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15. 夏至の熱と騙しうち



陽長きこと極まる日。

十日程前から第九の森に滞在しているルチシャは、夏至当日の賑やかさに少しばかり圧倒されていた。



まだ夜が明けきらない早朝だというのに、普段は身を隠している生き物たちがせわしなく森を行き交い、ところどころで領土争いを始めている。皆、少しでも夏至の恩恵を受けようと必死なのだという。


精霊たちの気が立っているからね…と森の深部へは立ち入らず、お屋敷の屋根の上という絶景スポットから森全体を眺めていたルチシャは、誰よりも大忙しな人物を見つけてそちらへ目を留めた。


普段は綺麗に一本に結んでいる髪が乱れようとも構わず、籠を持っては一心不乱に何かを探して回るホーステールの姿は、遠目に見ても鬼気迫るものがある。


魔女にとって夏至は収穫の日だ。

夜明け前から月光や夜露を蓄えた植物を採取し、その日のうちに必要な処理までを終わらせるという。

夏至まわりは大忙しになるため、その前後は食事の提供すら止まり、保存食で乗り切って欲しいと事前に伝えられている。


とはいえ保存のきくパンもお菓子もたっぷり用意してくれているし、新鮮なサラダなどもヘイゼルが幾らか貰って来てくれるため食べ物に事欠く心配はない。


ホーステールは夏至の数日前から準備に余念が無く、今日は一日中動きっ放し。

翌日の明け方まで作業を続け、敢えて夏至の翌日にまで残しておいた薬草やキノコを収穫し終えたら、開放感から酒に溺れるのが常という。


夏至明けにアルコール漬けになったホーステールを回収するのが僕の仕事だよとヘイゼルは言うけれど、木の根元で黙々と作業をする後ろ姿は真面目そのもので、酒で我を忘れる姿はなかなか想像が出来ない。


けれども、彼が今しゃがみ込んで熱心に回収しているのが風味は良いが強い幻覚作用のあるキノコだと聞けば、もしかして自分で服用する分なのかしら…とつい疑いを持ってしまう。



ルチシャは二十分ほど前に、夏至の日の出を見ようかとヘイゼルに起こされ、屋根の上に連れて来てもらった。

寝衣に薄手のショールを羽織っただけの格好だが、風の調整をしてくれているのか肌寒さを感じることもなく、森の向こうから神々しく昇りくる太陽の最初の一筋の光をヘイゼルに寄り添ったまま眺めた。


紺、青、紫、橙が複雑に混ざり合った空を切り裂くように差し込んだ太陽の光は力強くも繊細で、暫く呼吸も忘れて魅入ってしまったほど。

ヘイゼルに指先で頬を突かれてようやく我に返った時にはもう、森のなかは、日光浴をしたい小動物姿の精霊たちによる陣地争いで大騒ぎだった。



座って後ろから抱き込んでくれていたヘイゼルが「少し待っていてご覧」と囁いたかと思えば、彼は一瞬で地上に降り立っていた。

森の管理者である竜王の登場に、場所を奪い合って喧嘩していた小動物たちも動きをとめて礼を示す。

小さな体を震わせながら場所争いに参加していたヒメネズミ姿の精霊をひょいと掬い上げたかと思えば、陽当たりの悪くない岩場の上に置いてあげる。

他の小動物たちの争いも幾つか仲裁しながら、ヘイゼルは悠然と森の中へ消えて行く。


目を凝らしても木立に隠れてしまいその姿は全く見えない。

ホーステールは相変わらず一心不乱に収穫を続けているようだし、それを手伝いに行ったわけでもなさそうだ。

急な心細さを感じて素足のままの足先を擦り合わせる。

どのくらい待つのかしら…と思っていると、数十秒もせずに背後から「おまたせ」と声がした。


一瞬だけ聞こえた、ばさりとマントを翻すような翼を振るう音。森から屋根の上まで、竜の姿で飛んで戻ってきたのだろう。

振り返って見たヘイゼルの手には、オレンジの色彩が眩しい、ふくよかなマリーゴールドの花が摘まれていた。

差し出されたそれを受け取るとヘイゼルは満足げに微笑んだ。


「夏至の、日の出と共に咲いた花だ…今日のきみにこそ相応しいと思ってね」


「ありがとうございます。その…マリーゴールドにはどのような意味があるのですか?」


不勉強であることを恥じつつも、人間とは違う作法や常識があるのかもしれないと思い尋ねてみると、おや…と眉をあげたヘイゼルは優しく目を細めた。


「マリーゴールドは日向性を持っているからね、古くから不変の愛情の象徴とされている。太陽の力の強い夏至の日に、一番に花開いたものを恋しい相手へ贈ると、心と魂の結びつきを強めるといわれる」


「不変の愛情…」


それは長らく、ルチシャが欲しくて堪らず、けれども自分が貴族に生まれた子どもである以上は過分に望んではいけないと言い聞かせ続けてきたものだ。

そして、たとえ愛があっても貴族である以上、家のために必要な責務を果たせなければ何の意味もないのだと諦め続けてきたこと。


手の内にあるオレンジ色の花は瑞々しく咲き誇り、一片の翳りもない。

こんなにも美しく清らかなものを自分が手にして良いのだろうかと僅かな畏れを抱いてしまう一方で、どうか自分とヘイゼルの愛が変わらず在り続けてくれるようにと祈るような気持ちが湧き上がってくる。


「ヘイゼル…」と見上げれば、朝日に照らされた美しい顔が優しく微笑みかけてくる。

マリーゴールドを持つ手に大きな手が重ねられ、共に願いを掛けてくれるのかしら…とロマンチックな気持ちを強めたルチシャに、ヘイゼルはおもむろに「口を開けてご覧」と言った。


「……口を?」


「少し辛みがあるけれど、サラダとしても食べられるから大丈夫。苦手ならスープに浮かべようか」


「……食べるんですか?これを?こんなにも美しいのに?」


「瑞々しいうちが美味しいだろう。太陽の力が最も強まる正午に摘んだものでも構わないけれど、やはり初恋の成就には日の出の時に開いたものだろうと思ってね」



ヘイゼルの指が容赦なく一枚の花弁を毟り、ルチシャの口元へ運んでくる。

信じられない心地だが、食することで一層魂の繋がりが深められると言われると食べる他なく……自分で毟るのは気持ち的に忌避感があったため、ヘイゼルに毟ってもらったものを口の中へ入れていく。

確かに舌先がピリリとするような刺激と辛み、特有の苦味に近い味があったけれど、それよりもあのふくよかで美しかった花が無残に毟られ花弁を失っていく姿が悲しすぎて、碌に味わうことなく機械的に噛み締めては飲み込んでいく。


残った花弁以外の部分はヘイゼルがパクリとひと口で頬ばってしまった。

美味しいですか?と聞けば、そうでもないね…と言うのがまた物悲しい。



そうこうしているうちに、朝日はすっかり昇りきってしまったようだ。


そろそろ戻ろうかと促され、屋根の上から広々としたバルコニーへ降りる。

伯爵邸におけるルチシャの自室くらいの広さのあるバルコニーは彫刻の美しい手摺に囲われており、月夜に向かい合って、ダンスのひとつでも踊れそうだ。


そこから手を繋いだまま戻るのは、当然のようにヘイゼルの部屋で。


十日前に森を訪れてから今日まで、ルチシャとヘイゼルは殆ど離れることなく同じ部屋で共に過ごしている。

書庫に行ったり森を散策したり、部屋でお喋りをしたり食事をいただいたり。

ここ数日は眠るときも、それぞれの部屋で寝るつもりで就寝前の挨拶とおやすみのキスを交わすのだが、ひょいと横抱きにされてヘイゼルの寝台の上まで運ばれてしまい、そのまま同じベッドで朝を迎える羽目になっている。

勿論、一線を越すような行為はおこなっていないけれど、夜毎与えられる口付けがもう幾度目か…指で数えるのが困難なほどの回数に至っているのは、仕方のないことだろう。



朝食前に着替えるのなら一度自室に戻るべきよね…と本来ルチシャに宛てがわれている客間の方へ目を向けていると、こっちだよと横抱きにされて、数十分前まで並んで眠っていた寝台の上に優しく戻された。

さりげなく肩から外されたショールを気恥ずかしく眺めながら、夜と同じように隣にヘイゼルが横たわるのを待つ。


ヘイゼルが森で過ごす用にと用意してくれたのは柔らかなシルクのネグリジェだ。お尻までをカバーする長めの上衣に、スネまでを隠すゆったりとしたズボン。

伯爵邸ではワンピース型のネグリジェを着ていたルチシャは、寝返りを打ってもはしたない姿を晒すことのないこの寝衣をすっかり気に入っている。


ルチシャの故郷では一般的ではないものの、他国には就寝時にも使える締め付けの少ない下着があるそうで、ローアンや他の精霊から助言があったからと、胸元だけをカバーするものからお腹まですっぽり隠せるものなど幾つかのデザインでネグリジェの下に着用できるよう用意してくれていた。

賢者であるはずのヘイゼルが女性陣からどのようなアドバイスを受けたものか、女性用の服は難しいものだね…と少し疲れたように眉を下げていたのが印象的だった。


恋人から下着まで用意されるなんて…と多少悩ましく思わなくもないが、困り果てながらもルチシャが森で暮らす為の環境を整えようとしてくれる事に感謝し、肌触りの良いその下着を有り難く使わせてもらっている。


結婚したらそんな下着は不要だし、寝衣ももっと解放的なもので構わないよという囁きには曖昧に微笑み返すだけに留めておいた。

新婚用に揃いの寝衣を用意してくれているようだけれど、一体どのようなデザインなのか少し不安でもある。



すぐ隣に横になったヘイゼルは自然な流れでルチシャを抱き寄せた。

目を瞑り、触れるだけの甘い口付けを受けとめる。



「さて…皆は夏至の収穫に忙しいようだし、僕はゆっくりとルチシャを愛でることにしようかな」



おもむろに告げられた言葉に、ルチシャは目を瞬いた。

昨夜のように幾百もの口付けを交わすのだろうかと思っていると、朝日が満ちる部屋のなかでヘイゼルの瞳が鈍く光る。



「古来から夏至は情熱的な愛を交わす日でもある……まだ僕たちはその行為には至らないけれど、少しだけ享楽を甘受し、戯れ合うのも悪くはないだろう?」



小首を傾げながら問いかけられたものの、すでに大きな手は腰元に回され身体はすっぽり囲われてしまっている。

逃すつもりはないよと暗に告げているかのようだ。


これまで触れるだけのキスを繰り返すなかで、ルチシャだってもう少しと欲を抱いたことはある。だが、どこまで望むことが許されるのか……どこまでであれば相手の理性の範囲に収まるのかがわからず、ヘイゼルを真似して頬や額、首筋に唇を触れさせるのが限界で、あとは絶え間なく降り注ぐ口付けの雨に身を委ねるばかりだった。


(ヘイゼルの言う『戯れ合い』ってどれほどのものなのかしら…)


慎重に相手の表情を探ってみるも、先ほどの花の件もあり、やはり人間の感覚と精霊の感覚では差異があるのは当然で。

試しに「これまでのキスでは足りませんでしたか?」と問うてみれば、淡褐色の瞳が悪戯っぽく細められた。

そうだね、とも、そうでもないよ、とも返事をすることなく、ヘイゼルは静かにルチシャへ唇を寄せる。

優しく触れ合わせるまでは変わらないが、その後、上唇を食むように挟まれ、下唇を舌先で軽くなぞられる。


ぞくりと背筋に走ったのは、恐怖ではなく悦びだろう。


求められている喜びに胸は高鳴り、これから踏み込むであろう未知の領域に少しだけ緊張する。

恋しい人との触れ合いを拒絶するつもりはない。それでも、未婚の女性として守るべき一線はきちんと守りたいのだと伝えておかなければ。



「………………少しだけですよ?」


「きみが嫌がることはしないよ」



つまり、嫌がらなければどこまでもされてしまう可能性もあるということで。

具体的にどこまでを良しとするか線を引くべきだろうかと悩むルチシャに、ヘイゼルは「口付け以上のことはしないよ。代わりに、少しだけ深めても?」と問い直してくれる。

恥じらいながらも頷けば、いつもと同じ優しい口付けが幾度か落とされ、次第に唇の触れている時間が長くなり、舌先が絡み、唾液も混ざり合うような濃厚なものへと移りゆく。


呼吸がとまるくらいの深い深い口付けのあと、必死に息継ぎをするルチシャを見つめる瞳に宿る色は情欲だろうか。



(蜂蜜よりももっと濃くて、琥珀よりももっと深い……金色の煌めきを宿す、匂い立つ伽羅のような……)



初めて見るその色合いに恐怖は抱かず、むしろ自分だけに向けられるその色に優越感や高揚感が募る。



これまでの口付けは、慈しむような、純粋な愛情の受け渡しが主だった。

微笑みながら交わし合う、幸福の象徴。


けれども今日の口付けは、夏至らしい愛欲に満ちたものだ。

互いの瞳に欲を宿し、許されるだけの深度で互いの身に愛を刻む。



寝具に身を沈ませ、覆い被さってくる身体を受け入れるように両腕を広げる。

竜らしい強引さと賢者らしい巧みさで攻められれば、齢十八の小娘などなす術もなく翻弄されるがまま。



髪に指を絡ませ、呼吸を混ぜ合い、寝衣の隙間から覗く素肌にも悉く寵愛の口付けを受ける。

重なり合うように身を寄せたまま、どのくらいの時間を過ごしただろうか。

細い吐息に乗せて「ヘイゼル……」とその名を呼べば、凶暴なまでに美しく微笑み返される。


「………夜は、もう少し深めようか」


これ以上、どこをどうやって深めるのだろうと思いながらも、もっと触れて欲しいという欲に抗えずこくりと頷く。


頭はもう働かない。

身体だってクタクタだ。

怖い事はしないから委ねてごらんという甘い言葉に理性の箍をひとつ手離してみせれば、竜王は瞳を金色に煌めかせながら仄暗い笑みを浮かべた気がした。




慣れない触れ合いに疲れ果てて眠ってしまったのか、或いは永遠に続きそうな行為と夏至の熱にあてられ気を失ってしまったのか。

いつ眠ったのかもわからない夢心地から目覚めたのは、夜になってからだった。


朝食も昼食も食べ損ねてしまったが、胸がいっぱいでそれどころではなかった。

いつまでも囲いこんだまま離してくれなさそうなヘイゼルを説得して寝台から降り、お風呂に入って軽い夕食を済ませたあと、朝と同じ屋根のうえで寄り添ったまま月光浴をする。

そして再び寝所にて、未婚の男女に許されるギリギリの一線を保ったまま、秘密で甘やかな行為に耽った。


夏の終わりに知るだろう快楽の一端を、

夏が始まるその日に垣間見る。


婚儀を済ませたあとは更なる境地に至るのだと思えば、果たして我が身はどうなるのかしらと一抹の不安を抱いてしまうけれど。

ルチシャは恋しい相手に身を委ね、許されるままに何度も甘い口付けを求めた。








目が覚めたとき、胃のあたりがもたれたような不快感が僅かにあった。

昨夜は夕食を終えてからそう経たぬうちに誘われるまま甘い時間に溺れてしまったから、そのせいだろうかと己の行動を反省する。


背中を撫でてくれるヘイゼルの優しさを感じながらうとうとと微睡みを繰り返していると、昼頃には胃の不調も落ち着いてくれた。


今は食べる気にならないからと昼食をスキップしようとするとヘイゼルから余程心配されてしまったが、このままお腹の調子が戻ればおやつくらいは食べられるだろう。


寝乱れた髪を整え、服を着替える。クローゼットに掛けられた衣装が増えているのを見ると、あと少しでここでの生活が本格的に始まるのだと実感する。


先に身支度を終えてソファで寛いで待っていたヘイゼルが、着替え終えたルチシャの姿を認めるとゆっくり立ち上がった。

装飾が控えめのドレスシャツと生成りのパンツが爽やかで、冬の濃色の装いは完璧なほどに似合っていたけれど夏の淡い色合いも素敵ねと胸がときめく。

ルチシャが選んだのはフレア袖の白と水色のシンプルなドレスだが、向かいに立ったヘイゼルから仕上げに琥珀の耳飾りを着けてもらい、可愛いねという言葉と共に頬に口付けを貰った。



「さて、ホーステールを探しに行こうか」



探すも何も、お酒を飲んで眠っているのであれば家に居るのでは…と思ったルチシャだったが、屋敷を出てヘイゼルが向かったのは何故か森の奥の方で。

まさか外で寝ているのかしらという予想も大きく超え、ホーステールは森の只中で、三メートルほどのところにある木の枝に干された布団のように引っかかっていた。



「まあ……ホーステールさんが木の上に……」


どうやったらあのような場所に引っ掛かるのかしら…樹上で酒盛りをしていてそのまま寝てしまった?と首を捻るルチシャを前に、竜の姿になったヘイゼルは難なくホーステールを枝から外して回収すると、再び人の姿に戻った。

酩酊してぐんにゃりと弛緩した身体を雑に小脇に抱え、「行こうか」と森の入り口のほうへ向かって歩き始める。


「……いつも引っ掛かっているんですか?」


「大抵ね。酔っ払って文字通り飛ぶんだろう。そして木の枝に引っ掛かる」


「ホーステールさんも空を飛べるんですね」


「いいや?肉体は人間のものだし、竜でもない草木の精霊に羽はないよ」


「……。」


……では、幹によじ登ってムササビのように四肢を広げて飛んだのだろうか。

飛んで落ちてあの位置に引っ掛かったのであれば、更に高い場所までよじ登って滑空(落下)したことになる。確かに周囲は高い木が聳え立っているけれど、果たしてお酒の入った状態でそんなにアクティブに動いて大丈夫なのだろうか。


「……ホーステールさんは不思議な方ですね」


「……そんな彼を魅力的だと評価する者は多い。今のルチシャにとって、ホーステールはどんな存在だろう」


唐突な問いかけを受けてヘイゼルを見上げると、彼は少しだけ困ったような顔をしていた。

もしかして嫉妬…とまではいかずとも、ルチシャがホーステールに惹かれることを懸念しているのだろうか。

そう思うと何だか嬉しいような気がして、ルチシャは少しだけ頬を緩めた。


「……柔和で堅実そうな見た目に反して、自由気儘かつ呪ってしまう気質なところがヘイゼルと良く似ていると思います」


「僕に似ているなら彼のことも好ましい?」


「とても素敵な方だと思いますし、森での生活では存分に頼りにさせていただきますが……お酒の嗜み方が私の好みではないですね」



ヘイゼルもよく寝る前に薬草の香りのするお酒を飲んでいるけれど、味わいながらゆっくりと飲んでいるし、自我を失うほどに酩酊することはない。

お酒が入るとルチシャの名を呼ぶ声がひとつ低くなり、触れる肌の温度が少しだけ温かくなり、重なった唇からアルコールに溶けた薬草の苦味が伝わってくる……そんな姿も色めかしく魅力的だ。


ホーステールは顔立ちは勿論のこと、凛としていて佇まいが美しく、細身に見えるが庭仕事で鍛えているのか密かに筋肉質であるところも素敵だと思う。お菓子作りが得意という点も大きな魅力だ。

けれどどうしても、お酒の面での失点が大きい。お酒が好きなのは悪い事ではないものの、今回のような珍事件を起こすような酔い方をされると流石に手に余る。


ルチシャの回答を聞いたヘイゼルは、では大丈夫かなと頷いた。

もしも大丈夫ではないという判断だった場合、ホーステールが何某かの呪いを受ける可能性もあったのかなと思えば、彼はお酒で救われたことになる。


「僕も飲み過ぎには注意しないとね」


「ヘイゼルは何か、お酒で失敗したことはありますか?」


「失敗ってほどじゃないけど、ちょっと人間の国を壊したことはあるかな」


ある精霊に連れて行かれた国で、酒精は強いけれど甘くて美味しい酒が出されてね……気分よく酒を飲んでるのに横から小煩く邪魔されたから潰して黙らせた。という説明を聞き、ルチシャはそれは仕方ないわねと恋人を贔屓した。

どうやらヘイゼルをその国へ連れて行った精霊と国王とが手を組んでおり、気分よく酔わせたうえで大いなる知恵を授けてもらおう作戦だったようだが、国王が潰され王都が壊滅したその国は当然ながら滅亡に至ったという。



ホーステールの家に着くと、いつも以上に薬草で満ちた室内に思わず圧倒されてしまう。

昨日これだけの量の薬草をひとりで採取して処理をしたとなれば、たくさんお酒を飲んで木から飛び降りたくなる気持ちもわかってしまうかもしれない。


さすがに私室に立ち入るのは憚られたためリビングで天井いっぱいに吊るされた草花を見ながら待っていると、ちゃんとベッドに転がしてきたよとヘイゼルが戻ってきた。


そのまま帰るのかと思えば、ここでお茶にしようとおもむろにお茶の準備を始める。


ヘイゼルが厨房に立つ姿は稀少なのではなかろうか。

茶器の場所も茶葉の場所もすべて把握しているのか動きに迷いはなく、ルチシャが見惚れているうちに、戸棚のお菓子が小皿に並べられ、青磁色のティーカップに爽やかな香りのお茶が注がれた。


何か手伝えることはないだろうかと慌てて周りを見回したものの、作業台と化しているダイニングテーブルは勿論のこと、いつも使っているリビングの円テーブルも今日は薬草や小瓶で隙間なく埋められており、どれを触っていいかもわからないため片付けることも出来ない。


ヘイゼルは茶器を乗せたトレーを持つと「こっちは散らかっていないから」とホーステールの私室へ足を向ける。

本人の許可なく私室へ立ち入ることはやはり気が引けたが、そこに行けばヘイゼルの淹れてくれたお茶が飲めるという誘惑には抗えなかった。



ベッドに寝かされたホーステールの顔はこの上なく安らかで、とても木に引っ掛かって寝ていた人とは思えない。

二日酔いとかしないのかしら…と思っていると、書物机にお茶のセッティングを終えたヘイゼルが椅子を勧めてくれた。



「まだ若い葉を使っているから少し苦味があるかもしれない。夏至明けに飲む特別なお茶だ。飛行体験をしたくなるような成分は入れていないから大丈夫」


「…いただきます」


どうやらホーステールが木から飛んで引っかかっていたのは、単なる酩酊ではなくお酒に混ぜられた薬草も一因のようだ。好んで混入させたのなら文句はないが、知らずに飲んで飛行体験に至っているのなら、せめて注意喚起くらいはしてあげるべきだろう。


青磁のカップを持ち上げるとツンと青い香りが立ち、確かに普段よりも野生味の強いにおいを感じる。だが、果実も入っているのか瑞々しい香気が混ざり、最後にほんのりと蜂蜜の甘く優しい香りが残る。


当然ながらヘイゼルの淹れてくれたお茶を飲むのはこれが初めて。

そして実は、少しだけ憧れの状況でもあった。

ルチシャの両親は生粋の高位貴族らしく滅多なことでは厨房に立ち入らないし、自分で飲み物を用意することはない。けれどもリリム夫人が、まだ男爵夫人であった頃に、夫が風邪をひいた自分のためにレモネードを作ってくれたのだと話してくれたことがあり、そのような夫婦関係も素敵だなと思っていたのだ。


もしこの場にローアンが居たら、お従兄さまがお茶を淹れるなんて…!と大袈裟に驚いたかもしれないわね…などと思いながら慎重に口へ運べば、想像した以上にガツンと強い草の味に行き当たった。

けれどもそれは一瞬で消え、ほのかな苦味とそれを覆うようなスパイスが舌先に触れ、最後に砂糖とは違う果物と蜂蜜由来の甘さがすべての味をまるく包む。


不思議な味わいに目を白黒させているルチシャの向かいで、ヘイゼルはゆったりとした仕草でカップを傾ける。


こうして黙した姿を見るとやはり、その端正な顔立ちと蒸留酒のような深みのある雰囲気が前面に出るけれど、最近はローアンが常々言っているような「お従兄さまの困ったところ」の数々を実感することも多くなった。


だから嫌いになるかと言われればそうはならないが、この先、この森でどんな生活を送っていくのだろうかと考えると、ヘイゼルの態度がどのように変貌していくのか気になるところでもある。


(愛情を疑うつもりはないけれど…)


ヘイゼルもローアンも言っていたことだが、竜がパートナーに注ぐ愛は人間のものとは比べものにならないくらいに深く大きいそうで、その大きすぎる愛情は時として相手との関係を壊してしまう一因になるという。


理性的な竜は相手の生活や性格を慮って一定の距離を取ることを許すものの、基本的には囲い込んで離さない気質だという。


ルチシャは特に、囲われることを厭う気持ちはない…放り出されても行くあてもないし、進んで貴族社会に戻りたいとも思わない。


裏切られることを恐れ身構える必要はなくなったけれど、共に過ごす時間が遥かに長いという点で想像が及ばないところもある。



じっと黙ったままお茶を飲んでいたせいか、ヘイゼルは首を傾げてルチシャを見つめ返した。


「口に合わなかったかな?」


「いいえ、とても不思議な味わいで美味しいです。……少し、ヘイゼルのことを考えていました」


「僕の?」


「森に居るヘイゼルはやっぱり程よく気が緩んでいますから、出会った当初とは少しだけ印象が変わった部分もあるなと」


「そうかもね……特に、煩わしい問題が落ち着いてからはのんびりする時間が増えたし」


ふ……と口角を上げて小さく笑んだヘイゼルの眼差しはどこか排他的で、普段ルチシャに向けるものとは全く違う温度を宿す。

薄暗い室内であることも相まってか、虹彩の色味は影を帯びた琥珀色に見える。



(不思議……同じ暗さでも、昨日はもっと、蜂蜜のように艶めいて見えたのに…)


夏至の太陽に照らされたヘイゼルの瞳は緑が濃く、灰緑のなかに深緑や若葉、グラスグリーンが混ざり、差し色として淡い褐色が混じるようだった。

けれども夜になると瞳の色はがらりと色味を変え、とろりと甘い蜂蜜のような薄茶色は煌めきと欲を帯び、一晩中ルチシャを翻弄したのだった。


思いがけず昨日の甘すぎる行為の数々を思い出してしまい、眉間に皺を寄せながらお茶を啜ったルチシャに、ヘイゼルは再び首を傾げる。


「………ん?」


「いえ……昨日のヘイゼルを思い出してしまって。ヘイゼルは……あまりそういう行為に興味はないと思っていたので……」


「ルチシャが相手だからじゃないかな……端から端まで余すことなく知りたいと思うし、触れ合いに時間をかけることに苦痛はないよ」


「他の方だと苦痛なんですか?」


「うーん……たとえばそれによって新しい知識や知見が得られるのであれば、多少の手間や時間をかけるだろう。でも、享楽に耽るだけの行為であるならば興味はないね。無為な時間だと思うし、それによって自分の時間を失うのだと思えば嫌気が差す」


「………。」


(ヘイゼルらしいといえばらしい考えだけど……私と過ごす時間も、いつか無為だと思う日が来るのかしら)



触れて欲しいと手を伸ばしても、その手が受け入れられることはなく、もう必要ないと跳ね除けられる。……それはまるで、在りし日の母のようではないか。



(ヘイゼルならば、手を伸ばされるのも煩わしいからと、こちらの気が無くなるよう早々に呪ってしまいそうだけど…)


欲を失い、触れ合いをなくし、興味すら向けられなくなったとして、

果たして夫婦として寄り添っている意味があるのだろうかと疑わしく思ってしまう。


竜には離婚という考えがないという。

であれば、死による別離だけが関係を終わらせるための方法なのだろうか。



「…………ルチシャ?」


「たとえば…………この先百年近く一緒に居て、ヘイゼルが私の身体に飽きてしまった場合、嫌忌されるような状態になるのかなと想像してしまって…」


「……ならないんじゃないかな……そもそも飽きることがないと思うけど」


眉を寄せたヘイゼルはルチシャの表情が晴れないことに気づいたのか、席を立って隣までやって来ると、カップを置かせてひょいと抱え上げた。


ホーステールのベッドの足元に、冬物の布団を纏めているのかなと思うようなこんもりとした布の塊があったが、どうやらソファ代わりにもなる大きなクッションだったらしい。

ヘイゼルに抱えられたまま腰を下ろせば、いつも使っているソファよりもぐっと身が沈む。

重さに耐え切れずクッションが破裂してしまわないかとドキドキしたが、どうやら中に砂のような細かい粒子が入っていて意外と丈夫な作りになっているようだ。



「…………不安になった?」



不思議なクッションの感覚に夢中になっていたが、優しい眼差しに覗きこまれて、そういえば先ほどまで色々と思い悩んでいたことを思い出す。



「少しだけ。でも、今の一瞬で吹き飛んで行ってしまいました」


「不安なことや困ったことがあればいつでも言うと良い……それが夫婦円満の秘訣だと、自称世界樹な精霊が言っていたからね」


「素敵な方ですね。……最近は、私もヘイゼルのように呪いを使えたら良いのにと思うことがあります」


「呪法は元来人間が編み出したものだから、ルチシャにも使えるんじゃないかな。人間のそういった振る舞いや心の動きが面白くて様々な精霊たちが力を込めた結果、今の呪いが確立したわけだから」


「そうなのですね……精霊はもともと、呪うような気質ではないのですか?」


「消滅の際の怨念が残ることはあった……所謂、祟りと呼ばれるものだね。だがそれは対象が曖昧で広範囲であることが多い。人間の考えた呪法は、どちらかといえば個人を攻撃する思想が強い」


直接手を下さずとも対象者を罰することができる呪いという方法は、殺人という行為を罪とする人間にとっては大層都合が良く、遥か昔から様々な形で試みられてきたという。

そして相手の心を侵食し、肉体を蝕むような手法には、植物や鉱物の成分が利用されることも少なくなかった。

ヘイゼルが祠の跡地に低木を芽生えさせたように、もともと精霊たちには、自然の力を読み解き、多少なりとも干渉する力を有している。

人間たちの『呪い』を面白がった精霊たちが自身の持つ力や自然界の力を応用して、肉体や心の更に深い場所…魂にも干渉するような呪いを編み上げ、今に至るそうだ。



「人間を起源とした呪法ではあるけれど、人間は世界に満ちる力を読み解くことが出来ないから、精霊の助力により完成した呪いを使いこなすことは出来ない」


「皮肉なようにも思えますが、そちらの方が良かったのでしょうね」


「かもしれないね……呪法の多くは相手の名を利用する。だからこそ名を持つ精霊は、自分の名前を与えることに慎重なんだ」



人間の考案した呪法を面白がって弄くり回し発展させたせいで、自分達の名前の扱いが不自由になってしまったのは、多くの精霊たちにとっては想定外だったという。

そのようなうっかりも精霊らしい性質なのだろうが、人間よりも名の持つ意味が大きい精霊たちにとっては、たまったものではないそうだ。

呪いを確立する方法よりも、呪いから名前を守る方法を編み出すほうがずっと困難で時間を要したと聞けば、好奇心とは罪深いものだと思わざるを得ない。



「私はヘイゼルの名前を知っているので、手段さえ知っていれば呪いをかけることが出来るのですか?」


「単純に人間の用いるものを使うとすれば効果の程は不明だけれど……ホーステールの補助があれば、それなりに強い呪いをかけられるんじゃないかな。僕に効くかは保証しないけれど」



呪いに精通しているヘイゼルは解呪方法にも詳しい。

それを聞けば、祠に五十年ものあいだ封じられていたという事実がとてつもない事のように思えてしまう。

試しに、愛情に纏わる呪いが弱点ですか?と尋ねてみれば、これまではそうだったねと肩を竦められた。愛情を注ぐ相手がいることは、弱点にもなりうる一方で、強い呪いを解くための重要な一手にもなるという。


ちなみにルチシャの国の第一王子にかけられた死の呪いも愛情に纏わるもので、真に愛し合うふたりが結ばれることで解呪される仕様なのだという。

残念だったのは、王子の浮気相手がその運命のお相手ではなかったということだけだ。

侯爵家のご令嬢との破談に一役買った可憐な娘ではあったが、王家に迎え入れるには相応しくないと判断された彼女の行く末は悲劇的であった。

(呪われているとはいえ)王子だけがのうのうと生きている現状に眉を顰める貴族も少なくはないが、今の第一王子はヘイゼルからの追加の呪いによって女性と懇意になる機会からも遠ざけられたため、死の呪いが解ける可能性は殆ど無くなったそうだ。


(王子に呪いを与えたのは魔女だというけれど…それは、王子の元婚約者であった侯爵家のご令嬢が願ったものなのかもしれない…)


誰かの願いが誰かへの恨みになり、誰かへの愛が誰かへの呪いとなる。


ならば今のルチシャは、どのような呪いをヘイゼルに与えるべきだろうか。



ルチシャは軽く背伸びをしてヘイゼルの口元に唇を寄せた。軽く触れるだけのそれは、まるで祈りや願いを捧げるかのようだ。



「……ヘイゼルが私に飽きませんようにというおまじないです。絶対に解呪してはいけませんよ?」


「可愛いね……そんなことをされたら、飽きるどころか一層夢中になってしまうよ」


口角を上げたヘイゼルの顔が近づいて、唇同士が触れ合う。

姿勢が不安定だったこともあり縋るようにヘイゼルの首筋に腕を回せば、口付けが少しだけ深められる。そのまま甘い行為を続けようとするヘイゼルに、ルチシャはちらりと横目でベッドの方を確かめた。


「ホーステールさんが……」


「死んだように眠っているから大丈夫」


寝息は聞こえるけれど、家へ運び込んでそれなりに時間が経っている。

いつ目覚めるかもわからない人の隣で不埒な行為を続けるのは…と不安に駆られるルチシャとは対照的に、ヘイゼルは全く気にした様子もなく甘やかな時間を堪能し始める。

昨夜を思い出しては胸が震え、本能と理性が天秤の両皿の上でぐらぐらと揺れる。



「ヘイゼル、そろそろ…」


「昨日、特別なマリーゴールドを分け合ったというのに、まだ僕の愛を信じきれていないようだからね」


「信じていないわけでは……も、もうこれ以上は……せめてお屋敷で……」


さすがに耐えきれなくなって手のひらで胸を押し返す。


誰かがいる部屋でこれ以上の事をするつもりはないし、強引に続けるというのであれば竜のマタタビを使用するのもやむなしだろう。

ローアンのくれた御守りを手に涙目で見上げれば、ヘイゼルは名残惜しそうにしながらもちゃんと解放してくれた。

行為そのものに恐怖心があったわけではなく、ただただ羞恥と不安で落ち着かなかっただけなのだが、その辺りの心情もちゃんと読み取ってくれたようだ。

力の抜けたルチシャの身体を支えながら、夕食の前に続きをしてもいいだろうかと請うように囁かれる。

存分に…とは言えず、少しだけですよと返答したルチシャの額に口付けを落としたヘイゼルは、ベッドで安らかに眠るホーステールへ視線を向けた。



「今夜は少し特別な食事になる予定だから、そろそろホーステールにも起きて貰わないといけないね」



そう言っておもむろに懐から取り出された小瓶には、黒に近い暗緑色の液体が入っていた。

鼻を押さえているよう言われたため全力で鼻を押さえて呼吸を止めていると、小瓶の液体を口に注がれたホーステールがまるでバネ仕掛けのように飛び起きる。


「かぁ…ッ!!??」


目をかっと開いて飛び起きたかと思えば、口を押さえて縋るように倒れ伏してしまう。

大丈夫かしら…と鼻を解放しながら見守るルチシャの前で、ホーステールは二度か三度大きく痙攣し、苦悶しながら「喉がぁ…!」と呻いている。

元凶である筈のヘイゼルはどこまでも涼やかな表情だ。



「おはよう。夏至のサラダを作ってくれるかな」


「い、まのは…ヘ……ゼル、さま…の、薬ですね!?」


「どんな幻覚のなかにあっても立ち所に目が覚める気付け薬だよ。試しに調合してみたんだが、効果覿面のようだ」


「喉が、食道が…焼け死ぬ…!!」



厨房へ大急ぎで走って行ったかと思えば水を数リットルは勢い良く飲んだだろうか。

ようやく生き返ったホーステールはふらふらになりながらも、奥方様のための夏至のサラダですね…と、収穫した香草をたっぷり使った山盛りサラダを用意してくれた。

そしてヘイゼルには、独自開発の薬を飲ませるのは絶対にやめて欲しいと必死の形相で訴えていた。


ルチシャはヘイゼルの淹れてくれたお茶の繊細で上品な味を思い出しながら、たとえ体調を崩したとしても薬湯だけは絶対に頼まないようにしようと心に誓ったのだった。










屋敷に戻ったルチシャはまず、約束通りヘイゼルの部屋でたっぷりと甘い時間を過ごした。

ホーステールの家での触れ合いが児戯に思えるような濃密な時間は瞬く間に過ぎ、身も心もすっかり溶かされたルチシャがどうにか入浴と着替えを済ませた頃にはもう空に月が輝き始めていた。



特別な食事だという夏至のサラダは見た目も華やかで、緑の葉っぱだけでなく食用の花も存分に散らされている。

昨日も小ぶりのサラダは用意されていたが、今日はその倍以上…ホールケーキくらいのサイズのボウル一杯分、葉っぱがたっぷりと盛られている。

これだけでお腹いっぱいになりそう…と、柑橘と蜂蜜風味のドレッシングで和えられたサラダを一生懸命口へ運ぶ。

やはり夏至に採れた薬草は特別なのか、向かいの席にもルチシャと同じ量のサラダが用意されており、普段よりもしっかりとした量を口にするヘイゼルの貴重な姿を目に焼き付ける。


口に運ばれるひとくちは大きく、咀嚼する姿はどこか優雅で力強い。

少量の菓子やパンを口にする姿しか見たことがなかったため、あぐりと口を開けてサラダを食べる姿にルチシャの胸が激しい音で高鳴る。

思わず手が止まってしまったルチシャに、殆どのサラダを平らげてしまったヘイゼルは軽く首を傾げた。


「多いかもしれないけれど、頑張って食べてご覧」


「ええ…ヘイゼルの食べっぷりに見惚れていただけですので、大丈夫です。色んな薬草の味がしますが、ドレッシングがさっぱりしていて食べやすいです」


「それは良かった」


「この夏至のサラダを食べるために、森に滞在する必要があったのですか?」


「それもあるね…やはりこのような日に森で得られる物には特別な力が宿る。…このまま儀式の日まで森に居ても構わないけれど、やはりあちらに戻るのだろうか」


「最後の荷造りや挨拶もありますし、そのつもりです。思えば、結婚まであと二ヶ月もないのですね」


「あちらの者たちとの別れが惜しくなってしまった?」


「いいえ……心配事はありますが、私が手出し口出しできる場面は終わりましたから」



気掛かりはリリアンナのことだったが、母親であるリリム夫人との関係はルチシャの結婚支度を通して少し改善しているようだし、彼女の結婚相手のことはルチシャが助言する域を出てしまった。

いつか彼女に善き縁が紡がれた時は祝福をしに行きたいとは思うが、結婚後、あちらでは死亡扱いとなるルチシャに果たしてどれだけの事が許されるかはわからない。


郷愁はあるけれど未練ではないと説明すれば、ヘイゼルは納得したように頷いた。


たとえルチシャの中に未練や後悔が残っていようとヘイゼルが森へ連れ込むと決めたからにはそれが覆ることはないのだが、それでもやはり、自分の意思であちらを離れて森に住むのだと伝えるのは重要なことだろう。



「私が家を出る前に、お別れ会としてのガーデンパーティーをしたいと思っているんです。使用人も参加するような会なのですが、嫌でなければヘイゼルも来てくださいませんか?」


「構わないよ。ルチシャは何か特別な衣装を着るのだろうか」


「儀式めいたことをするつもりはありませんが、ドレスを着て髪に花を飾るくらいは。我儘を言って良いのなら、ヘイゼルには、あの素敵な組み合わせを着て貰えると嬉しいです」


「ルチシャのお気に入りのものだね……古い様式のものだが、きみが望むならいくらでも着てあげるよ」


興味本位でヘイゼルのクローゼットを覗かせて貰った際に、ルチシャが一目惚れしてしまった衣装がある。

古い様式だとヘイゼルは言うものの、その辺の王侯貴族が着用している服よりもずっと上質な素材で作られており、要所に施された緻密な刺繍は息を飲むほどに美しい。

深く渋い緑の布地に黒と銀糸で刺繍が施されたその衣装を身に纏う恋人の姿を想像するだけでルチシャの頬は緩んでしまうほど。


「ガーデンパーティーであるなら天候の調整も必要だろう……晴天にしすぎると女性には大変だろうから、薄く雲を残しておこうか」




そんな穏やかな会話をした記憶はしっかりと残っている。




ルチシャが自分の身体の変化に気づいたのは、就寝の挨拶を済ませたあと、珍しくもそれぞれの部屋で眠りに就こうとしたときだ。


全身が震え、暑くも寒くもないのに身体中から汗が吹き出す。

思うように力が入らず、ベッドに横たわったまま呼吸をするだけで精一杯だ。

やがてシクシクとお腹や胸が痛くなり始め、迫り上がってくるような嘔気と耳の奥で鳴り響くような頭痛に身体中が蹂躙される。



「……ぅ、……」


必死の思いで喉から絞り出した声は、呻めき声にしかならなかった。

短い息を吐き出し、本能的に吸い込む息でどうにか肺を満たし酸素を巡らせる。


不意に、ぼぅ…と暗闇のなか、何者かがベッド脇に立っている気配がした。


一瞬ぞっとするような恐怖を覚えたけれど、それよりも身体中の不快感の方が強い。

寝台の上で背中を丸めて呻くルチシャを観察するように見つめていたその影が、ゆっくりと手を伸ばした。


汗の滲んだ額に触れてくる手のひらの温度に馴染みを覚え、ルチシャはお腹にグッと力を込めながら必死にその名を呼んだ。



「………………ヘ、イゼル?」


「様子を見に来たよ……痛みは?」


「お腹と胸が苦しくて、頭も…………もしかしてこれは、……以前言っていた……儀式の前準備、の、一貫なのですか……?」



まるでルチシャが苦しむことを知っていたかのような言い草に、まさかと思い問いかければ、光のない空間に佇む人物は当然のように「そうだね」と頷いた。


「春から滞在を続けていればもう少し症状が緩和されていたかもしれないけれど…夏至の陽光を受けた葉はやはり力が強いね」


汗で額に張り付いた髪の毛を指先で分けてくれる。

短い呼吸をどうにか整えて反論しようとしたが、それよりも先に「汗はよく出ているけれど、熱はないようだ」と呟く声。


どう考えても体調を崩したきっかけはあの山盛りのサラダで、今朝の軽い不調もおそらく、昨日の夕食のサラダが原因だったに違いない。


ぐっと込み上げる吐き気をどうにか喉元で押し留める。

えずいている姿をみられたくないという思いと、こんな風にしたんだから責任持って看病して欲しいという思いとが半々で、ルチシャは身体を丸めてどうにか嘔気と腹部の不調をやり過ごそうとする。



「昨日は夏至の力を取り込んだばかりの薬草だったが、今夜食べたのはその力が馴染んだものだ……量も多かったし、人間の身にはかなり負担が大きい。

でも、熱が出ていないのなら、馴染みは早そうだね。蜂蜜や木の実が効果的だったかな」


淡々と続けられる説明にどうしようもなく苛立ちを覚えた。

今夜は同じベッドで寝ないのねと吃驚したときに、ちゃんと理由を尋ねておけば良かった。

いや、それよりも前の夕飯時に、どうして夏至のサラダが特別なのか、もっと深掘りしておくべきだったのだ。

向かいでヘイゼルも同じものを食べているからとすっかり油断してしまった。



(母が死んだときも…ここまで調子を崩しはしなかった…)



ガンガンと痛む頭のせいで思考は陰鬱かつ途切れ途切れになりがちだが、これまでの人生で感じたことがないくらいの不快感と不調のせいで、無性に苛立ちが募る。


何度も「夏至は特別だ」と言われてはいたものの、ここまで顕著な症状が出るのなら、ある程度の事情を事前に言って然るべきなのではなかろうか。



「…………せめて、……食べさせる前に、説明をしてください」


「説明をしたところで、嫌だという意見は聞いてあげられないよ?」


「………事前の心構えというものが、あるかないかで、随分と違いますので……」



ひび割れるような頭痛に耐えるついでに眉間の皺を指で押さえる。

冷や汗でびっしょりと濡れた額が不愉快で、様子を見に来てくれたとはいえベッド脇に突っ立っているだけの恋人に無意識に罵声を浴びせたくなるのを、奥歯を噛んでぐっと堪える。


ヘイゼルはそういうものかと得心したように「では、次からはそうしよう」と頷いたが、不都合なことばかりを顕著に拾ってしまう耳のせいで、次もあるのかとげんなりする。


これほどの苦痛が続くのなら無理に結婚とかしなくて良いのでは…?と若干投げやりになってしまった思考は、どうにか言葉にせずに飲み込むことができた。そんな事を告げたら、十中八九呪われる。

今ここで呪いの洗礼まで受けてしまったら心の底からヘイゼルを軽蔑するし、好きと嫌いの比率が逆転してしまう恐れすらある。


(……そうなったとしても結局は呪いで感情操作されるのだろうけど…)



無性にローアンとお茶席を囲みたくて堪らない。

今ならば促されるよりも先にヘイゼルへの文句がつらつらと口から出てくることだろう。

被害者の会として、ローアンと散々愚痴を言い合いたい。



「…………吐いてもいいですか?」


「それはダメだね……最後のひと月はこういった負荷を繰り返すことになる………でも、出来るだけ苦しくないよう調整するから安心して欲しい」


「ひと月も……これは…竜との婚姻に、必須の前準備なのですか……?」


「いや……少々特殊でもある。ルチシャの場合は婚儀のあとに魂を結ぶ儀式をするし、その時に大地の精霊や風の精霊も来るようだから……その負荷に耐えられるか心配でね。

まあ、そこでうっかり命を落としても死の精霊が居るから魂を留めることはできるけれど、その場合は魂を基に肉体を造り直す必要があると聞くから、今とは少しばかり姿形が変わってしまうことになるかな」


「…………圧倒的に説明不足なのでは……?」


「そうかな……そうならないよう僕が調整すればいいと思っていた」



それはそうだけれど、儀式で命を落とす可能性や肉体を造り直す云々は完全に初耳だし、説明を飛ばしていい事柄ではない気がする。

ホーステールが何度も「あの方は説明が雑」と頭を抱えていた姿を思い出す。



そうだ……目の前に居るのは竜なのだ。

賢者として多くの知識と能力を有しながらも、隠者として人間社会と殆ど関わって来なかった、竜。

確かに話し合いをすればある程度の妥協点を設けてくれるものの、どうしてこちらの都合や心情を第一に動いてくれると勘違いしていたんだろう。


身体中をミキサーでかき混ぜるかのような不快感と痛みに、また額から汗が吹き出る。

外気で冷えてしまった汗は冷たく表皮を伝うのに、お腹の奥で焚火をしているかのような熱さが続いており、暑いのか寒いのか判断がつかない。



「………………昨日深めた口付けにも、何か意味があったのですか?」


「うん?いや、夏至だからだね」


「………………。」



あっけらかんと言われて、ルチシャのなかで何かがプツンと音を立てた。

あとから振り返れば、堪忍袋の緒が切れた音だと理解できたが、その時はただ、目の前の(ヘイゼル)に対する言いようのない感情が沸々と身体中を満たすばかりで。


(……あのナイフが今、この手にあったら…絶対に振りかぶっているわ……)


父にも母にも抱いたことのない強烈で鮮烈な感情はおそらく、ルチシャがこれまで諦めと共に捨て溢してきた『怒り』という感情なのだろう。

いつもリリアンナがジタバタしながら顕にしている切れの良い憤りよりも、もっと重く澱んだモノが泥々と身の内側に溜まっていく感覚に、ルチシャは自分はやはりこういう気質なのねと自嘲気味に思う。

この粘りつくような怒りの感情は、叫びながら森を転げ回ったところで発散されることはないだろう。

それこそ、相手を怨み呪い、時間をかけながらじわじわと消化していく類の感情だ。



「ヘイゼル……」


「うん?」


「………今、近年稀にみるほど、怒っています」


「え……」



暗闇の中に横たわるルチシャの表情に何を見たのか、珍しくヘイゼルがたじろぐ気配がした。

時折不随意に痙攣する腕を伸ばして、側にある服裾を掴む。

様子を伺うように腰を屈めたヘイゼルに、怨嗟にも近い呻めき声で、今やって欲しいことを告げた。



「……お腹のものが逆流してこないよう、優しくそっと抱き締めて一緒に寝てください。吐きそうになったらしがみつくので…優しく背中をさすって欲しいです」


「そうしよう。……外気を吸いたくなったら抱えて連れて出てあげるから言うといい」


「良いと言うまで不用意に身体を持ち上げたり動かしたりしないでくださいね。勝手なことをしたら……呪います」



定期的に嘔気が込み上げるため、キスなど以てのほかだ。


ルチシャの寝台に横たわったヘイゼルが、背後から慎重に抱きしめてくれる。

ふわりと広がる香りは深い森を思わせる芳しいものだったが、その程度で和らぐ苦痛ではない。



一晩中不調に苦しみ耐え抜きながら、ルチシャはヘイゼルの森に来て初めて、一刻も早くあちらの家に帰りたいと思った。 





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