英雄の寵愛と屋敷に棲む毒婦
広い公爵邸の朝の光は、いつも私に安らぎを与えてくれる。この部屋の窓から見える庭園のバラは、夫が私のために選んでくれた品種だ。鮮やかな赤色が、まるで彼の熱い愛情を象徴しているみたいで、毎日眺めては胸がいっぱいになる。
ルーカス、あなたの隣で目覚める朝ほど幸せなものはない。
「アエナ、よく眠れたかな」
朝の挨拶とともに、あなたは柔らかな口付けを私の額に落とす。その瞬間、私は貧しい子爵令嬢だった過去を完全に忘れ、ただただ、この公爵夫人という立場、そして何よりこの素晴らしい男性の妻であることに感謝する。
「はい、あなた様のおかげで、今日も心地よく目覚められました」
彼の腕の中で、私は朝食の準備が整うまで言葉を交わす。彼は国の英雄と呼ばれる公爵であり、常に多忙を極めるお方。それでも、毎朝私との時間を大切にしてくれるその心遣いが、私には何よりも嬉しい。
朝食の席でも、私たちの会話は弾む。
「今夜は少し早く帰れそうだ。新作のオペラチケットを取ってあるから、二人で出かけよう」
「まあ、本当ですか。嬉しいです、ルーカス様」
この世の全てが輝いているように感じられる、そんな満たされた日々。
しかし、この公爵邸には、その輝きを妬み、私の存在を心底疎ましく思っている人物が一人いる。
ルーカスの継母、ユーカ夫人である。
彼女は、私がこの公爵家に入ってからというもの、私に対する粘着質ないじめを一日たりとも欠かしたことがない。それはもう、一種の執念と言っていい。
朝食が終わり、ルーカス様を仕事へと見送った直後、早速、その毒牙が私へと向けられた。
「アエナ様、奥様がお呼びでございます」
侍女が緊張した面持ちでそう告げる。公爵邸の主として、私はルーカス様が不在の際は全ての管理を担うことになっているが、ユーカ様はそれを無視して、毎日のように私を呼びつけるのだ。
「かしこまりました。すぐに参ります」
私は平静を装い、ユーカ様の私室へと向かった。重厚な扉を開けると、そこには優雅なソファに深く腰掛けた、いかにも高慢そうなユーカ様が、私を射抜くような冷たい視線で待ち構えている。
「遅いですよ、アエナ。公爵夫人がこの私を待たせるとは、どういう教育を受けてきたのかしら」
開口一番、聞くに堪えない嫌味である。
「申し訳ございません、ユーカ様。ルーカス様のお見送りに時間がかかってしまいました」
私が夫の名前を出すと、彼女の顔がさらに歪んだ。
「ルーカス、ルーカスと。いくら寵愛されているからといって、夫の名前を軽々しく口にするものではないわ。それに、貴女のその服装、何だか野暮ったいわね。その安っぽいレースのブラウス、見ているだけで気分が悪くなる」
今日の私は、義母が以前褒めてくださったと聞いている、流行の薄いブルーのブラウスに身を包んでいる。
しかし、ユーカ様が褒めるはずがないのは重々承知している。彼女の言葉は、ただ私を傷つけたいという一点に集約されているのだから。
「ご意見ありがとうございます、ユーカ様。勉強になります」
私は表情を一切変えず、丁寧にお辞儀をした。
そう、これが私の処世術である。彼女の言葉を真正面から受け止めてはいけない。全てを水の流れるように、華麗にスルーするのだ。彼女の目的は私の反応を引き出し、それによって私をさらに攻撃することにある。反応しなければ、彼女の攻撃は空を切る。
「貴女に話があるの。今度、お茶会で出す予定の新作のお菓子、試食してもらおうと思っていたのだけれど」
ユーカ様はそう言って、侍女に運ばせてきた皿を私に押し付けた。皿の上には、見た目も鮮やかな小さなケーキが並んでいる。
「どうぞ。遠慮はいらないわ」
だが、私は知っている。彼女が私に何かを勧める時、それは必ず裏があるということを。
「まあ、素敵ですね。ユーカ様の選ばれたお菓子、きっと素晴らしいものでしょう」
私はそう言いながらも、そのケーキに手をつけない。代わりに、皿の横に添えられたフォークを手に取り、それを数回、皿の端に軽く当てる。カチ、カチ、という小さな音。
「どうしたの。早く召し上がったらどう」
「ふふ、あまりにも美しいので、どこから手をつけてよいか迷っておりました。ですが、せっかくですから、この場で全ていただくのはもったいない。お茶会の前に、この一つを私の部屋で、ゆっくり味わわせていただいてもよろしいでしょうか」
私は一番小さな、そして最も飾り付けが地味なケーキを指差した。
「一つだけ、ですって。ふざけないで。貴女に全部試食して感想を述べてもらうのが、私の目的でしょう」
ユーカ様は明らかに苛立っている。彼女の目は、「毒を盛ろうとした」という私の推測を裏付けるように揺れていた。
私は、毒入りのお菓子を食べるほど愚かではない。もしルーカス様以外の誰かから差し出されたものを口にするなら、必ず毒見をさせるのが公爵夫人の務め。しかし、目の前で公爵家の年長者に毒見をさせるわけにはいかない。それは、ルーカス様を育てた義母に対する最大の侮辱になる。
「恐れ入ります、ユーカ様。実は、今朝、お腹の調子が少し優れなくて。このまま全ていただいて、もしお茶会の最中に失礼があってはいけないと思いまして。どうぞ、ご理解くださいませ」
私はごく自然な仕草で、そのケーキ一つを皿ごと侍女に持たせ、部屋を出た。
ユーカ様の「待ちなさい」という怒鳴り声が背中に突き刺さる。
もちろん、私の体調は万全である。お腹の具合など、嘘だ。
部屋に戻った私は、すぐにそのケーキを屋敷の裏庭にある池へと投げ捨てさせた。ルーカス様が大切にしているこの屋敷で、騒ぎを起こすのは私の本意ではない。誰にも知られずに、彼女の悪意だけを静かに水に流す。
公爵様であるあなたの笑顔が、私の最大の防御壁だ。
「さあ、今日も公爵夫人としてのお仕事を始めましょう」
私は鏡に映る自分に微笑みかけた。この家で、ルーカス様が安心して仕事に専念できるように、私は彼の盾とならなければならない。そのために、私は義母の毒に、ただひたすら無関心を装う。
(本日のお仕事リスト)
社交界の招待状の整理
来月行う慈善バザーの打ち合わせ
ルーカス様が大切にしている蔵書の虫干しの指示
全てを完璧にこなすこと、それが私がこの家にいる理由だ。
夕方になり、日が傾き始めた頃、私はルーカス様の帰宅を待って自室で刺繍をしていた。すると、またもや侍女が駆け込んできた。
「アエナ様、大変でございます。先ほど、ユーカ様が庭師に、アエナ様の大切になさっているバラを全て切り倒すように命じられました」
私のバラ。ルーカス様が私にプロポーズしてくださった夜に、二人で植えた、あの愛のバラ園。
「なんですって」
さすがの私も、その言葉には血の気が引いた。あれは、私とルーカス様の思い出そのものだ。
「すぐに、ユーカ様の元へ行かなければ」
私は急いでユーカ様の私室へと向かった。途中で、庭師たちが作業道具を持って、庭園へと向かう姿が見えた。
「ユーカ様、今、庭師からお聞きしたのですが、私のバラを全て切り倒すようにと命じられたのですか」
私の声は、抑えきれない怒りで震えていた。
「あら、アエナ。聞いていたのね」
ユーカ様は冷笑を浮かべる。
「ええ、そうよ。あのバラ、どうも品種が悪くてね。他の庭園の景観を損ねていると、庭師長から報告があったの。だから、処分することにしたわ」
「そんな。このバラはルーカス様が私に贈ってくださった、大切なものです。それに、品種が悪いなどと、とんでもない。むしろ、この時期にしては見事な花をつけています」
「口答えするな、アエナ。この屋敷のことは、私が一番よく知っている。貴女のようなよそ者にとやかく言われる筋合いはないわ」
彼女はそう言い放ち、私を無視して紅茶を啜る。
このままでは、あのバラが、私たちの愛の証が、本当に切り倒されてしまう。ルーカス様が帰宅されるまでには、まだ数時間ある。
私はどうするべきか。ここで義母に反抗すれば、ルーカス様との関係を壊すことになりかねない。ルーカス様は、血の繋がった家族である義母との諍いを、何よりも嫌うだろう。
私は、ぐっと唇を噛み締め、あることを思いついた。
「かしこまりました。ユーカ様がおっしゃるのなら、バラの処分は仕方ありません」
私がそう言うと、ユーカ様は意外そうな顔をした。
「しかし、ユーカ様。庭師たちがバラを切り倒すのは、大変な重労働でございます。せめて、私たち侍女と私が、明日から時間をかけて、このバラを庭園から別の場所へ移植する、という形にさせていただいてもよろしいでしょうか」
「移植?なぜ」
「はい。品種が悪いとのことですが、このバラの根は大変強く、土壌を改良すれば、きっとどこか別の場所で、再び美しい花を咲かせるでしょう。ルーカス様が選んでくださったバラを、ただゴミとして捨てるのは、あまりにも忍びないのです」
私は、敢えて「ルーカス様」の名前を強調して言った。
「そうねえ」
ユーカ様は腕を組み、考え込む。彼女の目的は、私を苦しめることであり、バラそのものをどうこうしたいわけではない。そして、バラを切り倒すことで、ルーカス様と私の間に亀裂が入ることを望んでいるはずだ。
「移植という名の処分、というわけね。まぁ、いいでしょう。それなら、貴女の言うとおりにしなさい。ただし、庭園の景観が損なわれないように、明日の日没までには、全てのバラを掘り起こし、新しい場所に移動させなさい。期限を破ったら、その時は、庭師長に命じて、全て燃やさせるわよ」
ユーカ様はそう言って、私に冷たい笑みを向けた。
「ありがとうございます、ユーカ様。必ず、約束は守らせていただきます」
私は深くお辞儀をして、部屋を後にした。
(移植ではない、非難を避けるための時間稼ぎ)
私は急いで自分の部屋に戻り、ルーカス様へ手紙を書いた。
『私の愛するあなた、今、屋敷で少し困ったことが起きました。ユーカ様が、庭園のバラを切り倒すように命じられたのです。私はそれを食い止めたい。どうか、早めに帰宅して、この件を解決してください。全ては、あなたの最愛の妻より』
そして、信頼できる小姓に、この手紙をすぐにルーカス様の執務室へ届けるよう命じた。
もし、この手紙が届く前にルーカス様が帰宅したら、私は何事もなかったかのように振る舞うだろう。もし、彼がこの手紙を受け取れば、きっと私の切実な願いを理解してくれるはずだ。
私は、彼の優しさに賭けた。
夕食の時間。ルーカス様はいつもより一時間ほど早く帰宅された。
「ただいま、アエナ。急な会議が予定より早く終わってね。どうした、私の可愛い妻。少し顔色が悪いようだが」
ルーカス様は、私の手を優しく握り、心配そうに尋ねる。
「おかえりなさいませ、ルーカス様。私は大丈夫です。少しだけ、考え事をしていたものですから」
私は、彼の顔を見上げて微笑んだ。ここで、すぐにバラのことを話してはならない。それは、彼の家族を告発することになる。
しかし、ルーカス様は、私を抱きしめながら、私にだけ聞こえる小さな声で囁いた。
「先ほど、君からの手紙を受け取ったよ。バラの件、心配いらない。全て私に任せなさい」
彼の言葉に、私は安堵の息を漏らした。




