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8. 太古の森へ




ルチシャは普段通りの散歩服で正面玄関前のホールへ足を運んだ。


磨かれた床とシャンデリアが煌めく美しいホールには、父母と妹弟、数人の上級使用人が立ち並んでいて、ルチシャはその筆頭に立ち客人を出迎える姿勢を取る。


やがて執事のリーグッツによって外から玄関扉が開かれ、深緑色のフロックコートに身を包んだ背の高い男性が堂々とホールへ入室した。


ホールに並んだ一堂は皆、腰を折り、恭しく客人を出迎える。


父の履くものより鋭角に尖った革靴の靴先が、ルチシャから程よい距離を取ったところで止まる。

腰を戻せば、コートと同じ色合いのトップハットを取った竜王が穏やかな眼差しでルチシャを見ていた。


やあ。とホールに響く優しい声は低く甘い響きで、ルチシャは喜びを胸に男性を見上げる。



封印されてから今日まで、様々な懸念や調整のために森へ帰っていなかったヘイゼルだが、先日のモミの木の襲撃を受けたことで一度森の様子を見に帰ることとなった。

その際に、うっかり森に籠りすぎないよう恋人も同伴させてはどうかと、知人の精霊から提案を受けたそうだ。


森の入り口には門番としてひとりの魔女が住んでおり、その魔女はヘイゼルにとっての秘書官のような役目を果たし、ヘイゼルが不在の折には森の管理代行を任されるほどに信頼の厚い存在なのだという。

婚姻の前にその魔女との顔合わせも済ませておくべきよ、というのはマツの精霊からの助言らしく、ローアンの見立てでは、その魔女は驚くほど優秀で良心的な存在だからルチシャとも仲良くやれるだろうということだった。



ルチシャがヘイゼルの森に同行することに対して伯爵からの許可も得られた。

二泊三日で戻る予定だが、婚前旅行に該当するため外聞を気にするリリム夫人は心苦しげに眉を潜めたものの、竜王が連れていくと宣言したからにはそれに逆らうことは出来ない。


(私がヘイゼルに「反対されても行く」と我儘を言った結果、ヘイゼルがお父さまに直接話を付けてくれたのだけれど…)


およそ半年後、ヘイゼルとの婚姻の儀式を済ませたあとはその森に住むことになると聞けば、事前に見てみたいと思うのは当然だろう。


(生き物がたくさん居ると言っていたし、虫とかも多かったら少し考えものだもの…)


庭歩きや裏手の森の散策が趣味であるルチシャは都会育ちのご令嬢よりは昆虫たちへの許容量も大きいが、それでも限界値はある。

祖母が人間の魔女であったという庭師に話を聞いたところ、精霊の管理する森というのがどのような場所かはわからないものの、やはり森での生活は色々と不自由かつ困難なことも多く、屋敷で大事に育てられたお嬢さまでは苦労が重なるだろうと大いに心配されてしまった。


ローアンの森にもちゃんとしたお屋敷があるようだし、さすがに剥き出しの森で夜営生活…などという野性的な生活にはならないだろうが、場合によってはヘイゼルに、森での生活が平気になるような呪いをかけてもらう必要もあるかもしれない。




冬季開催の議会と社交のために王都に居た父母は、屋敷の敷地内に力ある精霊が入り込んでルチシャと竜王を害そうとした…という報告を受けて大急ぎで領地の屋敷まで戻ってきた。


その際にわざわざ父の執務室にヘイゼルが出向いて事情を説明してくれたのは、今回の襲撃により、伯爵領自体に魔女や精霊による『印づけ』がおこなわれている可能性が高まったからだという。


「先代の伯爵は、屋敷を訪ねてきた魔女と取引をした可能性がある」


「取引…でございますか」


「何らかの恩恵と引き換えに、祠のある森の入り口への『道』を繋げさせたのではないかと思う。今回はそれが悪用され、屋敷まで立ち入りを許すこととなった」


精霊の使う特殊な道にも幾つかの規則があり、この付近をただ通過する程度であれば問題なかったのだという。

悪意を持って侵入する行為は、ある程度ヘイゼルの守りによって排除されていた。

野生の獣の生活や人々の営みを阻害しない程度の弱い守りではあるが、通常であればあのような心理状態のモミの精霊が敷地内に立ち入ることは出来なかったそうだ。

だが、契約により土地の為政者に『招かれた』あるいは『許可された』状態になっていると排除の対象外となり、楽々と屋敷までの立ち入りが可能となってしまう。


今は一時的にヘイゼルによる守りを強めているものの、その契約が今後も残されたままであるなら、春になって家畜や獣のために元通り守りを弱めてしまうと、同じような手段で敷地内に立ち入る魔女や精霊が現れる危険が高いという。

そう聞かされた伯爵は、記憶を探りながら慎重に口を開いた。



「……先代は、祠の様子を見るために『道』を繋げさせて欲しい、その見返りに願いを叶えようとでも言われたのかもしれません。日照不足による食料危機か…あるいは当面の間の病の緩和か…先代当主が引き換えにしたであろう条件にいくつか心当たりはあります。しかし……その『道』とやらの契約を破棄するためには、貴方を罠に嵌め、祠に封じたという魔女本人と交渉する必要があるのではありませんか?」


「或いは、その魔女に巣食っていた精霊が事切れれば、繋げられた道を消せるようになる」


「巣食っていた…?」


「詳細は省くが、伯爵家を訪れた魔女は内側から精霊に操られていたとでも考えるといい」


「……その魔女や精霊を始末することは、竜王さまのお力でも難しいのでしょうか」


「いや……瀕死には至らしめたが、解呪を得意とする他の精霊の元に逃げ込まれてしまった。今は彼女の管理下にあるから、呪いの解析が済み解放されない限りは改めて殺すことが出来ない」



とんでもない発言内容に、この場に同席し、初めてヘイゼルと目通りしたリリム夫人はすっかり顔色を失っている。目線でルチシャの身の安全如何を問うてきたため、安心させるために緩く微笑んで頷いておく。


しばし考え込んだ伯爵は、意を決したように顔を上げた。

その表情に見覚えのあったルチシャは心のなかでそっとため息をつく。


「その魔女は、そのような状況下でも他の協力者たちに指示を出せるということですね?」


「あの魔女自体は、おそらく捨て駒のようなものだろう。現場に出て動く駒とは別に、全体的な指示出しをする者として、もう少し厄介なものが後ろに潜んでいると見ている」


「その者たちがここに住むルチシャを狙って動くのならば、ルチシャはこのまま家を出て、竜王さまの元へ居を移したほうが安全なのではありませんか?」



「ルバートさま…!」と咄嗟に声をあげたのは夫人で、ルチシャは父であればそのような判断を下すだろうと予想していたため、特に感情を揺らす事なく父とヘイゼルとのやり取りに耳を傾ける。


伯爵である父が守るべきは伯爵領と領民、そして次代を担うローゼルだ。ルチシャが屋敷に居ることで守るべきもの達が危険に晒されるというのなら、切り離すことに躊躇いはない。


ヘイゼルも予想していたのだろう。それでも返す言葉と表情にわずかに不愉快さを混ぜてくれたのは、先日ルチシャが「見放されることが怖い」と白状したからだろうか。



「それは、婚姻を早めろという意思表示だろうか」


「いえ、婚姻を結ぶ時期についてはお任せいたします。……お言葉ですが、正直なところ、この国にはもう娘の居場所はありません。竜に見初められたという噂は社交界でも知れ渡っており、国内に留めることで生まれる不利益も多いでしょう」


「そのような事情であり覚悟があるのならば、伯爵は僕がルチシャを太古の森へ連れて行くことを拒みはしないだろう。だが、今回はあくまで数日限りのことである。それに……ルチシャ、きみの幸福を損なうような真似はしないと誓うよ」


「はい。ありがとうございます」



父に向けられる冷たい視線とは一転して、柔らかな眼差しを向けて宣誓された言葉の内容に、ルチシャは微笑み返した。


多少の恋人らしい触れ合いを拒むつもりはないし、国から出ていくことが決まっているルチシャがこの国の慣習に従う必要はないものの、それでも淑女の身持ち心持ちとして婚姻前には超えないほうがいいと思う一線はある。

ヘイゼルの宣誓を聞いたリリム夫人も少しばかり安堵するような表情になっており、そこはやはり、女性と男性とで重きの置き方が違うのだろう。




そのようなやり取りを経て、ルチシャは今日から二泊三日の旅程でヘイゼルの森へ行くことになっている。


嫌でなければ出発前に義妹(いもうと)と弟を紹介したいというルチシャの申し出をあっさり了承してくれたのは、優しさというよりも、人間のようには家族との繋がりを重視していないからだろう。

ルチシャが会わせたいと言うならまあいいよ…くらいの感覚であるに違いないし、ルチシャとしても特別親しくして欲しいと願い出るつもりはない。

これから気候が暖かくなって弟や義妹が庭先に出る機会が増えると、デート中のヘイゼルとうっかり邂逅することもあるだろう。一度顔合わせを済ませておけば、遠目からの会釈や手を振ってバイバイといった簡易挨拶で済ませられるわ…という狙いからの申し出だ。



緊張でカチコチに固まっている弟の背を押して、礼を促す。

顔合わせが決まってからというもの、弟は、竜王さまとはどのような人物でどのような存在なのか、両親やルチシャにしきりに尋ね回っていたけれど、いざ本人を前にするとその威光を真っ向から浴びてしまったかのように、すっかり動けなくなったようだ。



「紹介させてくださいませ。弟のローゼル、次の春で七歳になります」


「は、はじめまして、竜王さま!」


「こちらが義妹のリリアンナ」


「初めてお目にかかります、竜王さま。ご挨拶の機会を賜りありがとうございます」


リリアンナは流石というべきか、流麗なカテーシーで挨拶をする。

鷹揚に頷き返したヘイゼルは、二人に寄り添うルチシャを見て僅かに表情を緩めた。


「…ルチシャはよくきみたちのことを案じている。迷惑をかけるね」


実際に迷惑を被っていたとしても、とんでも御座いませんと謙遜するのが貴族社会に於ける暗黙のルールだ。形式通りの言葉で応じたリリアンナを手本に、ローゼルも慌てて頭を下げる。


ルチシャは侍女が持ってくれていた旅行用の大きな鞄を受け取ると「では、竜王さまの森に同行して参ります」と両親に挨拶を残し、ヘイゼルの隣に立つ。

ヘイゼルは自然な流れでルチシャの手から鞄を取ると、空いている方の手を繋いでくれた。


顔合わせと見送りのために玄関ホールに集まってくれている家族と向き合えば、あと半年もせずに、こうして自分は家族と別れることになるのだなと実感が湧く。


寂しいといえば寂しいが、清々するかと聞かれれば、薄情ながらそうなのだ。

貴族のしがらみから脱却する自分の姿を想像するだけで胸が弾むくらいには、ルチシャはずっと、貴族の出自であるがゆえの事情に振り回され続けてきた。

今は、そのしがらみの中に残される義妹の身が心配なくらいだろうか。



「行って参ります」


「暫し、預かる」


「娘をどうぞよろしくお願いいたします」


当主である父が腰を折れば、使用人を含めた全員が頭を下げることになる。そのように皆が畏まっている姿を眺めると、まるで王族にでもなった気分だ。

まさかこんな光景を見ることになるとは思わなかったわ…としみじみ思いながらルチシャは、ヘイゼルが開いてくれた精霊の道へと踏み出した。




ドアを開けるべく待機していた執事が、突如現れた摩訶不思議な空間に姿を消したふたりに驚きと困惑を隠せないまま「……竜王さまとお嬢様はお出になられました」と声を発したことで、見送りに並んでいた一同は緩々と顔を上げた。


怪訝そうにする伯爵とは対照的に、純粋な驚きの声をあげるのは末子のローゼルだ。


「え!?すごい!消えた!父さま、母さま!姉さまと竜王さまが消えました!」


「………リリアンナ、何か聞いているか?」


「詳しくはわかりませんが、森までは『精霊の道』というものを通って行くと伺っています。人間には見えない道ですが精霊である竜王さまと共に居れば通れるようで、以前、巫女竜さまの住まいから王都へ戻る際にも使ったそうです」


「リリ姉さまは通ったことはないのですか?」


「ルチシャ義姉さまから聞いただけですから、私は通ったことはありませんよ」


血の繋がった姉弟にしてはどこか余所余所しさを感じるくらいに丁寧な返答だが、ローゼルは気にした様子もなく、やはり純粋にはしゃいでいる。

「お戻りになったら、どんな道なのかお尋ねしてみます!」と意気込む息子を諌めるのは母であるリリム夫人の役割だ。


「竜王さまとの事は安易にお話しできない事情もあるでしょう。無理に聞き出そうとしてはいけませんよ」


「はい、母さま!でも、精霊だけの道があるなんてとっても気になります!姉さまはすごいなぁ…!」


父さまも驚きましたよね!?と話を振られた伯爵はひとつ頷くと、ローゼルとリリアンナに言い聞かせるように告げた。


「本人は婚姻後も折を見て帰郷するつもりでいるようだが、実際にそのような機会があるかはわからない。必要があるなら今のうちにルチシャとの交流を済ませておきなさい」


言われた内容が半分程度しかわからないながらも、はい!と元気に返事をしたローゼルに対し、リリアンナは努めて表情を消しながら「かしこまりました」と静かに頭を下げた。









「ルチシャは伯爵を恨んだり、弟を妬んだりしないのかな?」



相変わらずルチシャにとっては真っ暗なばかりの精霊の道だが、エスコートしてくれるヘイゼルを信頼して身を任せる。

三十分程度歩いたら到着するというのだから、この精霊の道というのは本当に便利だと思う。

一方で、このような道が繋がった先でリリオデス伯爵家が正体不明の悪意に狙われていると思えば、やはり心配は募る。


これからを案じていたルチシャに、ヘイゼルはおもむろに問いかけた。

それはきっと、伯爵が実の娘でありながらルチシャのことをあっさり手放そうとしたからであり、伯爵家の後継というルチシャの立場を奪い取った、無邪気に幼い弟を見たからなのだろう。



「……かつて、わずか九歳の私を執務室に呼び出した父は、心を病んだ母を排除し、私の家庭教師であるリリム夫人を後妻として迎え入れると宣言したのです。それは相談ではなく決定事項として報告されたものでした。いずれは夫人が子を身籠り、後継となる男児を産むかもしれないという可能性も含めて話をされ……その時にもう色々なことを飲み込んでしまったので、その後の展開は驚くほどすんなりと受け入れられました」


「だから実際に弟が生まれても落胆しなかった?」


「ええ、そこは覚悟のうえでしたので。むしろ、リリアンナが当時とても怒って……いえ、あの子は今も怒っていますね。彼女はきっと生涯、リリム夫人を許さないでしょう」


「実の母親なのに?」


「実の母親だからこそ、拒絶感があるのかもしれません。私たちのなかにはきっと、母は女ではなく母であって欲しいという身勝手な願いが潜在的にあるのでしょう」



単一派生である精霊にはわからない感情ではあるものの、ヘイゼルは文献や動物たちの営みの中から、母子の関わりについて知見を得たことがあると頷いてくれる。

やはり生殖に関しては動物と人間では様々なところで異なるねと呟いているので、彼なりに興味深く捉えてくれているのだろう。


下手に同情されたり慰められたりしないぶん、相手の心象を考慮する必要もなく、実際に起きた出来事をそのまま伝えられるためとても話しやすい。

ルチシャの育った家はそれだけ事情が複雑であり、正直、あまり他言できるような経緯でもない。


ルチシャの母が存命のあいだに伯爵と不倫関係に至った母が許せない娘と

拒めば職も住処も失い、尚且つ古くからある伯爵家から罷免されたとなれば今後どの貴族からも雇用されないであろう状況で選択を迫られた母親。

義妹の感情も義母の置かれた立場も理解できてしまうため、ルチシャはどちらにも肩入れできず、結果としていつも第三者として二人の不和を見つめるばかり。


リリム夫人がもう少し早い段階でリリアンナに説明出来ていれば違ったのかもしれないが、リリアンナは噂好きなランドリーメイドたちの軽口で事情を知り、その時すでにリリム夫人は極秘にとはいえ懐妊していた。

思春期に入った娘からすれば受け入れ難い事だったのだろう。


「それにリリアンナは、ゆくゆくは私の侍女になりたいと将来を見据えて努力していましたから…」


「ああ…夫人の生んだ子どもがルチシャの立場を奪ったことも、夫人の振る舞いで自分の目標が潰されてしまったことも、許せなかったんだね」


複雑に絡んだ彼女の心情をさらりと読み解いたヘイゼルは、じゃあ、と首を傾げた。


「きみをあの家から奪ってしまう僕のことも嫌っているのかな?」


「いいえ…相手が竜だと話したときは、どうして嫁ぎ先が貴族の男性ではないのかと呆れられましたが、ちゃんと心寄せる相手であるなら良いのだと受け入れてくれたようです」


「……人間の心の動きは相変わらず複雑で難解だね」


「そうですね…私にも色々な感情がぐちゃぐちゃと渦巻いている時期はありました……でも、当時の使用人たちの言葉や、のちに読んだ物語などで、家庭教師と屋敷の主人の浮気はさほど珍しいものではないと知りましたし……離宮に追いやられた母はもう、伯爵夫人としての務めも母親としての務めも出来ない状態でしたので、最終的には仕方がないと諦める気持ちで落ち着いたのでしょう」



あの頃の記憶はあまり鮮明ではない。けれども、部分部分に覚えていることがあって、使用人たちの言葉や少し背伸びをして読んだ大人向けの恋物語の内容、その時に抱いた感情が、脳に焼けついたように残っている。

そして母の最後の姿も……最後に残した言葉も、ルチシャが生きている限り、決して風化することはないだろう。


だが、もうその記憶に苦しいほどに悩まされることはない。

(ヘイゼル)という稀有なパートナーと彼から与えられる安らぎを得た今、悲しみは薄れゆくばかりだ。



「そういえば、私が祠へ行き始めたのはちょうど父と義母の関係が始まった頃からだった気がします。あの辺りに行くと気持ちがスッと落ち着いて頭の切り替えがうまくいったので足を運んでいたのですが……ハシバミの木には鎮静作用などもありますか?」


「どうだろう…祠での僕は、鎮静からは程遠い状態だったからなぁ」



祠のなかでヘイゼルは、魔女への怨みを募らせ禍々しい呪いを編んでいた。

そういえばそうだったわ…と苦笑していると、ヘイゼルは柔らかな瞳でルチシャを見た。

祠に埋められていた翠玉をいつも美しいと思って眺め、時に丁寧に磨いていたけれど、今はヘイゼルの瞳を縁取る多彩な緑に心惹かれるばかりだ。



「でもまあ…古い時代にハシバミは、癒しの魔法の媒介や無病息災の護符として使われていたようだし、祠には心身を癒す効能を持つエメラルドが封じ石として埋められていたからね。あそこにあった何かしらの要素がきみの心の安寧にひと役買えたかもしれないと思えば、封じられた恨みも多少は晴れるというものだよ」


「ふふ。祠のあった場所に記念碑を建てたいくらいですね」


「竜王が封じられた場所として?」


「……竜王が恋をした場所として?」


「ああ、それはいいね。僕ときみが出会った場所として大事にしよう」



今はヘイゼルの植えた若木が立っているばかりの場所を思う。

魔女の騒動が終わって、あの辺りに繋げられた物騒で危険な『道』というものが塞がれたなら、何か出逢いの記念になるようなものを置いてもいいかもしれない。


(……でも、祠が出来たときにも王族がお忍びで見に来たというし、伯爵家に余計な負担がかかるのは困るわ)


父が迷惑を被るのは別に構わないが、弟がそのような事で振り回されてしまっては可哀想な気がする。



そうこうしていると、ヘイゼルが指先をクルクルと動かして、精霊の道の出口を作ってくれる。

暗い道から明るい外界へ出た一瞬だけくらりと目眩を感じたものの、瞬きを数回すれば慣れてくれた。

そして、目の前に広がる広大な木々の群れに、思わず圧倒されてしまった。


「森……」


背の高い針葉樹が雑然と立ち並ぶ森は薄暗く、先の見通しも悪い。

当然ながら人間が安全に通れる道など整備されておらず、昼間であっても危険が多く、夜更けや明け方には決して近寄ってはいけないという雰囲気を纏っている。


生き物が多く賑やかだと聞いていたため、もう少し明るい森を想像していた。


思っていたものと全く違う様相を呈する森を見上げて茫然とするルチシャに、ヘイゼルは優しく安心させるように「ここではないよ」と言ってくれる。



「これはカモフラージュでね、僕の森へ至るには、唯ひとつの入り口を見つけ出して、然るべき手順を踏まなければならない。

さて、そのためには森の管理者に会う必要があるんだが……彼が変なものに手を付けられていないか確かめるから、良いと言うまで後ろに隠れておいで。離れてはいけないよ?」


「はい…」


ヘイゼルの後ろに回って、コートのベルトを掴む。

子どもの頃にリリアンナと、リリム夫人のドレスのリボンを追いかける遊びをしたな…と一瞬幼少期の記憶が過ったけれど、今は気を抜く時ではないだろう。

ヘイゼルは鬱蒼としげる森の中を見ているようだ。

ルチシャからは木々の幹と地表に生える丈高の雑草くらいしか見えないけれど、ヘイゼルには別の何が見えているのかもしれない。



ややあって、ヘイゼルは小さく息を吐き、首を捻って背後のルチシャを見た。


「変わりないように見えるね……あとは、少し会話をすればわかるかな」


「そこにいらっしゃるのですか?」


「うん。見えづらいけれど、森に少し入ったところに小さな小屋がある。おいで、紹介しよう」



再び手を取られて、険しい森へ足を踏み入れる。


背の高い常葉樹によって陽が遮られ、葉の隙間から落ちる僅かな光を頼りに足首までの高さの草が茂り、幹の根本には蛇のように蔦が絡んでいる。

冬の風が吹くたびに葉がザワザワと不穏な音を立てて揺れ、葉の落ちてしまった木は、太い枝を剥き出しにして恨みがましい様相で立っている。

恐ろしの森…という単語が頭に浮かんだ。それはルチシャが子どもの頃に読んだ物語で、躾のなっていない子や親に見捨てられた子はその森に入ると何処かへ攫われてしまうのだという。


冬の寒さではなく、あまりの不穏さにぶるりと身震いしてしまいそうだ。


しかし、数十メートル進んだところで突如視界が開けた。


半径五メートルほどの円形状に、そこだけぽっかりと木々がなくなって、小屋と幾つかの花壇が姿を現した。今は土ばかりで目立つ植物は生えていないが、暖かい季節であれば花壇には草花が咲いていたのだろうか。或いは、野菜などが生育していたかもしれない。


その花壇のそばにかがみ込んでいるのは、緑がかった黒いストレートの髪を一本に結び、灰色のシャツに暗緑色のズボン、ショートブーツに黒い軍手という、簡素ながらも動きやすい服装に身を包んだ男性であるようだ。

冬撒きの種を植える支度をしているのか、花壇の土を整えている。


(ヘイゼルの森に居る魔女は男性と聞いたけれど、あの方がそうかしら…)


彼は足音に気づいたのか、ゆっくり立ち上がるとこちらを向き……ギョッと驚愕に目を瞠った。


「ヘイゼル様!?」


「やあ、戻ったよ」


「おかえりなさいませ…!一体どちらに寄り道されていたんですか。随分と不在にされておりましたので、森が元気をなくしていますよ」


「深刻な被害は?」


「今のところありません。少々収穫が落ちているのと、世界樹さまから、奥方さまへの献上品が届いていないぞという手紙が毎年送られてきたくらいでしょうか」


「彼にはひと月ほど前に会った。借りが出来たし、次の秋には余分に送るようにと言われたかな。……森の者たちからの不満は?」


「貴方へ明らかな不満を申し立てる者などいないでしょう。長らくの不在に対する不安が、さざめきのように広がってはいるようですが…」



そこでふと男性はヘイゼルの隣に立つルチシャに目を向けた。

土筆色の瞳は、不思議そうにルチシャを見た後ヘイゼルに戻される。



「…………お客さまですか?貴方が誰かをお連れになるのは珍しいですね」


「恋人を連れてきた」


「恋人!?…………こ、恋人!?」



先ほどよりも大きくギョッ!っと目を剥いた男性は、ヘイゼルとルチシャを何度も見比べる。

それはルチシャが分不相応だと主張するものではなく、あくまでヘイゼルが恋人を連れてきた事への驚愕と困惑とであるようだ。



「その反応は失礼すぎないかな?」


「ヘイゼル様に恋人が出来るなんてもはや天変地異としか………ちゃんと同意のうえで連れて来られたのでしょうね?誘拐などなさっておりませんか?」


「あまりにも信頼が低いね」


「信頼云々といいますか、貴方は良識的な所とそうでない所がありますので………申し訳ありません、のちほど改めて自己紹介をさせて頂きますが、まずは中にご案内致しましょう」



ルチシャを置き去りにして会話を続けたことを詫び、男性は小屋の中へと導いてくれる。


小屋の中は至って普通の仕様で、ローテーブルを挟んで一人掛けソファが向かい合わせに置かれたリビングでは暖炉が赤々と燃え、壁には害獣駆除に使う猟銃が掛けられている。そこから右手側に小さなキッチンとカウンター式のダイニングがあり、調理器具の他には薬草や香草が幾つか干し下げられているようだ。


不躾だとは知りながらもついつい興味深く室内に視線を走らせてしまうルチシャとは対照的に、男性とヘイゼルは素敵な家の中をあっさり横断して、勝手口の扉へと手を掛けた。


こちらへ、と示された扉を潜れば、そこに広がるのは鮮やかな緑に囲まれた清爽な森で。


冬の風に揺れる僅かな深緑色と枯れ枝の茶色が混ざる景色は先ほどと同じ並びの筈なのに、全く異なる印象を抱かせる。

まるで、不穏な気配を纏った薄暗く険しい森が、柔らかな陽射しの差し込む明るい森へと様変わりしたかのよう。


ヘイゼルを見上げると、彼は柔らかな瞳を細めて「僕の森へようこそ」と囁きかけてくれた。

ここがヘイゼルの森なのね…と再び視線を戻し、くるりと周囲を見渡す。



「お屋敷にお連れして構いませんか?」と、勝手口の扉に鍵を掛けた魔女な男性からの問いかけに、ヘイゼルはゆるりと首を振った。


「いや…きみの家でお茶を貰おうか」


「私の家でですか?構いませんが……あまり整っておりませんよ?」


「この子の故郷は精霊や魔女が少ないそうでね。魔女の家を見るのは初めてだそうだ」


「そうなのですね……とはいえ小さな山小屋のような家なのですが……ヘイゼル様、今は特に燻製肉が置いてある時期ですので、においが強くないよう風の調整をお願いします」


「そうしよう」



ヘイゼルと手を繋いだまま、背の高い木が並ぶ森に足を踏み入れると、さほど歩かないうちに再び開けた場所へと辿り着いた。

そこには生垣に囲まれた小さく愛らしい外観の家があり、建物の周囲には、庭の規模を遥かに超えた広大な花壇が広がっている。区画ごとにしっかり区切って整理してあるのは、草によっては他の生育を脅かすほどの繁殖力を持つ種もあるからだろう。


冬であるため花壇に青々と茂っている草は多くないけれど、どこからともなく若い香草のにおいが漂ってくる。

そしてそれは、どうぞと開かれた家の扉を潜ると、より顕著に感じられるようになった。


天井から所狭しと吊るされた草花と、無数の引き出しのついた薬棚らしきチェストが部屋を大きく占拠している。

リビングには小さな円形のテーブルが置かれて椅子が三脚並ぶだけの簡素さで、

ダイニングテーブルはもはや作業台と化しており、キッチンは清潔ながらも物の多さでどこか雑然とした印象を抱かせる。

壁面の棚には無数の瓶が置かれ、家というよりも古い診療所や研究所のようであった。



ヘイゼルがリビングの椅子を引いて座らせてくれる。

「臭かったら言うんだよ」と言われたが、人様の家で抱くには失礼すぎる懸念だろう。だが、これほどに多くの植物が保管されていれば、やはり香りは独特のものとなる。


丹念に手を清め、キッチンの戸棚から装飾の美しい茶器を取り出しながら、男性は穏やかに言葉を紡ぐ。


「精霊が少ない国ならばヘイゼル様をご覧になって驚かれたことでしょう」


「彼女の故郷はローアンの守護の国だから、竜という存在は知っていたようだ」


「ああ、そういえばローアン様は人間に守護を与えておいででしたね。……ん?確かヘイゼル様も、ローアン様とお茶をしてくると出掛けられたのではありませんでしたか?あの土地に、そんなにも長く留まっておられたのですか?」


「封印されていたんだ」



ガチャン。

と、茶器がぶつかる音がした。割れはしなかったようだが、手元を疎かにしたまま驚愕の顔で固まった男性がヘイゼルを見つめる。

その表情に籠められた並々ならぬ迫力に、ルチシャは小さく息を呑んだ。



「……………………今、なんと?」


「封印されていたんだ。とある魔女によってね」


「魔女……?魔女ごときがヘイゼル様を封印出来る筈がありません!」


「そうだね。随分多くの者が唆されたようで、モミの木や若いハリの木も協力者のようだ」


「またあの沼竜ですか!?……ですが、無事に戻られたということは封印は解けたのですね」


驚愕と怒りを発露させたものの、今ここに無事で居ることの意味を飲み込んだのか、男性はホッと息をついて表情を取り繕った。

大きな声出してしまったことへの詫びとしてルチシャに目礼してくれたため、問題ないと首を横に振っておく。



「彼女のおかげでね。リンゴの精霊の宝石を使った封印だったから、想い人の居ない僕には効果覿面だったようだよ」


「あの方の宝石まで使われていたのですね……本当によく戻って来てくださいました。そして、ヘイゼル様の封印を解いてくださったこと心よりお礼申し上げます」



茶器をテーブルに運んだ男性から今度こそ深々と頭を下げられ、ルチシャは慌てて顔を上げてもらう。封印を解いたといってもルチシャは何も特別なことはしていないのだ。


縁が花びらのように優美な曲線を描いたカップに黄色みの強いお茶が注がれる。

燻製したようなウッディな香りのあとに、一瞬だけどこかで嗅いだことのあるような薬味のようなにおいがあり、けれども立ちのぼる湯気と共にふわりと消えてしまう。


可愛らしいフォルムの瓶を取り出した男性は、蜂蜜専用の掬い棒を手ににこりと微笑んだ。


「蜂蜜や、蜜の元であるセアノサスにアレルギーはございませんか?」


「セアノサスという植物?は初めて伺いますが、大丈夫だと思います」


「では少量お入れいたしましょう。喉に違和感などがありましたらお早めにお教えください」


掬いとった蜜をカップに数滴。ヘイゼルの方には倍くらいの分量を落とし入れ、細長いスプーンで優しく混ぜてくれる。

今度は花のような華やかな香りが加わり、その不思議な香りの変化を愉しむようにルチシャは深く息を吸い込んだ。


お茶菓子も揃い、ヘイゼルがひとくち飲むのを見届けてからカップに口をつける。

まずはその複雑優美な香りに圧倒され、深い味わいが思ったよりも軽い足取りで喉を通り抜けていく。そしてわずかに残る苦味を包むように、蜂蜜の甘い優しさを感じる。


言葉を失ったまま感動するルチシャに、ヘイゼルと男性はよく似た表情で微笑んだ。


「口に合ったかな?」


「はい、とても美味しいです…」


「それはよかった。こちらはヘイゼル様の一番お好きなお茶です」



嗜好が合えば、些細な喜びも分かち合いやすい。

ヘイゼルがリリオデス伯爵家で出されるお茶に不満を漏らしたことはないが、特別称賛したこともない。

このような複雑な組み合わせからなる素晴らしい味と香りを日々口にしていたのだとすれば、伯爵家で提供する紅茶は、不味くはないものの単調な味わいに感じることだろう。


(家に帰って、普通の紅茶では物足りなくなってしまったらどうしよう…)


茶葉のレシピを聞いたところで、おそらくルチシャには名前すらわからない植物が使われているだろうし、何よりもこんなにも華やかな味わいの蜂蜜はどこにも売っていない。

再現できずに悶々とする羽目になるのは間違いない。


そういえば、香草茶はかつてローアンのお友だちであった四代前の王妃殿下が国内で一大ブームを作ったという過去があったはずだ。おそらくは、森でのお茶会を通して発想を得たのだろう。

ヘイゼルとローアンからの許可が得られたら、リリアンナに提案してみるのもいいかもしれない。

次期子爵家当主に収まるとはいえ、侯爵家出身の男性との縁組みを受ける以上は、彼女にも王都で軽んじられないだけの武器が必要になる。それに、流行には至らずとも竜好きなご子息の興味は引けるに違いない。



ルチシャがそんなとりとめもないことを考えながらお茶を楽しんでいると、早くも飲み終えたヘイゼルがカップを置いた。

魔女な男性は満足げに小さく頷き、そして、ヘイゼルの足元に、まるで首を差し出すかのように平伏してみせた。



「此度は我々の同胞が不敬を働いたこと、心よりお詫び申し上げます。どうぞこの身を如何様にも処断なさいますよう」


「え……っ」


突然のことに状況が飲み込めないルチシャは、突然床に平伏した男性とヘイゼルを見比べてドキリとした。ヘイゼルの表情はとても冷たく、琥珀色の瞳も金属のような硬質な輝きを宿すばかりで、先ほどまでの柔和さはどこにもない。


「ヘイゼル……」


ルチシャの不安を感じ取ったのか、こちらを見たヘイゼルは困ったように微笑んだ。


「以前、言っただろう?魔女はどこで繋がっているかわからないと。だからこそ、口を封じておく必要がある」


「そんな……」


ローアンが、ヘイゼルの森に居る魔女は類稀な有能さであると賞賛していたのを思い出す。

ヘイゼルに呪いで排除されることなく長く添える存在が希少なのだと力説され、森の管理代行すら任される魔女とは一体どのような人物かと、期待を胸に今日を迎えたのだ。


彼を喪ってしまってはヘイゼルのお気に入りのお茶を淹れてくれる存在が居なくなってしまうのでは。

それに、自分が森に住むにあたって助言をくれる存在が居なくなってしまうのでは。

身勝手ではあるものの、ルチシャにとってそれらは切実で重要なことだ。


軽々しく口出しすることはできないが、ハラハラしながら見守るルチシャの前で、ヘイゼルは平伏する男性に向かって静かな判決を告げた。



「僕らの蜜月が明けるまで、宴を含む魔女集会への参加を禁じる」



告げられた言葉を理解するまでの数秒間、室内には張り詰めたままの空気が残った。

けれどもルチシャか男性か、あるいは両者が同時に、詰めていた息を吐き出したことでようやく室内に色と音と香りが戻ってくる。


(良かった…首を切り落としてしまうのかと思ったわ…)


さすがにルチシャの前でそのような蛮行には及ばないだろうが、禍々しい呪いのひとつやふたつは立ち昇るだろうと思っていた。


そういえば、殺すのは惜しいと以前言っていたような気がするわと今更ながらに思い出す。

それでも「有罪であれば容赦なく呪う」とも言っていた気がするため、呪いが発動されなかったということは、彼は今回の事件に一才関与していないと判定されたのだろう。



宴への参加を禁じることで他の魔女との接触を控えさせて、今後の対策としたのね…とルチシャが納得する一方で、床に伏していた男性はその姿勢のまま「宴の禁止……酒が……」と茫然自失な状態でぶつぶつと呟いているし、ちょっぴり泣いている気配もする。

ルチシャからすれば軽微な禁止措置程度で済んで良かったという心地だったが、魔女からすれば、魔女集会への参加を禁じられる事は、とんでもない重罰なのかもしれない。



「萎びてしまったように見えますね……」


「彼は年に四度ある節目の宴で、溺れるほど酒を飲むのを楽しみにしているからね」



さらりと教えられた衝撃的な事実にルチシャは「まぁ…」と口元を押さえる。

普段生真面目なのに酒席でのみ人格を変貌させる人も居ると聞いたことがある。

「だからお嬢さんも結婚前には一度、夫となる男に酒を飲ませて観察したほうがいいですぜ」と助言をくれたのは厩舎統括のダスティだ。



「失礼かもしれませんが、これまでに酔っぱらってヘイゼルのことや森の秘密を漏らしてしまう危険はなかったのでしょうか」


「秘密といっても……これまでは明かされて困るようなものはあまり無かったから。でもこれからは、それなりに情報規制をするべきかもしれないね」


「家でお酒を飲むのも禁じてしまったんですか?」


「いいや。ただ、魔女の宴で出される酒は幻覚剤とかが入った特別製だから、家では常用できないんだ」


「幻覚剤……」


またまた飛び出した衝撃的な事実にルチシャは隠すのも忘れて口をぽっかり開けてしまう。

それは酔っているというよりも、正気を失っている状態なのではなかろうか。


聞けば、限られた存在が限られた時にのみ飲用できる超限定的な秘酒があるらしく、その製造管理はたったひとりの魔女がおこなっているという。その魔女に会えるのは年に四度の節目の宴だけで、しかもその魔女が毎度参加するわけではないため、飲めるか飲めないかは運次第の貴重なお酒らしい。

飲めばひと口で天にも昇るというが、それは実際に生死の境を彷徨っているのでは?と、ついつい疑いの眼差しを向けてしまうのも仕方のないことだろう。


(聞くからに危なそうなお酒だわ…)


興味を持ったと思われたのか「ルチシャは飲んではいけないよ」とやんわり制止されたけれど、そのような危険に身を投じる趣味はない。



「お客様にお出しするものに危険物を入れるつもりはありません……ヘイゼル様、命を繋いでいただきありがとうございます」


「繋がったかはわからないけれどね。彼女と結婚するのは次の夏だし、蜜月はそれから更に半年近くあるから」


「……………………生き延びてみせます」


「頑張るといい」



ヨロヨロと起き上がったかと思ったが、ヘイゼルからのトドメを受けて、再び膝から崩れ落ちるようにして座り込み、やっぱりちょっと泣いている。

一瞬だけ薬物中毒…という単語が過ったものの、ルチシャは気づかないフリをしてお茶菓子を食べながら男性の復活を見守った。


薄焼きのクッキーのようなお菓子は、ほんのりと薬草やスパイスの風味がして、蜂蜜を使っているのか砂糖よりも素朴な甘さでまとめられている。

カリカリとした食感の端っこと、サクッ、ほろりと口の中で壊れる中心部。

絶妙な焼き加減と味わいに小動物になった気分で夢中で齧っていると、ヘイゼルがこちらを見て「可愛いね」と微笑んでいた。



「美味しいだろう?彼はお菓子作りが趣味なんだ」


「お茶もお菓子も、不思議で複雑な味わいなのでつい夢中になってしまいます」


「これは確かレーベンスクーヘンと言って、かつては生命の菓子とも呼ばれていたものじゃないかな。彼は古くからあるお菓子を研究して作るのが好きでね、来客にも振る舞えるよう変な植物や素材は入ってないから安心して食べるといい。…ただ、中には人間がたくさん食べると不調をきたす薬草もあるから、出された量で留めるのがいいかもしれない」


「そうなのですね…気をつけます」


「苦手なものがあれば無理をしないほうがいい。こういうものは身体が求めていないと、あまり美味しく感じないこともあるそうだから」


前回食べたときはとても美味しかったのに、二回目は香りが鼻につくようになったり、逆に苦手だった筈のものが、その日だけは無性に食べたくてたまらなくなったり。

肉体が求め、拒絶する味や成分が日々異なるのだと聞けば興味深い。


「僕は精霊だからそれほど大きく嗜好が変わることはないけれど、何となく気分で変えることもあるから、そういうものなんだろう」



お茶やお菓子のなかに入っているスパイスについて話していると、ややあって、沈んでいた男性がしっかりと立ち直った。

乱れた髪と衣装を整え、先ほどの醜態などありませんでしたという素敵な姿になると、ヘイゼルの横に立って美しいお辞儀を披露してくれる。



「改めましてご挨拶申し上げます。第九の森の門番にて、管理代行を任されておりますホーステールと申します。どうぞよろしくお願いします」


「ご丁寧にありがとうございます。私は…むぐ、」


「相手は魔女だから不用意に名乗ってはいけないよ。ホーステールは真面目で口煩くてとても良い子だけれど、なかには根性が捻じ曲がっている魔女も居るからね。正式に呼び名を与えるの婚儀を済ませてからにしよう」


「私に関しては褒めているのか貶しているのか判別つきにくい評価でしたが、魔女全体への評価は概ね低いですね」


「封印されたばかりだからね」


「それはごもっとも。どうぞ御用心くださいませ…御身に何かあれば、森が枯れますゆえ。……少々気が早いかもしれませんが、奥方様と呼ばせていただきます。私のことはどうぞお好きなように」


婚姻までは『ルチシャ』という音の響きが記憶に残らないよう、ヘイゼルはホーステールに軽微の呪いをかけたようだ。

靄のようなものが耳からするりと入り込むのが見えたが、ホーステールは大して気にした様子もなく、自分で茶器をもうひとつ用意するとヘイゼルの隣の椅子に腰を下ろし、慣れた様子でお茶を嗜む。

貴族の主人と従者のような関係に見えたため給仕に徹するのかなと思っていたが、どうやら共にテーブルを囲むようだ。



「用心として宴への参加を禁じられたのはわかりますが、貴方を封印したという魔女は既に生きていないのでしょう?」


「いや、しぶとく存命している……散々呪っておいたが、今はニワトコの精霊の元で解呪の被験体になっている。足取りを追ってみたところ、複数の協力者と共に何らかの陰謀に手を貸しているようだ」


「……複数の精霊が足並みを揃えているというのですか?」


「揃っているかは甚だ疑問だがね。モミは単独でやってきたし、どの程度本気かはわからないが、ハリの若木も一枚噛んでいる。彼の相手はローアンに押し付けてきたから此処に来る心配はないだろう」



先ほど沼竜と苦言を呈していたように、ホーステールもハリの若木にはあまり良い印象はないようだ。聞けばこれまでに幾度も森の入り口を訪ねて来ては騒ぎ立て、門番であるホーステールもいくらかの実害を被っているという。

一度、竜王に取り次げと荒ぶったときに花壇の薬草を踏み潰されたことがあり、それ以降、決してあの竜がこの森の入り口に辿り着けないよう強力な呪いを編んだそうだ。

どうやら、怒ると呪うところはヘイゼルとお揃いらしい。



「それと、寄生種が関わっているという確認がとれた」


「寄生種ですか……ヘイゼル様が不在のあいだに新しく外部から迎え入れた精霊はおりません。ですが、その前から仕掛けられていたとすれば、森に手が及んでいないとも限りませんね…」


「それはこちらで確認しておこう。確定ではないが、僕が森に戻ったことを察して何か仕掛けてくる可能性もある。きみの目で見て怪しい人物が居れば捕縛して構わないし、尋問も好きにするといい」


「承りました」


幸いにも自白効果のある薬草も各種揃っておりますからねと微笑まれては、ついついお茶菓子に目がいってしまう。そして天井にぶら下がっている乾燥中の草たちは、一体どのような効果のある薬草なのだろうか。



ヘイゼルが封印されている間の魔女集会の様子や近隣諸国、他の守護者の管理する森の変化などを語るホーステールは有能な秘書官のようで、もともと魔女集会は、自身の住む土地では育たない薬草や情報を交換する場であったのだという。

かつては魔女を害悪として排除しようとする国もあったからね…と語るヘイゼルはただ歴史の教科書を読んでいるかのようで、そこに余計な感情や感傷が篭らないのが彼の在り方なのだと心得る。

薬草の味見がいつからか料理やお菓子、酒の提供に繋がり、宴会のような様相を帯びたことで魔女の集まりを宴と呼ぶようになったそうだ。



さて…と腰を上げたヘイゼルは、茶器の片付けをホーステールに任せるとルチシャの手を取って椅子から立ち上がらせた。


「森の再生が必要ならば、散歩がてらぐるりと歩いて屋敷へ向かおうか」


「奥方様がお疲れのようでしたら再生は明日以降でも構わないかと。ご滞在のあいだは私がお食事のお世話をさせていただいても宜しいでしょうか」


「食事は頼もうかな。ルチシャへの身体への影響もあるから、数日で戻すつもりだ」


「疲労感や頭痛などを感じられたらすぐにご申告ください。太古の森は少々独特な気配がありますので」


「はい。ありがとうございます」


ホーステールからの有難い忠告に頷き、ヘイゼルにエスコートされるまま玄関とは違う出入り口へと向かう。

また別の場所に出るのかしらとドキドキしながら、ルチシャはヘイゼルの手が扉の取手を回す様子を熱心に見つめた。





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