星の名を呼ぶ男
1. 日常と噂
昼休みを知らせるチャイムは、解放の号砲というよりは、むしろレース開始の合図に近い。ぞろぞろと、あるいは我先にと教室を飛び出した生徒たちの群れが、一つの目的地――食堂へと流れ込んでいく。プラスチック製の食器がトレーの上でカタカタと鳴る音、券売機の前で繰り広げられる「唐揚げ定食はもう売り切れかよ!」という小さな悲鳴、そして無数の話し声が混ざり合い、一つの巨大な喧騒となって天井の高い空間に渦巻いていた。
在府条太は、その渦の中心から少し外れた壁際の席で、もそもそとミートソーススパゲッティの山を切り崩していた。今日のミートソースは、ひき肉が心なしか多い「当たり」の日だった。小さな幸運に少しだけ口元を緩めながら、フォークに絡め取った麺を口に運ぶ。午後の授業は古典と数学。そして放課後は、卓球部の練習。来月の新人戦に向けた、新しい練習メニューを考えなければならない。ラリーの組み立て、サーブの強化、ダブルスのペアリング……思考は、脳内のコートをピンポン球のように行き来している。それが、卓球部部長である在府条太の、平凡で、予測可能で、そしてそれなりに満たされた日常だった。
「よお、部長! いい席、陣取ってんじゃん」
トレーをテーブルに置くガシャンという乱暴な音と共に、声が降ってきた。顔を上げると、そこには伊藤守則が、カツカレーの大盛りを湯気の向こうでにやつかせながら立っていた。
「伊藤か。別に、席なんてどこでもいいだろ」
条太は素っ気なく答えながら、スパゲッティの山を再び攻略し始める。
「よくねーよ。ポジショニングってのは何事においても重要なんだぜ? ほら、ここなら食堂全体が見渡せる。誰が誰とメシ食ってるとか、あそこのカップルが昨日と違う席だとか、情報戦の最前線基地ってわけ」
伊藤はそう言って大げさにウィンクすると、条太の向かいの席にどっかりと腰を下ろした。彼の周りだけ、空気が二、三度上がったような陽気さがある。クラスの中心にいたい、常に輪の真ん中で笑っていたい。彼の言動の全ては、そのシンプルな願望に貫かれていた。
「情報戦ねえ。俺には、来月の新人戦の方が重要だけどな」
「あー、はいはい、さすが部長は言うことが違うねえ。でもさあ、お前もたまには卓球以外のことにアンテナ張った方がいいって。人生、もっと面白くなるぜ?」
伊藤はスプーンでカツを一口大に切り分けながら、悪戯っぽく声を潜めた。
「で、だ。その面白い人生に繋がりそうな、とっておきのビッグニュースがあるんだけど……聞きたい?」
「別に」
「聞けよ!」
伊藤は前のめりになり、スプーンの先を条太に向けた。カレーの匂いがふわりと漂う。
「明日、俺らのクラスに転校生が来る」
「へえ」
条太の相槌は、スパゲッティのソースのように何の変哲もない。転校生。高校生活における、時折投下される小さなイベント。だが、大抵は数週間もすれば日常の風景に溶け込んでしまうものだ。
「なんだよ、その反応! もっとこう、『マジで!?』とか『男? 女?』とかあるだろ!」
「じゃあ、男か? 女か?」
「そこはまだ確定情報じゃないんだよな。でも、噂じゃとんでもない奴らしい」
伊藤は自分の情報網に自信があるのか、得意げに胸を張った。
「なんでも、親の仕事の都合でアメリカや南米辺りを転々としてた帰国子女らしいんだ。出身は海外だから名前も外国っぽいらしいぜ!何となくだけどイケメンか美女、確定だろ!」
「そうか。卓球はやるのかな」
「お前の頭はピンポン球でできてんのか!」
伊藤は呆れたように叫んだが、すぐにまた楽しそうな表情に戻った。彼の頭の中では、すでに転校生を中心とした新しいクラスのパワーバランスがシミュレーションされているのだろう。
「まあ聞けって。そいつが来たら、この二年のクラス、絶対面白くなる。俺がさ、色々仕切って歓迎会とか開いて、一気にクラスの主導権を握るってわけよ。お前も卓球部の部長として、協力しろよな?」
「主導権ねえ……」
条太は、フォークを持つ手を止めて、初めて真っ直ぐに伊藤を見た。伊藤の目は、野心と期待でキラキラと輝いている。その純粋さが、少しだけ羨ましいような、それでいて現実味のない絵空事のように思えた。自分は、部長としてチームをまとめる責任はあるが、それは勝利という明確な目標があるからだ。クラスを仕切る、というのは、一体何のためなのだろう。
「ま、見てろって。新しい風が吹くぜ」
伊藤はそう言ってカツカレーをかき込み始め、話はもう別のクラスメイトの噂話に移っていた。
条太は再びミートソースに視線を戻す。転校生。海外の血。自分とは縁のない、遠い世界の言葉のように聞こえた。別に日常が変わる必要はない。
このまま、部活に打ち込んで、そこそこの成績を取って、静かに卒業までの日々を過ごせれば、それでいい。
昼休みの終わりを告げる、少し掠れたチャイムの音が食堂に響き渡る。伊藤は「やべ、急げ!」と残りのカレーを口に押し込むと、騒々しくトレーを持って立ち上がった。
「じゃ、また後でな、部長!」
嵐のように去っていく伊藤の背中を見送りながら、条太は皿に残った最後のミートソースをフォークで丁寧に集めた。
「転校生、か」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟いてみる。その言葉は、食堂の喧騒の中にすっと吸い込まれ、すぐに消えていった。
まだ、彼の日常は何も変わっていなかった。
2. シリウスの登場
翌朝の教室は、始業のチャイムが鳴る前から落ち着きのない熱気に満ちていた。誰もが、今日という日が昨日までとは違う一日になることを予感している。そのざわめきの中心にいるのは、やはり伊藤守則だった。彼は自分の席と条太の席を何度も往復しながら、手に入れたばかりの断片的な情報をクラス中に触れ回っていた。
「おい条太、聞いたか? やっぱり男だってよ! しかもマジのイケメンらしいぞ、中学の後輩が見たってさ!」
「そうか」
条太は机の上に卓球専門誌を広げ、昨夜考えた練習メニューをノートに書き写す作業を続けていた。彼の関心は、今日もブレない。
「『そうか』じゃねえって! 歴史が動く瞬間に立ち会ってるってのによ。お前、ほんと体温低いよな」
伊藤は呆れたように肩をすくめたが、その口元は期待で緩みっぱなしだった。彼にとっては、これから始まるショーのプロモーター兼、最前列の観客といった心境なのだろう。
やがて、予鈴が鳴り、担任の教師が少しだけ改まった表情で教室に入ってきた。生徒たちの私語がさざ波のように引いていく。教師は出席簿を教卓に置くと、一度、教室全体を見渡し、そして入口に向かって静かに頷いた。
「皆、静かに。紹介する。今日からこのクラスの仲間になる、石間くんだ」
教室の引き戸が、すっと開く。そこに立っていた人物に、クラス中の視線が磁石のように引き寄せられた。息を呑む音が、あちこちから聞こえる。伊藤が流した噂は、全く誇張ではなかった。むしろ、言葉が足りないくらいだった。
少し色素の薄い、柔らかな髪。日本人離れした彫りの深い顔立ちに、透けるように白い肌。だが、彼の存在感を決定づけているのは、単なる容姿の美しさではなかった。長い海外生活で身についたのだろうか、背筋の伸びた立ち姿には、気負いのない自信と育ちの良さが滲み出ている。窮屈なはずの制服を、まるで誂えたブランドの服のように着こなしていた。
彼――石間シリウスは、教壇の横まで歩み出ると、クラス全体を穏やかな視線で見渡し、ふわりと微笑んだ。それだけで、教室の空気が華やいだように錯覚する。
「はじめまして。石間シリウスです」
その声は、耳に心地よく響く、落ち着いたテノールだった。
「下の名前のシリウスは、本名です。両親が星が好きで……小さい頃は少し気恥ずかしかったんですが、今は気に入っています。良かったら、気軽にシリウスと呼んでください」
黒板に、流れるような美しい文字で自分の名前を書く。その丁寧な所作に見惚れていると、彼はくるりとこちらに向き直った。
「父の仕事の関係で、小学校から先月までアメリカに住んでいました。なので、日本語が少し変だったり、日本の文化に疎かったりするかもしれません。皆さんに、色々と教えてもらえると嬉しいです」
完璧な発音とイントネーションだった。謙遜の言葉が、逆に彼の知性を際立たせている。ざわめきが大きくなる中、担任が「せっかくだから、何か一言」と促すと、シリウスは少しだけはにかんで、まず優雅なお辞儀をした。
"It's a pleasure to be here. I'm looking forward to having a great time with you all." (ここに来られて光栄です。皆さんと素晴らしい時間を過ごせるのを楽しみにしています)
流麗な英語に、女子生徒の何人かが小さく「きゃあ」と声を上げる。まるで映画のワンシーンだった。伊藤が、隣の席の男子生徒に「な! 俺が言った通りだろ!」と自慢げに肘をつついている。
「皆さんと早く仲良くなって、このクラスでの一年を最高の思い出にしたいです。これから一年間、どうぞよろしくお願いします」
完璧な笑顔で締めくくられた自己紹介に、自然と拍手が沸き起こった。
「じゃあ石間、席は……」と担任が教室を見渡す。そして、その指が指し示したのは、条太の隣、窓際に一つだけ空いていた席だった。「在府の隣、あそこで頼む」
条太は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。シリウスが、こちらに気づいて軽く会釈する。条太はぎこちなく頭を下げた。自分のテリトリーに、発光体が飛び込んできたような、落ち着かない気分だった。
最初の休み時間、その予感は現実のものとなる。シリウスの机の周りには、瞬く間に人だかりができた。女子生徒たちは海外の生活について質問攻めにし、男子生徒たちはプレミアリーグの話で盛り上がっている。伊藤も、もちろんその輪の中心にいた。
「なあなあシリウス、ニューヨークとかマジでオシャレな奴しかいないわけ?」
「はは、そんなことないよ。でも、街全体が美術館みたいで、歩いているだけで楽しかったな」
「サッカーはどこのファンなんだ? Jリーグは観る?」
「もちろん観るよ。特にサンフレッチェ広島が……」
シリウスは、どんな質問にも嫌な顔一つせず、一人一人の目を見て丁寧に答えている。その知識は広く、話題は尽きない。最初は輪の中心で場を回そうとしていた伊藤が、専門的なサッカーの戦術論や海外の文化の話が続くと、次第に相槌を打つだけになり、いつの間にか輪の外側へと押し出されていることに、気づいた者はいなかった。
条太は、その喧騒を少し離れた場所から眺めていた。まるで、自分だけがモノクロの世界に取り残され、隣の席だけが総天然色で輝いているようだ。「すごい奴だな」と、素直にそう思う。だが同時に、それは自分とは違う世界の出来事だという感覚も拭えなかった。手に持ったシャープペンシルで、ノートの隅に、無意識に卓球のラケットの絵を描く。そこだけが、自分の確かで、リアルな場所だった。
その流れは、数日経っても変わらなかった。それどころか、シリウスの評価はうなぎ登りだった。彼の完璧さは、勉強やスポーツ、雑談の中に留まらなかった。誰かが困っていれば、ごく自然に手を差し伸べる。掃除をサボる生徒がいれば、高圧的になるのではなく、「一緒にやろう。早く終わらせて、部活に行きたいだろ?」と笑いかける。彼の「正しさ」は、常にポジティブな光に包まれていて、誰もがそれを受け入れた。
そして、後期学級委員長を決めるホームルームの日がやってきた。
「誰か、推薦はいるか?」という担任の問いに、間髪入れずに手が挙がった。クラスの女子の中心グループの一人だ。
「はい! 石間シリウスくんを推薦します!」
その声に、待ってましたとばかりに、あちこちから賛同の声が上がる。「異議なし!」「シリウスしかいない!」という声が飛び交い、それはもう選挙ではなく、戴冠式前の喝采のようだった。
シリウスは驚いたように少しだけ目を見開いたが、やがて静かに立ち上がった。
「推薦、ありがとう。正直、僕で務まるか不安だけど……」
彼は一度言葉を切り、クラス全員の顔をゆっくりと見渡した。
「もし皆が、この未熟な僕に学級委員長という役割を与えてくれるなら、全力で務めたいと思う。皆が、このクラスで良かったと心から思えるように、僕にできることなら何でもするつもりだ。よろしくお願いします」
その謙虚でありながら、強い責任感に満ちた言葉に、教室は万雷の拍手で包まれた。担任でさえも、満足げに頷いている。
条太も、周りに合わせて手を叩いていた。隣の席で、新しい学級委員長となったシリウスが、少しだけ照れたように笑っている。その完璧な横顔は、まるで物語の主人公のようだった。眩しい、と感じる。そして、その眩しさの片隅で、視界の端に映った伊藤が、面白くなさそうに唇を噛んで窓の外を見つめているのを、条太だけが見ていた。
自分の日常が、知らないうちに少しずつ、しかし確実に変わり始めている。条太は、その予感を、打ち消すようにノートに目を落とした。そこには、いつの間にか、複雑なトーナメント表がびっしりと書き込まれていた。
3. 最初の違和感
秋風が校庭の銀杏を揺らし始めると、学校全体がどこか浮き足立った空気に包まれる。文化祭。それは、生徒たちにとって授業や試験から解放される、年に一度の祝祭だ。在府条太たちのクラスでも、放課後のホームルームはその議題で持ちきりだった。
「はい、じゃあ出し物だけど、いくつか案が出てるな。『お化け屋敷』、『クレープ屋』、それから『メイド&執事カフェ』か……」
担任が黒板に書かれた案を読み上げると、教室のあちこちから「お化け屋敷やりてえ!」「絶対カフェでしょ!」と声が上がる。この、まとまりがなく、非効率で、しかし熱気だけはある時間が、文化祭準備の醍醐味とも言えた。条太も、卓球部の練習時間を少し気にしながらも、この教室の熱をどこか楽しんでいた。
議論が紛糾しかけたその時、すっと手が挙がった。石間シリウスだった。彼が発言の意思を示すと、あれほど騒がしかった教室が自然と静まり返る。
「僕も、皆が楽しめるならどの案でも素晴らしいと思います。その上で、少しだけ現実的な視点から提案させてもらってもいいかな?」
シリウスは、誰にでも聞こえる穏やかな声で切り出した。
「まず『お化け屋敷』。これはとても面白そうだけど、準備にかなりの資材と手間がかかる。暗幕や音響、それに人を驚かせる仕掛けも必要だ。僕たちのクラスの予算と準備期間を考えると、クオリティを追求するのは少し難しいかもしれない。次に『クレープ屋』。これは手軽だけど、他のクラスと内容が被る可能性が高い。差別化が難しいんだ」
彼は、立て板に水のごとく、各案のメリットとデメリットを冷静に分析していく。その言葉には少しの澱みもなく、誰もが納得せざるを得ない説得力があった。
「その点、『メイド&執事カフェ』なら、内装と衣装に工夫を凝らすことで、低予算でも独自のコンセプトを打ち出せる。それに、提供するのは市販の飲み物とお菓子でもいいから、調理の手間も省ける。つまり、僕たちのリソースを『空間作り』という一点に集中できるんだ。どうかな?」
完璧なプレゼンテーションだった。シリウスがにこやかに締めくくると、先ほどまで「お化け屋敷!」と叫んでいた男子生徒でさえ、「まあ……シリウスの言う通りかもな」と呟いている。伊藤も、何か言いたげに口をもごもごさせていたが、具体的な反論は見つからないようだった。結局、多数決を取るまでもなく、クラスの出し物はカフェに決まった。
その日から、シリウスのリーダーシップは遺憾なく発揮された。彼はまず、装飾係、衣装係、広報係といった役割分担を明確にし、それぞれの仕事内容とスケジュールを書き出した完璧な工程表を作成した。放課後の教室は、まるで効率的に稼働するプロジェクトチームの作戦司令室のようになった。
条太は、部長として部活の練習を優先していたため、準備には時折顔を出す程度だった。だが、教室を訪れるたびに、その空気の変化に気づかないわけにはいかなかった。
ある日の放課後、装飾係の女子生徒たちが、楽しそうにおしゃべりをしながら壁に貼るための星形の飾りを作っていた。作業は遅々として進んでいなかったが、その手元よりも口の方がよく動いている。文化祭の準備らしい、微笑ましい光景だった。そこへ、シリウスがやってきた。
「みんな、頑張ってくれてありがとう。すごく綺麗だね」
彼はまず労いの言葉をかける。しかし、すぐに続けた。
「一つ、いい方法があるんだ。この厚紙を一度に五枚重ねて、型紙に沿って切れば、作業効率が五倍になる。僕がこっちで紙を重ねるから、誰か切るのを手伝ってくれるかな?」
それは、この上なく正しい提案だった。誰も反論できない。シリウスの言う通りにすれば、作業は劇的に早く進むだろう。しかし、その瞬間、彼女たちの間を流れていた和やかで緩やかな時間は、ぷつりと断ち切られた。おしゃべりは止み、彼女たちは黙々と手を動かすだけの「作業員」になった。
またある時は、広報係の伊藤が、客寄せのための看板を描いていた。彼は得意げな顔で、ウケ狙いなのだろう、デフォルメされた奇妙なキャラクターを大きく描き、「世界一カオスなカフェ、ここに爆誕!」というキャッチコピーを踊らせていた。
それを見つけたシリウスは、少しだけ眉をひそめた。
「伊藤くん、それは?」
「おう、シリウス! どうだ、インパクトあるだろ? これで客もドッと押し寄せるって!」
伊藤の言葉に、シリウスは静かに首を振った。
「気持ちは嬉しいんだけど……僕たちのカフェのコンセプトは、『非日常的で、少し贅沢な空間』なんだ。このイラストとキャッチコピーは、そのコンセプトとは少し違う方向性に見える。来場者に誤解を与えてしまうかもしれないから、やめてくれないかな」
「はあ? 冗談だろ? 文化祭なんて、楽しんだもん勝ちじゃねえか!」
伊藤が、初めてあからさまな反発を見せた。
「もちろん、楽しむことは大前提だよ」とシリウスは頷く。「でも、僕たちの目標は、お客さんに心から喜んでもらい、クラスとして最高の成果を出すことじゃなかったかな? そのためには、個人の表現したいことより、全体の調和を優先すべき時もあると思うんだ」
正論だった。あまりにも、隙のない正論だった。伊藤は「……ちっ」と舌打ちをすると、悔しそうに筆を置いた。周りの生徒たちも、シリウスが正しいと分かっているから、誰も伊藤を庇おうとはしない。教室に、重く、気まずい沈黙が流れた。
条太は、その一部始終を教室の入り口から見ていた。部長という立場上、シリウスの言うことは痛いほど理解できた。チームが勝つためには、個人の我儘を抑え、全体の戦略に従うべき時がある。だが、伊藤や女子生徒たちの、あの楽しそうだった顔も知っている。これは、部活の試合じゃない。たかが文化祭だ。「正しさ」と「楽しさ」が天秤にかけられ、無慈悲に「正しさ」に針が振れる瞬間を、条太は目の当たりにしていた。
そして、文化祭当日。
シリウスの指揮のもとで作られた「カフェ・ステラ」は、大成功を収めた。アンティーク調の装飾、細部までこだわった衣装、完璧な接客。そのクオリティは高校生のレベルを遥かに超えており、廊下には常に行列ができていた。最終的に、売上も、来場者投票によるコンテストの順位も、学年トップを記録した。
その夜の、ささやかな打ち上げ。コンビニで買ってきたジュースやお菓子を囲みながら、シリウスがクラスを代表して乾杯の音頭を取った。
「みんな、本当にお疲れ様! 君たち一人一人の頑張りがあったから、最高の結果が出せた。ありがとう!」
拍手と歓声が上がる。誰もが、シリウスの功績を称えた。
しかし、その喧騒の中で、条太は拭いがたい違和感を覚えていた。達成感はある。誇らしい気持ちもある。だが、教室に満ちているのは、心の底から湧き上がるような祝祭の熱気ではなかった。それは、困難なプロジェクトをやり遂げた後の、心地よい疲労感と安堵感に近い。まるで、厳しい仕事を終えた後のような空気。
「楽しかったな」と誰かが言った。しかし、その声はどこか乾いていた。
周りを見渡せば、伊藤はつまらなそうにスマホをいじっている。飾り付けを作っていた女子生徒たちも、疲れた顔で静かにお茶を飲んでいるだけだ。
僕たちは、本当に「楽しかった」のだろうか?
条太の心に、小さな、しかし消えない染みのような疑問が生まれた。完璧な成功。完璧なリーダー。そして、その完璧さが生み出した、この奇妙な空虚感。
何かが、決定的に間違っている。
その違和感の正体を、彼はまだ言葉にできずにいた。
4. 扇動者の囁き
文化祭の熱狂が嘘のように過ぎ去り、学校には再び教科書とチョークの匂いが満ちる日常が戻ってきた。あれだけ称賛された「カフェ・ステラ」の装飾も跡形もなく片付けられ、教室は元の殺風景な箱に戻っている。石間シリウスは、相変わらずクラスの中心にいた。彼の周りにはいつも誰かがいて、その会話は途切れることがない。だが、あの日以来、その光景は在府条太の目にどこか違う色合いを帯びて映るようになっていた。
放課後、条太は一人、卓球部の部室にいた。体育館の喧騒から隔離されたこの小部屋は、ラバーの独特な匂いと、少し埃っぽい空気が支配する、彼にとっての聖域だ。ラケットケースから愛用のシェークハンドラケットを取り出し、古くなったラバーの縁を指でなぞる。次の大会までには、新しいものに貼り替えなければならない。そんな、いつも通りの思考に没頭していた時だった。
「よお」
ぎい、と錆びた音を立ててドアが開き、ひょっこりと顔を覗かせたのは、いるはずのない人物だった。
「伊藤……? どうしたんだ、珍しいな」
「いや、ちょっとさ」
伊藤は、部外者である気まずさからか、入り口でためらいながら言った。その表情は、いつものようなカラっとした明るさではなく、何か言い淀んでいるような複雑な色を浮かべている。
「……文化祭、大成功だったよな。俺たちのクラス」
唐突な話題だった。条太はラケットから顔を上げ、訝しげに伊藤を見る。
「ああ。まあな」
「全部、シリウスのおかげって感じだよな。あいつがいなけりゃ、売上も順位も、あそこまでいかなかったのは確かだ」
その口調には、明らかに皮肉が混じっていた。ねっとりとした何かが絡みついている。条太は返事に窮し、曖昧に頷いた。
伊藤は、そんな条太の反応を窺うように、一歩だけ部室に足を踏み入れた。そして、まるで重大な秘密を打ち明けるかのように、ぐっと声を潜める。彼の目が、条太の目をじっと捉えていた。
「なあ、在府。お前、俺のダチだよな?」
「……なんだよ、急に」
「だから、正直に言ってくれ。嘘とか、建前とか、そういうの抜きでさ」
伊藤は一度、唾を飲み込んだ。部室の窓から差し込む西日が、彼の顔に長い影を落とす。
「……石間、なんかウザくね?」
その言葉は、囁き声だったにもかかわらず、条太の鼓膜を強く揺さぶった。まるで、静かな水面に投じられた石だ。ウザい。その、あまりにも直接的で、感情的で、そして乱暴な一言に、条太は息を呑んだ。
「ウザいって……どういうことだよ」
条太は、なんとか平静を装って聞き返した。彼の内側で、真面目な部長としての理性が、その言葉に反発しようとしていた。
「あいつは、クラスのために色々やってくれてるじゃないか。お前だって、助けられた部分もあるだろ」
「はっ、やってくれてる、ね」
伊藤は、鼻で笑った。その顔には、隠しきれない侮蔑が浮かんでいる。
「お前にはそう見えんのか? 俺には、自分の思い通りにクラスを支配して、気持ちよくなってるだけのナルシストにしか見えないけどな」
「支配……?」
「そうだよ、支配だ!」
伊藤の声が、少しだけ大きくなる。彼は慌ててあたりを見回し、再び声を潜めた。
「お前も、文化祭の準備、見てただろ? あの看板の件も、女子たちの飾り付けの件も。あいつの一言で、全部が全部、あいつの『正しい』やり方に塗り替えられていく。誰も反論できない。だって、あいつはいつだって『正しい』からな。でも、そのせいで、みんなが楽しそうじゃなかったことに、お前は気づかなかったのかよ」
条太は、言葉に詰まった。反論できなかった。なぜなら、伊藤の言葉は、彼が文化祭の打ち上げで感じた、あの名付けようのなかった空虚感の正体を、的確に言い当てていたからだ。楽しそうじゃなかった。そうだ、確かに、あの時のクラスメイトたちの顔は、どこか疲れて、諦めているように見えた。
「あれは『協力』じゃねえ。……『独裁』だよ」
伊藤は、そう断言した。独裁。その強烈な言葉が、条太の胸に突き刺さる。そうだ、あの感覚はそれだったのかもしれない。誰もが正しいと分かっているからこそ逆らえない、息苦しい正しさによる支配。条太が感じていた違和感に、伊藤が悪意に満ちた名前を与えた瞬間だった。
条太が何も言えずにいるのを見て、伊藤は目的を果たしたと判断したのだろう。彼はふっと表情を緩めると、ドアノブに手をかけた。
「まあ、いいや。お前は真面目な部長様だから、俺みたいな奴の気持ちは分かんねえかもな。じゃあな」
最後に皮肉な一言を残し、伊藤は今度こそ部室から出て行った。再び一人になった部室は、先ほどよりもずっと静かで、広く感じられた。
条太は、手の中のラケットを、指の関節が白くなるほど強く握りしめていた。
壁に向かって、素振りを始める。いつもなら、フォームや体重移動に意識を集中させ、無心になれるはずの行為。だが、今は違った。腕を振るたびに、伊藤の言葉が頭の中で反響する。
『石間、なんかウザくね?』
その言葉が、耳の奥で何度も、何度も再生される。文化祭の、シリウスの完璧な笑顔。それを見て、どこか白けた顔をしていたクラスメイトたち。そして、悔しそうに唇を噛んでいた伊藤の顔。バラバラだった光景が、その一言によって、一つの意味を持った物語として繋がり始める。
ウザい。
そのたった一言が、条太の心の中にあった小さな疑念の染みを、はっきりとした輪郭を持つ、黒いインクの染みへと変えてしまっていた。彼の聖域だったはずの部室の空気が、もう元には戻らないであろう異質なもので満たされていくのを、彼はただ感じていた。
5. 疑念の確信
伊藤にあの言葉を囁かれてから数日、在府条太の世界は、まるでピントのずれたカメラのレンズ越しに見るように、どこかぼやけていた。授業中、ノートを取るふりをしながら、無意識に視線は隣の席へと吸い寄せられる。
石間シリウスは、相変わらず完璧だった。背筋を伸ばし、教師の言葉の一言一句を聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで黒板を見つめている。彼のノートは、まるで印刷されたかのように整然とした文字で埋め尽くされていく。その完璧な横顔を見るたびに、条太の耳の奥では、伊藤の声が低く響いた。
『――なんか、ウザくね?』
条太は、その声を振り払うように、シャープペンシルを強く握り直した。くだらない。ただの嫉妬とやっかみだ。俺は卓球部の部長として、むしろシリウスの真面目さを見習うべきじゃないか。そう自分に言い聞かせようとする。だが、一度意識してしまった染みは、消えるどころか、むしろじわじわと広がっていくようだった。
その日は、午後の古典の授業だった。窓から差し込む秋の午後の日差しは柔らかく、教師の抑揚のない朗読の声と相まって、教室には抗いがたい眠気が漂っていた。生徒の半分近くが、意識を飛ばしかけている。条太も、瞼が重くなるのを感じていた。
授業が後半に差し掛かり、教室の気だるさがピークに達した、その時だった。
教室の静寂を破って、すっと手が挙がった。隣の席の、石間シリウスだった。その動きは、いつものように滑らかで、しかし有無を言わせぬ断固とした意志に貫かれていた。教室中の、まだ覚醒していた意識が、一斉に彼へと向かう。
「どうした、石間」
教師が、少し面倒臭そうに問いかける。
「先生。授業の進行を妨げるようで、大変申し訳ありません」
シリウスは、起立したまま、非常に丁寧な言葉遣いで切り出した。その声は静かだったが、教室の隅々まで凛と響き渡る。
「ですが、どうしても看過できないことがあります」
彼の視線が、教室の斜め後ろへと向けられた。皆の視線も、それに倣う。そこにいたのは、前川。普段は物静かで、特に目立つことのない男子生徒だった。彼は、こくり、こくり、と懸命に睡魔と戦っていたが、ついにその戦いに敗れ、机に突っ伏すようにして眠りこけてしまっていた。
「前川くんが、先ほどからずっと居眠りをしています」
シリウスは、裁判官が起訴状を読み上げるかのように、淡々と事実を告げた。
「皆が真剣に授業を受け、貴重な知識を学ぼうとしているこの場で、彼のその態度は、授業そのものへの、そして先生と、ここにいる僕たち全員への冒涜ではないでしょうか」
教室の空気が、凍りついた。名指しでの、あまりにも直接的な糾弾。数人の生徒が、面白がってくすくす笑う声が漏れたが、大半の生徒は、どう反応していいか分からず、気まずそうに俯いている。
ハッと我に返った前川が、顔を真っ赤にして飛び起きた。何が起こったのか理解できず、怯えたように周りを見回している。
教師が「まあまあ、石間。前川も疲れているんだろう。目を閉じとっただけだろ?な、前川、顔を洗ってこい」と、なんとかその場を収めようとした。だが、シリウスは引かなかった。彼は、教師ではなく、前川に向き直ると、静かだが、刃物のように鋭い声で言った。
「恥を知りなさい」
その声は、非難というよりは、宣告に近かった。
「君一人の不真面目な態度のせいで、このクラスの貴重な学びの時間が、どれだけ損なわれていると思っているんだ。それは、君だけの問題じゃない。僕たち全員の問題なんだ」
条太は、隣でその光景を見ながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
以前の俺なら。文化祭の前、伊藤の言葉を聞く前の俺なら、きっとシリウスに喝采を送っていただろう。そうだ、不真面目な奴は嫌いだ。全体の輪を乱す者は許せない。部長としての自分は、常にそう考えてきた。
でも。
『独裁だよ』
伊藤の声が、雷鳴のように頭の中で轟いた。
本当に、これは正しいことなのか? 鈴木は、もしかしたら昨夜、アルバイトで朝まで働いていたのかもしれない。病気の家族の看病をしていたのかもしれない。誰にも言えない、重い悩みを抱えて、眠れない夜を過ごしたのかもしれない。
その、誰にも分からない背景を一切無視して、たった一つの「正しさ」の物差しで、大勢の前で、彼を断罪することが。
本当に、「正義」と呼べるのだろうか?
条太の中で、シリウスの放つ光が、その色を急速に変えていく。それはもう、希望や理想の光ではなかった。他者の事情を一切許容しない、冷たく、硬質で、思いやりの欠片もない、非情な光。
文化祭の時に感じた、あの名付けようのなかった違和感。その正体が、今、はっきりと像を結んだ。
これは、正しさの暴力だ。
授業の終わりを告げるチャイムが、まるで遠い世界で鳴っているかのように聞こえた。重苦しい空気の中、生徒たちは目を合わせようとせず、そそくさと教室を出ていく。前川は、顔を伏せたまま、「目を閉じとっただけだよ…」と呟き、微動だにしなかった。
条太は、隣の席で、何事もなかったかのように、しかしどこか満足げにノートを閉じているシリウスの横顔を盗み見た。その整った顔は、条太の目にはもう、正義のヒーローではなく、自分の信じる正義のためなら、平気で誰かの尊厳を踏みにじる、冷酷な独裁者のようにしか見えなかった。
条太は、拳を強く握りしめた。
話さなければ。伊藤に。この、今、自分が確信したことを。
心の中で、何かが音を立てて固まった。もう、後戻りはできない。疑念は、燃え盛る確信へと変わってしまったのだから。
6. 共感者の拡大
授業の終わりを告げるチャイムの音は、在府条太にとってレース開始の号砲となった。彼は、周りの生徒たちがのろのろと帰り支度を始めるのを待たず、弾かれたように席を立った。目指す先は一つ。伊藤守則だ。
教室の後方で、友達相手にさっきの授業の出来事を面白おかしく話している伊藤の肩を、条太は強い力で掴んだ。
「伊藤、ちょっといいか」
その声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。伊藤は、条太のただならぬ様子に一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと口の端を吊り上げた。
「おう、部長。どうしたんだよ、そんな真剣な顔しちゃって。俺に告白でもすんのか?」
「いいから、来い」
条太は、おどける伊藤の腕を掴むと、半ば強引に廊下へと引きずり出した。放課後のざわめきの中、人の流れから外れた階段の踊り場まで来ると、ようやくその腕を離した。
「さっきの授業、見てたな」
条太は、息を切らしながらも、まっすぐに伊藤の目を見据えて言った。
「ああ、見た見た。シリウス様の正義の鉄槌が下った、歴史的瞬間だろ? 前川、泣いてんじゃねえの」
伊藤は、まるで面白いゴシップでも話すかのように肩をすくめる。だが、条太の表情は変わらなかった。
「あれは、ただの正義じゃない」
条太は、自分の奥底から絞り出すように言った。
「……お前の言った通りだった。あれは、独裁だ。人の気持ちも、事情も、何も考えない。ただの、正しさを振りかざした暴力だよ」
その言葉を聞いた瞬間、伊藤の顔から、からかうような色がすっと消えた。代わりに、彼の目に宿ったのは、暗い喜びとでも言うべき、ギラギラとした光だった。
「……だよな!?」
伊藤は、抑えきれないといった様子で条太の肩を掴み返した。その力は、先ほどの条太よりもずっと強い。
「やっと分かったか、在府! 俺、ずっとそう思ってたんだよ! あいつが来てから、クラスの空気、絶対おかしくなったって! でも、みんなあいつのことスゲーって言うし、俺がおかしいのかって……!」
自分の直感的な嫌悪感が、真面目な部長である条太によって「正しさの暴力」という論理的な名前を与えられた。その事実に、伊藤は狂喜していた。彼は、自分が見つけた真実を証明してくれる、最高の相棒を手に入れたのだ。
「俺たちだけじゃない。きっと、他にもそう思ってる奴はいるはずだ」
条太は言った。彼の頭の中では、卓球の試合で戦術を組み立てる時のように、冷静に次の一手が描かれていた。
「一人ずつ、話してみよう。あいつのやり方に、少しでも疑問を感じている奴を探すんだ」
二人の間に、共犯者だけが共有できる、暗く強固な連帯感が生まれた。もはや、彼らの間に迷いはなかった。
彼らが最初に声をかけたのは、文化祭で装飾係をしていた女子生徒たちのグループだった。彼女たちは、教室の隅で、今日の出来事をひそひそと話し合っていた。
「ねえ、さっきの、ちょっとやりすぎじゃない?」
「思った。前川くん、可哀想だったよね……」
そこへ、伊藤がわざとらしく、しかし同情的な声色で割って入った。
「だよな。俺もそう思う。シリウスって、結局ああいう奴なんだよ。文化祭の時もさ、お前らが一生懸命、楽しんで作ってた飾り付けのこと、覚えてるか? あいつ、全部『効率』って言葉で台無しにしちまっただろ?」
伊藤が過去の不満を掘り返すと、女子生徒の一人が悔しそうに頷いた。
「……うん。あの時も、正しいこと言ってるのは分かるんだけど、なんか、すごく冷たいなって……」
すかさず、条太が言葉を継いだ。彼の口調は、伊藤のように感情的ではなく、静かで、理性的だった。
「彼のやり方は、一見するとクラスのためになっているように見える。でも、その結果、誰かが傷ついたり、僕たちみたいに息苦しさを感じたりしている。本当にそれは、クラスのためになっていると言えるんだろうか。僕たちは、このまま黙って見ていていいのかな」
条太の問いかけは、彼女たちの心に深く響いた。自分たちが感じていた、名付けようのなかったモヤモヤとした感情。それは、個人的な我儘や怠慢などではなく、「シリウスの独善的なやり方」という、告発されるべき対象なのだ。その発見は、彼女たちに安堵と、そして正義の怒りを与えた。
「……私たちも、そう思う」
「シリウスくん、ちょっと怖いかも……」
ねずみが火種を運ぶように、その噂は、驚くべき速さで広がっていった。
部活のロッカー室で。昼休みの食堂の片隅で。帰りの電車の中で。
「なあ、聞いたか? 今日の古典の時間の話」
「シリウス、マジでヤバいらしいな」
「あいつの正しさって、なんか息苦しくない?」
かつてシリウスを称賛していた言葉は、今や彼を非難するための根拠として再利用された。「完璧すぎる」は「人間味がない」に。「リーダーシップがある」は「独裁的だ」に。「誰にでも平等」は「人の気持ちが分からない」に。
その日の放課後、条太と伊藤がいつものように部室へ向かっていると、数人のクラスメイトが彼らを呼び止めた。文化祭で伊藤の看板を止められた広報係の男子や、以前、部活のことでシリウスに正論を言われて面白くなさそうにしていたサッカー部の生徒たちだった。
「なあ、お前らの言ってること、マジだよな」
「俺も、前からあいつのこと、なんか好かねえなって思ってたんだよ」
気づけば、条太と伊藤の周りには、小さな輪ができていた。彼らは、堰を切ったように、口々にシリウスへの不満や違和感を語り合っている。
「何かウザい」
かつては伊藤一人の主観でしかなかったその言葉が、今や、この集団の中では疑いようのない「事実」として、共有されていた。
条太は、その輪の中心にいる自分に気づいた。自分の言葉に、皆が頷き、共感してくれている。卓球部の練習をまとめる時の、あの生真面目な責任感とは違う。もっと熱く、もっと直接的に、人の心を動かしているという全能感に近い高揚感が、彼の全身を駆け巡っていた。
これは、単なる誹謗中傷じゃない。
歪んでしまったクラスを、あるべき姿に戻すための、正義の活動なのだ。
条太は、集まった仲間たちの顔を見回しながら、固く、そう確信した。彼の第二幕は、今、静かに、しかし熱狂的に始まろうとしていた。
7. 歪んだリーダーシップと正義の暴走
在府条太の中で、何かが決定的に変質した。それは、彼自身が長年かけて培ってきたはずの、真面目さや責任感という美徳が、暗い熱を帯びて暴走を始めた瞬間だった。かつて卓球の新人戦に向け、練習メニューや対戦相手の分析に注いでいた情熱と集中力は、今や、石間シリウスというたった一人の人間を、いかにしてクラスという社会から排除するかに全て注がれていた。
放課後、もはや彼らの司令塔と化した卓球部の部室に、条太と伊藤、そして数人の「同志」が集まっていた。壁に立てかけられたラケットが、主の関心を失って寂しげに見える。
「問題は、あいつの『正しさ』が、いまだに教師や一部の生徒には通用していることだ」
条太は、作戦ボードに相手校の戦術を書き込むように、白いマグネットボードに「石間シリウス」と書き、その周りにいくつかのキーワードを並べた。「正論」「優等生」「教師の信頼」。その口調は、感情的ではなく、驚くほど冷静で分析的だった。
「だから、次の狙いは、彼の『正しさ』そのものを無力化すること。彼が何か正しいことを言っても、それが『また始まった、独善的な正義の押し付けだ』と、クラス全体が自動的に認識するように仕向けるんだ」
「具体的には、どうすんだよ?」
実行部隊長である伊藤が、腕を組んで問いかける。
「情報戦だ」と条太は断言した。「僕たちは、シリウスよりも早く、そして多くの情報を発信する。彼が何か行動を起こす前に、僕たちの『解釈』をクラスの共通認識にしておくんだ」
その日から、彼らの「活動」は、より組織的かつ陰湿になった。
まず、伊藤が中心となって、鍵付きのSNSアカウント『2-B 真実の目』が作られた。プロフィール欄には、『偽りの光に惑わされるな。真実はここにある』という、芝居がかった一文が書かれている。フォロワーは、彼らが「信頼できる」と判断したクラスメイトだけだ。
シリウスが授業中に、以前のように誰かの間違いを指摘しようものなら、その瞬間に『真実の目』が更新される。
『【速報】シリウス様、本日も正義の鉄槌を発動!ターゲットは○○さん!みんな、彼を励ましてあげよう! #正義の独裁者 #空気クラッシャー』
事実を微妙に捻じ曲げ、悪意のあるハッシュタグを添えられた投稿は、瞬く間にフォロワーたちの間で共有され、「またかよw」「まじウザい」というコメントで埋め尽くされる。シリウスが真実を語る前に、彼の言葉はすでに「ウザい正論」として消費されてしまっているのだ。
教室での無視や孤立も、徹底された。
グループワークの班分けがあれば、誰もシリウスと同じ班になろうとしない。彼が仕方なく一人で作業していると、『真実の目』には『孤高の王、本日も一人で玉座にお座りです』といった皮肉な投稿が上がる。彼が発言すれば、わざと聞こえないふりをする。彼が誰かに話しかければ、その相手は周りの目を気にして、そそくさと離れていく。
条太は、その全てを計画し、指揮していた。
彼は、卓球部の部長として培った人間観察能力を駆使し、誰が不満を抱えているか、誰がこの流れに乗りたがっているかを的確に見抜いては、巧みに仲間へと引き入れていった。
「彼のせいで、クラスの雰囲気が悪くなったと思わないか?」
「君の意見が、彼の一言で潰されたのを僕は見ている。悔しかっただろう?」
彼の言葉は、相手が心の奥底で思っていることを代弁し、その不満に「シリウスという分かりやすい敵」と「君は間違っていない」というお墨付きを与えた。人々は、自分の小さな不満や嫉妬が、クラスを救うための大義に繋がっていると錯覚し、喜んで条太の信奉者となった。
条太自身も、その変化に酔いしれていた。
卓球の練習に身が入らない日が増えた。ラケットを握る時間よりも、スマホで『真実の目』の反応をチェックし、次の「戦術」を練る時間の方が、遥かに刺激的だった。鏡に映る自分の顔が、以前の平凡な高校生のそれとは違う、高揚し、自信に満ち、しかしどこか歪んだ表情をしていることに、彼は気づいていた。だが、その微かな違和感も、「これは革命なんだ」という万能感がすぐに塗りつぶしてしまう。
俺は、ただの卓球部の部長でしかなかった。でも今は違う。この淀んだクラスを浄化し、皆を偽りの光から解放する、真のリーダーなんだ。
その歪んだ自負心は、彼らをさらに大胆にさせた。攻撃は、シリウス本人だけでなく、彼を庇おうとする数少ない生徒や、事情を知らずに彼を褒める教師にまで及んだ。
ある日、条太は、教室の隅の席で、一人、虚ろな目で窓の外を見つめているシリウスの姿を目にした。かつて光り輝いていた恒星は、その輝きを失い、誰にも見えないブラックホールのように、ただ静かに沈黙していた。その姿に、一瞬だけ、ナイフで刺されたような鋭い痛みが胸をよぎった。
だが、その感傷は、隣にいた伊藤の一言でかき消された。
「いい気味だよな。天狗様も、仲間がいなけりゃただの人だぜ」
伊藤がニヤニヤしながら言うと、周りにいた仲間たちが「間違いない!」「全部、在府のおかげだな!」と口々に条太を称賛した。
その温かく、心地よい賞賛の声に、条太の胸の痛みはすぐに溶けて消えた。彼は、仲間たちの方を向き、一緒に笑った。自分の居場所が、自分の価値が、ここにあることを確かめるように。リーダーとしての自分が、皆から必要とされている、その熱狂的な事実を、全身で味わうように。
彼の心は、もう完全に麻痺していた。
8. 活動のピークと沈黙の戴冠
彼らの活動は、もはや日常の風景と化していた。SNSでの揶揄、教室での無視、聞こえよがしの陰口。石間シリウスは、クラスの中で「存在しない者」として扱われることに、なすすべもなく耐えていた。かつて彼を囲んでいた人だかりは消え、彼の席の周りだけが、まるでそこだけ重力が違うかのように、ぽっかりと空白になっている。
だが、在府条太は満足していなかった。静かな排除では足りない。彼らの「正義」が、クラスの総意として公に認められ、シリウスが「悪」であると断罪される、決定的な儀式が必要だった。彼の革命を完成させるための、最後の仕上げが。
ある日のホームルームの終わり、条太は、学級委員長であるシリウスを差し置いて、静かに立ち上がった。その場の全員が、何かが始まると予感して彼に注目する。
「先生、そして皆さん。少しだけ、時間をいただけないでしょうか」
その声は、落ち着いていて、理知的で、そして有無を言わせぬ力強さがあった。
「今の僕たちのクラスには、解決すべき、いくつかの根深い問題があるように思います。このままなあなあで過ごすのではなく、一度、皆でしっかりと話し合うべきです。より良いクラスにするために」
「より良いクラスにするため」。その美しい大義名分に、担任は反対できなかった。急遽、その日の六限目に、臨時学級会が開かれることが決まった。議題は、「クラスの現状と今後の課題について」。
そして、運命の六限目。
教壇の前には、司会進行役として、在府条太が立っていた。彼は、まるで経験豊富な討論会の議長のように、冷静に、しかし場を完全に支配していた。
「それでは、臨時学級会を始めます」
静寂の中、条太の声が響く。彼は一度、教室全体を見渡した。恐怖と好奇の入り混じった視線が、彼に集まっている。
「先ほども言った通り、僕たちのクラスには、解決すべき問題があります。多くの人が、息苦しさや、やりきれない思いを抱えている。その原因について、今日は皆で、目をそらさずに考えたい」
彼は、ゆっくりと、一人の生徒を指差した。石間シリウスだ。
「石間くん、君がこのクラスに来てから、一体何が変わったと思う?」
突然の問いかけに、シリウスは驚いて顔を上げた。条太の目は、氷のように冷たかった。
「……えっと、僕は、みんなと仲良くなって、クラスを良くしようと……」
シリウスが、か細い声で答えようとした、その時だった。
「――うるせえよ!」
野獣の咆哮のような声が、それを遮った。伊藤守則だった。彼は席を蹴るように立ち上がり、シリウスを指差していた。
「問題ってのはな、石間シリウス、お前自身のことだよ!」
それを皮切りに、堰を切ったように、条太の「同志」たちが次々とシリウスを非難し始めた。
「文化祭の時、私たちの気持ち、全部踏みにじったこと、忘れたなんて言わせない!」
「お前のせいで、前川は学校に来づらくなったんだぞ! どう責任取るんだよ!」
「あんたの正論、もう聞き飽きたんだよ! いつもいつも、自分が一番正しいって顔しやがって!」
事実と嘘が巧妙に混ぜ合わされ、悪意によって増幅された「罪状」が、四方八方から礫のようにシリウスに投げつけられる。彼は、その嵐の中で、必死に何かを言おうとしていた。
「違う……僕は、そんなつもりじゃ……ただ、みんなのためを思って……」
「お前のその『ため』が! みんなを苦しめてるって、まだ分かんねえのかよ!」
伊藤の怒声が、シリウスの言葉をかき消す。シリウスは、助けを求めるように周りを見渡した。だが、目が合う者はいない。クラスの大多数は、この異常な公開リンチに恐怖を感じながらも、固く口を閉ざして俯いている。ここでシリウスを庇えば、次は自分がこの場所に立たされる。その無言の恐怖が、教室の空気を支配していた。先生でさえ、生徒たちの剥き出しの敵意を前に、何もできずに立ち尽くしている。
シリウスは、完全に孤立無援だった。彼の顔から急速に血の気が引き、美しい顔立ちは、まるで精巧な石膏像のように色を失っていく。彼は、もう何も言わなくなった。ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、小さく体を丸め、自分の机の木目の一点を見つめているだけだった。
その様子を満足げに確認すると、条太は、静かに手を挙げて喧騒を制した。そして、まるで罪人に判決を言い渡す裁判官のように、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「石間くん。僕たちの結論は、もう出ている。君が、このクラスにいる限り、僕たちは息苦しさから解放されない」
彼は、一拍置いた。
「だから、君に、もう僕たちのクラスのことに関わってほしくない。学級委員長を、辞任してくれないか」
辞任要求。それは、彼から唯一残された公的な役割と尊厳を、全生徒の前で剥奪するという、最も残酷な仕上げだった。
教室の全ての視線が、シリウスに突き刺さる。彼は、顔を上げないまま、長い、長い沈黙の後、かろうじて聞き取れるほどの声で、ぽつりと呟いた。
「……わかった」
降伏宣言だった。
その瞬間、伊藤やその仲間たちから、抑えきれない勝利の雄叫びのような歓声が上がった。彼らはハイタッチを交わし、互いの健闘を称え合っている。
条太は、その光景を、教壇の上から静かに見下ろしていた。彼の顔には、完璧な作戦を成功させた冷徹な指揮官のような、歪んだ満足感が浮かんでいた。教室の隅で、いくつかの女子生徒が、静かに涙を流しているのが視界に入ったが、その涙が、シリウスへの同情なのか、この教室への絶望なのか、あるいは安堵なのか、彼にはもう、どうでもよかった。
自分たちの「正義」が、ついに勝利したのだ。
偽りの光は打ち砕かれ、クラスは浄化された。
歪んだ凱旋のファンファーレが、条太の頭の中にだけ、高らかに鳴り響いていた。
9. 卒業式
季節は巡り、寒々しい冬は終わりを告げた。体育館の窓から差し込む三月の日差しは、どこか眠たげで、そして新しい始まりを予感させる暖かさを帯びている。厳粛な校歌斉唱、校長の退屈で長い祝辞、在校生代表の優等生的な送辞。卒業式という儀式は、定められた式次第に沿って、滞りなく進行していく。
在府条太は、クラスメイトたちと並んでパイプ椅子に腰掛けながら、心の中では小さく欠伸をしていた。彼の三年間は、この式典のように退屈なものではなかった。特に、この一年は。彼は、自分の手で、一つのクラスの「歴史」を動かしたのだ。その達成感と自負が、卒業という少しばかりの感傷を、心地よい万能感へと変えていた。
隣に座る伊藤守則が、肘で小さく突いてくる。視線の先には、数席離れた場所に座る石間シリウスの背中があった。あの学級会での「辞任勧告」以来、シリウスは完全に沈黙した。彼はもう、クラスの何事にも関わろうとせず、ただ息を潜めるようにして、この卒業の日が来るのを待っている幽霊のような存在だった。
やがて、卒業証書授与が終わり、この学校の伝統である「卒業生による決意表明」が始まった。一人ずつ名前を呼ばれ、壇上に上がり、マイクの前で今後の目標を語っていく。
「経営学部で学び、父の会社を継げるように頑張ります」
「素敵な保育士になるのが、私の夢です」
ありきたりで、無難で、少しだけ照れの混じった決意表明が続く。条太は、その一つ一つを、どこか自分とは違う世界の出来事のように聞いていた。
そして、担任が、あの名前を読み上げた。
「――石間シリウスくん」
その瞬間、後方の条太たちのグループから、抑えきれない、意地の悪い笑い声がくすくすと漏れた。シリウスは、その嘲笑を背中に受けながら、静かに立ち上がった。彼の足取りは、以前のような自信に満ちたものではなく、少しだけ覚束ないように見えた。だが、壇上に向かうその背筋は、不思議とまっすぐに伸びていた。
マイクの前に立ったシリウスは、一瞬だけ、客席に視線を向けた。その目は、一瞬だけ、確かに条太たちを捉えたように思えた。だが、そこに憎しみや怒りの色はなかった。ただ、水面のように静かな、凪いだ瞳だった。
彼は、深く息を吸い込むと、マイクに向かって語り始めた。その声は、以前より少しだけ低く、しかし驚くほど、澄んでいた。
「僕は、この国で、僕にしかできないことを見つけたいと思っています」
静かな体育館に、彼の声が響き渡る。
「それは、ただ成功することや、有名になることではありません。この三年間で、僕は、正しさが時として刃物になること、そして沈黙が、誰かを深く傷つけることがあることを学びました」
教師や保護者の席が、少しざわめいた。生徒たちの多くは、意味が分からず、きょとんとしている。
「だから、僕は、僕の人生を使って、それを考え続けたい。正しいことと、優しいことが、決して矛盾しない世界を作るために、何ができるのかを。たとえ、それが遠い理想だとしても、どんなに時間がかかっても、僕は、そのことを考えるのを諦めません」
彼は、静かに頭を下げ、壇上から降りた。その言葉に、一部の大人たちから、感嘆とも同情ともつかない、パラパラとした拍手が送られた。
「……おいおい、聞いたかよ」
伊藤が、噴き出すのをこらえるように、条太の耳元で囁いた。
「最後の最後まで、ポエム垂れ流してやがるぜ、あの教祖様はよぉ。反省の色ゼロじゃん」
条太は、声を出さずに肩を揺らして笑った。全く、その通りだ。
「相変わらずだよな。あいつには、現実ってもんが、結局見えてないんだ。自分が負けたことさえ、分かってない」
彼らにとって、シリウスの決意表明は、現実から逃避した、哀れで滑稽な敗者の戯言にしか聞こえなかった。自分たちの完全勝利を再確認させてくれる、心地よいエピローグだ。
次々と、名前が呼ばれていく。
やがて、自分の番が近づいてくるのを感じながら、条太は、何を語ってやろうかと胸を膨らませた。卓球部での輝かしい功績、そして推薦で決まった大学でのさらなる飛躍。自分の輝かしい未来と成功の物語を語ることで、シリウスの青臭い理想論に、そしてこのクラスの歴史に、最終的なピリオドを打ってやるのだ。
「次は、在府条太くん」
呼ばれるはずの名を、彼は今か今かと待ち構えていた。勝利の戴冠式は、もう目の前だった。
10. 呼ばれなかった名前
壇上での決意表明は、滞りなく続いていく。条太は、自分の前の生徒が、緊張で上ずった声で夢を語り終えるのを、余裕の表情で聞いていた。よし、次だ。自分の番だ。彼は、壇上への数歩を頭の中でシミュレーションし、膝に力を込めて、少しだけ腰を浮かせた。
しかし、担任が読み上げたのは、彼の名前ではなかった。
「――次は、佐光さん」
条太の耳と脳が、その事実を理解するのに、コンマ数秒の時間を要した。
「え?」
声にならない声が、喉の奥で詰まる。飛ばされた? なぜ?
「おい、在府」
隣の伊藤が、信じられないといった顔で囁く。「お前、飛ばされてんぞ。先生、ボケてんじゃねえの?」
「……何かの、間違いだ」
条太は、自分に言い聞かせるように呟いた。そうだ、きっとそうだ。名簿の順番を間違えたか、ページがくっついていただけだ。後で、「ああ、ごめんごめん」と、呼ばれるに違いない。彼は、そう信じようとした。だが、その後も、山岸さんの次の生徒、またその次の生徒の名前が呼ばれ、ついに最後の卒業生が壇上から降りても、彼の名前が体育館に響くことはなかった。
式次第は、最後の「閉式の辞」へと進んでいく。
条太の頭の中は、真っ白なノイズで満たされていた。おかしい。こんなはずはない。俺の卒業式が、俺の勝利の戴冠式が、こんな形で終わるはずがない。
式が終わり、解放感と別れの寂しさが入り混じった、独特の喧騒が体育館を支配する。生徒たちは、保護者と合流したり、友人と肩を組んで記念写真を撮ったりしている。その高揚した空気の中、条太だけが、冷たい水の中に突き落とされたように、一人取り残されていた。
「先生!」
条太は、人混みをかき分けるようにして、来賓と話している担任のもとへと駆け寄った。その声には、自分でも気づかないうちに、苛立ちと焦りが滲んでいた。
「先生、決意表明、僕の番が飛ばされたんですけど。何か手違いがあったんじゃないですか?」
まだ、彼は、それが単なる「手違い」だと信じたかった。世界の全てが、自分の都合の良いように回っていると信じて疑わなかった。
担任は、話していた来賓に軽く会釈すると、ゆっくりと条太の方に向き直った。その目は、これまで条太が見たことのないほど、静かで、そして底の知れないほど冷たく澄んでいた。まるで、全ての熱を失った冬の湖面のようだ。
「在府か」
担任は、その言葉を待っていたかのように言った。
「少し、話がある。こっちへ来なさい」
その有無を言わせぬ口調に、条太はただ従うしかなかった。担任は、ざわめく体育館を抜け、ひんやりとした廊下を抜け、体育用具室の隣にある、ほとんど使われていない小さな準備室のドアを開けた。中には、古い長机と数脚のパイプ椅子が置かれているだけだった。外の喧騒が、まるで厚い壁に遮られたように、遠くに聞こえる。
ドアが閉められ、静寂が二人を包む。担任は、何も言わずに条太の向かいに立つと、じっと彼の目を見据えた。条太は、その沈黙と視線に耐えきれず、自ら口を開いた。
「先生、一体どういうことですか。僕だけ呼ばないなんて、あんまりじゃないですか」
「手違いではない」
担任は、静かに、しかしきっぱりと答えた。
「意図的に、君を呼ばなかったんだ」
「は……?」
条太は、言葉の意味が理解できなかった。
「意図的に? なんで……どういう意味ですか、それ」
担任は、一度、短く息を吸い込んだ。そして、宣告は、あまりにも唐突に、そして静かに下された。
「在府。かねてから進んでいた、君の大学への卓球部推薦だが――」
その言葉に、条太の心臓が大きく跳ねた。
「――今日の朝、大学の担当者へ連絡を入れ、正式に取り下げることにした」
「…………え」
時が、止まった。
推薦の、取り下げ。
その言葉が、頭の中で意味を結ぶことを、脳が拒絶している。自分が立っている床が、ぐにゃりと歪んで、足元から崩れていくような感覚。息の仕方を、忘れてしまった。
「な……んで……?」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないように、かすれて震えていた。
「僕が……僕が、何をしたって言うんですか……?」
彼の築き上げてきた自信と万能感の城が、外側からではなく、その土台から、ガラガラと音を立てて崩壊していく。目の前にいるのは、もう、自分のことを評価し、認めてくれているはずの、あの物分かりの良い担任教師ではなかった。そこにいたのは、静かな怒りと、底なしの失望を目に宿した、全く知らない他人だった。
条太は、その冷徹な視線から逃れることもできず、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
11. 断罪と現実
「僕が……何をしたって言うんですか……?」
在府条太の口から漏れたのは、抗議というより、もはや悲鳴に近い懇願だった。何かの間違いだ。そんなはずはない。俺が、推薦を取り消されるようなことを、するはずがない。彼の思考は、受け入れがたい現実の前で、同じ場所をぐるぐると空回りしている。
担任は、そんな条太の動揺を、静かに、ただ静かに見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。その声には、もう何の感情も乗っていなかった。
「在府。私は、君のことを高く評価していた。この学年の、どの生徒よりもだ」
予期せぬ言葉に、条太はハッとして顔を上げた。一筋の光が差し込んだように感じた。
「君は、卓球部の部長として、本当に素晴らしいリーダーシップを発揮した。規律を重んじ、バラバラだったチームをまとめ、目標に向かって努力する。その責任感と実行力は、並の高校生が持てるものじゃない。だからこそ、私は、何の迷いもなく、胸を張って君を大学に推薦したんだ。君なら、きっとそこでも活躍できると信じていた」
その言葉は、甘い毒のように条太の心に染み渡る。「そうだ、先生は分かってくれている。やっぱり何かの間違いなんだ」と、彼は崩れかけた希望に必死にすがりついた。「だったら、なぜ……」
「だがな、在府」
担任の口調が、静かだが、刃物のように鋭くなった。
「君は、その素晴らしい力を、一体、何のために使った?」
条太の希望が、音を立てて凍りついた。
「君は、そのリーダーシップとやらを、たった一人の、抵抗できないクラスメイトを、集団で組織的に追い詰めるために使った。君のその優れた計画性は、人を心身ともに傷つけるための、陰湿な計画を立てるために使われた。君が仲間を集めるその求心力は、異質なものを徹底的に排除しようとする、この世で最も醜い同調圧力を生むために使われたんだ」
担任の言葉は、一つ、また一つと、条太の胸に深く突き刺さっていく。
「文化祭のことも、授業中のことも、そして……あの常軌を逸した、公開処刑のような学級会のことも。私は、全て、この目で見て、この耳で聞いていた」
「あっ……」と、条太の喉から乾いた音が漏れる。
「そして」と担任は続ける。「君たちが『真実の目』などと、陳腐な名前をつけて悦に入っていた、あの卑劣なSNSアカウントのことも、全て把握している。匿名を盾に人を嘲笑い、事実を捻じ曲げて大衆を扇動し、それを『正義』だと嘯いていた。反論できない相手を、安全な高みから石で打つような、人間として、最も臆病で、最も卑劣な行いだ。君は、その中心にいた」
全て、知られていた。自分たちの秘密の聖域だと思っていた場所も、全て、監視されていた。条太は、全身から血の気が引いていくのを感じた。最後の砦だった自己正当化の城壁が、内側から爆破されていく。
「卓球が少し上手いことが、そんなに偉いことか? 良い大学に行くことが、人の心をズタズタに引き裂いてまで手に入れるべき、価値のあるものなのか? 違うだろう、在府」
担任は、一歩、条太に近づいた。その目に宿っていたのは、怒りというよりも、もっと深い、どうしようもないほどの失望だった。
「君に今、足りないのは、学力でも、スポーツの才能でもない。人として、最も根本的なものだ。自分とは違う痛みを持つ他者への、想像力。そして、自分の行いが何をもたらすのかを考える、責任感だ。君は、それを骨の髄から学び直さなければならない。大学へ行くのは、その後で、いくらでもできる」
担任は、そこで一度言葉を切ると、最後通告のように、静かに言い放った。
「だから、君を決意表明の場には立たせなかった。今の君に、高らかに語るべき輝かしい未来など、何一つないからだ」
その言葉が、とどめだった。
条太の世界は、完全に終わった。膝から力が抜け、彼は、その場に崩れ落ちそうになった。輝かしい未来。仲間からの賞賛。リーダーとしての自分。全てが、幻だった。自分は、ただの、卑劣で愚かな子供だったのだ。その単純な事実を、人生で初めて、突きつけられた。
「話は、以上だ」
担任は、もはや何の感情も浮かんでいない顔で、床に手をつきそうな条太を冷たく見下ろすと、静かに踵を返した。
ぎい、と音を立てて、準備室のドアが開けられる。外の、卒業式を祝う華やかな喧騒が、遠い世界の音のように流れ込んできた。
担任は、部屋を出ていく。一人、この絶望の底に取り残される。
条太は、もう、何も考えることができなかった。
12. 残されたもの
担任が去った後の準備室は、まるで墓場のような静寂に包まれていた。外から聞こえてくる、卒業を祝う華やかな喧騒だけが、ここが現実の世界であることをかろうじて示している。在府条太は、どれくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろうか。時間の感覚は麻痺し、思考は完全に停止していた。
推薦の取り消し。
その四文字が、呪いのように頭の中で反響する。彼の未来だったはずのものが、音もなく消え去った。
ふらふらと、夢遊病者のような覚束ない足取りで、条太は準備室を出た。廊下は、花束を抱えた生徒や、涙ぐむ保護者たちでごった返している。誰もが未来への希望と、過去への感傷でキラキラと輝いて見えた。その光景が、今の条太には、遠い外国の映画のように、全く現実感を伴って映らなかった。
その時だった。
「あ、部長! 卒業、おめでとうございます!」
聞き慣れた、快活な声。振り返ると、そこにいたのは、彼が目をかけ、次期部長にとさえ考えていた、卓球部の後輩だった。後輩は、その手にした花束を、誇らしい笑顔で条太に差し出そうとした。
条太の聖域だった、卓球部。その後輩の、屈託のない笑顔。それが、最後の救いのように思えた。彼は、何かを言おうとして、かすかに口を開いた。
「……おぅ」
しかし、後輩は、条太の顔を見て、その笑顔を凍りつかせた。血の気を失い、生気のない抜け殻のようになった先輩の姿。そして、先ほどすれ違った担任の、氷のように冷たい表情。聡明な彼は、その二つを結びつけ、何か決定的なことが起こったのだと、瞬時に察したのだろう。
後輩は、差し出しかけた花束を、そっと自分の胸元へと引き戻した。そして、一瞬、視線をさまよわせた後、意を決したように、まっすぐに条太の目を見た。その瞳に、もはや尊敬の色はなかった。
「…やっぱり…部長みたいには、なりたくないです」
それは、囁くような、しかしナイフのように鋭い一言だった。
後輩は、それだけ言うと、深く頭を下げることもなく、ただ静かに踵を返し、人混みの中へと消えていった。
条太の足元から、最後の地面が崩れ落ちた。彼が、唯一、自分の全てだと信じていた場所からの、完全な拒絶。
よろよろと壁に手をついた彼の元へ、ようやく異変に気づいた伊藤たちが駆け寄ってきた。
「おい、在府! 大丈夫かよ! 先生に、一体何を言われたんだ?」
伊藤の顔には、まだ仲間を気遣うような色が浮かんでいた。だが、条太は、何も答えられない。ただ、蒼白な顔で、虚空を見つめているだけだ。
その様子から、推薦が取り消されたという、最悪の事態を察したのだろう。伊藤たちの顔から、さっと血の気が引いた。彼らは、互いに顔を見合わせる。その視線は、雄弁に語っていた。「こいつは、もう終わりだ」「関わったら、俺たちまでヤバい」。
一人が、わざとらしく時計を見ながら言った。
「やっべ、俺、親と待ち合わせしてんだわ。もう行くわ」
それを皮切りに、他の仲間たちも、「あ、俺も」「悪い、また連絡する」と、蜘蛛の子を散らすように、次々と条太のそばから離れていく。彼らは、もう彼の「同志」ではなかった。沈みゆく船から逃げ出す、ただの乗客だった。
最後に残った伊藤は、一瞬だけ、何か言いたそうに口を開きかけた。だが、結局、忌々しげに舌打ちをすると、条太にだけ聞こえるような声で吐き捨てた。
「……お前の、やりすぎなんだよ」
その責任転嫁の言葉を最後に、彼もまた、背を向けて去っていった。
体育館の出口付近、別れを惜しむ声と、未来を語り合う声が満ちる、幸福な喧騒のただ中で、在府条太は、完全に一人になった。
仲間だと思っていた連中は、もういない。手に入れたはずの高揚感も、万能感も、リーダーとしての地位も、全てが、陽炎のように消え去っていた。
彼は、自分の手を見つめた。
この手で、ラケットを握り、チームを勝利に導くはずだった。この手で、仲間と肩を組み、未来を掴むはずだった。しかし、現実はどうだ。この手は、スマホを握りしめ、人を傷つけるための卑劣な言葉を、打ち込んでいただけの、空っぽで、汚れた手に過ぎなかった。
ふと、視線を上げた先。
遠くで、石間シリウスが、両親らしき人物と静かに話しているのが見えた。その姿は小さく、遠かったが、三月の柔らかな日差しの中で、不思議なほど、凛として見えた。
その時、条太は、ようやく、初めて、理解したのだ。
自分が犯した罪の、本当の重さを。自分の愚かな行いが、他人の心と、そして自分自身の未来に残した、決して洗い流すことのできない「染み」の、その途方もない大きさを。
手に握りしめていた卒業証書の筒が、やけに重く感じられた。それは、輝かしい未来へのパスポートではなかった。取り返しのつかない過ちを犯した、愚かな自分の青春の、ただ一枚の、重い証明書に過ぎなかった。
空っぽの心で、彼は、どこへ向かうでもなく、ただ一歩、雑踏の中へと足を踏み出した。
彼の、長く、そして本当の意味で困難な人生は、今、この瞬間から、始まろうとしていた。
13.星の名を呼ぶ男
あれから、20年の歳月が流れた。
終業時刻をとうに過ぎ、ほとんどの社員が帰路についたオフィスは、がらんとして静まり返っていた。規則正しく並んだデスクの島は、主を失って墓石のように見える。聞こえるのは、空調の低い唸りと、壁際で最後の追い込み作業に追われる誰かの、神経質なキーボードの打鍵音だけだ。
その静寂の真ん中で、在府条太は、支店長席の前に立ち尽くしていた。
デスクの向こう側、上質なオフィスチェアに深く腰掛けた男――吉村が、値踏みするように条太を見上げている。自分より十は若い、かつての後輩。その冷たい視線が、安いスーツ越しに肌を刺すようで、条太は居心地の悪さに身じろぎした。
「在府さん」
吉村は、指先でこめかみを押さえながら、疲労と苛立ちの入り混じった声で切り出した。
「これで、何度目だと思ってるんですか。納品数の誤魔化しなんて、社会人としてありえませんよ。なぜ、不足が判明した時点ですぐに報告しなかったんですか?」
その声は、オフィス中に響き渡るほど大きくはない。だが、その温度のない響きは、大声で怒鳴られるよりもずっと、条太のプライドを削り取っていった。
「はぁ……いえ、その……」
条太は、吉村の顔を直視できず、デスクに置かれたスタイリッシュなペン立てに視線を落とした。自分のデスクにある、景品でもらったプラスチックのそれとは大違いだ。
「もちろん、報告はすべきだったと、今は反省していますが……まずは自分で何とかフォローできないかと……」
「『フォロー』?」
吉村の声のトーンが、一段階、低くなった。
「その結果、ミスが雪だるま式に膨らんで、どうしようもなくなったんでしょう! もう先方にも正式に謝罪を入れています。うちだけの問題じゃないんですよ!」
責め立てる言葉に、条太の心の中で、惨めさと共に、どす黒い苛立ちが湧き上がってくる。こいつは、俺が新人の頃、何も知らずに後ろをついて回っていた男だ。その男に、なぜ俺が。
その感情が、彼の口を滑らせた。
「しかし……しかしですね、吉村支店長。私が君くらいの年齢の頃は、これくらいのトラブルは、現場の裁量で上手く収めるのが当たり前だった。いちいち上に報告などせずとも、それが信頼されている証だったんです。正攻法だけが、仕事じゃ……」
言い終えた瞬間、条太はしまった、と思った。それは、ただの負け犬の繰り言だった。
案の定、吉村は、ふう、と大きなため息をついた。その目に、一瞬だけ、軽蔑の色が浮かんだのを、条太は見逃さなかった。
「……在府さん。時代が違うんです」
その声は、静かだった。
「昔のやり方は、もう通用しない。コンプライアンスも、顧客との信頼関係も、何もかもが違うんです」
吉村は、一度、目を閉じた。そして、次に目を開けた時、その瞳には、先ほどとは違う、何か個人的な感情が揺らめいていた。
「……僕が新人の頃、在府さんに仕事を教わったことには、今でも感謝しています。あの頃のあなたは、誰よりも頼れる先輩でした。厳しかったけど、仕事ができて、いつも僕たちの前に立ってくれていた」
予期せぬ昔話に、条太の心臓が、かすかに跳ねた。そうだ、俺はそうだったんだ。こいつも、分かっているじゃないか。一筋の光が、暗闇の中に差し込んだように思えた。
だが、吉村は、その淡い希望を、次の言葉で無慈悲に踏み砕いた。
「だからこそ……お願いです」
その声は、もはや上司のものではなかった。かつての後輩が、見るに堪えないものを見てしまった時の、悲痛な響きがあった。
「尊敬していた先輩の、そんな惨めな言い訳を、これ以上聞かせないでください」
息が、詰まった。
「今のあなたのやり方は、もはや仕事じゃない。ただの、責任逃れです」
それは、宣告だった。蛍光灯の白々しい光が、やけに目に染みる。遠くで鳴っていたキーボードの音も、いつの間にか止んでいた。このがらんとしたオフィスの中で、自分の愚かさを突きつけられているのは、世界でただ一人だけのような気がした。
条太は、何も言い返せなかった。ただ、床の継ぎ目の一点を、意味もなく見つめ続けることしかできなかった。
条太は、ただ「申し訳ありません」と、床の汚れたタイルに視線を落としながら繰り返すことしかできない。かつて、クラスという小さな王国を支配したリーダーの面影は、どこにもなかった。そこには、安っぽいスーツを着こなし、疲れと諦めを顔に貼り付けた、うだつの上がらない中年男がいるだけだった。
会社からの帰り道、条太は、使い古された革靴を引きずるようにして歩いていた。雑踏、けたたましいクラクション、目に痛いネオンの光。その全てが、自分の惨めさを際立たせるための舞台装置のように思えた。
最寄り駅に着くと、駅前広場が、異常な熱気に包まれていることに気づいた。広場を埋め尽くさんばかりの、黒压々の人だかり。何かの事件か、あるいは有名人でも来ているのか。条太は、舌打ちをしながら、その人垣を避けようとした。
その時、マイクを通して増幅された、一つの声が彼の耳に届いた。
懐かしい、という言葉では足りなかった。それは、彼の20年間、ずっと心のどこかにこびりついて離れなかった、あの声だった。
人垣の隙間から、条太は見た。
街宣車の上に立ち、スポットライトを浴びて、群衆に語りかける男の姿を。少し皺が深くなったが、その整った顔立ちも、背筋の伸びた立ち姿も、昔のままだった。男がかけているタスキには、力強い文字で『石間シリウス』と書かれていた。
「……今、この国に必要なことは、教育です!」
シリウスの声が、夜空に響き渡る。
「しかし、現場の教師たちの負担は限界に達し、子供たち一人一人と向き合う時間がありません。だから、いじめが起きても気づけない。才能の芽が、見過ごされてしまう。教育の質を高めることこそが、この国を再生させる、唯一の道なのです!」
演説が終わると、地鳴りのような大きな拍手が起こった。人々は、真剣な眼差しで、彼に頷いている。条太は、その光景を、まるで悪夢でも見ているかのように、呆然と見つめていた。
輝いている。あいつは、今も。
俺が、こんな薄汚れたオフィスで、年下に頭を下げている間も、あいつはずっと、光の中にいたんだ。
その瞬間、条太の胸の奥底で、20年間、澱のように溜まっていた、あの黒い感情が、再び鎌首をもたげた。彼は、ほとんど無意識に、隣に立っていた人の良さそうなサラリーマンの袖を、くい、と引いた。
「……あの」
「はい?」
条太は、声を潜め、20年前と全く同じ、あの魔法の言葉を囁いた。
「石間、何かウザくね?」
男は、一瞬、何を言われたのか分からず、きょとんとした顔で条太を見た。そして、怪訝そうに首を振り、「はあ? 誰のことです?」と聞き返す。
「だから、あいつですよ」と条太は苛立ちを隠さずに街宣車を指差す。「あいつの、あの正義の押し付けは、ウザくありませんか?」
男は、ようやく条太の言いたいことを理解したようだった。しかし、彼の顔に浮かんだのは共感ではなく、気の毒なものを見るような、憐れみの表情だった。彼は、ふう、と大きなため息をついた。
「さあ……。でも、国民から集めた税金で裏金を作ったり、選挙の時だけ耳障りのいいマニフェストを並べたりする、どこかの誰かさんより、よっぽど信頼できますけどね。私は」
そう言って、男は、汚いものから距離を取るように、すっと条太から離れていった。
その時だった。再びマイクを握ったシリウスが、ひときわ力強く、叫んだ。
「私は、この国のためなら、私の命など、いつでもくれてやる覚悟です! 私は、もう何も恐れません。陰口も、ネットに書かれる匿名の言葉も! 私は、私の信じる正論で、真っ直ぐに進みます。私と一緒に、この国を動かそうじゃありませんか!」
うおおお、と、今度こそ、割れんばかりの拍手と歓声が夜空を震わせた。
条太は、その光景を前に、わなわなと震えていた。
違う。違う。違う。
「違う……あいつは、間違えているんだ……あいつは、独裁者なんだ……!」
彼は、もはや自分を抑えきれなかった。近くにいた、別の男の肩を、狂乱したように掴んだ。
「そうだろ!? あんたもそう思うだろ!? あいつは間違えているんだ! あいつは!」
彼は、必死に自分の賛同者を探した。20年前、あの教室で、自分の言葉に熱狂し、頷いてくれた仲間たちを。
しかし、誰もいない。
男は「な、何だ、君は!」と叫んで条太の手を振り払い、周りの人々も「危ないわ」「離れなさい」と、彼を不審者として、冷たく、そして無慈悲に、人垣の外へと押し出していく。
群衆から弾き出され、雑踏の中に一人、突き飛ばされるようにして、在府条太はよろめいた。アスファルトの冷たさが、薄い革靴の底を通して伝わってくる。
見上げた先。
遠くで、石間シリウスが、無数の人々の喝采を浴びて、星のように輝いて見えた。
その時だった。誰からともなく始まった声が、やがて大きなうねりとなって、駅前広場を支配していく。
「シリウス! シリウス! シリウス!」
それは、希望と期待に満ちた、新しいリーダーの名を呼ぶ、人々の声だった。かつて自分が、教室という小さな世界で手に入れたはずの、あの熱狂。だが、スケールも、その輝きも、全く違う。
条太は、そのコールを、まるで自分の心臓を殴りつけるハンマーの音のように聞いていた。
自分の人生を狂わせ、20年間、心の奥底で呪い続けた、その名前。
人々が、歓喜に満ちて叫んでいる。
その光景を前に、条太は、唇をわななかせた。憎しみ、嫉妬、絶望、そして言葉にならない、どうしようもない空虚感。その全ての感情が、一つの言葉となって、彼の乾いた喉から、かろうじて音の形を成して漏れ出た。
「……シリウス」
それは、誰に届くでもない、呪詛のような呟きだった。
人々の熱狂的なコールの中に、彼の声は、一粒の砂のように、虚しく吸い込まれて消えていった。
その光は、あまりにも強く、そして、あまりにも、遠かった。
もう、自分のいる場所までは、決して届かない光。
在府条太は、ただ、立ち尽くす。
彼の時間は、20年前の、あの薄暗い部室で、止まったままだったのだ。
その、どうしようもない事実を、全身で悟りながら。
ただ一人、星の名を呼んで。