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6. 昼の茶席と夜の告解



「一体どういうこと?」と、宿舎型のフィニシングスクールから戻ったばかりの義妹(いもうと)から厳しい声を投げかけられて、ルチシャは苦笑を返した。

自室で寛いでいたところだったのだが、着替えを済ませた義妹のリリアンナは父へ帰宅の報告を終えたあとすぐにルチシャの部屋へ突撃しに来たようだ。



「…お父さまから聞いたの?」


「噂になってるのよ。リリオデス伯爵家の娘が緋色の巫女竜に見初められた、って。私のところに何度確認の問い合わせが来たことか…!」


「貴女が竜のお相手だと勘違いされたの?」


「そんなわけないでしょう。私が伯爵の義理の娘だってこと、社交界で知らない人は居ないわ」


不機嫌そうにルチシャの部屋のソファに腰を下ろした義妹のリリアンナは、現伯爵夫人であるリリム夫人の実娘だ。逝去した元夫である前モルフェス男爵との間に生まれた子で、リリム夫人が我が家の家庭教師として雇用された際に、共に伯爵家の一室に住み始めた。

といっても、家庭教師とその娘である二人は使用人部屋の階層で暮らしており、伯爵家の娘であるルチシャとは立場や扱いに明確な差があった。


伯爵が「年の近い子どもがいた方がルチシャも競争心を得られるだろう」と許可したことで、リリアンナは屋敷内の下働きをする傍ら、ルチシャと共に子ども部屋でリリム夫人による淑女教育を受けることを許された。


そしてリリム夫人が伯爵と再婚したことを機にリリアンナは伯爵家の養子として迎えられ、ルチシャと同じ階層に部屋が与えられ、貴族の子として遇されるようになったのだ。


リリム夫人は子爵家の出身だが、四女であり家との繋がりは既に殆ど失われている。亡くなった前夫は男爵位を持っていたものの、リリム夫人との間に息子が居なかったため彼の弟に爵位が譲られることとなり、実家に帰ることも出来ず居場所をなくしたリリム夫人とリリアンナは一時的に教会に身を寄せていたそうだ。

そんな女性が、古くからある伯爵家の後妻に収まったうえに後継となる嫡男を産み落としたのだから、当時の社交界ではそれはそれは話題になったという。


(そのほとんどが、リリム夫人を誹謗中傷するものだったようだけれど…)


『気高い百合』と嫌味ったらしく呼ばれる裏で『百合とは名ばかりの繁殖に長けている雑草』『踏みつけても折れない鋼鉄製』などとひどい言葉で馬鹿にされていることを、知らないわけではない。

それでもリリム夫人は背を曲げずに立っているし、自身の産んだ子どもばかりを贔屓せず、前妻の子であるルチシャのこともしっかり育て導こうと努力している。


(まあその健気な姿が余計に、リリアンナの癇に障っているようだけれど…)


栗毛色のクセっ毛は毛先がくるんと内巻きで、ハーフアップにしているだけでふわりと可愛く揺れる。赤銅色の瞳に宿る意思は強く、今は不機嫌そうな表情をしているせいで普段よりも余計に勝ち気に見える。

新しく雇用された侍女のソニアはリリアンナと会うのが初めてのためか、やや厳しい表情でこちらを見ているが、昔から居るシレネは気にした様子もなくリリアンナの分のお茶も用意してくれている。


ルチシャは「まぁお茶でも飲みましょ」とシレネの置いてくれたカップを手のひらで示した。

リリアンナは一度ムスッと口をすぼめたものの、肩でため息をつくと半年前とは見違えるほど洗礼された仕草でカップを持ち上げ、お茶を飲んだ。

どうやらフィニシングスクールでの成果は十分に得られたようだ。


「噂のせいで合宿中は苦労させたみたいね」


「ホントよ…ただでさえお母さまのせいで評判が悪くて陰口の的だったっていうのに、ルチシャ義姉(ねえ)さまの噂のせいで更に大混乱」


「スクールに通う陰口娘たちから、手のひら返しをされたの?」


「竜の恩恵にあやかりたいって家の小娘たちからゴマスリの猛攻を受けたわ。というか王家の養女になるとかいう話まであったんだけど、どこからどこまでが本当なの?教えてくれる?」


ルチシャとリリアンナの会話が思ったよりも気安いものであることに気づいたのか、険しい表情だったソニアが目を瞬いている。シレネがこっそり耳打ちをしているため、きっとすぐに誤解は解けるだろう。


リリアンナは意思の強い瞳と勝ち気な表情、そして身内に対してはズバズバと遠慮なく切り込む物言いのせいで誤解されがちだが、別段ルチシャを敵視しているわけではない。

リリム夫人がしっかり教育したこともあり、幼少期から身分差を認識して「ルチシャさま」と呼んでくれていたし、共に学び、共に遊び、時に主従おままごとなどをしながら一緒に成長してきたのだ。

ルチシャにとっては義妹であり友人のようなものだし、決して口にはしないが、リリアンナも姉妹というより友人関係に近い感覚を抱いているのだと思う。

だからこそリリアンナは感情や意見を隠さず、ルチシャと真っ向から話をするし、そのせいで付き合いの浅い使用人からはしばしば不仲だと誤解を受ける。


「まったくもう」はリリアンナの口癖で、本当に怒ったときの彼女の様子を知っているルチシャからすれば、今の状態は怒っているというよりも拗ねているのかな…という感想だった。

きっと、婚約者が出来たなら出来たでどうして連絡をくれなかったのよ、と思っているに違いない。


クッキーを齧り、紅茶を飲み終えたリリアンナが背筋を伸ばし、ツンと顎先を上げる。

質問責めが始まりそうな気配を感じ、それに備えてルチシャも紅茶で喉を潤した。


「お相手が見つかったというのは本当なの?」


「本当よ。来年の夏に結婚するということで話が纏っているわ」


「来年!?お披露目も何もされてないのに!?……何か理由があるの?」


「そうね、とても素敵な男性なのだけれど、実は竜なの」


「りゅ…!?じゃあ噂の、緋色の巫女竜さまに見初められたっていうのは本当だったの!?」


「それは嘘。でも、緋色の巫女竜さまともお会いしたわ。私のことをお茶友だちにしてくださったの」


「巫女竜さまとお茶友だちになった??……もしかして、私のこと揶揄ってる?」


鼻頭に皺を寄せ、物凄く不審そうにこちらを見てくるリリアンナに堪らず吹き出してしまう。

髪質こそ違えどリリム夫人とリリアンナの顔立ちはよく似ていて、夫人が決してしないであろう表情をリリアンナが披露すると、ルチシャの笑いのツボはすぐに刺激されてしまうのだ。


「か、揶揄っていないわ…。ごほん。ちゃんと説明するから信じて聞いてくれる?」


「聞くわ。今の問答じゃ余計にわからなくなっただけだもの」


「ありがとう。実はね……」



侍女ふたりを部屋から出して、ルチシャはこれまでの経緯をリリアンナに説明した。

祠をくしゃみで壊してしまったことは実は父にも報告していないのだが、誰かに言いたくて堪らなかったのだ。

案の定それを聞いたリリアンナは「信じられない」という呆れた視線でルチシャを見たし、交際相手が竜王さまだと聞いて顎が外れんばかりに驚いてくれた。


すべてを話し終えたルチシャは胸の高揚を抑えるべく、ふぅと深く息を吐いた。


今の今まで誰にも言えなかったのだ。

父はあの通り、竜王からの求婚を断るなど言語道断という考えの持ち主であるし、

義母は時折ルチシャが無理をしていないか心配してくれるものの、父が首謀であるとはいえルチシャの生母を追いやって後妻の座に収まったという履歴を後ろめたく思っているのか、結婚について積極的に意見をくれる様子はない。

弟はまだ六歳と幼く、竜に憧れを持ってくれているものの、当然、恋の話し相手にはならない。

だからこそ、義妹のリリアンナの帰還は、ずっと己の気持ちを胸に溜め込んでいたルチシャにとっては女神の降臨にも等しい出来事だった。


半ば呆然とこちらの話を聞いていたリリアンナは、ややあって苦笑いのままため息を吐いた。


「一体どれだけ溜め込んでるのよ…」


「だって、こんなこと誰に言えるっていうのよ。政治的な思惑が絡んではいけないから王都のお茶会に顔を出すわけにもいかないし、夜中に色々と思い返して布団のなかでジタバタするのが精々だったわ」


「それで、今話してスッキリしたの?」


「ええ。聞いてくれてありがとう、リリアンナ」



弟が洗礼式を終えて正式に後継者の資格を得るまでは、ルチシャはリリオデス伯爵家の次期後継者の筆頭候補であった。この国では女性は重用され難いため、女性が後継となるためには様々な面倒くさい条件が付随されるものの、古い家柄であるリリオデス家は国内でも珍しく女性後継者を認可している家系だ。


後継者候補の教育は厳格で、政治的な交渉の場で不利にならぬよう、身内相手であれど軽々しく感情や胸のうちを曝け出さないようにと厳しく律せられる。


男児でないため教育機関に通えないルチシャは父から教育を受けており、尚且つもともとの気質として他人に強い感情を抱くことがなかったため、リリアンナ相手とはいえ、こうして心のままに、自分に起きた出来事を語ったのは初めての事であった。


手扇で熱くなった頬を冷ますルチシャに、リリアンナはもう一度苦笑のため息を溢した。


「まったくもう……怒ろうと思ったのに、そんなに目をキラキラさせて語るんじゃ怒るに怒れないじゃない」


「相手が出来たのを知らせなかったこと、そんなに怒っていたの?」


「竜王さまが相手じゃ、軽々しく口外できないことくらい私にだってわかるわ。個人宛の手紙といえど宿舎で検閲が入るかもしれないし、いつどこで誰が目にするかもわからないもの」


じゃあ何に怒っていたのだろうと首を傾げれば、「相手が貴族でないってことによ」と言われ、その意図がわからずもう一度首を捻る。

リリアンナはそんなルチシャを見てガックリと肩を落とした。


「あのねぇ…八歳の頃からローゼルが洗礼を受けるまでのおよそ十年間、淑女教育に加えて後継者候補の教育をみっちり受けていた義姉さまなら、どこの貴族に嫁いだって能力的に不足無しなの。

義姉さまは男の趣味が悪いし、いい相手が見つからなかったら女官になるって言っていたからそれもいいのかなと思っていたけど、まさか、貴族としてこれまでに受けた教育を何ひとつ生かせない相手に嫁ぐなんて思わないじゃない」


「ああ…そういうことね」


「そういうことじゃないわよ!まったく……ローゼルが生まれた時もそうだったけど、どうしてそうぼんやりとしているのよ。んんん!もう!!」


「怒ってるじゃない」


「怒っているというか、やるせないのよ!あんなにずっと頑張ってたのに…って!」


「リリィはローゼルが生まれたときもそうやって怒ってくれたわよねぇ」


「当たり前よ!ルチシャさまの頑張りは私が一番見てたんだから!!」



呼び方が昔に戻ってるわ…と思いながらも、ソファに座ったまま軽く地団駄を踏んでいるリリアンナをじっと見つめる。

この姿が見たかったのだと言ったらきっと、リリアンナは怒るだろう。

けれどもルチシャは自分の為に怒ることが出来ない。ムッとすることはあっても、こうしてジタバタと怒りを表面に出すことは殆どない。

どれだけ理不尽と思えることがあっても、それは貴族の長子として生まれた自分の宿命なのだと呑み込むことが常だったから。


母が離宮に隔離されても、家庭教師が義母になっても、弟が生まれて自分から後継者という価値が失われても、夫と他の女性との間に男児が生まれたという事実を受け入れられずに母が自死しても、何かあったときの保険として弟の洗礼式までは後継者教育を受け続けるようにと命じられても。

それはすべて貴族の娘として生まれた自分が負うべき宿命であり、当主である父が定めた道行きであるのだから、受け入れなければならない事だったのだ。


だからこそ、リリアンナがこうしてルチシャのために怒ってくれるのが嬉しい。

理不尽だと声をあげ、これまでの努力が水の泡だと嘆き、絶対に幸せになれと鼓舞してくれる。

ルチシャに出来ないことをしてくれるリリアンナのことが、ルチシャは大好きで堪らない。



「…さあ、それくらいにしましょう。取っ組み合いの喧嘩をしているとでも勘違いされたら大変だし、教育不足を懸念されて、牢獄のようなフィニシングスクールにもう一度入れられたくはないでしょ?」


「はあ…そうね。そろそろ怒り疲れたわ。どうして私がこんなに怒ってあげなきゃいけないのよ」


「頼りにしているわ。……そうそう、それでね、私の結婚相手が少しばかり特殊だから、貴女の社交界デビューが一年遅れるかもしれないと父が言っていたけれど、もう聞いたかしら」


鳩が豆鉄砲喰らったように呆気に取られたリリアンナは、一瞬何かを言いかけ、それを飲み込むついでに今日一番の盛大なため息を吐いた。


「もう何があっても驚かないわ……どうせ母子共々、悪い評判が一人歩きしているからデビューの先も期待していないし。せめてどこか公共機関の事務職に就ければありがたいんだけど」


「それがね…グロンペール侯爵家のご子息が、貴女にとっても興味を持たれているようなの」


「………は?」


「竜狂いと噂の、典礼部勤めのグロンペール侯爵家の三男ヴィクトルさま。王宮に数年勤めて人脈を作ったあとは子爵位と侯爵領にある飛び地を賜って、領地運営に邁進されることが決まっているそうなのだけど、是非ともリリアンナとお茶をしたいって」


「………そんなこと言われても、私、竜に会ったことないわよ。義姉さまの恋人のことも今日知ったばかりだし」


「そうね…でも、お父さまは前向きに検討なさるだろうから、心の準備だけはしておいたほうがいいかも」


物凄く嫌そうな顔をしたリリアンナに肩を竦めてみせる。


正直、伯爵家の養子ではあるものの、洗礼時の身分が低いリリアンナにはそれほど良い縁談が舞い込むものではない。本人の努力次第で恋愛結婚に至れれば話は別だが、政略結婚の駒になるという点ではあまり有益と判断されないのが普通だ。


(半分とはいえ血の繋がった弟で次期当主予定のローゼルがもう少し大きければ、そちらとの繋がりで評価も上がったでしょうけど、あの子は去年洗礼式を終えたばかりだものね…)


リリアンナが就職や結婚で家を出れば、姉弟の繋がりも薄くなる。

現当主と血の繋がりはなく、次期当主との関係も期待できないとなれば、彼女に残るのは母親の持つ悪評ばかり。

リリム夫人は決して能力的に劣る人ではないものの、ご婦人方を率先して牽引する人物ではなく相手を立てて耐え忍ぶ型のため、リリアンナの助けになる程の人脈は持たないだろう。


となれば、リリアンナが自分で相手を捕まえるか、ある程度の落とし所を定めて父が縁談を見繕ってくるしかないわけで。

そんなところに奇跡的に侯爵家に連なるの人物から声が掛かったとなれば、相手に相当な瑕疵がない限りは逃す手はない。


「春先のパーティでお見かけしたけど、良さそうな雰囲気の方だったわよ?」


「義姉さまにとっては、でしょ?」


「うーん…清廉すぎて私の好みではなかったわね……侯爵家のご子息にしては擦れていない御方だったし、貴女の刺々しさをうまく緩和してくれそうな気がするけど」


「名前がリリィなのに白百合っぽくないって大絶賛されている人間にお茶を申し込む時点でどうかしてるわ…。リリオデス家のリリアンナ。名前に二度も百合を得ているのに、それらしくないって大好評よ」


「皮肉っぽく自分を卑下するのはやめなさいな。栗色の髪も赤銅色の瞳も私は好きだし、どう見たってボディラインは貴女の完全勝利だわ。顔立ちも、ぼんやりしている私と違って、キリッとしていて印象に残るからこそ揶揄されるのでしょうね」


まだ話したいことはあるけれど、そろそろお茶の時間も終わりねと思っていると、折よく、通いの家庭教師が屋敷に到着したとの報せが入る。


万が一領地持ちの家に嫁いだ時に困らぬようにと、まだ幼いローゼルの初等教育にリリアンナも同席して領地経営の初歩的な知識について共に学ぶよう指示されている。

リリオデス伯爵はそのような教育に柔軟な思考を持っており、だからこそ、女は音楽が出来て手紙が書ければいいのよとルチシャの教育を疎かにしていた母に嫌気が差したのだろう。


部屋を出て行こうと立ち上がったリリアンナは、ルチシャを真っ直ぐ見据えて聞いた。


「竜王さまと、ちゃんと幸せになれそう?」


その瞳にあるのは、大事な家族を心配する優しい心。

ルチシャは目を細めてしっかり頷いた。


「ええ……こんなに心惹かれる相手ができるなんて思いもしなかったわ」


「じゃあいいわ。お幸せにね」


最後にちゃんと淑女らしい礼をして退出したリリアンナを見送り、ルチシャはふぅと息を吐く。


自分の結婚のせいでここまで振り回してしまっているのに、彼女は一度もルチシャを責めなかった。それはきっと、母親であるリリム夫人がルチシャ母子にした事を、彼女がまだ許せていないからだろう。


(倫理的に問題はあれど、あの一件に関しては、一方的な悪は居なかった……だからこそ誰も彼もが消化できていないのかもしれない…)


ルチシャの両親のすれ違いがあり、父の思惑があり、リリム夫人の立場の弱さもあった。

前当主である祖父が死ぬのが早すぎたこともある。そうでなければ、母はあれほど男児が居ないことを気に病み、焦りはしなかっただろう。父だって、伯爵としての仕事の引き継ぎが緩やかに行われていればもう少し家庭を顧みる時間があった筈だ。


運命という言葉で片付けてしまうのは不本意だが、積み重ねられた出来事とその顛末を思えば、人間ではどうしようもない大いなる力が働いたのではと思いたくなることもある。



無性にヘイゼルに会いたいと思ったけれど、残念ながら今日は逢瀬の約束をしていない。



(今週のどこかで……いえ、できるだけ早く会いたいなんて手紙を書いたら、呆れられてしまうかしら)


それでも彼であれば、いつものような泰然とした微笑みで許してくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら

ルチシャは入れ替えてもらった紅茶を飲んで、竜影のない晴れ渡った空をぼんやりと眺めた。












どうにも眠れない夜というものがある。

横になっても目が冴えていて、本を手にしても内容が頭に入らない。


仕方なく諦めて、白く柔らかな寝衣にガウンを羽織ったルチシャはベッドから降りて窓辺に歩み寄った。

カーテンを捲り、嵌めたままの腕輪を月に晒せば、月光を受けてキラキラと宝石が煌めく。


ハシバミ色の優しい瞳を思い出し、あまりの恋しさゆえにその名が口をついた。



「………ヘイゼル」



ホゥ…と森のどこかで梟が鳴いた。


それから間を置かず、ゆっくりと影がバルコニーに立ちのぼった。


窓辺に居たルチシャは一瞬呆気に取られ、そのあと急いで(けれども使用人や警備の者に見つからないよう慎重に)鍵をあけて窓を押し開けた。


ふわりと、夜の澄んだ空気と共に深い森の香りが室内に入ってくる。


バルコニーに立った人物は、少しだけ困ったように微笑んだ。



「………寂しそうな声が聞こえたから、来てしまったよ」



梟が伝えてくれたのか、あるいはルチシャの声が届いたのか。

けれども理由なんてどうでもよくて、会いたいと思っていた人物が目の前に現れたことで、ルチシャの胸はいっぱいになった。


二歩ほど踏み出し、腕を伸ばす。

抱きついた身体は冷えてはおらず、やはり木肌に触れた時のようなじわりとした温かさが伝わってくる。


「冷えるから入ろう。…このような時分に二人きりだけど、決して不埒なことはしないよ」


懐に飛び込んできたルチシャを優しく抱き留めたヘイゼルは、三歩進んで室内に入ると音もなく窓を閉め、レースのカーテンを引いた。


月の光が柔らかく部屋を満たし、完全な暗闇に沈まない室内で

ヘイゼルはルチシャを抱いたまま長椅子に腰掛けた。


膝の上に横抱きにされ、まるで親が子を宥めるように額をこつんとぶつけられる。


すぐ近くに迫る端正な顔にルチシャの視線は釘付けになった。

影に縁取られた睫毛は長く、薄闇のなかで見るハシバミ色の瞳はどこか危険な色が滲む。

けれど、琥珀色を囲むように滲む深緑が優しさと甘さを孕み、ルチシャの心を溶かすようだ。



「……悲しいことがあった?」


「いいえ…義妹が帰って来たのが嬉しくて…けれども同時に、不安が溢れてしまいました」


「不安は、僕との結婚について?」


「ヘイゼルとの…というわけではなく、きっと、誰が相手でもこのような不安が胸を満たしたと思います。でも、ヘイゼルのことを好きだと思うほど、余計に溢れてしまうみたいです」


「……聞かせてくれるかな?話したくないなら、せめて不安が薄まるまで抱きしめさせて欲しい」


潜められた声はいつもよりも甘く、胸が痺れるような響きを持っている。

そんな声で心配されたなら、弱りきった心はただ溶かされるばかり。


ルチシャは身体の力を抜いてヘイゼルに身を委ねた。


このまま言葉無くともきっと、ルチシャの気が済むまで寄り添ってくれることだろう。

それでもいいと思えたけれど、ルチシャは、溶かされて剥き出しになった心の中から、自分の不安を丁寧に拾い上げると、拙くもそれを言葉にしてみることにした。


胸元に凭れ、記憶と心を辿るように静かに目を伏せる。



「………私の母は、とても古い考えの人で…」


「貴族に生まれた女は、夫となる男性から愛され、後継を産むことにこそ意味があるという考えに固執していました」


「けれども娘の私に碌な教育を施さず、男児を産むことにばかり執着したせいで父からの愛情を失い、心を病み、離宮に隔離されました」


「義母のリリム夫人は、女性教育に熱心で、私に、淑女教育と並行して後継者教育を受けるのはどうかと提案してくれた人でした。同世代の子に比べると明らかに教育不足で劣っていた私を見放さず、父すら熱心に説得して、私が伯爵家に居る意味を作り出してくれたのです」


「でも、それによって父が義母を気に入り、母が生きているうちに不貞の間柄に陥り…子を身籠ったことは、ある意味で私たち母子への裏切りでもありました」


「義母の腹から男児が生まれたとき、私の伯爵家での立場は崩れ去り、母は妻としての座を追われ……恨み言と共に自らその命を断ちました」


「私は、教育を施してくれた義母のことは嫌いではありません。でも、結局のところ、母の言葉は正しかったのだと知らしめられた……当主の寵愛を受け、後継を産む者こそが必要とされるのだと」


「……義妹が、言ったのです。貴族の家に嫁ぐのであれば、これまでに受けた教育が無駄にならずに済んだのにと」


「確かにそうかもしれない……けれども、ずっと、恐ろしかった。いくら家格に相応しい相手や、私を認めてくれる人の元に嫁ごうとも、もしも母と同じように、愛を失い、後継を産むことができず、無念と悲嘆に暮れる人生になったらと…」


「それと……とても我儘ですが、ヘイゼルから、精霊との間に子は出来ないと言われたとき、実は少しだけ寂しかったのです…」


「弟が生まれてからの私はやはり、貴族の娘である以上、どこか貴族の家に嫁いで子をもうけるのが当然だと思っていたので、ヘイゼルと結婚したら絶対に子は産めないという事実をどう受け止めたらいいのかと……少し、悩んだ夜もありました」


「でも、同時にとても安堵したのです……だって、母のように後継を産むことに固執する必要はなくなったのですから。固執し拒絶され苦悩し狂っていく母はとても……醜かったから……あんな風にだけはなりたくなかった……」



最後だけ言葉が震えてしまい、ルチシャは一度ぎゅっと目を閉じた。

決して激情に身を任せたわけでもない、淡々とした告白ではあったけれど、話し終えたときルチシャはすっかり疲れ切っていた。



「初めて、こんな気持ちを吐露しました。義妹がよく、怒ると疲れると言っているけれど、気持ちを言葉にするのはこんなにも苦しくて疲れるものなのですね……」


苦笑するルチシャは、言葉を挟まずに静かに耳を傾けてくれていたヘイゼルを見上げた。

どこまでも美しく果てない穏やかな瞳に見返され、ルチシャは吸い込まれるように背伸びをし、唇を触れ合わせた。


掠めるように一瞬触れただけ。


月光で影を帯びたヘイゼルの表情はどこか仄暗く、人間とは異なる美しさが際立って見える。

そんな精霊らしい雰囲気を纏うヘイゼルはどこか満足げに微笑みを深めると、いつのまに滲んだのか目尻に溜まっていた涙を指先で優しく拭ってくれる。



「……今日は、呪ってあげようかって言わないんですね」


「……僕はいくらでも解決策を持っているけれど、ルチシャはそれを望んでいないようだからね」


ヘイゼルであれば、ルチシャの中から不安を取り去ることは容易いだろう。これまでの記憶が心を蝕むというのなら、それごと全てまっさらにしてしまえるに違いない。


けれどもルチシャがそれを望むわけではないと理解し、一方的に吐露される言葉たちを静かに聞いてくれただけ。


慰めるでもなく、励ますでもなく、否定も肯定もせず、ただ耳を傾け、受け止めてくれる。


そんな相手だからこそ、ルチシャも胸の内を曝け出すことが出来たのだろう。



自分の胸がドクドクと脈打つのが聞こえる。

寝衣にガウンを羽織っただけの薄着で恋人に抱えられ、その胸に寄りかかっている。

自分を支える腕の力強さや触れる身体の逞しさを思えば、もう少し危機感や恐れを抱いてもいいはずなのに、ただ安らぎに包まれるばかり。


(でも、初めて口付けをしてしまったわ…それに自分からだなんて、はしたなかったかしら…)


心が落ち着き思考が冷静になると、自ら口付けたことが今更になって恥ずかしくなってしまう。

唇に指を添えて思案していると、ヘイゼルは宥めるように額に口付けをくれた。


いつもよりも近くにある端正な顔を見上げて、少し考えてから試しに目を閉じてみれば、小さく微笑む気配と共に唇が降りてくる。


羽根が触れるような軽い口付けを、一度。


そっと目をひらけば、まだすぐそばにヘイゼルの顔があって、びっくりして咄嗟に目を閉じたらもう一度唇が重ねられた。


今度は唇同士が離れるときに小さなリップ音がして、鼓動が一層激しく脈打つ。

目を開けるタイミングがわからなくて困っていたら「もう一度してしまうよ?」と目元を擽られたため慌てて瞼を持ち上げる。



こちらを見つめるランプの灯りのような眼差しに、蕩けるような恋を知る。



これまでに知り合ったどの男性よりも魅力的であることは間違いないのだが、見た目や有り様に惹かれるだけでなく、まるで本能が…ルチシャを形成する肉体や心のすべてが、彼を求めているかのような不思議な心地に見舞われる。


決して、情熱的な燃えるような恋ではない。

交わす視線に宿る熱は確かに互いの身を焦がしはするが、膝に抱え上げたルチシャを見つめるヘイゼルの眼差しはどこまでも優しく、その瞳には一片の欲も混ざらない。


ルチシャはそれを惜しいとは思わず、このような状況下に、空気を読まずに襲いかかってくるような無礼者ではなくて良かったと安堵した。

今はそのような肉体的な慰めは必要としていないのだ。

ただ、ただ……甘やかして欲しいだけ。


そんな心情を読み解いたかのように、ヘイゼルの低く甘い声が、静かな問いかけを紡ぐ。


「ルチシャにとって、一番怖いことは何だろうか」


ふ…と頭をよぎるのはいつも、離宮で見た母の最後の姿。

寵を失った女の姿は哀れで恐ろしく悲しくて…もしも自分が同じようになったらと思うたび、恐怖で体中が冷たくなる。


「……見放されること……捨てられること」


愛を、失うこと。


どうか嫌いにならないで…と吐息に混ぜた微かな言葉も、ヘイゼルにはしっかり聞こえたらしい。

どこか獰猛な獣のような顔で薄暗く微笑むと、宥めるように指の背で頬を撫でられた。



「竜は愛情深く執念深いものだ」



ヘイゼルがいつも免罪符のように掲げる「僕は竜だよ?」という言葉を思い出して、ルチシャは軽く目を瞬く。

目の前に居るのは、人間の価値観では計ることのできない、規格外な存在。

小娘の願いなど、指先ひとつで叶えてしまえる、恐ろしくも頼もしい存在。



「僕は永遠にきみを離さないし、きみだけを愛し続けるから、きみは死ぬまで怯えを知らず、安らかな幸福を得るだろう」



まるで呪文のような言葉は、ルチシャの心に深い深い安堵をもたらした。


その言葉を身を以て実感するのはそれから半年以上も先のことだったが、ルチシャはヘイゼルに抱きしめられたまま、静穏に身を沈めるように眠りへと落ちていく。



たとえこの先に踏み入るのが人間にとっては恐ろしいばかりの森だとしても、身を委ねた大樹が怖いものをすべて祓ってくれるだろう。

その森の果てで自分がどのように成り果てようとも、永遠にこの樹の側に居られるのならば構わないわ……と、ルチシャは夢の淵で密やかに微笑んだ。







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