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3. 初めてのデートと話し合い



お見合い日和の麗かな昼下がり。

ルチシャはガーデンパーティに相応しい装飾的なドレスを着て庭先に立っていた。



お見合いといっても色恋が絡むものではなく、伯爵家がとある商会に課すひとつの試験のようなもの。

リリオデス領に籍を置くひとつの商会がこのたび王都に店を構えたいと願い出たため、新店舗の店主を任される商会主の息子が、貴族女性相手に相応しい振る舞いができるかを見定めるべく設けられた席なのだ。


店構えや店の商品が話題になれば貴族の館や茶席に招かれることも少なくない。

ルチシャの目で合格が入れば次は義母のチェックが入り、最後に領主夫妻と模擬商談を行うこととなる。

リリオデス領の商会という肩書きで店を構えるからには、王都における店の評判は領の評判にも直結する。ゆえに採点は厳しめにと父から忠告されている。



お出迎えした商会主の息子は二十代半ばの独身で、王都進出を狙っていることもあり瞳はギラギラと野心に燃えている。


見目は悪くないため貴族のお嬢さん方にもそれなりに気に入られるだろうが、ルチシャとしてはもう少し落ち着いてはどうかしらと言いたくなる。

商会で相手取るのは若いお嬢さんばかりではない。むしろそのお嬢さんの背後には、一筋縄ではいかないご婦人方がずらりと並んでいるのだから。



(服装が華やかなのは自信の表れなのでしょうけど、軽く見られないためにも質のよい落ち着いた衣装をいくつか用意しておくべきでしょうね…)


とはいえルチシャは今年デビューしたばかりで、これまで殆ど領地のマナーハウスで過ごしていたため王都の事情に詳しいわけではない。流行を逐一追っているわけでもないし、男性の好みにも偏りがあると義妹から評価されていることもあり、このスタイルが王都では主流で人気なんですと言われてしまえば、へぇそうなのねと思うしかないのだ。



どこまでも審査員目線で相手の挙動を判定しながら、庭を軽く散策し、お茶でもどうかとオープンテラスに用意した茶席へ誘導する。


商会主の息子は十分に教育されているのかお茶を嗜む所作に大きな問題はなかったが、話しぶりが少しばかり自己陶酔感強めで一方的な印象だ。


特に話の内容にも惹かれないし、あとの判断は義母に任せるとしてそろそろ解散しようかな…と思ったときだった。

ふと、日差しが急に翳った気がして空を見上げたルチシャは、伯爵家の上空をくるりと旋回したものの影に、思わずぽっかりと口を開けた。


竜と思しき大きな生き物の影は、くるりくるりと空を旋回するとパッと姿を消してしまった。

慌てて周囲を見回すルチシャに、商会主の息子は怪訝そうな顔を向けた。



「どうかされました?」


「ええ……っと!?」



突如、大きな体躯の竜が庭先に現れた。

バサリと翼が振るわれ、どんな原理か庭の草木がへし折れるようなことはなかったが、その場に居た使用人と衛兵たちはみな地面にへたり込んでしまう。


無理もない、目の前に突然大きな竜が現れれば誰だって尻餅くらいつくだろう。


竜は音も余韻もなく、瞬きのあいだに美麗な男性の姿に変わっていた。



昨日は下ろしていた髪を今日は後ろで緩く一本に縛っているようで、深緑色の上質なスリーピーススーツにトップハットを被った紳士は、静かな足取りで茶席に歩み寄った。


ルチシャは急いで立ち上がると淑女の礼で以て、竜王である男性を出迎える。

男性はルチシャに対しては淡い微笑みを浮かべたが、向かい合って座っていた商会主の息子には凍えるほど冷たい視線を向けた。



「……そこの男、今日のところは引くといい」



美しい瞳に見据えられた商会主の息子は、碌な返事も挨拶もできないまま転げ落ちるように大慌てで席を立った。彼の従者や護衛たちも我に帰ったのかドタバタとそれに続き、テラスを抜けて屋敷の応接室へと駆け込んでいく。


ルチシャはその背を見送りながら堪らずため息をこぼした。


不測の事態が起きた際に、女性を置いて我先に逃げ出すなんて信じられない。

ましてやルチシャはこの茶席の主催者だ。退席の許可も出していないし、中座の謝罪も受けていない。


(試験の結果としては不合格かしらね…)


屋敷のなかが俄かに騒がしい気がするが、熟練の家令や家政婦長も居るし、うまく帰宅の手配をしてくれる筈だ。


退出の挨拶すらしなかった無礼者をわざわざ見送る必要はないだろうと、ルチシャは隣に立つ美しい男性を見上げる。

先ほど対峙していたお坊ちゃんと比べるのも烏滸がましいが、その見た目は雲泥の差。


ルチシャに見られていることに気づいたヘイゼルは薄く微笑んだ。

少しばかり表情が冷たいのは、不快感があるからだろうか。



「……やあ、ルチシャ」


「ようこそおいでくださいました。十分な歓待も出来ず申し訳ありません」


「構わないよ。それよりも……邪魔をしてしまったかな?」


「問題ありません。あの方は、茶席のマナーを学びに来られただけですので」


「恋人ではなく?」


「お見合いのようになっていたのは形式上です。それに、昨日しっかりとお返事をさせてもらったと思うのですが…」


信じてくれていないのかしらと唇を軽く尖らせると、そんな子どもっぽい仕草も嬉しかったのかヘイゼルの表情がほろりとほどけた。


「そうか……綺麗に着飾った者同士が向き合っていたから勘違いをしてしまった。……ルチシャ、今日のきみは美しいね。そのドレスもよく似合っているよ」


「ありがとうございます」


時間をかけて身支度を頑張った手前、装いを褒められるのはやはり嬉しいものだ。

昨日の詰襟のデイドレスとは違って、今日はデコルテまで出るように作られたパーティドレス。胸部を強調するドレスが壊滅的に似合わないため、いつも薄い生地を重ねてふんわり誤魔化しているものの、その分全体的に甘めの雰囲気になる。


ドレス姿を褒められて笑顔になったルチシャを見て、ヘイゼルも微笑みを深くする。

先ほどのガーデンテラスでの出来事が、お見合いでも秘密の恋人との逢瀬でもないとわかったからか眼差しにも穏やかさが戻ったようだ。


それに安堵しながら、ルチシャはちらりと周囲に視線を配った。

使用人や衛兵の中には残念ながらまだ尻餅をついたままの者も居るし、ルチシャ付きの侍女見習いはヘイゼルの顔立ちに見惚れているのか呆けていて使い物にならない。


家令は既に父へ急ぎの伝令を出したようだが、残念ながら今日は夫人と共に馬車で領内の視察に出ている。

今、伯爵家に居るのはルチシャと幼い弟だけ。

まさか昨日の今日で訪問があるとは思わずすっかり油断していた。



「客人のおもてなしが十分に出来ず、申し訳ありません」


「構わないよ。無作法にも連絡をせずに訪れたのは僕のほうだ……少し時間を貰えるだろうか」


「もちろんです。新しくテーブルを用意させましょう」


「向かい合ってのお茶も素敵だが、散歩がてら祠に行きたくてね。構わないかな?」



祠であれば特別な許可なく自由に行き来できる範囲のため、ルチシャはすんなり頷いた。


使用人の同行の可否を問えば、人間側の作法に則って構わないと譲歩してくれる。

このような場面で高圧的な態度を取ることなく、こちら側に合わせてくれることには感謝しかない。



ルチシャは自分付きの侍女見習いと、屋敷の警備のために住み込みで雇用している衛兵をひとり指名し、離れて同行するよう頼み裏庭の奥にある通用門へと案内する。

普段は客人を通すような場所ではないけれど、屋敷内から歩いて祠へ行くにはここを通るしかないのだ。


途中、庭師と裏門の門番からぎょっとした目を向けられたけれど、ルチシャは平静を装って道先案内人を務めた。

ヘイゼルはといえば全く気にした様子もなく、自然な仕草でルチシャをエスコートしたまま、歩幅を合わせるようにゆったりと歩いている。



(昨日も思ったけれど、泰然としているというか、余裕があるわ…)



長くを生きる者というのは自然とこのようになるのだろうか。

どこか畏れ多くもあり、安らかさも感じる。まるで大樹を前にしているかのような不思議な心地だ。


(ほのかに森の香りもするのよね…若葉の瑞々しさというよりも、もっと年月を経た深い森の香り…)


隣を歩くヘイゼルの横顔はとても美しく整っていて、ルチシャは眼福だなと思いながら遠慮を忘れて見つめてしまう。


ルチシャの視線に気づいたヘイゼルは首を傾げながら目元を和らげた。その微笑みのあまりの柔らかさに、堪らずルチシャの頬に朱が入る。



「不躾な視線を向けてしまってすみません、あまりに美しい横顔なのでつい…」


「きみにとって好ましい造形なら良かった。昨日、伯爵は何と?」


「求婚をお受けしたからには、竜王さまを慕い敬い、務めを果たしなさいと…」



竜王と恋仲になったことを報告すると、父はルチシャが突っぱねる可能性も考慮していたのか、明らかに安堵して見せた。



実は昨日、互いに好意を伝え合って、たどたどしくも抱擁を交わしたあと、少しばかりルチシャとヘイゼルとのあいだで揉めたことがあった。

それは『結婚のタイミング』についてだ。


恋人になるなり「じゃあ行こうか」と早速お持ち帰りしようとするヘイゼルに、慌てて待ったをかけたのはルチシャで。

求婚を受け入れたからにはいずれ婚姻に至るのだとしても、ひとまずお互いを知るための(というか主にルチシャが竜や精霊の作法を知るための)準備期間があるものだと思い込んでおり、そのまま連れ帰って婚姻の支度に取り掛かろうとするとは思いもしなかった。


必要なものはこちらで用意するから身ひとつで嫁いでおいでと言われても、多少なりとも持っていきたいものはあるし、そもそもどこに連れて行かれるのかすらわからない状況では安心して身を委ねることもできない。


ルチシャはヘイゼルの胸元に両手を添え、すぐ近くにある端正な顔を懸命に見上げながら人間視点での主張をし、

ヘイゼルは囲い込んだ両腕を解くことなく、優しくルチシャを抱え込んだまま竜視点での主張をした。

そのままあれこれとお互いの考えや意見を出し合った結果、およそ一年間の恋人期間を設けることで落ち着いたのだ。


ルチシャにはよくわからない理屈もあったものの、次のルチシャの誕生日に結婚することでより一層強い繋がりを得られるようになるのだという。


本来であればそこまで結婚を引き延ばすことはない(むしろ人間側の都合や負担を全て無視した即日結婚も珍しくない)そうだが、ルチシャがあまりにも精霊や竜といった存在に対して無知であることと、

何より、ヘイゼルが封印された事件がまだ解決していないことが決定打となった。


話し合いの終盤で「では僕はひとまず魔女を始末してくるよ」と物凄く物騒なことを穏やかな物言いで口にするヘイゼルに、ルチシャは「…くれぐれも気をつけてくださいね」と言う他なかった。



(でも、今日こうして伯爵邸を訪れたということは、魔女は早くも始末されてしまったのかしら…)


ということは状況次第では結婚が前倒しになる可能性も…?と密かに懸念を抱くルチシャに対し、

ヘイゼルは伯爵の言葉があまり好ましくなかったのか「ルチシャは心のままに振る舞って構わないよ」と言ってくれる。


ルチシャも昨晩、父からの助言を聞きながら、ヘイゼルはそのようなことを望まないだろうな…と思っていたのだ。



「父は私の結婚相手にこだわりはなかったものの、やはりお相手が竜というのは想定外だったらしく、平静を装いながらも百面相をしていました。父のあのような顔を見たのは初めてだったので、堪らず笑ってしまいそうでした」


溜飲が下がる…という心地とは少しばかり異なるが、父の常にない表情を見てルチシャの心の一部分がスッキリしたのは間違いない。


ルチシャにとって伯爵家当主である父は、幼い頃から絶対的な大人であり、どこか超越した存在であった。

父が伯爵として判断を下せば、家全体がそちらへ向けて舵取りをする。

その結果、これまでにルチシャの屋敷内での立場は二転三転と転がり、そのたびに新しい立ち位置に順応することが求められた。


恨んではいないけれど、どうしてこんなにも振り回される人生なのかと溜め息を吐いたことはある。


だからだろう。

昨日の伯爵の様子を思い出すたび、ルチシャはこれまで必死で乗り越えてきた苦労がやっと報われたような心地になるのだ。



「我が国では竜は神聖な存在でありながらも秘匿された存在ですので、父は、ヘイゼルと実際に対面したにも関わらず、竜が人前に姿を現したということがなかなか信じられない様子でした」


ヘイゼルを真っ向から疑うつもりはないものの、余程信じがたいことなのか、父は幾度も「あの方は本当に竜なのだろうな」と確かめてきた。

ルチシャも実際に竜の姿を見たわけではなく、ヘイゼルの説明と自分の直感でそのように判断しただけだったため、曖昧に肯定することしかできなかったのだが。


(でも今日、一瞬だけど竜の姿を見たから、次に聞かれたらしっかりと肯定出来そうだわ)


それに、何故ルチシャが竜王から求婚されるに至ったのかも、理解が十分に及ばなかったようだ。

封印やそれに使われたとされる呪いや宝石の事を再三確認されたものの、ルチシャに詳細な説明など出来るはずもない。


あまりにもしつこく確認されるので、もう少しで、そんなに疑わしいなら竜王さまに直接お尋ねになったら如何です?と口をついてしまいそうになったくらいだ。

当然、そんな無礼は働けないと否定されるのがオチなので、どうにか喉元までで飲み込んだけれど。



ルチシャが考えに耽る傍ら、ヘイゼルはおもむろに指先を伸ばすと近くの木に張り付いていた小さな虫を掬い取った。


「この国は、竜や精霊といった存在があまり表に出ていないのだね……竜が神聖視されているということは、こういった精霊も信仰の対象なのかな?」


目前に掲げられたものは、どう見ても、ただの小さな虫でしかない。


「失礼ですが、ヘイゼル……それは虫ではありませんか?」


「小さいけれど木の芽の精霊だね。なるほど…認知されていないのか。とはいえ獣型の精霊の数もさほど多くない。誰か力のある精霊がこの国に住み着いているのだろう」


「我が国で竜が神聖視されているのは、緋色の巫女竜さまという竜が、王家に守護を与えているからだと言われています。巫女竜さまがいらっしゃるので他の精霊が少ないという可能性もあるのでしょうか」


「あるだろうね。でも、竜が住んでいるならもう少し色々と明らかになっていても良さそうだけど……一般的な竜はどちらかといえば顕示欲が強い方だから」


「緋色の巫女竜さまは人前に姿を出されない方で、王族だけが交流を許されているのです」


なにせ、巫女竜は四代前の王妃さま以外にその姿をお見せになったことはない。


今の王家はすでに巫女竜の加護を失っているのでは?と、まことしやかに囁かれているものの、誰もそれを確かめる術がない…というのが現状なのだと、昨日、父が言っていた。

だから、ルチシャが竜に求婚されたと王家に知れた場合、少々面倒なことになるかもしれないとも。



指先に留めていた虫姿の精霊を木に戻しつつ、暫し考えを巡らせていたヘイゼルは、不意に「ああ…」と呟いた。


「どうして巫女竜なんて呼ばれているのかわからないけれど、ここはあの子の土地か」


言うなり、どこからか大慌てで飛んできてヘイゼルの近くをパタパタ羽ばたいていた小鳥に対して「必要ないよ。デート中だから邪魔しないように」と告げたヘイゼルは、ルチシャに「デートだよね?」と問うた。

特に意識していなかったが、よく考えれば恋人になった人と仲良く散歩しているのだからデートと言って差し支えないだろう。頷いて肯定すれば、満足気に頷き返された。



「先ほどの小鳥に邪魔をされそうになったのですか?」


「というかこの国の竜に、かな。誰だろうと思って探ってみたら知人だったよ。

あの小鳥を遣いとして寄越してきて、何か問題が生じたのなら今すぐこちらへ向かうから勝手な真似はするなと言われてね。デート中だから来るなと断っておいた」


「知人……緋色の巫女竜さまと?」


「そうだね」


どうやらヘイゼルは顔が利くようだ。というか緋色の巫女竜さまは実在したのね…と、信じられない気持ちでいると、その表情をどう捉えたのか「表立って僕に逆らうような子じゃないから大丈夫」と微笑まれてしまった。


(ところどころ、発言が物騒な響きを伴っているのよね…)


それは竜王という肩書きゆえなのか、竜そのものの気質ゆえか。



「……そういえば僕が封印されたのも、あの子の森から出てすぐのことだったな。裏で策略を練るような気質ではないけれど、念のため、今度会ったら魔女に加担しているかどうか尋ねておこうか…」


ヘイゼルの呟きに不穏な気配を感じて、緋色の巫女竜さまを呪い殺すような真似はやめて欲しいと願い出るべきかしらとルチシャは悩む。

国の守護が失われ、他国と戦争にでもなったら大変だ。


ルチシャが真剣に思案していることに気づいたのか、ヘイゼルは、おや…と首を傾げた。


「心配せずともあの子がきみに手出しすることはないよ。他にも、精霊に困らされるようなことがあれば僕に言うと良い」


ヘイゼルは優しく穏やかに微笑んでくれているが、告げ口をしてしまった場合、相手は竜王からのとんでもない報復を受けることになりそうな気がする。



だがこの様子であれば、ルチシャが王族から理不尽な要求をされそうになっても、ヘイゼルから巫女竜、巫女竜から王族に話を通してもらえるかもしれないと少しだけホッとする。

くれぐれも王族の皆さんには、ヘイゼルの逆鱗に触れるような真似は控えてくださいと願うばかりだ。




昼時が近いのか、真上にのぼった太陽がじりじりと夏の陽射しを強める。


祠までの距離を歩いただけでヘバるような軟弱さではないが、暑さのせいでドレスの内側がじっとりと汗ばんできている。

身体の熱を逃すように、ふぅ…と小さく息を吐くと、隣を歩くヘイゼルがおもむろに虚空の何かを払うような仕草をした。

何だろうと思い視線を上げると、お日様に薄い雲がかかり陽射しが和らぎ始める。


チラリ…と上目でヘイゼルの表情を伺うと、ふわりと微笑まれる。


「もしかして雲をかけてくれたのですか?」


「暑いだろう?足が痛いなら抱っこもするけれど」


「足はまだ大丈夫です。それより……天候も動かせるのですね」


「特別にね」



当然ながら、高位の精霊だからといってすべての事象に介入できるわけではないし、個体によって得手不得手はあるようだが、身の回りの大気の流れを調整するのはヘイゼルにとっては容易いことらしい。

雲の動きや風の流れ、空気の湿り気などから直近の天気も予測できるらしく、今のように陽射しに雲をかけるくらいであれば指先一本で労せず出来るのだとか。

つい、なんて便利なのだろうと思ってしまう。


(王都で流行っていた女性向けの大衆紙に、デート中に日傘を差しかけてくれる男性への憧れが書かれていたけれど……暑いからってお日様に雲をかけてくれる男性はそう居ないと思うわ…)


それを素敵だと思ってしまう自分の感性も少しおかしいのかもしれないが、布地の嵩張るドレスの中で蒸し焼きになる危険は免れた。

ありがとうございますと礼を告げると、こちらが気恥ずかしくなるくらいに優しい微笑みが降ってくる。


(日傘はいらなくなったけど、この微笑み攻撃を防ぐための防護傘が必要かもしれないわ…!)


けれど、傘を差すことで隣に並ぶ美しい顔を見れなくなるのは惜しいばかりなので、人間はとても欲深く我儘なのだろう。



「そういえば、封印に関わった魔女をやっつけてくるというお話でしたが、無事に解決したのでしょうか」


「いや……誰に知恵を授けられたのか、解呪に長けた精霊のもとへ逃げ込まれてね。とてもこだわりの強い精霊で、身柄を預かった以上は絶対に呪いを解くのだと頑なだったから…解呪が済み次第始末しに行くから教えて欲しいと頼んでおいた」


「ええと…その方は、魔女を助けるために解呪するのではないのですか?身柄の引き渡しにすんなり応じてくれるのでしょうか」


「僕の編んだ呪いが珍しいうえに複雑怪奇で歯応えがありそうだから、解呪してみたくなったと言っていたよ。魔女の命は別にどうでもいいんじゃないかな」



まあ。そんな感じなのね…と精霊と人間の感覚の違いを実感する。

ルチシャが竜や精霊という超自然的な存在を知り、その在り方を考えるようになってまだ一日にも満たないが、助けたいからではなく、解いてみたいからという理由が行動の基であることが、所謂精霊らしさなのだろう。


そもそもヘイゼルはどうやって例の魔女の居場所を特定したのだろうと思ったものの、呪いという不可思議な術を使うくらいなので、きっと人間であるルチシャには到底理解できないような追跡方法があったに違いない。



「ヘイゼルはたくさんの精霊とお知り合いなのですね」


「古い精霊とは何かと顔を合わせる機会もあるからね……若い精霊とは、向こうから積極的に来ない限りはあまり交流しないかな」



たしかに…若々しい輪のなかに居るよりも、熟した落ち着いた輪のなかに居るほうが似合う気がする。

若造どころか赤子扱いでもいいような生育年数のルチシャに対してこれだけ紳士的に振る舞ってくれるのだから馴染めないわけではなさそうだけれど、若々しく活動的に過ごす姿よりも、どっしり構えて物静かに過ごしている姿のほうが想像し易いし似合っている。



「では、魔女を手助けした可能性のある、宝石(エメラルド)を授けた精霊さんともお会いしてきたのですか?」


昨日のヘイゼルの口ぶりからして、今回の封印騒動は、実行犯である魔女ひとりを排除して終わり…という訳ではなさそうだった。呪いに使われた宝石に力を込めたのは高位の精霊のように話していたけれど、そちらはどうなったのだろう。


ルチシャの問いかけに、ヘイゼルは少しばかり眉根を寄せた。

怒っているというよりも、悩ましげというか、もっと複雑な感情の混ざる表情だ。



「いや…彼女は数年前に婚約者に捨てられて酷く荒んでいると聞いたから、会いにいくのは控えたよ。噂では既に新しい恋人が出来たそうだけど、彼女の宝石によって起きた事をこちらが言及したところで益々機嫌が悪くなるだけだし、絡まれたらとても面倒だからね……しばらく会いたくないかな」



(あ…今のは、『心底面倒くさい』って嫌そうにしている顔だったのね…)



そして精霊の恋愛事情にも色々とあるらしい。

婚約者に捨てられたという字面が受け止めきれず唖然とするルチシャに、ヘイゼルは困ったように微笑んだ。


「恋多き女性でね、十年に一度くらいの周期で婚約しては結婚に至らず…荒れ狂うんだ」


そんな時に目を付けられたら最悪だよ、という言葉には深い実感が籠っている。

十年単位で巡り来るのであれば、きっとこれまでに何度も被害を被ってきたのだろう。


もしかすると、ヘイゼルが与している熟した精霊たちの輪は、ルチシャが思うよりも落ち着いていないのかもしれない。

恋占いを商いとしつつ十年に一度婚約破棄される精霊や、解呪に長けていながらも呪いを受けた存在そのものには興味のない精霊……たったふたつの事例だけでも、到底マトモとは言い難い。


「……精霊にも様々な方がいらっしゃるのですね」


「人間からすれば奇人変人の厄介者ばかりだろう」


成程、精霊は少しばかり厄介者が多いのね…とヘイゼルの言葉をよくよく胸に刻みながら、結局、まだ封印事件は解決していないのだと理解する。


実行犯の魔女は呪われているものの生きているし、

協力者と思しき精霊は、今はそれどころではないにしろ反省に至ってはいない。(そもそも反省しない可能性もあるけれど。)


更に他の協力者が居た場合、その人物が祠や伯爵家を訪れないとも限らない。



「……もしも今後、魔女の関係者が屋敷を訪ねて来た場合はどのように対応すれば良いでしょうか」


「そうだね…もしも魔女の遣いを名乗る者が訪ねて来たならば『竜は真実の愛を得て祠から出た』と言えばいい」


にこりと微笑みかけられてルチシャはむぐっと言葉を詰まらせた。

真実の愛という言葉の破壊力たるや。

しかも、しっかりとルチシャを見ながらいうものだから余計に質が悪い。


頬がじわりと熱を帯びるのを感じていると、ヘイゼルはおもむろに立ち止まってルチシャと向き合った。

木々の陰に立っているせいか深みを増した瞳がルチシャを見下ろす。



「昨日の今日だし、本当はこっそり祠の様子を見るに留めるつもりだったけれど…着飾ったきみが男と仲良く向き合っていたから、つい庭に降り立ってしまった」


「竜が庭先に降りて来たんですもの…きっと今頃、お屋敷は大騒ぎです」


「かもしれないね。……恋というものを経験するのは初めてだが、このように胸がザワつくものなのだね。強引にでも連れ帰ってしまいたいという衝動と、嫌われないよう紳士的に振る舞わなければと諫める理性とが、常に喧嘩をしているような状態だ…」


困ったなと軽く肩を竦めているものの、その表情に焦りや動揺はみられない。

ただただ愛おしそうにじっとルチシャを見るばかり。


すぐ近くで見るヘイゼルの瞳は、虹彩周りが淡褐色で、縁に広がるほどに緑が濃くなっていく。

夏の終わりと秋の始まりを思わせる、澄明な、ハシバミ色の瞳。

吸い込まれるように美しく、見つめられるだけで息が止まりそうになる。


ルチシャが何かを言葉にする前に、ヘイゼルは視線を進行方向へと戻した。



「さて………祠に着いたね」



いつの間にか森の入り口に到達していたらしい。視線を巡らせれば、真っ二つに割れた祠石が昨日と変わらず無造作に転がっている。


ヘイゼルは「危ないから」とルチシャを少し離れたところに立つ使用人らに預けて、ひとりで祠の傍へ行った。


大丈夫だろうかとハラハラしながら見守るルチシャの前で、ヘイゼルは重たいはずの祠石を片手で持ち上げて隅々まで確認したかと思うと、おもむろにその石を粉砕してしまった。

ルチシャの膝下くらいの高さとそれに見合った重量のある石が、ひと掴みであっけなく粉々になる。


衛兵は思わず「マジか…」と呟いていたし、侍女見習いは「お嬢さま…」とルチシャの身を案じたようだ。あの力で触れられたらルチシャが粉々になるとでも思ったのだろう。



ヘイゼルは割れていた祠石を二つ共粉々にして、何かの実と共に土へ埋めた。


それからおもむろに手を翳して言葉を紡ぐと、ぽこりと新芽が出てぐんと伸び、一瞬で腰くらいの高さの若木となる。


顔を引き攣らせていた衛兵と侍女が、「え!?」と思わず身を乗り出す。

ルチシャも、手の汚れを落としながら戻ってきたヘイゼルに堪らず「魔法ですか!?」と勢い込んで尋ねた。

「かつてはそう呼ばれていた事もあるね」と柔らかく微笑まれ、憧憬の眼差しを向ける。



(なんてこと…竜で精霊なうえに魔法使いだったなんて…!)



どう考えても自分の手に負える気がしないけれど、彼はまごうことなき自分の婚約者なのだ。ルチシャの胸は興奮で高鳴っている。



背後にいる衛兵がそわそわしているのは、お伽噺の冒険譚にあるような攻撃魔法が使えるのか、知りたくて堪らないのだろう。

この国の男たちは皆、有名な冒険譚に出てくる魔法騎士を真似して、幼少期のあいだに一度は『手のひらから攻撃魔法を出すポーズをキメる』という遊戯にハマるのだ。

父が幼い弟に『サンダーハリケーン』なる必殺技を伝授しているときは苦笑いしか浮かばなかったが、ヘイゼルの使った本物の魔法のなんと高潔なことか。


竜や精霊の伝承の少ない我が国だからこそ、魔法という特殊な能力のことも伝わっていないのかと思えば、どうやらそもそも人間に使える力ではないらしい。

自然の内包するエネルギー云々と言われてもルチシャには微塵もわからない。


そういう自然界の働きかけを五感で感じながら自然に寄り添って過ごす者を古来は魔女と呼称した…という説明に、なんとなく頷いてみるばかり。



「あの若木は土地が穢れないよう植えているから、引き抜かないようにして欲しい」


「わかりました。祠石を壊していましたが、何か問題があったのですか?」


「いや、もう力を失っていることを確認したから壊して土に還しただけだよ。祠石は古木が石化したものだったから、下手な処理をして悪影響が出ると良くないからね」



特にうっかり燃やしてしまうと大変なことになったという。

高位の精霊を封印した残骸はそれだけで強い呪いの道具になるそうだが、ヘイゼルもさすがに自身の封印の痕跡を使う気にはならないからと粉々にして土に埋め、浄化を兼ねて木を生やしたそうだ。



森の入り口へ目を向ければ、若々しく伸びた細木が生えているだけで、祠の跡はもうどこにもない。

生母が離宮に下げられてから十年近くもこの辺りを訪れていた身としては少し寂しくもあるけれど、それはもう過ぎた感傷なのだろうと静かに目を伏せる。



どこかで休憩してから戻るかと聞かれたため、もう問題ないのであれば、このまま屋敷へ戻りましょうと踵を返す。



「……今後は、あまりこの辺りには近づかないほうがいいのでしょうか」


「祠のあった場所に踏み込まなければ大丈夫。魔女への仕掛けでもあるから、うっかり木に触ってしまうと僕の呪いが発動するから気をつけて」


「それは……とんでもないことになりそうです。森の管理人やお父さまにしっかり伝えておきますね」


苦痛で動けなくなるものの、ある程度の意識は残るくらいの呪いだから大丈夫だよ、と言ってくれたが、残念ながら安心できる要素はひとつもない。むしろ即死しない分、苦しみが続くのだと思うと絶対に引っかかりたくない罠だ。



「ヘイゼルは暴れるというより、呪ってしまうタイプの竜なのですか?」


「そうだね…僕は竜種にしては安穏とした気質で、武力よりも知識を好む傾向にある。身体も随分と小さいだろう?」


「人間の成人男性と比べると立派な体躯をお持ちだと思いますが…」



身長は2メートルとまではいかないものの、180センチ以上あるだろう。

コートの下の体躯は、見るからに屈強で力自慢を誇示しているというよりも、しなやかな強さを感じさせるものだ。

もしかすると、そのあたりが他の竜との違いなのかもしれないが、その辺の衛兵よりもずっと逞しい身体つきなのだから何ら恥じる必要はないと思う。


「樹木を守護する竜種のなかでは明らかに小さいね」と申し訳なさそうに言う竜王に、ルチシャは首を横に振った。


祠石を軽々と粉砕できるパワーを持つヘイゼルが『小柄で穏やかな気質』であるというのなら、他の竜とは一体どれほどに危ない存在なのだろう。

敵意を持った竜がひと暴れしたら、国ごと簡単に破壊されてしまうかもしれない。


「出会ったのがヘイゼルで良かったと思います……大きすぎる竜は少し、怖いので」


「僕のことは怖くない?」


「はい。ヘイゼルのことは不思議と……時折、ひれ伏したいとか拝みたいという衝動が芽生えることはありますが、逃げ出したいほどの恐怖を感じることはありません」



畏れ多いと感じることがあると白状したルチシャに対して、「古い生き物に対する軽微な信仰心のようなものかな?」と首を傾げるヘイゼルは、どの角度から見てもやはり恐怖の対象ではない。

ルチシャに向ける視線や感情が常に柔らかいというのが一因だろうが、庭先に竜の姿で降り立ったときも、吃驚はしたけれど恐ろしさに立ち竦むようなことはなかった。




行きと同様、どこか呆然とヘイゼルを見つめている門番の横を通り、裏庭を抜けて中庭へ面したテラスへ戻ってくる。


テラスに並んで待機していたのは家令と家政婦長で、昨日と同様に、粗相がないよう経験の浅いハウスメイドたちは下げられたようだ。

客間をご用意しておりますと恭しく頭を下げた家令に、ヘイゼルは竜王らしい鷹揚さで頷いてみせた。



「ドレスで歩かせてしまったから着替えが必要だろう。彼女が装いを整えるあいだ、庭を歩いても構わないだろうか」


「勿論でございます。ご案内させて頂きます」


「案内は不要だ。当主不在の屋敷で悪戯をするつもりもないから安心するといい」



一礼して了承の意を示した家令を下がらせ、ヘイゼルはルチシャに柔らかな声で告げた。

声音ひとつでここまで対応を分けられるものなのだなぁと不思議と感心してしまう。

好ましい者には柔らかく、さしたる相手でないときは厳かに。

声で判別するに、今のところ、ルチシャだけがヘイゼルの内側にいる。



「時間をかけて構わないから楽な格好に着替えておいで。戻り次第ここから呼んでくれれば気付けるだろう」



ドレスのなかは汗でベタベタだ。

ありがたく侍女と共に部屋へ下がらせてもらい、着替えをしながら厨房から上がってきたキッチンメイドと、お茶席で出す茶の種類やお菓子について話し合う。

とても貴族らしい生活だなと思う反面、こういう生活があと一年程で終わってしまうとは、まだうまく想像できそうにない。



「竜王さまはとてもお美しいかたですね。ルチシャお嬢様を気に入られたと伺いましたが、まさか続けて会いに来られるとは思いませんでした」


髪を結い直してくれる侍女見習いに微笑んで「そうね」と返す。

家令と家政婦長以外の使用人たちにはまだ恋人になったことは告げていない。

父は竜の祠の封印が解けたことは王に報告すると言っていたが、それ以上のことは政治的な思惑も絡むため慎重な姿勢をとるようだ。


今日の商会のご子息にも口止めが行くでしょうね…。


ヘイゼルが緋色の巫女竜さまと知り合いである(むしろ巫女竜さまより上の立場にある)と告げれば父はどのような反応をするだろうか。


考えることもやることも沢山あるけれど、その先にあるのがヘイゼルとの暮らしだと思えば、ルチシャの心は不思議と浮き足立つ。

きっとこれが恋というものなのね…と自覚すれば、世界の色がまるで違って見えるような心地だった。








テラスに戻ったルチシャは、低木の茂る庭へ向けて「ヘイゼル」と声を掛けた。


精霊の名とは不思議なもので、面識を持たない者には不鮮明に聞こえ、面識があるものの許可されていない者にはその者に相応しい響きで聞こえるのだという。

今、ルチシャが発した呼びかけも、侍女見習いや庭師の耳には「竜王さま」と変換されて聞こえていることになる。

ヘイゼルとは全く面識のないランドリーメイドがその名だけを聞いたならば、モヤモヤと認識自体が阻害され、その後の記憶にも一切残らない。


試しにヘイゼルに緋色の巫女竜さまの名を口にしてもらったが、何度聞いても聞き溢したような感覚になってしまい、その名が意識に残ることはなかった。



ややあって庭の奥からゆったりと姿を現したヘイゼルに、待たされたことを苦にする様子は見られない。



「お待たせしました。気になる植物がありましたか?」


「ギリアムという庭師と話をした。彼はなかなか面白い知識を持っているね」


「ギリアムとですか?きっと喜んだことでしょう」



ギリアムは裏庭側…来客用の華やかな庭ではなく、屋敷で使う食用植物などの管理を担っている庭師だ。

裏庭を抜けて森の祠付近へお散歩に出ていたルチシャは彼と話す機会も多く、自身で整えた庭を解説してくれることもよくある。

異国ではこういう庭をポタジェ・ガーデンと言うそうですよと教えてくれた菜園には、ハーブから野菜まで多くの食用植物が大事に育てられている。

土の匂いの濃い、日焼けした壮年の男性だ。


ヘイゼルの見た目はどこからどう見ても高位貴族だが、使用人と話をすることを嫌がるような高慢な素振りはない。

人間として大きくひと括りにしているだけかもしれないけれど、

ぞろぞろと従者を連れて、自分ひとりでは何もしようとしない貴族のお坊ちゃんに比べればずっと好ましい。

ご令嬢のなかには、ルチシャが庭師と直接話をする事もあるというだけで、顔を顰め、扇でその表情を隠してしまう女性もいるくらいに、この国の身分制はある程度ハッキリしている。



昨日と同じ客間に入ると、お茶とお菓子ののったワゴンが届けられた。

家令の給仕を嫌がりはしなかったが、茶席が整うとヘイゼルは「暫くふたりにしてくれるだろうか」と口にした。

その真意を問うように、白髪に染まった家令の眉が小さく持ち上がる。



「彼女の名誉を傷つけることはしないと誓おう。少し、ふたりで話がしたい」


「……かしこまりました。扉は閉めずとも構いませんか?」


「聞き耳を立てるような不心得者が立つのでなければ構わない。ルチシャも良いだろうか」


「はい。是非ともゆっくりお話がしたく存じます」



同意するルチシャの表情に怯えがなく穏やかであることを確認し、家令は一礼をして下がる。


紅茶をひとくち飲んでひと息つくと、ルチシャは「気を遣ってくださってありがとうございます」と微笑んだ。


伯爵家の娘とはいえ、一から十まで全てを許されているわけではない。

ましてや未婚の娘が、正式に婚約を交わしたわけでもない男とふたりきりになりたいと願うことは、理由なく容認されるものではない。

今回は屋敷の主人よりも上位の存在であるヘイゼルが申し出たことと、彼がルチシャの安全を保証してくれたことで、家令も大人しく引き下がってくれたのだろう。



「昨日の今日だし、まだ、あまり周囲に聞かせたくない話もあるかと思ってね」


「ありがとうございます。恋人になったことはまだ家令と家政婦長くらいにしか知らされておりませんし、出来れば結婚のことをもう少し具体的に聞きたいなと思っていたので」



ここで「お前は黙ってこちらの形式に従えばいいんだ」と突っぱねるのではなく、何が知りたいのだろうかと首を傾げてくれるあたりが好ましいところだと改めて思う。


ルチシャはさてどう話し始めようかとテーブルに視線を落とし、グラサージュのかかったお菓子に目を留めた。

折よくヘイゼルが、このタルトにはナッツのクリームが入っているのだねと頷いている。


「今日のタルトはコンヴェルサシオンという名前で、席を共にする人との会話が弾むと言われているお菓子なんです」


「僕との会話を楽しみにしてくれるのなら喜ばしいことだ」


「祠までの道のりも、色々な話が出来てとても楽しかったです」


「では、また散歩に誘ったら応じてくれるだろうか」


「勿論です。次は花の綺麗な中庭の庭園をお散歩しましょう」


隣を歩くあいだずっとルチシャの歩く速度に合わせてくれていたし、至るところで気を遣ってくれた。日傘代わりに雲をかけてくれたし、思いがけず魔法を見ることもできた。ここ最近で一番楽しい時間だったと言えば、満足そうに微笑み返される。



ヘイゼルの瞳に宿る薄茶色の部分はとても不思議で、こちらの気持ちやヘイゼルの感情に伴って、淡褐色だったり枯れ葉色だったりと色味や印象が大きく変わる。


(……今は澄明な琥珀色に見える。でも、昨日、名前を教えてくれた時はとろりと甘い濃厚な蜂蜜色だった…)


覗き込まれ真っ直ぐに見つめられると、甘くて重い蜜に絡め取られるような心地になったのを覚えている。



吸い込まれるようにその瞳を見つめていたルチシャは、喉の渇きを感じて紅茶のカップを持ち上げた。僅かな渋みのある液体が喉を流れ渇きを潤す。



「……結婚したあと、ヘイゼルが私に望むことは何ですか?」


「結婚したあとに望むこと?…ずっと側に居て欲しいと思うよ」


「竜には、子孫を残せとかそういう…結婚に付随して与えられる役目のようなものはないのですか?」


「精霊は基本的に単一派生だから、動物や人間のような方法で繁殖しないからね。僕とルチシャが結婚したとしても子どもは生まれないよ」


「……では、繁殖行為もしないのですか?」


「目的は違えど、行為そのものはするかな。人間も同じように、繁殖以外の目的でもそういう行為をするだろう?」


「する……んだと、思います」


真面目な話の一環であるため恥じらうつもりはなかったのに、少し言葉に詰まってしまった。

淑女教育は受けているけれど、大部分は相手にお任せしなさいな教育内容だ。行為に快楽が伴うのだと知識的には知っていても、未経験なルチシャにとっては想像の範囲を出ない。

ルチシャの様子に気付き、ヘイゼルは申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「若い女性に投げかける問いではなかったかな」


「いえ、話を振ったのはこちらですから気にしないでください」


気まずさを誤魔化すようにもうひと口紅茶を飲む。

向かいでヘイゼルが、タルトに添え置かれていたチョコレートプラリネを口に入れて「良い味だね」と頷いているのを見て、知らず強張っていた肩から少しだけ力が抜ける。



質問ばかりな会話に辟易しないかと心配したが、ヘイゼルは「異なる視点や考えを持つ相手と問答するのは楽しいよ」と相変わらずの寛容さだ。



「……人間にとって結婚というものは過程でしかないのだね。だからルチシャはこんなにも多くの不安や葛藤を抱えるのか」


「精霊にとっての結婚は、人間の結ぶものより重い意味を持つのですか?」


「基本的にはそうだね…特に竜は、飛び抜けて重い。

僕からすれば、離婚などという抜け道のある人間の結婚制度はよく理解できない。簡単に反故できるような契約をわざわざ結ぶ必要があるのだろうかと疑問に思うし、その価値の低い契約を結んだ証として、結婚式という華々しくも仰々しい儀式を執り行う意味もわからない…かな」


「竜の結婚はどのような作法で行うのですか?」


「具体的な内容は秘匿されているから明かすことはできないけど、人間が相手の場合、廟や住処の奥に籠って特別な儀式をおこなう……という感じかな」



なんとなく、儀式にどういう行為が含まれるのかは想像が出来た。

初夜のようなものかな…と思っていると、そのまま数週間から数ヶ月単位で籠りっきりになると言われ、あれ?思ったものと違うかもしれない?と一瞬不安が過ぎる。

人間社会に於ける結婚式を『仰々しい』と評価したからには、もっと簡素で肉体的な儀式なのかなと考えたのだが、数週間以上も籠るとなればそちらの儀式のほうが余程仰々しいのではないだろうか。


(さすがに数ヶ月も籠りきりのまま、そのような行為を続けるわけではないだろうし…)


秘匿されているのだから詳細不明なのは仕方のないことだけれど、うまく想像も出来ずルチシャは首を捻ってしまう。


「ヘイゼルのお知り合いのなかに、人間と結婚している竜や精霊の方はいらっしゃいますか?」


「結婚はしていないけれど、恋人関係である精霊はいる。彼女はいつもパートナーの寿命が来るまで共に寄り添い、その死を見届けたうえで、また新しいパートナーを探しているね」


「結婚せず恋人の状態であれば、特別な儀式をする必要はないんですね」


「ないね。永続的な愛を誓うわけではないから、気が済むまで側にいる感じかな」



相手が自分の好みから外れるまで。あるいは相手の寿命が尽きるまで。


ヘイゼルをチラリと見れば、ひっそりと微笑まれる。

なんとなく、彼はそういう寄り添い方はしないだろうなと思った。

決して不器用そうには見えないが、刹那的な時間を寄り添い過ごすことよりも、もっとしっかりと相手との時間に身を浸すのを好むように思えたのだ。



「……私が儀式をするのは嫌だと拒絶したらどうします?」


「大丈夫、僕の手のなかには色々な『おまじない』があるから、決して望まない婚姻にはならないよ」


「…すぐに呪おうとするんですから」


「痛いことはしない。怖いと感じたとしても、すぐに忘れられる」


「ヘイゼル……安心させようとしてくれるのは有り難いのですけど、言葉を重ねられるたびに逆に不安が募ります。儀式は拒絶しないので、『おまじない』の安易な発動はやめてくださいね」



優しい口調で「大丈夫」と重ねる表情は、どこまでも純粋な思いやりに満ちている。

だからこそタチが悪いのだとルチシャが思わず口を挟めば、ヘイゼルは愉快がるように「そういえば、安易に心を操らないと昨日約束したんだったね」と肩を竦めた。



とりとめのない話をしながらタルトを食べ終えた頃、ふとヘイゼルが何かに気付いて顔を上げた。

急に見つめられたルチシャは、どうしたのだろうと首を捻る。



「………もしかしてルチシャは、人間の作法で結婚式を挙げたかった?」


「ヘイゼル?…いえ、特にこだわりはありませんが」


「確か、国や文化圏ごとに異なるものの、人間の女性は婚礼衣装に特別な意味を込めると本で読んだ気がするけれど、問題はないのだろうか」


「そうですね……確かに我が国では洗礼式から婚姻までのあいだに、母から受け継いだウェディングドレスの補正と針刺しをする…という伝統がありますけど、私は既に母のドレスを手放していて、手元には何の思い入れもない新品のドレスがあるばかりなので、着用せずとも問題ないです」


「手放した理由は?金銭的な困窮ではないだろう?」


「言い方は悪いですが、縁起が悪いからですね。母は離縁寸前の状態で心を壊して離宮に入れられましたし、伯爵家でも一部の者しか知らされていませんが…自死でしたので」


「ああ…今の伯爵夫人はルチシャとあまり似ていないと思ったけれど、後妻なのだね」


「ええ。義母のウェディングドレスは彼女の娘である、私にとっての義理の妹が受け継いで補正と針刺しをしています。夫人はもともと子爵家の出身で、男爵家へ嫁ぐ際に着ていた衣装ですので、私が受け継ぐには少し…ドレスの格が低いんです」


「へえ…人間の作法は煩雑だね。文献として読む分は構わないけど、実際に関わるのは出来れば遠慮したいかな」


「竜の作法ではドレスは着ないのですね」


「いや、儀式衣装は用意するよ。自身の持つ最上級の布と糸とで仕立てることになっている」


最上級の、と言われたことでルチシャの胸に嫌な予感が過ぎる。

咄嗟に「お手柔らかにお願いします」と言ったものの、真向かいのヘイゼルは心底楽しそうに目元を緩めているではないか。

とんでもないものが出てきませんようにと懸命に祈るルチシャとは裏腹に、七千年を生きる竜は満足げに頷いた。



「幸いにも、この世界が最も豊かだった頃の最上級の布が手元にある。ルチシャの魅力が引き立つよう仕立てさせるから、気に入ってくれると嬉しい」


「お手柔らかにお願いします…!」



国宝どころか世界の至宝に相当しそうな儀式衣装が仕立てられるとわかってしまい、ルチシャは儀式までにせめて肌だけでも磨いておこうと心に誓った。




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