2. 恋情と名前
竜な男性を連れ、裏門からどの道を通って屋敷へ戻るべきかしら…と時間稼ぎをしながら悩んでいたルチシャは、「お迎えにあがりました」と現れた家令のアンサムを見て安堵した。
先代伯爵の頃から屋敷に仕えてくれているアンサムはもう随分と高齢になってきたものの、やはり経験値が飛び抜けて高い。
かつて竜の祠を見に王族がお忍びで来た時も、彼が先鋒に立って対応したという話は本当のようだ。アンサムは竜な男性の姿を見ても顔色ひとつ変えず、客間と直接繋がっているガーデンテラスから入れるよう、そつなく案内してくれる。
テラスには父と義母が並び立ち、その後ろには父の従者も兼務する執事と母付きの侍女、家政婦長という、リリオデス家の上級使用人たちが並んでいた。
一般雇用のハウスメイドを立たせなかったのは、屋敷へ迎えるのが高貴な存在だと伝えたからだろう。
ルチシャと共に現れた男性を見た父と義母は一瞬息を呑み、深々と最上級の礼で以て出迎えた。
(こういうとき、私はどうすればいいのかしら…)
テラスのある庭へ入る手前で、気を利かせてくれた竜な男性が「念のため屋敷までエスコートさせてもらえるかな?」と再び腕を差し出してくれたため、ルチシャの手は今、男性の腕に添えられている。
伯爵である父とその夫人からお辞儀で出迎えられるという人生初の出来事を前に密かに混乱していると、男性は落ち着かせるように、腕に添えられたルチシャの手の甲をポンポンと軽く叩いてくれた。
「やあ…伯爵。お邪魔しているよ」
「ようこそおいでくださいました。道中、お困りのことは御座いませんでしたか」
「こちらのご令嬢から素敵な道案内をしてもらったゆえ、問題はない。さて…すまないが重要な話がある。当主と娘以外は席を外してもらえるだろうか」
ルチシャに話しかけるときよりも厳かで冷たい温度の言葉を男性が紡ぐのを聞きながら、ルチシャはなんだか落ち着かない心地になった。
けれども父である伯爵は、娘の心の機微になど微塵も気づかず、やはり深々と腰を折って礼を示す。
「勿論でございます。差し支えなければ客間にご案内致しますのでどうぞ中へお入りください。給仕の者は如何いたしましょう」
「こちらには必要ないよ」
では……と、父から目配せをもらったルチシャは静かに頷いた。
テラスから屋敷のなかへ入ると、伯爵とルチシャと男性は既に整えられている客間へと移動し、家令はティーセットの乗ったワゴンを室内に置くと恭しく礼をして出て行った。
ルチシャは断りを入れて男性の腕から手を外し、ワゴンの紅茶とお茶請けをテーブルへ並べていく。
部屋に給仕を入れないということは、必然的に最も下位の立場にあるルチシャが場を整えることとなる。
教育の一環として身につけてはいるものの、実際に高位の方へお茶を淹れるのは初めてのため、酷く緊張して腕が震えそうだ。
奥の一人掛けソファに男性が座り、向かいの二人掛けソファに父が座る。
ルチシャはお茶のセッティングを終えると、室内の張り詰めた空気感に緊張しながら父の隣へと腰を下ろした。
部屋には俄かに重い沈黙が満ちる。
(魔女のことを聞きたいと仰っていたけれど……)
向かいの竜な男性に淡く微笑まれ、隣の父から説明を求めるような視線を向けられていることに気づき、ハッとしたルチシャは、慌てて父に客人として迎え入れた男性のことを紹介する。
うまく説明できないけれど、とりあえず目の前の男性がどのような存在なのか伝わればいいだろうと半ばやけっぱちで口を動かした。
「お父さま、この方は、祠に封印されていた竜…である男性です。
この方に教えて頂いたのですが、どうやら竜は、伝承にあるような竜の姿のほかに、人間と変わりないお姿にもなれるそうなのです。
先ほど私が祠石を磨いている際に封印が解け、祠よりお出になられました。
当家に伝わる魔女に関する資料をとご所望でしたので、屋敷へお招きしたのです」
なんとか伝えたものの、父は「竜」と言った時点で呆気に取られてしまっている。
ルチシャの説明が終わったことに気づいたのか咄嗟に表情を取り繕ったが、どんな顔をすればいいのかまだ困惑しているようだ。
「では貴方は…障りを受け、眠りに就かれたという翠の竜神さまなのでしょうか」
「翠の竜神…?」
初めて聞く言葉に、正面の男性と共にルチシャも首を傾げる。
首を傾げられた父は困惑を深めながらも、『翠の竜神』という呼称について説明した。
「竜の眠る祠石には美しい翠玉が埋められておりました。ゆえに、当時、祠の管理を任された者は『翠の竜神の祠』と呼んでいたそうです」
それは今は亡き庭師のひとりであったが、彼の管理記録簿に『翠の竜神』と書かれていたため父もそう認識していたという。
それを聞いた男性は緩やかに首を横にふる。
森で話していた時よりも表情が冷たく見えるのは、向き合っているのが父だからだろうか。
「確かに古き竜ではあるが、天上に座す天竜を差し置いて『竜神』を名乗ることは許されない。祠の伝承がどこまで伝わっているかは知らないが、可能であるならば即時の訂正を求めたい」
「勿論で御座います。心よりお詫び申し上げます……今後、どのようにお呼びすれば宜しいでしょうか」
「竜神ではないが、竜王としての地位はある。そちらであれば問題ない」
「では、竜王さまと呼ばせて頂きます。伝承は我が伯爵家の内部でのみ語られるものですが、庭師など祠の由縁を聞き及んでいる者もおりますので、彼らには正しく周知しておきましょう」
男二人の堅苦しい応酬を聞きながら、ルチシャは内心とても驚いていた。
(竜王…って仰ったわよね、今…)
竜王とは、言葉通り竜の王さまなのだろうか。
高位の精霊で、竜で、竜の王さま……情報が重なるたび、ルチシャの許容量を軽く超えてきている気がする。
(竜王の妻になるってことは竜の王妃さまになるってことかしら…)
人間なのに竜の王妃…どう考えても無理そうだ。
父は家令を呼びつけていくつかの資料を持ち込ませ、祠についての伝承や魔女の容姿などを伝えていく。
ひと通りの情報を開示し終えた伯爵は、どこか不安そうな視線を竜王とルチシャへ向けた。
父のこのような気弱な視線を受けるのは初めてだとルチシャは目を瞬く。
「祠が壊れたというのは……その、娘が何か粗相をしたのでしょうか」
「いいや、彼女は私の封印を解くに必要な存在であった。むしろ彼女でなければ封印は解けなかっただろう……ルチシャ、改めて礼を言う」
「とんでもございません…!竜王さまのお役に立てて光栄で御座います」
隣の父はホッと安堵の息を吐いたが、ルチシャは垣間見えた竜王の表情の方が気になってしまった。
ルチシャが『竜王』という呼称を使ったとき、わずかに寂しげな表情を浮かべた気がしたのだ。
寂しげな、何かを諦めるような表情。
それを思い返そうとすると胸がつきんと痛む。
ルチシャにも、竜な男性が抱いたであろう気持ちには覚えがあった。
先ほどテラスで父と挨拶を交わしているときに、男性から「令嬢」や「娘」と呼ばれた際、ルチシャは何となく心がモヤモヤしてその呼び方は嫌だなと思ったのだ。
男性は先ほど、名を知ることは縁を作ることだと言っていた。
では、このまま名も知らずにお別れしたならば、縁を失い、もう二度と会えないのだろうか。
伯爵家に伝わる祠の話は殆ど終わっているため、ともすれば、このままお見送りという流れになってしまうだろう。
ルチシャは覚悟を決めて、父に今暫くの竜王の逗留を願い出た。
「お父さま、このあと少しだけ竜王さまとのお時間をいただけませんか?森で大事なことをお話ししていたのですが、途中になってしまっているのです」
「大事なこと?」
「はい。竜王さまに求婚していただいたのです」
父の目が大きく見開かれ、驚愕と呆然…どちらとも取れる表情で、ルチシャと竜王とを見比べる。
竜王もルチシャがその話題を蒸し返すとは思っていなかったのか、少しばかり驚いた顔をしている。
「失礼ながら……娘の話は本当でしょうか」
「ああ。我が妻に…と望み、その意志を伝えたことは間違いない。だが、私の申し出はあまりに突然すぎて彼女を酷く困惑させてしまったようだ」
「それは私があまりに無知であるがゆえです…もしお許し頂けるのであれば、もう少しだけお話をする時間を頂戴したく…」
「きみがそう望むのであれば、こちらに異論はない。伯爵、彼女との話し合いがどのように帰着するかはわからないが、今暫く留まらせてもらおう」
ルチシャが求婚を断る可能性もあると示唆された伯爵は、蒼白になって「ルチシャ…!お相手は竜王さまだぞ!?」と声を荒げた。
「お父さまの仰りたいことはわかりますが、この方が本当に竜であられるのなら、我々人間の価値観で話を纏めるべきではないのだと思います。
私が自分の心を偽り、家や国の為に嫁ぎますと婚姻を許諾したところで、果たしてそれは竜王さまの意に沿うことになるのでしょうか。
竜王さまが戯れでなく本当に私を望んでくださっているのならば尚のこと、その御心を軽んじるような無礼があってはならないと考えています」
「それは……」
父はルチシャに何かを言いかけ、正面に座る竜王の表情を確かめると諦めたように肩を落とした。
竜王はただ薄く微笑んで座っているだけだが、その瞳はどこか興味深そうでもある。
おそらくルチシャと父である伯爵がどのような話し合いをし、どのような結論を導き出すか観察しているのだろう。
「いいかルチシャ、胸の内を晒して話し合うことは構わないが、竜王さまに不敬を働かぬよう気をつけなさい。
竜王さま…時間の許す限り娘と話し合っていただいて構いません。部屋の移動や食事のご用意なども出来ますがいかが致しましょう」
「部屋はこのままで構わない。……ルチシャ、散歩のあとだけれど、着替えなどは必要ないかな?」
「…では、お言葉に甘えて少しだけ席を外します。新しいお茶と一緒にパイかタルトを添えてもらおうと思いますが、竜王さまはお召しになりますか?」
「ありがとう。じゃあ、きみとお揃いで貰おうかな」
「……たくさんご用意いたしますか?」
「ひと切れでかまわないよ。封印明けだから僕がお腹を空かせていないか心配してくれているんだろう?優しいね」
ルチシャに向けて穏やかに微笑みを深めた竜王に、父は驚愕したようだ。
娘と竜王とをもう一度見比べると、目を閉じ天を仰いでから退出の挨拶を済ませ、悄然とした様子で部屋を出て行く。
ルチシャも竜王に断りを入れて、部屋を出る。
客間から離れ、二階の自室に向かおうと階段に足を掛けたところで階段の踊り場に立つ父から呼び止められた。
厳しい声には、話し合うにしろ身の程を弁えなさいという強い警告が滲んでいる。
本来であれば結婚に関する話し合いは当人同士ではなく、家の当主同士でおこなわれる事が多い。話し合いの場から父が離席したということは決定権をルチシャに委ねたという事に他ならないが、今回はあくまで竜王に配慮した形であり、ルチシャを信頼して委ねた訳ではない。
どう結論付けようとしているのかと問う父に、ルチシャは曖昧に微笑んだ。
「お父さまは竜の婚姻について何かご存知ですか?…お断りすることが不敬にあたるのだとしても、未知の領域に踏み込むのだとすれば、それなりに心構えが必要なのだと理解して下さいませ」
「では、最終的にはお受けするつもりなのだな?」
「まだわかりませんが、きちんとお話しして参ります。それにあの方は、この問題がどうなろうとも、いたずらに伯爵家に害を為すような方ではありません」
「だとしてもだ。……まさか祠に、本当に竜が封じられているとはな…」
「……あまりお待たせするわけには参りませんので」
踊り場に立つ父の向かいを抜けて、自室に駆け上がる。
父はルチシャの婚姻相手にこだわりはなかった。……でも、それは昨日までの話。今はもう竜王以外の相手など考えもしていないだろう。
(竜がどんな存在なのかも知らないくせに…)
胸に芽生えた反抗的な気持ちをどうにか押し留めながら、散歩で汗ばんだ身体を軽く拭き、新しいデイドレスに着替える。
これまでルチシャは伯爵家の一員として、他の使用人たちと同様、当主たる父の指示から大きくはみ出さぬよう生きてきた。それは貴族の子として当然のことであったし、それによって自分がどのような理不尽に晒されようとも、ため息と共に飲み込んできたのだ。
(でも、今回だけは違う…)
自分で決めたい、と強く思う。
父の意思など、伯爵家の未来など、この国の存亡など、そんなものなど知ったことではないと放り投げて、自分の思うままに選んでみたいと心が叫ぶのを感じる。
そんな感情が渦巻いていたからか、ルチシャは鏡に映った自分の顔を見て苦々しく微笑んだ。
様々な感情が混ざりに混ざった無様で不細工な表情は、決して他人に見せられるものではない。ましてや自分に求婚してくれた相手となれば尚のこと。
戻った先でこんな顔を晒したなら、すっかり失望されることだろう。
(だめだわ…これから話し合うのは、自分の人生や未来に関わる事。意固地にならず、しっかり相手と…何よりも自分の心と向き合わなければ)
ぱちんと頬を叩いて手早く髪を纏め直すと、深呼吸をしてから部屋を出て階段を降り、客間へ向かう。
不思議なことに、客間の扉の前に立ち、なかで待つ人のことを思うと心がスッと穏やかになった。
もう一度深呼吸をしてからドアを叩き、返事を待って押し開く。
ルチシャが出て行ったときと同じく一人掛けの椅子に腰掛けたままの竜王は、どうやら祠に関する文献を読み返していたようだ。
穏やかなハシバミ色の瞳がルチシャを捉えたことに、言い様のない安堵を感じた。
「お待たせしました」
「大丈夫だよ。新しい服も可愛いね」
微笑みとともに告げられた言葉に、ルチシャは気恥ずかしく思いながらも礼を述べる。
すかさず部屋に新しいお茶とタルトが届けられ、給仕しようとルチシャがお菓子用のお皿を手にしたところで、おもむろに竜王が立ち上がった。
父よりも十センチ近くは背が高いにも関わらず、威圧感や恐怖は感じない。
勿論、高位の存在と相対しているという畏れ多さは引き続き胸のなかにあるけれど、ルチシャを見る目が常に穏やかであるせいか、身が竦むようなことはなかった。
「隣に座ってもいいだろうか」
「勿論です。お茶の配置を変えますね」
先ほど父が座っていた場所に新しくお茶とタルトをセットする。
今日のタルトはヌストルテと呼ばれる、ナッツの入ったヌガーを使ったものだ。
子どもの頃に、あまりにも歯に纏わりつくから食べづらくて好きではないと零したところ、ヌガーにメレンゲを混ぜ込んで軽めの食感で作ってくれるようになった。
甘さが強いからどうだろうかと心配だったものの、ひとくち食べた竜王は「まわりの生地もサクサクで良い食感だね」と微笑んでくれたためホッと胸を撫でる。
途中で「単花蜜かな…」という呟きも聞こえたため、もしかすると蜂蜜や甘いものが好きなのかもしれない。
並んでタルトを食べて紅茶を飲み、ひと息ついたところでルチシャは竜王を仰ぎ見た。
甘いものを補給したし、心はもう穏やかだ。
今こそ、父のことなど意識からポイして、ただ目の前の相手と向き合おうと背筋を伸ばす。
「……自意識過剰かもしれませんが、先ほど貴方のことを『竜王さま』とお呼びしたときに、寂しげな表情をされたように思えたのです」
「表に出したつもりはなかったけれど、見破られてしまったようだね」
「私も貴方から『令嬢』や『娘』と呼ばれたときにモヤモヤとしてしまったので、おあいこかもしれません」
「では、『きみ』と呼称するのも不愉快にさせてしまうだろうか」
「いえ、それは平気です。『お前』と言われるのは少し、威圧的に感じてしまうかもしれませんけど…」
「大事な子をそんな風には呼ばないよ」
そもそも目の前の男性の話し方からして、誰かを『お前』と呼ぶようには思えない。
竜とはもっと荒々しく猛るものだと思っていたけれど、この短時間でそのイメージが変わりつつあるくらいだ。
でも確かに、父である伯爵と向き合って話をしているときの竜王は、その肩書きに相応しい威厳を纏っていたように思えるため、竜らしくない一面を見せるのはルチシャに対してだけなのかもしれない。
そう思うと、自分だけが特別であるのかなと勘違いしそうになるし、何ともこそばゆいような心地になる。
「貴方が寂しそうな表情を浮かべているをの見て、『竜王さま』ではなく名前でお呼びしたいと思ったのです。どのようにお呼びすれば良いか、教えてくださいますか?」
「………ひとつだけ、伝えておいてもいいだろうか」
慎重そうに告げられ、ルチシャは瞬きをしながら頷いた。
もしかして今になって、名前を教えるほどに好きではなかったと言われるのでは……と後ろ向きな考えが過るなか、竜王はルチシャが思いもよらなかったことを口にした。
「例えばきみが、家や国のためにと求婚を受けたとして…僕は、それを嫌だとは思わないだろう」
あまりに予想外の内容だったため、告げられた言葉を咀嚼して意味を十分に理解するまでに少し時間がかかってしまった。
ルチシャが先ほど父に告げた事の内容を是正するものだったが、だとすれば、竜のあいだにも人間社会のような政略結婚という概念があるということだろうか。
「……そこに心が伴っていなくてもですか?」
「強く嫌忌されているとすれば、それはやはり悲しいだろう。けれども僅かにでもこちらに情があるのなら、誰かに命じられた果ての婚姻だとしても忌避しないだろう」
「……では、なぜ、先ほどあの場で訂正されなかったのでしょう。父は私の嫁ぎ先にこだわりを持っておりません。むしろ竜王さまがお相手となれば栄誉なことだと思うでしょう。ですので、あの場で貴方が父に命じていれば、父は躊躇いなく私を差し出しました」
「きみは伯爵の所有物ではないし、僕は伯爵から娘を献上されたいわけじゃない。伯爵からの命令に準拠しているとしても、きみの意思で僕のもとへ来ることに意味がある」
「それは……私にはわからない、呪いのようなものの理屈としてですか?」
「そうだね」と頷かれて、ルチシャは少しだけ考えた。
父が私を差し出すのではなく、私が自ら進み出る必要があるということは、もしかするとそうして決断したこちらの心をどうこうするような呪いを持っているのかもしれないと思い付き、恐る恐るその可能性について問いかける。
「………もしかして、私の心を操作できたりします?」
「しようと思えばね。……でも、きみの中に僕への好意が一欠片もない場合は、その心を歪めることなく諦めなければならないとも感じている。
きみを妻として迎え入れる機会が永劫失われるのだとしても、一片たりとも好かれていないのなら、潔く身を引くべきなのかもしれない」
まるで、それがさも不思議だといわんばかりだ。
もしも呪いで心を歪めるのが正当かつ普遍的な手段だと思っているのなら、もう少し話し合いを深める必要があるだろう。
強制的に心を操作するなんて人道的でないわ…と考えたところで、相手は人間ではなく、精霊であり竜なのだと思い至る。
人間の価値観で話を纏めるべきではないと言ったのは他でもない自分だ。
「………では、もし一欠片でも好意があるなら?」
「その好意を前面に引き出すための呪いを組むかな」
当然のように告げられ、ルチシャは眉を下げた。
不思議なことに身のうちに湧き上がったのは、強い嫌悪感や忌避感ではなく、仕方ないなぁという諦観にも苦笑にも似た感情で。
となれば自分は、彼が竜らしい思考に基づいて理不尽とも思える振る舞いをしたところで、仕方ないと受け止めてしまえるくらいには、既に彼に好意を持っているのだろう。
カップを持ち上げて紅茶を飲む。
これまで出会ったどんな男性にもこのような感情を抱くことはなかったのに…と思えば感慨深くもあるし、自分のなかに芽生えた初めての恋情が、メラメラと燃え上がる激しいものではなく、熾火のような芯に灯る火であることに、何とも自分らしさを感じてしまう。
「……私は貴方の、端正な容姿と深みのある雰囲気が好きです」
「瞳に宿る琥珀色も、ふちに向けてじわりと広がる緑色も好き」
「逞しい体躯も魅力的だと思いますし、余裕のある立ち振る舞いも素敵だと思います」
「私を気遣ってくれる紳士的なところにも、少しばかり謎めいているところにも、決して善良なばかりではなさそうなところにも、…どうしようもなく惹かれてしまいます」
「一欠片どころか既にいくつもの好意を持っている場合、どうしたら良いのでしょう…?」
困ったように微笑むルチシャの想いを受け止めた竜王は、ルチシャがこのように感じているとは思いもよらなかったのか、少しばかり言葉を失ったあと、ゆっくり静かに腕を広げた。
おいで、と言わんばかりのその仕草に、ルチシャはお尻の位置をずらし、上半身を傾けておそるおそる身を寄せる。
広げられた両腕は優しく閉ざされ、そっと控えめに抱きしめられた。
「…好きだよ、ルチシャ。もうきみを諦めることはできないだろう」
噛み締めるような言葉に、ルチシャの胸に灯る火がゆらりと揺れる。
「では、名前を教えてください。それから竜である貴方のことも沢山知りたいです。……あと、できれば心を操らないでもらえると嬉しいです」
逞しい胸元に身を寄せながら告げると、ふ…と笑うように吐息が揺れる。
「嫌われそうにならない限り、操らないよ」
そこで絶対にしないと宣言しないところがきっと、人間との違いなのだろう。
ルチシャは微かに聞こえる拍動に耳を澄まし、精霊にも心臓があるのかしら…と場にそぐわない感想を密かに抱く。
それから少しばかりの協議の末、『ヘイゼル』と名乗った竜王とルチシャは、晴れて結婚を前提とした交際を始めることになった。