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1. 竜の祠




リリオデス伯爵家には、先代伯爵の頃より伝えられるお話がある。


伯爵家が代々治める領地に堂々と建つカントリーハウス。その裏庭にある通用門をくぐった先、木々が豊かに茂る森の入り口に置かれた祠には、竜が眠っている

…というものだ。



ある日の夕暮れ、突然伯爵家を訪れた見目麗しい魔女が言った。



『力ある竜が障りを受け、この森の入り口で眠りに就かれた。

本当はずっとお側に居たいけれど、障りを解くためにも一時的に離れなければならない』



時々様子を見に来ると言い置いて、魔女は障りを解く方法を探しに旅立った。


それからおよそ五十年の月日が流れた今も、祠は静かに森の入り口に佇んでいる。








リリオデス伯爵家当主、ルバート・リリオデス伯爵の長子であるルチシャは、森の入り口でぼんやりしていた。



裏庭の通用門を出て数分歩いた場所にあるこの森は、伯爵家の私有地であり許可された者以外の立ち入りが禁止されている。


森に住む獣の種類や生息域も十全に管理されており、比較的安全な場所のため、伯爵家の子どもが出入りしても見咎められることはない。


とはいえ屋敷の外である。安全面からも貴族令嬢が一人で出歩くことは良しとされず、普通はハウスメイドを同行させるものだが、ルチシャは父から特別に、この祠までは一人で来てもいいという許可を貰っていた。


勿論、家を出る前には家令か家政婦長に散歩がてら祠へ行く旨を伝え、庭師に森の入り口へ行ってくると言伝て、通用門前に立つ衛兵に祠へ言ってくるわねと宣言したうえでの出立だ。


そして約束の時間までに屋敷へ帰還しなければ、通用門の衛兵は庭師を通して屋敷の家令に緊急連絡を入れ、すぐさま捜索に出る…という取り決めがなされている。


安全措置上仕方がないとはいえ、なかなか仰々しいものだわ…とルチシャは苦笑した。


なにせルチシャがひとりで森の入り口へ行くようになってからもう七年になるものの、これまで一度も問題が起きたことはない。


森の入り口にある祠を軽く布で磨いて、近くの倒木や岩に腰掛けてぼんやりと休憩をして帰るだけであるため、当然といえば当然なのだが。



ルチシャがひとりで森を訪ねるようになった理由は、母が心を壊したからだと皆は思っている。



この森の奥にある湖。そのほとりに建てられた離宮に、心の病を得た母が隔離されたのはルチシャが九歳のとき。


娘のルチシャでさえ父の許可なく離宮に立ち入ることは禁止されていたため、散歩がてら離宮の屋根の端が見える場所まで歩き、なんとなくぼんやり佇んでから屋敷に戻っていた。


だが、ルチシャは特に、母恋しとその行為をしていたわけではない。


その頃には淑女教育に加えて次期当主としての教育が始まったため、朝食→勉強→散歩→軽い昼食がてらお茶会の練習→勉強→父との夕食会兼社交の訓練と、同じ年頃の一般的な貴族令嬢と比較するとなかなかハードな生活を送っていた。


勉強は楽しかったが、脳は嫌でも疲弊した。

そのため、鳥籠のような屋敷を一歩出て、空気の澄んだ森でぼんやりすることが大きな気分転換になっていたのだ。


そんなルチシャの心を知らない屋敷の者たちは、お母さまにお会いしたいのでしょう…お可哀想に…と同情していたし、

離宮で母が命を終え、父と後妻とのあいだに伯爵家待望の男児が生まれてからは一層に、森へ散歩に出るルチシャを哀れに思う者が多かった。



初めは当然ながら使用人を伴って散歩に来ていたものの、母が死んでからは余計な気を遣われるのが面倒になり、行き慣れた場所だからと使用人の同行をやんわり拒否してみれば、過分な同情心からルチシャの意思が尊重され今のような運用となった。


父もルチシャの心情を慮ってか、祠を粗末にしてはいけないと忠告するだけで、森への散歩を禁じることはなかった。



確かに湖が見えるほどに森の奥へ踏み入り、その先に建てられた離宮で起きた出来事を思えば胸は痛むけれど、ルチシャにとってそれはもう過ぎたる過去であり、既にある程度割り切った感傷でしかない。


だからといってひとりでお散歩できる絶好の機会を取りこぼす筈もなく、

ルチシャは十八歳になった今も、数日に一度、森の入り口に散歩に来てはひっそりと佇む祠の汚れを払い、表面に埋められている翠色の宝玉を絹の布巾で丁寧に拭い、近くにある半分石化したような硬い倒木に腰掛けてぼんやりと頭と心を休ませるのだ。




目を閉じて耳をすませばサワサワと風が葉を撫でる音がする。

陽射しは程よくあたたかく、もう少し太陽が上に昇れば汗ばむほどの陽気となるだろう。


今は夏の盛りを少し過ぎた八月の末。

九月になれば森は次第に色付き始め、やがて実りの秋が訪れる。


こうしてのんびりと季節の移り変わりを感じられることにルチシャは言葉にできない幸福を感じていた。



今年はルチシャにとって節目の年であった。

去年の夏に十七歳を迎えたルチシャは、今年の春、王宮に参内して国王陛下ならびに王妃殿下との謁見を済ませ、無事に社交界へのデビューを果たした。


それからは怒涛の日々だ。


貴族令嬢にとって重要なことは、有力なご婦人方と顔を繋ぐこと、そして素敵な伴侶を見つけること。

残念ながらルチシャは伴侶探しに積極的ではなかったが、それでも父が選んだ幾人かとお見合いの席は設けられたし、力あるご婦人が開くガーデンパーティや夜会にもリリオデス伯爵家の名を背負って顔を出した。


王都のタウンハウスは領地にあるカントリーハウスに比べてこぢんまりとしているものの、少し足を伸ばせば商店や劇場など楽しむ場所はたくさんある。

同年の娘たちと集い、情報交換がてら劇を観に行ったり、喫茶で流行のお菓子を食べながら他愛もないお喋りに花を咲かせたり。


夏至祭の準備のためにと領地に帰還するまでの三ヶ月間、ルチシャは人生で最も精力的に活動したと言っても過言ではない。



けれども。


その生活に戻りたいかと言われれば、安穏とした生活を好むルチシャにとって、王都での華やかな生活はあまり魅力的ではなかった。


伯爵家出身の父母から生まれた血統宜しい娘であるものの、伯爵家には既に後継者となる男児がいる以上、ルチシャに求められるのは婚姻による家同士の関係強化。


とはいえリリオデス伯爵家はどちらかというと、古い家柄ではあるものの、権力にも派閥にも固執せず、のらりくらりと面倒事を躱しつつ細く長く生存している類の貴族だ。

リリオデス伯爵家の者が王宮で重役に就くことは少なく、派閥同士の諍いに表立って加担することも滅多にない。

先代は有能で王宮での働きも目覚ましく、リリオデス伯爵家の名も少し浮上したようだが、当代伯爵であるルチシャの父は、正妻亡きあと爵位の低い未亡人を後妻に迎えるなど、あえて突出し過ぎないよう色々と調整している。


そのせいかルチシャに対しても高位貴族との結婚を強要するような真似はせず、良い人が居れば相談しなさいと言う程度の熱量で。

せっかく後継者教育を受けたことだし、年内に良い出会いがなければ王宮に出仕しようと思うのですがと相談したルチシャに、それでも構わないとあっさり頷いたくらいだ。




秋の収穫祭が終わり冬が来ればまた、父と義母と共に王都のタウンハウスへ戻らなければならない。

それを考えるだけで憂鬱になる自分が、王宮勤めなど出来るのだろうか。

それとも、慣れてしまえば王都での生活も今のように気楽なものとなるのだろうか。



(でも出来れば、晩年くらいは自然豊かなところに住みたいわ…)



一筋の風が木々の間を駆け抜け、その勢いに負けた葉がハラハラと枝から落ちてくる。


端が少し茶けた葉が祠にペタリと張り付いたのが見えて、ルチシャは座っていた倒木からよっこらせと腰をあげた。



ルチシャの膝下くらいの大きさの祠は、ただの大きくて滑らかな石が無造作に地面に突き刺さっているようにしか見えないが、その石の表面にはひとつだけ、とても美しい翡翠色の玉石が嵌め込まれている。

エメラルドのように輝くそれはまるで、竜が生涯にひとつだけ宝として抱くと言い伝えられている竜玉のようで、先代伯爵はこれを見て、祠に竜が眠っているという魔女の言葉を信じたのだという。


元より、ルチシャの生まれたエアファルト王国では竜は崇拝すべき存在とされる。


緋色の巫女竜と呼ばれる竜が王家を守護しているというのは有名な話で、新年には巫女竜から賜った御神託が公示され、二月には巫女竜を祀るお祝いがあるほど。


ここに眠っているのがどのような竜かは明らかにされていないが、この祠が出来た当時、まだ王太子だった現国王陛下が直々に見に来られたというのだから、ただの御伽話ではないのだろう。



ルチシャは夏草のにおいを嗅ぎながら、祠の傍に屈むと葉を摘み上げた。

再び風が吹いて、砂埃が鼻を撫でたと感じた時にはもう、勢いのままくしゃみが出ていた。


ふえっくしゅ!

と、淑女にしては少々大きな声でくしゃみをしてしまった事をルチシャは恥じたが、

それよりも、目の前で起きたことが信じられなかった。


見るからに大きくて重そうな祠石に亀裂が入り、ピシピシと断裂が深まったかと思えば、縦真っ二つに割れてしまったのだ。


驚愕する間もなく、割れ目から黒い靄が勢いよく噴出する。


ルチシャは後ろにひっくり返るように転んで尻餅をつきながら、咄嗟に両腕で顔を庇った。



(ど、どうして祠が割れたの!?吹き出した黒い靄は何!?)



わけもわからず頭は混乱し、

怖い。と恐怖で身が竦む。

次に何が起こるかわからない。早くここから離れなければ…と思うのに、腰が抜けて動けそうにない。


あまりの恐怖と情けなさに、じわり…と涙が滲んだルチシャの耳へ、低く、重い、男性の声が届いた。




「……大丈夫かな?」



「え…?」



恐る恐る、顔を庇っていた両腕をどかしながら目を開ける。


祠は無惨に真っ二つになったままだったが、その手前に、見慣れぬ男性の脚が見えた。


ゆっくり視線を上にあげていくと、少し古い時代の礼服を纏う、背の高い男性がそこに居た。

さらに顔をあげ、ルチシャがこれまで見たことのあるどの顔よりも麗しく整った顔立ちに行き当たり、思わずポカンと口を開けてしまう。


がっしりとした体躯は逞しく、随分と背も高い。

焦茶色の髪は腰までの長さで、クセがあるのか緩やかに波打っている。

歳のころは父よりも少し若いくらいだろうか。若々しい印象ではなく、経験豊かな、深みのあるブランデーのような雰囲気を纏う男性は、ハシバミ色の美しい瞳でルチシャをじっと見下ろしている。



(……この人は誰かしら。どうしてここに立っているの?)



知らない男性と一対一で対峙しているというのに、不思議と恐ろしさはなかった。


けれども間を置かずして、これは自分よりも偉い存在なのだと頭の中で警鐘が鳴る。

畏れ多いと本能が叫び、今すぐに平伏しその身に敬意を示さなければと心が怯え始める。



ルチシャの思考が纏まる前に、男性は二歩前に出ると、腰を屈めてそっと手を差し出してくれた。



「驚かせてしまったね……封印を解いてくれたこと、心から礼を言うよ」


「封印………あの…私は、この祠には竜が眠っていると聞いていたのですが」


「うん?ああ……僕は竜だよ」



小首を傾げた男性はルチシャが混乱していることに気付いたのだろう。痛くないように優しく腕を掴み、ゆっくり立ち上がらせてくれながら、自分は竜だと肯定する。

けれどもその言葉は、いっそうルチシャに困惑を齎すばかりだった。



ひとまず「ありがとうございます」と立たせてくれた事への礼を告げ、竜と自称する男性と向き合う。


ルチシャを見る薄茶色の瞳は穏やかで、攻撃性の欠片も感じられない。

けれども体の根深いところが、脳が、彼は自分よりも遥か上位の存在であると判断しているらしく、どうにも落ち着かない心地だ。


ルチシャは一瞬、立ち上がらせてくれたことへの礼だけを済ませてこのまま立ち去ろうかとも思ったが、大事な祠を壊してしまったこともあるし、しっかり事情を把握しておくべきだろうと及び腰な考えを叱咤して背を伸ばす。


幸いにも目の前の男性からは、ルチシャをどうこうしようという意思は感じられない。

前触れなく害される可能性もあるが、その時はその時だと我が身に降りかかった運命を受け入れるしかないのだろう。


ただ、どう見ても目の前の男性は人間にしか見えず、竜だと言われてもにわかに信じ難い。



「あの……私は実際に竜とお会いしたことはないのですが、国内で流通している物語本には、竜とは、鱗のある大きなカラダで、鋭い尻尾と翼が生えていて、力強い四肢を持った……その、…獣のような生き物であると記述されているのです」


「そうだね…形状は大体合っているけれど、体の小さなものも居る」



穏やかに告げられた補足内容に、ルチシャは慄きながらもコクリと頷く。

獣と表現したことで気を悪くしないか心配したが、相手はさして気にした様子もない。



「……貴方は、人間と変わらぬ容姿をしていらっしゃいます」


「高位の…力ある精霊は大抵このような姿になることが多い。

そもそもこの世界は、風と大地の精霊によって形作られ、人間は彼らの営みのなかで生まれた存在だ。精霊と人間の姿が近しいことに何の不思議もないよ」



突然語られた内容はあまりにも突飛で、けれども嘘を吐いているようには見えない。男性はあくまで辞書を引いてその頁を読み上げるように、有する知識の一端を言葉にしたに過ぎないのだろう。

しかしながらそれは、人間の社会では長らく謎とされている神話級の内容で。


ルチシャは堪らず、本日二度目のポカンを披露した。


(つまり…精霊が先で、精霊に似せられて人間が生み出されたってことかしら?)


そして話からして、目の前の男性はかなり高位の精霊であるらしい。



竜なのに精霊?と思わなくもなかったが、そもそも竜という存在がどういうものか、この国では明確に定義づけられていない。


ある研究者は自然派生の精霊に近しい存在だといい、ある研究者は実体を持たない精霊とは対極に位置する動物的な存在だという。

ある神学者は神から地上を見張る役目を与えられた高貴なる存在だといい、ある生物学者は爬虫類と人類にとっての祖先だという。


人間よりも高位で不可侵の存在である…という共通認識はあるものの、殆どの人間が竜を見たことすらなく、その謎を直接的に紐解ける者はいなかった。


だからこそルチシャは、今、自身に与えられた情報の稀有さに少し怯えた。

学者や研究者でもない小娘が、世界の真実に触れようとしている。


「……それは、私が知っても良い情報なのでしょうか」


「きみが知ると何か不都合が生じるのかな?」



首を傾げた男性は心底不思議そうにしている。

ルチシャは、自分が真理に触れることでどんな影響が生じるかを想像し……首を横に振った。


「いえ……いいえ。私自身が何か特別な発言力や影響力を持っているわけではありませんので、大きな問題にはならないかと思います。ただ……突然、創世記の秘密を知ってしまい、大いに混乱しています」



素直に告げたルチシャに、男性は目元を和らげ口角を上げた。

すると途端に、穏やかな風貌のなかに男性らしい色っぽさが加わり、ルチシャの心臓はどきりと跳ねる。



「許容量を超えるほどの情報を注ぎ込むつもりはないから安心するといい。

今ここで、きみの想像するような竜の姿に転じることは容易い。けれど……怯えさせてしまうかもしれないし、喉を使って発声するのが億劫になるから直接脳に語りかけるような仕様になってしまうんだ……慣れていないと吃驚するだろう?」


あくまで優しく、どこか幼子に言い聞かせるようにゆったりと説明された内容に、ルチシャは圧倒されながらもコクリと頷いた。


(直接脳に語りかける…)


目の前に大きな獣のような竜が現れ、直接脳に言葉を注ぎ込まれる様を想像して、ルチシャは気が遠くなりそうになった。


目の前の男性が気を遣ってくれなければ、祠が壊れた直後にそのような状況下に置かれた可能性もあったのだ。

そうなればルチシャは確実に失神していただろうし、竜のサイズや姿次第では領内が大混乱に陥り、大問題に発展していた可能性もある。



「私のためにその姿でいてくださるのですね。ご配慮に心から感謝いたします」



スカートの裾を摘み丁寧に頭を下げるルチシャに、竜は「そんなに畏まらなくていいよ」と告げる。

どこまでも優しい声掛けに、思わず信仰心すら抱きそうになる。



男性からの説明を信じないわけではなかったが、竜はもっと野蛮で暴力的だと思っていただけに、目の前にいる穏やかそうな男性が竜であるという事実に、やはり心の中では幾度も首を傾げてしまう。



(…でもきっと、優しいばかりではないのね)



こちらを見つめる瞳は終始穏やかではあるものの、観察されている感が否めない。

それは狼や烏、狐といった知能的な生き物が、相対した人間に対し、次はどのような行動を取るのだろうかと俯瞰的に観察するかのように。

男性は今、ルチシャという人間を観察して何かを掴み取ろうとしているようだ。


ルチシャからすれば、何を探られ何を見定められているのかわからず困惑するばかりだが、ひとまず、うっかり壊れてしまった祠について尋ねることにした。


先ほど男性は『封印を解いてくれた』と言ったが、リリオデス伯爵家には『竜が眠りについた』と伝わっているのだ。

自ら祠に籠ったのか、第三者によって強制的に封じられたのかでは、随分と事情が異なってくる。



「あの…貴方はなぜ、祠の中におられたのでしょう」



ルチシャからの問いかけに、男性は僅かに顔を顰めた。



「性根の悪い魔女により呪いを受け、祠に封じられたのだ。

だが、あの魔女ひとりで竜を封じるほどの力を持てるはずがない…おそらくは背後に協力者がいるのだろう。……そういえばきみは、この祠には竜が眠っていると聞いたと言っていたけれど、一体誰から聞いたのかな?」



仄暗い瞳の輝きにぞくりとしながら、ルチシャは相手を真っ直ぐ見据えて答えた。

こちらに後ろ暗いことはないのだから、堂々と受け答えすれば誤解などされないはずだと信じて。



「祖父の代から、私の生家に伝わるお話なのです。竜は森の入り口で障りを受けて眠りに就き、その障りを解くために魔女はやむなく祠を離れて各地を旅しているのだと……私はまだお会いしたことはありませんが、先代であった祖父は祠のできた経緯を魔女から直接聞いたそうですし、父が当主となった折にも魔女が会いに来たと聞いています」


「きみの家を訪ねた魔女の特徴などはわかるかい?」


「黒い…ローブを着ていた…という記述はあった気がするのですが……すみません、それ以上は覚えていません」


首を捻りながら必死に文献の内容を思い出そうとする姿に、ルチシャの発言に嘘偽りはないと信じてくれたのか、竜は表情を緩めて「構わないよ」と頷いた。


「厳しい声を出して悪かったね。障りを解くための旅に出たというのは魔女の詭弁だろう。あの魔女は『自分を好きになればここから出られる』…『運命に導かれ真実の愛で結ばれることで封印は解ける』…などと嘯くばかりで、封印を解く気などさらさらなかった」



(つまり…遠回しに『私を好きになって』と言ってるようなものよね?)



どうやら伯爵家の森に竜の祠が誕生したのは、竜に恋した魔女が恋を拗らせた結果のようだ。

竜な男性は確かに罪作りな容姿をしているけれど、好きだからという理由で一方的に呪われ封印されるのは不本意だったに違いない。



ふと、ルチシャは不安になった。



せっかく祠に閉じ込めて独り占めにしていた竜の封印が解けたと知れたら、その魔女は怒りのままに伯爵家に乗り込んで来はしないだろうか。

背後に協力者が居るということは、その女性の恋を応援し、過激な行動に出るよう焚き付けた存在が居るということで。

そちらからも報復を受けるのだとしたら、きっと悲壮な結末になることだろう。



報復の内容を具体的に想像してしまい、俄かに言葉を失い顔色を悪くしたルチシャに気付いたものか、男性は「少し座ろうか」とエスコートの手を差し出すと、先ほどまでルチシャが腰掛けていた倒木までゆっくり導いてくれる。


(なるほど…こんなにも気遣いが出来る男性がモテない筈がないわ)


ルチシャは男性が封印されてしまった理由に得心しながら、見上げた先にある端麗なご尊顔を拝み倒したい心地になった。

魔女はきっと、呪いや封印という強引な手段を使ってでも、この男性のことを独占したかったに違いない。



倒木に並んで腰掛け、無残にも真っ二つになった祠を何とも言えない気持ちで眺める。


竜が眠っていると信じていた頃は神聖さすら感じていた祠石だが、事情を聞かされた今では、魔女による愛憎や執着の塊にしか見えない。



男性に促されるまま、ぽつりぽつりと先ほど思い至った懸念を口にする。


親身になってルチシャのことを気遣ってくれているが、本来労りを受けるべきは男性のほうだろう。封印されてからおよそ五十年…一体どんな思いで祠のなかに居たのだろうか。


(お腹とか、空いていないかしら…)


隣にある端正な横顔を見上げると、視線に気づいたのかルチシャを見た男性は目を細めながら「大丈夫だよ」と言った。



「あの魔女は今頃、呪詛返しで瀕死になっているだろう」


「え……」



(それは…どう受け止めたらいいのかしら)



続けられた言葉を読み解くに、どうやら割れた祠から噴出した黒い靄は呪いが術者に返されたものだったらしく、ついでに封印されたことへの恨みをたっぷり込めた竜特製の呪いも絡めて返納したのだという。


黒い靄が領地や森に悪影響を及ぼすことはないと言われてホッとした部分もあるものの、呪いや呪い返しと言われてもあまりピンとこない。

というか、とても優しい顔で「大丈夫。あの魔女は瀕死だから報復には来れないよ」と言われて、それをどう受け止めたら良いものか。


(もしかすると…思ったよりも過激な性格なのかも…?)


不意に脳裏に、物語本に出てくる竜の描写が浮かぶ。


人々の生活を蹂躙し、建物を壊し、時には火を吐いて、辺り一帯を破壊し尽くす暴れん坊。

短気で短絡的で、口よりも先に手が出るタイプの……。



「だが、あれで死なないとは妙だな…」と顎を撫でながら物騒なことを呟いた男性にルチシャは一気に不安になった。


穏やかそうに見えるし、優しく気遣ってくれるけれど……本当は物凄く恐ろしい存在なのではないかしら。


魔女やその仲間からの襲撃云々よりもまず、この男性からの怒りを買わないように気をつけるべきなのかもしれないとようやく思い至る。


ごく一般的な人間であるルチシャは当然、呪われてもそれを防ぐ手立ても解除する術も持っていない。瀕死どころか即死一択だろう。


さすがにまだ死にたくないわ…と身を縮こませると、男性は「まだ何か不安があるかな?」と問うてきた。

貴方に殺されないか不安ですと言うわけにもいかず、ルチシャは曖昧な微笑みを浮かべる。


「ええと……どうしてこんなにも、優しく気遣ってくださるのだろうと…」


「妻となる女性を大切にするのは当然のことだろう?」


「つま………妻!?」


ぎょっと目を瞠ったルチシャとは対照的に、男性は心底不思議そうな表情を浮かべている。


一体どこでそのような話になったのだろうと困惑しながらも、相手を怒らせぬよう慎重に言葉を選んで問いかけたルチシャに、男性は目を細め、至極優しく微笑んだ。

突然の微笑みが胸に突き刺さり、ルチシャの心臓は密かに瀕死の重傷を負う。このまま天に召されたほうが心臓的には優しい結末かもしれない。



「封印が解けただろう?……魔女が言っていたように、この祠には感情に由縁する呪いが刻まれていたようだ。

好ましく思えない魔女が触れても何も起きず、むしろ封印は強まるばかりだったけれど、きみが触れたことで呪いは解けた。

だからきみとは、運命というもので繋がっているのだろうね」



得心するように語った男性に、ルチシャは当惑した。

先ほどまではとても理性的で理知的だと思っていた目の前の男性が、途端に得体の知れない存在のように感じられてしまう。


運命や真実の愛などというお伽話の幻想を、ルチシャは信じていなかった。


元より恋愛に興味関心が薄く、貴族の婚姻は家のためと教育されているせいかもしれないが、愛だけでは腹も膨れないしお金も稼げないと思う気持ちが強い。

愛に満ちた無謀な結婚よりも、薄愛でも充足した生活を送れる結婚のほうがよほど現実的だと考えているくらいだ。


(それに、魔女には解呪できなくて、私には出来たなんて言うけれど…)



「信じられないかな?」と首を傾げる男性に、ルチシャは不敬だと思いながらも控えめに頷いた。


「私はこれまで…十年近くものあいだ、何度も祠の元を訪れ、幾度も触れてきましたが、何も起こりませんでした。

呪いのことをよく知らない私が意見するのは失礼かもしれませんが、何か別の理由があるのではありませんか?今までに施された何かが時間差で効果を発揮したとか、経年劣化で祠が脆くなっていたとか…」


「……触れる以外に、今日は何か特別なことがあっただろうか?」


「いつもと違うこと……祠のそばでくしゃみをしたくらいでしょうか」


「ああ、ではそれだろう。封印に使われていた宝石にくしゃみがかかって、解呪の切っ掛けになったのかもしれない。

祠に埋まっていた石はエメラルド…それも精霊の力が籠った特殊な宝石だ。これは随分と厄介な呪いで、正攻法で解くか、宝石に力を込めた精霊に解呪を願うしか方法はない」



吃驚し過ぎたルチシャには、後半の説明は半分程度しか聞こえてなかった。

まさか自分のくしゃみが切っ掛けで封印が解け、祠が壊れただなんて。


唖然とするルチシャに、男性は尚も説明を続ける。

封印に使われていた宝石(エメラルド)の出所に確信があるのか、僅かに眉根を寄せている。不愉快を露わにしているというよりも、悩まし気な表情だ。

もしかすると魔女の共犯者は、男性にとって厄介な存在なのかもしれない。



「この宝石に力を込めたと思しき精霊は、恋占いをしたり簡単な呪いの一種である『おまじない』を売ったりするのを趣味にしているのだが、その結果引き起こされる副次的な被害に関しては我関せずでね。授けた宝石が封印に使われたと文句を言ったところで、開き直られるか、彼女の機嫌を損ねるだけだろう…」



俄かに考え込んだ男性の隣で、ルチシャはひとまず沈黙を守った。

これまで精霊や魔女といった存在を身近に感じたことはないし、呪いや封印についての知識などまったく持たないルチシャに口を挟める余地はない。



(精霊って、趣味で占いをしたりおまじないを売ったりするのね…)


『彼女』ということは、その精霊は女性の姿をしているのだろうか。それとも…雌の動物?


毛皮のある小動物が恋占いやおまじないをしている姿を想像して、あまりの可愛さに胸がほっこりしたものの、現実的ではなさそうねと否定する。

ならばと、隣の男性のような見目麗しい女性姿の精霊を思い描いてみる。

貧相なボディラインの自分とは違い、きっと艶めかしい肢体なのだろうなと想像上の美女に羨望を抱いているところで、不意に隣の男性から、するりと垂れていた横髪をひと房掬われた。


顔を向けると、柔らかさのなかに僅かな甘さを滲ませた瞳と至近距離で目が合う。

心臓はドキンと大きく跳ね、本日二度目の瀕死の重症を負った。



「話がつまらなくて退屈させてしまっただろうか」


「いいえ……私には呪いや封印のことはわからないので、勝手に色々と想像を巡らせていました。

難しいことはわからなかったのですが、つまり私は、運命というものでなければ解けない呪いを解いたので、貴方のお嫁さんになると認定された…という事で間違っていないでしょうか」


「そうだね、……理屈としてはそうなるかな」


「……では、もしも貴方が封印されていない状態で私に出会ったとしたら……封印や呪いなどといった何か特別なことが起きなくとも、ただ行き会っただけでも、貴方は私に対して何かしらの感情を抱いたと思いますか?」



ルチシャの問いかけが意外だったのか、男性は少しだけ目を瞠った。

それから静かに自己分析を終えると、誤魔化すことなく問いの答えを口にした。


「平素であるなら、人間の娘だなと思っただけかもしれない」


どうやら男性は、普段はあまり人間の住む土地に出てこないタイプの竜らしく(…ということは未開の地にでも住んでいるのかしら?)人間の残す文明や文化を興味深く思うことはあっても、人間そのものに興味を抱くことは殆どないのだという。



「……では、貴方にとって私はただ『封印を解いた』という価値しかない人間なのでしょうね」



自分で言っておきながら、苦い気持ちが湧き上がる。

ルチシャが思った通り、この男性はルチシャそのものに魅力を感じたわけではないのだ。


運命の相手にしか解けない呪いを解いたから、これは自分と共にあるもの。

そう決定づけ、理論的に選び取っただけ。


この世界にはルチシャの知らない呪いの作法があるようだが、だからといって、それで自分の人生が定められてしまうのはどうなのだろう。



本来であれば、高貴な存在とされる竜に求婚まがいのことをされたのなら、栄誉として粛々と受け止めるべきなのだろう。


けれどもルチシャは……相手が力ある者だからとその意思に唯々諾々と従った顛末として、無力な自分がやがてポイと放り出される未来を想像してしまった。


目の前の竜という種族の男性が、ルチシャのことを個人ではなく『人間』という種族的な大枠でしか見ていないのであれば尚更、手放すときに躊躇いはしない筈だ。


この男性にとって自分は、封印を解いたということ以上の、意味も価値も持たない存在。そう感じるほどに、胸には空っぽの虚しさが広がっていくようだ。



けれども男性は、ルチシャの憂いた顔に何を思ったのか、とても低い声で問いかけてきた。


「もしかして、僕の妻にはなりたくない?……それとも既に相手が居るのかな?」



重みのある声で問われた内容に背筋が冷える。

もしも縦に頷いたなら、その相手は確実に葬られるわと怯えたくなるような声音だった。


出会ったばかりの日に急に妻だ何だと言い出したくせに、なんて身勝手で理不尽なのだろうと僅かな憤りを感じたものの、目の前にある端正な容貌と本能が感じる畏れ多さに、この男性は生来、そのような理不尽な振る舞いが許される存在なのだわと諦念する。



「相手はおりませんが……貴方を知らないまま成り行きで妻という地位に収まることも、私のことを全く知らない貴方にこの身を委ねることも、少し…抵抗があります」



もしも『妻にならなければ家族や国を呪う』と脅されたのなら、ここまでの葛藤を抱くことなく我が身を差し出せるだろう。

けれどもこんな風に……こちらの気持ちを慮るような素振りで「妻にはなりたくない?」と尋ねてくるというのなら、正直に、万事受け入れられるわけではないと主張したい。



(……でもこの男性にとっては、こちらの気持ちなんて知ったことではないでしょうし、このまま怒りに触れて殺されてしまうかもしれないけれど)



呪われるのか、竜の力でえいっとやられるのかはわからないけれど、先ほど魔女に対して向けたような嫌悪感や悪意をルチシャに向けるかもしれない。

そうなれば脆弱な人間の身はひとたまりもないだろう。



私が死んだとしてお父さまはどうお思いになるかしら…と思ったものの、

子どもがルチシャひとりしか居なかった かつてであればいざ知らず、今ではちゃんと後継者となる男児が生まれ育っている。

何かしらの特出した才能を持つわけでもないルチシャが居なくなったところで、伯爵家ゆかりの墓地に墓標が増えるだけのこと。


遺品となる衣装や装飾品は血の繋がらない義妹に回せばいい。

ぺたんこの胸仕様で作られているため多少の補正は必要かもしれないけれど、それくらいは縫い物が得意なメイドが請け負ってくれるはず。


そう考えると、自分という存在がどんなに無意味なものなのかと悲しくなってくる。



竜がどのような思想を持ちどのように判断するかはわからないけれど、無礼を働いたのは自分だけなのだから、攻撃するとしても親類縁者は見逃して欲しいと嘆願するべきかな…と思ったところで、俯いていたルチシャの頬に指先がちょんと触れた。


それから目尻をそっと撫でられて、知らず涙が滲んでいたことに気づく。


身を屈めてルチシャの顔を覗き込んだ男性は、困ったように眉尻を下げていた。

眼差しに険はなく、困り顔で淡く微笑むような表情に、ルチシャは目を瞬く。



「すまない……こちら寄りの理屈で話したから、不安にさせてしまったね。呪いや解呪の因果関係は今は置いておこう。……そういえば、きみの名前すら聞いていなかった」


「………ルチシャ、と申します。貴方のことはどのようにお呼びすれば良いでしょう」


「どうしようか…高位の精霊の名は、許可した者にしか呼ぶことは叶わない。きみには僕の名を知っておいて欲しいと思うけれど…そうすると、否応なく縁が出来てしまう。僕を厭うのならば、知らないほうがきみのためになるだろう」



苦笑を深めた男性に、ルチシャは咄嗟に勢い込んで、名前云々ではなく今一番聞きたかったことを尋ねた。

突拍子もない問いかけに、男性は「ん?」と驚いたように目を瞬く。



「奥さまは何人いらっしゃいますか!?」


「妻は…いないよ?竜は基本的に生涯ただひとりしか愛さないものだから…」


「では、恋人や愛妾や情婦のような……閨を共にするお相手はいらっしゃいますか?」


「僕には居ないかな……女性の肉体構造は知っているけれど、知識以上のことはあまり興味がなかったから。……もしかして、それを不安視していたのかな?」


「それも不安でした。突然妻にと望まれて、ホイホイついて行った先でたくさんの奥さまを紹介されたらどうしようと。…私はご覧の通り、あまり魅力的ではありませんので」


「…そうだろうか?」と改めて全身に視線を向けられて、ルチシャは思わず背筋を正した。



ルチシャは家柄以外に、特に目立った特徴もない至って平凡な娘だ。


小麦色の金髪に青色の瞳。

とあるプレイボーイなお見合い相手からは一度、よく晴れた日の湖のような瞳だと言って貰ったことはあるが、明らかに社交辞令であったし、栗毛色の髪に赤銅色の瞳を持つひとつ年下の義妹のほうが見た目は良いと思う。


身に纏っているお散歩用のシンプルなデイドレスは詰襟型で露出が少なくなっており、裾元に刺繍が施された三段のティアードスカートは軽快で動きやすい。

腰のサッシュベルトも通常であればウエストラインを強調するためにしっかり締めるのだろうが、祠の掃除で屈んだりするからと緩めに巻いてもらっている。

肩甲骨までの髪は邪魔にならないよう後ろでくるりと巻き上げて留めている程度。


みずぼらしくは無いが、特別華やかでもない。

何より残念なのが、胸が控えめすぎることだろう。せめて身長がもう少しあればと思えど、ルチシャの身長は平均程度しかないためスレンダーというには及ばない。


不細工ではないが美人でもなく、豊満でもスレンダーでもなく、

なんとなく小ぢんまりと纏まっているばかり。


対する目の前の男性は、端正な顔立ちであることはもちろん、全体像として、一流の男性が嗜む高級蒸留酒のような深い魅力を持っている。


特に瞳が吸い込まれるほどに美しいとルチシャはしみじみ思っていた。

虹彩のまわりにじわりと滲むように薄茶色が広がり、端にかけて美しい緑色へと変化している。

陽射しのあたり方や男性の表情で色味を変えて見え、薄茶色は蜂蜜色や琥珀色のようであったり、緑色は若葉や翡翠や碧緑のようであったりする。


パーツの造作からしてこんなにも落差があるというのに、果たしてどんな評価が下されたものか……と意識を遠くにやっていると、竜を名乗る見目麗しい男性は不思議そうに首を傾げた。



「可愛いと思うが……」


「!?」


可愛く見えるのに何がいけないんだろう…と本気で思案している様子の男性に、ルチシャは堪らずオロオロしてしまう。これまであまり真剣に顔立ちを褒められたことがないため、気恥ずかしさで頬が熱くなる。


(可愛いって…愛玩的な意味かしら。マスコット的な可愛さというか…)


けれども、妻にと望まれた以上、幼女として見られているわけではなさそうだ。



そういえば竜な男性は一体いくつなのだろうか。

見た目は三十歳前後だけれど、よくよく考えればこの祠は五十年近く伯爵家の森に佇んでいる。


思いがけず可愛いと評価されたことへの気恥ずかしさを誤魔化すように、まだルチシャの顔をじっと見つめている男性の意識を逸らすべく、竜はどのくらい生きるのかを尋ねてみる。


その結果、照れくさくてオロオロしていたルチシャの心は一気に平静に戻った。



「竜に明確な寿命はないよ。僕は七千年くらい生きているかな」


「ななせん……」


まだ一万年には至らないと思う、という大きすぎる概算で語られ、たった十八年しか生きていないルチシャは気が遠くなる。

もう、年の差を気にするとかそういう話ではないのね…と妙に感心してしまった。



「……まだ、不安なことや知りたいことはあるだろうか」



伺うように首を傾げられ、ルチシャは困ったように笑い返した。



「知りたいことばかりです……でも、一日中質問責めにしたところで全て解消できるかどうか……」


得体が知れないのは確かだが、今までのやりとりからして悪い人(竜?)ではないと感じている。けれども、あまりにもルチシャに知識や情報が無さすぎるのだ。


そもそもまだ、竜とはどういうものかということさえ良く理解出来ていない。

これまでのやり取りを鑑みるに、直球で「竜とはどのような存在なのですか?」と尋ねたほうが話は早いのだろうけれど、果たしてその無知で不躾な問いかけにも彼は(できれば優しく)答えてくれるものだろうか。



そう思案するルチシャの耳に、不意に、風に乗って誰かの声が聞こえた。

まだ距離があるのだろう、かろうじて風に届けられた音が「おおぃ……ょうさま…」と途切れ途切れで聞こえてくる。

声の主に思い至ったルチシャはハッと屋敷の方向を振り返った。



「いけない!すみません、家の者が探しに来たようです…約束の時間までに戻らないと捜索されるという約束になっていて…」


「男がひとり来るようだね…きみを引き留めたのは僕なのだから、一緒に謝りに戻ろうか」


「とんでもない!我が家の規則ですので、貴方が謝る必要はありません」


慌てて首を振ったルチシャに、竜な男性は穏やかに目を細めた。


「きみの生家を訪れたという魔女の話を詳しく聞きたいのだけれど、同行を許してくれるかな?」


「それは構いませんが……」



探しに来た門番の、お嬢さまー!という声が明確に聞こえるようになってきた。

男性は「行こうか」と腕を差し出した。ルチシャは最後の足掻きとして少しだけ逡巡してから、観念して差し出された腕に手を添える。



「おじょうさ……ま!?」


ずざッと靴裏を鳴らして立ち止まった門番な衛兵は、ルチシャと男性を幾度も幾度も見比べ、何か言おうかと口を開いては何も言えずに立ち尽くすばかり。


「探しに来てくれてありがとう、ゼイン。心配かけてごめんなさい。これから高貴なお客さまを屋敷にお連れするから、客間を整えて欲しいの。申し訳ないけれど、屋敷に戻ってお父さまとアンサムに伝えてくれるかしら」


「か…しこまりました!すごいお客さまをお迎えするんですね!すぐに伝えて参ります!」


勢いよく回れ右して来た道を駆け戻ろうとした門番は、その勢いのままぐるん!と振り返った。


「裏門には自分の代わりにギリアムが立っておりますので!」


それだけを言い残し、全速力で屋敷へ駆けてくれる。

そろそろ四十歳を迎える筈だが、昔から変わらず元気で明るい人だ。


「今のは?」


「裏庭側の門番を務める衛兵のゼインです。会話に出てきた名のうち、アンサムが屋敷の家令で、ゼインの代わりに裏門に立っているというギリアムは庭師のひとりです。

このまま真っ直ぐ戻ると裏門から屋敷へ入ることになるのですが……」


チラリと男性を伺えば、ルチシャの言いたいことを察して「構わないよ」と頷いてくれる。


ここから屋敷の正面に回ろうとすると一度森を抜けてぐるりと迂回して行かねばならず、さすがに徒歩だと厳しい距離になる。

お客さまを裏門からお連れすることはマナー違反ではあるものの、この場合は不可抗力として見逃してもらおう。


「ずっとエスコートをなさるのは大変でしょうから手を外しますね」


「好きにして構わない。知人に、どれほど短い距離であってもエスコートしなければ機嫌を損なう精霊が居て、ついね…」


その精霊から叱られたことでもあるのか、少しばかり辟易とした表情を浮かべた男性にルチシャは小さく笑う。



客間を整えるための猶予が必要だからと道中の草花に目を留めたり裏庭の案内をしたりと秘密裏に時間稼ぎをするルチシャに文句を言うでもなく、男性は泰然としたままゆったりとした足取りで付いてきてくれる。

なによりも、ルチシャに向ける眼差しはどこまでも穏やかで優しくて。



こんな時間が過ごせるのなら、男性との未来を考えてもいいかもしれないと、ルチシャはひっそりと期待し始める自身の胸を手のひらで押さえた。







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