未処理領域って何……?」

真冬の問いは、ほとんど独り言だった。

答える者はいない。

でも、アプリは淡々と文字を追加する。

『未処理領域: 再構築が不可能と判断された領域。通常の観測層による修正・削除・再定義を拒絶する。発生原因は遷移失敗の蓄積』

湊はその文章を読んで、喉がひりつくのを感じた。

再構築が不可能。

つまり、システムの手に負えない場所があるということだ。

修正できない。消せない。定義し直せない。現実の継ぎ目をなかったことにできない領域。

そんなものが、存在している。

しかも、その原因は——遷移失敗の蓄積。

「失敗したやつが、溜まってるってことか……?」

湊は自分でも聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。

遷移しきれなかった観測対象。

上にも下にも行けず、境界でこぼれたもの。

修正されず、削除されず、定義されないまま残ったもの。

そう考えた瞬間、黒いモニターの中のシルエットが、ゆっくり動いた。

こちらを向いた。

顔は見えない。

目もない。

なのに、気づかれた、とわかった。

湊の全身に、冷たい針が一斉に刺さる。

「戻ろう」

考えるより先に、口が動いていた。

ここにいてはいけない。

理屈じゃない。あれは“見てはいけないもの”じゃなく、“近づかせてはいけないもの”だ。そういう確信があった。

湊は真冬の腕をつかむ。

細い。

でも、彼女の筋肉も緊張で硬くなっているのがわかった。

「下に戻る。屋上から降りれば——」

言いながら振り向く。

そして、言葉が止まった。

屋上への出入り口があった場所。

そこには、壁しかなかった。

鉄の扉があるはずだった。

古びたドアノブ。剥げかけたペンキ。立ち入り禁止の札。そこへ続く短い踊り場。全部、さっきまでたしかにあった。

今はない。

ただの壁だ。

コンクリートと鉄骨が、最初からそこにあったみたいな顔で立っている。継ぎ目もない。扉を埋めた跡すらない。屋上という空間が、最初から“出口のない場所”として再定義されたみたいだった。

「……え」

真冬の声が、かすかに裏返る。

「ドアは?」

湊は壁に近づく。

手を触れる。冷たい。ざらついている。叩く。鈍い音が返るだけだ。向こうに空洞は感じない。

「階段は……?」

「ない」

真冬がつぶやく。

「消えた」

その一言で、現実が一段深く沈んだ気がした。

戻れない。

遷移はしなかった。

でも、下の層へ戻る道も消えた。

つまり自分たちは今、どちらにも属していない。

下の層でもない。

完全な観測層でもない。

境界線の上。中間。端境期。システムが本来、長く存在することを想定していない場所。

閉じ込められた。

その認識が形を持った瞬間、モニターがまた一つ黒く染まった。

一つ。

また一つ。

ぶつり。

ぶつり。

ぶつり。

青白い光の海の中に、黒い穴が増えていく。

そのたびに、黒い画面の中のシルエットも増えた。

一つだったはずの人影が、二つになる。

三つ。

五つ。

十。

数えようとして、やめた。

数えられる増え方じゃない。黒が広がるたび、その中に“人の形をした曖昧なもの”が立っている。輪郭のぼやけた群れ。静止しているのに、こちらへ近づいてくる圧だけがある。

「……増えてる」

真冬の声が震える。

湊は答えられない。

黒いモニターの群れは、まるで観測層そのものに穴が開いているみたいだった。

システムが維持していた秩序の中に、処理できない空白が食い込んでくる。そこから、定義されなかったものたちがこちらを見ている。

スマホが激しく震えた。

今までより長い。

警報みたいな振動。

『観測層の防御機能が限界を超過』

『推奨行動: 強制遷移——観測対象を安全な層へ移動』

『ただし、安全な層の存続は未確認』

湊はその最後の一文を見て、息を呑んだ。

安全な層の存続は未確認。

つまり、安全な場所があるのかどうかすら、もうわからないということだ。

「……ふざけんなよ」

思わず声が漏れた。

強制遷移。

安全な層へ移動。

でも、その安全が本当に存在するかは不明。

選べと言っておいて、選んだ先の保証はない。

拒んだら境界に閉じ込める。

そのうえ、処理不能な何かが侵入してくる。

システムの論理は整っているようで、もう崩れ始めている。

真冬が、そっと湊の袖をつかんだ。

「湊」

その声で、湊は彼女を見る。

真冬の顔色は悪い。

唇が少し白い。けれど、目だけはまだこちらを見ている。完全に恐怖に飲まれてはいない。飲まれそうになりながら、ぎりぎり踏みとどまっている目だ。

「……あれ、見て」

彼女の視線の先。

黒く染まったモニターのひとつの中で、シルエットが一歩、前に出た。

画面の中で、のはずだった。

でも違う。

その足先が、モニターの縁を越えていた。

黒い液体みたいに、画面の境界がたわむ。

そこから、曖昧な脚がこちら側へにじみ出る。輪郭が定まらないまま、でも確実に“こちらの空間”へ侵入してくる。

「……っ!」

湊は真冬をかばうように一歩前へ出た。

意味がないとわかっていても、そうせずにいられなかった。

掌が熱い。

いや、熱いのと冷たいのが同時に来る。中心は焼けるみたいに熱いのに、指先は凍えるほど冷たい。身体の中で二つの季節がぶつかっている。

シルエットは、ゆっくりとこちらへ体を引き出してくる。

頭。

肩。

腕。

人の形をしている。

でも、人間じゃない。

“人間として再構築される前の何か”みたいだった。

顔のあるべき場所が、少し揺れている。

目も口もないのに、そこに表情が生まれかけては崩れる。定義されようとして、失敗している。存在の輪郭そのものが不安定だ。

湊は、その不安定さに見覚えがあることに気づいてしまった。

自分たちだ。

いや、正確には違う。

でも似ている。

遷移を拒み、境界に取り残された自分たちも、システムから見れば“未処理”に近い。上にも下にも属しきれない。定義が揺れている。

あれは、未来の自分たちの成れの果てなのかもしれない。

その考えが頭をよぎった瞬間、スマホの画面が勝手に切り替わった。

『未処理領域との接触は対象の定義を汚染する可能性があります』

『推奨: 直ちに層移動を実行』

『猶予時間——』

表示がそこで乱れた。

数字が出ない。

文字が崩れる。

ノイズが走る。

観測層のどこかで、またモニターが黒く落ちた。

一つ。

二つ。

三つ。

もう、穴のほうが増えるのが早い。

「湊、どうするの」

真冬の声は小さい。

でも、その小ささの中に全部が詰まっていた。

逃げ場のない問いだった。

強制遷移に乗るのか。

このまま境界に留まるのか。

下の層へ戻る道はない。

上の層も安全じゃない。

未処理領域は、もうこちらへ手をかけている。

湊はスマホを見た。

画面の下に、見慣れないボタンがひとつだけ浮かんでいる。

『緊急層移動』

それだけだ。

YesもNoもない。

選択肢は、もう削られている。

シルエットの腕が、完全にモニターの外へ出た。

指がある。

五本。

でも、その本数さえ見ているうちに揺らぐ。四本に見え、六本に見え、また五本に戻る。定義が安定していない。

その指先が、床に触れた。

触れた場所から、観測層の床に細いひびが走る。

ガラスみたいな音はしない。

ただ、世界の意味だけがそこから薄くなる。

「……っ」

湊は息を吸った。

怖い。

怖いに決まっている。

でも、ここで立ち尽くしていたら、もっと悪い形で何かが決まる。そういう確信だけはあった。

安全な場所なんて、もうないのかもしれない。

それでも、選ばなければならない。

湊は真冬の手をつかんだ。

彼女の手も、同じように熱くて冷たかった。

「離すなよ」

自分でも驚くほど低い声が出た。

真冬がうなずく。

その瞬間、黒いモニターの群れの奥で、無数のシルエットが一斉にこちらを向いた。

湊はスマホの『緊急層移動』に指を伸ばす。

そして、触れる寸前——

自分たちの足元の床の下に、

“下の層の学校”ではない、

まったく知らない街の光景が一瞬だけ見えた。

東京ではない。

自分たちの知っている現実でもない。

それは、システムがまだ一度も説明していない、別の層だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ