12. 不意な終幕と寝耳に水
暦としての春が間近に迫る頃、竜王の封印というとんでもない事態を引き起こした一連の事件は、驚くほど急速に終息を迎えた。
「解決した……のですか?」
伯爵家の庭を散歩しながら告げられた言葉にルチシャは目を瞬いた。
ぴゅうと吹いた風に身を震わせれば、こちらへおいでと外套の内側に招き入れてくれる。
風除けになってくれたうえに少しだけ北風の力を弱めてくれた恋人に礼を言いつつ、先ほどのことは本当なのだろうかと見上げると、柔らかな色の瞳がルチシャを見下ろした。
「あとひとり、スナヅルに寄生された魔女が見つかっていないけれど、ひとまず裏で暗躍していた者たちは一掃されたかな」
首謀者たちの狙いはローアンの弱体化とそれに伴う国盗りであるという衝撃の事実を聞かされてから、まだ一ヶ月程しか経っていない。
精霊に唆された人間はこの国の二つ隣に位置する東方の国の宰相で、完全な私怨からこちらへ悪意を向けたのだという。
それを唆し操ったのはハゼノキの精霊らしく、ヘイゼルともう一人別の精霊とで身柄を引き取り、尋問に掛けたそうだ。
ヘイゼルによる尋問…と、その響きだけでも恐ろしいが、今回の事件では、風の精霊が定めた地上に於ける禁則事項を犯すという、決して見逃してはならない行為が含まれていたため、事情を明らかにしたあとは、ハゼノキの精霊は風の精霊のもとへ、人間の宰相は死の精霊のもとへとそれぞれ送られたらしい。
言うも悍ましいほどの厳しい罰が課される筈だよと告げるヘイゼルに、ルチシャはただ無言で頷く。
東の国は他の高位精霊も怒らせてしまったようで、今は王都を中心に焦土と化しており、国としての機能は失われてしまった。
残された国民が土地を整えて新たな国を作っていくのか、難民として他国に身を委ねるかはわからないが、精霊の報復を受けた国の国民の保護を積極的におこなうかどうかは各国の方針次第だろう。
人間が破壊や戦乱を繰り返す生き物であることは否定しないけれど、地上に於ける人間の営みが、風の精霊や死の精霊を含む複数の上位精霊から厳しく管理されているとは思わなかった。
人類史には残されていないものの、長い歴史の中で人間はすでに二度ほど地上を壊滅的な状態に追い込んだ事があると聞かされ、さすがのルチシャも絶句してしまう。
その都度、天災という形で地上すべての文明が消し去られ、原始的な段階からの再スタートを繰り返したというのだから驚きを禁じ得ない。
地上を何度も再生させるのを面倒くさがった風の精霊によって、人間たちに一定以上の破壊力を持った武器を開発所持させないこと、一定以上の自然破壊を齎す道具の発明をさせないこと等、いくつもの規定が定められ、現在に至るのだという。
ルチシャは深呼吸をして、ひとまず規模の大きな話を受け止めるのは後回しにした。
故郷のエアファルト王国は無事で、ローアンも大きな怪我を負うことなく事態が終息した。今はそれを喜ぶこととしよう。
「国同士のことですし、もっと時間がかかると思っていたので驚きました」
「僕らとしては第三の月の巡りのうちに解決できた方が都合が良かったからね…少しばかり手回しをした部分もあるが、元々向こうも計画を進める頃合いだったのだろう。動き始めたところで一網打尽にした感じかな」
第三の月の巡りが良かった理由って何かしら…と首を捻りながら、誕生日占いに使う月の区分を頭の中から引っ張り出す。
男の子が物語の魔法剣士に憧れるように、この国の女性は思春期頃に必ず一度は占いにハマるものだが、数ある占いの中で最も汎用性があり広く知られているのが誕生日占いだ。
先史時代の暦をもとに一年間を十三に区切り、そこに自分の誕生日を当て嵌めて占いに活用する。
占いにハマるといっても若い娘たちがおこなうのは専任占い師による占いの結果を元にお互いの相性だ何だを言い合うことくらいで、自ら占星術を学び星の運行を描き出す者は殆どいない。
十三の区分ごとに守護樹木や守護石が決まっているため、恋のお守りとして好きな相手の守護石をこっそり身につけたり、守護樹木の小枝に願いを掛けたりする程度だ。
「第三の……守護樹木はトネリコでしょうか。第四の月は確か……ハンノキ?」
首を捻りつつ、家族や友人の誕生日と関連付けながらどうにか思い出したルチシャに、ヘイゼルは「よく学んでいるね」と頷いてくれる。
「以前も告げたが、トネリコの精霊は自称、世界樹のモデルでね。とても古くからいる精霊のひとりだ……彼とは比較的懇意にしているし、やはり地上に於ける守護者としての力は揺るぎない」
「ハンノキの守護する巡り月になっていた場合、ヘイゼルたちが言っていたハリの若木という竜が勢いづいてしまったのでしょうか」
「いや?彼は別に脅威ではないかな。現に、愚かにもムシャクシャしているローアンの元へ行って喧嘩を吹っかけたものだから、容赦なく潰されてしまったそうだよ」
「潰されてしまったのですか?」
「ローアンはあれでいて竜のなかでは上位者だからね……純粋な暴力となれば僕より強いかもしれない」
竜としての身体の大きさは確かにローアンの方が大きいように思えるし、ヘイゼルの戦闘力はどうしても知略や呪いが加味されるため、純粋な暴力を振るう姿は想像し難い。
「では、直接組み合ったらヘイゼルが負けますか?」と聞けば、片眉を上げた恋人は負けず嫌いな顔をして「どうだろうね」と淡く微笑んだ。
しまった……もしかすると今後どこかで実証実験がおこなわれ、ローアンが被害に遭ってしまうかもしれない。
力だけでぶつかる場合どうやってやっつけるかな…と思案し始めたヘイゼルの袖元を引いて、どうか仲良くしてくださいねと忠告しておく。
柔らかい微笑みを向けてくれたものの、言葉で約束してくれなかったということは、やはりいつかどこかで試してみる気なのだろう。
(ごめんなさいローアン…)
せめてもの無事を祈りつつ、そのまま手のひらを重ね、手を繋ぎ直して散歩を再開する。
外で立ち話を続けるには少々足元が寒くなってきた。
ぐるりと庭を大回りをするのではなく、ショートカットして早めに屋敷へ戻っても良さそうだ。
若い蕾を蓄え始めた躑躅の低木の横を通り過ぎる。
例年よりも虫や鳥の姿の少ない庭を眺めては、ヘイゼルの守りに弾かれているのだとすれば彼らも実は精霊だったのかな…と思う。春になり獣たちの活動が再開する頃には、屋敷の周りに敷かれた守りが緩められるのだろう。
黒幕たちは捕縛され、屋敷の裏手に繋げられていた精霊の道も一応は閉ざされたというが、まだ一人、ヘイゼルやルチシャを狙うかもしれない魔女が残っていると聞かされれば一抹の不安が残る。
「……解決したとされるからには、私はこれ以上は追及しないほうが良いのでしょうか」
「そうだね………教えられることは都度伝えるけれど、知らずに居たほうが良いこともある。ひとまず彼らは、春分から夏至までを最良の時期として見ていた。僕の封印も本来はその時期を目安に壊れる予定だったのだろう……そして僕にローアンを攻撃させ、彼女が力を弱めたところでこの国に仕掛けるつもりだった」
クリスマスの頃にヘイゼルの封印具合を見るついでに祠か伯爵家にちょっかいを掛けようとした若いモミの木は、まさか既に封印が解かれているとは思わなかっただろう。仲間に情報を共有する間もなく、返り討ちに遭い存在ごと消されてしまった。
その後インボルグに緋色の衣装を纏って現れた魔女の目的は明らかになっていないが、姿眩ましや成りすましの秘薬を使って、祠に封じられたヘイゼルの怒りが確実にローアンへ向くよう仕向けに来たのではないかという見立てだった。
「………ヘイゼルは、もしも私と出会うことなく祠の封印が解けて解放されていたら、ローアンを呪いましたか?」
「そのときの状況にもよるけれど、何らかの対価は求めただろう。竜は金品で賠償を求めるような気質ではないから、やはり暴力によって力関係を思い知らせるのが一般的だ」
「金品での謝罪は無いのですか?緋竜祭で、ローアンはヘイゼルのことを山賊と呼んでいましたが……」
「今は何かと入り用だから品物を貰ったけれど、そうでなければ他人の持ち物を奪わずとも事足りているよ。…あの子は惜しんで使わず溜め込むタイプだから色々と物持ちが良いんだ。何か欲しいものがあるなら言っててごらん?貰って来てあげるから」
「ヘイゼル……ローアンから無理やり取り上げたもので婚礼用の衣装を仕立てられても、喜びが半減するというか……申し訳なくなります」
「婚礼衣装の分は手持ちで足りたから安心するといい。ローアンからの糸で刺繍を入れているのは寝間着かな……アイラから、寝るときに衣服を着る習慣があるのなら、お揃いで仕立てると良いという助言を貰ったからね。それに、さすがに全てを奪ったりはしていない……三分の一くらいは返しているし」
付け添えられた言葉がどこか拗ねているようにも聞こえて、ルチシャは思わず苦笑してしまった。
三分の一とはいえ返していることを褒めたらいいのか、やはり強奪に近い行為は控えるようにと指摘するべきかは難しいところだ。
「……私とヘイゼルが出会ったことで一番被害を受けているのはローアンですね」
「けれど、僕らが出会ったおかげで彼女やこの国は守られたのだから、結果としては感謝されるべきじゃないかな?」
新しくお気に入りの人間も見つかったようだし…という言葉に、それは自分の事だろうかと首を傾げたルチシャは、ヘイゼルが僅かに渋い顔をしているのに気づいて、更に深く首を捻った。
ローアンとは仲良しだけれど、それはあくまでルチシャがヘイゼルの恋人であり婚約者であるからだと思っている。
ローアンもヘイゼルありきでルチシャと相対していると思っていたが、違うのだろうか。
ややあってヘイゼルは小さくため息をつくと、王家もいい加減弁えているとは思うけどね…とひとり言のように呟いた。
「どのような理由付けであれ、もしもこの国の王女から招聘されるようなことがあったら僕に言うといい」
「王女殿下…ですか?ご年齢も離れておりますし、遠目に拝見したことはありますが、直接お会いしたことはないかと…」
金髪に赤毛の混ざったストロベリーブロンドの髪にライトブラウンの瞳。王家特有の色彩を持ったお人形のように可愛らしい子どもの姿は思い描けるものの、彼女はまだ十歳くらいだった気がする。
野心溢れる家であれば、末子のローゼルを王女殿下の婚約者に推挙しただろうが、リリオデス家の気質的にもそれはない。
となれば当然ながら、公の場に短時間だけ姿を現したところを見かけたくらいで、接点も何もない王女殿下から直々に招聘される理由など全く思いつかない。
第一王子のように思い込みと独断によりこちらに接触してくる場合もあるが、さすがに昨日の今日で同じ轍は踏まないだろう。
途中ショートカットしながらもいつもの散歩道を歩き終えて屋敷へ戻り、執事のリーグッツに外套を預けていつもの客間へ移動する。
ヘイゼルから「お茶を飲みながら話そうか」と言われたため、お茶の支度を済ませてくれた侍女を下げ、ほかほかと湯気の立つカップに口を付けた。
柔らかな膝掛けが足元を、あたたかいお茶が身体の内側を、じんわりと温めてくれる。
温もりに、ほぅ…と安堵の息を吐くルチシャを見て目を細めたヘイゼルは、栗粉のサブレは初めて食べたらしく、面白いねと感心している。
ちょうど軽食の時間に該当するルチシャの前には、燻製ハムの挟まれた小さなサンドイッチも置かれていた。
最初の頃は、種族の違いがあるのだとしてもルチシャだけ色々と口にするのは憚れたのだが、今ではこうして紅茶とサブレ一枚を嗜むヘイゼルの向かいでぱくりとサンドイッチも頬張れるようになった。
遠慮がなくなったというよりも、互いの適切な距離を知り、そのように振る舞っても良いのだという安心感を得たからこそだろう。
ひとつめのサンドイッチの咀嚼を終えるタイミングで、ヘイゼルは先ほどの話の続きを切り出した。どうやら一連の事件解決の場に、王女殿下も同席していたらしい。
「その王女は身を呈してローアンを庇ったんだけど、あの子はそういう振る舞いを好むからね…礼として茶席を共にしてやることにしたようだ。
ローアンと王女との事だから勝手にやればいい話だけれど、ここの人間たちは竜に慣れていないから、きみに助言を乞うたり同席を求めたりして来たら面倒だろう?」
なるほど、だから先ほどの言葉なのかと半分頷いた状態のまま、ルチシャは物凄い速さで頭を働かせた。
今の王には息子が三人と娘が一人。
第一王子は既に失脚しているとして、第二王子と末子にあたる第三王子は年が離れていてあまり競合ではない。そして女性の立場の弱いこの国では、王子らを差し置いて王女殿下が王位を継ぐ可能性は殆どない。
第二王子の立太子が決まり次第、王女は他国との関係強化のために外へ嫁がれるだろうというのがこれまでの見立てだったけれど、緋色の巫女竜との繋がりを得たとなれば王家は彼女を絶対に国外へ出さない筈だ。
「………ルチシャ?何か問題でも?」
「王女殿下が、ローアンと茶席を共になさるのですね?」
「……あくまで王宮内で、王女主催の茶会に応じるという形式だけれどね」
どのような形式だとしても、緋色の巫女竜とお茶を共にすることは四代前の王妃以来の快挙…国内に於ける王女殿下の価値は一気に跳ね上がったということに違いない。
だとしたら……
「………ヘイゼル、もしも王宮や王女殿下からリリオデス家に要求があった場合、条件次第では応じても構いませんか?私の代わりにリリアンナを情報提供者…あるいは同席者として派遣したいのです。もちろんヘイゼルやローアン、リリアンナの同意があってこその話になりますが…」
脈絡もなく義妹の名を出したルチシャに、ヘイゼルは訝しむような顔を向けた。
「……彼女は僕と挨拶を交わしたことはあるけれど、竜との接点はそのくらいの筈だ。王女の相談役としては役不足だね……僕に同意を求めるのであれば、もう少し人間側の見解を教えてくれるかな?」
「説明不足ですみません。まだ特定のお相手の居ない王女殿下が緋色の巫女竜と関係を深めた場合、リリアンナとグロンペール侯爵家ご子息との婚約話が立ち消えてしまうかもしれないのです」
「ああ……なるほどね。確かに、直接竜と関わりのある王女の方が相手の男にとって有益であるし、侯爵家としても王族との繋がりが得られるから、そちらを後押しするわけか」
「……ご年齢が十歳近く離れていますし、恐らく、侯爵家ご子息のヴィクトル様が個人的に王女殿下を選ぶことはなさそうですが、家の都合上そちらが優先されるでしょう」
十歳の王女殿下の相手候補として十九歳のヴィクトル様の名が挙がるというのも釣り合いを考えればどうかと思うが、それが政治というものだ。
娘の居ない侯爵家は今代の王家と繋がりを得ることは殆ど諦めていただろう。だが、ヴィクトル様はもともと竜好きで有名であるし、竜との繋がりを得た王女殿下の相手役として推すまたとない口実になる。侯爵家はこの機を逃しはしないだろう。
「リリアンナはまだ社交界にデビューしていませんし、ヴィクトル様は子爵位の継承を正式に発表しておられない。諸々の調整は一瞬で済んでしまうでしょう」
現グロンペール侯爵は子爵位の他に伯爵位も保有している。次男は既に異国へ婿入りしているため、グロンペール家の長子が侯爵位と伯爵位を継ぐと見立てられていたが、もし王女殿下との婚約を目論むのであればヴィクトルは子爵位でなく伯爵位を譲り受けることになるだろう。
リリアンナの結婚話はあくまでヴィクトルが『子爵位を継いで領地経営をする』という前提のもとであった。
リリオデス伯爵家は古い家柄ではあるものの、リリアンナはあくまで養子であり、前モルフェス男爵家の娘として洗礼式を受けている。子爵夫人であれば問題ないが、伯爵家の当主夫人として収まるには出自の家格が低いのだ。
王女殿下と緋色の巫女竜との茶会に協力したという実績や、何らかの政治的利用価値を付けなければ、リリアンナの婚約話はあっさり白紙になるに違いない。
付加価値次第では、より面倒な輩に目を付けられかねないものの、ヴィクトルとの関係も良好で内々に婚約話が纏まり始めている今であれば、グロンペール侯爵家がリリアンナをしっかりと抱え込んでくれる可能性も高い。
「もちろん、王女殿下側からこちらに何らかの接触があればという前提ですし、ローアンが第三者の介入を好まないようでしたらやめますけれど…」
「ローアンのことは気にしなくていいだろう。恋の話と面白い愚痴が聞けたら相手が誰だろうと別段構わないだろうし」
またそんな言い方をして…と非難をこめた視線を送れば、事実だろう?と言いたげに肩を竦められてしまった。
まあ確かにそのような傾向はあるし、ルチシャの見立てではリリアンナとローアンの相性は悪くないと思っている。
諸々の前提条件はあるものの、ルチシャの計略について、ヘイゼルは「構わないよ」と同意してくれた。
以前であれば、鷹揚に頷く姿に懐の広さを感じ、なんて寛容なのかしらと感動していたであろう場面だが、相互理解が進んだ今では寛容というよりも若干どうでも良さそうだな…と見抜けるようになった。
ヘイゼルと出会ってまだ半年ちょっとしか経っていないけれど、この半年間は二人にとって随分と濃密な時間だったようだ。
(困ったことに、ちょっと雑なところにも可愛げを感じてしまうわ……)
ローアンからは蓼食う虫も好き好きね…なんて言われることもあるが、ルチシャは知れば知るほどヘイゼルのことが好きになるし、『格好いい』から『ちょっと可愛い』(そして時々恐ろしい)までを網羅できる恋人なんて素敵だと思うばかりだ。
鼻筋の通った端正な顔立ちはどの角度から見てもうっとりするほどに魅力的だし、見つめ合う瞳の美しさは言うまでもなく、深みのある声に名前を呼ばれるだけで胸が弾む。
寄り添ったときの低めの体温と、森を連想させる木の香り。
敵を容赦なく捻り潰す手で、ルチシャをそっと抱き寄せてくれる優しさ。
呪いが大好きすぎるところは横に置いておくとして、
雑に寝転がって竜のマタタビを食べる姿も可愛いばかりだったと伝えたところ、ローアンからは白けた視線を貰ってしまったが、素直な感想なのだから致し方ない。
おもむろに席を立ったヘイゼルは、向かいの席からルチシャの隣へと移動した。
どうしたのだろう?と見上げれば、そっと目元に触れられる。
「僕やルチシャに煩わしい事が降りかからないのなら、人間社会の複雑なやり取りに口出しをするつもりはないけど………きみは計略を練るときに、随分と蠱惑的な色を宿すんだね」
目尻を指先で撫でられ、瞳を覗き込まれる。
ハシバミ色の目に宿る感情は好奇心だろうか。
そういえばヘイゼルは元来知ることを好む気質だったわ…と思い出し、ルチシャは向かい合った瞳のなかに映る自分を客観的に見つめた。
大した特徴もない、普通の小娘だ。
けれどもヘイゼルは心底愉快そうに目を細めている。
「深謀術数で、…エグルよりもシュエト寄りの気質かな。常に目を光らせているようには見えないのに、判断は素早く迷いがない。その可愛さに油断していると、気付かぬうちに諸々狩り取られていそうだ」
「……あの父から貴族社会を生き抜けるようにと後継者教育を施されましたし、女性領主は表立って動けないぶん裏で手を回し適宜調整するようにと散々言われてきましたので、清廉かつ善良な気質ではないでしょうね。……でも、悪巧みをする顔は見られないよう気をつけていたのに…とうとう知られてしまいました」
「実を言うと、これまでもたまにね……僕の唇を奪うときはそのような目をしていたよ」
「まあ……意地悪なんですから。今度からは目を瞑って迫りますので、ヘイゼルのほうでうまく位置を調整してください」
口付けを迫る顔が悪巧みをする時のようだと評価されて頬を膨らませば、ヘイゼルは「そんなきみも魅力的だよ」とフォローしてくれたが、やっぱり納得はいかない。
唇をムッと噤んだまま、目を閉じて顎を軽く持ち上げれば、ふ…と微笑むような気配が顔のそばへと落ちてくる。
だが、ヘイゼルの唇はルチシャの唇を捉えず、おでこに柔らかく触れて離れていった。
目を開けると「位置は合っていたかな?」と意地悪く微笑まれたため、ルチシャはヘイゼルの胸元をぺしりと叩いて抗議を入れる。
「やり直しを要求します」
「何度でも構わないよ」
体がひょいと抱え上げられ、ヘイゼルの膝の上で横抱きにされたかと思えば、額、頬、唇と順に口付けが落とされる。くすぐったさに身を竦めると、可愛いねと愛玩動物を愛でるかのように甘く見つめられた。
「……ご機嫌ですね?」
「煩わしい問題が解決したからね。やっときみだけを見ていられる」
「思えば、結婚までもう半年もないのですね……」
「蜜月のための蜂蜜酒も早急に用意しなければね」
去年採れた蜜を使って仕込んでいるものもあるが、やはりヘイゼルが森に戻ってからの蜂蜜を使うほうが出来が良いという。
ルリヂシャの単花蜜が採れるよう区画を整え直したりと、蜂蜜酒作りにかける熱量はルチシャが思うよりも余程大きい。
蜂蜜酒はハネムーン期間に於ける栄養剤兼興奮剤として服用する為に作られる。
実際に催淫効果のあるハーブから蜜を作らせたり、そのようなハーブを混ぜたりして特別仕様なお酒に仕立てることも出来るそうだが、今回は薬草に耐性の少ないルチシャの身体を考慮して、催淫効果なしの純粋な蜂蜜酒をたくさん用意するそうだ。
どれだけ篭っても大丈夫なように沢山作らなければね…と囁かれ、意図せず頬が熱を持つ。
ルチシャは森でのひとときを思い出し、甘えるように胸元へ頬を寄せた。
「そろそろルリヂシャの青い花が咲くから、また森に見においで」
「荷物も少しずつ運び入れて構いませんか?そろそろ冬物も仕舞い始める時期ですから」
「いいよ。以前泊まった部屋で良いならあのままルチシャの部屋にするし、別の部屋がいいならそちらを整え直そう」
「我が儘を言っても良いのなら、ヘイゼルの部屋にも遊びに行けるのであの部屋がいいです」
「窓はいつでも開いているから出入りは自由だし、僕の部屋も自室のように使って構わないよ。戸棚はまだ気をつけてもらう必要があるけれど…」
「一緒に片付けますか?」
「いや……危ないものもあるからホーステールに頼もう。参加できない宴の日は、無心で掃除をして居たほうが気が紛れるだろうからね」
そういえば蜜月が明けるまでは魔女集会への参加は禁じられているのだったと思い出す。
ホーステールの為にも蜜月は短めにしてあげた方がいいのだろうけれど、ヘイゼルはそれを良しとしないだろう。
余計なことは言わぬが吉、と口を噤めば、ヘイゼルは形の良い眉を寄せて思案げにルチシャを見つめた。
「………ヘイゼル?何か困り事ですか?」
「困り事ではないけれど………問題も殆ど解決したことだし、伯爵もあのように言っていたから、結婚を早めても良いのではないかと思ってね…」
『あのように』がどれを指しているのか考えて、ヘイゼルと父が最後に会話を持ったのは森へ行く前だったなと思い出す。おそらく、伯爵家の安全の為にルチシャを森へ住まわせるよう提案した父の言葉を指しているのだろう。
国内にもうルチシャの居場所は無いと言っていたのは、ルチシャがこちら側へ留まっていても以前のように他家のご令嬢方と安易に交流させる事もできないし、ヘイゼルや護衛を伴わずに自由に出歩くことも出来ないという意味だ。
婚姻前の身支度として義母から王都で有名な美容施設を紹介してもらったものの、リリオデス伯爵家よりも上位の貴族がその店に出入りしていることを理由に通うことを禁止されたため、結局行く事は叶わなかった。
森でのお茶会でそれを愚痴として溢したところ、ローアンから美肌系の薬草茶を貰い、ヘイゼルからホーステールの作った洗髪剤やボディクリームなどが沢山届けられた。
お陰でルチシャの身体は内側も外側もどこにも死角のない状態で日に日に磨かれていく。
義母からもリリアンナからも(ついでに侍女たちからも)どこの商品を使っているのかと聞かれたが、竜たちからの貰い物だと答えると、羨ましいが自分たちの手には余ると肩を落とされてしまった。
(でもやっぱり、ヘイゼルの森でお風呂に入ると一層ぴかぴかの艶々になる気がするのよね……水の影響かしら…)
完全に逸れてしまった思考をよいしょと戻し、結婚の時期について改めて考える。
結婚を早めると言うが、予定通りの日取りで進めても半年以内には嫁入りするのだ。
支度が整っていないものもあるし、あれこれしているうちにすぐ約束の日は訪れるだろう。
「………まだ蜂蜜酒の用意が出来ていませんよ?」
「ああ…………確かに……」
「儀式の為に必要なものは揃っているのですか?」
「殆どね。婚礼衣装の御披露目は当日のお楽しみでいいかな?」
「補正が必要かもしれませんし、髪型とかも考えたいので事前に一度着れたら嬉しいのですけれど……」
ルチシャからの申し出に、それは考えていなかったと目を瞬いたヘイゼルは「では、着られるよう整えておくよ」と頷いた。
「髪型に人間特有の作法やこだわりがないのなら、僕とお揃いにしようか。ホーステールは髪を編めるんじゃないかな…よく草木を編んでいるからね」
「お揃いは素敵ですが、ホーステールさんが髪結い出来るかは今度ご本人にお尋ねしてみましょう。
やはり一度、婚姻前のスケジュールをしっかり確認しておいた方が良さそうですね。
儀式当日に森へ向かうわけにはいきませんし、儀式の前準備などもあるのなら数日前から泊まっておいたほうが良いのですよね?」
問いかけに対して、どこか無防備とも思える表情で首を傾げられたため、ルチシャも思わず同じように首を傾げてしまう。
「……ヘイゼル?」
「……遅くとも、ベルティネの頃には越して来るのだと思っていたけれど…」
ベルティネとはいつだろうと眉を寄せたルチシャに、ヘイゼルは第二の節目の日だよと教えてくれる。四月の終わりから五月の始まりの日で、一年を明暗で分けたときの『明』の始まりに該当する区切りの日だという。
つまり、ヘイゼルのなかでは五月の初めには森へ越してくる予定だったということで。
引っ越しは早くても八月に入ってからだろうと思っていたルチシャは唖然とするばかり。
「…………少し、話し合いが必要なようです」
ともすればこのままルチシャを森へ連れ帰りそうな竜王の様子にどこか既視感を覚えつつ、ルチシャは話し合いという名の説得に挑むこととなった。