14. 託された呪いと夜の約束
「やあ。可愛い格好だね」
庭先からひょっこり現れる竜王に、驚き呆気に取られる使用人は少なくなった。
とはいえ高貴な客人の訪れであることは間違いなく、ヴァイオリンを構えて音を奏でていた執事のリーグッツは弦を下ろして頭を下げ、ルチシャの隣で踊りの練習をしていたリリアンナもカテーシーの姿勢を取る。
ルチシャは軽く持ち上げていたスカートの裾を下ろすと、顔を輝かせながら訪問者の元へと駆け寄った。
「ヘイゼル!」
「先触れもなく訪ねたけれど迷惑ではなかったかな?」
「会えて嬉しいです。義妹に踊りの手ほどきをしているので、少しだけ待っていてもらえますか?」
「ここで見学させてもらおうかな……きみたちも気にせず続けるといい、もてなしは不要だ」
「では、せめてお茶だけでも。手ほどきが終わったら一緒にお菓子を食べて欲しいのですが、時間はありますか?」
「きみと共に過ごす以上に優先すべきことはひとつもないよ」
柔らかな眼差しと共に告げられた言葉に微笑みを返し、近くに据え置かれたガーデンテーブルへ導いて椅子を勧める。
勝手知ったるルチシャの侍女が手早くお茶の支度を済ませて身を下げるのを見届けてから、執事は再びヴァイオリンを奏で始めた。
本番ではギターや打楽器、笛も加わり、もう少し賑やかしい音楽になるのだが、今はヴァイオリンだけのためどことなく優雅な余韻が残る。
リリアンナはひらりと揺れるスカートの裾をはしたなくない程度に持ち上げ、脚のステップに合わせて軽く振るように揺らす。ルチシャもその隣で動きを合わせ、時々向かい合って手を合わせたり腕を組んだりしながら音に合わせて軽快なダンスを踊った。
音楽と振り付けを変えて二曲ほど踊ったところで予定通り練習は終わりとなった。
見物に集まっていた使用人たちの拍手に応えながら、リリアンナは室内へ戻り、ルチシャはヘイゼルの元へ足を向ける。
拍手こそないが、踊り終えたルチシャを見つめるヘイゼルの表情はどこか満足気だ。
「これは夏至祭の衣装かな?」
色鮮やかな刺繍の施された白いシャツと、動くたびに軽快に広がるスネ丈のスカート。
夏至のお祭りでは貴賤も年齢も関係なく、女性は皆この衣装を着るのがこの国の伝統だ。
「ええ。独身者は昼に、既婚者は夜に、音楽にのって踊るのが領地での習わしです。今年は妹が出ることになったので、儀式や踊りの作法を教えていたところです」
領主の娘は領都中心地の一番大きな会場でのダンスに参加することになっている。
去年まではルチシャが担当していたが、今年は既に婚約していることと夏至の前後の期間はヘイゼルの森に居ることになっているため、リリアンナが担うこととなった。
結婚までのあいだ、森とこちらとを行き来することを許してくれたヘイゼルだが、夏至まわりは絶対に森にいて欲しいと言ったからには何かしらの懸念があるのだろう。
もしかすると未だ姿を見せない魔女に対する警戒かもしれないし、それ以外の要素があるのかもしれない。
ルチシャは忠告に従って六月いっぱいはヘイゼルの森で過ごすことを約束した。代わりに五月の終わりまでは、こちらで引っ越し準備と花嫁修行に勤しむことになっている。
今日は天気が良いため本番さながら衣装を着て外で踊りの練習をしようと誘ったのはルチシャで、ヘイゼルとは午後に会う約束だったが、大鷲型の精霊であるエグルがリリオデス家の庭先で催しをやっているようだとヘイゼルに伝えたことでひょっこり様子を見に来たのだという。
木の実を届けるために毎日伯爵邸に顔を出してくれるヘイゼルは、面倒がることもなく「毎日会えて嬉しいよ」と言ってくれるし、隙あらば森へ連れ帰ろうと甘い誘いを掛けてくるため、ルチシャは忙しい傍ら、恋人との甘やかで微笑ましい日々を送っている。
午後のお茶席で出してもらう予定だったお菓子が用意できているのなら持って来て欲しいと侍女へ言付け、向かいの席に座り冷たい水を飲む。
まだ夏というには早いが、日差しの下で数曲踊れば汗ばむくらいの陽気だ。
ヘイゼルの視線が髪飾りに向けられていることに気づいたルチシャは、造花で出来た花冠を指でツンとつついた。踊ってもズレないよう、結いあげた髪にしっかりと留めてある。
「未婚の者は、日が出ているうちは頭に生花を飾っておく風習があるんです。花冠や髪留めにするのが一般的ですね。今日は造花ですが当日は頭にたくさんの花を飾りますよ」
「華やかで面白い風習がたくさんあるね…メイポールには何の樹を使うのだろうか」
「この辺りでは白樺を立てます」
深く頷いてくれたということは、間違った運用ではないのだろう。
シラカバの精霊は色白で優美な女性らしく、短命かつ、今代の消滅と同時に次代が生まれるという循環を繰り返す珍しい精霊なのだという。他の木々の拠り所となるシラカバには、如何に古い精霊であれ敬意を持って接するのだと聞き、ルチシャは白い樹皮を持つすらりと細い木を思う。
そんなルチシャの頬に手を添えて、他の精霊に思いを馳せるとは感心しないねとヘイゼルは言う。口調は静かだが、その瞳に嫉妬のような色を見つけてルチシャは少しばかり嬉しくなった。
「色白で優美な女性と聞いたので、ヘイゼルが恋をしてしまわないか心配していたんです」
「僕が恋しいと思うのはルチシャだけだから心配は不要だ」
「ローアンもそうですし、女性の精霊は魅力的な方が多いのではと思うのですが、これまでに森へお招きしたいなと思う方は居なかったのでしょうか」
「今日は随分と疑り深いね……何かあったかな?」
「結婚指南書に、トラブル回避のためにも過去を含め夫となる人物の周辺関係を把握しておきましょうと記されていたので尋ねてみました。不愉快でしたか?」
「まあ…愉快ではないね。このやり取りでルチシャの不安が和らぐのならば多少は付き合うし、関わりの深い女性を排除しろと言うのなら可能な範囲で対応してあげるけど……一番近しいのはローアンだから、まずはあの子を始末しようか」
「やめましょう」
ルチシャが止めるとわかっていてそのように言ったヘイゼルは、人間の結婚指南書は摩訶不思議なことを書くものだねと怪訝そうにしている。
「そもそもきみは、僕の周辺関係にさして興味は持っていないだろう?」
「興味がないというよりも想像もつかないというのが本当のところですが……私も場合によっては嫉妬することがあるのだと伝えたかっただけですよ」
ヘイゼルは片眉を上げると愉しげに目を細め、「詳しく聞きたいから一緒に森へ帰ろうか」と誘ってくる。「数日前にこちらへ帰ってきたばかりなので」と首を横に振れば残念そうに肩を竦めた。
「先日も似たような話をしたけれど、ルチシャが嫉妬して荒れ狂う姿はあまり想像出来ないね……やっぱり怒った時のように、叫びながら走って転げ回るのだろうか」
「どうでしょう…嫉妬の場合は……ため息が多くなって、食事を摂らなくなって、胸が苦しくなるのでヘイゼルと一緒に居るのを嫌がるようになるかもしれません。特に恋愛関係での嫉妬やいざこざは、私にとっては一種のトラウマですので……」
ヘイゼルがあの森のあのお屋敷で他の女性と過ごすことを想像するだけで胃の腑が冷たくなる。
とはいえ相手は七千年も生きている長命な存在なのだから、過去にどのような事があったとしても驚くべきではないだろう。
ただ、婚礼衣装を試着したり新生活へ向けた準備が本格的に始まったりと、結婚が現実味を帯びて来たせいなのか、これまでは気にならなかった事が妙に気になったり、過去の…母親の事を思い出しては不安に駆られたりと、気持ちが不安定になっているのは確かだ。
(これがマリッジブルーというものかしら……)
森でヘイゼルと一緒に眠っているときは悪夢など見なかったのに、伯爵邸へ戻ってきてからは毎晩のように、夢に母親がナイフを持って現れる。
夢のなかの死者と話をするというのも変な話だが、対話をしようにもこちらの話は聞いてもらえず、幸福な結婚であると説明しても理解してもらえないまま、母は必ずこう言うのだ。
『裏切られたら、これで相手を刺しなさい』…と。
そうして手に握らされるナイフにはひどく見覚えがあった……離宮に閉じ込められた母と最期に面会したとき、生まれたばかりの弟を殺すようにと手渡されたナイフそのものなのだ。
ルチシャの様子をじっと見つめていたヘイゼルは、おもむろに立ち上がるとルチシャを席から立たせた。そのまま横抱きにして、屋敷の方へと歩いていく。
慌てて同行しようとする侍女のソニアに「菓子は後回しだと厨房へ伝えるように」と指示し、屋敷内に居た家令のアンサムに「少しばかり彼女の自室へ向かう」と告げる。
ルチシャを横抱きにしたまま階段をのぼろうとするヘイゼルの性急さに戸惑いながらその名を呼べば、鋭い光を宿したハシバミ色の瞳がルチシャを射抜いた。
初めて見る険しい表情に思わず息を呑む。
ちょうど着替え終えて自室から廊下に出てきたリリアンナが、ただならぬ様子を感じ取ったのかぎょっとした顔をする。
何か言おうと口を開きかけたようだが、ヘイゼルの顔を見るなり呼吸が乱れて苦悶の表情となり、胸を押さえて蹲ってしまった。
「ヘイゼル…!」
「何もしていないよ…ただ、少し圧が強かったのだろう。…急ぎ確認する事がある。屋敷内に余計な被害が出ないよう扉は閉めるが、ルチシャの尊厳を貶めるつもりはない。理解し、下がるといい」
蒼白な顔のリリアンナは、息苦しそうにしながらも、ヘイゼルの腕に抱かれたルチシャの様子を素早く確認してから小さく頷いた。
ルチシャも、大丈夫だという意味を込めて頷き返す。
自室に至り、ソファに下される。
正面に立ったヘイゼルから至近距離で見つめられ、ルチシャは久しぶりに力ある者への畏れ多さを感じながらも、目を逸らさぬよう必死に腹に力を入れる。
「……直接干渉されているようには見えないが…悪夢を見たり妄言を聞いたり、心が弱るような事が起きてはいないだろうか」
「……こちらへ戻ってから毎晩のように悪夢を見ます。死んだ母が出てくる夢です」
「きみの母親は伯爵からの裏切りを受けて自死したのだったね?ドレスは処分したと聞いているけれど、婚姻に纏わる形見のようなものはあるだろうか」
「婚姻に纏わるものではありませんが………ナイフが、」
「ナイフ?母親の自死に関わるものかい?」
「いえ……生まれたばかりのローゼルを刺し殺し、屋敷内での立場を守れと、死ぬ直前の母から渡されたものです。……夢のなかでは、裏切られたらそれで夫を刺すようにと…」
眉を顰めたヘイゼルは、ゆっくりとルチシャの両手を握った。
普段はヘイゼルのほうが温度が低いのに、今はルチシャの手が氷のように冷たくなっているせいで、指先からじわりと温度が流れ込んでくる。
ルチシャの表情から何を読み取ったのか、ハシバミ色の瞳からは鋭さが薄れ、代わりに労るような色が滲む。
思わず瞳から一筋涙がこぼれたが、それは悲しみや恐れからではなく、安堵から来るものだった。
「弟のことは、もう、随分と前に乗り越えたことです……それに私は、竜であるヘイゼルと結婚するのですから、裏切りを恐れ怯える必要はない……そうでしょう?」
「勿論だ。永遠の愛を誓うよ。きみが望むのであれば、いつでも何度でも」
その言葉に、涙が二筋三筋と流れ落ちる。
ヘイゼルがジャケットの内ポケットから取り出したのは、インボルグでルチシャが贈った緋色の刺繍入りのハンカチで、いつも持ち歩いているよという言葉に余計に涙が溢れた。
涙を拭ってもらい、額と目元、唇に口付けを受ける。
言葉にはされなかったが視線でナイフの所在を尋ねられたため、ルチシャは鍵のかかる机の引き出しを指差した。鍵は、戸棚のオルゴールの中だ。
引き出しから取り出されたナイフは貴族の夫人が護身用にと持っていても不思議ではない大きさで、持ち手に宝石飾りや銀細工が施された装飾的なものだ。
母から渡されたものの実際に使うつもりはなく、戒めとして手元に残していただけなのだが、ルチシャはヘイゼルが持ち上げたナイフを見て思わず眉を顰めた。
(あんなに不気味な雰囲気だったかしら…)
装飾的な鞘から抜かれた刀身は濡れたように鈍色に光っている。
持ち手に塗られた青ももう少し明るい色味だと思っていたが、今はどうしてか黒や紺に近い藍色のように見える。唐草模様に似た銀細工は、まるで埋め込まれた宝石に絡みつくように枝葉を伸ばしているのではと感じてしまう。
「怨念が凝って呪物のようになっているね……最近、触った覚えは?」
「二度ほど…」
「怨みを持って触った?」
「いいえ。どう処分すべきか考えていました」
「念のために確認しておくけど、弟妹や伯爵、夫人のなかで始末しておきたい人物は居るかな?」
「いませんよ。居たとしても直接ナイフで刺すような真似はしません」
「ああ…そういえばきみの気質は僕ら寄りだったね。じゃあこれは僕が引き取っても構わないかな?隠れている魔女を誘き出すための良い餌になりそうだ」
未だ隠れ続けている魔女の破滅を目論んでいるのか、呪物と化したナイフを持って仄暗く笑むヘイゼルはどう見ても善良な存在ではない。
狂った母が持つより余程恐ろしいわね…と、恋人と呪いのナイフとの親和性を思う。
これからあのナイフはヘイゼルの手によって、今とは比べ物にならないほどに禍々しい呪いを帯びた代物になるという。
脳内でローアンが、これだからお従兄さまは!呪い馬鹿なんだから!とツッコミを入れてくれた気がして、ルチシャも、これこそがヘイゼルよね…と深く頷いておいた。
(一応は母の亡き形見でもあるし、嫁入り前に父へ渡しておこうかと思ったけれど……有効活用して貰えるのならそれが一番ね)
ナイフを納めた箱を、ベランダに飛来したシュエトへ託す。
昼間なのにエグルではないのね…と思っていると、このような呪物の取り扱いはシュエトの方が得意なのだと言われる。
「おいで。悪夢を見ないよう、もう少し触れ合っておこう」
窓際からこちらへ戻って来たヘイゼルから、ベッドが良い?ソファがいい?と尋ねられたため、苦笑しながらもソファを選ぶ。
万が一にも家の者に見られたとしても、ソファであればまだ言い訳が立つ筈だ。
そのまま横抱きにされ顔中に口付けの雨が降る。
踊りの練習のときに落としたり引っかけたりしては嫌だからと耳飾りは外しておいたのだが、着けていないのを咎めるかのように耳朶を甘く食まれてしまった。
呪い対策という名目で甘い甘い溶けるような時間を暫く堪能したルチシャは、ヘイゼルの厚い胸板にくてりと寄りかかった。
頭の花飾りはいつのまにか外されていてテーブルに置かれている。
少し乱れた髪をゆっくりと撫でてくれる大きな手のひらが心地よい。
「……母は、魔女に呪われていたのでしょうか」
「……祠を見に来た魔女が、離宮に入れられたきみの母親に目を付け、何らかの仕込みをした可能性は否定できない。母親があのナイフをどういった経緯で入手したか、きみも伯爵も把握していないのであれば、尚更だね」
そう言われてようやく違和感に気づく。
伯爵家の敷地内に建っている隔離用の離宮に、行商人が自由に出入りする筈もない。
母がもともと所持していた物を譲渡されたのだと思い込んでいたが、先祖代々伝わる宝でもない限りは、いくら装飾的で小型なものであっても、精神が錯乱しかけている者に刃物を所持させておく筈がない。
それに、女は詩歌と手紙が出来れば良いと言ってのける母のような人物であれば、たとえ刃物を持っていたとしても手紙を開く為のペーパーナイフがせいぜいだろう。
いつ、誰が、何の目的であのナイフを母に持たせたというのか。
自分では気づけなかった違和感も、父であれば気づけた筈。
もう少し早く父に見せておくべきだったかしら…と後悔するルチシャに、ヘイゼルはむしろ見せなくて良かったかもしれないと告げた。
下手をすると伯爵家の誰かが、取り返しのつかない悲劇に見舞われていただろうという見立てにルチシャは唇を噛んだ。
「ナイフの持ち手にひび割れた緑水晶が嵌め込まれていた……傷を入れることで宝石に込められた力を反転させたのだとすれば、人間関係を破滅させ、不安と心の傷を増幅させて人生を転落させる…という意味合いになる」
「人生を転落させる……」
「とはいえ、きみの母親が心を壊したのは家庭の事情と個人の心情が原因だろう。緑水晶はさして力の強い宝石ではないし、あれは呪物としても粗悪品だ。
本気でナイフ型の呪物を作るのであれば、狩猟用のナイフがいいだろう。刃先を鋭く美しく磨き上げたうえで、生き血を十分に纏わせる。持ち手に宝石を埋めるなら……」
「ヘイゼル、呪物講座はそのくらいにしてください…」
少なくとも恋人の膝の上で、頭を撫でられながら聞きたい話ではない。
けれども空気を読まない唐突な呪物講座のおかげで、先ほど感じた悔しさや不快感は嘘のように霧散しており、ルチシャは再び、これこそがヘイゼルだわ…と心の中で頷いた。
眉をあげたヘイゼルは、ルチシャの瞳の奥をじっと覗き込んで「苦しみは減ったかな?」と問いかける。
正直、先ほど見た、ナイフを持って仄暗く微笑むヘイゼルの姿のほうが悪夢のなかの母よりも余程怖かったとは言わず、ルチシャは静かに頷き返す。
「早めに取り除けて良かった。あんなくだらないものでルチシャの心が弱って、そこに付け入られていたらと思うと不愉快で仕方がない」
「家の者にも悪夢を見ていないか確認しておきます」
「ルチシャ、今からでも森で暮らす方向に切り替えるつもりはないだろうか……森で僕と寝ているあいだは悪夢を見なかっただろう?」
「悪夢は見ませんでしたが、心臓が足りなくなりそうでしたので…」
夜毎降る口付けの雨を受け続けるのは、淑女の心臓に多大な負担がかかるのだと説明すると、ヘイゼルは少々悩ましげな表情で口を噤んだ。
自身の欲の為ではなくルチシャの身の安全のために申し出てくれているとわかっているだけに、ルチシャも強くは断りにくい。
とはいえ五月初めのベルティネの頃からおよそ二週間ヘイゼルの森に居て、つい三日前に帰ってきたばかりだ。これから二週間こちらで過ごすあいだに、済ませるべき事がたくさんある。
「こちらにいる間、ヘイゼルとまったく会えないのであれば考えものですが……会いに来てくれますよね?」
正確には、森で育った木の実を届けに来てくれるだけなのだが、敢えて甘えるように『会いに来る』と表現したルチシャにヘイゼルは「勿論だよ」と目元を柔らかくした。
「毎晩添い寝に来ようか」
「…………今夜だけお願い出来ますか?」
三日ほど寝不足のため沈み込むように眠れる気もするが、悪夢の余韻を消すためにも、今日は深い森の香りに包まれて眠りたい気分だ。
婚前に男を寝所に入れるなど淑女としては失格な回答だが、恋人を甘やかし倒したい竜王にとっては百点満点の回答だったようで、ご機嫌な顔で了承してくれる。
このままベッドへ行って夜までずっと甘い時間を過ごそうと言い出しかねないヘイゼルを制して、「今日は私の好きな、特別なお菓子を用意してあるんです」と客間でのお茶会を提案する。
その前に一度、リリアンナの様子を見に行かなければ。
先ほどは緊迫した状況だったとはいえ、負担をかけてしまった。
ヘイゼルの纏う空気があれほど重くなったのはユールのモミの一件以来だろうか……抱えられて距離が近かったからか、ルチシャに向けて警戒を露わにしていたせいか、あの時よりもずっと冷たく恐ろしく感じたものだ。
ヘイゼルに見据えられて苦しげに膝をついたリリアンナも同じように感じたことだろう。
(リリアンナがヘイゼルのことを恐れてしまったら悲しいわ…)
森から帰還してすぐ、ルチシャはリリアンナに式当日の身支度の補助をしてもらえないか願い出た。
「そんな重大な役目をこの時期に言ってくる!?」と目を剥いていたが、事情をしっかり話すと、「髪結いも私がするわ!」と意気込み、婿探しそっちのけで練習に専念し始めてしまった。
想定外だったのは、リリアンナがルチシャの身支度に立ち会うと聞いたリリム夫人も奮起したことだろうか。
古着ではあるもののルチシャが着るドレスに近い作りの舞台衣装を探し出して購入して来たかと思えば、リリアンナと共に、着せ方や髪型について連日ああだこうだと意見を交わし合っている。
昨日、「お母さんは黙ってて!」「わたくしは経験者ですよ!?貴女は婚礼衣装を着たことがないでしょう!?」「時代が古いのよ!!」と久しぶりの親子喧嘩を目撃したルチシャは、満面の笑みでその口喧嘩を見守った。
家令の咳払いで収束し、家政婦長から「お嬢様…笑って見ていないで止めてください」と苦言を呈されたが、およそ七年ぶりの仲睦まじい親子喧嘩を見れたのだから満足だ。
ヘイゼルには部屋で待っていてもらい、リリアンナの部屋の扉をノックする。
「リリアンナ、心配かけたわね」と扉の外から声をかけると、ドタバタと大きな足音と共に勢いよく扉が開かれた。
「ルチシャ義姉さま…!」
飛びつこうとしてグッと踏みとどまったリリアンナは不安そうな目をルチシャへ向ける。
大丈夫と頷き、軽く抱擁して背中をポンポンと叩いてやれば、強張った身体からゆっくりと力が抜けた。
「少し確認したいことがあるから、部屋に来てもらえる?」
「いいけど…体は本当に大丈夫?階段も上れないほどだったんじゃないの?」
「大丈夫。あれはヘイゼルが心配して抱えてくれていただけだから」
手を引いてルチシャの部屋へ導くと、ソファに座っているヘイゼルの姿にリリアンナは一瞬だけぎくりとしたようだが、負けじと顎を引いて礼儀正しく礼をした。
必要以上に恐れて避けるような様子でないことに、密かに胸を撫で下ろす。
「リリアンナに変な呪いが掛かっていないかヘイゼルに見てもらうから、ここに立っていてくれる?実は、先日見せたあのナイフがちょっとした呪物になっていたそうなの」
「呪物!?」
「禍々しいものではないし、ヘイゼルが回収してくれたから大丈夫。……ヘイゼル、遠目に見るだけでわかりますか?」
「まあ……大丈夫そうな気がするけどね」
気のないヘイゼルの返事に、むっと軽く頬を膨らませる。
「しっかり確認してくださいね。リリアンナに何かあれば婚礼衣装が着れなくなりますよ」
「ああ、そういえばそうだったね……当日はよろしく頼むよ」
「またとない機会を与えてくださりありがとうございます。誠心誠意お手伝いさせていただきます」
深々と腰を折ったリリアンナにヘイゼルは鷹揚に頷いた。そして改めて影響が出ていないか目を凝らしてくれる。
花嫁となり家を出ていくルチシャも忙しいけれど、先月社交界デビューを果たしたリリアンナは余計に忙しい。
領地の屋敷でルチシャの結婚準備や年中行事の手伝いをする一方で、デビューしたからには王都での主要なパーティにも顔を出す必要がある。
五月の終わりに緋色の巫女竜とのお茶会を控えた王家と催事の責任者である典礼部からは、案の定、助言を乞いたいという書状がリリオデス家に届けられた。
ルチシャはリリアンナに、今後の手札として巫女竜と繋ぎを作ることも可能だと提案したものの、リリアンナはそれを断り、表立って緋色の巫女竜と縁を繋ぐことはしなかった。
結果として、ルチシャの想定通りリリアンナと侯爵家ご子息との婚約の話は立ち消えてしまった。
だからといってデビューを急ぐ必要はなかったが、王女殿下のお茶会だ何だと王都がドタバタして皆の気が逸れているうちに済ませてしまえと今年の春にデビューを果たし、社交界へ足を踏み入れた次第だ。
ルチシャの想定からズレたのは、侯爵家のご子息が春を過ぎても独立と爵位継承を発表せず、未だ王宮の典礼部勤めをしていることくらいだろうか。
王女殿下の婚約者候補として名は挙がっているそうなので、緋色の巫女竜とのお茶会が終わり次第動き始めるのかもしれない。
リリアンナにも幾つかの縁談が持ち上がっているものの、当の本人が全く興味を示していないうえに、リリム夫人までルチシャの婚礼準備に全力投球となってしまったため、今暫くは進展しないだろう。
申し訳ない気持ちもあるけれど、結婚式当日に側に居てくれるのはとても心強い。
ヘイゼルが改めて「大丈夫だろう」と頷いてくれたため、ルチシャはホッと胸を撫でた。自分のせいで大事な義妹が呪われたとあっては悔やんでも悔やみきれない。
「そういえば髪結いのことも話がついたのかな?」
「ええ。私の髪はリリアンナが結ってくれるそうなので、ヘイゼルの髪は私が結ってもいいですか?」
「ん?」
首を傾げたヘイゼルの元へ行き、腰までの緩いウェーブがかった髪にさらりと触れる。
絹糸のような柔らかな手触りと蜂蜜のような艶。
ホーステールが「触れるのが畏れ多い」と口にしたのがわかるくらい、嫉妬してしまいそうな程に美しい。
竜のマタタビ事件で初めて触れて以降、ルチシャはヘイゼルの髪に触れるのがとても好きで、支度の時間に余裕があるのならルチシャの手で整えたいと思ったのだ。
ヘイゼルも満更ではないのか、ハシバミ色の瞳が甘さを帯びる。
「花嫁に手ずから結ってもらえるとは光栄だね」
「次の滞在中にたくさん練習させてくださいね」
「好きなだけ触れて構わないよ」
後頭部へ伸ばされた手に優しく促されて顔が近づき、一瞬だけ唇が触れ合う。
普段であれば問題ないのだが、今は部屋にリリアンナが居る。
「ヘイゼル…」と眉を下げて咎めれば「きみの義妹は目隠しをしてくれているようだよ」と愉快そうに返される。
振り返ると、ご丁寧に両手で両目を隠したリリアンナがいた。
「もう……リリアンナもお気遣いありがとう。呪いに関して問題ないのであれば、客間でお茶にしましょう。支度をと伝えてくるのでヘイゼルは待っていてくれますか?」
「私が伝えてくるから、義姉さまはもう少し竜王さまと仲良く過ごしていて。……竜王さま、ルチシャ義姉さまを危険から救って頂けたこと心から感謝致します」
「呪いを以て我が花嫁を害するなど、許されることではない」
他は別段どうでもいいと言いたげな返答だが、気にした様子もなくリリアンナはもう一度深々と礼をして部屋を辞した。
ヘイゼルが「成程、気の強そうな所といいローアンと合いそうだ」と頷く。
「機会があればローアンに会わせてやるといい」
「ヘイゼルがそのような提案をするのは珍しいですね」
「結婚した後もルチシャを頻繁に茶会へ呼びつけられては堪らないからね」
「私の代わりにリリアンナを宛てがおうとしないでください…。それに、リリアンナが居るのなら余計にローアンのお茶会に参加したくなると思います」
渋い顔をしたヘイゼルに苦笑しつつ、ルチシャは改めて「リリアンナの無事を確認してくれてありがとうございます」と礼を述べる。ヘイゼルは鷹揚に頷いたあと「きみたち姉妹は互いに律儀だね」と肩を竦めた。
「放置したらルチシャはずっとあの娘のことを気にするだろう?義妹を大事に思っていることは理解しているが、余所見され続けるのもね…」
家族として心配することも、竜にとっては余所見に入ってしまうようだ。
このあたりの事は以前ローアンからも注意するよう言われているため、特に驚きは無い。
その時は『お従兄さまの事だからルチシャの記憶を消したうえでリリオデス家の存在を抹消しかねないわ…』と言っていたが、その予測には訂正が必要だろう。
ヘイゼルはリリオデス家を抹消するどころかエアファルト王国が滅亡しないよう手を尽くしてくれた。ローアンからも、あの事件はとても厄介な事になっていて、ヘイゼルや彼が協力を仰いだ精霊の助力がなければ、犠牲なくあの場を収めることは難しかったと聞いている。
それに今日はヘイゼルのお陰で伯爵家に影を落としたかもしれない大きな問題を取り除くことができた。
確かにヘイゼルは伯爵家の為に自ら動くことはないが、ルチシャが悲しまない為にと、ルチシャの大切な人たちを纏めて守ってくれている。
少し背伸びをして額同士をくっつけ、至近距離で視線を重ねる。
余所見をする隙間など微塵もなく、ルチシャの視界は端正に整った竜王で満たされる。
ヘイゼルもどこか愉快そうに目を細めるとルチシャだけをその瞳に映した。
「お互いしか見えない世界に取り残されたとしても、相手がヘイゼルであればずっと耐えられそうですね…」
「それは光栄だ。……あまり見つめられると口付けたくなるね」
「家の者が呼びにくるかもしれないので、いけませんよ」
「じきに家を離れるのに、そういう事を気にし続ける必要はあるのだろうか」
「ここまで頑張ったのだから最後まで頑張ってやるという意地でしょうか……もう既にいくらか手遅れという気もしますけど…まだ、しっかりと露呈したわけではありませんので」
「きみと触れ合いたい僕から、素晴らしい提案をしても良いかな?」
「何でしょう?」
「目撃者が居たとしても全員記憶を消せば問題ない」
「困った人ですね…」
目撃者の存在ごと抹消してしまおうと言い出さなかっただけ良かったのかもしれない。
苦笑して目を閉じると、待っていたとばかりに唇が触れ合う。
そして瞼を上げて見つめあっては、どちらからともなく再び目を閉じて唇を重ね合う。
愛情の受け渡しを幾度か繰り返したあと、そのまま鼻先がくっつくほどの近い距離でイチャつきあっていると、ややあって扉が控えめにノックされた。どうやら家令のアンサムが呼びに来てくれたようだ。
ルチシャの視線が扉の方に逸れた隙に、ヘイゼルは掠めるようにもう一度キスをする。
そして立ち上がると「先に行っているから、着替えておいで」と、ルチシャがダンスの格好のままであることをさりげなく教えてくれた。
ありがたく着替えさせてもらおうとクローゼットへ向かいかけたところで名を呼ばれたため、その場で振り返る。
「念のため聞いておくけど、伯爵と夫人に纏わりついている呪いはどうすべきかな?おそらくは結婚指輪が起因となってる呪いだろうけど、まあ…彼の場合は自業自得だし、放っておいても命までは取られないものだ」
「え!?ええと…出来れば取り除いて欲しいです」
「彼は?」とアンサムを指さされ、ぎょっとする。会話が聞こえてしまったのか、滅多なことでは動揺しないアンサムの表情にも流石に困惑が滲んでいる。
「あれとは質が違うが……残滓のようなものが付いている。彼は前伯爵の従者で、魔女と直接対話したことがあるんだっけ?」
「そうです……取り除ける呪いですか?」
「僕を封じる際に動かした呪いに起因するものかな…既に解けているものの残滓だし、簡単だ。背中を叩けばいい」
ルチシャはアンサムと目を合わせ、視線で「どうします?」と問いかけた。
老齢の域に達しているアンサムにとって、背中への強打は命取りになる可能性もある。
(叩くにしても、せめて加減を…)
と思った時にはもう、大きな手のひらは遠慮なく振り下ろされていた。
鈍い音と共に息を詰めたアンサムが床に沈む。
ルチシャが、吹き飛んで壁に叩きつけられるような勢いじゃなくて良かった!手加減してくれたのね!と感動している一方で、凶行に走った竜王をうっかり見てしまった衛兵が廊下の向こうから慌てて走って来る。
「お嬢さま!ご無事ですか!?」
「待ちなさい、竜王さまは呪いを解いてくださっただけだから落ち着いて!私は良いからアンサムを運んで頂戴」
「ですが…!」
決死の覚悟で守ろうとしてくれているのか、戸惑いながらも竜王との間に割入ろうとする衛兵を制止して、気絶してしまったアンサムの運搬こそを頼む。
そうこうしていたら、騒ぎを聞きつけた家政婦長やリリアンナが階下から顔を覗かせ、果ては執務室に居たはずの伯爵までも、従者と衛兵を連れて出てきてしまった。
皆が皆、廊下に倒れ伏したアンサムを見てギョッと目を瞠っている。
「ルバート様はお下がりください!」「お嬢さまをお守りしなければ!」「だが相手は竜王さまだぞ!?」とちょっとした恐慌状態に陥っている衛兵たちをどうやって収拾付けようかと思っていると、ヘイゼルはおもむろに手をパン!と大きく打った。
あまりの音の大きさに、全員がびくりと身を竦ませ、騒然としていた廊下は一瞬で静寂に満ちる。
ようやく誤解を解くことができるわとホッとするルチシャをよそに、ヘイゼルはどこまでもマイペースに伯爵の左手あたりを指差した。
「ルチシャ、あの呪いは該当する指か手首ごと折ったらどうにかなるよ」
「ありがとうございます、ヘイゼル!ですが、先に説明させてくださいっ」
困惑を隠せない父に、集まった衛兵や使用人を散らすよう願い出て、大事な話があるからと執務室に戻ってもらう。
それから手早く着替えて父の執務室にて事のあらましを説明し、お茶席に辿りついたときには普段の三倍は疲れ果てていた。
結婚指輪を嵌めた左手の薬指周辺が呪われていると知った伯爵とリリム夫人は唖然としていたし、該当する指か左手首の骨を折れば呪いが解けるという解決策を提示してもその顔色が晴れることはなかった。
まあ…確かに、解呪のためとはいえ自ら骨を折りたいと思う人はいないだろう。
折ってあげようかという親切で優しい申し出をしてくれたヘイゼルに「過分なお心遣い感謝致します」と深々と頭を下げた父の姿はまさに貴族の鑑のようであった。
ひとまず今すぐ骨を折るのは保留にして、その呪いがどのような影響をどれほどの期間に渡って及ぼすかによって、解呪するか放置するか改めて検討するという。
そんな一幕を経て、ルチシャは待ちに待ったお茶菓子と対面していた。
夏が近いからとアイスティーにしてくれたのか、透明なグラスには濁りのない赤橙色が揺れ、テーブルの中央にはベリーで彩られた美しいホールケーキが鎮座している。
今日のためにと用意してもらったデザートの出来栄えにルチシャは堪らず破顔した。
「今日のおやつは私のお気に入りのケーキなんです」
「メレンゲとベリーのケーキだね。色鮮やかで美味しそうだ」
「メレンゲに少しだけヘーゼルナッツを入れたものを試作してもらいました。夏至は恋人の日でもありますから、こっそり、私とヘイゼルの出会いをお祝いしようかと……なので、こうして一緒に食べられて嬉しいです」
今日は悪夢やナイフ、呪いの事などひやりとする事件もあったが、無事に特別仕様のケーキを分け合うことが出来て満足だ。
ヘイゼルはルチシャが自分との出会いを祝おうとしたことが殊更嬉しかったのだろう。ハシバミ色の瞳を柔和に細めると、上着の内ポケットから美しい琥珀色の液体の入った小瓶を取り出した。
「きみとの出会いを心から喜ばしく思うよ。僕からの気持ちとして、森で採れた蜂蜜を少しだけ添えてもいいかな?」
「ありがとうございます」
こんなときに、考えなしにダバダバと注ぐのではなく、ケーキの味を損なわない程度に添えてくれるのは有難い。
色鮮やかなベリーの飾られたメレンゲのケーキは夏至祭の定番のお菓子で、軽い舌触りの生地は食感が楽しく、程良い酸味が口に広がると夏の近づきを感じる。
イチゴにラズベリー、ブルーベリーと果実が贅沢に乗せられ、もう少し季節が進めばワイルドベリーやイチジクを飾るのもいいだろう。ルバーブのコンポートを使う家もあるが、残念ながらリリオデス家は当主がルバーブを嫌っているためベリー類が推奨されている。
「夏至のお祝いは昔からあるのですよね?」
「夏至と冬至、春分と秋分は星の巡りで見分けているから、天の運行が変わらない限りはそう大きくは変わらないだろう。先史時代の初期はもっと肉欲的な儀式も交わされていたようだけどね」
「そういえば、夜には特別なお酒が振る舞われる地域があると聞いたことがあります」
「蜂蜜酒であったり、薬草酒であったり……太陽が生命の象徴とされる以上、男女の結びを促す日であることは間違いない」
今でも夏至祭で仲を深めて恋人や伴侶になることも少なくないが、かつてはもっと明け透けで、地域によってはその日は伴侶以外との交わりを許されたり、より良い種を得るために女たちがひとりの男の家に代わる代わる押しかけたり、逆にひとりの女を巡って男たちが死闘を繰り広げたりと、日頃抑えられている愛欲が剥き出しになる日でもあったようだ。
「だからといって何でも許されるわけじゃない。立場をわきまえ、己をうまく抑制できる者にこそ夏至の女王は情熱を与える。そうでない愚か者は彼女の機嫌を損ねるばかりだ」
「夏至を司るのは女性の精霊なのですか?歴史書に、オークの王という名が出てきたのでてっきり男性なのかと……」
おや。という顔をしたヘイゼルは、腕を伸ばすと勉強したことを褒めるようにルチシャの頭を軽く撫でる。恋人というよりも教師に褒められたような心地で、なんとなく普段よりも照れ臭くなってしまう。
「夏至を含む第七の月の守護者はオークの精霊だから間違いではないよ。そもそも夏至は入り乱れているからね……シラカバやトネリコ、サンザシにナナカマド……ヒイラギもかな。太陽の力が強まるうえに、年の盛衰の境界でもあるから様々な精霊が行き交う日でもある。かつては今よりももっと重要視されていたし、色々と凄惨な事件も多かった」
愛の裏には憎しみが潜み、勝ち得た欲の果てに幸福が待つとは限らない。
人間が起因のものや精霊が起因のもの。様々な事件が起こり悲劇が生まれたが、力ある者たちはその凄惨さすらも娯楽や享楽として愉しんだという。
「ヘイゼルも夏至には何か特別なことをするのですか?」
「ホーステールは夜明け前から大忙しだけれど、僕はそうでもないかな。……でも、今年はルチシャが居るから特別な夏至になりそうだね」
どんな一日を過ごそうか…と問いかける声は密やかで、ハシバミ色の瞳はとろりと蜂蜜のように甘い。
雰囲気に飲まれそうになったルチシャは慌てて「そういえば」と話題を変えた。
「衣装を試着した日に、ローアンから『お従兄さまをよろしく』と言われましたよ」
「そんな事を言っておいて、どうせきみに竜のマタタビを渡したんだろう?」
「夏至は危ないからって、追加で貰いました。でもホーステールさんも、夏至の精霊は幻覚キノコをフルコースで食べた時くらいに理性が飛ぶから、危機を感じたらすぐに無力化するようにと言っていました」
「僕はどこまでも信頼されていないね」
おやつのお皿が空になったのを確かめると、ヘイゼルは先ほど蜂蜜の小瓶を取り出した内ポケットから艶めかしいハシバミの実を取り出した。
創世期を記したとされる神話の伝承の中でハシバミの実は神々の嗜好品であり、その樹を傷つけた者には破滅の運命が下されることになる。
ハシバミの精霊の手からその実を頂くことの神聖さと、人間でありながら神の嗜好品に手を出す罪深さを感じながら、ルチシャはそっと口を開く。
殻を割って口に入れてもらった木の実はまるで、誘惑の果実のようで。
ゆっくり丁寧に咀嚼するルチシャを見つめるヘイゼルの眼差しには密やかな熱が宿る。
「……今夜は窓の鍵を開けておきますね」
ヘイゼルにしか聞こえないよう小さく囁きかけると、背筋がぞくりとするほどの美しい顔で微笑み返された。