7.5 幕間 残骸と愛
▽他国でのお話(幕間5.5と同じ国)
▽7話中盤、ヘイゼルが向かった先での話。
「ユールに近いこの時期に賢者サマを激怒させた阿呆が居ると聞いて見に来たぜ〜」
空気の凍てつく冬夜の森に不似合いな緩さで現れた男は、竜王に首を掴まれ見るも無惨な姿になっているモミの木の精霊を見て、愉快そうに目を細めた。
灰黒色の短い髪に、紫色の瞳。切れ長の目元と通った鼻筋を持つ男は、親しみやすい表情を浮かべ、ゆるい雰囲気を纏っている。
白灰色の半袖のTシャツに黒の細身のパンツ、黒いサンダルという季節感を無視した出立ちで登場した男に、竜王ことハシバミの精霊は、仄暗い感情を宿す瞳を隠さず向けた。
「ナイオン…」
「おっと、俺のことはユグルドと呼べ。世界樹ユグドラシルの化身にして世界の中心!」
ヘイゼルは、今は構っていられないとばかりにふざけた物言いの男から視線を外し、再びモミの木の尋問を再開する。代わりに、近くの岩に腰掛けて見物客になっていたマツの木の精霊が、男に呆れた視線を投げた。
こちらも冬には不似合いの、太腿あたりまでの深いスリットの入った薄手のドレスを着用しているものの、心配性な恋人が掛けてくれた大きめの男性用の上着を肩に羽織っている。
「お嫁ちゃんが冬眠して暇なのぉ?」
「やあ、アイラ。彼氏くんとは仲良しかい?」
「とぉっても仲良しよ!でもヘイゼルがモミの精霊ちゃんを半殺しで連れて来ちゃったから、今はオシゴトに行ってるわ。この国ではマツの木に飾り付けをすることが多いけど、モミを代用している地域もあるんですって」
力あるモミの精霊が弱体化すれば、影響を受けて立ち枯れてしまうモミの木も出てくる。
常緑のモミは枯れれば色褪せる。ユールの時期に突如そのような変事があると、信仰心にあつい人間たちは、天変地異の前触れだ厄災の予兆だ何だと大騒ぎしてしまうのだ。
枢機卿であるドルティアンがマツの大精霊から守護を得ていることは教会組織の上層部は皆知るところであるため、彼の言葉や忠告が軽んじられることはない。
ヘイゼルがモミの精霊を引き摺ってアイラに会いに来たことで諸々の事情を察したドルティアンは、今回の変事は精霊間の諍いの結果であることや、モミの代替としてトウヒなどを使うようにと伝えるべく大聖堂へと赴いている。
「ディーのお仕事はちょっぴり増えちゃったけど、ヘイゼルの恋人の国では枯れたモミの代わりにマツを使うそうだからいいわ。なんでも、物凄くキラキラな飾り付けをたっぷりするんですって」
「この国の飾りは地味だもんな」
「古風と言って〜。確かに古き善き風習は良い力を与えてくれるけど、気持ち的にはキラキラしたいじゃない?ほら見て。松ぼっくりのリース!今日のお詫びにって可愛いの貰っちゃった!」
「わーお、俺の奥さんが見たら食べづらいって怒りそうだ」
「んもぉ〜!」
ユグルドの妻はリスの姿の精霊だ。冬眠の時期以外は毎日ユグルドの木を上から下へ、下から上へと忙しなく走っている。
松ぼっくりに針金を刺して円形に連ね、そこにキラキラと輝く装飾品を接着したリースなど、食材への冒涜だと怒るに違いない。
「そうだ。お嫁ちゃんに美味しい松ぼっくりあげるわ。春に目覚めたらまた女子会しましょって伝えて頂戴」
「あんがと。今は俺のウロの中ですやすや冬眠中。寝顔も寝相も可愛すぎて、余裕で数ヶ月見てられるわ」
「愛だわ〜!ヘイゼルも恋人とのデート中にちょっかいかけられて、怒っちゃったみたい。無作法にも恋人ちゃんのおうちに侵入して来たんですって。それは半殺しになっても仕方ないわよねぇ。律儀に、やっちゃっていいかって尋ねに来てくれたから、やっちゃえって言っちゃった」
「言っちゃったか〜」
視線を流せば、先ほどよりも凄惨な姿になったモミが雪の上に横たわっている。
その隣にしゃがみ込んで何かをしていた竜王は、立ち上がり最後にモミの木の腹部に靴裏をめり込ませると、ふぅ…とため息を吐いた。その吐息すらも禍々しい呪いとなって横たわるモミの精霊に纏わりつく。
「怒り心頭な賢者クンは、そいつから必要な情報を抜き出せたかな?」
「ああ……予想通り、寄生植物が絡んでいるようだ」
「ぅげ…!」
「いやーん。超きらーい。キクイムシくらいきらーい!」
共生に対しては寛容な者たちであっても、宿主を弱らせるような寄生の在り方はなかなか受け入れ難い。侵食を好む寄生植物が忍び寄っているという情報に、当事者であるヘイゼルだけでなくユグルドもアイラも顔を顰めた。
とはいえ太古の森に容易に侵入できるものではないし、彼らの派生元である樹木はそれぞれに適した方法で守りを固めてある。
彼らが嫌忌するのは、自身に近しい者や周囲の者が影響を受ける可能性が否定できないからだ。
「少々気になることはあるが……こちらに直接仕掛けてきたのは、東の古木のもとに居た『災いのツル』だろう。内側が精霊化した魔女を乗っ取り操っている可能性が高い」
「東ねぇ…あっちには寄生種ともうまくやれる固有種がいるけど、万が一にもお前さんが寄生されたら少なからずの被害が出るな」
「僕が目当てならこの五十年のうちにホーステールと接触している筈だ…あの子ならば大丈夫とは思うけど、念のために様子を見に行くべきかな」
「そうしろそうしろ。お前さんも慣れないこと続きで疲れてきてるだろ。一旦家に帰ってひと息ついて来いよ」
「帰らないのは、ひと息が百年単位だからだよ…」
「だったら嫁さん候補連れて帰ればいいだろ」
「あら!いーじゃなーい!恋人連れて里帰りだなんて!森で一緒に住むつもりならホーちゃんとも顔合わせが必要でしょ?」
盛り上がり始めた周囲にヘイゼルがため息をつくのとほぼ同時に、ドルティアンが大聖堂へのおつかいから帰ってきた。
アイラへ帰宅の報告をしに来たのだろうが、裏手の森の入り口に集う面々を前にして慌てて深々とした礼の姿勢になる。
竜王が居残っていたことも、新しい何者かが登場していたこともドルティアンにとっては予想外だった。
竜王の後ろにモミの精霊の残骸のようなものが横たわっているような気もするが、そちらは極力視界に入れないようにしつつ、「おかえりなさぁい」といつものように腕に抱きついてきたアイラに「ただいま」と言葉を返す。
「彼氏クンこんにちは、お邪魔しているよ」
「この時期に仕事を増やしてしまってすまないね」
「いえ、とんでもございません。そして初めてお目にかかります、ドルティアンと申します」
「俺は…ぶぇー!」
豚の尻尾を踏んだような声がしたかと思えば、アイラが灰黒髪の男性の口に両手いっぱいの松ぼっくりを押し付けていた。
「俺、今元気になっちゃうと困るんだけど!?奥さん冬眠中よ!?」と押し付けられた松ぼっくりを口から剥がしてポケットに入れる男性に「黙ってて!」と言いながら、アイラはドルティアンを振り返った。
「ユーちゃん。ここにいるのは、ユーちゃんとヘーちゃん!それ以上の興味は持っちゃダメよ!」
本来であれば、そんな不敬な対応はできない…と言うところだが、ユールの近いこの時期に家を空けて大聖堂へ向かわせてくれたのだから譲歩すべきだろうとドルティアンは口を噤む。
幸いにも灰黒髪の男性も肩を竦めているだけだし、竜王の後ろに転がっているモミの精霊の残骸っぷりからして、この後はそう長く留まらないだろうとも予想できた。
賢者様が竜の王であったように、灰黒髪に紫の瞳を持つラフな格好をした御仁もきっとドルティアンの興味を引くような肩書きを持っているのだろう。
だからこそアイラは毛を逆立てた猫のように警戒を露わにしているのだ。
「ね、それよりも、ヘイゼルが恋人を連れて里帰りするかもしれないんですって!ドキドキするわね!お泊まりかしら?お泊まりよね!?」
「アイラ…人間にとって、高位の精霊の気配が強い土地は負担にもなる……それに貴族籍の女性ならば、恋人とはいえ外泊はあまり喜ばれないのではないだろうか」
竜王も無言で頷いているし、おそらくは決定事項ではなく、勝手に盛り上がった程度のものなのだろう。
「つまらないわー!」
「まあ、手段がないわけじゃないし、連れて行けるとなれば賢者クンがうまくやるだろ。……ほら、俺の根の近くの樹皮をやろう。異界への耐久力が上がるぞ。
お礼は来年、俺の奥さんへのプレゼント用のヘーゼルナッツを大量に届けてくれればそれで良い。俺宛に届けろよ?奥さんに直接届けたら俺の株が上がらないからな」
「えー、じゃあ私は小さい松ぼっくりをあげるわ。豊穣祈願。愛し合うときに使ってね」
「はは。アイラは愛の使者だなぁ!」
「やだもぉ、当たり前じゃない!ね、ディー♡」
どこか呆れ顔の竜王の手に、樹皮と小ぶりの松毬を握らせた二人は仲良く笑い合っている。
竜王は上着の内ポケットにそれらを仕舞うと、代わりに琥珀色の液体の入った小瓶をふたつ取り出し、それぞれの精霊の手に預けた。
「お。第九の森特製の蜂蜜か。酒に入れて飲んだら美味いんだよな」
「あら。美容に効くわ。ありがとうヘイゼル」
正直、高位の精霊同士がこうして和気藹々と話している姿を見るのはドルティアンにとっては初めてであり、衝撃的でもあった。
先日の賢者様とアイラのやり取りは穏やかなものであったが、今回『ユーちゃん』といわれる精霊が加わることで一気に距離感が近くなったように見える。
自国に居る精霊たちは誰も彼もがアイラを恐れるか膝を折って服従するばかり。傅かれるのではなく、友人のように楽しげに言葉を交わす恋人の姿に、ドルティアンは安堵する一方で少しばかりの嫉妬と寂寥感を抱く。
けれども、竜王が続けて放った言葉により自身の恋人が見たこともない獰猛な表情を浮かべたことで、そんなしんみりとした気持ちは一気に霧散することとなった。
「僕の封印にはクェウルの宝石が使われていた。きみたちに矛先が向くことはないだろうが、注意しておいて欲しい」
「ふぅん……あの女が関わっているんなら、そいつを見つけ次第、私が殺して祓い清めておくわぁ」
「っ、アイラ…」
「あの年増が私のディーに向かって放った言葉、絶対に忘れないんだから…!」
静電気が立つほどに怒りを迸らせるアイラの気配の重さに、ドルティアンの全身に冷や汗が浮く。
このまま隣に居たのでは気を失いかねないと危惧したところで、半袖のTシャツにサンダルという季節感を大きく無視した姿の灰黒髪の精霊が、諫めるようにアイラの前でひらりと手を振った。
「ほらほら、彼氏クンがびっくりしてるし、シワが増えるぞ」
「シワですって…!?」
その効果は覿面で、アイラは「やだもう…!」と誰にともなく文句をいいながら、細い指先で目元や眉間に寄った皺を撫でて伸ばし始める。
途端にドルティアンを圧迫していた重い気配はあっさり霧散した。
「お前とリンゴ嬢の相性は最悪なんだからむしろ手出しすんなって。…ヘイゼルも、らしくなく苛立ってないでさっさと嫁さん候補のとこに戻りな。どうせローアンに預けてんだろ」
「……」
「やだぁ、ユグルドが年長者みたいなこと言ってるぅ…!」
「年長者だっつの!世界樹さまだぞ!?」
「え……!」
とんでもない肩書きが飛び出して、思わずドルティアンが反応してしまった。そんなドルティアンを振り返り、アイラが大慌てでしがみついてくる。
「あー!ちょっと、目をキラキラさせないで!…んもぉ!ディーが浮気しちゃうから二人とも帰って頂戴!」
竜王も世界樹もお断り!と杜撰に追い払われる仕草をされ、男ふたりは肩を竦める。
「邪魔をしたね」「彼氏クン、アイラと仲良くな」と簡単な挨拶を済ませて踵を返す大精霊ふたりに、アイラからぎゅうぎゅうに押し潰されながらもドルティアンはどうにか礼を返す。
ドルティアンをめちゃくちゃに抱きしめながら、アイラは、シルクハットを被り直し精霊の道へ入ろうとする竜王を呼び止めた。
「ヘイゼル!恋人ちゃんのところへ戻る前に、そのむっつりした不機嫌な顔をどうにかしなさいよ!ユール前のデートを不穏な感じで中断しておいて、そんな顔で戻ったら愛想尽かされちゃうわよ」
振り返り片眉を上げた竜王は、被ったシルクハットを軽く持ち上げると今度こそ闇へ溶けるように姿を消した。
「まったく!ディーはすぐ浮気するんだから…!」
「すまない……だが、竜王と世界樹が並んでいるのは反則だろう」
「なにも反則じゃありません〜!」
抱っこちゃん人形のように腕にしがみついているアイラに苦笑しながら、雪の上に横たわりぴくりとも動かないモミの精霊が視界に入ってしまったドルティアンは少しだけ気持ちを遠くにやった。
前回の訪問時に、怒っていない竜王はとても優しいとアイラが連呼していた理由を、今回身を以て実感した。
モミの精霊を引き摺って現れた竜王の気配の重さといったら、アイラに支えられなければドルティアンは力なく倒れ込んでいただろう。
そして、痛いだけの暴力だけでなく、禍々しい呪いとの合わせ技を駆使して相手を懲らしめる竜王はまさに厄災以外の何でもない。
アイラは「森の入り口が汚れちゃったわね」とその精霊の体を松の枝葉で覆い隠した。
今夜は未明から雪が降りそうな空模様であるし、明日にはきっと、枝葉ごとすっぽり雪が覆い隠してくれるだろう。
ユールが終わればアイラがしっかり『お仕置き』するというし、今後の彼の処遇については、人間であるドルティアンの関わるべきことではない。
暖かな色合いの光が灯る我が家の扉を開ける。
玄関先に飾った柊の葉飾りの下で、まだ少し拗ねているのか唇を尖らせている恋人に口付けを贈る。
「アイラ。去り際の賢者さまへの助言はとても素敵だったよ」
「まあ!そうでしょ、惚れ直したでしょ?」
「とてもね。…ところで、賢者さまとアイラはどちらが古い精霊なのだろうか」
途端、仄暗い雰囲気を纏った恋人に、ドルティアンは話の振り方を間違えたなと冷や汗をかいた。
「やぁね、女性に年齢を問うのはナンセンスよ」
迫力のある微笑みを向けられ、ドルティアンはしっかり頷き返した。
常緑樹の精霊であるアイラはいつも若々しく美しいものの、だからといって他の精霊と年齢を比較するのは無しのようだ。
「さ、ユールの準備をしましょ。我が家のマツはこの通り、とっても美しくて瑞々しいままだもの。綺麗に着飾ってもいいし、ありのままを愛でてもいいわ。たっぷり愛し合うためにも松ぼっくりをた〜くさん用意しましょうね」
冬至が過ぎれば沈黙の日を挟み、彼女が最も力を強める日がやってくる。
暗闇が勝る冬の季節に、光の恩恵を一身に集める常緑樹の姿は、神々しくも気高く美しく、雄々しさを象徴する豊穣の化身を愛でては彼女は愛のよろこびに打ち震えるのだ。
「お手柔らかに頼むよ……」
もう随分と年を重ねたが、ありがたいことにアイラが自分を見限る様子はない。
「ディー」と甘く誘うように名を呼んでくれる恋人へ、ドルティアンは敬愛と情欲の口付けを捧げた。