11. 緋竜祭
▽視点の切り替えあり
ルチシャ→ローアン→ルチシャ
ヘイゼルの森から戻って五日ほど経った頃。
今日は国が主導する祭事のため、領都にあるリリオデス伯爵邸も祭りの支度に余念がなかった。
父である伯爵は社交と議会のため王都に留まったままだが、祭りを取り仕切る者としてリリム夫人が屋敷に戻って来ている。
毎年恒例の祭事であるため使用人たちが手慣れた様子で支度を整えていく一方で、今年は特別なゲストをお招きするからとルチシャはガーデンテラスに歓待用の飾り付けを追加で手配していた。
冬の庭先は鼻頭が凍りそうなほどに寒い。
これからテラスでお茶会をするのだと言えば大抵の人が耳を疑い正気を疑うだろう。
だが、招待客が人間ではないと知っている使用人たちは寒い中せっせと支度を進めていく。
風避けとなる衝立を設置した頃、庭先に羽ばたきのような風を切る音がした。
振り返れば、上等な三揃えのスーツにコートを羽織った男性が立っている。
「へぇ……派手なものだね」
唐突に庭先へ現れた竜王にテラスのお茶席を整えていた使用人たちは深々とお辞儀をし、割り当てられていた仕事を済ませると粛々と身を下げた。
ルチシャはカテーシーで挨拶を述べる。
「ようこそおいでくださいました」
「うん。招待ありがとう」
柔らかな瞳でルチシャを見つめるヘイゼルの後ろから、グラデーション掛かった美しい髪を靡かせて登場したのはローアンだ。
緋色で誂えられたワンショルダーの細身のドレスはスレンダーな体によく似合っており、立ち並ぶことでローアンのほうがヘイゼルよりも僅かに背が高いことがわかる。
ふわりと羽織った白い毛皮のコートは柔らかく揺れ、まるで雪のなかに咲く大輪の花のよう。
「お招きありがとう、ルチシャ」
口角の上がった紅色の唇と細められた真鍮色の瞳に、ルチシャは微笑み、礼を返す。
今日は国の制定した祝祭日で、緋竜祭に該当する。
この国独自のお祭りのためヘイゼルを招待したのだが、その際にローアンにも声を掛けて欲しいと頼んだのは、先日の森でのお茶会でローアンが国のお祭りに参加したことがないと言っていたからだ。
以前友人だった四代前の王妃殿下は、やはり王妃という立場だからこそ、祭事の場に気安くローアンを呼ぶことは出来なかったそうだ。
仲介を頼まれたヘイゼルは、今はパートナーが帰って来ている時期だからどうかな…と難しい顔をしていたが、話を持ちかけたところ「庭先でのお茶会であれば」と無事に来てもらえる運びとなった。
今日に合わせて緋色のカバーに張り替えられた椅子を勧める。
緋竜祭を祝うべく伯爵邸は様々なところに緋色の飾り付けがされており、茶席のテーブルランナーも、椅子の背もたれに置かれたクッションカバーも、織柄で意匠を工夫しつつもメインカラーは温もりのある緋色だ。
そんな光景を、ローアンは興味深そうに見回している。
「たまにお忍びで見て回ることはあるけど、正式な招待を受けるのは初めてだわ」
「歴代の国王からも一度も招待されなかったのかい?」
「守護に対する感謝のしるしにお祭りを執り行いますって申告があって、供物は毎年捧げられたけど、見に来てくださいとは言われなかったわね」
言わなかったというよりも、言えなかったのだろう。
友人であった四代前の王妃殿下ですら正式な招待をしていないのだから、いくら国王であっても顔すら合わせたことのない人間が高位の竜を気軽に招けるはずもない。
不敬だと不況を買えば、国の守護を失うどころか国土蹂躙の危険性もあるのだから。
ローアンの髪は毛先に向けてグラデーション掛かっているし、瞳は金に近い真鍮色だ。
それを知っているルチシャは、庭の彩りに緋色だけでなく梔子色や赤も取り入れ、金糸の刺繍も随所に施した。
おかげで豪華絢爛な仕様だが、お客である竜なふたりはその中に居ても存在を埋没させないどころか、美しさと高貴さを一層際立たせている。
久しぶりに跪いて平伏したくなる心地を味わいながら、ルチシャはローアンがお土産として持ってきてくれた香草茶を丁寧に入れ始める。侍女にはお茶菓子の支度を頼んだ。
「旧暦でいえばインボルグだが…ここでは何をする祭りなのか見当がつかないな」
「緋色のものを身に纏って、わたくしに感謝する日よ」
「感謝?きみは何もしてないだろう。今は守護も与えていないし」
「昔のことを延々と有り難がってるのよ。律儀よねぇ」
「ふぅん……特にきみに感謝すべきことはないし、僕は緋色を纏うつもりはないよ」と祭りのコンセプト自体を否定したヘイゼルに、ローアンは「お従兄さまにあまり似合う色ではないものね」とあっさり頷いている。
こういう気遣いのないやりとりこそが、二人の親しさの証なのだろう。
知らなければ勘違いしそうだが、ヘイゼルは別に緋色を好まないわけではなく、自身に合う色彩ではないと認識しているに過ぎない。
その証拠に、さすがに全身緋色のコーディネートを纏う勇気のないルチシャが緋色のサッシュベルトを巻いたシンプルなドレスを着ているのを見て、すかさず可愛いねと褒めてくれる。
頭につけた髪飾りは緋色と黄味の強いオレンジ、赤みがかった茶色の三色で作った花を重ねたもので、こちらはローアンから混色のマリーゴールドみたいで可愛いわと褒めてもらえた。
ルチシャが今、森での生活に向けてお茶の淹れ方や料理を学び始めたと知っているローアンは、屋外だしもう少し熱めのお湯を用意して蒸らす時間を短めに調整してもいいかもしれないわね…とアドバイスをくれながら、素人の淹れたお茶も嫌がらずに飲んでくれる。
ヘイゼルは当然嫌がる素振りはないものの、些か不思議そうだ。
「美味しいお茶が飲みたいならホーステールに頼めば良いのに」
「わざわざ頼むほどじゃないけど、少しこだわって飲みたい時ってあるものよ。というか今日、魔女はサバトの日でしょう?森を空けてしまっていいの?」
「例の魔女のことがあるから宴は欠席だ。そう命じたら膝から崩れ落ちて泣いていたよ」
「あの子、お酒飲むの好きですものね」
「いつだったか、宴では喉が焼けそうなくらいの酒を煽るのが流儀だって言ってたね。僕には理解できないな」
「日頃粛々と生きてるから、サバトで鬱憤を晴らすんでしょう」
ローアンがジト目でヘイゼルを見ているのは、暗に「お従兄さまのせいで気苦労も絶えないでしょうし」と非難しているのだろうが、ルチシャの見たかぎりホーステールは、ローアンほどヘイゼルに振り回されている感じはなかった。
ヘイゼルなりに分けて接しているのか、ホーステールの気質が大らかで大雑把気味なのかは、これから徐々にわかっていくことだろう。
「魔女はよく宴を開くんですね」
「年に四回ある節目の日に集まって騒ぐのが慣習みたいね。ヴァルプルギスの夜ってお祭りは聞いたことあるかしら?」
「あります。異国の山に魔女が集う夜だって……」
「この時期の夜中の山頂なんて凍えるほどに寒いから、流石に集まるのは難しいでしょうけど…いつかのどこかのお馬鹿な魔女たちが、山の中腹あたりで人間に気取られるくらいの馬鹿騒ぎをしたんでしょうね」
本来魔女集会は秘密裏に行われるものだ。けれども集まった者の気質や供された飲食物の中身によって限度を超えた騒ぎになってしまい、山の付近に住む者たちに気取られ噂され、それが大きく広まった…というのがローアンによる見立てだった。
乱痴気騒ぎになる飲食物とは…と思わないでもなかったが、天にも昇れる幻覚剤入りのお酒が振る舞われることがある以上、食用ではない危険な薬草を使った料理があったとしても不思議ではない。
ヘイゼルが「その年の宴は、ホーステールは例の酒を追いかけて別の集会所に行っていた筈だよ」と言い添えたことで、ルチシャは文献にあるように世界中の魔女が一同に会すのではなく、集会所がいくつかあるのだという知見を得た。
侍女がワゴンで運んできたお菓子をテーブルに並べてくれる。
中央にルチシャの手のひらほどのサイズのホールケーキが置かれ、隣の長細いお皿には指先で摘めるフィンガースイーツが彩りよく並べられている。
ホールケーキは表面が赤くグラサージュされて艶やかに光り輝いており、バランスよく乗せられている赤いベリーとチョコレートの飾りが一層華やかさを演出している。
「あら、可愛いケーキね。……赤いケーキはいつも見るけど、こんな感じだったかしら」
「今年は特別仕様です。普段お祭りで出されるのがこちらのレッドベルベットケーキで、今回は小さめのカップケーキ仕様にしてみました」
フィンガースイーツとして用意したレッドベルベットケーキは、ビネガーが使われているため少し酸味があるのが特徴のお菓子だ。
緋竜祭といえばレッドベルベットケーキというのが国内の定番になっており、庶民は古くから伝わる伝統的なレシピを使ってパンケーキとして焼いて食べるらしい。
リリオデス家では基本のレシピを元に、薄手に焼いた生地を層のように重ねてあいだにクリームや果物を挟んでみたり、スフレのように厚手に焼いてじゅわっと溶けるような食感を楽しんだりと、毎年料理人たちが工夫して創作したものが出される。
今年はルチシャの依頼で特別仕様の赤いホールケーキを作って貰ったのだが、お祭り初参加な竜たちにせっかくならレッドベルベットケーキも楽しんでもらいたいという心遣いから、小さなカップケーキ仕様での登場となった。
まずは薄手に切り分けられた赤いケーキを優雅に口に運んで、ローアンは小さく驚き、ヘイゼルは目元を柔らげた。
「これは赤いチョコレートケーキなのね。あら。隠し味にヘーゼルナッツが入っているわ……お従兄さまったら愛されているわねぇ」
「美味しいよ。ありがとう、ルチシャ」
「お気に召していただけたならよかったです」
即座に隠し味を言い当てられてルチシャは気恥ずかしさを誤魔化すように微笑んだ。
ヘイゼルの気質からも、ローアンのことを祀る緋竜祭に参加するのはルチシャが伯爵邸に住んでいる今年が最初で最後だろう。ならば思い出になるようなお菓子をと思い、へーゼルナッツを隠し味に使った赤いチョコレートケーキを用意してもらったのだ。
ローアンは「こんなにも赤く色付けられたチョコレートガナッシュは初めて見るわね…」と、味わいつつも物珍しそうに観察して食べてくれている。
どうやらローアンの森には魔女は住んでいないそうで、奥さんも飲食を殆ど必要としない精霊であるため、こうやって茶菓子を楽しむのは誰かのお茶席に招かれた時くらいなのだという。
ヘイゼルが改めてローアンを森へ招くことはないが、近くを飛んだついでに立ち寄ると必ずホーステールがもてなしてくれるという話を聞き、やはりホーステールはヘイゼルの森に無くてはならない存在なのだと深く頷いておいた。
「ルチシャ、カップケーキを半分こして頂戴」
「はい。切ったあとに少しだけ飾りを付けてお渡ししますね」
「では僕も同じように。ローアンとの半分こは遠慮しようかな」
「それだと、私がたくさん食べることになりますが許してくれますか?」
「お腹いっぱい食べるといい」
「痩身と肌を整える効果のあるお茶をブレンドして持って来たからこれもあげるわ。食べ過ぎにも効くわよ〜」
「ありがとうございます。さっそく頂きますね」
カップケーキを二つ取って、それぞれを半分こにして飾り付けをするよう料理人に頼み、ルチシャは新しい香草茶の支度にかかる。
華やかな赤みの強いお茶は、今日のお祭りの席にぴったりだと思う。香りに酸っぱさがあるけれど、レッドベルベットケーキなカップケーキの酸味と大きく喧嘩はしないだろう。
ローアンとヘイゼル、それぞれと半分こをしたためルチシャの元には一個分のカップケーキが置かれたが、元々のサイズが小さい為さしてお腹への負担にはならない。
濃厚なチョコレートケーキとは違う素朴な味わいに、二人は面白いねと頷いていた。
「ローアン、お招きしたのは私ですが、今日奥さまは宜しかったのですか?」
「いいのよ、あの子はあの子で忙しいから。というか今日は本来、私じゃなくてあの子が本領発揮する日だもの」
「春の芽吹きと収穫に願いをかける日。あるいは山羊の乳搾りをする日。昔は天気で冬の長短を占っていたね」
「そうそう。晴れたら冬が長引いて、曇りだと春の訪れが早いというやつね。今日はしっかり曇っているから、冬の終わりもすぐそこなのでしょう」
「ルチシャ、冬が長いほうが好きなら雲を払ってあげようか?」
「お従兄さま…力業で占いの結果を改変しないで頂戴」
「ヘイゼルとお散歩に行くのが楽しみなので、春の訪れは早いほうが嬉しいです」
「じゃあ曇らせておこう」
もうちょっとで冬が長引いたかもしれない危険も回避し、ルチシャは侍女から受け取った籠から贈り物を取り出した。
品物がわかりやすいよう大袈裟な包装をせず、くるくると巻いて白いリボンを結んだだけだが、緋色に金糸のステッチの入った織物はそれだけで華やかだ。
「ローアン、よろしければ奥さまとのティータイムにでも」
「あら可愛い。お揃いのプレースマットね。明日にでもさっそく使わせてもらうわ」
「その、ヘイゼル……緋色は纏わないと仰っていましたが……気に入らなければ雑巾にでもしてください」
おそるおそる取り出して手渡したのは緋色で縁をぐるりと刺繍したハンカチで。
受け取ったヘイゼルは、ありがとうと微笑みながらも心外だなとばかりに片眉を上げた。
「僕が恋人からの贈り物を雑巾にするような薄情者に見えるかい?」
「呪いの素材にしそうな、人でなしには見えるわね」
「ルチシャ、ナナカマドを燃やすと恋占いが出来るんだよ」
「わたくしの木を占いごときで燃やそうとしないで頂戴」
「竜王の恋を占うのなら立派なものを使う必要があると思わないかい?」
「およしになって…お従兄さまが言うと洒落にならないわ。それに、どうせ気に入らない結果だったら力業で改竄するんでしょう?占いをする意味がないじゃない」
ヘイゼルは受け取ったハンカチを手早く綺麗に形作り、胸ポケットに差し込んだ。
落ち着いた鳶色のジャケットにパッと華やかな緋色の刺繍が映えて、ルチシャは自画自賛ながら「素敵です」と笑顔で褒めた。
ヘイゼルが大気の調整をしてくれているおかげで身を切るような寒さはないが、温かなお茶を飲み終えデザートも味わい終わったとなれば、ガーデンテラスでの憩いの時間は一旦終了とすべきだろう。
室内へ誘おうとするルチシャに、ローアンは微笑んで「せっかくだからこれから街や王都の方も飛んで見てみようと思っているのよ」と告げた。
緋竜祭というローアンを祀るお祭りであるにも関わらず当の本人が仲間外れになっていたこれまでとは違い、今回ルチシャたちと時間を共有したことで、お祭り特有のお菓子やお土産、人々の装いや飾り付けを楽しもうという気持ちになってくれたようだ。
「これまではあまり興味を持たなかったけれど、なかなかいいお祭りじゃない。さっきも裏手の森あたりに緋色のドレスにボンネットを被っている少女が居て微笑ましかったわ。あれがルチシャの義妹かしら?」
裏手の森に視線を投げながら発せられたローアンの言葉に、ヘイゼルが表情を険しくし、ある懸念に思い至ったルチシャは顔色を悪くしながら無言で首を横に振る。
ルチシャたちの異変に気づいたローアンは堪らず眉を顰めた。
「なに?わたくし、何かおかしな事を言った…?」
「今日義妹は、王都へ行っているんです。それに裏手の森は伯爵家の管理地ですので、家の者以外は殆ど出入りしませんので…」
「僕はその姿を見ていない。……ルチシャ、ローアンと中へ入っているように」
「はい」
「待ってお従兄さま、その少女を探すのならわたくしも一緒に行くわ。もしもお従兄さまには見えないのだとしたら、ひとりでは危ないもの。……例の魔女やその関係者なら尚のこと、今は屋敷の中までは手出しできない筈よ。そうでしょう?」
ローアン曰く、ヘイゼルが屋敷の守りを強めていることで、一般的な感覚を持つ精霊であれば屋敷に長く滞在することは勿論、近づき立ち入ることも不快になる程だという。
庭先ですらヘイゼルの気配に慣れていない精霊には耐え難い圧だと聞き、なるほどローアンが今日お茶をするなら庭に面したテラスがいいと望んだのは、寒さに強いからではなく、そういう事情があったからなのね…と今更ながらに知る。
特にルチシャの部屋には他の精霊が爪先で触れる事も許されないくらいの強固な守りが張られていると聞いて、余計に驚いた。
普通にエグルやシュエトはバルコニーに降り立って手紙を届けていてくれたし、ルチシャ本人にも使用人たちにも何も変化は感じられなかったからだ。
「ルチシャに成り代わろうと目論む者が居る以上、当然の措置だろう」と冷たい声で言ったヘイゼルは、ガーデンテラスから客室へ至る大窓を開けてルチシャを屋内へ入れると、額に口付けを落とした。
「何があっても庭へ出ないように。外に居る使用人は僕らが回収するから勝手に屋敷へ招き入れてはいけないよ」
「はい…!」
「屋敷内に居る使用人たちへの指示を出し終えたら、事が済むまで自室に篭っているように」と告げるなり竜の姿に変じて飛んで行ってしまったヘイゼルとローアンを思い、ルチシャはぎゅっと拳を握った。
今は悲観している場合ではないし、二人を案じる前にやるべき事を済ませなければ。
義母は弟たちを連れて領内の祭りの視察に出ている。となれば今、屋敷の舵取りをするのは他でもないルチシャだ。
大窓の錠を閉めて客間を出ると、通りざまにすれ違う使用人たちに竜王らが戻るまで何があっても決して家から出てはいけないと言付けながら、家令と執事、家政婦長に情報を共有すべくルチシャは大急ぎで屋敷内を駆けた。
▽
「居たわ!湖のほとり!」
上空からは森の殆どを見渡すことができる。
緋色のドレスにボンネットを被った少女が湖のほとりに立っているのに気づいて隣を飛ぶお従兄さまに声を掛けたが反応はない。
「お従兄さま、見えていて!?」
「いや…………姿隠しか」
淡褐色と緑の混ざる冷たい瞳を細めて呟いた竜王の声は、硬く低い。
ローアンは、これが本来のお従兄さまよね…と改めて気持ちを引き締めた。
そもそもこの半年程のヘイゼルは明らかに恋人仕様で、一見して泰然とした態度に変わりはないように見えたものの、初めての恋に浮かれた状態であったことは間違いない。
ルチシャに向けられる柔らかな表情を眺めながら、ローアンは「あらまぁお従兄さまも恋に浮かれるのね…」と何度思ったことか。
それをいちいち指摘することも非難することも揶揄することもないのは、竜とは生来そのようなものだからだ。
ローアンだって伴侶の精霊と仲を深めた頃は、知人たちから正気を疑われ、ヘイゼルからは煩いと雑に追い払われた。
結婚してから数十年間は(今もそうだが)、世界にはもう妻以外いらないと思えるくらいにその存在に没頭していたのだ。
ハシバミ色の瞳で湖のほとりを睥睨したヘイゼルは、古い時代の魔女たちが姿隠しとして使っていた薬草の名を呟いた。それはもう随分と昔に廃れた手法で、厄介な草木の精霊から一時的に身を隠す為に森の住人が用いていたものだ。
「ファーンを使っているの!?なんて古くさい手を……!」
「きみに見えているなら問題ない。位置を指示してくれ。燃やしてしまおう」
「延焼しない!?」
「幸いにも水はある」
確かに湖にはたっぷりの水が収まっているが、水の系統の精霊でもないのにあの質量を動かすことは果たして可能なのだろうか。
(お従兄さまならやりかねないけど…!)
灰がかった琥珀色の鱗を持つ竜王は、他の竜に比べれば随分と小さく体長は三メートル程度しかない。
ローアンとヘイゼルが並び飛べば、多くの人間が華々しい色彩の鱗をもつローアンこそを竜の王者と認識するだろう。
けれどもやはり『竜王』を冠するのはこの琥珀色の竜なのだ。
とんでもない量の知識と叡智を身に宿し、自然に流れる力を読み解いては生来の属性を超えた能力さえも奮う、規格外の、地上の竜を統べる王。
ローアンは巻き込まれないよう半身下がり、やや距離を開けた。
元々曇り空ではあったが、明らかに厚い雲がヘイゼルの翼の一端に集まってきている。
その雲はぎゅっと密度が高いのを証明するように、光を透過せず暗澹たる色を帯びている。
「ローアン……その魔女の顔は見えるか」
「茶髪に黒目でそれなりに整った顔をしているわ」
ローアンの回答に小さく頷いたヘイゼルは、躊躇いもなく暗雲から雷を弾けさせた。
空気の破裂する鋭い音と共に、細い稲妻が天罰のように緋色のボンネットを被った少女を刺し貫く。
悲鳴を上げる暇すらなく高温で焼かれ倒れ伏したその身に、容赦なく水が降り注いだ。
その水の出所に気付いたローアンはギョッと目を瞠った。
「雨!?湖の水を使うんじゃないの!?」
「あの水がなくなるとルチシャが困るだろう」
「だからって雨呼びをするなんて……ッ」
「ちょうど雨雲があったから使っただけだ」
「うぅ……ホント、敵に回したくないわぁ……!」
樹木は雷との相性の良し悪しが大きく、雷を避ける者や雷を呼ぶ者など、その身に宿す力として扱える者も居る。
けれども雲や雨といった天候の操作は本来、樹木派生の精霊に出来る筈もない。
可能とするのは、同じく樹木から派生したものの風の精霊を慕い敬い、太古より遥か長くを生き続けている天竜くらいだというのに。
そういえばお従兄さまは、歴史書の内容を整合するために天竜さまと密に連絡を取っている時期があったわ…!とローアンは頭を抱えた。恐らくその時に、自然界の力の流れや使い方を教授してもらったに違いない。
知識は大いなる力になるのだと示したのはヘイゼルが初めてだ。
これまでのハシバミ竜は知識を蓄えるだけの賢者としての側面が強く、知識を基にした助言や占いで地上に導きを齎すことが多かった。
特に地脈や水脈の流れをよく識るため、国を興すときや土地を拓く際に、多くの人間から頼られる存在だった。
だがヘイゼルに代替わりしてから、第九の森は『惑わしの森』を境界に敷いて外界から離された。
人間は託宣をくれる竜の住む森を見失い、力の弱い精霊さえも容易に寄り付けなくなった。
そして、理不尽な暴力に呪われた知恵を加算し、知識をより残虐な暴力へと変換し……ハシバミの木から派生した小柄な竜は、賢者でありながら力の象徴たる竜の王にまで成り上がったのだ。
先に地上へ降り立ったヘイゼルが魔女の身体を検分するのを見届けて、ローアンも地上へ降りる。
落雷と、短時間とはいえ激しく降り注いだ雨によって湖の近くに生えていた草や木は傷ついていたものの、火災による蹂躙は免れたようだ。
「元凶の魔女で間違いなさそう?」
「僕の印付けがあるのに器が違う……解呪の途中で中身を逃したな」
不愉快そうな呟きに、ローアンは肩を竦める。
解呪を得意とするのはニワトコの精霊だが、彼女は老婆の姿をした長命な精霊であり、そう素直に文句を聞き入れてくれるような気質ではない。
途中で中身を逃したのが偶然であれ故意であれ、謝罪を受けるのは難しいだろう。
(それでもまあ…恋人が危険に晒された以上、直接出向いて文句を付けるのが竜の流儀なのだけど)
ニワトコの精霊は、彼女自身にしか解呪出来ない恐ろしい死の呪いを有していると有名だ。
結婚を目前にしてニワトコに呪われて消滅しました…なんて事になっては、残されるルチシャが気の毒すぎる。
文句をつけるにしてもエルダーさまの機嫌を損ねないようにねと親切心から助言をしたのに、ヘイゼルは全く聞いておらず、黙々と燃えカスとなった魔女を調べている。
「ところで何の寄生植物なの?」
「……東の古木に確認を取ったところ、ここ数十年の間にスナヅルの三姉妹が周囲から姿を消したと言っていた」
「三姉妹ってことはあと二人居るのね?」
「いや……封印前にひとつ呪いを反射させたから、おそらく一人は死んでいる。そして今、もう一人を始末した。残るはあと一人だろう」
「ふぅん………ハリの若木が周囲と共謀してお従兄さまを懲らしめようとしてるのかと思っていたけれど、あの沼竜はそういう面倒な搦手を使うタイプじゃないわよね」
まさか本当に、お従兄さまに恋した寄生種が暴走しただけなのかしら。
性格を知らなければ、端正な見た目に騙されて恋に落ちることもあるかもしれない。
もしくはルチシャのように、ヘイゼルの破綻した性格の一端を見知っても尚、言いようのない魅力を感じる存在が居て、封印などという凶行に走った可能性もある。
(でも今の竜王が呪いに特化しているのは有名だものねぇ……)
「ますますわからないわ」と首を横に振ったローアンを、ヘイゼルは静かな瞳で見据えた。
検分を終えた魔女の肉体は土に返されたのかもうどこにも残っておらず、湖のほとりにはヘイゼルとローアンが向き合うばかり。
「…………お従兄さま?」
「どうやら、喧嘩を売られているのはきみのようだよ、ローアン」
「何ですって?……わたくしが寄生種に狙われているというの?」
「いや……国盗りだろう」
その言葉にローアンは眉を顰めた。
この国は現在、周辺の国と表立って対立はしていない。
貿易や移民に関する牽制や旧時代に交わされた古い契約や法整備の見直しなど、課題や対応すべき事柄は多々あるだろうが、それでも堂々と切先を向けてくるような相手はいないはずだ。
そもそもエアファルト王国が竜の守護を受けているというのは有名な話で、その絆を内外に証明する為に、緋竜祭という大規模なお祭りが国主導でおこなわれるのだから。
状況がまだ読み解けず訝しむローアンに、ヘイゼルは静かな声で問う。
このようなとき、琥珀色の瞳は金を孕むように鋭く光る。
刃物のような鈍い煌めきを真正面から受けて、ローアンはぶるりと小さく身震いをした。
「先代の頃からこの国は、東のとある国とうまくいっていないそうだね?」
「わざわざお調べになったの?わたくしはここ最近の情勢にはそれほど詳しくないけれど、確かに……不仲とされる国はあるようね」
「僕が封印されているあいだに、ホーステールに接触した者はいなかった。僕の本体や森が目当てならば、番人である彼を放っておくはずがない。そして何より、まるで五十年程で呪いが解けるのがわかっていたかのように、最近になって一様に精霊や魔女たちが動き始めた」
「お従兄さまの封印を解けば殺されるのに、わざわざ自然と解けるようにしていたってこと?」
「封印から解けた僕が報復をするなら、封印した本人だけでなく、帰り道をあの森へ繋げたきみも対象になっただろう。実際、ルチシャとの出会いがなければ僕は即座にきみのもとへ行き、尋問の末に少なからずの報復をしただろうからね」
その言葉にゾッとする。
太古の森の中での争いは禁じられているが、ヘイゼルであればローアンを力づくで森から引き摺り出す手段くらい持っている。それに、ローアンの伴侶とも既知だ。竜は基本的に当人同士でぶつかり合うものだけれど、ローアンを森から呼び出すために彼女が害される可能性もゼロではなかったのだ。
五十年という制約があったのであれば、封印が綻びかけていたところにルチシャとの接触があり、ヘイゼルは解放されたのだろう。
「大量の血を浴びたならまだしも、クシャミで飛散した唾程度で、あれだけ強固な封印が解けたのもおかしいと思ってね…」というヘイゼルの言葉で、ルチシャがどんな偶然で封印を解いたのか理解してしまった。
あの子、竜の祠のそばで盛大にクシャミをしちゃったのね…と呆れそうになるが、その偶然がなければ今頃我が身が危うかったと思えば、感謝するほかない。
「わたくしが狙われる理由は、国の守護を突き崩すためかしら」
「王家の力と信頼を失わせる目的もあったんだろう。
東の国の人間に力と知恵を貸した者が居るとすれば、きみを知らぬ者ではなく、きみの既知の可能性が高い。少なくとも、僕がきみを、手心を加えず遠慮容赦なく攻撃できると知る者でなければね」
ああ…と心当たりがひとり浮かぶ。
東の古木に心酔していて、人間の国をチェス盤に見立てて手慰みに遊ぶような悪辣な性格を持つ精霊の女。
一度その行為を死の精霊に見咎められて大人しくなったと思っていたのに、まさか懲りもせず今度は人間を唆して国盗りを目論んでいたなんて。
特別親しくしたつもりはない。だが、東の古木のためにと情報収集に余念がなく、他の樹木精霊を伝手に様々な集まりに顔を出していた彼女が、ヘイゼルとローアンの関係性を知らない筈がない。
「………お従兄さまを隠れ簑にして、わたくしに喧嘩を売っているというのね。寄生種の精霊もお従兄さまに愛を口ずさんでおきながら、その実わたくしを狙っているのかしら」
「さあ。そちらは利害の一致からの共謀かもしれないが、ルチシャに危険が及ぶからには放っておくわけにはいかない。……東の国に報復措置を取るならば僕も加担するべきかな?」
「いいえ、ここはわたくしが始末をつけます」
キッパリ宣言すると、ヘイゼルは「油断しないように」と肩を竦めただけだった。
このようなところも、竜らしくない部分だと思う。
本来であれば考えなしに突っ込んで、問答無用で相手に報復するのが竜の流儀だ。
長く生きれば無鉄砲に突っ込むことが減り、多少の計略を練ることもあるが、それでも獲物を他者に譲ることはない。
ヘイゼルが東の国に報復をしたなら、その被害はローアンが考えるよりも甚大で凄惨なものとなるだろう。
(捕らえた精霊女の前で、彼女の敬愛する古木の枝を一本ずつ腐り落とすような陰惨な真似をするかもしれないわね…)
そういう男なのだ。
森に隠棲しており滅多に姿を現さないため知られていないが、ローアンはヘイゼルのことを、この世界で決して怒らせてはならない存在の上位十人に入ると思っている。
特定の宝を持たない竜は残忍で凶暴だ。
だからこそ、ヘイゼルにルチシャという脆弱な人間の恋人が出来たと知ったとき、ようやくこの物柔らかな仮面を被った傍若無人な暴君も、本当の意味で落ち着くだろうと安堵したものだ。
それはそうとして、売られた喧嘩は買わなければならないし、獲物を譲ってもらったからには仕損じるわけにはいかない。
今すぐ襲撃して撃破するのは簡単であるものの、おそらくは人間の国同士の政治的駆け引きにも影響していることだろう。
となれば、一度この国の王か宰相あたりの政治的手腕に長けた人物と話をしておくべきか。
そんなことを考えていたら、不意に肩をガシリと掴まれた。
痛くはないが、逃がさないという意思を感じる程度には力が籠められている。
恐る恐る顔を向けると、表面上はとても穏やかに微笑むヘイゼルの姿。
嫌な予感しかしない。
「ところでローアン。きみのせいで巻き込まれたのだから、謝意は示してもらうべきだろう?先日の竜のマタタビの件もあることだしね」
「え!?わたくしから一体何を取り立てるつもり!?」
「古い豊穣の時代の色染め糸を持っているね?ルチシャの衣装に使いたいんだ」
「だからってホイホイ渡せる代物じゃないわ!」
へぇ…と微笑みが深まる様子に、ローアンの背中には滝のように冷や汗が流れる。
というか竜のマタタビの件はルチシャが実行犯でしょう…!という小さな抵抗も虚しく、ルチシャには既にお仕置きをしたから、次はきみだよと恐ろしい言葉が返される。
(絶ッ対、ルチシャにはキス百回とかそんな甘々なお仕置きしかしてないに決まっているわ…!)
「糸の色は白藍と花緑青。……御殿を潰され、踏み荒らされたうえで持ち去られたいか、おとなしく差し出すかは任せるよ」
「ッ、なにが賢者よ!たちの悪い山賊じゃないのぉ……っ!!」
渾身の叫びは森にこだましたものの、竜王の胸には響かなかったようだ。
後日受け渡しをする約束を強制的に結ばされ、ローアンは飛ぶ気力も失せてトボトボと歩いて裏門からリリオデス家の屋敷へと戻った。
「ヘイゼル!…ローアン!」
言われた通り自室にて待機していたルチシャは、『出て来て構わないよ』というメモをエグルから受け取るなり大急ぎでテラスまで降りてきた。
ヘイゼルの無事に胸を撫で、けれどもローアンの様子に苦しげに眉を顰める。
ルチシャが用意してくれていたコップに注がれた清涼な水を飲んだところで、ローアンは最早ため息しか出て来ない。
豊穣の時代の色染め糸は金貨百枚を積まれても渡したくない最高品質のもので、ローアンの頑強な宝物箱のなかに大事に大事に仕舞ってある逸品だ。所持していることすら内密にしていた筈なのに、一体どこから情報が漏れたというのか。
「ローアン……ヨレヨレに萎びてしまっていますが、そんなにも大変な相手だったのですか?怪我はありませんか?」
「敵はお従兄さまの一撃で燃えたわよ…わたくしは理不尽な山賊に恐喝されてこうなっているの…ルチシャから叱ってやってちょうだいな」
山賊、の部分を強調するようにヘイゼルへ視線を流せば、ルチシャもそちらに顔を向ける。
けれども山賊な竜王は「諸々についての慰謝料を取り立てただけだよ」と軽く肩を竦めただけだった。
(花嫁の為に最上の物を用意してあげたいって気持ちはわからなくもないけれど…)
ルチシャの嫁入り衣装にケチを付けたいわけではないため詳細は伏せたが、それでも、嫁から多少は白眼視されればいいわと心中で恨み言を告げておく。
「さて、ルチシャ。せっかく招いてくれたお祭りなのに中座して悪かったわね。お詫びと、招待してくれたお礼にこれを受け取って頂戴。いざって時には山賊退治にも使えるわ」
もともと帰り際に渡そうと思って準備していたものだ。
ルチシャの手に綺麗な巾着袋を乗せてあげれば、中身を察したルチシャがハッとした顔になり、ヘイゼルの口からは「ローアン……」と呪詛のような唸り声が聞こえたが、今日ばかりは撤回するつもりはない。
「やられっぱなしでなるものですか!糸は婚礼の前祝いとして春に届けます!!またね、ルチシャ!」
竜の姿に転じてバサっと羽を広げ、大空を飛翔する。
まさか追いかけては来ないわよね…と遥か上空から見下ろした伯爵家のテラスではルチシャとヘイゼルが向き合って何か話しているようだ。
その姿は先ほど何食わぬ顔で天候を操った竜王ではなく、ひとりの少女に恋する、ただの男でしかなく。
(わたくしが結婚したとき、お従兄さまは何をくれたかしら……)
蜂蜜、木の実、相手が逃げ出さないよう森に閉じ込めるための呪物、うっかり相手に大怪我を負わせてしまった時用の癒しの術符、……それに、まだ森の守護者に成り立てだったわたくしと、他の高位の樹木精霊との顔繋ぎをしてくださったわね……。
おかげで、豊穣や愛情の一端を司る精霊たちから様々なお祝いの品を貰い、恐縮したものだ。
それに……ハシバミの木で編まれた籠は、双子の魔女のヘメラによって編まれたものだった。
いつかローアンに素敵な相手が見つかった時に渡して欲しいと預かっていたそうで、千年も前に死んでしまった彼女からのまさかの贈り物に、経年で色濃く変化した新品の籠を持ったまま、子どものように泣いたものだ。
(兄のニクスは大雑把でそういった細やかな気遣いをする男じゃなかったから、きっとお従兄さまの手元に何も残さず逝ったのでしょうね…)
ローアンは遺品として、二人の身につけていた貴金属と防寒用ローブの切れ端を持っている。
糸を届ける際に、ニクスの思い出の品が欲しいか尋ねてみるのもいいかもしれない。
きっと物凄く嫌そうに顔を顰めて、彼らのことは記憶に残っているから必要ないと言うのでしょうね…と思いながら。
ローアンは緋色で飾られた国をくるりと上空から眺めてから、最愛の妻の待つ自身の森へと翼を向けた。
▽
ルチシャの手に竜のマタタビが入っていると思しき巾着袋を握らせて、逃げるように飛び去ったローアンはすぐに見えなくなった。
灰色がかった薄雲の広がる上空を眺めたあと視線をヘイゼルに戻せば、彼はルチシャの手の巾着袋をジッと見ていた。
(ローアンは慰謝料として一体何を請求されてしまったのかしら…)
山賊退治にも使えると言っていたけれど、これを投げつけて一時的に無力化したところで、復活してからの報復を考えると余程恐ろしいのだが……それでも思わず投げつけたくなるような出来事があったのかもしれない。
「……喧嘩したんですか?」
「いいや?いつもの事だよ。それに、色々なことが符合した結果、ローアンは傍観者の立場から当事者になってしまったからね、ムシャクシャしたんだろう」
「ローアンが当事者に?……私が聞いてもいい話ですか?」
「勿論。でも、国家機密扱いになるだろうから他の者には聞かせられないかな」
それはルチシャからしてもあまり聞きたい類の内容ではないけれど、ヘイゼルとローアンが追いかけて行った緋色のドレスとボンネットを身につけた少女が何者だったのか、何を目的として伯爵家の裏手の森に居たのか…ということはしっかり聞いておかなければならない。
(先ほどの轟音のことも教えてくれるかしら……)
お従兄さまの一撃で燃えた…とローアンが言っていたため、ヘイゼルが何らかの攻撃をしたことは理解できたが、一体何が起きてどうなってしまったのか。
ほんの一瞬のことだったが、屋敷中を揺らした轟音と地響きに思わず飛び跳ねたのはルチシャだけではない。屋敷内に居た誰もが驚き、決して外に出てはいけないと申しつけられていたため何が起きたのか全く把握できないまま、不安と混乱が広がっていた。
ルチシャは大急ぎで使用人らを集めて「おそらく何者かが、竜王か緋色の巫女竜の怒りに触れたのだと思います。危ないので決して外に出ず、二人が戻るまでこのまま待機を」と命じたのだが、後ほど改めて説明する必要があるだろう。
ふぅ…とため息をつく。
大きめにカットしたチョコレートケーキをお腹いっぱい貪り食べたい気分だわ……と心を遠くにやっているルチシャの頬を、ヘイゼルの指が撫でた。
僕を放っておくのかい?と言葉なく訴えられている気配を感じて、苦笑しながら「ヘイゼルも怪我はありませんか?」と問いかける。
森で共に過ごして以降、完璧だと思い続けてきたヘイゼルの様々な側面が見えるようになり、甘えられたい欲求もじわじわと満たされつつある。
「問題ないよ。怖い思いをさせたね」と額に口付けを落とされ照れ臭くなったが、続けられた言葉に、照れてる場合じゃないわと頭がスッと冷えた。
「地形が変わるような事はしていないし大丈夫。雷を落としたせいで少し焦げたところもあるけど、延焼しないよう雨を降らせてあるから心配しなくていい」
「……ご配慮ありがとうございます。ローアンから取り立てようとしているものも含めて、室内でゆっくり教えていただけますか?」
家令が窓越しに客間が整ったことを知らせてくれたため、ヘイゼルを屋敷の中へ招き入れる。
いつも通りお茶の支度をして下がろうとする家令に「竜王さまから豊穣の雷を頂いたようです。今年は裏手の森に、きのこがよく実るかもしれません」と言い添えておく。深々とお辞儀を返してくれたということは、言いたいことは伝わったのだろう。
それからルチシャは、二人掛けソファの隣に座った恋人な竜王から、一介の伯爵令嬢が聞くには明らかに過分な衝撃的事実をいくつも告げられてしまった。
果たして、流れ上知ってしまった国家の危機と、恋人が雷を落とせるという事実の、どちらがより重大なことだろうか。
パンクしそうな頭を整えるためにチョコレートケーキを頬張り、少し濃いめに出した紅茶を飲む。
「まさか、この国が狙われていただなんて…」
「僕を巻き込んだのも、もしかすると僕を怒らせて国ごと壊滅させようとしたのかもしれないね」
「そうならなくて安心しました……ヘイゼルがリリオデス家の森に封じられたのも、何某かの理由や計略があってのことでしょうか」
「そこは偶然ではないかな…ローアンが森の出入り口を繋ぐ確率の高い場所を予測したか、あるいは事前に思想的な誘導があったのかもしれない」
「ローアンが報復のために動くのであれば、この国が戦火に巻き込まれるような事態は回避できるのですよね?」
「予想している通りの相手であるなら実力の差は明らかだ。ただ……」
「ヘイゼル?」
「彼らが、一瞬とはいえ僕を足止めするほどの武器を持っていたのは確かだ。ローアンがそれに気付ければいいが、何の対策もせずに真正面からぶつかった場合、下手をすると彼女は競り負けるかもしれない」
「え……」
それが今日一番の衝撃的な事実なのだが、ヘイゼルはといえば、この国の存続が危ぶまれるようなら僕の森へ避難させるから早めに荷物を纏めておくといい…と全く気にした様子はない。
ルチシャは、ローアンが負けるということも国の存続が危機的になる可能性があるということもうまく受け入れられないまま、優雅にお茶を飲むヘイゼルの横顔を茫然と見つめる。
不意に、腕に嵌めたブレスレットが視界で煌めいた。
これを受け取ったとき、確かにヘイゼルからは『ルチシャだけを守るものだ』と聞かされた。
彼にとってこの国はルチシャの生まれ故郷ではあるものの、庇護する対象ではない。
ローアンが、自分が売られた喧嘩だからと後始末を引き受けた以上、ヘイゼルはこれ以上この問題に介入するつもりはないのだろう。
けれど。
(もしも万が一、ローアンの身に何かがあり、この国が失われてしまったら……)
ヘイゼルにとっては人間の国の盛衰などさしたる興味もないものだろう。
だがルチシャにとっては、簡単に割り切れるものではない。
「……ルチシャ?」
「……里帰りを、するつもりで居たのに」
黙り込んでいるのを訝しんだのか、身を屈めてこちらを覗き込んだヘイゼルは、その言葉にハッとしたようだ。
国がなくなるという事への動揺が隠しきれずに声が震えてしまったし、悪いのはヘイゼルではないのだから責めるつもりはなかったのに、言葉尻がどうしても咎めるような響きになってしまった。
リリアンナの結婚式に列席するのは難しくとも、こっそりお祝いを伝えに来たいと思っていたし、もしも甥や姪が生まれたら必ずお祝いをしたいと思っていた。
そんな特別なイベントがなくとも、自分の慣れ親しんだ者たちが存命のあいだは、お祭りやお茶会を口実に時々顔を見に来れるかな…などと気楽に考えていたのだ。
ホーステールからも、故郷がいつまでもそのまま有るとは限らない…と言われていたけれど、まさか婚姻前に失われてしまう可能性があるなんて思いもしなかった。
むしろ、そんな状態で結婚をして幸せになれるのだろうか。
誰もいなくなってしまった悲しみを背負ったまま、どんな顔で、どんな気持ちで、華やかな婚礼衣装に身を包み、命を長らえさせる儀式を受ければいいのだろう。
「もし……結婚前に、この国がなくなってしまうようなことがあったら、その時は、私の記憶を全部消してくれますか…?」
家族の記憶も、故郷の記憶もなにもかも。
そうするとヘイゼルと初めて出会った場所のことや今日までに繰り返した逢瀬のことも忘れてしまうだろうが、それでも、大事な者たちの喪失を抱えたままで居るよりはずっとマシに思えた。
どこか痛ましい表情でルチシャを見つめたあと、ヘイゼルは緩く首を横に振った。
「竜王が恋に落ちた場所として、祠があった場所に記念碑を立てるんだろう?」
「覚えていたのですか…?」
「勿論。土地まで無くなるわけじゃないから、ここが別の国になったとしても同じ場所に記念碑を立てればいいかと思っていたけれど……そうではないようだ。ルチシャにとってあの場所は、あくまで『リリオデス伯爵家の森の入り口』であって欲しいんだね?」
「ええ……身勝手ですけれど、せめてローゼルの次の代くらいまでは、この国のまま残っていてくれると嬉しいです」
もちろん、この先リリオデス伯爵家が急速に没落したり、王家の不興を買って領地を接収されたりという理由で無くなるのだとすれば文句を言う気はないが、他国からの理不尽な侵略や戦乱で損なわれるのは受け入れ難い。
ルチシャの考えが理解できたのか、ヘイゼルは「では、ローアンがヘマした時の為に、僕なりの一手を打っておこう」と頷いてくれた。
労わるようにルチシャを見つめるハシバミ色の瞳は優しいばかりでなく、虹彩周りに一瞬だけ稲妻のような鋭さが走ったように見えたが、ヘイゼルが知略を巡らせ手を打ってくれるというのならもう安心だという心地になる。
彼はきっと、どのような凄惨で悪辣な手を使ってでも、ルチシャの故郷を狙う者たちの陰謀を容赦なく叩き潰してくれるだろう。
ルチシャが安堵して身を寄せれば、ヘイゼルは当然のように受け入れ抱きしめてくれる。
「ありがとうございます」と伝えたところ「お礼は口付けで構わないよ」と悪戯っぽく微笑まれたため、ルチシャは伸び上がって唇を触れさせた。
大きな手のひらで首元を支えられ、角度を変えながら一度、二度。
実家なのでそろそろ…という気持ちを込めて緩く胸を押し返すと、おでこに唇が触れ、耳元に低くて甘い囁きが落とされる。
「……せっかくお揃いのものを身につけているし、もう少しだけ二人きりの時間を楽しむのはどうだろう」
どうやらルチシャが隠し持っているハンカチとヘイゼルに贈ったハンカチがお揃いであることを見抜かれていたようだ。先ほど口周りを拭いた時に見つかったのかもしれない。
至近距離で見つめる瞳は、さっきまでは一見穏やかそうな淡褐色のなかに炯々と光る鋭さを隠していたというのに、今は色味を変えて、とろりと甘い蜂蜜のような輝きが宿っている。
森での甘やかな時間を想起してはルチシャの胸にときめきと期待が芽生え、実家なのだから控えなければという理性を押し退けようとする。
「……もし怖いことをしたら、これを食べてもらいますからね?」
最後の抵抗代わりに、先ほどローアンから貰った巾着袋を握って見せれば、ヘイゼルは蜂蜜色の瞳を三日月のように細めて微笑んだ。
「それは大変だ…うんと優しくしないとね」
それからの時間はいうまでもなく、溶かされるように翻弄され、守勢を保つことなど夢のまた夢。
はふ…と熱いため息を吐いて最後の口付けの余韻を逃したところで、家令から「そろそろ秘密のお時間は終わりですよ」という意味を込めたノックが届けられた。
室内での密談は前以て伝えておいたことだが、その後の密事についても多少は把握されてしまっているだろう。
昔から屋敷にいる家族のような存在に恋愛事情を知られるのが恥ずかしすぎて、やっぱり家ではやめましょうと眉を下げれば、ヘイゼルは森でなら可と判断したものか、「面倒事は早急に片付けてしまうから、安心して森においで」と上機嫌でルチシャの鼻先に唇を落とした。