第16話 俺は神じゃないωω
異世界十六日目の朝。
昨日のせいで、俺はもう大勢の人前に立つのが嫌になっていた。
拝まれるのも、持ち上げられるのも、神だの奇跡だのと言われるのも、全部うんざりだ。
できるなら今日は、何も起こらず、誰にも期待されず、ただ立っているだけで終わってほしかった。
「勇者様、すみません、ちょっと失礼します」
通りすがりの御者が、俺の前を横切った。
「馬に水やらないと、朝から荒れてて」
「大変だな」
「さっきも荷が偏って……ほら、樽が緩んでる」
別の男が口を挟む。
「昨日の雨で、坂の石畳が滑りやすいんだと」
「赤絨毯も濡れてるしな」
「塩、撒いときゃよかったな」
笑い声。誰かが急いで通り過ぎ、桶にぶつかって水がこぼれた。
噴水の縁では、パン屋の親父が独り言を言っている。
「袋、結び直すか……まあいいや、すぐ売れるし」
その近くで、坊主頭のガキが小石を蹴って遊んでいた。
「おい、馬道でやるな」
「うるせ」
カツン、と石が転がり、車道の端で止まる。
それだけの朝だった。
昼の広場。
「お供えを……」
「沈黙こそが――」
「おい」
声が割り込む。
坊主頭のガキが、俺を見上げていた。
「お前が神?」
「違う」
「じゃあ変態?」
「殴るぞ」
「神様でも殴るんだ」
周囲がざわつく。
「不敬だ……」
「罰が……」
「雷はやめろ!」
俺が言うと、ガキは笑った。
「ビビってんじゃん」
腹は立つ。
でも、拝まれない距離だ。
「なあ」
ガキが鼻水を垂らして言う。
「なんで突っ立ってんの?」
「……知らね」
「バカじゃん」
「ガキに言われたくねえ」
「じゃーな、変態」
ガキは手を振って走り出した。
その瞬間、背後から――
「どけぇぇ!!」
叫び声。
振り向くと、馬車だった。
馬が暴れている。
荷が傾き、樽が揺れる。
御者が必死に手綱を引いている。
「止まらねえ!!」
ガキが、進路上にいる。
「坊主!!」
俺は――考えた。
止めなきゃ。
その瞬間、世界が最悪に動き出す。
馬が滑る。
石畳が鳴る。
傾いた樽が落ちそうになる。
「クソッ……!」
俺の特性が、
事故を“確定”させに来ている。
間に合わない。
直接は無理だ。
――その時、朝の会話が、勝手に繋がった。
「坂が滑りやすい」
「赤絨毯が濡れてる」
「塩、撒いときゃよかった」
「樽が緩んでる」
「桶、ぶつかって水がこぼれた」
「石、馬道で蹴るな」
考えたんじゃない。
聞いてただけだ。
「……行け」
俺は、考えるのをやめた。
馬車の車輪が、濡れた赤絨毯に乗る。
滑る。
落ちかけた樽が、石に当たって位置を変える。
中身の塩が散り、路面に広がる。
馬が踏み、滑り方が変わる。
御者が手綱を引き、
噴水の縁に置かれていたパン袋が弾かれ、
桶の水が流れ出し、
進路が――わずかに、逸れる。
馬車は、
ガキの横をかすめて通り過ぎた。
風だけが残る。
ガキは尻もちをついたまま、動かない。
沈黙。
「……奇跡」
「神の導き……」
「違う!」
俺は叫び、駆け寄った。
「……生きてるか」
坊主は顔を上げた。鼻水が垂れている。
「……お前」
「なんだ」
「今のさ」
震える指で、通りを指す。
「朝から、大人たちが喋ってたことばっかじゃん」
胸が、少し軽くなった。
「神なら」
坊主は続ける。
「馬、止めてるだろ」
少し間を置いて。
「お前、ただの変な大人だな」
……悪くない。
その日、街では噂が増えた。
神が馬車を止めた。
全て計算済み。
見えない手の采配。
坊主は拝まなかった。
「なあ変態」
「変態言うな」
「また助けろよ」
「……考えとく」
「考えるなよ」
「うるせえ」
異世界十六日目。
俺は知った。
奇跡は、
馬を止めたことじゃない。
止まらないものを、
少しだけ逸らせたことだ。
それで、十分だった。




