4. 緋色の巫女竜
視点の切り替えがあります。
ルチシャ→王宮警備隊隊長→ルチシャ
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夏の日差しが和らぎ、秋の気配が強まる頃。
収穫祭や豊穣祭に向けて各領地が慌ただしくするなか、リリオデス伯爵家には王都より『召喚状』が届いた。
この書状を伝令に持たせることが出来るのは『王族』に分類される者に限られる。
印章から判断するに、押印はどうやら第一王子殿下のもののようだ。
「王宮から厄介事だ」
執務室で書状の内容を読ませてくれた父は全く笑っていなかった。
青菜のような緑色の瞳が、薄氷を張った湖のような冷たさを湛えている。
「日時の変更を願い出ることは出来ないのでしょうか。応じるか否かはヘイゼルの意見を聞いてからの方が良いと思うのですけれど…」
「私もそう思うが、こちらはこちらで難癖を付けられては堪らない。なにせ相手は馬鹿なことで有名な第一王子だ……残念ながら私は、彼がどのような行動を起こすのか全く読むことができない」
思想も行動も何もかも馬鹿だから。と言外に告げる父に、ルチシャはそっとため息を吐いた。
残念ながらこの国の第一王子は国内であまり重用されていない。
本来であれば王太子候補として第二王子と切磋琢磨(激しく言えば権力争い)をしつつ実績を積んでいる年頃なのだが、数年前に自身の強力な後ろ盾であった侯爵家のご令嬢を蔑ろにし、派閥の筆頭支援者から見離されてからは完全に失墜している。
第一王子の無能さも傲慢な性格も心底嫌いだと顔を顰める父は、王宮内ではさして重要な役職に就いているわけではないものの、野心が少なく立ち回りが巧みであるため、各方面への緩衝材的な役割として国王陛下から重宝されているそうだ。
「あの馬鹿王子は国内の地理すら理解していないのか、設定された日時もギリギリだ。明日の早朝出発しなければ到底間に合わない。このような呼びつけ方をするなど、我々を罪人か何かだとでも思っているのだろうか」
罪人を呼び出す際に、逃げる隙や計略を巡らせる余裕を持たせないために必要最低限の時間設定で強引に呼び出すことがある。
今回の書状の内容はまさしくそれだ。
伯爵のみならずルチシャも名指しで呼びつけているということは、どこかで竜の祠やヘイゼルの話を耳にし、あわよくばその力を手中に入れようとでもしているのかもしれない。
(でも、お父さまはまだ、陛下にすらヘイゼルの話をしていないと言っていたわ…)
だとすれば情報源はどこなのだろう。
もしかすると、竜の祠について耳にした第一王子が自分勝手な妄想をして呼びつけているだけの可能性もある。
当然ながら訪問前に真相を確認している時間はないし、その真意も不明のままだ。
なにせ相手は馬鹿で考えなしと有名な第一王子。ルチシャにだって彼の思考がわかるはずもない。
「収穫祭の支度はリリムとアンサムに任せ、我々は馬で王都へと向かう。馬車でのんびりと旅するわけにはいかないだろう」
「わかりました。王都のタウンハウスにお茶会用ドレスは置いてあるので、衣装をひと揃え整えておくよう、伝令に持たせる書状に書き添えておいてください」
「王への抗議書も添えておく。そもそも竜の祠の事は陛下にしか伝えていないはずだ。どこから情報が漏れたか調べて頂く必要もある」
大急ぎで支度を済ませたルチシャたちが王都のタウンハウスに到着したのは面会の前夜で。
僅かながらの休息ののち、王族に謁見するに相応しい装いに着替えると、父と共に四頭立ての豪奢な馬車に乗り込み王宮へ向かったのだった。
▽
ガシャガシャと甲冑の金属が擦れ合いぶつかる音がする。
廊下を早足で進んできた王宮警備隊第四部隊の隊長ロンゲルは、扉のドアをノックし返答を待った。
ややあって従者により扉が開かれ、室内から「入れ」と不機嫌そうな声が掛けられる。
部屋の中央にある豪奢な椅子にふんぞり返って偉そうに座る第一王子に向け、ロンゲルは恭しく敬礼した。
すでに事件が起きて半刻が過ぎている。
報告に至るまでこれほどに時間がかかるのは、面会願いだ何だと煩雑な手続きを幾度も繰り返させられたせいだ。
何らかの不測の事態が起きているのは察しているはずなのに、自ら情報を取り寄せようともせず自室で偉そうにふん反り返っているだけの王子をロンゲルは「無能だな」と心中で嘲った。
その嘲りを顔には出さず、勢いよく敬礼する。
「申し上げます!リリオデス伯爵とそのご息女が王宮に到着いたしましたが…拐われました!」
手続きの際に、申告内容は先んじて提出してある。それを読んだか、あるいは近衛騎士から聞いていたのか、王子は慌てるでもなくフンと鼻を鳴らした。
仮にも自身の名で呼び出した客人が攫われたというのに、この横柄な態度は如何なものか。
予想通り、王宮警備隊の不手際や無能さを滔々と語り始めた第一王子に、ロンゲルは隠し持っていた特大の爆弾を投げつけることにした。これで滅びろ無能めと心中で毒づきながら。
「竜です」
「なに…?」
「緋色の大型の竜が伯爵家のご息女を直接掴んで連れ去りました。緋色の巫女竜さまであられるならば、我々一兵卒には対処できかねます。国王陛下と王妃殿下からはすでに、竜への対処は第一王子殿下に一任するとのお言葉を頂戴しております」
言葉を失った第一王子に、残る事務的な報告をサクサク告げて、ロンゲルはさっさと部屋を後にした。
先んじて情報を掴み動いていれば国王陛下や王妃殿下に協力を仰げただろうに、部屋でふんぞり返っているから後手に回り全責任を取らねばならなくなるのだ。
ロンゲルだって未だに信じられない。
リリオデス伯爵とご令嬢を乗せた馬車は城の外門を通過し、外客用の第一関門に至った。
そこで第一王子の名義で届いたという召喚状が本物であるか改められ、正門へ向かうべく、王城敷地内の走行を許可された赤い二頭立ての馬車に乗り込もうとした時だった。
空が大きく翳ったかと思うと、緋色の巨大な生物が突如現れ、その鋭い爪の生えた手で伯爵令嬢を絡め取るなり大空へと飛び去ってしまったのだ。
関門付近を警備していた王宮警備隊第四隊どころか、高所にて飛来物等を警戒する哨戒班ですら、一体いつどこからその緋色の生物が現れたのかわからなかった。
ただ、すぐに見えなくなってしまったものの、飛び去った生物の姿形は伝承に残る『竜』そのものであったと多くの者が証言している。
幸いにも竜の爪に弾かれ転ばされた伯爵に大きな怪我はなく、国王陛下の許可を得て王城の客室にて保護されている。
リリオデス伯爵家の娘が竜に見初められたらしい…という噂は、ここ数日、報酬と引き換えに低位貴族や商人の護衛を務めている傭兵から聞いたとかであの馬鹿王子の側近が大声で吹聴しているのを耳にしていたが、今回の事件によってその噂は真実味を増したようだ。
竜に縁付くとなれば、ご令嬢は養子縁組などで王族の末席に迎え入れられるかもしれない。
そうすれば竜の加護は厚くなり、この国はより安泰となるだろう。
だが『巫女竜』という呼称から緋色の巫女竜は雌だと思っていたが、本当は雄だったのだろうか。或いは、竜は同性を好むものなのだろうか。
ロンゲルは王宮警備隊長への報告が終わるまで、そのようなことを悠長に考えていた。
俄かに騒がしい王宮では、やはり皆が口々に「竜が…」と囁きあっている。
自分はその竜を実際に目撃したのだぞ!と自慢したいような誇らしい気持ちにすらなっていた時だ、長い長い廊下の奥からとんでもない喚き声が聞こえてきた。
あの先にあるのは、典礼部が管轄している儀式交信の間だろうか。そちらから男ふたりが転がるように飛び出してくる。
「どうして緋色の巫女竜さまは応じてくださらないんだ!」
「お怒りに触れたんだ!国中の人間が殺される!!」
あの愚かな第一王子とその側近らが、大声で喚き立てたかと思うと、典礼部の役人を押し退けて一目散に駆けていく。
奇妙なほどの静けさののち、不穏なざわめきは一気に王宮内に広がっていく。
(……竜の怒りに触れた?はは…まさか…)
あの巨体が城に攻めてくる様を想像しつつも、あり得ないよなと空っぽの笑いを浮かべたロンゲルは、
普段は何があっても泰然としている王宮警備隊総隊長が見るからに青ざめているのを見て、一気に胃の腑が凍るような心地になった。
▽
「大丈夫かい?」
「………………ヘ、ヘイゼル、ぅぷ」
手を差し伸べてくれたヘイゼルの腕にルチシャは遠慮なく身を寄せた。
足元はフラついていて目眩もひどく、真っ直ぐ立つこともままならない。
そんなルチシャの様子を見て、ヘイゼルは緋色の鱗を持つ大きな竜へ咎めるような視線を向けた。
「ローアン、乱暴にしてはいけないと言っただろう?」
「まあ。言い掛かりですわ、お従兄さま!落とさないようしっかり爪で包んでいたし、飛んでいる間は景色が見えるよう角度を調整して運びましたもの。ねえ貴女、そうでしょう?」
いつのまにか緋色の竜は、背の高い美しい女性に転じていた。
腰まで伸びた波打つ髪は根元から毛先にかけて、真紅から緋色、梔子色へと色を変え、少し吊り目がちな、金にも見える真鍮色の瞳がルチシャを捉えている。
「お気遣いいただき……ありがとうございます……ぅ、」
「けれども、ヨレヨレじゃないか」
腰を支えられ、普段よりも近しい距離にヘイゼルの身体があることにルチシャの胸がひっそり高鳴る。
馨しい森の香りのおかげか、地に足がついたからか、頭も落ち着いて平衡感覚も徐々に戻ってきた。
「……最初は連れ去られたのが怖い半分、空飛ぶの楽しい半分で居たのですが、次第に未知の飛行体験に内臓がふわふわのぐらぐらで気分が悪くなってきまして……けれどもそれは私の肉体の問題であり私の責任で……」
「ほら!わたくしは悪くないでしょ」
「気を遣ってくれただけだ。ルチシャは優しい子だからね」
椅子に座らせてもらい、ようやく周囲を見回す余裕ができた。
ルチシャはどこかの森に運ばれたようだ。辺りには背の高いすらりとした木々が生い茂り、秋らしく赤や橙に色づいている。
建物などは見当たらないものの、どうやらヘイゼルはこの森の中で、大きな切り株をテーブル代わりにお茶を嗜んでいたらしい。
ガラス製の茶器の中には黄色がかった薄緑色の液体が満たされており、複数種類のハーブを混ぜたような、僅かに刺激のある香りが満ちている。
「ここはどこでしょう……私は王宮に呼び出され、父と共に第一王子殿下に謁見する予定だったのですが…」
「ここは彼女の守護する第二の森だよ。今はナナカマドの紅葉の季節だからとても美しいだろう?」
「は、はい……燃えるような赤がとても色鮮やかで……」
「まあ!森が燃えるだなんて不吉なことを言うわ!その感性は好ましくないわね!」
向かいに座った女性が急に声を上げたためルチシャはびくりとした。
美しい光景を称賛したつもりだったが、確かに植物に対して燃えるという表現は不適切だったかもしれない。
言い直さなければと内心焦るルチシャに、ヘイゼルは奥にある一本の木を示してみせた。
ひときわ立派な佇まいの木は、赤や橙色の木々のなかで輝くように黄色く色付いている。
「ルチシャが紅葉樹だけを褒めたから拗ねているんだ。ローアンの木は、赤ではなく黄色く染まるあの木でね。決して傷付けてはいけないから覚えておくといい」
「はい…銀灰色の木肌が滑らかで、とても優美な木ですね」
「あら。わかっているじゃない、人間の子。
ところで私は貴女に話があるのよ?貴女、お従兄さまの求婚を一度断ろうとしたそうじゃない。どうしてそんなことをしたの?お従兄さまの一体どこが不満なのかしら!?」
機嫌は直してくれたようだが、勢い良くグイグイと来られて思わず身を引いてしまう。
どうしよう。そもそもこの女性は一体誰なのだろう。お従兄さまと呼んでいるということはヘイゼルの身内なのだろうか。
ヘイゼルは相変わらずのんびりとお茶を飲みながら、向かいで勢い込む女性を言葉で諫めた。
「ルチシャとはちゃんと話をして、仲睦まじい恋人同士になったと言っただろう」
「お従兄さまは黙っていて頂戴!
よくお聞き、人間の子。お従兄さまは大いなる知恵と力を持つ古竜で、太古から生きる天竜さまとだってお知り合いなの。それに、人間から見ればとっても美麗な見た目の筈よ。
それなのに何が気に入らなかったのかしら。もしかして何か理不尽な事でもされた!?」
ルチシャの知らない情報がポンポンと出てきた気がするけれど、ひとまず今は目の前の女性に落ち着いてもらうことが先決だろう。
人間側の言い分がどれだけ通るかはわからないけれど…。
「ええと……ヘイゼルの求婚をお断りしようとした事が大変不敬であったことは承知しております。願わくば、私が何故そのような行動をとったか弁明させて頂ければと思うのですが……」
「話してみなさい、人間の子」
裁定されるような厳しい視線を受けながら、かくかく、しかじか、と、およそひと月前の出来事を振り返りながら説明する。
伯爵家に伝わっていた竜の祠の逸話のこと。
祠の封印が解け、ヘイゼルが解放されたこと。
封印を解けるのは真実の愛だけという魔女の流言。
封印が解けたという理由でヘイゼルから求婚を受けたものの、知識のないルチシャには受け入れ難かったこと。
その後改めて話し合い求婚を受け、今は相互理解と問題解決のための恋人期間としたこと。
時折ヘイゼルの顔を窺ったものの、彼は興味深そうにこちらの話を聞いているだけで口を挟むことはなかった。
ルチシャからの説明を聞き終えた女性は、両腕を組んで、眉間に皺を寄せたまま悩ましげに頷いた。
「……………明らかにお従兄さまが悪いわ」
まさか話の内容を受け止めてくれるとは思わず、ルチシャは驚いた。
ルチシャ側にどのような事情があったとしても、力ある竜からの求婚なのだからゴチャゴチャ考えずに受けるべきだわ!…と責められる覚悟をしていたのに、一気に肩の力が抜ける。
女性はチラリとヘイゼルに視線を流すと、改めて大袈裟に肩を竦めてみせた。
「封印を解いたのだから妻になれだなんて、プロポーズの言葉としては最低最悪よ」
「さすがにそのような言い方はしていないと思うけどね…」
「意味合いが同じなら言ったも同然です!まったく、お従兄さまってどうしてそうなのかしら。恋人して受け入れられたのも奇跡なのではなくて!?」
ヘイゼル相手に一歩も引かない女性の物言いに、ルチシャのほうが驚くばかりだ。
女性はその勢いのままグルンとルチシャに顔を向け、びしりと指を立てた。
「貴女、ええと、名前を教えなさい」
「ルチシャと申します」
「そう、ルチシャね。わたくしはローアン。この世界に於ける、第二の月の巡りを守護する竜よ。この国では緋色の巫女竜なんて呼ばれて信仰の対象にもなっているわ。
ルチシャの事はお従兄さまの恋人として認めるし、私の話相手として採用してあげるわ」
「あ、ありがとうございます……?」
先ほどに続いて、また知らない情報がポンポンと飛び出してくる。
頭の整理が追いつかないルチシャをよそに、言うだけ言って満足したのか、ローアンと名乗った女性は椅子に腰掛けると優美な仕草でカップからお茶を飲みはじめた。
ルチシャは懸命に頭を捻り、これまでに得た知識を引っ張り出す。
「あの、ヘイゼル……私が歴史の授業で教わったところによると、第二の月の巡りという言葉は、古い時代の暦で使われていたものかと…」
「そうだね。円環暦を使っていた時代を、今では先史時代というのだろう?この森はね、先史時代よりも遥か前からあるとされる太古の森なんだ。代々、守護者が護り続けている」
「太古の森は十三に区切られていて、それぞれ守護者となる精霊がいるのよ」
自然な流れで話に加わった女性は、頭をフル回転させて話を理解しようと努めるルチシャを見てにっこり微笑んだ。それは長くを生きる年長者の笑みであり、教え導く者の笑み。
「ゆっくり飲み込みなさいなルチシャ。ここに居るのはどちらも数千年を超えて生きる大精霊。ましてやお従兄さまは賢者と呼ばれるほどに知識深い方なのだから。貴女がわたくしたちを理解したいというのならば、少しずつ飲み込んでいくしかないの」
教え諭すように告げられ、ルチシャは理解するよりも先に頷いていた。
たった十数年しか生きていない小娘が、数千年を生きる古い竜たちと対峙している。それだけでもう奇跡のような出来事なのだ。彼らの持つ知識の一端に触れさせてもらえる栄誉は計り知れない。
そんなローアンの言葉を揶揄うように、ヘイゼルは口角を上げると、指を組んで椅子の背に深くもたれ掛かった。
「処理できないほどの膨大な知識に溺れるというのも愉快なことだけどね…」
「それを愉快と思うのはお従兄さまだけよ。わたくしは頭を使うくらいならひと暴れしたいわ」
「ルチシャ、これが竜だよ」
「お従兄さま…間違ってはいないけれどあまりに失礼ではなくて?」
竜の家系図がどうなっているかは知らないが、顔立ちや体格からして本当の従兄妹のようには見えない。けれど、目の前の二人のやり取りはどう見ても気心の知れたそれだ。
ヘイゼルもこの森で生まれたのかしら…
思考に耽るあまり、うっかり口に出てしまっていたらしく、二人が同時にルチシャのほうを向いた。
一拍置いて、おや?という表情をしたのがヘイゼルで、女性はすっかり呆れ顔でヘイゼルを見ている。
「お従兄さま、まさか自分が何の精霊かも言っていないの?」
「ルチシャと直接会うのはまだ三度目だからね……一度目で封印が解けて恋人となり、二度目で恋人らしくデートをした。僕らが理解しあうには到底時間が足りていない」
「だとしても自己紹介をすればいいでしょうに……ちなみにわたくしがナナカマドの精霊だということは当然理解しているのでしょう?」
「………。」
そういえばさっきヘイゼルが、奥の黄色く色付いた優美なナナカマドを『ローアンの木』だと言っていた気がする。つまり目の前の女性は、あの木から派生した精霊だということだ。
ルチシャの表情から、今ようやく合点がいったと分かったのだろう。ローアンは「最近の人間って何も知らないの…?」と更に呆れ顔になってしまった。
「僕はハシバミの精霊だよ。一度話したような気もするけれど、竜とは精霊の一種で、その多くが草木や湖水といった自然のものから派生する。一般的に知られる精霊よりも肉体的で、人間に似た姿だけでなく竜の姿に転じることができるのが特徴…かな」
「精霊は一般的に長く生きる者ほど力を強めるわ。なかには例外も居るけれど、竜種は特に、古いほど強くて威厳があるとされるの。天上に座す天竜さまが今のところ一番古い竜で、次いでお従兄さま。わたくしは四、五番目かしら」
「竜は血の気が多いから、強い者と見ると襲いかかってくる野蛮さがある。面倒ごとを避けるためにもしっかり上下関係を叩き込んでおかなければならないんだ」
「お従兄さまは先代の竜王に勝負を挑まれて返り討ちにした挙句、その年代の竜たちを軒並みやっつけちゃったから……今の力ある竜たちも滅多なことでは逆らおうとしないわ…」
ぶるぶると僅かに震えながら告げられた事実に思わずヘイゼルを振り仰げば、彼は事もなげに「過程はどうであれ、小煩い者達が居なくなって平和になったから良かったよ」と言ってのけた。
前の逢瀬のときに「身体が小さい」とか「安穏な気質」とか言っていた気がするけれど、あまり信じないほうがいいのかもしれない。
ちなみにローアンという女性に片手で祠石を粉砕できるか聞いたところ、簡単よ、と肯定されたため、あの怪力は竜にとっては標準仕様のようだ。
ルチシャは頭を休めるために、目の前に用意された香草茶をひと口飲んだ。
普段の紅茶よりも、若くて爽やかな風味が強い。後味に果実由来のほのかな甘酸っぱさが残るようで、初めての味わいに感動していると、わたくしがブレンドしたのよとローアンが誇らしげに教えてくれた。どうやらローアンは独自のブレンドティーを作るのが趣味で、美容に良い組み合わせもたくさん知っているそうだ。
そのあとの話でわかったことだが、ヘイゼルも別の太古の森を管理しているのだという。
第九の森と呼ばれ、実り多いがゆえに動物型の精霊たちが多く派生し、住んでいるらしい。
動物型の子たちは困った程に食いしん坊が多くてねと話すヘイゼルの表情はどこか柔らかく、森の住人を慈しんでいることがひと目でわかった。
ローアンの森には鳥型の精霊が多いそうで、今はヘイゼルに怯えて森の端っこに避難しているそうだ。
僕は怖くないのにねと微笑むヘイゼルをローアンはじっとりとした目で見つめていた。
(それにしても、古い暦を司る大精霊で、太古の森の守護者だなんて……)
物語の世界の存在が目の前にいることが信じられず、なんとも不思議な心地だ。
農業を主体とする国や、自然の営み・季節の巡りを尊重する国では、未だに古い円環暦が使われていると聞く。
ルチシャの国でも、円環暦の区切りと誕生日とを照らし合わせた簡易的な占いが広く知られているくらいに、歴史深くも身近な概念なのだ。
ちなみに誕生日占いに於いて、ルチシャの生まれは8月20日。占いの区分でいえば第九の巡り月で、守護樹木は『ハシバミ』…つまり、ヘイゼルだ。
(そういえば今年最初の占いで『好い人現れる』って出たから、社交デビューもお相手探しもきっとうまくいくわと喜んだんだっけ…)
まさか『好い人』が竜…しかもハシバミの大精霊だとは思わなかったけれど。
思考が脱線しかけたところでようやくルチシャは大事なことを思い出した。
王宮の外門付近で父といるところを連れ去られたのだが、自分を鷲掴んで飛び去ったのは緋色の鱗が美しい大型の竜だった。
そしてローアンは先ほど確かに、自分は緋色の巫女竜と呼ばれていると言っていた。
その名は、エアファルト王国出身者ならば誰もが知っている、王家へ神託を授ける竜の呼称。
「あの、ローアンさま、」
「ローアンよ。アナタも晴れて私のお茶友だちになったんだから、ちゃんと仲良しな感じで呼んでちょうだい」
「はい。…ローアンは、王宮で竜としての姿を見られてしまったと思うのですが、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫って?」
「緋色の巫女竜は、今の王家には守護を与えていないという噂を耳にしたのですが…」
「ああ、そうね、それは本当よ。確かに数百年ほど前にはこの国の王妃を気に入って、彼女に幾ばくかの守りを与えたわ。でも、結局彼女とも途中で疎遠になってしまったし、それ以降はダメね…てんで話にならないわ。なぜか勝手にこの国の王家を象徴する竜のように扱われているけど、今の王族は守りを与えたいと思えるほどの魅力を持っていないのよね」
みーんな、崇めるばっかりでつまらないの!
と大袈裟に肩を竦めたローアンは、ルチシャの知らない四代前の王妃について教えてくれた。
言い伝えでは、後継者問題などで揺れる王家を憂いた王妃が、我が身を差し出してでも…と竜の住まう森で国の安寧を願い、感銘を受けた緋色の竜がそれに応えた…という話になっているが、どうやら真実は全く違ったようだ。
「あの王妃は良かったわ。とある森の奥深くでね、地面に掘った穴に向かって浮気性の夫への不平不満を叫んでいたのよ。面白いったらないわ。それからお互い、伴侶の愚痴やら何やらを言い合うお茶友だちになったってわけ」
「穴に……お互いの伴侶ということは、ローアンも結婚しているのですか?」
「ローアンのパートナーは女性型の精霊だよ。なかなか苛烈な子でね、戦場を求めて彷徨い歩いているんだ」
「戦場を求めて……」
「昔は、春の芽吹きと収穫に願いをかける健気な乙女だったのよ?でも、人間の信仰のせいで性格がガラっと変わっちゃって。人間の祭事や営みに寄り添う精霊ってそういうところがあるのよね。……そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら。紅葉を戦場の炎と見間違えたとか言って」
少しだけ唇を尖らせたローアンは「紅葉が終わる頃にはまたどっか行くのよ、薄情なんだから」とパートナーへの不満を口にした。このような愚痴を、かつては王妃さまと言い合っていたらしい。
「しばらく会っていないから不満が溜まっているんだろう。ローアンが力を付ける第二の月の巡りの頃には、彼女のパートナーも元の気質に戻って蜜月を過ごすから問題ないよ。
僕たちのように長く生きる者のなかでは、特定の期間だけ共に居るという関係性も珍しくない」
「ヘイゼルにもそのような特別な期間があるのですか?」
「力の強弱は多少変わるけど、見た目や気質に大きな変化はないね」
「そうねぇ……ルチシャの説明を聞いた限り、お従兄さまの封印が解けたのも今がちょうど第九の月の巡りにあたるからでしょう。でも、お従兄さまの力の強まりだけじゃなくて、ルチシャの持つ何らかの要素が関わっているのは間違いないと思うわ。その要素が『真実の愛』や『運命』だとすれば、魔女の至言通りってのがちょっと癪だけれど、とってもロマンチックで素敵じゃない?」
ふふふ、と微笑ましく見つめられ、ルチシャは気恥ずかしさで頬を赤らめた。
ヘイゼルは口角を上げながら「妻にと望んだのもわかるだろう?」なんて言っている。
「リンゴの精霊が紡いだ宝石を使った封印だったからね。僕に想い人が居なかったせいで随分と長く封じられてしまった」
「え…」
ローアンの顔がサッと青褪めたため、ルチシャは咄嗟にヘイゼルとローアンの顔を見比べる。
ローアンも、ルチシャとヘイゼルを交互に見た後、がしり!とルチシャの肩を掴んだ。
「運命で間違いないわ…!」
「ローアン…?ええと…その、リンゴの精霊さまの封印だったからでしょうか?」
「あの方は愛と知恵の象徴。愛の力は理不尽で傲慢で身勝手な側面もあるのよ。封印が解けなければきっと、お従兄さまとはいえ命を落としていたでしょう」
「え!?」
「……死ぬとしても数百年は要しただろうけれどね」
とんでもない事実を知らされて言葉を失っているうちに、話題は更に違う方向へと逸れていく。
結局、ルチシャの最初の問いかけに対してローアンから明確な答えはもらえていないが、さして気にする様子がないということは国民に存在が認知されても大丈夫なのだろう。
不意にルチシャの耳に、リリン…と澄んだ鈴の音が聞こえた。
あたりをキョロキョロと見回せば、陽の光に照らされてキラリと輝くガラス飾りが木に吊るされているのが見えた。
風は吹いていないのに、何かに揺らされているかのように、リリン…リリン…と音を立てている。
「あちらにあるのは…?」
「王族からの呼びかけよ。王宮の儀式の間で然るべき手順をとると、あの風鈴が鳴るようにしてあるの。昔は王妃からの『お茶しましょ』ってお誘いだったから嬉しかったんだけど、今は助言を請われるばかりでうんざり。今の王族とは縁を紡いでいないし、呼び声にわざわざ応える義理もないから無視することも多かったけど……まさか国内に竜の祠が出来ていて、そこにお従兄さまが封じられているなんて思わなかったわ。もう少し人間の世界を覗くべきだったわね」
「ローアンはヘイゼルが封印されていたのを知らなかったんですね」
「結局のところお従兄さまってどのくらい封印されていたの?」
「五十年くらいかな…」
「じゃあ気付かないわね…お昼寝で百年近く寝る竜も居るくらいだし。そもそも、月の巡りに加えて自然の要素も動かせる竜王を封印するやつが居るなんて、思いもしないもの」
「では、ヘイゼルを封印した性根の悪い魔女という方は、振る舞いに問題はあれど凄い人なのですね」
「やだ…性悪な女に唆されたの?お従兄さまらしくないわねぇ」
「唆されたというより騙し討ちにあった感じかな………そういえば、きみの森から出た先でその魔女が待ち構えていたんだけど、何か手助けをしたのかい?」
「し、しないわ!!するわけないじゃない!!」
あわよくば性悪魔女のことでヘイゼルを揶揄おうと目論んだローアンだったが、低いトーンで投げかけられた問いに、真っ青になりながら全力で首を横に振る。
言い争いにならないかしらとハラハラしながら成り行きを見守るルチシャだったが、ヘイゼルは元からローアンの関与は疑っていなかったのかあっさりと追求をやめた。
「…そうだね。念のために聞いておこうと思って」
「念のための問いかけでわたくしの心臓をとめないで頂戴」
命拾いをしたとばかりに深い深いため息をつくローアンは「わたくしが封印なんて手段を取る筈ないじゃない。それならしっかり襲い掛かって殺すわ」と物騒なことを言い、ヘイゼルも「きみならそうするだろう」と頷いている。
どうやら、封印なんてまどろっこしい真似をする筈がないという理由で双方合意したらしい。
紅葉の美しい森のなかに何とも言えない空気が残る。
相変わらず木に吊り下げられたガラス細工の風鈴は、風もないのに可憐な音を立て続けており、さすがに気になるのかヘイゼルが「ずっと鳴ってるけど応じなくていいのかい?」と尋ねた。
「どうせルチシャを連れ去ったことへの問い合わせでしょ。ちゃんと家に返すんだからいいじゃない」
(……そういえば、お父さまは無事だろうか)
突然現れた大きな竜に驚いたのか倒れ込んで尻餅をついたところまでは見えたけれど、まあ…大きな怪我はしていないだろう。
順当に考えれば、召喚状で無理やり伯爵親子を呼びつけた第一王子が今回の事件の責任者になるけれど、馬鹿と名高い王子がどこまで責任を負ってくれるものか。
(難癖を付けられなければいいけど…)
ルチシャの憂いた表情に気づいたのか、ヘイゼルの人差し指がルチシャの頬をツンと優しく突いた。
慌てて顔を上げると、思慮深い瞳がルチシャを映している。
視界の端でローアンが「あのお従兄さまが恋人みたいな事してる!?」と椅子から転がり落ちそうになっているのが見えたものの、目を逸らさず、ハシバミ色の瞳をじっと見返す。
「実はきみをここに連れてきたのは僕の判断でね」
「……ヘイゼルは、私が王族と謁見することに何か懸念があったのですか?」
「どちらかといえば、力関係を明白にするためかな。ローアンからも話を聞いたけれど、今の王族は竜種と明確な繋がりを持っていないし、政治的な判断力も求心力も落ちているという。召喚状を出したという愚かな人間は、ルチシャを利用してこちらの叡智を借りようとする魂胆が明け透けだったからね」
「そうねぇ。ルチシャを呼び出した第一王子は馬鹿だから、『噂の真偽を確かめるゆえ、今ここに竜を呼び出すがよい!』とか言いそう。不敬極まりないことにね。
ま、既に呪われてるから老い先短いお馬鹿さんだけど、さすがにお従兄さま相手にそれをやったら不敬が過ぎるでしょうよ」
「呪われてるんですか!?」
まさか早くもヘイゼルが呪ってしまったのかと思えば、どうやら第一王子の呪いは別件でかけられたものらしい。
「かの有名な侯爵令嬢との婚約破棄事件あったじゃない?その一件で、力のある魔女から呪われているわ。
王と王妃は呪いのことを知っているから………あら、もしかして、第一王子を正々堂々と表舞台から消すために、敢えて取り返しのつかない失態を演じさせようとしたんじゃないかしら?
やだわぁ。人間の企みに竜種を巻き込もうだなんて……王族全員死にたいのかしら」
「僕の恋人を手紙ひとつで呼びつける高慢さには呆れ返るばかりだよ。それを為した人間も、見逃した人間も、諸共処分するべきだろう」
「お従兄さま…実はとても怒っていらっしゃったのね…」
「召喚状とやらのせいでルチシャとのデートの予定が潰れてしまったからね」
「取り返しのつかないことをしてくれたわねあの馬鹿王子…」と蒼白になるローアンを横目に、ルチシャは改めて人間側の事情でデートの約束を反故にしてしまったことを詫びた。
そして出来れば呪い殺すのは第一王子ひとりで留めて欲しいとも願い出る。
「ルチシャはあの手紙で大変な思いをしただろう?第一王子の振る舞いを国王が把握していない筈もない。共犯者として罰することは簡単だよ?」
「ですが、父を重用してくれている稀有な方ですので、できればこのまま陛下の治世を保って欲しいです。それよりもヘイゼル、お手紙を配達してくれる精霊たちを配置してくださってありがとうございます」
「昼ならば大鷲のエグル、夜ならば梟のシュエトが伯爵家の森で待機しているから、用事がある時はいつでも呼ぶといい」
僕の名前を直接呼んでも構わないよと言われ、それはさすがに申し訳ないからと辞退する。
けれども、例の魔女やそれに関係すると思しき者が接触してきた時には必ず呼ぶよう念押しされてしまった。
もしも緊急時にお従兄さまに声が届かないときはわたくしの名を呼ぶことを許すわ、とローアンからも言われて、ルチシャは恐縮ながらもしっかり頷いた。
「死の呪いは既に魔女が施したものがあるから、その王子には死ぬまで男性的な欲求を満たせなくなる呪いをかけておこう」
「さすが、お従兄さまらしい陰湿さだわ……というかここで呪術用の道具を取り出さないで頂戴」
「今回はきみの父親が叱責されないよう、王城の第一の門の内側までは行くことを許したけれど、その先へ行く必要はない。たとえ国王からの召喚状でも、今後は応じる必要はないよ。そうだろう、ローアン?」
「ええ、王族にはしっかり忠告しておくわ。今回は王宮敷地内の、警備兵の多くいる門の側で攫われたんだから伯爵が責任を問われることはないはずよ。ついでに自作自演を疑われないよう、ルチシャのパパは爪先で弾いて尻餅つかせといたわ」
ふふんと得意げなローアンにも、無事に王子を呪い終わったヘイゼルにも改めて御礼を告げる。
あとは楽しくお茶を飲んで解散…で済めば良かったのに、相も変わらず風鈴はリンリンと鳴り続けていて。耳障りな音ではないが、ずっと続くとさすがに耳につく。
「そろそろ煩わしいな……」
と、ヘイゼルが指を一本風鈴へ向けるのと、ローアンが大慌てで立ち上がってその射線上に立ち塞がるのとはほぼ同時だった。
どうやらヘイゼルは何らかの方法であの風鈴を破壊しようとしたらしい。
「お従兄さま!?ちょっと、煩いからって壊すのはおやめになって!ルチシャ!お従兄さまを抑えておいて!」
音を止めてくるから!と大急ぎで席を離れたローアンを見送って、ヘイゼルに視線を向けると「応じるのが面倒くさいなら、わざわざ連絡手段を残さなければいいのに」と首を傾げている。
こういうところがきっと、人間との関わりを続けているローアンと、深い関わりを持たないヘイゼルとの違いなのだろう。
「ローアンにとっては王妃さまとの思い出の品なのでしょう。それに、いつかまたお気に入りのお茶友だちができるかもしれませんから」
「ルチシャがローアンとお茶するのは構わないけれど、二人だけの特別な繋がりを持つのは賛成できないかな」
「ではヘイゼルに仲介をお任せしていいですか?……そういえば、せめて王都の屋敷には私が無事であることを伝えておきたいのですが…」
「大丈夫、きみが気に病むだろうと思って事前に伝えてあるよ」
ルチシャは領地を出立する前に、大急ぎでヘイゼルへの手紙をエグルという名の大鷲型の精霊に託した。
王族からの呼び出しに応じなければならないためデートの日取りを変えてほしいという謝罪の手紙を読んだヘイゼルは、ローアンが手を掛けている国だからと彼女の森を訪れ、王族の不始末をどう処理するか話し合ったという。
「王族を呪うとして、どこからどこまで殺していいのかな?」と尋ねるヘイゼルをどうにか説得して、ローアンが緋色の巫女竜として王族らをきっちりと諌め、今後を含めて全面的に対処することが決まったのだと聞きルチシャはそっと胸を撫でた。
エアファルト王国は議会制だが、国内統治や外交に於いて国王の果たす役割は大きい。
あやうく自国が崩壊の危機にあったと知り、ルチシャはローアンに心から感謝した。
ローアンの森へ来る前にヘイゼルはリリオデス伯爵家のタウンハウスを訪問し、王族との謁見は妨害するが伯爵やルチシャを危険に晒すつもりはないとわざわざ告げてきてくれたそうだ。
応対した年配の使用人は驚きながらも「外聞もありますのでどうぞ夕暮れまでにはお嬢様を屋敷にお戻しくださいませ」と深く腰を折ったという。
念のため、使用人の言葉は不快ではなかったかヘイゼルに聞いてみたところ、ルチシャは可愛いし年頃のお嬢さんだから気にして当然だと優しく頬を撫でられてしまった。
こちらに向けられる眼差しはとろりと甘い蜜菓子のよう。
今日は不愉快なことが起きたせいかどこか冷たい表情を浮かべているなと思っていたけれど、ローアンが居たからこその甘さ控えめ仕様だったようだ。
それとも、王族との問題がある程度解決して、機嫌が治ったのだろうか。
王宮仕様に整えたルチシャの格好を改めて確認したヘイゼルから、衣装を褒められ、髪型を褒められ、寝不足気味の目元を指先で撫でられてしまった。
糖死(糖分過剰摂取による死)する寸前、ルチシャが天に召される前に、王族との通信を終えたローアンが戻ってきてくれた。
ルチシャとヘイゼルを見比べ、ふーん…とすべてを見透かしたような顔をする。
「あのお従兄さまがこんな風になるなんて、恋ってすごいわねぇ。わたくしが席を外しているあいだに楽しめようで何よりだわ」
「もう少し戻りが遅くても構わなかったけれどね。…何か話をしてきたのかい?」
「とりあえず、わたくしがルチシャを連れ去ったことは認めてきたわ。この国の王族が竜王の恋人に指先をかけようとしているのを見て、竜王に詫びるために救い出したってことにしたの。
『お前たちの軽率な振る舞いによってこのわたくしが竜王に頭を垂れることとなった。その責任を誰が取るのだ…』って物々しく脅してきたから、王族はこれ幸いと第一王子を切るでしょう」
ローアンに処断を任せようとする気配も見られたため、人間のことは人間でやりなさいと改めて釘を刺してきたらしい。
新年には巫女竜からの御神託を基にいくつもの国事を決めるというし、今のエアファルト王国は竜に判断を委ね過ぎなのだという。
ローアンが人間社会に理解がある良心的な采配をする竜で良かったと改めて思う。うっかりヘイゼルのような価値基準を持つ竜に託してしまうとその国は滅亡待ったなしだろう。
「貴女のパパには、ルチシャは竜王が家まで送り届けるから心配しないようにとこっそり伝えてあるわ」
「何から何までありがとうございます」
「お茶友だちになったんだから構わないわ。これからたくさん話をしましょうね」
「だからといって、この森にひとりで出入りさせることがないように。人間に友好的でない精霊も多少なりと住んでいるからね」
「あら、じゃあお従兄さまもご一緒にいらして。わたくしはルチシャが、本人を前にしてお従兄さまの愚痴を言っていても全然気にしないから」
「……ルチシャ、ローアンとお茶友だちになるのは考え直したらどうだろうか」
憮然とした顔になったヘイゼルに少し笑いながら、ヘイゼルも私への不満があったらローアンに話してみてはどうですか?と提案したものの、優しく目を細めた竜王から、きみに不満なんてないよと甘く囁かれてしまった。
その後はローアンが王都近くの森に出口を繋げてくれることになった。
ヘイゼルの森は出入り口はひとつしかなくて厳密に管理されているけれど、ローアンの森は、ローアンの気持ち次第で国内の森と繋げられるようになっているそうだ。だから四代前の王妃さまのように、うっかりローアンの森のすぐ近くまで至ってしまう人間がいるのだとか。
ヘイゼルが封じられたときも、適当に繋げた先の森が我が家の裏手の森だったそうで、なぜそこに魔女が待ち構えていたのかはローアンにもわからないとのことだった。
濃いブラウンのスリーピースに甘茶色のタイを締めたヘイゼルは物凄く大人な雰囲気だ。スーツと同色のトップハットを被れば、どこからどう見ても高位貴族のお洒落な男性で。
ルチシャが、王宮用に仕立てたこのドレスも霞んでしまう程だわ…と密かに慄いていると、まだ赤みの強い夕闇を背にヘイゼルはゆったり微笑んだ。
「せっかくだから王都の菓子店にでも寄って行こうか」
「でも……目立つのではありませんか?あまり注目されるのは好みませんよね?」
「認識され難いようにしておくから大丈夫。行き帰りは精霊の道を通れば、距離も短縮できるし人の目には見えなくなるしね」
エスコートの腕を差し出され、まだ三回目の逢瀬なのにすっかり馴染んでしまった仕草に、微笑みを深めながらルチシャは手を添えた。
ヘイゼルが開いた精霊の道は暗いトンネルの中を歩いているかのようだった。
ルチシャにとっては道として認識できないていないからこその暗闇だそうで、ヘイゼルの目にはちゃんと石畳の道と、賑やかしくも美しい景色が見えているそうだ。
光もないべったりとした闇の中を歩いているのに、隣でエスコートをしてくれているのがヘイゼルであるというだけで訳もなく安心できる。
有名な高級菓子店と新しくできたショコラハウスに立ち寄ってからタウンハウスへ戻ると、出迎えてくれるなり、タウンハウスの管理を任されている使用人筆頭のユングが目を丸くして立ち尽くした。
どうやら、朝の訪問は夢幻か、幽霊や妖精の悪戯だと思っていたらしい。
「日暮れまでには戻す約束だったからね」と悪戯っぽく目を細めるヘイゼルに青ざめながら深々と礼をするユングを横目に、領地の屋敷に戻り次第また連絡をしますと約束する。
一瞬でふわりと姿を消す恋人を見送って、ルチシャは困惑を隠せない使用人と共に屋敷のなかへと戻った。