10. 陰謀と報復
翌日、ルチシャはヘイゼルのベッドで目を覚ました。
昨夜は口付けを交わしたあと、寄り添ったまま天井に描かれた星の話をしつつ、いつの間にか眠ってしまったのだ。
既に起きていたヘイゼルは昨晩と同じように枕元のクッションに凭れて本を読んでいたようで、足元にある大窓から穏やかに差し込む朝の光を受けながら「おはよう」と微笑んだ。
虹彩のまわりの瞳の色が蜂蜜のように艶めいて見え、寝起きから早々に美麗な顔貌と甘やかな眼差しを受けたルチシャは胸がぎゅっとなり息も絶え絶えになる。
「お…はようございます…」
「まだ寝足りないならもう少し眠っていて構わないよ」
「いいえ…起きます。すみません、初日からはしたない真似を……」
「僕は一緒に寝られて嬉しかったけれどね…それに、バルコニーで繋がっている以上、ここも客間の一室だと考えて貰って構わない」
「もう……甘やかしすぎてはいけませんよ」
いっそここをルチシャの客間兼僕の部屋にしようかと提案され、まだ婚約期間中なのだから、せめて体裁くらいは保っておきましょうと首を横に振る。
名前を呼ばれて手招きされたため身を寄せると、「おはようのキスをしてくれるかな?」と潜めた声でおねだりされ、ルチシャは頬を染めつつも改めて「おはようございます」と唇を寄せた。
正規の客間へと戻り身だしなみを整えたルチシャは、木の実の入ったパンとゆで卵、薬草サラダという簡単な(けれども彩りと風味豊かな)朝ごはんを済ませ、ヘイゼルと共にホーステールの家へと向かった。
これからヘイゼルは森の見回りと回復に向かうため、ルチシャはホーステールの元でお留守番となる。
屋敷にホーステールを呼ぼうかと言われたが、聞けば彼は朝早くから薬草園の手入れをしているとの事だったため、邪魔しないようルチシャが訪ねることにしたのだ。
「ホーステール、すまないが彼女の身に危険がないよう見ていて欲しい」
昨日と同じ服装で花壇脇にしゃがみ込んでいたホーステールは、ヘイゼルからの申し出に如雨露を持ったままポカンと口を開けたものの、ややあって「……構いませんが」と頷いた。
嫌がっているというよりも、呆気に取られたような表情だったため、ルチシャは内心で首を傾げる。
「森へはヘイゼル様おひとりで向かわれるのですか?」
「今日は最奥まで行くからね……あとで養蜂の庭園へ連れていく」
「かしこまりました。お気をつけて」
「いってくるね」とおでこにキスを落として行ったヘイゼルを見送り、ホーステールの案内で庭先のガーデンテーブルに腰を下ろす。
手早くお茶とお菓子を用意してくれたあとは、花壇での作業に戻るようだ。雑草を抜いて土を整えて冬蒔きの種を蒔いたり、入れ替え前に冬咲きの薬草を収穫しているところだという。
「ご面倒をおかけいたします。私にできることがありましたらお手伝いさせて下さいませ」
「お気遣いありがとうございます。触れるとかぶれる草もありますから、退屈かもしれませんがどうぞ座ってお待ちください。口は自由に利きますので、何かお尋ねになりたいことがあれば遠慮なく話し掛けていただいて構いませんよ」
さらりと長い髪を一本に束ね、慣れた手つきで土や草を扱う姿は良家のお坊ちゃんが庭いじりをしているようで、ルチシャはとついつい見入ってしまう。
魔女と聞けば森暮らしをする少しばかり老いた女性を想像しがちだが、端正な顔立ちをした青年が魔女として存在しているのはどうにも不思議な心地だ。
「それにしてもやはり、驚きを禁じ得ませんね……あのヘイゼル様から『すまないが』と断りを入れられるなんて……如雨露を取り落とすところでした」
先ほど呆けたように動きを止めたのはそのせいだったのね…と納得しながらも、ルチシャは軽く首を捻る。
ヘイゼルは出会ったときから柔らかな物腰で、あのような物言いを珍しいとは感じなかったからだ。本来はもっと、威厳ある様子なのだろうか。
「普段のヘイゼルよりも謙虚な感じですか?」
「謙虚は言い得て妙ですね。そんな感じです。
別に、普段から粗暴であったり居丈高であったりということはないんですよ。ですが、どちらかといえば自由気儘な方ですので、たまに周囲を顧みないことはあります」
「ああ…ローアンといる時は、そのような気質を感じる気がします。私や家の者には細やかに配慮してくださいますけれど」
「ローアン様は同じ竜種ですし古い付き合いですから、ついつい気が緩むのでしょう。奥方様に気遣いなさるのはきっと、好きな相手に良いところを見せたいという思いからですよ。
いやぁ……ヘイゼル様にもそのような心の動きがあるのだと思うと、本当に愉快ですね」
「愉快なのですね…」
「私はヘイゼル様のお側に置いていただいて随分経ちますが、あのように甘やかな雰囲気を纏うお姿は初めて拝見します」
機嫌よく会話を繋げてくれるホーステールから、収穫した薬草をテーブルに広げても良いか尋ねられたため、勿論良いと場所を開ける。
種類ごとに束ね置かれた薬草からはツンと鼻に抜けるような香りと、ふくよかな土の香りが漂う。
「ご結婚後はこちらの森でお過ごしになるのですよね?」
「その予定です。ご迷惑ではありませんか?」
「とんでもない。外界に比べるとやはり娯楽などの乏しさはありますが、住み易い森ですよ」
好意的に迎え入れてくれる様子に、ホッと胸を撫でる。
作業用の軍手を外して服裾の土を払い、「失礼しますね」と向かいの椅子に腰掛けたホーステールは、収穫した草の葉裏を丹念に整えながら、少しだけ窺うようにルチシャに問うた。
「………ちなみに奥方様は良家の御出身でいらっしゃいますか?礼儀作法が随分と洗礼されているように見受けられますが」
「生まれた国は身分制のある王国で、生家は爵位を持っております」
「ああ、道理で。私の態度や物言いは不敬にあたりませんか?」
「いいえ、そのような思いを持つことはありません。私は爵位を継ぐ人間ではありませんし、ヘイゼルと共に森で暮らすと決めたときから……言い方は変ですが、ただの小娘になったのだと自負しております」
ルチシャの回答に微笑みながら「竜王の奥方様なのですから、十分に特別な存在ですよ」と言い添えつつ、ホーステールは「ですが貴族の出自であるならば、よく今回の訪問が叶いましたね」と不思議そうだ。
貴族では恋人関係にあろうとも、よほどのことがない限り二人きりでの婚前旅行が容認されることはないと知っているのだろう。
「貴族の事情をよくご存知なのですね」と言えば、買い付けなどを理由に外界で情報収集をしていると説明される。
ローアンのように人間社会と関わることで自ら情勢を掴む者も居るが、そうでない場合は大抵、魔女や従者などを側に置いて代理で情報を集めさせるのだという。
ヘイゼルは森から出て人間と交流することが少なく、稀に外に出ても書物の収集や遺跡の探索といった趣味に走りがちのため、ホーステールがその役目を担っているそうだ。
そういう面をたくさん見知っているからこそ、ヘイゼルのことを「自由気儘で時々周囲を顧みない」と評価しているんだろうだなと改めて納得する。
「……今回同行させて貰ったのは、この先ヘイゼルと森で生きていくために、何を身につければ良いか知りたいと思ったからです」
十分な理解に至らなかったのか軽く首を傾げたホーステールに、領地経営や社交の知識はあるけれど、植物の知識はおろか生活の知恵すらほとんど持たないと告げれば、得心したように頷いてくれた。
「義理の妹にも言われましたが、これまでに受けた貴族としての教育が殆ど通用しない所へ嫁ぐことになりますので……正直、婚姻前に何を支度すれば良いのか途方に暮れているのです」
「……お料理はなさいますか?」
「いいえ、全く」
「では、ご自身の好きな料理のレシピを聞いて、作り方を学んでおくのが良いでしょう。酷い言い方かもしれませんが、故郷の味が恋しくなった時、かつての通りに故郷が在るとは限りませんので」
長くを生きることを想定した助言に、やはり竜や精霊と婚姻するということは寿命を超えて寄り添うのが前提になるのだなと理解する。
あの国にはもうルチシャの居場所はないと言った父は、そのような事情も朧げながらに察していたのかもしれない。
「そういえば昨晩、結婚後は人間でなくなると言われたのですが、私はヘイゼルのように殆ど食べずとも生きていける身体にはならないのでしょうか」
「……本当にあの方は……説明が雑というか、大まかなことしか言わないというか……」
ぎょっとしたあと頭を抱えてしまったホーステールは、もう少しマシな説明の仕方があったでしょうにと文句を呟いている。
ルチシャからすればヘイゼルはちゃんと説明してくれる方だと思っていたが、それは前提として、竜という生き物は粗野で粗雑で自分勝手だという固定観念があったからかもしれない。
(ヘイゼルが雑だと思ったことはなかったけれど、それはあくまで『竜としては丁寧』という事で、無意識に甘く判定していたのかしら…)
「食事の回数や量は減りますが、毎日おやつか朝食程度の量は食べる必要があります。ただ、健康を維持するために必要な栄養については今ほど細かく考慮する必要はありません。菜食を中心に、肉食の日を週に一日設ける程度で大丈夫かと…それこそ日常であればヘイゼル様の実を頂くだけで十分な栄養になりますよ」
食材などはどうやって調達したらいいのだろうと静かに思案するルチシャに、ホーステールはにこりと優しく微笑んだ。
「私と同じ料理で宜しければ、一緒にご用意致しますので安心なさってください」
「まあ……お心遣いに感謝致します。恥ずかしながら今のところ料理は全くできませんので、初めのうちは頼らせていただいても宜しいでしょうか」
「勿論です。私の仕事は薬草や森の実りの管理ですし、菓子作りが趣味でよく厨房に立ちますので、どうぞ遠慮なく」
表のカモフラージュ用の森では時折迷い込んだ獣を退治することもあり、情報収集がてら出かけた先で、あるいは今は禁じられている魔女集会へと足を運んだついでに、様々な食材を買って来るのだという。
「どうしても食べたいものがあるときはヘイゼル様に申し出るといいですよ。奥方様からのお願いであれば腰の重いあの方であれど、出かけるのを嫌がりはしないでしょう」と助言をもらい、素直に頷いておく。
ついでに、手をつけていなかった茶菓子を勧められて有り難く口に含む。
今日のお茶菓子はプラリーヌという名前のカリカリとした食感の木の実のお菓子で、軽くローストした木の実に溶かした砂糖を絡ませて作るそうだ。指先で摘んで食べられる手軽さもあり、ホーステールはよく作業中の軽食としても携帯しているという。
キャラメルで作るとよりコクが深くなり、木の実によって味わいや食感に多少の差が出ます…という料理研究家らしい熱心な説明に耳を傾けていると、ゆったりとした足取りでヘイゼルが戻ってきた。
森の奥まで行くと言っていたから半日くらいかかるかと思っていたが、あれから小一時間程しか経っていないためルチシャは驚いた。
「戻ったよ………虐められなかったかな?」
「おかえりなさい。優しくして頂きました」
「お茶をお淹れいたしましょう」
立ち上がったホーステールは家へ戻り、ヘイゼル用のお茶とキャラメル仕様のプラリーヌを数粒持ってきてくれた。先ほどは小粒のアーモンドだったが、こちらはヘーゼルナッツをコーティングしているらしい。
お茶の支度が整うまでのあいだに、ヘイゼルから「アーモンドを食べていたのかい?」と意味ありげな瞳で見つめられたため、その反応を見越してのことだろう。
ガーデンテーブルに広げられた草たちを気にした様子もなく、ヘイゼルは出されたお茶を飲みながら森の状態をホーステールと共有する。
やはりあと五十年も放っておけば大きな損傷が出ただろうという見立てに、ホーステールは帰還してくれて良かったと胸を撫で下ろしている。
「見回りの途中、スズカケの精霊を排除したよ」
「…………確か、比較的新しい精霊だったかと」
「悪気はなかったようだ。七十年ほど前かな…僕の森へ移住できることが嬉しくて、つい話し掛けられた魔女に応じてしまったと言っていた……とはいえ、森に住む前だから内部情報ではなく、僕がたまにローアンの森で茶を飲むことがあるという誰でも知っているような内容だったけれど……念のためにね」
「そうですか……周到さといい、随分と力のある魔女なのですね」
「というよりも、おそらくその時点で既に寄生種に乗っ取られていたのだろう。面倒なことに複数個体居るようでね…確認出来ているだけでも三体かな。一体は既に排除し、一体は僕の呪いを調べるためにニワトコが抱え込んでいる」
「……あと一人はまだ所在が不明なのですね?」
「寄生種が東から流れて来る際にヤドリギが仲介人になっている気がするんだ…彼女はリンゴの精霊とも親しいだろう?だが、黒幕がヤドリギやリンゴというわけではないだろう……彼女らが動けばもっと甚大な被害を出す」
「なるほど…悪意の根底と方向性が明瞭でないからこそ、私にも最大限の警戒を促しておられるのですね」
「一応聞くけど、きみは寄生種に耐性があるね?」
「ええ……それでも万が一の場合は、この肉体を捨てますのでご心配なく」
難しい話をしているようだと息を潜めて話を追っていたルチシャは、ホーステールの言葉に目を瞬いた。
以前ヘイゼルから、内側が人間ではない魔女が居るとは聞いていたし、食事が少量で済むことからもホーステールはその部類だとは予想していた。
けれど、肉体を捨てるという表現はなかなかに刺激が強いものだ。
(外皮を脱ぐような感じなのかしら…)
では、どのように新しい肉体を得るのだろうか。
もしかすると人間の常識では受け止めきれない話をしているのかもしれない…と軽く意識を遠くにやりながら、キャラメルコーティングのプラリーヌを噛む。
ヘーゼルナッツのプラリーヌは先ほどよりも食感が柔らかく、キャラメルに混ぜられたミルクの濃厚な甘みが口いっぱいに広がる。アーモンドほどの強い風味ではないものの、ナッツの香りがキャラメルに負けることなく鼻に抜けていく。
お菓子で現実逃避をするルチシャに気づいたのか、ヘイゼルは小さく微笑んだ。
「彼の場合は、利便性目的や利害の一致からの侵蝕で肉体を得ているからね。肉体は通常の人間同様ある程度の年月で限界を迎えてしまうから、必要とするなら新たな器を得なければならない」
その説明に、ホーステールも頷く。
「私は本来、どれだけ能力を高めようとも動物の姿を得るのが精々でした。こうして人間の肉体を器とすることでようやく、薬草栽培や料理に勤しむことができるのです」
もしかするとルチシャが忌避感を抱いていると感じて、補足してくれたのだろうか。
好きな事が出来るようになったと告げたホーステールの表情に純粋な喜びを感じ取ったルチシャは、まだ理解には至らないが忌避するつもりはないと返す。
「人間のなかには竜や精霊の存在を政治的に利用している方も居るでしょう。ですので、侵蝕や器の乗り換えといった事に関しても、そのようなものに近しい事なのだと思い、あるがまま受け入れることにします」
ルチシャの言葉を聞いたヘイゼルは微笑みを深めると、優しい手つきで頭を撫でてくれる。ホーステールも心なしか安堵しているようだ。
「きみたちが嫌忌し合わないのならよかった。相性が悪い場合はホーステールを消滅させる羽目になっただろうから」
「私をですか!? いえ確かに、奥方様は唯一無二ですが……せめて呪いで意識改竄をするくらいに留めていただければ……」
呪いで意識改竄も大概なことだけれど、ヘイゼルの側に居るとそういう事への耐性が付いてしまうのかしら……そういえば昨日も耳から靄が侵入してもさして気にした様子もなかったわね……とルチシャが悩ましく思っていると、ヘイゼルはヘイゼルで、「意識を改竄したところで、本質的なところで合わないときは何をやっても合わないだろう?」と肩を竦めている。
その言葉に、ホーステールは反論の余地なく頭を抱えてしまったようだ。
「ちなみにヘイゼルとホーステールさんはどのくらいのお付き合いなのでしょう?」
「そろそろ千五百年になります…」
その年数の長さに驚いた。
確かに精霊は長生きだと聞いていたし、器を変えながら生きながらえていると聞いたばかりだけれど、せいぜい二〜三百年程度だと思っていたのだ。
千年以上も一緒にいて、殺すのは惜しいと言うほどの有能な人を、『ルチシャと合わないなら』という理由であっさり消し去ろうとしたヘイゼルの感覚に思わず疑念を抱いてしまう。
「ヘイゼル…………本当に私をお嫁さんにして後悔しませんか?」
「なぜ僕への信頼が失われたんだろうね」
「千五百年も共にいる私を、思い切りよく排除しようとなさったからですよ」
「ルチシャのことは排除しないよ?」と首を傾げるヘイゼルに、『幾年経ても飽きずに愛し続けるし、身勝手に消滅させない』という約束を取り付けてもらう。
そういえば出会った日にも『勝手に意識を改竄しない』という約束を取り付けたんだったと思い出し、小さな溜息を隠すようにお茶を飲んだ。
先ほどの発言によってヘイゼルとホーステールとの間の信頼関係に亀裂が入ったのではなかろうかと心配したが、ルチシャよりも遥かにヘイゼルへの理解が深いホーステールは「まあヘイゼル様は竜なので」という大雑把な理由で受け流している。
その様子を見て、この森で生きていくためにはまず心を強くしなければいけないのだわ…とルチシャは身にしみて感じたのだった。
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それはクリスマスを目前に控えた、あの襲撃の日。
竜の姿になったローアンに掴まれて第二の森へ移動したルチシャは、目眩止めの薬草茶を貰いながらどうにか意識を整えた。
大きな切り株のテーブルの美しい年輪を見ながら、この木の生き抜いた年数を思う。
雪が降り積もったローアンの森は白銀に輝いており、時々枝から雪が落ちる音や、餌を探して巣から出てきたのか小鳥が羽ばたく音が聞こえる。
秋にお友だちとして認定してもらってからもすでに二度ほどお茶を共にしたが、ヘイゼルなしで二人きりで向き合うのはこれが初めてだ。
真紅から緋色、梔子色へと変わる長い髪に、紅葉に色づく森を思い出しながら、ルチシャは長らく疑問に思っていたことを尋ねかけた。
「ローアンはどうしてヘイゼルを『お従兄さま』と呼ぶのですか?」
「そうねぇ…あまり話さないことだけれど、相手がルチシャならばいいかしら」
わたくしとお従兄さまが本当の従兄妹でないことは当然知っているわよね?と問われ、頷き返す。
さすがにハシバミの木とナナカマドの木を同種と見なすことはないし、そもそも精霊は単一派生と聞くため、親兄妹は居ないはずだ。
ローアンがいうには、その派生場所や種別、守護者として請け負った役割的に兄弟・姉妹として見られる木々もあるそうだが、ヘイゼルとローアンの間にそのような関係性はないという。
「ヘイゼルは第九の森で派生したの」
ローアンがヘイゼルの事を名で呼ぶのを不思議な心地で受け止めながら、その静かな語りに耳を傾ける。
「まだ前任の守護者が存命の期間中よ。第九の森の前任者は自身が竜である事にうんざりしている女性で、歴代のハシバミ竜同様、知識にしか興味のない力の弱い竜だったから、ヘイゼルが程よく育ったら守護者としての役目を降りたいと常々言っていたそうよ」
「ヘイゼルは早くから森の管理代行をしていたし、番人のような役目も果たしていた。そのなかでね、とある魔女たちと交流を持ったの」
「彼らは、かつては存在そのものが禁忌とされた男女の双子だったわ。赤子の時に森の獣に捧げられたのを、偶然通りがかった力ある魔女が拾って育てたそうよ。
双子は呪術的な役割を担わせるのに何かとちょうど良いから、魔女も完全な善意で拾ったのではないでしょうね。けれどもその双子は生き抜き……老年に差し掛かる頃、森の奥深くでヘイゼルと出会った」
「兄のニクスは呪術に長けた魔女で、妹のヘメラは森の草木や生き物に詳しかった。
わたくしが知る中で、お従兄さまが親しくしている純粋な人間なんて、その双子とルチシャくらいだわ」
「わたくしはね、竜を呪術の道具にしようとした人間に罠に嵌められたの。
まだ若く脆弱だったとはいえ、この身は捕えられるし、本体もね……枝を折られて、幹も深く傷つけられ、放っておけば枯れてしまったでしょう。
そこを、偶然通りかかった双子の魔女とヘイゼルに助けられたの」
「わたくしは、自分を傷つけた人間なんて憎いばかりだったわ。
人間を意図的に害そうとする精霊は『荒ぶる者』と呼ばれて、度が過ぎれば地上の秩序を守る精霊達から排除されてしまう。わたくしは、それでもいいから、死ぬ前に人間たちを襲って、どうにか思い知らせてやろうと考えていたわ」
「でも、妹のヘメラが献身的に治癒してくれて……彼女は我が身を削ってまでも、わたくしを治してくれたのよ。そして、わたくしが再び動けるようになった頃、ぎゅっと抱きしめて言ってくれたの。
『貴女はもう私の子どものようなもの。貴女はこれから自由に飛んでいけるけれど、いつでも戻ってきていいの。苦しみも喜びも、分かち合っていきましょう』って」
「それを聞いたニクスが『じゃあヘイゼルは俺の息子だな』って笑って。その時のお従兄さまの心底嫌そうな顔ったら…!」
「……ふたりが死んでしまって、わたくしはとても悲しかったわ。
だから、彼らを忘れないようにヘイゼルを『お従兄さま』と呼ぶことにしたの。
初めの頃は物凄く嫌そうな顔をしていたけれど、拒絶しなかったってことは…ヘイゼルにも思うところがあったのでしょうね」
以降、ローアンは人間を見定めるために人間の国の近くに定住しては時折集落へ足を運ぶようになり、ヘイゼルは人間との交流を絶ったのだという。
そんなところにも二人の対応の違いがあるのだと知り、ルチシャはヘイゼルが人間に向ける不思議な眼差しを思う。
(嫌っているわけでも無関心なわけでもなく…だからといって親しみを抱くわけでもない。人間の命の短さと喪失を知っているからこそ…しっかりと一線を引いているのね)
そんなヘイゼルは、運命に導かれて出会い見初めた相手が人間であったことをどう受け止めたのだろうか。
聞いてみたいけれど、その心情にどこまで踏み込んでいいものかと迷う気持ちもある。
遥かを生きる相手だからこそ、ルチシャではその心の重さを受け止めきれないのではという不安があり、どうしても遠慮が生まれてしまう。
そんなルチシャの心情を読み取ったかのように、ローアンはどこからか小さな巾着袋を取り出した。口紐はぎゅっと固く結ばれている。
「そうだわルチシャ、…………これをあげる」
「………これは?」
「お従兄さまの前で開けてご覧なさい。これはね、お従兄さまを弱らせる、とっておきの秘薬なの」
弱らせるという言葉にぎょっと目を剥くルチシャに、ローアンは仄暗い笑みを向けた。
「わたくしもお従兄さまも随分と双子の魔女たちの家に入り浸っていたから、少なくない時間を共に過ごしたわ。そしてわたくしは幾度となく、竜としての力の差を目の当たりにして歯噛みしたものよ。
お従兄さまはいつだって余裕があって、未熟なわたくしを見ても遠巻きに微笑むばかり。
そんなお従兄さまが長い年月のなかで一度だけ弱みを見せたことがあるの」
それがこの中身よ、と袋を指され、ルチシャは手のひらに乗せた小さな袋を見つめる。
軽いはずなのに、その中身を思うと酷く重く感じてしまう。
咄嗟に返そうとしたルチシャを遮るように、ローアンは言葉を続けた。
ひたりとこちらを見据える真鍮色の瞳は、ルチシャの胸の内を見透かすように鈍く輝いて見える。
「ねえルチシャ、貴女、わたくしとのお茶会があまり好きではないでしょう?お従兄さまの愚痴を言おうにも、それほど多くの姿を見せてもらっていないのではなくて?」
密やかに抱いていた思いを言い当てられてドキリと胸が鳴る。
ローアンとのお茶会は、珍しい香草茶を飲みながら、人間社会では知り得ない様々な情報や知識を得られる場所として、嬉しくも有り難くも思っていた。
けれども、ローアンから「お従兄さまへの不平不満はないの?」と問われるたびにルチシャは困ったものだ。
本人の目の前で不平不満を述べる図太さがないのも確かだが、それ以前に、ルチシャの前に立つヘイゼルは、少々呪いに傾倒しがちなところを除けばほとんど完璧な男性像だったからだ。
弱ったところは勿論、情けないところも焦ったところも見た事がない。
先ほど初めて怒った姿は見たものの、ルチシャと向き合ったときにはその怒りを内側に押し込んでいたし、ヘイゼルと言われればやはり、常に泰然としていて余裕のある姿しか思い浮かばない。
「あのお従兄さまにも、恋人に嫌われないために自分を良く見せたいと思う気持ちがあるのねと、驚きを通り越して感心すらしてしまうけれど……女からすれば、ちょっと物足りないと思わない?もっと情けないところも弱いところも、知りたいと思うものよね」
蠱惑的な響きを孕む言葉に、ルチシャの心がぐらりと揺れる。
「貴女にしか出来ないことよ、ルチシャ」
トドメを刺すように、ローアンの唇がひどく優しく弧を描く。
「わたくしでは警戒されてしまうもの……でも貴女なら、あのお従兄さまも抗えないし、容易には手出しできない。
ほら、そんな顔して、本心を隠したってだめよ。貴女だって同じ気持ちのはず。
これがあれば、お従兄さまの余裕ぶった顔を崩すことができるわ」
「………ローアン、」
「大丈夫。貴女が今こそと思うタイミングで………やってご覧なさい」
唆されるまま、ルチシャはその袋を隠しポケットに仕舞った。
これを使う日が来なければいいと思いながらも、自分の心の弱さではきっと、いつかヘイゼルに使ってしまうのだろうと思いながら。
▼
ホーステールと別れて養蜂の庭園へ赴いたルチシャは、庭隅にある穴蔵でうずくまって眠る熊姿の精霊と、時折巣箱から出ては幾つか咲いている花から蜜を集めている蜂の姿を遠まきに眺めた。
ヘイゼルは「危ないから」とルチシャを安全な場所で待たせたまま庭園の一角に行くと、白い小花の咲いた草を摘んで来てくれた。
ルリヂシャの花の時期は春から秋にかけてだが、この庭園にある白いボリジは狂い咲くことがあるらしい。
こうして狂い咲いた冬の花は蜂たちの越冬にひと役買っており、さらりとした色の薄い蜂蜜が出来るそうだ。春めいてきてもう少し蜂の気性が穏やかになったら巣箱を開けて蜜を回収するのだという。
今年は蜜月用の蜂蜜酒を作るためにもたくさんの蜂蜜を集める必要があるそうで、ルリヂシャの単花蜜がとれるよう区画を調整しようか…と思案するヘイゼルの横顔を眺めながら、ルチシャはスカートの隠しポケットに潜ませている小袋のことを思う。
ヘイゼルから貰った守りの小枝が入った袋たちと、ローアンから貰った袋。
第九の森はやはりヘイゼルの領域である為か、ルチシャはすでに伯爵邸で見るよりも多くの、ヘイゼル本来の表情を見ているような気がする。
星図を見上げる理知的な姿も、未来を問いかける真摯な眼差しも、朝日を受けた柔らかな表情も、何もかもがルチシャの胸をじわりと熱くした。
(けれど…)
「…………何か悩み事かな?」
知らず俯いて歩いていたようで、庭園から少し離れた場所でヘイゼルは立ち止まった。
ちょうど森に差し掛かる手前の開けた場所のようで、休憩しようかと促され、枯れた芝の上に腰を下ろす。
上質なコートを敷物代わりに敷いてくれたことを申し訳なく思いながら、ルチシャは靴を脱いでその上に座った。
太陽はそろそろ中天に差し掛かろうとしている。
冬の清廉な森の気配と、寒さをまるく包むような陽射しの温かさに知らず強張っていた気持ちがほどけるようだ。
近くに小さな川が流れているのか、僅かに水の音が聞こえてくる。
「疲れてしまった?」と心配そうに頬を撫でられ、ルチシャは首を横に振る。
「ヘイゼル………私、ヘイゼルに渡したいものがあるんです。でも、渡して良いか迷っていて……」
「迷っているけれど、ルチシャはそれを渡したいと思っているんだね?」
ヘイゼルの言葉に、迷いながらもこくりと頷く。
「では、決心がついたら見せてご覧」とルチシャの葛藤をさらりと受け止めたヘイゼルは、空を見上げ、森に注ぐ温かな日差しに目を細めた。
どうやら、今この場で渡す渡さないに関わらず、暫く休憩とするようだ。
二人のあいだに落ちた沈黙は重いものではなく、ヘイゼルは安穏とした様子で座っている。
ルチシャはそんなヘイゼルの横顔を眺めながら、たっぷりと自問自答したあと、ローアンの言った「今こそと思うタイミングで渡しなさい」という言葉に背中を押されるように、隠しポケットから固く口紐が結ばれたままの袋を取り出した。
「……少し不安なので、目を閉じていただけますか?」
ん?と不思議そうにしながらも、警戒する様子もなく素直に目を閉じてくれる。
ルチシャが自分に危害を加えることはないと思っているのか、或いはそのような蛮行に及んだところでたかが知れていると思っているのか。
ルチシャは震えそうになる手を叱咤しながら口紐を解き、ヘイゼルの顔のそばで袋を開けた。
もわ、と籠ったような香りが立ち上り、ルチシャは思わず顔を顰める。
一方で、より顕著な反応を示したのはヘイゼルで、呻くような声と共にルチシャの膝の上へ倒れ込んできた。
「ヘ、ヘイゼル!?……ヘイゼル!!」
目をきつく閉じたままのヘイゼルは、ややあって、地を這うような声で呟いた。
「………………ローアンの仕業か」
「いえ、私が……」
「どうせ、『お従兄さまの余裕ぶった顔を突き崩してやれ』なんてことを言って、ルチシャを唆したんだろう?」
完全に読まれていることと、聞いたことがないくらいに低く不機嫌そうな声に慄きながら、ルチシャは情けなく眉を下げた。
膝の上に乗せられたヘイゼルの頭に、遠慮がちに手の甲で触れながら、どうにか弁解をする。このままローアンに怒りの矛先が向いては大変だ。
「叱らないであげてください。ローアンは、私にちゃんと効能を説明してくれた上で預けてくれたのです」
「…………ルチシャがこうしたいと思った?」
「はい……ローアンからの提案を断りきれずに受け取り、こうして使用したのは他ならぬ私です……竜が酔いやすい薬草で、ヘイゼルも普段より弱く無防備になるだけだと聞いていたので、まさか倒れてしまうとは思わなくて…」
「ああ……………僕は気怠くなるんだ。不調ってほどじゃないけれど、眠くてぼんやりするというか、思考が鈍るというか。若い頃はもっと過剰な反応を示していたけれど、今は慣れてしまってこの程度かな………膝は重くない?」
「大丈夫です……私がした事ですが、ヘイゼルはつらかったり苦しかったりはありませんか?」
「眠いだけかな……でも、味は美味しいんだから困ったものだね」
横倒しになってルチシャの膝に頭を乗せたまま、取り落としていた小袋を拾い上げたヘイゼルはおもむろに中の薬草をむしゃりと口に含んだ。
「直接食べて大丈夫なのですか!?」と咄嗟に袋を取り上げようとしたのは、思考が鈍っていると聞いたばかりなので、判断力まで落ちてしまっているのかと危惧したからだ。
焦るルチシャに、ヘイゼルは「食べられる草だよ」と小さく笑う。
「古くは竜のマタタビなんて言われていてね、竜の肉体を、素材として欲している者たちが乱用していたんだ。でも、酒の酔いかたが違うように、食べたときの反応は竜によって違う……寝るやつも居ればご機嫌に踊るやつもいて……古竜の爺さんが酩酊して国ふたつ吹き飛ばした結果、使用に規制がかかった」
「国ふたつ………」
「マタタビの群生地も燃えてしまってね。この草が残っているのは、それこそ太古から守られている森くらいだ……ローアンの森に生えているとは思わなかった。あの子、この草が大嫌いだから…僕に一矢報いる為に我慢して集めたのなら褒めてやるべきかな?
………でも、ルチシャを巻き込んだからやっぱり叱るべきかな」
「ええと…ヘイゼルの森にもあるんですか?」
「あるよ……蜂蜜酒に少し混ぜて、寝酒にしたりはするかな……」
もうひと口食べると袋が空っぽになったのか、ヘイゼルは横たわったまま目を閉じた。
気分が悪くなっていないかとハラハラするルチシャをよそに、ヘイゼルは襲い来る眠気と戦っているようだ。
「ルチシャの膝が柔らかくて枕として優秀なのはずるいばかりだね…」と呟く声がまるで拗ねているような響きを孕んでいて、常にない姿と声音に胸がキュンとする。
「ヘイゼル………こんなことを言っては気分を害してしまうかもしれませんが、なんというか……可愛いです…」
まるで弟を相手にしているような気持ちだ。
ローゼル相手にこのような親密さで接したことはないけれど、それでも幼い弟がよちよち歩きを始めた頃はその愛くるしさに悶絶したし、舌ったらずに「ねえちゃま」と呼んでくれた日は頬が緩みっぱなしだった。
庇護欲というか、愛でて大事にしたい気持ちがむくむくと湧き上がってくる。
ヘイゼルの頭を撫でる手がどうにも止まらない。
「ローアンの思惑通りになるのは業腹だけど、ルチシャが嫌じゃないならまあいいよ…」
半分寝ぼけているのか、普段よりも間延びした感じの喋り方が堪らない。
ルチシャは普段触れることのない焦茶色の髪に触れながら、眠りの邪魔にならないよう潜めた声で問いかけた。
「……こんなことをした私のことを嫌いにはなりませんか?」
「動けなくしたあとに僕を虐めるようであれば…何らかの対処が必要になるだろうけど………これから、動けない僕に何かするかい?」
「ぅ、いえ……あの、……本当はおでこに口付けたいのですが、届きそうにないので……おでこや顔に触れても…?」
「どうやら可愛く悪戯されてしまうみたいだね……」
嫌だとは言われなかったので、そろりと指を伸ばして、額に触れる。
滑らかな木肌に触れるようなさらりとした肌触りで、人間よりも低い温度が指先から伝わってくる。
暫く無言だったため眠ってしまったかな?と思っていると、小さくため息のような気怠げな息を吐いたヘイゼルは「ルチシャも僕の顔が苦手かい?」と呟いた。
「よく、泰然としてるとか余裕ぶって見えるとか言われるけれど、生まれつきの顔立ちだからどうしようもない………きみも既に知っているように、基本的に僕はあまり他人に興味がないし、マイペースだから、あまり表情も動かないしね」
「ヘイゼルの顔はとても好きです…むしろ、落ち着いた雰囲気は一番初めに好きになった部分かもしれません。……でも、恋人として、もう少し色々な姿を知りたいという欲が出てしまいました…」
叡智深く導いてくれる姿や、甘やかすように優しく包み込んでくれる姿はこれまでに沢山見せてもらった。そのたびに、自分の生涯の相手がヘイゼルで良かったと思うばかりだ。
けれども、こちらに甘える姿も見たいと願ってしまった結果が今に繋がっている。
ローアンにはそういった、年上の男性相手ではなかなか満たされない欲の部分を見抜かれ、唆されてしまったのだ。
夫婦になってからも時々こうして膝枕をしたいと告げると、いつでもいいよとあっさり受け入れてくれる。
さすがに衆目の前でこのような行為に耽るのは好まないそうだが、ヘイゼルの森や屋敷であれば全く構わないそうだ。
目元をなぞるように撫でていたルチシャの手が離れたのを機に、ヘイゼルがゆったりと身を起こす。
ルチシャを見つめる瞳は琥珀色が鈍く煌めいて、温度の低い大きな両手がルチシャの両頬をそっと包み込んだ。
「きみばかり、僕を堪能するのはズルいと思わないかな…?」
「ヘ、イゼル……」
引き寄せられて優しく唇が重なる。
一度、二度、三度と角度を変えながら触れては離れ、幾度重なるのかしらと不安になったルチシャがそろりと瞼を開けると、蜜のように蕩けた瞳に見据えられた。
見つめ合ったまま、口付けが繰り返される。
唇同士が奏でる可愛らしい音の合間に、はぁ…と僅かな吐息の熱が混ざる。
気恥ずかしさに目を開けていられなくなって再び瞼を閉じると、微笑む気配と共に重なる時間が長くなった。
愛らしくも甘やかなリップ音が幾度も森のなかに響き、ただ触れて重ねているだけなのに息継ぎの仕方がよくわからなくなったルチシャがヘイゼルの服を掴んでふるふると震え始める頃、ようやく口付けの波が引く。
ぷは、と念願の深い息継ぎが出来たルチシャは、乱れた呼吸と鼓動を必死で収めた。
「昨夜もそうでしたが、結婚前なのに、こんなにたくさん唇を交わして良いのでしょうか…」
「いいんじゃないかな……僕としてはあと半日くらいは楽しみたいところだけど」
微笑んで告げられた言葉に驚愕するべきか恥じらうべきかというところで、ヘイゼルの身体はぐらりと揺れて再びルチシャの膝の上に倒れ込んだ。
「………残念。今はこれ以上は無理かな……目を開けてるのも億劫になってきたよ…」
「ま、まだ効いているのですか!?起き上がってくださったから、てっきりもう効果はなくなったのかと…!」
「無理しすぎて頭が痛くなってきた……」
よいしょと頭の位置を整え、再び膝枕の体勢で目を閉じたヘイゼルはどうやら眠る気満々のようだ。
ここで寝ては風邪を引くのでは…と狼狽えるルチシャを他所に、ぼんやりしながら指先を軽く振る。
「ホーステールを呼んだから、共に屋敷へ戻るといい。もう、お昼ご飯の時間を過ぎた頃だろう?」
「ヘイゼルをこのまま置いて帰るわけには……」
「まあ……僕の森だし、大丈夫……人間の姿で横たわっているのが気になるなら、竜になればいいし…」
先ほど穴蔵で丸まって寝ている熊型の精霊を思い出し、確かに竜の姿であれば草地に丸まって寝ていても違和感はないように思う。人間の姿だとどうしても行き倒れのようになってしまうから、このまま放置するわけにはいかないと強く思ってしまうのだ。
お昼寝竜を想像したついでに、ヘイゼルの竜としての姿をまだしっかりと見たことがないことに気付く。
竜のマタタビで弱らせておいてこんな事まで求めるのは酷い話かもしれないが、やってしまった勢いのあるうちに、言うだけ言っておくべきかしらという邪な気持ちも芽生える。
「…………ヘイゼル、あとで少しだけ、竜の姿を見せていただけませんか?もちろん、体調に問題がなくて、ヘイゼルが嫌でなければで良いのですが……」
「……今夜も一緒に寝てくれるならいいよ」
「では…マタタビのお詫びに、おやすみなさいのキスも付けます」
ヘイゼルは事もなげに「いいよ」と頷いて、それきり沈黙が落ちた。
暫くして『ルチシャの昼ご飯』という雑な連絡を受けたホーステールが昼食のパンを籠に入れて探しに来てくれたため、ヘイゼルの頭を膝に乗せたまま、その場でピクニックのように昼食をいただくことにした。
ホーステールにとっても草地に寝転がっているヘイゼルは珍しいのか、どこか愉快そうに眺めている。
昼食を終え、ホーステールから戻るついでに屋敷まで案内しようかと申し出があったが、自分が仕出かしたことなのでヘイゼルが起きるまでこのまま待ちますと緩く首振る。
去り際に「奥方様が寒いといけませんので風を弱めてください」とホーステールが遠慮容赦なく寝ているヘイゼルの肩を揺さぶって起こしていたのでハラハラしたものの、不機嫌そうに睨まれただけで呪われはしなかったようだ。
風がやみ、中天から注ぐ穏やかな日射しが暖かい。
身体が温まるお茶を水筒に入れて持ってきてくれたおかげで寒さはなく、パン屑の落ちてしまったヘイゼルの髪を整え、毛先を指に巻きつけてくるりと弄ぶ。
小一時間ほど微睡んで落ち着いたのか、一度身を起こしたヘイゼルは、周囲に誰もいないことを確かめると、敷物にしたコートの上にルチシャを優しく横たえた。
自身も身を横たえてルチシャを抱き寄せると、悪戯者へ仕返しをするかのように、額、頬、唇にと啄むような口付けを寄せる。
屋外でゴロ寝なんてしたことのないルチシャは、視界に映るヘイゼルの端正な顔立ちと、その向こうに広がる森の色合い、空の青さやぷかりと浮かぶ雲の白さを胸に刻む。
結婚したあとは、こんなのどかさが日常になるのだろうか。
(夫とお散歩や日向ぼっこをして、芝の上に寝転がってのんびりと過ごす日々なんて、これまで想像もしたことがなかったわ…)
安穏な未来への期待も相まってか、掠めるように触れてくる唇のくすぐったさについクスクスと笑ってしまった。
そんな風に、ヘイゼルとの触れあいに余裕を持っていられたのは、その時までだった。
夜、約束通り添い寝をするべくヘイゼルの部屋を訪れたルチシャは、寝台に上げられ、息が苦しくなるほどに幾度も重ねられる唇に翻弄され続けていた。
さすがに昨日ほど無防備な服装ではいけないだろうと、しっかりと下着を身につけ、寝間着と部屋に備えてあった裾の長い厚手のガウンを着てお邪魔したのだが。
頬や額に留まらず顎や首筋、鎖骨の際どいところにまで降りてくる唇に、羞恥も相まって次第に身体の熱があがってしまう。
ヘイゼルの左手はルチシャが逃げぬようにと腰を抱いているだけで不埒な動きはしていないし、右の手のひらはルチシャの頬や耳朶をくすぐるくらいで、服を脱がされたり胸を触られたりと明け透けな行為の気配はない。
繰り返されるのはあくまで口付けに該当する行為だけだが、優しく触れて啄むだけの軽い口付けも、重ねられる時間が長く回数も多くなれば困った反応も出てしまうというもので。
自分の喉から悩ましげな吐息混じりの声がこぼれた事に、ルチシャは心から恥じ入った。
「ヘイゼル……もう……いっぱいキスしたので……んぅ」
抗議を遮るように唇を押し付けられ、そのまま長く重ねられる。
息苦しくなったあたりで離されたが、続けて耳の裏をくすぐられながら首筋を軽く吸われたことでルチシャの身体は小さく跳ね、溶けるようにシーツに沈む。
もうダメ、という意思表示で目の前の胸を強めに押し返してみたが、僅かに身を離したヘイゼルの瞳はどこか愉快そうに細められるばかり。
この表情だと、決してやめる気はないのだろう。
「おやすみなさいのキスも付けてくれる約束だったろう?」
「ですが、回数が多すぎ…、ん…」
「僕との口付けは、嫌?」
「い、嫌なはずがありません……でも……そんなにしたら、唇が溶けてしまいそうなので……」
「……可愛いね」
「…………っ、」
もう何度重なったかわからない唇が、再び隙間なくぴたりと重なり、軽い音を立てて離れていく。
「昼間にたくさん微睡んだせいか、残念ながら僕はまだ眠くないんだ。だから、おやすみの気分になるまでキスして構わないね?」
「……そ、れはちょっと、屁理屈ではありませんか…?」
「僕は自由気儘で我儘だと、ローアンやホーステールが散々きみに言って聞かせているようだからね。色々な僕を知りたいようだし、たっぷり甘えさせてもらおうかな」
これは絶対に竜のマタタビを使ったことへの報復も入っているわ!と慄きながら、ルチシャは降り注ぐ口付けの雨をどうにか受け止める。
伯爵家を発つ前に「きみの幸福を損なうようなことはしない」と約束してくれた以上、本気でルチシャが嫌がれば、すぐにでもやめてくれるだろう。
けれども、涙が滲もうが息苦しさに喘ごうが、ルチシャが嫌がらない以上はヘイゼルの気が済むまで続けられるに違いない。
キスの合間に「竜のまぐわいは長いから儀式の後はルチシャにも頑張ってもらわなければね…」と囁きかけられて、あと半年もない婚儀のことを思う。
こんなにも熱心な口付けが戯れ程度であるというなら、蜜月の間に自分は何度呼吸困難で儚くなることだろう。
「………眠くなったら寝ていいよ」
「口付けをしながら眠るなんて……」
気持ちばかりの抵抗は示したが、結局、息切れを起こしながらも数え切れない程の口付けに付き合い続けたルチシャは、疲労の果てにカクリと意識を失うように眠りへと落ちていった。