7. 襲来
息が白く吐き出され、風に揺られて空気に溶ける。
隣を歩く竜王から「誰かを呪ってるのかな?」と問われてびっくりしたものの、どうやら大精霊にもなると、吐く息ひとつに強い願いを乗せることが出来るのだという。
切なる願いは下を向いて細く息を吐き、
禍つ呪いは上を向いて深く息を吐く。
「なかなか禍々しい呪いが吐き出せるよ。試しにやってあげようか?」と聞かれたため首を横に振る。
規格外な恋人がこれ以上呪いを撒き散らさないよう、しっかり観察しておかなければ。
狩猟大会と収穫祭が終われば季節は一気に冬に傾き始め、気づけばもう年の瀬になっていた。
冬至にクリスマス、年の終わりと始まり。
祝い事の多いこの時期は精霊たちの力にも影響があるらしく、かつての暦でも重要な意味合いを持つ日がいくつかあるそうで、ヘイゼルは少しだけ警戒を強めているようだ。
念のため外の森には行かず屋敷の庭を散歩しようかと誘ってくれたヘイゼルに頷いて、時折雪のチラつく庭を手を繋いで歩いている。
……そう、手を繋いでいるのだ。エスコートではなく、手のひらを合わせて、ぎゅっと握り合っている。
(なんだか恋人っぽいわ…)
正真正銘恋人なのだが、腕に手を添えてのエスコートよりもずっと距離感が縮まった気がする。
ルチシャの手をすっぽり包み込むような大きな手のひらはじんわりと温かく、ヘイゼルが生来持つ木肌の温度に近いのだという。
冬の入りに触れ合わせた唇の温度を思い出して鼓動が少しだけ早くなる。
あんなにも大胆なことをしてしまうなんてと反省し自制する気持ちはあるけれど、後悔はしていない。あの時はきっと、言葉で伝えられなかった何かを、唇に乗せて触れ合わせたかったのだろう。
ルチシャの心は時々不安に揺れることがあるものの、ヘイゼルは竜だからと思えばストンと落ち着くようになった。
我ながら素晴らしい免罪符を得たものだわ…と晴れやかな気持ちでいると、ご機嫌な顔も可愛いねと微笑まれる。
「ご機嫌なのはヘイゼルのおかげです。クリスマスのご予定はありますか?」
「特にないね……人間は家族と過ごす日なのだろう?」
「昔はそうでしたが、最近は恋人と過ごす日にもなってきたんですよ。キラキラと輝くツリーを見て、この季節だけのお祝い料理を食べるのが王都の流行りだそうです」
「王都へ飾り木を見に行きたいなら連れて行ってあげようか」
「行きたい気持ちもありますけど、人混みはあまり好きではないので悩ましいです。王都の一番立派なツリーのまわりは露店なども出て混み合っているそうなので…」
「ルチシャが嫌でなければ外国にも行けるよ」
「外国…ですか?」
「精霊の道に、人間が定めた国境は関係ないからね。でも、他所の国はここほどキラキラした飾りではないかな…」
中庭の一角には、立派なモミの木が立てられ、硝子や金属で出来た飾りたちに陽の光が反射してキラキラと輝いている。
この国では、屋外にあるツリーは職人の手で作った装飾品や工芸品を飾ることが多く、屋内のツリーには木の実細工や家人の手作りのビーズ刺繍などを飾る。
屋内外で飾りを変えるのは、屋外に木の実を飾ってしまうと、お腹を空かせた動物に荒らされてしまうからだ。
今でも烏などに装飾品を盗られることはあるものの、人工的な飾りを付けるようになってからは中型以上の獣が寄ってくることは少なくなった。
ヘイゼルが回顧するには、かつてとある国に金箔を貼った飾り木に黄金の飾りをゴテゴテと飾った趣味の悪い王さまが居たらしく、ユールの時期を司る精霊の不況を買って、無惨にも国ごと滅ぼされてしまったのだという。
「まあ、このくらいなら逆に喜ぶかもね…」と加工されたリース飾りを手に呟いていたため、この国のツリーは、精霊視点では少々煌びやか過ぎるのかもしれない。
ヘイゼルの森では木を飾りつけないのかしら…と思っていると、不意に、優しく握られていた手に少しだけ力が入り、力強く引き寄せられた。
そのまま背後に隠すように移動させられたため、手を解く代わりにヘイゼルのコートのベルトを掴む。
完全に手を離してしまわない方がいいだろうと思ったのだが、どうやら正しかったようだ。
威嚇するような鋭い眼差しになったヘイゼルが、声を潜めて「このままで」と告げた。
「……珍しい訪問者だ」
「ヘイゼル…?」
「事が済むまで口を開かないでいられるかな?悪しきものではないけれど、善きものというわけでもなさそうだからね…」
無言で頷き、背中に隠れるように身を縮ませる。
訪問者というのがどのような存在か気になったものの、口を噤むよう忠告されたということは、あまりこちらの存在を晒さない方がいいだろう。
ヘイゼルの背に隠される前、ちらりと見えた姿は、暗緑色の髪をずるりと伸ばしたひどく背の高い細身の男性のようだった。森の中に立っていたならば、木立と見間違えて通り過ぎてしまうに違いない。
ルチシャには見覚えのない男性であったし、そもそも当主たる父が王都に行っている今、領地にある屋敷を訪ねてくる人は殆どいない。万が一あったとしても、客人の対応を任されるのは社交界デビューを果たしているルチシャである筈だし、家令も執事も告げに来ていないということは正式な訪問ではないのだろう。
となれば、当主不在のリリオデス伯爵家の敷地に無断で侵入した存在がいるということで。
ヘイゼルの警戒具合からしても、精霊か魔女か…いずれにせよ人間ではない者が立ち入った事が予想された。
(恐ろしいものでなければいいけれど…)
場に満ちる緊張感に、ドクドクと心臓が鳴る。
ヘイゼルはひどく冷たい声音でその訪問者へ言葉を投げかけた。
「やあ…フィアだったかな。きみの訪れがあるとは思わなかった」
「……ご挨拶申し上げます。聞くところによると、魔女に苦汁を飲まされたのだとか」
「それでわざわざ魔除けを授けに来てくれたのかい?」
「貴方と…貴方の大切なひとが、聖なる祝いの日に傷つけられることがないよう、御守りをお持ちいたしました」
「稀有な申し出だけれど、既にアイラの祝福を得ているから不要だ。きみは一体誰から、此処に至る道のことを聞いたのだろうか」
「アイラ様の……?」
その名が出た途端、低く暗い響きを帯びた声が、一層に暗さを増す。
ザワリと不穏な風が吹き、モミの枝葉にぶら下がる飾りたちが心許なく揺れる。
「憎々しい……あの方はいつだって先回りをしてわたしの成すべきことを邪魔立てする…!」
ブワッ!とルチシャの背後から一際強い風が吹いた。
ぎゅっと目を瞑り足を踏ん張ってその風に耐えていると、さほど離れていない場所から何かが押し潰されるような苦しげな呻めき声が聞こえた。
恐る恐る目を開けば、目の前にあった筈のヘイゼルの身体が消え、コートだけが手元に残っていた。慌ててそれを手繰り寄せ抱え込みながら視線を巡らせると、飾り木の近くで細身の男性が倒れ伏している。
ヘイゼルはどうやら静かに激怒しているようだ。伏した背中に片足を乗せてその身を押さえつけながら、長い暗緑色の髪を掴んで容赦なく引きずり上げている。相当な力で押さえられているのか捩じ伏せられた男の顔は苦痛に歪んでいる。
「お前の事情も感情もどうだっていい…今すぐ成すべきは、平伏することだろう?己の死の間際にこそ礼節を重んじるべきだと、そう思うよ」
「ッ、野、蛮な竜め…!」
「野蛮であるからこそ竜だ。それよりも、若造共が浅知恵を巡らせて何をしようとしているんだろうね…」
「わ、わたしを、この、聖なる、時期に、壊せるはずがない!ひとの、よが、どれほどの混迷に包まれるかーーー……ッ、」
苦しみながら紡がれた言葉にヘイゼルが浮かべたのは嘲笑だろうか。
固唾を飲んで見守っていたルチシャは、続いて紡がれた言葉の重さに背筋をぶるりと震わせた。
「どこまでも愚かだね。竜王たる僕が、ひとの世など気にするはずもないだろう」
見間違いでなければ、ヘイゼルの靴底からドロリと銀色の粘液が滴ったように見えた。それが肌に染み入るなり、引き倒された男性は踠くように苦しみ始める。
「ぁ、あ、ああああがガ!」
「さあ呪われろ。お前がおらずとも月は巡りて日は進み、人々は祝い歌う。銘ある常緑の座はすでに埋まっている……お前の席はここには無い」
呪いを編むには相応しくない、謳うような口調で、ヘイゼルの言葉は紡がれる。
倒れた男性が踠き苦しむたび、煌びやかに日の光を反射していた庭先のツリーは立ち枯れ、土の上にいくつかの硝子飾りが落ちる。
絶叫が途切れるよりも先に、突然背後から耳を塞がれたためびくりと身体を強張らせれば、視界の端に緋色の美しい髪が揺れた。
それから長いような短い時間が終わり、どこからか現れたローアンが塞いでいたルチシャの耳を解放する頃、ヘイゼルがこちらを振り返った。
その瞳はとても穏やかであったけれど、琥珀色の瞳の奥に燃えるような揺らめきが見えた気がして、彼はまだ怒っているのだとルチシャには自然と理解ができた。
「すまないね…わたしはこの愚か者を常緑の女王の元へ届けなければならなくなった」
言葉を発して良いかわからないため、頷き、淑女の礼でその出発を受け入れる。
静かに頷き返し「…あとは頼んだよ」と言葉を残したヘイゼルは、竜の姿になりモミの精霊を掴んで飛び去った。
一瞬で見えなくなった姿を追って空を見上げていると、隣でやれやれと呆れに満ちた声がする。
「呼び出すにしてももう少し穏便にして欲しいわ」
「ローアン…!先ほどは耳を塞いでくださってありがとうございます」
「障りがないようにお従兄さまが対策を取っていたようだけれど、あんな下品な声をずっと聞いていてもね…。他に潜むものが居ては困るからと急遽呼ばれたのよ。離れてお散歩に同行していた貴女の侍女もお屋敷に戻しているから安心なさい」
そういえば、とすっかり忘れていた屋敷の者たちのことを思い出して辺りを見回したルチシャは、不意に腰元をぐいと強く引き寄せられ、その感覚に既視感を覚えた。
そろりと視線を移せば、緋色の鱗を持つ大型の竜が、大きな爪のある手でルチシャの胴をしっかりと掴んでいる。
『おいでなさい、今はここに居るよりもわたくしの森の方が安全でしょう』
脳に直接語りかけるような声がしたかと思えば、ぐんと視界が消え、ルチシャはローアンに掴まれたまま既に空を飛んでいた。
『……それにちょうど良かったわ。貴方がひとりになるのを、ずっと待っていたんだから』
不穏な囁きは、慣れない飛翔に早くも内臓がぐらつき嘔気を覚え始めたルチシャの耳には、残念ながらうまく届かなかった。
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第二の森は相変わらず清廉された美しさに満ちていた。
紅葉の季節を終えて雪景色に染まる背の高い木々には、ところどころ赤い実が残っているようで、それを求めて小さな鳥たちが枝を渡って飛んでくる。
冬の森らしい静けさと、生き物たちの微かな息遣い。
ぐらぐらする内臓を抑えながらそんな森の空気を胸いっぱい吸い込んだルチシャは、今し方ローアンから手渡されたものを何とも言えない気持ちで眺めたあと、そっとデイドレスの隠しポケットへ入れた。
これをヘイゼルに使う日が来なければいいと思う反面、きっと使ってしまうのだろうと己の心の弱さを思う。
御殿と呼ばれるローアンの屋敷は目につかない場所にあり、伴侶と過ごす屋敷であるため外部の人を招くことは滅多にないという。代わりに今日も、先日ヘイゼルがお茶を嗜んでいた大きな切り株のようなテーブルに席を設けてくれた。
通常、力のある精霊ほど自身の派生した木は隠す傾向にあるという。
だからこそ、自身の木を晒すこの場こそが、相手を信頼しているという最大級の意思表示であり最上級のもてなしの場なのだと説明したローアンは、「なのにお従兄さまは、すぐにわたくしを疑うし呪うんだから」と暗い目で告げた。きっとこれまでにも数々の苦労があったのだろう。
代謝を良くする効能のあるハーブティーを口に含んだローアンは、ルチシャの表情を見て不思議そうに首を傾ける。
「落ち込んでいるの?この時期の人間は皆、浮かれているものではなくて?」
「クリスマスが近いですからね。私もさっきまでは浮かれていましたけど、あんな事がありましたので……。それにしても、ヘイゼルが本気で誰かを呪っている姿は初めて見ました」
「ああ……お従兄さま、楽しそうだったでしょ?」
「ええ…これまでは比較的穏和な笑みしか見たことがなかったので、あの不穏な精霊を締め上げているときの邪悪な笑みに……その……キュンとしてしまって…!」
「貴女も大概、趣味が悪いわよねぇ…」
心底呆れ顔をしたローアンは、「お従兄さまが戻るまで今暫くかかるでしょうから、ゆっくりしなさい」と温かなお茶を注ぎ足してくれる。
立ち昇る湯気が揺らめき、冬の空気に溶ける。
赤みを帯びたお茶には常夏の国の花が使われているのだという。
ホーソンベリーと呼ばれるサンザシの実を入れるとより効果が上がるそうだが、今はヘイゼルが嫌がるだろうからと外してくれたようだ。
「常緑の女王ってことはきっとアイラ様の元へ行ったのね。マツの木の古い精霊で、森は管理しておられない代わりに常緑針葉樹の頂点として君臨していらっしゃるわ。
ここ最近は人間の恋人にベッタリだって聞いたけれど、そんなアイラ様から祝福をもぎ取っているなんて…さすがお従兄さまね」
「祝福というのは魔法のようなものですか?」
「簡単に言えばそうね。効果の高い御守りのようなものかしら。
精霊によって効果に差異があって、お従兄さまからの祝福はその者に叡智やひらめきをもたらすし、わたくしからの祝福を受ければ生命力が上がったり創造性が高まったりするわ。
ルチシャの庭に来ていたモミは魔除けね。魔女避けにもなるからそれを口実に近づこうとしたんでしょうけど、アイラ様のほうが古くて高位の精霊だから、モミの祝福はいらないってつっぱねることができたのよ」
「モミの精霊がヘイゼルからの呪いを受けた際に、自分が壊れたら人の世が混迷に包まれる…という言葉を残していったのですが、大丈夫なのでしょうか」
「あらまあ。樹齢五百年にも満たない若造が傲ったものねぇ…!」
今度は呆れに僅かな嘲笑が混じっているだろうか。先ほどのヘイゼルほど禍々しくないものの、ローアンの眼差しには女性らしい鋭さが宿る。社交界でも幾度かこのような眼差しを見たな…と思えば、人間と精霊は似通った心の動きを持っているのかもしれない。
「常緑の女王がご健在なのだから問題ないわよ。枯れ木の多い冬に青々とした葉を残す常緑樹は何かと神聖視されやすくてね、古くは儀式の一環として、マツの木を蝋燭や貝殻、輝石で飾っていたの。人間は大雑把だからモミやトウヒも利用するようになったし、伝わるうちに色々と様変わりしているけれど、だからといって自分こそが代表だと驕るのはお門違いね。存分に叱られるといいわ」
「今回の件で庭のツリーが枯れてしまったのですが、他の木で立て直した方がいいでしょうか。それとも、今年は飾り木なしのクリスマスにするべきでしょうか」
「そこは立て直した方がいいわね…ユールの時期に常緑樹を飾ることには様々な祭事的な意味が含まれているから。せっかくだしマツの木を使わせてもらうといいわ。この国の飾りつけは独特だけれど、悪意ある装飾じゃないからお怒りにはならないはずよ。……というか多分、ルチシャのお屋敷の庭だけじゃなくて各地で被害が出ているわね…」
わたくしがフォローしなくてはいけないのかしら…と遠い目をしたローアンの後ろで、先日聞いたものと同じガラス製の鈴のような音色がリン…リン…と鳴り始める。十中八九、国内での緊急事態に対する王家からの救難信号だろう。
「恋人と睦まじく過ごしているアイラ様の元に厄介ごとを持ち込んだお従兄さまも、たくさんお叱りを受ければいいのに…」
切実な願いの籠った呟きにルチシャは苦笑するしかない。
ヘイゼルが誰かから叱られている姿は想像できないなぁと思っていると、ルチシャの背後から枯葉と雪を踏む音が聞こえた。
咄嗟に振り返ると、まだ少し表情に固さは残るものの、不機嫌さを収めたヘイゼルがゆっくりと歩いてくるところだった。
「お迎えが来たみたいね」
「ヘイゼル!…無事ですか?あのあと反撃されたりは……」
「大丈夫。腹いせに髪をむしり取って来たよ……この時期のモミは良いまじない避けになるから持っているといい。きみの家族の分もあるんじゃないかな」
「髪を……」
あのずるりと長い髪を根本から抜いてきたのかと一瞬警戒してしまったものの、手渡されたのは長さ五センチほどの木の葉で、ホッと胸を撫でる。
以前もらった木の枝と同じように、数本を御守り袋に入れて持ち歩くだけで多少の悪意や呪いを弾いてくれるらしい。
ルチシャが両手で受け止めなければならないくらいの分量があるため家族どころか使用人たちにも配れそうだけれど、このまま落とさず持って帰れるかしら…と困っていると、ローアンがランチクロスくらいの大きさの布を出してくれた。ありがたく、その上に置いて包ませてもらう。
「黒幕は判明したのかしら?」
「どうだろうね。だが恐らく、ハリの若木も関わっているだろう」
「あのジメジメ竜…まだ竜王の地位を狙ってるのね。どうして実力の差を理解しないのかしら」
ローアンの質問に答えながらも、ヘイゼルはおもむろにしゃがみ込むと、雪の上に色々なものを並べ始めている。
かねてから思っていたけれど、ヘイゼルのポケットは魔法仕掛けなのだろうか……外から触れても全く膨らんでいないし、物が手のひらに当たる感触はないのに、よく、ポケットに納まらないような質量のものも取り出している気がする。
不思議ポケットから様々なものを取り出したあとは、不思議な捻れのある木の棒を使って雪の上に何かを書きつけている。
ローアンの顔が絶望的なまでに引き攣っているのは見間違いではないだろう。
「………ヘイゼル?何をしているんですか?」
「ハリの若木は定期的に僕に喧嘩を売ってくる若い竜なんだけどね、今回の件に絡んでいるのならさすがにおイタが過ぎるから懲らしめておこうと思って」
「ちょっとお従兄さま、わたくしの森で術陣を組むのやめてくださらないかしら」
「ローアン、木の実を」
「聞いてないわね……まったくもう」
「ルチシャ、申し訳ないけれど、毛先だけでいいから髪を一本もらえないだろうか」
プチリと千切った毛先を渡せば「ありがとう」と受け取ってくれる。
言葉の響きはいつも通りに優しいが、その眼差しの奥に僅かに残る鋭さがやはり気になってしまう。
今後の生活のことも考えて、お怒りの時の表情と不機嫌な時の表情はしっかり覚えておくべきよね…と雪の上で展開されている不思議な儀式ではなく、それを組み上げるヘイゼルの横顔を観察していると、すかさずローアンから「離れておきなさいな」と距離を取らされた。
「いい、ルチシャ。指先でポイッと呪えるお従兄さまがわざわざ時間を掛けて呪いを構築するときは、それくらいお怒りな時だから気をつけて。高確率で禍々しい呪いが出来上がるから巻き添えを食わないようにね」
「……今回の件はそんなにもヘイゼルを怒らせる内容だったのですね」
「まず第一にデートの邪魔されたでしょ。それからモミの精霊はお従兄さまだけでなくルチシャのことも狙っていた。そしてお従兄さまの封印にも関わっているかもしれないとなれば、相当なお怒り案件よ」
「ハリの木は、ローアンたちのように暦を守る守護精霊ではないのでしょうか」
「そっちは老いたハンノキのほうね。守護者であるハンノキは竜ではない一般的な精霊体なの。だから竜の肉体を持つハリの若木がどうしてお従兄さまに食って掛かるのかわからないみたいで、彼が反抗した後は一応言葉で諌めはするものの、根本的な解決にはならないのよ」
竜同士の『話し合い』は基本的に肉弾戦なのだという。
「話し合おう」と申し出ることが決闘の申し込みに等しいと聞いてルチシャは困惑したものの、それが竜だと言われれば、そういうものかと納得するしかない。
ヘイゼルは理性的な竜のため、普通の話し合いで決着がつくならそれでいいよというスタンスなのだが、なにせ相手のハリの若木が血の気の多い若い竜のため、会話も何もなく、出会い頭に真っ向から攻撃を仕掛けてくるそうだ。結果、返り討ちに遭い、碌な会話もないまま地面に沈められるのだという。
「ハリの若木という方がヘイゼルを敵視しているのですか?」
「竜王の座を奪うために色々と画策しているの。彼は沼地の竜で、竜種としては半端者扱いされているから……種族的ないざこざもあってどうしても仲良くできないのよね」
「どうして今回は私も狙われたのでしょう。ヘイゼルにとっての弱味になるからでしょうか」
「それもあるかもしれないけれど……そっちは別件な気がするわ。もしかしたら誰かがルチシャに成り代わろうとしているのかしら…」
「成り代わる……?」
「内側に侵食するっていう感じかしら……そういうのって、一部の古い草花や低木の精霊、それから妖精たちが得意なのよね。樹木系には難しいわ。特に竜はそういう小細工が苦手だから……もしかすると、今回の件は思ったよりも厄介な敵が居るのかもしれないわ」
ローアンの不穏な忠告に、わからないながらもルチシャが恐怖を感じていると、のそりと立ち上がったヘイゼルが静かな目でローアンを見据えた。
「やはりそういう事は、きみの方が察しが良いか…」
「そりゃあ、わたくしの方が、人間社会や俗っぽい話題に近く接してきましたもの」
ルチシャはヘイゼルの方を向いたあと、堪らずローアンを仰ぎ見た。
驚愕の表情が隠しきれていなかったのか、ルチシャを見下ろしたローアンが片眉を上げる。
「なぁに?お従兄さまよりもわたくしの方が優れていることがあって驚いたの?」
「いえ、そうではなく…………ローアンの森は大丈夫ですか?」
先ほどまでヘイゼルが屈んで何某かの儀式をしていた雪上には、手のひらサイズの黒い靄が蠢いている。
芋虫や毛虫のようだなと思えば、蛹のように動きを止め、やがて悍ましくも美しい蝶が羽化してひらりと飛んで行く。
羽から黄金の鱗粉のようなものがパラパラと落ちているように見えるが、あれは大丈夫なのだろうか。
蝶が森の奥へ飛んで行ったのを見送って、もう一度ローアンを窺えば、顔色をすっかりなくしたローアンが悲しげに立っていた。
「現在進行形で大丈夫じゃないわね……是非ともわたくしの森の外でやってもらいたいたかったわ……」
「これでハリの若木はここを僕の拠点と勘違いするだろう。あとは頼んだよ」
「え!?わたくしが相手をするの!?」
「好きに引き裂いてしまって構わないよ。僕はそういう暴力的な行為は不得手だからね……七十年くらい前に大半の鱗を剥ぎ取ってやったのに、全く懲りなかったようなんだ」
ヘイゼルのぼやきを聞き、ルチシャとローアンは思わず顔を見合わせる
それは不得手というか、適切な加減を知らないというだけなのではなかろうか。
鱗を剥がされるということが竜にとってどれほどの行為なのかとルチシャが視線で問えば、ローアンは厳しい表情で静かに首を横に振る。御愁傷様、という意思表示だろう。
そんなローアンは、「余ったからあげる」とハリの若木の鱗を無理やり押し付けられて撃沈していた。一部を呪いで使ったものの、残りは不要らしい。
「待たせたねルチシャ、屋敷まで送って行こう」
「お邪魔しました。あの、ローアン、今日のお礼を後日お届けしたいのですが…」
「いらないわ…というか、お従兄さまは暫く来ないで頂戴…」
うちひしがれるローアンに別れを告げ、ルチシャはヘイゼルと共に森を出る。
念のため、リリオデス伯爵家の近くの森ではなく、伯爵領にあるもうひとつの森を出口にし、そこから精霊の道を通って帰宅する。
精霊の道は相変わらず暗いトンネルのようだったけれど、ヘイゼルがしっかりと手を繋いでくれているので怖くはない。
正面玄関で出迎えてくれた家令のアンサムは、ローアンが避難させてくれた侍女からおおまかな事情は聞いていたものの、とても心配してくれていたようだ。
精霊とはいえ不審者が入り込んだのだから王都の父には連絡が行くだろう。
この事件のせいでヘイゼルとの婚姻に否定的な意見が出るかもしれない…と危惧したのは一瞬だけで、父ならば、婚姻を早めてルチシャを家から出す方を優先するだろうなと思い至る。
たとえそのような提案があったとしても、受けるか否かはヘイゼルに決定権があるため、ルチシャは成り行きに身を任せればいい。
(私はもう、あの家を出ることに躊躇いはない……)
自分の内側にあった感情と向き合い、それを吐露したおかげか、ここ最近は妙に結婚に対して前向きになっている気がする。
心残りといえばリリアンナの行く末だけれど、それは今後の状況次第で変わるものだし、自分一人でやきもきしても仕方のないことだ。
屋敷へ戻るなり、改めて周囲を確認しておこうと言うヘイゼルに同行を申し出る。
自分がいることで不利になってしまう状況もあるかもしれないとは思ったが、主人代行として、屋敷まわりの懸念点や異変についてはしっかり把握しておきたかった。
幼い弟や使用人らの立ち入りを制限した方が良い区画があるのなら、理由も含めて重々注意を促さねばならない。
ヘイゼルとルチシャは森の入り口の祠のあった場所を訪れ、植えられている若木に異変がないかを確認して屋敷へ戻った。
森の上空には大鷲のエグルが飛んでいる。湖の向こうまで広く見通してくれているそうだ。
ヘイゼルがいうには祠の近くに道が繋げられた痕跡があり、そこから裏口の通用門を通って庭へ侵入したのだろうということだったが、やはりあまり良くない状況らしい。
今後暫くは裏手の通用門を封鎖して、森の方には近寄らないようにという忠告を貰ったため、しっかりと頷いておく。
屋敷近くの庭へ戻って来ると、ヘイゼルはおもむろに立ち止まりルチシャを見つめて呟いた。
「……………年が明けた頃に、一度森に帰ろうと思っている」
ローアンの守護する巡り月になったらね、と付け加えられ、ルチシャの胸に一抹の不安が過ぎる。
「…………帰ってきてくれますか?」
「勿論。ただ、うっかり寝過ごさないよう、恋人を連れて行ってはどうかと言われたんだ。知人からとても良い御守りも貰えたから、森に数日間滞在しても問題ない……もし伯爵から許可が出たら一緒に来るかい?」
予想外の申し出に、ルチシャはパチリと瞬きをした。
てっきり、ヘイゼルひとりで行ってしまうのだと思っていただけに、驚きのあとにじわじわと喜びが湧いてくる。
(竜のお昼寝は長いと聞いていたから、ちゃんとヘイゼルが戻ってきてくれるか心配だったけど…)
一緒に居てもいいのなら、居たい。
けれども、今の状態の伯爵家を放っておいてもいいのだろうかと憂慮したルチシャに、ヘイゼルは「冬のあいだだけ屋敷周辺の守りを強めておいてあげよう」と言ってくれた。
秋の時点では、他の生き物の営みを妨げないように…と弱めてくれていたが、多くの動物が冬眠や冬籠りをしている今であれば、守りを固めてもさほど影響は出ないだろう。
そして今回の襲撃で、相手が使っている『道』の出入り口が判明したのも大きいという。ヘイゼルお得意の呪いを使ってガッチリ固めることで、今後はその『道』が使いにくくなるそうだ。
屋敷の安全が確保されるというのなら、行かないという選択はない。
「父から許可が出なくても、ヘイゼルが嫌でなければ付いて行きたいです。私たちが結婚したらその森で一緒に暮らすのですよね?」
「そうだね。きみが気に入るといいけど」
「ローアンの森は大好きですよ?」
「あの森よりも、もう少し賑やかかな…」
「………意外でした。ヘイゼルは静かな森を好むとばかり思っていたので」
「森の動物たちは……精霊も含めて、美味しい実が大好きだからね。ハシバミの森とオークの森は移住希望者が絶えないよ」
「では、その移住希望者の欄に私の名前も書き添えておいてくれますか?」
「ルチシャであればいつでも歓迎しよう」
そっと瞼に落とされた口付けには、祈りのような切実さが感じられた。
本当は今すぐに森へ戻りたいのではないかと思ったけれど、ローアンの巡り月になってからと言ったからには、何かの時期を見計らっているのかもしれないと口を噤む。
ハシバミ色の瞳の奥は、先ほどのような剣呑さはなくなり、すっかり穏やかさを取り戻している。
夕暮れの朱色の混ざる赤みがかった深い琥珀色は父がよく飲んでいる蒸留酒のようで、縁取る緑色との境界が朧げになり、織り色がなんとも味わい深い。
「冬至とクリスマスのあいだに設けられている安息日は出来るだけ外出しないようにして欲しい」
「……危ないのですか?」
「直接的な危険はないだろうけどね……その日は、今はただの安息日とされているけれど、古くは『名もなき日』と称され、死の精霊が地上に出て来る日とされていた。死の精霊は理知的な存在だけれど、少しばかり狂っている。噂では、最近はその日に天上に住む恋人と地上観光をしているというし、会瀬を邪魔するのは宜しくない……万が一があってはいけないからね」
教え諭すような言葉に、ただ頷く。
自分の知っている世界とヘイゼルの知見する世界は違う。共に生きるためには、彼の見立てを蔑ろにしていい筈もない。
上空でエグルと思しき鳥が高く鳴いて、「問題なかったようだね」とヘイゼルは微笑んだ。
今日はこれでお別れになるのだと悟り、咄嗟にその服裾を掴む。
「ヘイゼル…クリスマスに、少しだけ会えますか?」
「構わないよ……そういえば、この国では恋人の日だと言っていたね」
「ヤドリギの下でキスをすると、永遠の愛が………ヘイゼル?」
「ヤドリギがあったか…」と呻きながら片手で額を押さえてしまった恋人に、慌てて触れる。
ヘイゼルから、とても申し訳なさそうな顔で「すまないが、家にあるヤドリギの飾りを全て外してもらえるかな?」と言われ、ルチシャは少しだけ考えてから頷いた。
「クリスマスの代わりに、今日、おやすみのキスをしてくれるのなら」
言ってから気恥ずかしくなったけれど、クリスマスの楽しみをひとつ奪われたのだからこれくらいの我儘は許されるだろう。
ヘイゼルは小さく微笑んで、大きな手のひらでルチシャの両頬を包むと、そっと引き寄せ優しいキスをくれる。
「眠る前にも、もう一度キスをしに行こうか?」
「いえ…今ので十分です…少し早いですが、おやすみなさいヘイゼル」
「おやすみ……共に眠れる日が待ち遠しいよ」
額をコツンとぶつけ、至近距離で見つめ合ったまま少し早めの就寝の挨拶を交わす。
惜しむように鼻先と額にも唇が触れ、どちらからともなく もう一度口付け合うと、囁くように別れの言葉を残してふわりと消える。
ルチシャはドキドキと高鳴る胸を押さえて余韻を噛み締めた後、恋人との約束を守るべく、玄関ホールに飾ったヤドリギのリース飾りを外しに向かった。