5. 初耳と贈り物
屋敷を訪れたヘイゼルが外套を羽織っているのを見て、竜も寒さを感じるのねと少しだけ失礼なことを思ってしまった。
精霊の着るお洋服は、魔法のようなものでパッと現れるのだろうか、それとも人間と同じように仕立て屋に依頼しているのだろうか。
聞いてみたいことリストに新たに加わった事柄を胸に留めながら、ルチシャは淑女の礼でヘイゼルを出迎える。
庭先のテラスから直接客間へと入るお馴染みのルートで屋敷を訪れたヘイゼルは、散歩に出るかもしれないからとコートはそのままに、帽子だけを取って紳士的に挨拶を返してくれた。
相変わらずの素敵さに、見ているだけで心が浄化されるようだ。
「やあ。十日ぶりだね」
「お会いできて嬉しいです」
「僕も会いたかったよ」
手の甲に親愛の口付けを贈られ、もはや安らかに天へ召されるような心地になる。
この数日、リリオデス家は少し大変だった。
季節の変わり目の気温変化についていけなかったのか末の弟が風邪を拗らせてしまい、更には看病に当あたっていたハウスメイドや伯爵夫人にまで病気が拡がってしまったため、十日間ほど伯爵邸への人の出入りを制限していたのだ。
事情を知ったヘイゼルが大鷲のエグルに持たせてくれた薬を飲ませたところ、皆驚くほどにすんなりと復調し、あとは体力を回復させるばかりとなっている。
真っ先に薬の御礼を言うべきだったのに、久しぶりに会えたのが嬉しくてつい別の言葉が先に口から零れてしまった。
改めて薬の御礼を告げると、ヘイゼルは「ちょうどいい薬草が手元にあったからね」と微笑んだ。
彼が手ずから調合してくれたというのだから驚きだ。賢者とも称されるヘイゼルが作った薬となれば効果が抜群なのも頷ける。
(だから手紙で、病人の体格や症状を細かく聞かれたのだわ…)
ルチシャ宛には『きみの身体を守るように』というメモと共にハシバミの実がコロコロと三粒ほど届けられたため、料理長のモーリスに頼んでパンに入れて焼いてもらった。
おかげで風邪を引くどころか、ここ数日とても体が軽い。
「あのハシバミの実は、ヘイゼルの木から採れたものですか?」
「差し木で増やした個体だけどね。僕の本体はひと目に触れないところにあるんだ。森の木の実はお口にあったかな?」
「とても美味しかったです」
恋人の木の実を食べて美味しかったというのも変な話かもしれないが、ヘイゼルは「きみが望むならいくらでもあげるよ」と満足げに目を細めている。
「木の実には美容効果があるらしい。あと若返りの効能もね」
「それは…ご婦人方に知られたらすべて毟り取られてしまうのでは…?」
「森の生き物たちは皆食いしん坊だから、効能に関係なく毎年すべて毟り取られていくよ。知り合いの古い精霊の奥さんはリスの姿だからか、いつもたくさん貰って行くね」
「リスが若返ってしまったら大変そうですけど…」
「原木の実ではないし、そこまでの効果はないから大丈夫。それにその精霊は奥さんが生きて動き回っているだけで喜んでいるから、姿形に変化があってもさほど気にしないだろう」
それはそれでどうなのかと思うけれど、精霊の好意に関する価値基準は人間に準拠しないようなので、素直に受け止めておくことにする。
リスな奥さんがチョロチョロ動き回っている姿を愛でる大精霊の姿なんて、想像しただけでほっこりしてしまう。
「ヘイゼルは私の容姿に不満なところはありませんか?」
「ん?」と唐突な質問に首を傾げながらも、ヘイゼルはルチシャを見てゆったり微笑む。
「とても可愛いよ」
具体的な指摘や改善案があれば欲しかったのだが、真っ直ぐ褒められてしまってはそれ以上どうしようもない。
それに、ルチシャは美人という括りでないため『可愛い』という言葉は最上級の褒め言葉に近い。人間社会では褒めてもらえることは稀なため、素直に受け取っておいて損はない。
そろそろ立ち話を切り上げて、客間のソファに案内するか散歩に出るかしなければ。いつまでもお客さまを立たせたままにしておくわけにはいかない。
空模様を見て、風が強くなりそうだから先に散歩へ行こうかと提案してくれたヘイゼルに頷く。
その前にと、ルチシャはテラスに並んだ使用人を手のひらで示した。
今日の出迎えは侍女ふたりと、執事のリーグッツだ。
家令のアンサムは腰痛のため本日は静養となっているし、これまで出迎えの時に立っていた上級使用人は本来、伯爵夫人の専属侍女として勤める者たちであり、彼女たちはこの数日間の看病に対する労いとして今日は休暇を与えられている。
何よりここに居る侍女ふたりは、今日、ヘイゼルに紹介するべく立たせていたのだ。
「紹介させてくださいませ。正式に私の侍女となったシレネとソニアです。これからお散歩やお茶の席には、彼女たちのどちらかが随伴することとなります」
ルチシャが社交界デビューするにあたって、これまではハウスメイドのなかでも男爵家出身という履歴を持つシレネが『侍女見習い』としてルチシャの身支度やお茶会の補佐を担当していた。
ルチシャはもともと結婚に意欲的ではなかったし、一年ほどしても恋の相手が見つからなければ王宮に出仕して、のんびり仕事をしながら気の合うお相手でも見つけるかな…くらいの気持ちでいたため、社交に積極的ではなかった。
相手にこだわらないのであれば父がどこからか無難な相手を見つけてくるだろうし、古くからの名家であるリリオデス伯爵家の長子であるルチシャに対する婚姻の打診は、それなりに多かったそうだ。
デビュー後も特に連日連夜パーティや夜会に繰り出すわけでもなく、自分が主催となって催しを開くわけでもない。
高貴な方とのお茶会などに呼ばれた際には義母の侍女を借りて同行させれば事足りたため、追加で侍女を迎えることはなかった。
けれども、ここ数ヶ月で状況は一変した。
竜王相手のお茶席に下級使用人であるハウスメイドを並べるわけにはいかないと、これまでは義母の侍女や家政婦長、執事、家令らが主に対応していた。
伯爵夫妻が領地のカントリーハウスで過ごすあいだはそれで良かったが、これから冬を迎えると伯爵夫妻は議会と社交のために王都のタウンハウスへ行くことになる。
はじめはどうなることかと懸念されていたルチシャとヘイゼルの交際が順調に続いていることもあり、さすがに体制を整える必要があるだろうと、伯爵がどこからか見つけてきた侍女経験のある男爵家出身のソニアというメイドが新たに雇用され、シレネと共にルチシャ付きの侍女となったのだ。
紹介の言葉を受け、侍女ふたりは恭しく礼をした。
ヘイゼルは何も言わなかったが、頷くことで了承してくれる。
普段は穏やかに伯爵家全体を見てくれているように思えるものの、こういうところでの線引きはしっかりとしている。ヘイゼルにとって彼女たちはあくまでルチシャを補佐する者であり、ヘイゼルと直接関わる者ではない。
「冬になると伯爵たちは王都へ行くんだね。ルチシャはここに残るのかな?」
「はい。私にはもう素敵な恋人がいますので、こちらで仲良く過ごせたらと思っています」
エスコートにと差し出された腕を取りながらそう告げると、ヘイゼルは「許されるなら毎日でも会いに来よう」と口角を上げる。
この様子だと竜は冬眠はしないみたいね…と、ルチシャは本日二回目の失礼な感想を抱いた。
物語には時々『長い眠りから目覚めた』とか『春になって竜が活動を再開した』という記述があるため、竜は寒いと冬眠するのかしら?と思っていたが、杞憂だったようだ。
こちらの失礼な考えを見透かしたように「なにか悪戯なことを考えているね?」と問いかけられ、ルチシャは「お茶の時にお話しします」と誤魔化すように苦笑した。
コートを着てテラスに続く大窓から外に出るなり、風がぴゅうと吹きつけて、ルチシャは少しだけ身を縮こまらせた。
そろそろ秋も深まり冬の気配が濃厚になってきた。
八月の終わり…晩夏にヘイゼルと出会ってから早くも二ヶ月が過ぎようとしている。なのにまだ、知らないことや聞きたいことが盛りだくさんだ。
「寒いならもう少し身を寄せておいで」と言ってもらえたのをいいことに、逞しい腕にいつもよりも身を寄せる。多少歩きにくかろうが、デートにおける散歩の目的は『一緒に過ごすこと』なのだから構わないだろう。
ふたりの侍女のうち、今日はソニアが散歩に同行し、シレネが茶席の用意を担当するようだ。
「そういえばローアンの元に国王からお詫びの品々が届いたそうだよ。迷惑を被ったのはルチシャなのだからと預かってきた。……実際には食べきれないからお裾分けなんだろうけど」
「畏れ多いことですが、ありがたく頂戴します」
「そうするといい。果物が多く届いたと言っていた。ルチシャが好きなのは何だろうか」
「新鮮なまま食べるのであれば葡萄が好きです。火を通すのならリンゴやマルメロでしょうか」
前の逢瀬のときに竜の食事事情を聞いておいて良かったなと思う。樹木から派生した竜は殆ど食事を必要としない…という事情を知らなければ、ローアンからのお裾分けを素直に受け取れなかっただろうから。
巫女竜さまへと儀式などで捧げられた食べ物は森や付近に住む精霊たちに分配するらしく、それでも余るときは知人の森を訪ねまわりお裾分けに奔走するそうだ。
これまでは多くとも籠一杯分、あるいは祭壇ひとつ分の量だったのに、ローアンが人前に姿を現したことで「緋色の巫女竜さまは体躯が大きいからもっとたくさん奉納しなければ!」と山盛りの奉納品が届けられてしまい、うんざりしているのだという。
「父を通して、奉納品の量を調整するよう伝えてもらいますね」
「本人も直接『多すぎるわよ!』と文句を言ったそうだけれどね、それで更に怒らせたと思ったのか、改めてお詫びが届いたらしい。織物だと言っていたから、気に入ったものがあれば分けてもらうといいよ」
「そのようなものまで頂いてしまっていいのでしょうか」
「本人が許可したものは遠慮なくもらうといい。良質な絹織物があったから僕も迷惑料代わりにひと巻き貰い受けたけど、ローアンも欲しいものだったのか、微妙に震えていたね」
「……それは強奪というのでは?」
「条件を指定せず『お従兄さまもおひとつどうぞ』と言ったあの子が悪いんだよ」
前も思ったけれど、ローアンと接しているときのヘイゼルはどこか本当の兄妹のように思えることがある。終始マイペースなお兄ちゃんに振り回される苦労性の妹…となれば、ローアンが少し可哀想ではあるけれど。
「そういえば冬の社交が始まる前に、領内では狩猟大会と収穫祭が行われるのです。父から、森での狩猟を例年通りおこなって良いかヘイゼルに尋ねて欲しいと言われたのですが…」
「狩猟?……構わないよ。僕はこの森に住んでいるわけではないし、厳重に土地を守護しているわけでもない。目に余るとき以外は人間の営みには口を出さないから好きにするといい」
なんとなく予測していたことだけれど、返答はあっさりしたものだった。
害獣駆除と冬支度を兼ねた狩猟大会の準備はすでに佳境だ。
大会当日は領内にある幾つかの森の立ち入りが禁止されるなどの注意点を告げると、ヘイゼルは「見てみたい気もするけれど僕が居ると獣が出てこないだろうから、その前後はこちらに来るのを控えよう」と頷いた。
狩猟大会のあいだ女性陣は、狩りの補佐役と子どもたちが森へ近づかないよう見張る役とに別れ、ある程度固まって過ごす。
領主夫妻は揃って狩猟大会へ参加するため、ルチシャは幼い弟が飛び出していかないように見張りつつ屋敷でのお留守番を任されている。
その後の収穫祭は領主一家が総出で領内を回り、収穫物の報告を受け、豊穣に感謝を捧げる。
続け様にある行事の前準備や後始末に奔走するため、また暫く会えない日が続きそうだ。
少しばかり気持ちが沈んだルチシャに気づいたのか、腕へ沿わせた手に大きな掌を重ねてくれたヘイゼルは「会えなくとも手紙を書こう」と微笑んでくれた。
なんて素敵な恋人なのだろう。
世界中に自慢して回りたいけれど、そんなことをすれば世界中の美女がヘイゼルを狙って襲いかかってくるに違いない。
「手が冷えてきているから中に戻ろうか」と自然な流れで屋敷へ戻ってくれるところといい、ヘイゼルとお付き合いしてしまったからにはもう、そんじょそこらの男では満足できない身になってしまった。
自分の贅沢さを思い、少しの優越感と共に大きな懸念がわく。
(……ヘイゼルの魅力を知れば知るほど、本当に私でいいのかしらという不安や後ろめたいような気持ちが浮き彫りになっていくのよね…)
温かい室内でのお茶席には、ローアンからのお裾分けだという果実も並んだ。
わざわざ異国から取り寄せたのだろうか…という謎の果物もあり、ヘイゼルに味の特徴や食べ方を教えてもらう。
きっと執事たちも、取り扱いがわからないからこそヘイゼルとのお茶席に並べたのだろう。
「っ、これは……すごく…汚れますね…」
ライチという実を、剥き方を教えてもらいながら口にしたものの、手も口のまわりも果汁でベタベタになってしまった。
味は美味しいけれど硬い皮も大きな種も厄介だから、淑女のテーブルに出すには工夫が必要そうだ。
ヘイゼルは果汁を滴らせたルチシャの姿を気にするどころか「可愛いね」と目を細めているから、長くを生きる精霊たちはもしかしたら、木の実を齧る小動物的なものに愛着を持つのかもしれない。
中座して身なりを整えて戻ってきたルチシャは、部屋に戻るなりヘイゼルに手を取られ、先ほどまでお茶をしていたテーブル側の椅子ではなくソファへと導かれた。
執事はヘイゼルに一礼すると侍女を連れて部屋の外へ出てしまう。
ドアは完全に閉め切られてはいないけれど、室内にはルチシャとヘイゼルの二人だけ。
どうしたのだろうと思っていると、ヘイゼルは美しい瞳でルチシャを見つめた。
「きみに贈り物があるんだ」
「私にですか?」
「うん。急に二人きりになって不安かもしれないけれど、不埒なことはしないよ。
それに、ローアンから、この贈り物をきみは喜ばないかもしれないと言われたから…嫌だったら受け取らなくてもいい」
(人間の機微や営みに詳しいローアンから忠告されたということは、何かとんでもないものなのかしら…)
一体何を贈られるのだろうと期待と不安でドキドキしながら待っていると、ヘイゼルは胸の内ポケットから片手サイズの木箱を取り出した。
ヘイゼルにとっては片手サイズでも、ルチシャにとっては両手で受けるくらいの大きさだ。
目の前でパカリと蓋が開かれ、そこに並んだものにルチシャは目を瞬いた。
「これは……宝石、ですか?」
木箱には生成りのビロードのクッションが敷かれ、そこには一対のイヤリングと女性もののブレスレットが収められていた。
イヤリングには、耳朶にあたる部分と鎖から垂れた部分とに小さな宝石が付いており、ブレスレットは細いチェーンの間に等間隔で丸い宝石が配置されている。
宝石は蜂蜜を固めたような深い琥珀色で、ルチシャはその美しさに堪らずため息をこぼす。
「トパーズという宝石を知っているかな?」
「名前は聞いたことがあります。こちらの国にはあまり出回っていませんが…」
「僕たちには相性のいい宝石というものがあってね、僕の場合は真珠とトパーズが該当する。ルチシャは真珠の宝飾品を既に持っているようだったから、こちらにしてみた」
「……とても高価なのではありませんか?」
ヘイゼルが何も言わず微笑みを深めたので、ルチシャは口を噤んだ。
贈り物の詳細な価格を問うつもりはないけれど、それでも明らかに高価すぎるものを貰うのも気が引けてしまう。
それに、素敵な贈り物を貰えること自体は嬉しいけれど、ヘイゼルは理由もなくこのような品物を贈るようには見えない。
真意を問いたくて首を傾げて見せると、ヘイゼルは「僕が封印された一件だけどね」と憂鬱そうに口を開いた。
「ローアンがあの件に加担していれば、もう少し簡単にケリをつけられた。僕はあの子の嫌がることを知っているし、大切なものの所在も把握している」
「ローアンが関わっていたなら、あの場でやっつけてしまうつもりだったのですか?」
「そうだね……太古の森での争いは禁じられているけれど、ならば引き摺り出して絞め上げればいい話だ。親しいからこそ恨まれたのかとも思ったが、あの様子だと彼女は本当に何も知らないのだろう」
「……魔女が、我が家の森で待ち伏せていたことが気になるのですね?」
「もしもこの国や土地に侵入できる独自の道を持っているとすれば厄介だ…僕の居ないところでルチシャに害が及ばないよう守りを強めさせてもらいたい」
「それで、こんな素敵な贈り物を用意してくださったのですか?」
「これを身につけておくと、僕の守りが潤沢に受けられる。一種の印付けだね」
ヘイゼルは箱からブレスレットを持ち上げると、ルチシャの手を取った。
琥珀色の宝石で紡がれた贅沢なブレスレットが腕に嵌められるのを夢心地で見つめる。
見た目は豪奢ではないけれど、使われている宝石ひとつひとつは計り知れない歴史と価値を有しているのだろう。
(でも、どうしてローアンはこの贈り物を嫌がると思ったのかしら。私が常日頃から高価な宝飾品を身につけていないから…?)
不思議に思っていると、ヘイゼルは耳飾りの残った小箱をテーブルに置いたままルチシャの両手を握った。
指先に恭しく口付けられ、木肌に触れるような優しい温度を感じて心臓がポコンと跳ねる。
「ローアンが、きみが嫌がるかもしれないと言ったのはね…この装飾品は、きみだけを守るものだからだ」
「私だけを、守る…?」
「きみと会えなかったこの数日の間に、封印のことを追っていくつかの場所に足を運んだ。そうしたら、僕が思っていたよりも少々厄介な状況になっている可能性が出てきた」
ヘイゼルの言葉に、先ほどとは違う意味で心臓が跳ねる。
呪いを返された魔女は瀕死だと言っていたけれど、今は解呪の得意な精霊のもとにいると聞いた。
もしも呪いの解けた魔女が悪巧みをして、またヘイゼルが封印されるようなことがあったら。
ただの人間でしかないルチシャでは全く手の出せない状況になってしまったら。
想像するだけで怖くて、手にぎゅっと力が籠る。
ヘイゼルは安心させるように目元を和らげ、僕はそんなに弱くないよと言ってくれる。
ローアンもお従兄さまは強いと言っていたし、きっと本当にそうなのだろう。
でも、ヘイゼルが厄介だというくらいに良くない状況なのだから、決して油断はできない。
「先ほども伝えたけれど、彼らが独自の道を得ているとすれば、この屋敷の周辺に魔女や封印に関わった者たちが姿を現すこともあるだろう。
事態が収束するまではこの土地限定で僕の守りを置いておくけれど……自然の獣が生息し、狩りや畜産といった人間の営みがある以上、そこまで強い守りにはならない。そうでないと生き物たちが皆怯えて逃げてしまうからね」
ヘイゼルの言葉をひとつずつ飲み込みながら、真剣に頷く。
彼は僅かに申し訳なさそうな表情を作りながらも、それはそれ、これはこれなのだと切り捨てるような潔さで言葉を続けた。
「万が一、精霊や魔女からの強い干渉があっても、この腕輪やイヤリングを身に付けていればきみだけは守られる。……逆を言ってしまえばこれらは、ルチシャしか守らないものだ」
精霊や魔女からの干渉というものがどのようなものか容易には想像できないけれど、竜王が警戒するような力を、一介の人間たちへ向けたなら、それは天災にも等しいだろう。
領内で、伯爵家の屋敷で、多くの者たちが苦しみ倒れる中、自分だけが守られる…。
そんな場面を想像して、ルチシャはぎゅと目を閉じた。
それから三秒、ゆっくりと数えて、深呼吸をして瞼を持ち上げる。
「……私だけでも無事なら、ヘイゼルを呼ぶことができます」
「そうだね……ローアンも頼って構わない。あとで彼女の枝を渡そう」
「枝を…?飾っておくのですか?」
「小枝だから袋か何かに入れて身に潜ませているといい。困ったときはボキボキに折り砕いてしまえば、怒って森から飛び出してくるよ」
「……それだと、怒ったローアンに私がグシャリとやられてしまうのでは?」
「僕の守りがあるからあの子に攻撃されることはない。ローアンには話をしてあるし、その手段を使わずに済むよう、他の連絡手段を用意しておくと言っていたから…次に会ったときに何か貰えるんじゃないかな」
なんだかとんでもない方法を伝授されてしまったけれど、万が一の場合の最終手段として取っておくことにしよう。
他にもエニシダとマツの小枝が箱の隣に並べられた。どれも小指の第一関節ほどの長さのため、小袋に入れて衣装の隠しポケットに忍ばせることができるだろう。
こちらはわざと折らないようにと言われたため、ローアンの枝とは区別しておいたほうが良さそうだ。それに、うっかり無くしたり、ポケットに入れたまま洗いに出したりしないよう気をつけなければ。
ヘイゼルの指が繊細なイヤリングを持ち上げ、「つけていいかな?」と問いかける。
反射的に頷いたものの、イヤリングを持ったヘイゼルの顔がぐっと近付き、指先が耳朶に触れて思わずびくりとしてしまった。
(も、森のかおりがするわ……!)
豊かな森に包まれているような素晴らしい香りだけれど、今はそれを堪能するどころじゃない。
これまでにない親密な距離感に心臓が破裂しそうなほど脈打って、「反対を向いてごらん」とすぐ近くで聞こえた声に、耐えきれず目をぎゅっと瞑ってしまう。
金属の微かな音。
イヤリングをつけ終えたのか耳から手が離れたことに安堵したのも束の間、眉間に何かが触れる感覚がして慌てて瞼を開く。
目の前……予想以上に近い場所にヘイゼルの顔があり、その位置関係から、額に唇を当てられたのだとわかった。
「思いがけず可愛い姿だったから、つい」と言葉を刻む唇から目が離せない。
心臓が煩くて、頬が熱い。
イヤリングを確認するために鏡を見たい気持ちと、羞恥に染まっているであろう自分の顔を見たくない気持ちとがせめぎ合う。
ルチシャが何も言わないことを否定的に捉えたものか、「嫌だったかな」と困ったように眉を下げられたため、慌てて首を横に振る。
それから、そろそろ使用人を部屋に戻そうと立ち上がるヘイゼルの上着の裾を咄嗟に掴んだ。
「ルチシャ?」
「……嫌ではありませんでしたので、あの…、いつか、また、折をみて…」
お願いするというのも変な話かもしれないが、嫌ではなかったのだという主張はしっかりしておかなければ。
さすがに一線を越えるような大胆さは望まないものの、恋人期間中に何の触れ合いもないまま突然結婚生活が始まってしまう事態になっては少々困る。
気恥ずかしさに頬を染めつつもそろりと視線を上げて伺えば、ヘイゼルはとても満足そうな笑みを浮かべていた。
「…きみが嫌でないのなら、何度でも」
今でもいいよ?と悪戯っぽく問われて、ルチシャは少しだけ悩んだ。
どうせもう顔は茹でたように熱いのだから、再びの触れ合いがあったからといって、これ以上酷い顔にはならないだろう。
問題は、心臓が保つかどうかだ。
沈思黙考するルチシャを宥めるように、ヘイゼルは浮かした腰を長椅子に戻すとルチシャの頬を指の背で撫でた。
「焦らなくていい………先日、人間の恋人と共に暮らしている精霊の元を訪れたのだけれど…彼女のパートナーと話をして、ルチシャにはまだ、伝えなければならないことや話し合わなければならないことがたくさんあるのだと改めて理解したよ」
「……わざわざ話をしてきてくれたのですか?」
「勿論。彼らはとても仲睦まじく過ごしているからね。どうやったらきみとそのように暮らしていけるか、知りたいと思うのはおかしいことかな?」
首を傾げられたため、いいえ、と首を振る。
おかしいことではないけれど、まさかそんな気持ちを持ってくれているとは思わなかった。
この先…ヘイゼルとの結婚やその後の生活のことを想像しては思案に暮れているのは自分だけだと思っていただけに、驚きすぎて咄嗟に言葉が出てこない。
「私もヘイゼルと…仲睦まじく暮らしたいです」
「ん?じゃあ森においで」
「あ、いえ、今すぐではなく、未来の話です。未来というか、恋人期間中も仲良く過ごせたらいいなとは思っているのですが……」
最初の話し合いの時にも主張したことだが、本格的に一緒に暮らすのは結婚してからにして欲しいともう一度告げておく。
ヘイゼルは渋々といったように頷いた。
「太古の森は少々特殊な場所だからね、森に慣れてもらうために婚姻前から暫く住んでもらうことにはなるだろうけど…」
「そうなのですね…その前にも機会があれば一度お伺いしてみたいのですが、森に立ち入るのは何か問題があるでしょうか」
「うーん…迷い込む程度ならばまだしも、生身の人間が長時間滞在するのはお勧めできない。泊まるとなれば僕とローアンの守りだけで足りるかどうか…」
「日帰りでは難しい場所なのですか?」
「精霊の道を使えば短時間で行き来は可能だけれど、森はとても広いから、ゆっくり見て回るのは難しいかもしれない」
ローアンの森を訪ねる時のように、少しだけ訪問して雰囲気を見て帰るだけでも構わないのだけど…と思っていると、ヘイゼルはハシバミ色の目を柔らかく細めて口角を上げた。
その微笑みの美しさに、神聖さすら感じてぐっと心が引き込まれる。
「悠久の時を経て生きる森だ……夜の陰影と明け方の静寂は一見に値するだろう」
ルチシャの脳裏に、月光に照らされた薄暗い夜の森と薄霧が立ち込める朝方の森のビジョンが浮かぶ。
(ヘイゼルが言うほどだもの…きっととても壮麗で神秘的なのだわ…)
力ある竜ふたりの守りがあっても尚、人間の身には重いという太古の森の空気をいつかこの身で感じる日に思いを馳せながら、ルチシャはゆっくりと首を捻った。
「………思ったのですが、ではどうやって婚姻前に森へ引っ越すのでしょうか。それに、出会った日にそのまま森へ連れ帰ろうとしていませんでしたか?」
先ほどもあっさり「では森においで」と言っていた気がする。
「結婚してしまえば問題ないよ。まあ儀式の負担で暫く寝込むだろうけど…」
けろりと回答したヘイゼルに、もしかして以前、婚姻の儀式で数週間から数ヶ月ものあいだ廟に籠りっきりになると言っていたのは、相手が儀式の負荷に耐えられずに昏倒するからでは…?と不安がよぎる。
ルチシャがその懸念を口にする前に、ヘイゼルはもうひとつの疑問にも答えをくれる。
「森へ越してくる前に森で採れた薬草や木の実、蜂蜜を食べて体に馴染ませれば、少しずつだが負担は軽くなるだろう」
そう言ってどこからともなく取り出されたのは滑らかな色合いのハシバミの実。
先日、風邪を引かないようにと渡された木の実を思い出してハッとする。
(もしかして、知らないあいだに移住の為の前準備が始められていた…?)
見上げた先に居るのは、長命高位の精霊。更には賢者と呼ばれるほどの知恵者だ。
ローアンは陰湿や陰険という表現を使っていたが、一般的な竜のように真正面からぶつかっていくのではなく、こうして裏から密やかに手を伸ばすのがヘイゼルのやり方なのだろう。
そして困ったことに、ルチシャはこうした策謀に長けたタイプの男性がとても好きだ。
「ルチシャ?」
「いえ…ヘイゼルの魅力を再確認していたところです。それに、やはりまだ、知らないことや不思議に思うことが多いですね…」
僕の魅力…?そんな話だったろうか…と首を傾げながらも、ヘイゼルは慈しむように指の背でルチシャの頬を撫でた。
額へのキスから思いがけない話へと発展してしまったものの、得るものは多かったように思う。
(婚姻前に引っ越すことも、前準備が必要なことも、初めて知ったことだわ)
それに、森のことを語るヘイゼルの表情があんなにも柔らかく美しくなるのだということも。
知り合ってもう二ヶ月ではあるけれど、まだ二ヶ月しか経っていないのだ。逢瀬の回数はまだ手指の数に満たないくらい。
長くを生きる大精霊のことを知るには時間が足りないのは当然のこと。
「これからもヘイゼルや森のこと、たくさん教えてくれますか?」
勿論だよと細められる瞳の、琥珀がかった虹彩の色と、腕に嵌められたブレスレットの石の色が同じなのだと気付いてルチシャは吸い込まれるようにその瞳をじっと見つめた。
琥珀に枯草、薄茶色の虹彩と、その周辺を彩る、多色の緑。
少しだけ陰になっているせいか、シャンデリアの光が当たる箇所だけ宝石のように複雑に煌めいて見える。
(このおそろしいほどに美しい瞳と同じ色の宝石が、私の身を彩っている……)
なんと畏れ多く、そしてなんと幸福なことだろう。
「……お話に夢中で、お礼をいうのが遅くなってしまいました。ヘイゼル、素敵な贈り物をありがとうございます」
「よく似合っているよ…きみの身を危険に晒すつもりはないけれど、身につけていてくれると嬉しい」
「はい。……入浴時や寝る時は外してもいいですか?」
「そうだね…できれば腕輪は付けておいて欲しいかな。古竜じゃないと引き千切れないくらいの強度はあるから寝返りを打っても大丈夫。あと、ルチシャ以外が身に付けると呪われるよ」
(……うん。畏れ多さを感じたあとに、こういう規格外な感覚のズレを知ると何故だか安心するわ)
そしてちゃんと聞いておいて良かった。
得心していると、執事が入室の可否を問うべく控えめに扉をノックした。
そろそろデートの時間も終わりが近いと知り、途端に名残惜しくなる。
次に会えるのは少し先になりそうだけど、この宝飾品があればいつでもヘイゼルの瞳を思い出せるだろう。
夕食時に父が是非とも装飾品を見せて欲しいと言って来たが、私以外が身に付けると呪われるそうですよと言って外したイヤリングを差し出せば、ニガヨモギを食べたような顔で手を引っ込めていた。