鬼哭蓮華
――東京湾近くの倉庫群の一部では、劈くような悲鳴が重奏されていた。
抵抗する声と銃声。しかし数は次第に減っていく。
この場所ではとある取引を行っていた。
魔術に関係のある取引だった。
其れも極めて非合法な。
「てめえ、ナニモンだ⁉」
〝者間組〟の戦闘員の一人が、銃を突きつけながら唾を飛ばす。銃を突きつけられた男。
――鬼浄連は感情表現が乏しい表情で、言葉を結んだ。
「――〝鬼〟さ」
「ふざけんじゃねぇ!」
怒気を露にした男は、引き金を躊躇なく引こうとした。
レンは尋常ならざる反応速度でもって、帯刀を抜刀し、戦闘員の人差し指を切断する。
激痛で男が悲鳴を上げて蹲る。落ちた男の視界に人差し指が転がる。レンが放り投げたのだ。
「……」
男を見下ろす。その眼は冷徹で、何より冷血だった。夜気を伴うその黒瞳は、真実蔑如に満ちていた。
〝者間組〟の行っていた非合法な取引とは、人身売買だった。死体から生きた人間まで、老若男女の別もなく売りさばかれていた。倉庫の内に視線を走らせれば、女の生皮や子供の臓器、血液などがパッケージされている。
「嘗めんじゃねぇ‼」
物陰に隠れていた、戦闘員が人差し指を切り落とされた男を助けようとした。恐らく友人なのだろう。
レンは防御行動に移らなかった。移る必要がない。
銃口が鮮やかに火花を咲かせ、鉛弾をレンの心臓……命脈の坩堝へ誘う。
男はレンの死を確信した。銃より早く動けるはずがないのだ。
「――〝ヒルコ〟」
紅い肉塊がレンの総身を護る。敢え無く、化学の粋……銃の脅威は退けられた。
「てめぇ、魔術師かッ‼」
レンは応えを返さなかった。屑に語る舌はない。舌の根が腐る前に、この倉庫内のモノを殺戮し尽くす。制圧せねばならない倉庫はまだあるのだ。
「〝ヒルコ〟――『腸烏』」
紅い肉塊が蠢き、黒い刀を吐き出す。その刀を握り、レンは駆けた。
瞬目――銃を裁断し、その流れのままに男を切裂く。
「くそったれぇ‼ 国の走狗め!」
人差し指を切断された男が、無事な左手で銃を向ける。間合い四十メートルほど。ただでさえ負傷し、手が震えている。しかも利き手ではない。命中する余地がない。
「――――」
レンは背を向けた。興味を失ったようだった。そのまま倉庫を後にする。
男は震え、安堵の心地になった。
倉庫内は仲間の死体で溢れかえっている。なぜだ。ただ自分達は弱者から利益を収奪していただけだというのに。
自分たちに食い物にされる奴らは、その弱さが悪いのであって、自分たちは悪くないはずだ。
「――〝啄み〟」
烏の群れが。
醜悪な思考の泥濘にはまった男を襲った。
無数の漆黒の波に、啄まれ、男は死亡した。その死体は実に奇妙だった。
腸や眼球がなく、恐怖に歪み祈るような姿であった。
「……」
レンは全身を赤く染めていた。無論返り血である。
彼は僅かに呼気を荒げ、頬が上気していた。
心を落ち着かせるように、東京湾の潮騒に耳を傾けた。
柔らかく、寄せて返す波の音。それを縫い留めようとする満月の光。ここで殺戮が行われたとは思えない情景だと思った。
「――どいつもこいつも、生かしておけない悪人ばかりだ」
だからこそ、自分が生かされている。生きている。
そのことを強く胸に刻み、戒める。
自分は悪を滅するための悪である。
そのことを忘れた時、自分は、狩る側から、狩られる側に立つであろう。
夜気を切裂くように、夜空を覆うように倉庫を破壊し烏の群れが羽ばたく。青年はマフラーをまき直し、顔を埋めた。口元を隠すようなしぐさだった。
◇
――翌朝。
公安魔術犯罪対策庁第七課、監査室。
火が灯ったままの葉巻が煙を吐き出している。
その煙を眺めながら、壮年の男が憂鬱気に蟀谷を揉んだ。
「やりすぎ」
男の手には映像デバイスが収まっている。
散乱した報告書を整理しながら、報告映像を見た男の感想である。
男の名は志藤政孝。
魔術犯罪対策庁第七課を預かる身である。即ちレンの直属の上司になる。
「殺し過ぎだし。そもそも損壊した倉庫は国の所有だから弁済しないとだし」
若人が血気盛んなのは理解するが、いくら何でもやりすぎだ。死体の数が三桁近く上がっているし、大立ち回りの所為で情報規制が面倒だしで。政孝の胃は悲鳴を上げている。
どうしたものかと天井を仰いでいると、机上の通信端末が点滅する。コール音が煩わしく鳴り響く。
舌打ちし、画面を覗くと、げっと顔を顰めて見せた。
「管理局長かよ。やだね~!」
言いながら通話を受ける。
『……第七課長。昨夜の件について報告を』
冷ややかな女の声が室内を打った。
「報告ねぇ……そっちにも報告書と映像いってるだろ? わざわざ必要か?」
『早くなさい』
「はい、はい」
政孝は舌を出した。くだらないことこの上ない。不必要な儀礼的作業に時間を充てる暇があるのなら、実務作業に割いた方がいいのは明瞭ではないか。その一グラムの利益にもならない、問答に付き合わないといけない自分は何と哀れだろうか。
「〝者間組〟が人身や魔術触媒を主にした違法取引を行おうとしているという報告を受け、鬼浄連が現場処理に当たった。副次被害は無し。民間人への被害も同様以上」
『副次被害なし? 複数の国所有倉庫が損壊している様子だったけど? 件の彼、少し目に余るわよ?』
「釘を刺すだけに留まるってことは、彼奴の有用性には気が付いているんだろ? だったら口を噤んでいろ」
『……今回は目を瞑るわ。マスコミへの対応はあなたが為さいな』
「ちょっとまて……!」
制止の言葉も聞かず、通信が切れる。政孝は肩を落とした。
仕方がないと、ソファーに身を預ける。葉巻を口にくわえ、紫煙をくゆらせる。蛍光灯に溶けていく煙を眺めながら、頭の中で情報を整理していくと、ドアがノックされる。
「鬼浄です」
「はいれ」
そう言えば呼んでたな、と益体のないことを考えながら応えを返す。
黒スーツの男が入ってくる。無表情で、辛気臭い。
体面に座るように指示する。
「――鬼浄。昨日の今日で悪いが、新たな指令だ」
「指令ですか?」
「ああ。ちょいと厄介なことになってな……総務大臣は知っているな?」
「はい」
肯く。
「総務大臣……松村清子。魔術犯罪の規制を強く呼びかけている、いわゆる〝タカ派〟の大臣ですよね? たしか次期、総理候補の」
「ああ。彼女が総理に為ったら、俺たちの仕事も随分と増えるだろうが、違法手段を取らなくて済むようになるだろうな」
「望ましい話ですね」
悪を滅するために、悪し方法をとらざるをえないのが現状である。
魔術犯罪に対して、法整備が行き届いていないのだ。
「魔術が公になって、約十五年……鼬ごっこだった法整備に本腰入れようって、女性だ」
「それで。その女性がどうしたんですか?」
「……松村総務大臣の一人息子が誘拐された」
◇
「穏やかじゃないですね」
静謐な表情を崩さず、レンが返した。
政孝が呆れた顔を作る。
「あのなぁ、上からの指令が穏やかだったことがあるか?」
「ないですね」
「地獄みてぇだろ?」
レンは「そうですね」と返した。
「ともかく、大臣の息子が誘拐された。これは極めて緊急を要す案件である。わかるな? 無論今回の件は、極秘裏に動いている。この件を知っているのは管理局の婆さんと、俺とお前だけだ」
「……」
当然だとレンは思った。総務大臣の息子を誘拐されたなぞ、汚名も汚名。政府閣僚は是を利用するだろうし、仮に――ほぼ確実であるが――反社会勢力に大臣の息子の身柄を押さえられていら、どんな利用をされるか分からない。
「明日にでも指の一、二本が松村大臣宅に届いても不思議じゃないな」
「……志藤さん、分かってることを教えてくれ」
「何もない。これといった形跡がねぇんだなこれが」
其れは逆に、侵入者の人物像を明瞭にした。大臣の邸宅に侵入し、その息子を拐したというのに、公安が何らの形跡も尾えなかったということは、手練れの魔術師である可能性が極めて高い。
「なるほど。それで俺たちに話が回ってきたと」
「ああ。局長から直接、非公式の任務として降りてきた。表沙汰にはできん。貧乏くじを押し付けられたな。お互い能力が高いと損だな?」
「構いません、俺は悪を滅するために、此処にいるので」
「俺はお前の無私の奉仕が心配だぜ。男が奉仕するなんざ惚れた女だけでいいんだよ。其れか勝利の女神な」
葉巻を加え乍ら、そんなことを言う。
「何も分からないと言っても、誘拐されたざっとな日時ぐらいは分かるでしょう?」
「二〇四〇年 十一月 十四日」
「……‼」
現在の日付は二〇四〇年 十一月 十六日。
すなわち、事件発生から二日後である。
「少し、全貌が見えてきました」
「お前もか?」
にやりと笑う。
上司に倣いレンも静謐な笑みを作る。
「〝者間組〟は国所有の倉庫を使い、違法物を輸入乃至、輸出を行おうとしていました。高々一介のヤクザにそれが可能かは甚だ疑問が残ります。また国によって徹底管理され、生産量を把握してある〝マンドラゴラ〟などの希少な魔術触媒もかなりの数があった……」
魔術触媒はその危険度から国の管理下に置かれている。生産から加工施設まで、民間の企業には委託せず、国が行っているのだ。それが裏社会に出回っているという噂を聞きつけ、調査をした結果、〝者間組〟に行きついた。その後の結果は知っての通りであろう。
「……〝者間組〟は下っ端が勝手にやったなんて言っちゃあいるがな」
それが不可能なのは言わずもがな。
志藤もその主張が噓八百なのは承知なのだろう。
腹立たしいと言わんばかりに、葉巻に歯を立てている。
「十中八九、高官に関わった人間がいる」
「勘弁してほしい限りだな」
レンは両腕を膝の上に置き、両手の指を絡めた。
紅く汚れがこびりついているような気がした。
「倉庫の使用許可を下ろした人間を調べれば、おのずと犯人が分かるのでは?」
「近づけるだろうが、途中でスケープゴートだろう。哀れな羊が横合いから出てきて、俺らは砂を嚙む羽目になるだろうよ」
「……」
そうだろ。政孝が、視線で言う。レンは肯くだけにとどめた。
「何より、時間が足りない。調べるにしろ、証拠を集めて、確度を保証して裁判所に令状を要請。尋問まで何日かかるか分かったもんじゃない」
「では。分かりやす所を叩きましょう。どうせ叩けば埃が出る」
政孝が目を細める。
レンの言わんとすることを理解し、思案しているのだ。
半瞬にも満たない沈黙……。
その間に彼は、数キロに及ぶ砂浜から特定の砂粒のみを収集するに等しい、思考をした。
「……地獄だぞ?」
「――ええ。其処こそ、俺の居場所です」
◇
――都内・港区。
僅かに工業的な錆のにおいがする。……いや。其れだけではない。
惑う風に乗せ、流る儘に隠しきれない血泥のにおいを運んでいる。
宵の闇の帳をよく見ると、男性と思われる死体がいくつか転がっている。曖昧な表現をしたのは、死体の損壊が激しく、一目で性別を見極められないからだ。
「クズめ」
その残虐なる行為を行った男が吐き捨てた。血が混じりそうな声だった。
彼の名は鬼浄連。
公安魔術犯罪対策庁第七課に所属する処刑人である。
彼は今現在、血泥にまみれていた。夜よりも黒く、闇よりも赤い。そんな風体だった。
レンは〝者間組〟を単身襲撃したのだ。
〝者間組〟は表向き「建設・物流会社」を運営している。だが実際は殺しから違法薬物の栽培・流通まで何でもござれの組織である。
彼らの存在が今の今まで見逃されているのは、とにかく、痕跡を消すが上手かったからだ。公安が二十五メートルプールが満たされる程血と汗を蕩尽してなお、彼らは尻尾を見せず、安楽の笑みを浮かべているのである。
――それを赦すレンではない。
「何だお前は……⁉」
出会い頭に男の首を締め上げる。
〝者間組〟の事務所ビルの侵入を試み、まず周りの人間の排除に動いたのだ。
こうしたことを繰り返した結果、レンの身体は血まみれになった。
男の首の骨が不自然に拉げる。全身の力が抜けたように、どさりと倒れた。
「今ので最後だ」
レンの独語が空気を震わせた。呼気を吐き出し、決意のままに侵入する。
扉を開けた瞬間――機関銃による一斉射撃が行われた。
「〝ヒルコ〟――」
炸薬が煙り、弾幕が殺到するその刹那、レンの唇は自然と、結ばれていた。
主の呼びかけに応え、虚空から肉塊が出現。弾幕の暴風を凌ぐ傘となる。
「――『腸烏』」
主が求める妖刀を己が裡から吐き出す。レンは『腸烏』を抜き放ち。未だ止まぬ破壊の嵐を突破するため、其の権能を存分に振るう。
紅い肉塊を後ろから切りつける。
「〝啄み〟」
妖刀――『腸烏』の権能は卓絶している。
其の権能とは、斬りつけた有機物から数多のカラスを具象化させる。
そこに体積の概念はなく、圧倒的物量を発揮する。
〝ヒルコ〟を斬りつけたことによって、数多のカラスが、弾幕を超える物量でもって、主の敵対象を鳥葬に付した。眼球を抉られ、喉を食い破られ、臓を啄まれた。
弾幕が止み、あたりは硝煙と血錆の臭いで充満している。
べちゃ。べちゃ。
粘性の液体を踏みつけながら、思案する。
「随分と周到だな? もしかして、昨夜の掃討のときから、見張りが付いていたか?」
独語をこぼす。通り過ぎた部屋の扉が開き、男が飛び出してくる。その手には刀が握られていた。
「死ね――ッ‼」
「……」
一瞥もない。男は既に死んでいたのだから。〝ヒルコ〟が実体を表し、男は其れに踏みつぶされ、無様な悲鳴を上げて絶命した。
〝ヒルコ〟がそれを貪る。異音がビルに響く。是はカウントダウンである。滅びのカウントダウン。
この事務所ビルが廃ビルになるまで、そう時間がかからないことは明確であった。
◇
男は忙しなく、荷造りをしていた。男の顔は蒼白で、何かに怯えているようであった。
男の名は〝者間組〟組長・者間恵一。
ビジネスに於ける才幹によって、一代で〝者間組〟をここまで立ち上げた人物である。
「なんだって! なんだってこんな事に為るんだ‼」
事の発端は、政府との取引である。政府が管理する魔術触媒を言い値で買い取り、裏社会で流通させる。
こちらのメリット大きく、怪しんだが、其れに臆する恵一ではなかった。
この取引による利益は、云十億となるのは間違いなかったのだ。多少のリスクは、針とともに飲み干す覚悟であった。
しかし結果は最悪。
手塩にかけた〝者間組〟構成員の多くが死に、其の追及の手が、自分の喉元にまで迫っていた。
「そう、焦らないでください」
「そ、そうは言うが! 国の走狗がそこまで来ているんだぞ‼」
護衛の声に、恵一は上ずらせた声で返す。護衛の男は室内だというのに、サングラスをかけ、愛おしそうに紅いさやに収めてある刀を撫でていた。
此の護衛は魔術師である。彼を雇うのに、かなりの身銭を切ったのだが、相手は銃で武装した人間数十名を瞬殺できるほど手練れである、どれほど役に立つか分かったモノではない。
「ま、そういわず。それよりも印鑑やら書類やらが、まだ事務所にあるでしょう? ここで逃げたら、それこそ消されますよ? 取り合ずそれだけ回収して、逃げましょう」
「ご、護衛はちゃんとしてくれるんだね?」
「仕事何で、頑張りますよ」
気の抜けた返事に、一抹の不安を感じながら。恵一は、事務所に向かった。
◇
「なんだこれは……ッ⁉」
「是はまた酷いですね」
恵一たちが事務所ビルに到着した時、其処は地獄の具現と成り果てていた。
形容しがたい死体の山が累々と積み上げられている。
恵一は、恐怖によって横隔膜が痙攣し、嘔吐した。
「吐き終わりましたか? じゃあ。いきましょう」
「まて! 行くというのか⁉ あそこには死神が居るんだぞ‼」
「死神? ふふ。それは得難い縁だ。共に結びに行こうではありませんか」
笑顔でそう答える護衛に、恵一は恐怖した。魔術師とは皆こうなのか? 心が壊れている。
「どちらにせよ、証拠を残したまま夜逃げ何てしたら、消されますよ?」
「……!」
二者択一。
此処で死神を殺すか、
逃げて、政府の人間に殺されるか。
「で。どうします?」
「嘗めるなよ! 私は、〝者間組〟組長、者間恵一だ! このビルは私が買ったものだ! 私が私の家に帰るのに、誰に伺いを立てる必要がある!」
恵一は悩み、精一杯の虚勢をはって、ビルに踏み込んだ。
彼らが事務室についたとき、恵一は声を失っていた。理由はいくつかある。
一つはビルの中の死体が溢れんばかりに転がっていたこと。
一つは事務室の至る所に戦闘の形跡が刻まれていたというのに、書類にはなんらの汚れや傷がなかったこと。
一つは。
「――貴様が者間恵一だな?」
眼前の黒く赤い死神のような男が、隠さなければいけない書類に目を通しながら、コーヒーを飲んでいたからだった。
◇
「不味いな。最低最悪な味だ」
レンが不愉快そうに、眉を曲げた。
恵一は舌馬鹿めと、心の底で悪罵を吐いた。恵一は金のかかるものが好きだ。なにせすべてが一流だ。服から趣向品まですべてに金をかけている。当然コーヒー豆も最高級品だ。不味いわけがない。
「血と泥と糞を煮詰めたような味だ――子供を攫い、切り売りした金で買ったものは、総てが劣悪だ」
「そこまで言われると、気になるな。僕も貰っていいかな?」
「あ、ああ」
恵一に振り返って聞き、護衛の魔術師がレンの隣に置いてあったコーヒーメーカーを操作して珈琲を紙コップに淹れる。
芳醇な香りが、湯気とともに、鼻腔をくすぐる。
護衛の男が一気に呷る。
「おえ」
吐き出した。白いカッターシャツを珈琲で汚し、げんなりと肩を落とす。
「そう言えば、僕珈琲苦手だった」
自分の胸のあたりに出来た黒いシミを観ながら、男が言う。
「――他者を踏みにじり、生を謳歌できると思っていたのか?」
「……いいじゃない。踏みにじっても。所詮他人だろ? 君には関係ない。恵一君もそう思うでしょ?」
レンが恵一に向け、問いを発し、護衛の男が代わりに応える。
「子供を殺し、社会秩序を乱して、良く平然と生きていけるな」
「いつでもハッピーでいないと辛いよ、恵一君もそう言ってる」
「言ってない!」
勝手に代弁する護衛に、蒼白な顔でやめてくれと哀願するが、彼は素知らぬ顔だった。
「悪は滅する。この国に悪はいらない」
「ええ~? 君だって沢山殺しただろう? 自分だけは正当化は狡いんじゃない? ねっ恵一君!」
「た、頼むから私を挟まないでくれ~っ‼」
悲鳴を上げる恵一無視して、護衛の男が踵を返し、恵一のやや後ろに位置をとる。
「ほら言うでしょう? 必要悪! 恵一君は其れなんだよ!」
「必要な悪ならば、国家によって統制・管理されるべきだ」
「実際されているだろう? だから、今回君は怒り狂っている」
「違う、国家とは必ずしも政府の意ではない。人民による集合だ。必要悪を気取りたいなら、公の場所で主張しろ」
社会秩序を歪める此奴らが、必要悪だと? ふざけるな。奴らは、豚だ。そしてそれを食らうのは、自分である。
魔術師は肩をすくめた。
視線をぶつけ合い、火花が散らんばかりである。
両者、示し合わせたわけでは無いが、邪魔になる紙コップを頭上に放り投げる。丁度、恵一の頭上で重なる、
その瞬間――両者が居合を放つ。
蛍光灯が一瞬途切れ、明滅する僅かな瞬間に鈍色の閃光が迸った。
「やるー!」
「死ね!」
刃と刃が衝突する。その余波で紙コップが両断され、僅かに残っていた熱々の珈琲が恵一の頭上に降った。
「あっつ‼」
熱湯に晒された頭部を抱えて、蹲る。
その半瞬後に、寸刻迄恵一の頭部があった場所で、レンと魔術師の剣が交差する。
「うん! 強いッ!」
「此奴!」
ふざけた態度が、手練れだ。レンは瞬時思考する。多数を相手取り、多少なりとも疲弊している現在、侮っては火傷する。
瞬間、レンの黒瞳に帯びる漆黒の殺意は、床で無様に怯える、男に向く――。
魔術師蹴り飛ばし、レンは恵一へ向かう。
その超速に魔術師は反応できない。
いや。
「え――?」
しなかった。
恵一が呆然と見つめ、レンの刃が届く瞬間、魔術師の顔が醜悪に歪んだ。
恵一は一瞬其れが笑みだと理解できなかった。あまりに凶悪だったからだ。
「ボンッ」
魔術師が拳をひらく動作をした瞬間。
恵一の全身が膨れ上がり、火炎を吐いて炸裂した。
◇
「――――ッ‼」
レンが刃を振り抜く瞬間、後背を嘗め上げるような悪寒が走る。
処刑人はその感覚に自身が持つ全能を全て注ぎ込み、防御行動に専心した。
「〝ヒルコ〟‼」
〝ヒルコ〟の出現と、恵一の炸裂はほぼ同時だった。紅い肉塊がレンを護らと蠢き、死の熱い抱擁からレンをビル外へ逃がした。窓を突き破り、ビルが爆発によって倒壊するのを眺める事しかできなかった。
「……くそ」
ビルが倒壊している。これじゃあ証拠も何もない。全部燃えている。
悔悟が胸を軋ませる。
重力につかまって、着地を余儀なくされる。
「貴様!」
視線を感じて、直ぐに仰ぐように、感じた視線を辿る。
その先には、この惨憺たる有様を演出した張本人、魔術師が居た。
「『臓』――」
「やめておきなよ」
「……ッ‼」
どくんと、心臓が厭に跳ねた。
自身の基盤が揺らぎ、片方に沈んでいくような感覚……。
「妖刀を使い過ぎたね。それの乱用はよろしくないねぇ。特に君……鬼浄の〝禁忌〟だろう? 妖刀との相性最悪だと思うけどなぁ」
「黙れッ!」
「ま、黙れというなら、黙るけれど。ああ、そう言えば。松村大臣の子息だけどね。彼の身柄僕が持ってるから、それじゃ」
「――‼ ま、て」
意識が揺れ、視界が霞む。
膝が折れて、上半身がアスファルトと熱烈なキスをする。
魔力欠乏と貧血。
それがレンを襲った異常の正体だった。
彼は立ち上がる事さえできず、魔術師の背を睨みつける事しか出来ず、程なくして意識を断ち切られた。
雨が降る。傷と血を洗い流すような雨だった。
アスファルトを強かに打ち据える雨粒が、しとどにレンを濡らした。
柔らかい抱擁だった。
まるで母に抱かれるような。
そんな雨だった。
意識が薄れていく。瞼が重く降りてくる。雨音だけが強く主張する雑音の中で。
――懐かしい声が聞こえた気がした。
――レン貴方は、鬼よ。
悪を滅するために、生きなさい。それ以外に、生きる術を持たないのだから。
母が常々レンにはなった言葉だ。
幼いレンにはその言葉の意味があまりわからなかった。
子供にとって、その時の所感はただ母が愛おしいという事だけだった。
その意味を知るようになったのは、彼が十五歳となった夜である。
思春期による情緒の不安定。また環境的な閉塞感が彼の中に眠る「血」を暴走させた。
鬼としての本領を露とした彼は、鬼浄邸宅に在留していたすべての人間を殺戮した。其処に明確な別はなかった。愛憎関係なく、苦みも甘みも嚙み砕いて食した。
その捕食の被害にあったものの中には、愛してやまない母もいた。
彼が、我に返ったのは、母の臓物を食い終えてからだった。
悲鳴を上げ、彼は逃げた。腹に詰まったものを吐き出して、自己嫌悪と悔悟を繰り返した。
仮にも旧家の筆頭鬼浄家の惨殺事件。
魔術が明るみになって間もない時期であったが、すぐさま討伐部隊が編成され、事件から約二刻(四時間)でレンを包囲せしめた。
その部隊を率いていたのは、当時二十八歳だった志藤政孝だ。
「鬼っていうから、どんな怪物かと思ったが……随分と可愛らしい鬼じゃねぇか」
男の言に怒りを抱いたのは至極当然であろう。
少年は、ただ咆哮を上げ政孝に躍りかかった。
「怖いか? 自分の存在が」
軽くあしらわれ、地面に伏す。
「なら戦え。己の悪と」
少年の瞳が揺れる。許されない。そんなことは。自分は無辜の人間を惨殺したのだ。
のうのうと生きることなど。
「己の罪を赦せないなら、生きて戦え。罪を償え。鬼浄家の惨殺で出た死傷者は六十余名。言っちゃぁ悪いが、お前が死んだくらいじゃ割に合わない。傷つけた分……殺した分だけ救え。六十人を傷つけたなら、百二十人の命を救え。其れで初めて、お前は死ねるんだよ」
政孝はレンを放し、懐から煙草をだして火をつける。
紫煙が夜空に吸い込まれるように溶けていく。
「悪いが、こちとら万年人手不足でな、鬼の手も借りたいぐらいなんだわ」
政孝はにっ、と笑いそういった。
今から十二年前の夏の夜のことであった。
◇
白い。
視界のすべてが白く、焼かれんばかりに明るい。無味乾燥な彩で、脳を刺激する要素が光ぐらいだった。
点滴が落ちる音や、バイタルを示す規則的な電子音。覚醒直後の鈍いレンの脳でも、此処が病院であると理解できた。
口の中が酷く乾く。砂を嚙んだようだった。事実嚙んでいる。敗北の砂を。
目覚めて早々レンを襲う悔悟。証拠を押さえるどころか、すべて焼却された。
だが、手掛かりが消えたわけでは無い。
幾つかの書類に目を通せていた。
そこから、今回の件に関わった人間を片っ端から尋問すれば、おのずとあの魔術師に近づける。
いや、そもそも。大臣の子息を拘束し続けられる場所は限られているだろう。
そんな場所を提供できる人間なら、限られている。
レンの瞳に強い意志が蘇る。
ベッドから出ようとした瞬間、眩暈が襲う。
「――やめときな。妖刀の使い過ぎだ。血が足りてないだろ?」
声の主はベッド脇に置いてあったパイプ椅子にどさりと座る。
「志藤さん」
白いシャツの上からスーツを着崩した男の名を呼ぶ。
志藤は懐に入れてあった煙草を取り出し、手の中で玩ぶ。
「連日の戦闘による魔力の減耗と、妖刀の副作用だろうな。お前三日も寝てたんだぜ?」
「三日……」
レンは天井を見上げた。
失った時間の重さを痛感する。
松村子息が誘拐されたのは五日前、もはや予断を許さない。
こんな所で喋っている暇はなかった。
立ち上がろうとするレンの肩を、政孝が掴む。
「志藤さん?」
「追う気だったんだろうが、だめだ。其れは許可できない。」
「なぜ?」
静かに、されど強い非難がその黒瞳にはこめられている。
「何故も何も、上層部が早期解決を図ったのさ。今回の件は何もなかったことになる。いや、そもそもなかった。俺たちがとった策は、あくまで非合法な手段だったからな」
「……つ」
口を引き結ぶ。悔しさで奥歯を噛み締める。
「ふざけるな。だったら、誘拐された子供はどうなる?」
「見殺しにする」
「――――ッ‼」
我を忘れ、恩人に向かって拳を放っていた。
政孝は嘆息して、その拳を右手で受け止める。
「落ち着けよ青二才。当然の判断だろ? たった一人のために、社会秩序を歪めるわけにはいかない。また、テロリストの要求に応える訳にもいかない。松村大臣も納得済みだ。部外者が駄々をこねるものじゃない」
「あなたは納得しているのか‼」
「してる訳ないだろ? だがな。俺は社会人で、その立場に見合った給料を貰っちまってる。だったら受け取った給料に見合った責任を果たさなきゃならん」
なんとも面倒なことであるが。
給料明細書は紙ではなく、鎖で出来ているのを政孝は理解しているのだ。
ゆえに。冷静だ。
「実際に三日前のお前の奮闘はなかったことになった。これ以上の無茶は意味がない」
玩んでいた煙草をくわえる。
「もう、休みな」
「休んでる暇なんてないはずだ、万年人手不足なんだろ?」
子供のように、頑迷に納得を示さないレン。
頭を掻き、どうしたものかと政孝が、低く喉をならす。
「それに、追うつっても、肝心の魔術師の詳細もわからんだろ。捜査のしようがない」
もろもろの状況はレンに持たせてある、映像記録デバイスによって確認済みである。
正直言って、これ以上何かできることはない。
局面は最早自分たちの手から誰のてに移っている。
「最後に目を通した書類に、らしい名前があった」
「ほう」
「及川事務次官」
政孝の眼が細められる。
随分な大物である。正解のパイプも太く、また本人も有能を極めている。
彼ほどの人間をして、ちゃちな金銭ごときで、このような危険を冒すとは考えずらいが。
レンが、自身の腕に通されていた管を無理矢理引き抜く。
エラーを告げる電子音が鳴り響く。
「おい。何している」
「悪を滅する。其れだけが、俺が俺である証明だから」
「まて、許さん」
「通してくれ」
「死ぬぞ」
心胆からまろび出た言葉だった。
レンはその黒瞳をゆるりと閉じ、瞑目する。
甘やかに胸の内に灯る謝意。
一歩踏み出して、彼の懐に潜り込み、口にくわえた煙草を強奪する。
「おい、なんの……」
「病室で吸うつもりですか? 是は俺が預かっておきます」
言いながら、懐にしまい込んだ。
政孝の肩を通り過ぎ、ドアに手を掛ける。
「まて、こんな所で棄てるほど、お前の命は安かったのか?」
肩越しに振り返り、声を投げかける。
レンは振り返らず、その言葉を受け止めた。
「百二十人。俺はまだ救えてませんから――まだ死ねない」
その言葉を残して、病室を後にする。
疲れ果てた政孝が、ベッドに腰を下ろした。
ポケットからライターを取り出して、口元に持っていて気が付く。
「……暫く、禁煙するか?」
◇
空は渦を巻くような鼠色だった。
降りそうで降らない曇天と形容できた。
レンは鼠色の空の下を闊歩し、真っすぐ迷いもせず事務次官の邸宅に向かった。
折よく彼は邸宅にいた。レンは迷わず襲撃し、警備していた人間を昏倒させた。
そして彼を尋問した。
及川は恐怖に喉を震えさせながら、軽薄なぐらい詳らかに語る。
口止めされていないようだった。その語られる内容に、レンの顔が暗く曇ってゆく。
――ああ、なんて茶番なんだと、レンは心中を赫怒で醜く爛れさせ、その瞳は瞋恚の炎がやどる。
そして、詳細を聞き終えると、レンは踵を返した。決着をつけるべく。
――新宿 三区。
とある雑居ビルの階段をレンは下がっていた。
暗く、明滅する死にかけの蛍光灯が煩わしい。
重い靴音をたて、聢進んでいく。
階段を降りきると、無機質な扉がレンを迎える。
目前にして初めて気づくほど巧妙に掩蔽された魔術が施されている。
呼気を吐き出し、ドアノブに手をかけ。
厳かに開く。
「――――」
開かれた光景は目を疑うものだった。
広大な空間。明らかにビルが建っている土地面積よりも大きい。天井は高く、闇は深い。
またどうやって運び込んだのか分からないが、大量のコンテナが空間を埋め尽くさんばかりに置かれている。まるで迷路のような様相だった。
耳の神経を鋭敏にすると、コンテナの中から、人の声や獣の唸り声が聞こえた。拳を震わせる。
――今はまだ救えない。
此処で彼らを救出してしまえば、多くの民間人を守りながら戦闘することになる。
彼らを救うのは。
「此奴らを殺してからだ……!」
わらわらと、蟲のように湧いて出る、刀や銃で武装した男たち。
彼らからは溝のようなにおいがした。
悪辣で、醜悪。
他者を貶め、己が悦を蓄えてきた人種だ。
「おいおい! こんなヒョロガリ殺すだけで一億くれるってマジか⁉」
「ボーナスは俺のもんだ!」
「いいや、俺が殺すぜ‼」
各々が、楽し気にそんなことを語る。
そうやって踏みにじってきたのだろう、泣きわめく弱者を。
「どうして、躊躇なく人を殺せる?」
「あ? 楽しいからに決まってんだろ? 女子供が泣きわめいて、命乞いすんのは最高に気持ちがいいぜ‼」
答えたのは、一番先頭にいた男だった。レンを侮り、隙だらけで。その命を刈り取るのに、然程の苦労もなかった。
「あれ?」
彼の首が空中を舞う間に、さらに三つ、四つと首なし死体を増やしていく。
其の殺戮を奏でるのは銃声と男どもの野太い悲鳴。
硝煙と血とアンモニアの臭いが混ざり、現場の人間の思考と理性を削ぎ接いでいく。
――その中で、唯一冷静だったのは。
暗い殺意を目に湛えるレンだ。
「何なんだよ此奴!」
悲鳴を上げた男の首が弧を描いて空を舞う。
三十余名を殺したところで、レンの思考に違和感が駆けのぼる。
見知った気配だった。魔術の気配。
それは――〝者間組〟組長者間恵一を炸裂させた魔術。
「――〝ヒルコ〟‼」
名を呼び空を裂いて、主を護らんとその巨躯の何割か現世に下ろす。
瞬間レンの周りにいた男たちが閃光を放って炸裂した。
煙が空間を俄かに満たす……。
その煙から逃げるように、背後に飛び、明瞭になった視界に映りこんだ人物に、レンは吠えた。
「魔術師――〝リュー・チェンリー〟‼」
「改めてよろしく、鬼と人の落胤。僕の名を呼んだということは、事のあらましはもう知っているのだね?」
慇懃に応じるサングラスをかけた魔術師――リュー・チェンリー。
彼は大陸出身の魔術師で、革命家である。その腕は大陸でも一、二を争うという。
「……お前らが望むのは〝天業〟だろ?」
「ああ。それが欲しくてずっと見張ってたのに、使ってくれないんだから、困ってしまうよ」
矢張り見張られていたのかと納得する。
すべてが仕組まれていた。〝者間組〟の違法取引現場の襲撃も。
「いやいや、総てではないよ。流石に、昨日の今日で〝者間組〟を襲撃するとは思ってなかったよ。少しの猶予はあると思ってたんだけどね。強引な手段を取らなくても、もう十分に〝者間組〟は尻尾を出してたわけだし」
〝者間組〟が違法取引をしているとリークされたのは、松村大臣の子息が誘拐される前日のことだった。
おそらく第七課の注目を他所に逸らすために〝者間組〟は使われたのだ。
そして、それをするように言ったのは。
「あなたが首謀者だったんだな、松村大臣」
レンの声が残響した。
リューは肩をすくめた。
そしてその後ろ、リューの陰に隠れていた、妙齢の女性が嘆息をしながら前に出る。
「ええ。どうしても、あなたの力が欲しかったの。あのすべてを反転させる、妖刀が」
女は最低限の化粧だけをしていた所為か、その笑みは悍ましく映った。
「そんな事のために、息子をテロリストに渡したのか?」
「手を借りるのなら、最低限、担保を示さなければいけないでしょう?」
其の身勝手さに吐き気を催す。
レンは暗い殺意でもって、松村大臣を見据える。
「あなたの妖刀の力があれば、迂遠な根回しも、国会を開く必要もない。ただ思う侭に! 世界を変えられる!」
「そんな安易な力じゃない」
「いいえ! 力とは何時だって安易なモノよ! 政府の走狗であるあなたは知っている筈よ」
身勝手な論理を振りかざすなと、その眼が語っていたが、松村大臣は気付かなかった。
「私からすれば、どうしてその力を自在に使おうとしないのか、理解に苦しむわ! それだけで世界は思いのままだというのに」
「下劣だな」
「それも違うわ。是は崇高な革命よ」
肺の空気を押し出した。それ以外に、この胸の内を占める怒りを吐き出す術を知らなかった。
「――思想による暴力は、金銭を目的とした暴力の数段下だ。なにせ貴様の思想の価値を実感し、確信するのは貴様だけだが、金銭は万国共通の価値がある。その点、貴様はそこらの守銭奴よりも数段劣る。唾棄すべき下劣だ。貴様の価値観を世界の真実のように語るのはやめろ」
松村大臣の瞳が怒りですわり、ヒステリックな声を張り上げた。
「あなたたち! 彼を殺しなさい! 殺したものに三億渡します!」
「いいんですか? 殺してしまったら、『天業』を手に入れられないのでは」
「いいえ、彼が死ねば『天業』の集権がなくなり、現世に現れるはず。彼の協力によって所有するのがベストでしたが、如何やら協力してくれない様なので、死んでもらいましょう」
意気揚々とレンに踊りかかってくる。
リューが手のひらを向け、爆破しようと準備する。
レンは嘆息する。
そして、妖刀の名を呼んだ。
「――『腸烏』」
式神〝ヒルコ〟の能力は自分を除いた有機物以外の格納である。
〝ヒルコ〟の体内には彼の身体と、無数の呪具が眠っている。
その呪具の名を呼ぶことで、呪具は主の手に収まる。
「――どいつもこいつも、生かしておけない悪ばかり」
現れた『腸烏』を抜き放ち、自身の首に押し当てた。
紅く血が流れ。
「……だから、鬼がいる」
滴る赤い雫が、地面で弾け。
無数のカラスが現出し、羽ばたく。それらは瞬く間に、空間を黒で塗りつぶした。
「〝八咫烏〟」
――八咫烏。
それは妖刀『腸烏』の精髄である。
有機物を利用した、際限なしの増殖が『腸烏』の力であるが、この技はその権能をさらに一段階昇華する。
鬼の血を触媒に増殖した烏の群れは、それ一羽、一羽が生物の形をした斬撃である。
消耗が激しく、何よりもレンの存在が、人間から鬼の存在に傾くため、出来れば使いたくない手だった。
「はぁ……はあ……」
肩で息をして、膝をつく。
顔色は土気色。
かなり魔力を消費した。
羽音が止んだ。
闇の中には、血の滴る音だけが残っていた。
「――まったく、やってくれたね。クライアント様が死んじゃったんだけど」
「死んどけよ」
松村大臣を盾にしながら、リューが軽薄に笑った。
彼女は完全に絶命している様子だった。
彼女の息子の存在を思い出し、レンの心を蝕む。
「まあ、いいけどね。じゃ、『天業』もらうよ」
「クライアントが死んだのに、まだやるのか? 無益じゃないのか?」
「いやいや。持てば世界を思う侭に変えられる武器なんて、欲しいに決まってるだろう。そのためなら、何だってやれるよ」
リューは言いながら、紅いさやに納まっていた刀を抜き放った。
一目で察した。
夜桜のように淡く、怪しいその刀身。
「妖刀か」
「うん。『紅血髑髏』っていうんだ」
『紅血髑髏』を逆手持ちし、地面に突き刺した。
「そしてこれが、この妖刀の力――〝餓者髑髏・自在天万陣〟‼」
――それは死の群れであった。
肉を剥がれ、くすんだ白骨の群れであった。
白骨の群れは、その眼窩に怪しい炎を灯していた。
その群れは、空間を押しのけるがごとく、増殖していった。
「彼らは僕が殺した人たちさ。皆仲間が欲しくて、欲しくて仕方がない。寂しがり屋の彼らの仲間になっておくれよ」
それらがレンに殺到し、其の命脈を断たんとする。
レンには彼らが哀れに見えて仕方なかった。
瞬間の沈黙を破り。
「――『天業』」
その忌まわしき名を呼んだ。
世界を歪ませ、空間を支配し、人々の眼を射止め。
虹彩を放つ刀身が露になる。
「〝逆夢〟」
流転し、逆転し。四季が逆行する。世界のルールが。逆さに陥る。
空気は猛毒になり。炎は凍てつき。物体は天に落ちる。
――この妖刀が全能を発揮したなら、世界は瞬く間に崩壊するだろう。
故にレンはこの全倫理、全理性をもって。
この妖刀を支配する。
距離の概念が反転し、遠距離は、近距離に置き換わる。
リューとの間合いはおよそ、二百メートルになるが。その距離は、今は逆に望ましい。
レンは唯、その刃を振るう。
物理法則が、レンの力に屈し、超常の現象が巻き起こる。
距離の概念を無視し、振るわれた刃が歪曲して見え。
次の瞬間、リューの身体は上下で別れ、鮮やかに散華していた。
「――――」
絶命。
見てわかる。
白骨の群れは、塵へ帰った。
ただ一人の生者が残るのみとなった。
捕らえられた人々を解放した。
彼らは恐怖と感謝が内包した瞳で、レンを見た。
解放された、者の中に、大臣の息子がいた。
ずきりと痛む。
胸を搔き毟る。
でも、幼い少年に、伝える言葉をレンは持たなかった。
事の顛末を政孝に報告した。
諸々の処理は行うと言質を貰った。
しかし、レンはもう。帰る場所を失った。
独断による加害行為は、政府の意するとこではない。
こんどこそ。レンの討伐が決まった。
戻ってくるな。
レンはそう告げられた。
「――志藤さん。それでも俺は人を救うよ。あなたが教えてくれた、生きる道で」
そして、死ぬための道なのだから。
レンは夜の海を見ていた。
男は懐から出した煙草に火をつけた。
遠く見える闇の果てを観ながら、紫煙を巻く。
静謐なその瞳の慨嘆を推し量れるものはどこにもいなかった。
「地獄の窯を冷ましていろ。俺が浸かるその日まで」
殺してきた悪を思い浮かべて、そう独語した。
まだ死ぬわけにはいかない。
この世界には、許しておけない悪が未だ多くいるし。
死を赦される程、自身は人を救っていない。
ならば進むしかないのだ。
男は闇の中を歩く。
宵の闇を運ぶように、気高き鳴き声をあげて烏が飛ぶ。
レンの足跡に、黒羽が舞い落ちた。
其れだけが、彼の存在を保証するかのようだった。
――烏の羽ばたきが、静かに夜を裂いた。
その下で、鬼はただ――人の夢を見ていた。




