9. 竜王の屋敷
ホーステールの家の扉口を潜った先は、木立ちの中ではなく、苔むした岩石に囲まれた比較的開けた場所だった。
今は茶色くなった背丈の低い草が大地に力無く伏せているが、春になると再び青々とした絨毯のように生い茂るのだろう。
青さを残した低木も幾らか生えているようで、艶のある分厚い葉を持つ木は一体何の植物だろうか。
「…………思っていたよりも開放的ですね」
「この辺りはね。少し行くとしっかり森の部分もある……あちらの背の高い木々が見えるかな?」
「ええ。ローアンの森は、一帯があのように背の高い木に囲まれているので、ヘイゼルの森もそのような感じかと思っていました」
「ハシバミの木は背が低いから、高い木に囲まれてしまってはうまく陽が当たらない。それに、太古の森は便宜上そのように呼んでいるけれど、古くからある希少な植物を保護するための区画だから、厳密に森である必要はないんだ」
この森の奥深い場所にハシバミの木が理路整然と生える一角があるという。
整列して立ち並ぶ姿は、さながら人間の農園のようだよと説明されて、ルチシャは一生懸命想像を膨らませた。
実際に行って見てみたい気持ちは大きいけれど、森全体の面積が伯爵領くらいあると聞いて少しばかり目眩を覚えてしまう。
「ええと……この森は一応、私たちが住んでいる地上にあるのですよね?」
「位相が違うというのかな……隣り合っているけれど、人間たちには知覚できない空間だね」
ルチシャは物語本として、地面の下にある地底や地下世界と呼ばれる場所、あるいは空の上にある天上と呼ばれる場所が舞台とされている冒険譚を読んだことがある。
けれどもそれはあくまで人間の空想の産物であると思っていた。実際にそのような場所があるのだと知ったのは、ルチシャたちにとって伝説級の生物である竜…ヘイゼルに出会ってからのことだ。
人間が住んでいる地上以外にも、大地の精霊が治める領域や風の精霊が住まう場所もあり、更にはそのどこにも属さない『異界』と呼ばれる空間もあると聞けば、この世界はどれだけ広いのだろうかと途方に暮れそうになる。
『異界』に属するのは、太古の森のように古い時代の名残を残すために風や大地の精霊によって誂えられた空間や、地上から追われた妖精たちが暮らす国であるという。
いずれの場所もこの世界を構成する土地である以上、何処かで繋がっていて、迷い込んだり行き来したりすることは出来るものの、人間の肉体にとっては負荷の大きい優しくない空間であることが多いため何の対策もなしに長く過ごすことは出来ないそうだ。
ルチシャも森へ入る前に、ヘイゼルから新しい御守りを受け取っている。
手渡された紺色の上品な小袋に「世界樹の樹皮が入っているよ」と言われたため、あまりの驚きにその御守り袋を取り落としそうになったくらいだ。
世界樹なんて本当に空想の産物でしかなく、いつからどこに在るのか、そもそも実在するのかという議論がもう何百年も前から学者たちの間で交わされ続けている代物だ。
聞けばヘイゼルと同じく太古の森を管理するトネリコという植物の精霊が世界樹のモデルであるらしく、先史時代よりも前、太古の森が地上に普遍の森として現存し、人間と妖精が地上の覇権を争い合っていた遥か昔から存在する、とても古い精霊なのだという。
(また、世界の秘密を知ってしまったわ…)
そしてそんな古くて凄い精霊が、ルチシャがヘイゼルの森に滞在できるようにと快く樹皮を分けてくれたというのだから、驚きを通り越してもはや何某かの悟りの境地に至ってしまいそうだ。
だが、自分の恋人が世界樹と知り合いなのだと話をして、一体誰が信じてくれるだろう。
ここはもう、屋敷へ戻ったあとに、純粋な弟から『すごいです』とキラキラの目で見つめてもらうか、義妹のリリアンナから『また規格外な…』という心底呆れた視線をもらうしかないだろう。
お屋敷まではこのまま一番近い森の中を通って行くらしく、草木の乏しい冬景色の中をさくさくと歩く。
ヘイゼルの森は暦のうえで夏の終盤を司ることもあり、冬でも気温が下がりすぎることはなく、雪が降ることも滅多にないという。
逆に冬の時期を司るローアンの森は早くから雪が降り始め、年の瀬から春先まですっかり雪で覆われるそうだ。
「ホーステールが言っていたけれど、疲れてはいないかな?森に来るまでに精霊の道も歩いてきたからね」
森歩きには慣れていないだろう?と問われ、素直に同意する。
ルチシャは長らく、気晴らしという名目で屋敷から裏手の森の入り口まで歩いて通っていたし、他の同年代の女性に比べればよく動いているほうだと思う。
とはいえ、実際に森で暮らすような人々と比べれば貧弱と言わざるを得ない。
比較的動きやすいサマードレスに華美でない機能的なブーツを履いているものの、やはり散策用に舗装されていない森を長時間歩き続けるのは難しそうだ。
「お気遣いありがとうございます。ホーステールさんの家でお茶を頂いたときにのんびり休憩できたので、今はそれほど疲れていません。でも、森へ来るときの道と同じくらいの距離であれば歩けると思いますが、それ以上は難しいかもしれません」
「では、あまり遠くへは行かないようにしよう」
「森の再生のために散策が必要なら、私はお待ちしていましょうか」
「到着してすぐ客人を待たせるような無作法はしないよ。明日は奥まで歩きたいと思っているから、今日の森歩きの様子を見て明日同行するかは決めるといい」
頷いて、こういう時に無理に連れ回そうとする人でなくて良かったなぁと思う。
竜と聞けばやはり、乱暴者で、我が強く我儘で、グイグイぶんぶんと引っ張り回されるイメージが強い。
どれもこれも人間の書いた物語を読んだうえでの印象でしかないが、ヘイゼルからの説明を聞くに、そういう竜も少なくないようだ。
人間の姿にもなれる位の高い竜は地上に十数人くらい居るばかりで、初対面でも穏やかに会話が出来るのは片手の指の数にも満たないという。
ローアンも人間に近いところで暮らしているだけあってこちらの文化や思想に理解を示してくれるけれど、やはり問答無用で鷲掴んで連行するイメージも根強く残っている。
恋人ゆえの特権かもしれないが、こうしてルチシャと手を繋ぎ、並んでゆったり歩いてくれるのはヘイゼルくらいだろう。
「そういえば、ルリヂシャも咲いているよ」
不意に告げられた言葉に、ルチシャは咄嗟に反応できずポカンとしてしまった。
こちらを見下ろすヘイゼルの瞳は柔らかく、冬の陽射しの中で琥珀色の周りを彩る緑が鮮やかに光る。
「伯爵家の庭にも生えていたし、きみの名前の由来かなと思ってね………違ったとしても、花の色がきみの瞳の色と似ている」
「いえ、その通りです。よくわかりましたね……母が昔、チシャという食べ物が女性の胎に良いと聞いたそうで、私がいずれ子を産むときの助けになるようにと、それにあやかった名前を付けようと思ったそうです。
生まれた私の瞳の色が緑でなかったことと、父が瑠璃色だと表現したことで、ちょうど庭に咲いていたルリヂシャから響きを拾ったと聞きました」
ルチシャの説明に、ヘイゼルは呆れたように小さく笑った。
「チシャとルリヂシャは全く違う植物だけどね……」
「まあ…響きとしては似ていますからね……それに、悪い薬草ではありませんので」
元気な男子を産むように…という、名に込められた母の願いが叶えられることはなくなったが、この名前自体は嫌いではない。
もちろん一時期は、名に込められた想いを疎ましく感じたこともあるが、そもそもルリヂシャに安産関係の効能はないし、青色の花を咲かせる可憐なハーブには気持ちを上向かせる効果があるのだと知ってからは、そちらこそを全面的に推していこうと前向きに捉えている。
そういえば…とルチシャは、随分前に疑問に思ったものの聞けていなかったことを思い出した。遠慮して聞けなかったというよりは、聞くタイミングがなかったのだ。
「精霊の名前はどうやって決まるんですか?」
以前ヘイゼルは、名前を持つ精霊自体がそこまで多くないと言っていた気がする。
派生したての力の弱い精霊は個人的な名前を持たないとすれば、その精霊が力を強める何某かがあればその時に授かるものなのだろうか。精霊に肉親は居ないが、誰か名付け親のようなものが存在するのだろうか。
「役目と共に引き継ぐ場合が多いかな。力ある精霊が朽ちるときに、次からこの名を名乗っていいよと貰うんだけど、女性か男性かで名が変わることもある。僕の前任者は女性体だったからヘイゼルという名ではなかったね。僕の名は先々代の森の管理者が名乗っていた名だ。……全くの新しい名であれば、啓示のように授かると聞くかな」
「啓示のように……」
誰がどのようにその名を下すのかは、ヘイゼルも知らないのだという。
風や大地といった原初から居る精霊が関わっているのかもしれないが、彼らは案外面倒くさがりだから親しくもない相手にいちいち名前を付けてあげるとは思えないらしい。
『植物』すべてを司る精霊も居るものの、地上の生命体へ及ぼす影響力があまりに強かったため、遥か昔に封じられ今は大地の精霊の御元で休眠状態にあるという。
未詳の啓示は『星の囁き』とも呼ばれ、基本的に精霊たちは、啓示や役目の引き継ぎで得た名前以外を自分勝手に名乗ることは出来ないというのだから、人生の節目で苗字を変えたり好き勝手に偽名を名乗ったり出来る人間からすればなんとも不思議な感覚だ。
「人間たちは生まれた者の名をその都度考えないといけないから大変だろう?」
「我が国では子どもの健康を願って野菜や薬草から似た響きを取ることも多いですね。父のルバートという名前は音楽用語由来だと主張していますが、原案はルバーブだそうです」
「ああ……ルバーブはなかなか大胆な選出だね」
「本人も不本意なのか、ルバーブを使ったパイは父の嫌いな食べ物のひとつです」
「では、伯爵に腹が立ったらルバーブを贈ることにしよう。ルリヂシャからは良い蜂蜜が採れるから養蜂の庭園のほうに植えてあるよ。花が白い希少種もあるから、興味があるなら明日にでも連れて行こうか」
「養蜂をしているのですか?」
「管理は精霊がおこなっている。熊姿の精霊だから少し怖いかもしれないね」
マルベリーの木から派生したその熊な精霊は、冬場は休眠状態にあるという。時々起き上がって、ふらりと蜂の巣箱を整えては再び眠りに就くらしく、寝ぼけていると判断力が低下しているからあまり近付かない方が良いそうだ。
花蜜の少ないこの時期は蜂も気が荒くなっているため養蜂の庭園は少し遠巻きに見ることにして、明日の昼過ぎに連れて行ってもらう約束をした。
「ヘイゼルの森には動物姿の精霊が多く住んでいるのですよね?」
「そうだね。ローアンの森は鳥類が多かったのに対し、僕の森には動物が多い。僕の客人を理由なく襲うような無作法者はいないだろうけど、困ったことがあれば言うんだよ」
「きっと、見知らぬ人間が居て驚く方もいるでしょう。あまり叱らないであげて下さいね」
「とはいえルチシャは森の管理人である僕の客人だからね……まあ、この森に住むための規約があるからそれに則って処罰するよ……少し道が荒くなってきたけど、足は大丈夫かな?」
「ええ。この辺りは随分と……景観が異なるのですね」
徐々に足元の草の丈が高くなり周囲に低木も増えてきたと思っていたが、いつの間にかひとつ深い森の入り口へ踏み込んでいたようだ。
数メートル先に跨ぎ越せるくらいの細い小川が流れており、それを渡った先には背の高い樹木が立ち並ぶ、いかにも森らしい風景が広がっている。
根本を残して立ち枯れた木も所々に残っており、立派な根はその木がどれだけ大きかったのかという想像を掻き立て、苔で満たされ静かに佇む姿はどこか厳かでもある。
「素晴らしい森ですね………荘厳な雰囲気で、空気がとても澄みきっています」
深く息を吸い込めば、空気にも香りや味があるのではと勘違いしそうになるほどに、胸いっぱいに森の香りが広がる。
ヘイゼルは軽く周囲を見回しつつ、ルチシャが転ばないよう配慮しながら手を引いてくれた。
「夜明けの霧の頃になるとまた様相を変える…… 人間の身には恐ろしくもあるだろう。その時間はあまり出歩かないように」
「迷子になりそうですし、ヘイゼルの側から離れないようにします」
頷いたヘイゼルは、落ち葉をサクサクと踏みながらゆったりとした歩調で進む。
ルチシャの歩幅でも難なく付いていけるように調整してくれているのだろうが、やはり平坦な道と、木の根が張り巡らされ落ち葉や枯れ草の満ちた道とでは歩き易さが全然違う。
何度か抱っこしようかと提案されたものの、ギリギリまで頑張らせてくださいと疲れを見せ始めた足を励ましながら自然豊かな道を進む。
やがて、苔むした岩に囲まれた小さな湖へと辿り着いた。
湖の表面は周囲の木々や岩肌に生えた苔の色を映して深緑に揺らぎ、湖の底がしっかり見えるほどに澄みきった水を湛えている。
足の疲労も忘れてその神秘的な美しさに魅入っていると、湖のほとりに一匹の鹿が姿を現した。
立派なツノを持つその鹿はじっとヘイゼルとルチシャを見つめ、深くお辞儀をするように首を下げた。
「…やあ。戻ったよ」
ヘイゼルからの静かな呼びかけを受け、鹿はゴツゴツとした岩場を細い四肢で難なく乗り越えやってくる。
そしてどこからか取り出された木の実をヘイゼルの手から受け取りコリコリと二粒ほど食べると、高く鳴き、弾むような軽快さで木立の中へと姿を消した。
「………さて、これでこの辺りは大丈夫だろう。屋敷に戻ってのんびりしようか」
あの子はこの辺り一帯の維持を任せている精霊だよと付け加えたヘイゼルは、ルチシャがまだ鹿の消えて行った方向を凝視していることに気づくと首を傾げた。
「ルチシャ?」
「とても綺麗な鹿だったなと…」
「おや。僕の前で他の精霊を褒めると拗ねてしまうよ?」
「………拗ねるんですか?ヘイゼルが?」
予想外の言葉に目を瞬けば、悪戯っぽく目を細めて微笑まれる。
こういう、含みや企みを潜ませた表情が好きなルチシャは堪らずキュンとしてしまった。
「らしくないかな?」
「………ツンとそっぽを向いたり、ドスドスと地団駄を踏んで我が儘を言ったりする姿は想像しにくいですね……」
「ああ……うん、まあ……そういうのはあまりしないかな……。それよりルチシャをどこかに閉じ込めて他の精霊と会わないようにするかもね」
「………私が、嫌だと泣いてしまってもですか?」
「おや……僕の得意技を忘れてしまった?」
ひっそりと微笑むヘイゼルに「また呪おうとするんですから」と呆れて文句を言えば、「僕らしいだろう?」と開き直られてしまった。
再び手を取り歩を進めながら、ルチシャはヘイゼルが手段として持っている精神操作的な呪いについて考える。
「たとえ呪いの顛末だとしても、囚われて喜ぶ系の人間になるのは嫌なのですが……ヘイゼルは呪いによって私の気質が変わってしまっても大丈夫なのですか?」
「うーん…どんな呪いであっても、魂に根付いた部分は変えられないからね……ルチシャがルチシャである根っこの部分はそのままなんだ。僕はそこを含めて丸ごと好きだから、表層部分での多少の変化は問題ないかな」
「まあ……」と絶句したルチシャに、ヘイゼルは「不快だったかな?」と首を捻る。
そうではないと首を振ったルチシャは、自分の頬がじわりと熱くなるのを感じていた。
「……とんでもない告白を聞いてしまったかもしれません」
「ん?」
「丸ごと好きだと言ってくれたことです」
「これまで言って来なかったかな?」
平然とした様子で「全部好きだよ」と改めて言ってくれるヘイゼルに対し、繋いでいない方の手で頬を押さえながら「ずるい…」と文句を言ったときだ。
森の木々が不意に終わりを告げ、その先にとてつもなく大きな建物が現れた。
幼い頃に初めて、遠巻きに王城を見て「おおきい!」とはしゃいだ時とは違う。
ルチシャはその圧倒的な存在感に、息を呑み言葉を失った。
あまりに大きすぎて、まだ先にある筈なのに、すぐ間近にあると錯覚しそうになるほど。
特に目につくのは建物の高さと幅だ。
建物は二階建てのようだが、一階と思しき部分が規格外なほどに縦にも横にも大きい。
一歩一歩と近づくたびにまるで自分が小人になってしまったかのような……或いは、巨人の家の前に迷い出てしまったかのような感覚に陥る。
口を開けたまま屋敷を見上げ続けるルチシャに、ヘイゼルは小さく笑ったようだ。
「大きくて驚いたかな?」
「はい……とても……」
「玄関と一階部分はね、竜の姿でも入れるように大きめに作られている。二階部分は一般的なサイズだから怯えなくていいよ」
三メートル以上はある玄関の扉をどうやって開くのだろうと思っていたが、ヘイゼルはまるで一般的な家の扉を開けるかのように片手で押し開けた。
(器用というか…力の制御がとても上手よね…)
繋いだままのルチシャの手をうっかり握り潰してしまうこともなく、重そうな扉を片手で開けたまま支え、「どうぞ」と招き入れてくれる。
玄関ホールに足を踏み入れるなり、ルチシャはやはり呆気に取られて口をポカンと開けてしまった。
「すごい……天井が遥か上方に……」
窓も随分と高い位置にある。
建物を支える柱と柱の間隔は広く、確かにこの造りならば竜の姿で歩いても問題ないだろう。
(竜は二足歩行もできるのかしら…)
飛ぶイメージしかないが、翼を広げて羽ばたくと流石に壁や柱にぶつかってしまうだろう。
のしのしと二足歩行…或いは四足歩行する竜の姿を想像しながら、ルチシャは縦にも横にも大きな玄関ホールをぐるりと見回す。
シャンデリアのような装飾的な灯りはないものの、高い位置にある窓から差し込む光がホール内を優しく満たしている。
床には見たこともない石が敷き詰められており、少し凸凹しているが歩きにくい程ではない。陽の光を受けてキラキラと反射している箇所は部分的に宝石質になっているのだろうか。
壁や柱に彫り込まれた装飾は緻密で、柔らかな光と影により浮かび上がるかのようだ。
幻想的で美しい玄関ホールに感嘆のため息が出る。
「ここがヘイゼルの家なのですね……」
「先々代が基礎となる一階部分を作って、先代が二階を作ったとされる。僕はそこに多少手を加えたくらいかな。
ローアンのように先代の建物を壊して自分好みの家を作り直す者もいるね。ちなみに彼女の御殿はもっと天井が高いよ」
手を引かれて導かれた先は、人間が五人は横並びで通れるくらいに幅のある大階段。軽く螺旋を描いて二階部分へと続いている。
一階の天井がとても高いため、二階に至るまでに相当数の段をのぼることになりそうだ。
足が痛かったら抱き上げてあげるよという申し出をありがたく思いながらも、ひとまずは行けるところまで自分の足で上がってみることにする。
一段一段が高くない代わりに段数が多くなっているものの、スカートでも上りやすい形状でほっとした。手摺り部分には繊細な装飾が施され、そういえば先代は女性だったなと思い出す。
「はじめにお屋敷を建てたのが先々代となると…その頃から森の管理が始まったのですか?」
「そうだね。太古や古代とされる時代にはまだ、この森は地上の表層にあった。
人間と妖精が地上の覇権を奪い合って争っていた頃、高位の樹木精霊たちも同様に、大きな戦いに身を投じた……その頃に、力弱き精霊たちが大勢で大地の精霊に願い出て、森や派生元の植物が壊され尽くされぬよう隔離し守ってもらったのが始まりだと聞いている。
森の守護者の選出と任命は、当初は大地の精霊が都度おこなっていたようだ。時代が進んで今のような仕組みになった……とはいえ、それも僕が生まれるより遥か前の話。
今は、地上に現存する品種でも条件さえ合えば絶滅前に森で保護することが可能だし、移住したいと申し出る者は後を絶たないけれど……他の植物との植生の兼ね合いも大きいから、難しいところだね」
「この森には、途方もない歴史と願いが詰まっているのですね……」
「それを理解してくれるだけで嬉しい気持ちになるね。ハシバミは昔から知識を重んじる存在とされる。あとで書庫を見せてあげよう」
「……案内は嬉しいのですが、書庫へ行ったら本に夢中になってしまいませんか?」
なんとなくそんな気がしただけだが、大正解だったのか、ヘイゼルは悩まし気な顔で考え込んでしまった。
久しぶりに家に帰ってきたのだから好きな場所で寛いで欲しいとは思うけれど、勝手のわからない家で放置されると少々困ってしまう。
(竜と人間の時間感覚は違うというし、うっかりで数日間忘れられたら悲惨だわ…)
「うーん……なるかもしれない……ルチシャを放っておくわけにはいかないし、ホーステールにも叱られそうだからやめておこうか」
ここでホーステールに叱られるという理由が出てくるあたり、二人の関係は良好なのだろう。先ほど、あわや首落としかとハラハラする場面に立ち会ってしまっただけに、ちょっと心配だったのだ。
数十段を踏みしめ、ルチシャの膝がプルプルし始める頃にようやく二階部分へ辿り着いた。
ぜぃぜぃと息をするルチシャの背中を撫でながら、ヘイゼルは「よく頑張ったね」と労ってくれる。
(どうしよう…結婚したら、これを毎日続ける生活になるのかしら…)
下りて上ってと往復しなければならないことを考えると、容易に庭へ散歩に出ることも出来ない。
屋敷の隣に離れのようなものを作ってもらってそちらで生活できないかしら…と、疲労のせいで弱気になっているルチシャを促し、ヘイゼルは客間という一室に案内してくれた。
途端、先ほどまでの弱々しい気持ちが吹き飛んでしまう。
扉を開けた先は広い応接間だった。
部屋の一角には、ソファ前のローテーブルとは別に、書き物や食事を摂れるくらいの程よい大きさの丸テーブルが置かれている。
こっくりとした深みのある木の色は床の深緑の絨毯に馴染み、ローアンの森でのお茶会を思い出させるようだ。
ルチシャのサイズであれば三、四人は並んで座れる幅のソファは白みがかった灰鼠色で、白木のローテーブルと対のように美しく、部屋の中ほどにどっしり鎮座している。
ソファに掛けられた織物は繊細な刺繍で縁取られており、どう見ても年代物だ。
そしてソファの正面は壁ではなく大きな窓が嵌め込まれ、そこから望む景観もさることながら、大窓を開けば簡単にバルコニーへ出られるようになっている。
ソファ背面側の壁面には幾つかの茶器の置かれた棚と、本棚と飾り棚。
棚や扉は艶やかな飴色で、華美ではないが細やかな彫刻で飾られている。
どこに目線をやって良いのかわからず思わずキョロキョロしながら部屋を見て回るルチシャの後ろを、ヘイゼルは満足そうに付いてくる。
隣室に続く扉を開けるとそこは応接間にも引けを取らない広さの寝室で、ルチシャが四人寝転がっても大丈夫なくらいの大きなベッドが据え置かれていた。
特大の寝台があるにも関わらず部屋には十分な余白があり、サイドテーブルには愛らしい花の形のランプが置かれ、一人掛けのソファチェアや小さな書物机もある。
床は敢えて絨毯などは敷かれておらず、柔らかな木目が美しく並んでいる。
ベッドの足元側には先ほどと同じく大窓があり、隣の応接間とはバルコニーで繋がっているようだ。
台所以外の水場も完備されており、食事さえ手配して貰えればこの客間だけで十分に生活できそうだ。
ルチシャは至れり尽せりな空間に思わず倒れてしまいそうになった。
この広さと豪奢さで客間というのなら、主人の部屋は一体どうなっているというのか。全く想像できない。
足の疲労などすっかり忘れて夢見心地で部屋を堪能するルチシャを応接間のソファに座らせ、ヘイゼルは少しばかり困ったように眉を下げた。
「食事はあとでホーステールが届けに来るだろうけど…」
「……何か問題があるのですか?」
「いや……部屋でひとりで食事をするかな?女性はあまり…多くを食べる姿を見られるのは好まないと聞いたから…どうしたものかなと思って」
「ホーステールさんもあまり食事をされない方ですか?」
「そうだね。肉体の維持のために毎日ある程度は食べるけれど、とはいえ、人間でいう朝食程度の量で済むと言っていた筈だ」
「届けてくださるのはどのようなお食事でしょう?」と尋ねても、首を傾げられる。
そもそもヘイゼル自身が殆ど食事を必要としない身であるし、ホーステールは自分の家で寝食を過ごしているのだから、生活空間が異なる以上、何をどのように食べているか把握していなくても仕方がない。
ルチシャはひとりでの食事も別段苦ではないものの、せっかく用意してもらった食事をひとりで「これは何だろう」と首を捻りながら食べる羽目になるのも申し訳ない。
「ヘイゼルが嫌でなければ、向かいに一緒に居てくださいませんか?ひとりで困惑するよりも尋ねられる方がいてくれた方が心強いです」
「構わないよ。一緒に居よう」
人間の食事にはあまり詳しくないから頼りにならないかもしれないけれど…と謙遜していたが、実際に出された料理の殆どを、ヘイゼルはちゃんと解説してくれた。
使われている薬草と効能を聞きながらの食事はとても新鮮で、自分は食べないというのに向かいでお茶を飲みながらのんびり食事に付き合ってくれる恋人の優しさを改めて実感したものだ。
結論として、ヘイゼルの屋敷への滞在は、初日ながらたいそう素晴らしいものとなった。
歩き疲れただろうと食事の前に湯をもらうことになったのだが、なんと大浴場では侍女の代わりに狸のような不思議な生き物が洗浄や身繕いを手伝ってくれると言われ、ルチシャは未知への好奇心と期待で胸がドキドキした。
けれどもルチシャはまだ未婚の女性。相手が動物型の精霊とはいえ素肌を晒してあちこちと触れられるのはどうなのかな……と思っていたら、ヘイゼルも同じ思いだったらしく、暫く考え込んだあと「彼らに身を許すのは儀式後からにして欲しい」と真剣に告げられてしまった。それに、大浴場の湯船は竜でも入れる仕様のため溺れないようヘイゼルと一緒に入る方が安全らしい。「結婚したら一緒に入ろう」と言われ、ルチシャは恥ずかしながらも素直に頷いた。
大浴場は結婚後に持ち越すこととなり、ひとりで客間に備えられたお風呂を使うことになったルチシャは、部屋の浴室に入るなり大層感動した。
木で誂えられた湯殿は心地よく、湯からはほのかに香草の香りが立つ。
身体を洗うために置かれた石鹸はとても香りが良く、泡立てて撫でるように洗っただけなのに肌は見違えるほどにすべすべになった。
湯上がりに髪につけるオイルも用意されていて、蜂蜜色のそれはトロリと馴染み、何の面白味もない小麦色のルチシャの髪に特別な艶を与えてくれる。
様子を見ながら使ってくださいとホーステールから渡された化粧水や乳液も肌馴染みがよく、ルチシャは王都で有名な美容店ですらここまでの仕上がりにはならないわ……という感動と共に、極上の心地で入浴時間を終えたのだった。
食事中は上着とジレを脱いで常より寛いだ格好になったヘイゼルを堪能できたし、
パンと具沢山のスープ、香草サラダと燻製肉、蜜漬けのマルメロを使った柔らかな食感のタルト(フロニャルドというらしい)という素晴らしい夕食を頂き、半分の月が中天にかかる頃にはヘイゼルも自室へと戻って行った。
素敵な恋人と就寝前の挨拶がてら触れるだけのキスを交わし終えた今はもう、寝間着に着替えてひとり寛ぐばかり。
ヘイゼルは五十年ほど封印されていたというのに屋敷内は驚くほどに綺麗で、聞けばお風呂担当の精霊がいるようにお掃除担当の下位精霊がおり、主人が居ない間も毎日屋敷中を綺麗にしてくれていたそうだ。
布団に置かれた寝具はまふまふで肌触りもよく、香が焚かれているわけでもないのに部屋全体にはほのかに木と森の香りが満ちている。
今日はたくさん歩いて色々なものを見て、体はとても疲れている筈なのに、気持ちが高揚してなかなか眠るに至らない。
寝間着の上に厚手のセーターを羽織ってバルコニーへ踏み出してみる。
深い深い森の香りと、冬の夜特有の僅かに鋭さのある空気が肌に当たる。
バルコニーから見えるのは夜の森の側面で、鬱蒼と繁る木々が月光を受けて暗い影を落とす様は言い知れぬ不穏さを醸し出しているが、安全なところから眺める景色はただ美しいばかり。
ふと見れば、バルコニーはルチシャに宛てがわれた客間だけに留まらず、遥か向こうまで長く続いているようだ。
(ちょっとくらいなら…散策しても怒られないかしら…)
お風呂やお掃除担当の精霊たちはそれぞれ必要に応じて屋敷に出入りするだけで、屋敷内には基本的にヘイゼルとルチシャしか居ないという。
行ってはいけない場所を尋ねたときに、一階部分はうっかりどこかに閉じ込められては危ないからひとりで見て回るのはやめた方がいいと言われたけれど(そもそも一階の部屋の扉は大きすぎて重くて開けられない)、二階部分は迷子にならない程度に動き回って問題ないと言われている。
むくむくと湧き上がるのは冒険心。
お屋敷探検だなんて、まるで童心に返ったような気持ちでわくわくしてしまう。
お隣も客間なのかしらと、ルチシャはバルコニーを少し歩き、隣と思しき部屋を窓からひょっこり覗き込む。
明かりの落ちた暗い室内にはルチシャの部屋よりも少し大きめのソファがあり、飾り棚に並ぶ品物や置かれた家具のデザインから、男性用の客間かしらね…と検討をつける。
(素敵なお部屋だけれど、男性用の客間と女性用の客間がバルコニーで繋がっているというのは防犯上どうなのかしら……)
悩ましく思いながらも、男性用の寝室はどんな感じなのかしらと好奇心に突き動かされるままに更に奥の部屋をひょいと覗き込み、ルチシャは思わず言葉を無くした。
そこには、寝台にて半身を起こし、厚いクッションに凭れたまま本を読み酒を嗜んでいるヘイゼルが居たのだ。
(客間じゃなくて主人の部屋だったの…!?)
それとも、何らかの理由があってルチシャの部屋の隣にヘイゼルが滞在しているか…だ。
どちらにせよ気付かれる前に部屋へ戻った方がいいだろう。
冒険気分はすっかり消えてしまい、代わりに別の理由で胸がドキドキし始める。
見つかりませんように…と擦り足で半歩下がったところで、ふと、本に落とされていたヘイゼルの目線が上がり、バルコニーに立つルチシャを捉えた。
「…………やあ。お散歩かな?」
柔らかく微笑み掛けられ、ルチシャの頬に朱が走る。
もう寝台にいる以上、当然ながらヘイゼルも寝間着に着替えているのだが、
見たこともない異国の様式の服にゆったりと身を包み、下ろした髪を横に流している姿はとても扇状的で、どうにも見てはいけないものを見てしまった気分になって落ち着かない。
「その……バルコニーがとても長く続いていたので散策していたのですが、まさかお隣の部屋にヘイゼルが居るとは思わず…」
羽織ったセーターの前を引き寄せつつも、チラチラと珍しいヘイゼルの姿を観察してしまう。
窓はベッドの足元側にあるため、当然ながらこちらからは足の裏側が見えている。
そもそもルチシャは男性の素足を見るのは初めてだ。
父と水遊びなどをした記憶はないし、厩舎担当の使用人たちがたまに水濡れになって馬の手入れをしていることはあるが、そのような時には遠巻きに挨拶や激励をして終わり。
足の裏側で興奮するというのも変な話だが、普段は衣服や靴で隠されている部分が目前に晒されているのは親密な証に他ならない。
皮が分厚くて硬そうだわ…とか、やっぱり足も大きいのね…とか、ドキドキと高鳴る胸は何でもときめきに変換してしまう。
そんなルチシャの様子を見ながら、ヘイゼルは微笑みを深めた。
「眠れない?」
「ええ…初めてのお屋敷に胸が高揚しているようです……こちらはヘイゼルのお部屋ですか?それとも今日は客間に泊まってくださっているのでしょうか」
「僕の部屋だよ。隠すような物もないし、自由に出入りして構わない。ただ、時々危ないものが置いてあるから、飾っている瓶とか箱の開け閉めは控えたほうがいいかもね」
「では、戸棚も?」
「開けるくらいは構わないけれど……たまに乾燥した爬虫類とか頭蓋骨とかが入っているかな」
それは是非にご遠慮願いたいという気持ちを込めてルチシャは首を横に振っておく。
先ほど隣を覗いた時には簡素な印象を持った飾り棚だったが、実際には薬草の瓶や呪術道具などが置かれているそうだ。絶対に触ってはいけないと胸に刻んでおく。
「今は無造作にしてあるから、一緒に住むようになったらきみの手の届くところに危ないものを置かないようにしなければね」
「……バルコニーで繋がっているということは、ヘイゼルが私の部屋を訪ねてくることもありますか?」
「そうだね……驚かせては可哀想だから、その時はちゃんと部屋のドアをノックしようかな」
とても紳士的な回答は、今のルチシャにとっては意地悪でしかない。
無作法にもバルコニーから訪ねてしまったルチシャが小さく頬を膨らますのが見えたのか、ヘイゼルは可笑しさを噛むように笑んだ。
「きみが僕を訪ねてくれるのなら、どこからだろうと喜ぶよ。…天井裏と暖炉の煙突からはオススメしないけれど」
いくら無作法者でもそんなところからは侵入しないわと文句を言おうとして天井を見上げたルチシャは、思わず息を呑み、言葉を失う。
そこには、空一面に輝く天体の縮図が繊細なタッチで描かれていたのだ。
(さっきバルコニーから見えた星空も美しかったけれど……これはもっと、壮麗だわ)
丸く縁取られた内側が深く暗い青藍で塗り染められ、白銀や金や白銅色で小さな星々が丁寧に描かれている。
夜空の代名詞である月が描かれていない代わりに、繊細な星たちの輝きがひたすらに天井を彩っている。
ヘイゼルは読んでいた本を閉じてサイドチェストに仕舞うと、自身の隣をぽんぽんと軽く叩いた。
「おいで。ここに寝転がって見てみるといい。古代に描かれた星図だ」
天井画にすっかり魅入っていたルチシャは、その申し出に少しばかり困ってしまう。
バルコニーから家主の部屋にまで至ってしまった無作法者ではあるが、流石に寝台に上がるとなれば躊躇いも生まれるというもの。
葛藤していることに気づいてくれたのか、ベッドから下りてバルコニーまで歩み寄り、そっと手を差し出したヘイゼルは「天体観測は禁じられていないだろう?」と免罪符となる言葉をくれた。
「……天体観測であれば」と、ゆっくりその手に手のひらを重ね、丁寧なエスコートを受けながら寝台に至り、靴を脱いで身を横たえる。
恋人のベッドに身を預けていると思えば心臓は煩いほどに高鳴ったけれど、寝転がったことで一層に天井が見やすくなり、視界いっぱいに広がる星図の素晴らしさにルチシャは深い深い息を吐いた。
「晩夏から初秋……僕の守護する月の頃の夜空だ」
ヘイゼルもルチシャと並ぶように隣に身を横たえた。
近くに聞こえる低く深みのある声が、星図を描いたのは人間であること、先代がこの星図に惚れ込み、これを飾るためだけに二階部分を作りつけたことなどを穏やかに教えてくれる。
「暦の示す月の巡りは星々の運行と密接している。人間はこれまでにどれだけ夜空を見上げ、目を凝らしたのだろうね」
「……この森から見える夜空は、いつの時代の夜空なのですか?」
「空は外の世界と変わらないよ。角度など多少の違いはあれど、伯爵邸から見える空と同じ空だ」
「不思議ですね……」
容易には立ち入れない異界であるというのに、大地と空は繋がっているという。
幼少期から自分が見上げ続けてきた空とヘイゼルが見てきた空は同じなのだわ…と思いかけて、そういえば彼は五十年間祠に封じられていたから、同じ空を見てはいないのだと気付く。
封印されているあいだ、ヘイゼルはどんな気持ちだったのだろう。
もちろん彼を陥れた魔女への怨みは募らせていただろうが、それでも…五十年ものあいだ、空も窓もない場所で孤独に過ごす姿を想像すると、人間であるルチシャの胸はきゅっと苦しくなる。
視線を星図からヘイゼルに移せば、天井を見上げる瞳が昼間とは違う色で煌めいている。
月の光を受け、深碧の色を携える緑の中心に、叡智の宿る濃木の色が窺える。
ふわりと香るのは、ルチシャの客間に漂っていたものとは異なる深い森の香り。
いつかどこかで…と記憶を探れば、月光の満ちる静かな自室が思い出された。
(……思い返せば、ヘイゼルの腕のなかで眠ったこともあったのだわ)
何となく不安に見舞われ、心が弱ってしまったあの日。
寝間着にショールを羽織っただけの姿でヘイゼルを自室に招き入れたルチシャは、胸の内を吐露したあと、彼の膝上に抱えられたまま眠ってしまった。
翌日は衣服の乱れひとつなく自分のベッドで目覚めたためすっかり意識から外していたが、あの時の大胆さを思えば、今のように隣に並んで星図を見上げるくらいは許容範囲だろう。
(そういうことにしておきたい……今は、あちらの屋敷ではないし、もう少し一緒に居たいもの…)
見られていることに気づいたのか、こちらを見た柔らかなハシバミ色が弧を描く。
その瞳の奥に宿るのが情欲ではないことに、ルチシャは小さく安堵した。
男性とふたりきり。そこにどのような危機が潜んでいるかを想定できない年齢でもないし、万が一の事があったとしても最終的には認可される間柄ではある。
けれども、やはりまだ、そのような行為を受け止める覚悟は整っていない。
ゆっくりと伸ばされた指先がルチシャの頬をなぞる。
肌に触れられても尚、根源的な恐怖を感じることはない。
代わりに、力ある者に大事に慈しまれているという自負が、歓びとなってじわりと身に沁みる。
しばらく無言で見つめ合ったあと、どこか真剣な眼差しでヘイゼルは告げた。
「…………ルチシャ。僕のために、人間をやめてくれるだろうか」
その問いかけは、ルチシャの胸に抵抗なく落ちた。
以前からそんな気はしていたのだ。人間である自分が竜王の妻になるということは、きっと容易ならざる事なのだろうと…。
「…………それは私が、ヘイゼルと一緒に居るために必要なことなのですか?」
「そうだね……刹那的に共に居るのではなく、長い時間を共有するためには必要なことだろう。一度その身に仮初の死をもたらし、死の精霊と大地の精霊の赦しを得て魂と肉体を残留させるための儀式をおこなう」
「私は……私ではなくなってしまうのですか?」
「いいや。人間であるきみが『きみ』のまま、長い時間を留まるために必要な儀式だ」
それはきっと、ただの人間であるルチシャには容易に理解できない、この世界の理と規則に基づいたものなのだろう。
無言のまま両腕を伸ばせば、ヘイゼルは当然のように受け入れ抱き寄せてくれる。
鼻先が触れるほどの距離感で再び見つめあう。
ここで嫌だと強く拒絶すれば、ヘイゼルは何らかの手段でルチシャの心の一部を改変してしまうかもしれない。
けれども、そうなったとしても怖いとも嫌だとも思わないのは、昼間にヘイゼルが、どうあろうとルチシャのことを丸ごと好きだと言ってくれたからかもしれない。
「それは…どのような儀式なのでしょう」
「……かつて、死の精霊が、愛する女性の身をどうにか留めたいと願い……幾度も幾度も喪いながら、辿り着いた秘術だという。誰もが行使を赦されるものではないし、幾つもの道理と規定の中で運用されている」
「ヘイゼルは赦されたのですか?」
「そうだね……天竜さまにも話を通して、是非にと願い出たところ、稀有なことに風の精霊も力を貸して下さることとなった。……きみの許諾を得る前に手続きを済ませたような形になってしまったけれど、何も話さずに儀式をおこなうのは不誠実だろうと思って、話を切り出す機会を伺っていた」
「いつから…そのように考え、動いてくれていたのですか?」
「きみと恋人になってすぐだね…………アイラのところの人間が、周りの人間たちの喪失を思うと長くを生きることにはあまり魅力を感じないと言っていた。一方で、可能な限り長く、アイラの側に居たいとも…」
「人間はいつでも誰でも、矛盾を抱えているものですね」
ルチシャが、貴族として義務的に孕み産まねばならないのを怖いと思いながらも、ヘイゼルとの間に子が為せないと知ったときに喜びでなく戸惑いが大きかったように。
喪失を思い短命であることを選び取りながらも、愛する者を残すことに苦しんだりもするのだろう。
「けれどもヘイゼル……私は、あの夜更けに貴方が来てくださった時から、この先にどんな運命が待ち受けていようと構わないと思うくらいには、貴方のことが好きになったのです」
「…………それまではそうでなかった?」
「どうでしょう……憧憬や、諦めもあったかもしれません。美しく力強い姿に惹かれる気持ちがあり、一方で、力ある精霊に見初められたからには逃れようもないという諦観も潜んでいたかと。でも、今は違う感情がしっかりと胸のなかにあると感じています」
「………確かに、あの夜以降、きみの瞳の奥には時折……欲がよぎることがある」
「改めて言われると恥ずかしいですね……でも、人間は恋と欲とを切り離しては考えられない生き物なのかもしれません。はしたないかもしれませんが、ヘイゼルに触れたいと思う気持ちは膨らむばかりです」
抱きしめて欲しい。
唇を触れ合わせたい。
そんな想いを、嘘や建前で覆い隠す必要はない。
ルチシャの生まれ育った貴族社会であれば、そのような気持ちを明らかにするのは愚かしいばかりだろう。淑女は貞淑であるべきで、恋は密やかでなければならない。
けれど、相手が人間ですらない存在だからこそ、ルチシャは安心して全てを曝け出せる。
すぐ近くにある鼻先をちょんと触れ合わせ、強請るように目を閉じれば、微笑むような気配と共に唇が重なる。
一度離れ、間近にあるハシバミ色の瞳を見つめると、その中に自分の青が映り込んでいることに気がついた。
緑と青の混ざり合う色彩に、ふと、母の離宮の置かれていた森や湖を思い出したけれど、その記憶を、昼に見た森の景色とヘイゼルの甘やかな眼差しで塗り潰す。
「……蜜月になったらたくさん愛し合おう。今は、唇を触れ合わせる程度で我慢しておかなければね…」
「ヘイゼル……」
腰を引き寄せられ、ぐっと身体が密着する。
そういえば寝る前だから色々と薄着だわ…と今更になって恥じらいが生まれたけれど、ここで離れることは考えられなかった。
ヘイゼルの体温はルチシャの温度よりも低い。
逞しくも、木肌を思わせるその静かな温もりに身を寄せながら、ルチシャは先ほどの問いかけの答えを口にする。
「どんな私になっても、貴方が丸ごと愛して下さるのなら……人間を捨てることも怖くはありません」
仄暗くも満足気に笑んだヘイゼルの表情を目に焼き付け、そっと瞼を閉じる。
触れるだけのもどかしさで、幾度も幾度も重なる唇を享受しながら、
ルチシャはこの先何があっても、自分が選んだ道を決して後悔することはないだろうと強く信じることにした。