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カフネ

作者: 西あさひ

私には、彼女が何を考えているのか分からなかった。でもそれはあくまで私から見たA面の話で、彼女の見ていたB面では、私もまた何を考えているのか分からない人間だったのだろう。

大人になった今も、私は彼女の考えていたことが分からない。



彼女、水原麻衣子と初めて言葉を交わしたのは、高校3年生で同じクラスになったときだった。

それまで私は彼女を認識したことがなかった。それもそのはずで、文系クラス1組の私と理系クラス7組だった彼女に接点があるわけがなかった。彼女は、3年生で理系から文系に転向してきた文転組の生徒だった。

うちの高校は1学年7クラスのうち6クラスが理系という、非常に文系の肩身が狭い高校だった。文系の私たち1組は2、3年でそのまま持ち上がりになるので、結果として仲間意識が強くて独特の雰囲気のあるクラスになっていた。

そんな1組に3年生から入ってきた彼女は、最初あまりクラスに馴染めなかったようだった。

決してひとりぼっちになっているというわけではなかったけれど、どこかみんなと距離を置いていた。例年なら文転する人が1、3人はいて、そこで仲良くなることが多いらしかったけど、その年文転したのは彼女だけだった。私は、仲良くなれたらなと思いつつも、ただ彼女を遠巻きに見つめていたのだった。



そんな状況が変化したのは、5月の席替えで彼女と隣の席になったときだった。

「水原さん、隣だね。よろしく!」

「よろしくね。ごめんなんだけど…木嶋…何さんだったかな…?」

「あ、そうだよね!私、木嶋沙和って言います。沙和って呼んで!」

「じゃあ私も、下の名前、麻衣子って呼んでほしいな」

「分かった!よろしくね、麻衣子」

それを皮切りに、私と麻衣子は驚くほど一瞬で仲良くなった。それはスポンジに水が染み込むよりも早いことだった。私は元々、詠美と京子と3人でグループを成していたのだけど、気がつくと麻衣子は当然のように私たちの中に溶け込んでいた。2人も麻衣子とはとても馬が合うようで、何故今まで友達じゃなかったのかが不思議なくらいだった。

「麻衣子ってめっちゃ面白いね!おしとやかそうだから、もっと静かなタイプかと思ってた」

「え〜ありがとう京子〜!嬉しい〜!」

「私もそう!結構びっくりした!」

「詠美までそう思ってたの?いやでもね、確かに最初はそう思われること多いの、私。全然そんなことないんだけどね。沙和もそう?」

「う〜ん、私は結構、そんな気がしてた」

「え?!何それ沙和、エスパー?」

「いやいやいや!何と無くだって!詠美!」

「読まれてたの私…?!やば…!」

「ちょっ!怖がんないでよ麻衣子!」


麻衣子が私たちの日々に浸透しきった7月、私は所属していた陸上部を引退し、受験勉強に専念することになった。詠美は吹奏楽部で、京子は強豪テニス部で全国大会に出場するため、2人はまだ引退が先だった。そんなわけで私は、元々帰宅部だった麻衣子と放課後を過ごすようになった。

「麻衣子、今日も自習室寄ってく?」

「うーん…やろうと思ってた参考書家に忘れちゃって…」

「そっか…麻衣子が帰るなら私も帰ろうかな」

「あ、いいこと思いついちゃった」

その日、私は初めて麻衣子の家に行くことになった。それまで知らなかったのだけど、麻衣子の家は学校から歩いて10分かからないほど近かった。私は電車で片道1時間かけて通学していたから、徒歩で通える距離だということを本当に羨ましく思った。麻衣子の家は、大きくて立派な一戸建てだった。

「うち両親が2人とも医者で、私は一人っ子だから、昼間誰もいないの。上がっていいよ」

「そうだったんだ。お邪魔しま~す!」

麻衣子の家は綺麗に片付いていて、モデルハウスのようだった。麻衣子の部屋もすごくお洒落できっちりとしていて、なんだかいい匂いさえした。私は脳裏で朝脱いだまま放置してきたパジャマのことを思い出し、改めなければと痛く反省した。

「紅茶とコーヒーどっちがいい?」

「えっ…じゃ、じゃあ紅茶で!」

「お砂糖とミルクは?」

「…どっちも」

私は麻衣子の育ちの良さを身に染みて感じた。以前、電車の路線が同じ京子を家に招いたことがあったが、私がその時出したのは水出しした麦茶だった。もし仮に紅茶を出したとしても、砂糖に“お”を付けただろうか?

麻衣子が出してくれた紅茶と(麻衣子がブラックコーヒーだったのは少し意外だった)お茶菓子を食べてから、テキストを広げて私たちは勉強を始めた。

「沙和ってどこの大学目指してるの?法学部志望なのよね」

「まだちょっと悩んでるんだけど、今のところ県立大受けようかなって思ってる」

「だったら推薦とかも受けるの?」

「残念ながらそこまで内申良くないんだよねぇ〜。そういえば麻衣子ってどういう系の学部目指してんの?」

「史学かな…。私…博物館の学芸員になりたくて」

「へぇ…!そうだったんだ」

「その、両親医者だって言ったでしょ。だから私も医者になれってことで、それで渋々理系になったんだけど…私ほんとに理系科目苦手で…数学と化学で赤点とりまくって…」

「な、なるほど」

「それで両親にも医者になるの諦められてさ。文転して、やっと憧れてた学芸員の資格取れる大学目指せるようになったの」

「なんか…一周回ってよかったんじゃない?」

「あはは、そんな気がする。まぁ、両親の目は冷たいけどねぇ」

それから私たちは2時間ほど勉強を続けた。確かに麻衣子は、生粋の文系の私から数学を教わるほどには理系科目が苦手だった。でも英語や古典はスラスラと解いていて、私は麻衣子が文転できて良かったなとつくづく思った。



その日以降、私たちは週に1回くらい麻衣子の家で勉強をするようになった。麻衣子は毎日でも問題ないと言っていたけど、流石に申し訳なかったのと、毎日あの高級な紅茶とお茶菓子を食べていたら確実に太るに違いなかったから、私はそれを断った。

夏休みになっても、私は毎日麻衣子と集まって勉強していた。私たちは互いに勉強を教え合い(麻衣子は数学、私は古典が苦手だった)有意義な時間を過ごしていた。

「ほんと麻衣子の家のお茶菓子おいしい…。いつもご馳走様です…」

「いえいえ。沙和ぁ…ちょっと顔まわりお肉ついた…?」

「ええええっ!!や、やばい?!」

「あはは、ごめん嘘々」

「ねぇーちょっとぉー!…あ、麻衣子頭になんか付いてる」

「えっ、ほんと?どこ?」

「取ったげる。これ…」

その時、麻衣子の甘い香りがふわっと鼻をかすめた。

甘い中に少しだけコーヒーが香るような、不思議な匂いだった。女の子らしい麻衣子の、裏が透けたような香りだった。

とにかくその時の私には、麻衣子の揺らめく髪がスローモーションのように止まって見え、その一瞬で何分も経っているような感じがしていたのだ。

「ありがとう」

「あ、うん」

心臓が強く握られたような感覚を覚えた。ぶわっと何かが押し寄せてきて、私を拐って行ってしまいそうだった。私はその時まだそういった感情に出会ったことがなかったので、とても戸惑った。麻衣子の柔らかい黒髪が、くっきりとした目が、見に纏っているベージュのワンピースが、その下に覗く脚が、急に私の心の奥をぎゅっと掴むようになった。

「どうかした?」

「あ、や、なんでもない」

私はそれから帰るまで、先ほどの感情を悟られまいと必死に平静を装っていた。でも私の心臓はずっと速いままだったし、それはきっと不自然に見えていたと思う。



それに恋という名前を付けたのは、引退祝賀会と称して陸上部のメンバーと集まり、ご飯を食べに行った時だった。

「え~、太一君ってそんなにカッコよくなくない?愛って毎回よくわかんない趣味してるよね」

「カッコいいって!!この前落としたシャーペンひろってくれて…優しかったなぁ…」

その日、私は麻衣子と会わずに過ごすのがかなり久しぶりだった。あれ以来私は、麻衣子と会うたびに動機が激しくなって仕方ない状況だったから、やっと休まったような心地がしていた。

「ねぇ美結ひどくない?!沙和はどう思う?!」

「えっ、ど、どうって?」

「太一君だよぉ!カッコいいじゃん?!背高いし!」

「うーん…私はあんまり好みじゃないかな…」

「沙和までぇ?!なんでぇー?!」

「ほらやっぱそうだよ、愛の負けー」

「負けとかそういう問題じゃないし!」

愛は根っからの恋愛体質で、高校3年間であらゆる男子と付き合っては別れて、を繰り返していた。別れるたびに盛大に落ち込んで、かと思えば次の週くらいにはまた別の人といい感じになっているのを見て、全然モテない私はちょっと羨ましいなと思っていたりしたものだ。

「愛って、めっちゃ色んな人好きになるけど…愛的にさ、好きになるってどんな感じ?」

「沙和がそんなこと聞いてくるの珍しいね?どうしたの?もしかして沙和も恋しちゃった?!」

「違うって~!シンプルに気になっただけ!」

「でもアタシもそれは気になるかも。どうなったら好きになったって思うわけ?好きってなる瞬間って何?」

「え~?何って言われても…。例えばどんなの?」

「んー、なんかキュンキュン?するとか、さ」

「えーそりゃあなるよ!キュンってか、心臓がドキン!てなって、そのあとずっと幸せなの!」

「なにそれ~、少女漫画じゃん、そんなことある?」

「美結も恋したら分かるって!」

恋。恋…。こい、か。

すとんと腑に落ちた気がした。そうかもしれないな、と思った。私が麻衣子に抱いている感情は恋だったのか、と。

でも、ドキンとなって幸せだとか、そんなに甘っちょろいものではないとも思った。心臓はもはや痛かったし、息もしづらくて苦しかった。麻衣子がこちらを見る目が、光線のように突き刺さっている感覚だった。

私はそれまでにも恋をしたことがあると思っていた。好きになった人もいたし、付き合った人もいた。どの人にも恋をしていると思っていたけど、それらはどちらかと言えば愛が言ったのに近い、幸福な類のものだった。でもその時私が麻衣子に感じていたのは、もっとドロドロした思いだった。そう思うとやはり恋とも違うのだろうか、と思ったけれど、それ以外に名前のつけようがない感情だった。

その日恋を自覚して以来、私は麻衣子と会っても、心臓が搾り取られるように感じることはなくなった。代わりに、ずっと話していたいという思いや、もっと直情的な、麻衣子に触れたいという思いを強めていた。それはやがて、独占欲のようなものになって膨れ上がっていった。その結果として、夏休みが明けてから、私はそれまで以上に麻衣子と時間を共にするようになっていた。麻衣子も私と常に一緒にいることに疑問を感じている様子はなく、むしろ一緒にいたいと思っているようだった。私はそのことがとても嬉しかった。

私はやがて、触れたいという思いを抑えられなくなっていった。麻衣子に触りたい、あわよくば抱きしめてぐちゃぐちゃに溶け合いたい、という思いがどんどん溢れてきて、私はそれをせき止めるのに必死な毎日を送っていた。もし大人だったらお酒の力を借りられたりするのに…自分じゃない何かになってうっかりを装ってでも…と四六時中考えていた。

そんなある日、思いがけず麻衣子の方から行動は起こされた。

ある時急に、一緒に歩いていた麻衣子が私の手を握ってきたのだ。

「えっ、何、ど、どうしたの」

「沙和の手、綺麗だなぁって。前から思ってたんだけど、何かケアしてるの?」

「べ、別にしてないよ。麻衣子の方が、綺麗だって」

「そんなことないよ」

その麻衣子の行動と発言はあまり噛み合っていなかった。なぜなら、麻衣子は前を向いたまま、恋人同士がするように手を繋いでそう話していたからだ。

それ以来麻衣子はふとしたタイミングで私の手を握ってくるようになった。その度に私の心臓はひゅんと跳ねて、精神が身体から剥がれてしまいそうになっていた。その勢いで衝動的に麻衣子に抱きついたりしてしまいそうで、私は毎日ギリギリのところで理性を保っていた。



ある時私は思い切って、麻衣子に恋バナをした。

「麻衣子って今まで誰かと付き合ったことある?」

「中学の時に彼氏いたけど、3ヶ月くらいで別れちゃった。それだけだよ」

「え〜、意外。すごいモテそうだから…」

「褒めたって何も出ないよ~?」

「別にそういうつもりじゃないって〜!」

「あはは、冗談冗談。沙和は?彼氏いたことあるの?」

「一応あるけど、私もすぐ別れちゃってさ。1年の時部活の先輩と付き合ってたんだけど、その先輩のこと好きな女の先輩がめっちゃ嫌がらせしてきて」

「えー何それ、最悪じゃない」

「うーん。でも別に先輩超大好き!ってわけでもなかったし、そこまで未練はないかも」

「なるほどね。…ちなみに沙和は、その先輩とどこまでいった?」

「ど、どこまでって…。麻衣子そういうこと聞くんだ、意外」

「気になっちゃうよ私も。友達がどこまでいったかって重要でしょ?」

「そんなもん?…別に何も、ね。ほんとちょっと手繋いだくらい。お恥ずかしい話だけど」

「あはは、私も一緒。恋愛経験乏しいんだよねぇ」

「ち、ちなみに詠美ね…1年の時から吹部の佐藤君とずっと付き合ってんだけど…」

「うんうん」

「夏休みにとうとうお泊まりしたらしいよ…!」

「きゃーーーーっ!詠美すごっ…いやもう詠美先輩と呼ばせてもらおう。詠美先輩大人…!」

「ほんとにね…!羨ましいなぁ」

「……羨ましいの?」

えっ、と私は言葉を漏らした。麻衣子のその一言が、会話の流れを断ち切るような温度感だったからだ。

「沙和もそういうの、興味あるの?」

「え、ま、まぁそれなりに…」

「そうなの」

麻衣子が身を寄せてきた。

「じゃあ、キスしない?」

「えっ」

「ダメ?」

「ダメッ…では…」

「ない?」

「…ない」

次の瞬間、麻衣子は私の唇に彼女の唇を優しく押しつけた。それは初めての感触だった。柔らかい、というよりかは壊れてしまいそうな、丁寧に扱わないと崩れてしまいそうな唇だった。

私たちはそれから手を繋ぐのに加え、麻衣子の部屋にいるときはキスをするようになった。麻衣子に恋していた私にとって、それは信じられないほど嬉しいことだった。

それと同時に、私は麻衣子の意図が分からずに困惑した。私は麻衣子が好きだったけど、麻衣子はどういうつもりなのだろうと思い悩んだ。好きな人とキス出来ているのに、それが決して両思いの証というわけではないのが不安だった。でも、私は麻衣子にそれを聞けなかった。麻衣子にもっと触れたくて、それ以上も望んでいたから、その時々のキスに甘えていた。

私はそれからおかしくなってしまって、自慰をするときに麻衣子のことを考えたり、夢の中で麻衣子とセックスしたりするようになった。麻衣子にもっと触れたいと思うだけで、秘部がきゅっと締まるような感じがした。私にとってそれは、初めて人に明確に欲情した経験だった。それまで、誰かを好きになってもそんな感情を覚えたことはなかった。愛が言っていたような、ふわふわとしたときめきはそれ以前にも感じたことがあった。キュンとするシチュエーションにドキドキすることもあった。でもそれは、少女漫画の読み過ぎの延長線にあるものだったのかもしれなかった。本物の恋っていうのは、そんな生温いものじゃないんだ、と私は何かを悟ったように感じていた。



いつのまにか季節は進んで、10月になっていた。受験生にとっての10月は、模試が毎週のように迫りくる鬼のような月であった。残念ながら麻衣子への恋心だけにうつつを抜かせる余裕はなく、私は毎日焦燥感に追われていた。    

それは麻衣子も同じようだった。

「沙和、私今日はそのまま家帰るね」

「え」

「ちょっと模試やばかったから…沙和と一緒だとつい喋り過ぎちゃうし」

「そ、そっか」

「じゃあまた明日ね」

その時の私には、この麻衣子の言葉が本当にショックだった。冷静に考えれば何てことないと分かるのだけれど、その時の私は捨てられてしまったのだとさえ思っていた。その頃には麻衣子とのキスもかなり回数を重ねていて、私は麻衣子に触れられないと禁断症状を起こしそうな状況になっていた。

どうしよう、どうやったらまた麻衣子は私といてくれるんだろう、やばい、困る、麻衣子がいないと困る、というか麻衣子は、麻衣子は別に私とキスしなくても問題ないってことか、恋愛感情を抱いているのは私だけなのか、麻衣子にとって私は好きな人じゃないのか、ただキスしてみたかっただけなのか。

私が辿り着いた結論は絶望的なものだった。正直キスされるようになってから、麻衣子の方も少し私に気があるんじゃないかと思っていた。少なくともただの友達ではないだろうと。でもそれは私の思い上がりだったのかもしれなかった。私はその日、雨の中傘を差さずに家まで帰った。今振り返ると論理が飛躍しているし、相当痛い奴になっていたと思う。

そして次の日、私はお約束のように風邪を引いた。漫画でこういう展開を見る度に「都合良すぎじゃん?」と馬鹿にしていたのだけど、本当に雨に濡れたら風邪を引くんだ、ということを知り私は反省した。熱までは出さなかったので、私はそのまま学校へ行った。結果としては、その日1日は非常にハッピーな日になった。麻衣子が風邪を引いた私にすごく構ってくれたのだ。

「雨に濡れて帰ったぁ?!なんでそんなことしたの~!風邪引くに決まってるでしょ!」

「か、傘なかったから、いけるかなって…」

「も~!沙和って勉強出来るのにそういうとこ抜けてるよねぇ」

「ご、ごめん…」

「別に謝ることじゃないよ。今日はすぐ家帰って寝て!早く風邪治しなよ?」

「うん…」

結局2日連続で麻衣子と放課後を過ごせなかったわけだけど、前日とはうって変わって私はとても上機嫌に過ごすことができた。麻衣子が寒くないかと心配して貸してくれたカーディガンを着て帰り、風邪で機能の弱まった鼻で精一杯匂いを嗅ぐなどして、私はすっかり落ち込んだ気分を回復させた。



翌週、麻衣子に言われた通りにぐっすり寝てすっかり体調が良くなった私は、麻衣子と共に過ごすべく、学校帰りに一緒に参考書を見に行かないかという提案をした。麻衣子はそれを快諾し、私は無事数日ぶりの放課後麻衣子をゲットすることができた。

「本屋さんって楽しくない?私見てるだけでワクワクしちゃう」

「麻衣子本好きだよねぇ。部屋にもいっぱいあるし」

「ほんとはもっといっぱい読みたいんだけどね~。早く受験終わんないかなぁ」

「まじ受験生しんどい…。迫りくる模試が多すぎてほんと疲れた。だいたいほぼ毎日学校行かなきゃいけないのおかしくない?ブラック企業じゃん」

「あはは、ほんとブラックだよ。じゃあ、ちょっとだけ息抜きする?」

「いいじゃん。でも何すんの?」

「うーん…。とりあえず参考書買って、うち行って、それから考えよ!」

そんな流れで私はまた麻衣子の家に行けることになり、最高にハッピーだった。ルンルンで参考書を買い終え、私たちは歩いて麻衣子の家まで向かった。

「息抜き、映画一緒に見ない?」

「いいね!DVDとかあるの?」

「うちの家アマゾンプライム入ってるの。全部一気には長いから30分ずつくらいで分けてさ」

「アマプラ入ってるとか最強じゃ〜ん!見たい見たい!」

私はアマプラ万歳!という顔をしながら内心下心でいっぱいだった。映画の内容なんかよりも、映画を何日かに分割して見ることで、麻衣子の家に来ることが確約されたことが嬉しくてたまらなかった。

「よし、じゃあとりあえずは私のオススメいこう。沙和、ホラーいける?」

「ホ、ホラーですか…?」

「苦手?」

「いやっ、べ、別に平気だけど」

「言ったね〜?じゃあホラーいっちゃおう!」

「お〜…!」

正直ホラーは大の苦手だった。でも高校生にもなってホラーが苦手だなんてかっこ悪いなと思っていたのと、麻衣子のオススメだというのがどうしても魅力的で、私は心を決めてホラーに挑んだ。

「ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜!ムリムリムリムリ!!ごめんなさい平気じゃないですぅぅぅぅぅ!!もうやめてぇぇぇぇ!!」

「そ、そんなに!?分かった、止めるね」

「うぅ…いけるかなと思ったんだけど…」

「その怖がりようでどうしていけると思ったの…?ごめんね、沙和がそんなに怖がりだとは…」

「いや…私がいけるって言ったから悪いです…ごめんなさい…」

「謝らないで、ってちょっと泣きそうじゃない。大丈夫?」

「うん…」

「ほら、おいで。よしよし」

麻衣子は優しく私の頭を撫でてくれた。たまに麻衣子のひんやりした手が私の耳をかすめて、ぽわっと熱くなった。すぐに怖さは和らいだのだけど、私はそのまま麻衣子の膝を見つめながら泣きそうなふりを続けていた。

「沙和、こっち向いて」

「ん…?」

上を向いた瞬間、麻衣子の顔が近づいてきて、私はキスをされた。

その時はキスをし始めてしばらくたっていて、その行為自体にはもう驚かないようになっていた頃だった。麻衣子はいつも不意をつくように私にキスをした。そしてキスを終えたあと、ふっ、と微笑んでなにごともなかったかのように振る舞うというのが常だった。私もそんな麻衣子に合わせて、なんとも思っていないですよ、という顔をして(全然そんなことはなかったのだけど)過ごしていた。しかし、その時は私の中の何かが外れてしまったのだと思う。受動的にキスされるままだった私は、すぐさま麻衣子の頬に手を伸ばした。

「さわっ…ん…!」

麻衣子の顔をこちら側に寄せ、私は初めて自分からキスをした。

いつも麻衣子にされていたキスとは違って、噛むように激しくキスをした。驚いて戸惑った様子の麻衣子を無視して、私は思い切り唇を吸い上げた。経験値の浅い高校生のキスだったから、もしかしたら麻衣子は痛い思いをしたかもしれない。残念ながら、その時の私にそんなことを心配する余裕はなかったので、私はとにかく夢中で麻衣子の唇を奪った。

そして気がつくと、私は麻衣子を押し倒していた。

「沙和…」

「まい…こ…」

私はその時、とたんに冷静になった。麻衣子を見下ろしているその状況を、私であって私でない誰かに俯瞰されているような気分になった。自分は何をしているのだろう、と急に熱が冷めて、さーっと頭が真っ白になった。

「ご、ごめん。私何してんだろ」

私は我に返って、麻衣子に謝った。つい数分前にホラー映画で流した涙とは違う涙が頰に流れた。自分がしようとしていたことが恥ずかしくなって、顔がかっと火照った。麻衣子に失望されたかも、もう友達じゃなくなるかも。それと同時に、それまで必死に隠していた欲情した心を麻衣子にさらけ出してしまったことに気が付いて、私は本当に後悔した。

しかし、麻衣子は私の涙を拭ってこう言った。

「いいよ」

「麻衣子…」

「私に触って、いいよ」

「…え?」

「…触って?…ほら…」

「…!」

「脱がして…」

そして私たちは、セックスをした。



結局その日はセックスだけしてそのまま家に帰った。家に帰ってからは全く勉強が手に付かなかった。セックスといっても女同士だから挿入したわけではないし、お互い初めてで気持ちよかったかといえばよく分からなかったのだけど、未知の体験は私を混乱させるにはあまりに十分だった。夢にまで見た麻衣子の胸や秘部に触れてしまった上に、私も触れられてしまったのだ。その日1日は麻衣子の指の感覚が秘部に残って、常に感じる状態になってしまっていた。

そのような興奮と同時に、私はどうしようもない罪悪感にも襲われていた。私と麻衣子は恋人同士ではないのだ。自分は好きとはいえ、付き合っていない相手とあんなことをしてしまったのだ。しかも自分の行動が発端で。ずっと何となく、初めては恋人と幸せなセックスをするのだと思っていた。自分がこんな欲に溺れて衝動的にやってしまうだなんて、考えもしていなかった。

そして何より、麻衣子の真意がわからなかった。麻衣子は私のことをどう思っているのだろうか。そもそも私たちは同性だ。麻衣子は同性とのセックスをどう思ったのだろうか。キスとはわけが違う。

本当は嫌だったりしたら?

私が麻衣子に勝手に好意を寄せているだけだったとしたら?

麻衣子は私のこと、なんとも思ってなかったとしたら?



翌朝、私は学校に行くかどうか心底悩んだ。まず前日にセックスをした相手とどう接したらいいのか分からなかったし、何よりも夜に至ってしまった考えにどうしようもなく囚われていた。家を出なければならない時間の1分前までなかなか覚悟が決まらなかったが、自分が受験生であるということを再確認して、私は意を決して学校に向かった。

教室にたどり着いた私は、大きく息を吸った。

「おっ…、おはよ〜!」

「おはよっ!沙和」

「あっ、詠美か…なんだ…」

気合いを入れて挨拶をした相手が麻衣子ではなかったので、私はなんだか拍子抜けしてしまった。麻衣子はまだ教室にいなかった。いつもならもう来ている時間だったが、まだ始業までには時間があるし、少し遅れているのだろうか。そんなことを考えながら私は席についた。

「え?何…?詠美だけど…」

「あ、ごめん!なんでもない!おはよ!」

「…?…沙和、昨日何かあった?」

私は詠美の鋭い指摘にびっくりした。詠美は時々エスパーのようなことを言う。これは完全な余談だけれど、私と詠美は大人になった今でもずっと仲がよく、時々ご飯を食べに行っている。とはいえ、そんなに頻繁には会っていないのに、詠美は毎日私のことを見ていたかのようなことを言うのだ。私はそんな詠美を、霊感か何かあるんじゃないか?と疑い続けている。

「別に!私、朝からとっても元気!ごはん3杯食べてきた!」

「えぇ…?そんな大食いだったっけ?」

「うん!元気モリモリ沙和ちゃんだよ〜!!」

「いやいやいや、なんか落ち込んでない?」

「な、なにも〜?」

「いや、嘘つけ、ちょっとおいで!」

詠美に強引に連れられ、私たちは一組の向かいの空き教室に入った。私たちのグループがよく昼休みにお弁当を食べていたところだ。私はいつもの昼食時の定位置に座って、詠美はその隣に着いた。そこはいつも麻衣子が座る場所だった。

「3年間親友やってる私の目は誤魔化せないよ〜!沙和なんか今日いつもと違うもん!」

「本当にそんなことないってば〜…」

「本当?それならいいんだけど…なんか変だよ。少なくとも私にはそう見える」

「そう…?」

「うん。まぁ…言いづらいことだったらいいけど…多分何もなかったってことはないでしょ。何かありはしたでしょ?」

「…あった。落ち込んでる…」

「そっか…。そんなときもあるよねぇ」

「うん…」

詠美に迷いのない目で見つめられて、私は思わずそう言ってしまった。そう言ってから、私は自分で感じている以上に前日のことで気持ちが沈んでいたのだと自覚した。詠美の言葉で、私の心にこびりついた不安がすっと表面に浮き出てきたのを感じた。

「あ、チャイム鳴っちゃったね。教室戻ろっか」

「詠美」

「ん?」

「後で…ちょっと話聞いてくれる?」

「うん、もちろんだよ!」

私たちは教室に戻った。麻衣子とどんなテンションで会えばいいのか分からずドキドキしながら戻ったのだが、黒板には「欠席 水原」の文字があった。

「あれ、麻衣子休みじゃん。沙和なんか聞いてる?」

「や…、別に何も」

「沙和が聞いてないなら分かんないか…。先生、麻衣子今日どうしたんですか?」

「具合が悪いみたいで、休みの連絡が入ってね。木嶋さん、詳しく知らない?」

「知らない…です」

少しホッとしている自分がいた。ずっと緊張状態だった体がちょっと落ち着いたような気がした。学校を休むだなんて、麻衣子、大丈夫だろうか。それまでの私ならそこで速攻連絡していたのだけど、その日はちょっと悩んでしまった。まぁでも…麻衣子がいない方が詠美にも話しやすいかな…なんて考えているうちに、その日は結局連絡するタイミングを逃してしまった。



放課後、私は詠美と学校近くのマックに行った。吹奏楽で忙しかった詠美と放課後にどこかに行くのは少し新鮮で楽しかった。詠美は落ち込んでいる私にシェイクとポテトを奢ってくれた。

「美味し〜!ありがとう詠美!」

「いえいえ〜!朝より元気そうだね、よかった〜」

「うん、ちょっと元気になった。ってか…模試の結果やばすぎて、落ち込んでる場合じゃないかもって思った…」

「あははは!受験生まじでやってらんないよね〜!推薦組羨ましいな〜」

「京子もうテニスで体育大決まったもんね〜。すごいよなぁ…」

「ね〜!そういえば麻衣子ってどうなの?普通に一般で受けるの?」

「く、詳しくは知らないけど多分そう。もしかしたらお金持ちだろうし私立かな…?」

「麻衣子ん家ってそんな裕福なの?」

「麻衣子は…お父さんとお母さんがお医者さんらしい…」

「うわぁーお…お嬢様っぽいと思ってたけどそういう…。沙和そんなことまで知ってるんだ。本当麻衣子と仲良いよね」

「そ…そうなのかな…?」

「そうなのかなって…だって最近いつも二人でいるじゃん。私何気に寂しかったんだよ〜?沙和とられちゃったー!ってちょっと思ってた」

「そんなことないって!詠美も京子も大好きだし!」

「やったー!ありがとっ♡」

詠美と他愛のない会話をしながら、私はどう話を切り出せばいいのか悩んでいた。流石に麻衣子とセックスしてしまった話は出来ない。キス…もダメだろう。好きだってのも…詠美なら否定したりしないだろうけど…どうだろうか。

数分駄弁って少し間が空いたところで、とりあえず何か言おう、と私は声を出した。

「詠美ってさ…佐藤君とずっと付き合ってんじゃん」

「うん」

「その…どっ、どこ…までいった…?」

「どこまでって…。どうしたの急に」

「や、ちょっと気になって…」

「え、もしかして沙和が今日悩んでんのって、そういう話…?」

「あっ、いやっ…ま、まぁ…そうといえば…そう…かも?」

「もしかして…誰かとヤったとか…」

「…」

「えぇぇぇぇ?!えっ、さ、沙和、いつのまに彼氏できたの?!」

「か、彼氏じゃない…」

「えっ……。ちょっ…。本当に?」

「…」

 詠美は目を見開いて驚いた。3点リーダー50点分くらい固まってから、詠美はやっと口を開いた。

「いや…さっき模試が悪かったって言ってたの聞いて、悩んでるのって勉強のことではないんだなって思ったけど…。ごめん、まさかの話すぎてちょっとびっくりしてる…」

「ごめん…」

「いや…ってか、ちゃんと避妊した?!大丈夫?!」

「そ、それは問題ないかな」

「ならいいけど…。何かあったときに困るのは女の方なんだし、そこは気をつけなよ?」

「う、うん、それは大丈夫…」

私は詠美の驚き方を見て、一番言わなくていい部分を言ってしまったなと思った。自分はその人が好きなんだけど相手の気持ちが分からなくて〜、とか、もっとライトな部分だけ言うのがベターだったなと感じた。けれど時すでに遅しだったので、とりあえず私はライトな部分も話すことにした。

「私は…その人が好きなんだけど…その人が私をどう思ってるか分かんなくて…」

「え、でもヤったんでしょ…?それはどっちから始めたの…?」

「わ、私がガッと…衝動的になっちゃって、そしたら、いいよ…って言われて…」

「なるほど…いいって言うくらいなら…相手も沙和に気あるんじゃない?……あーでも…ただヤりたかっただけとか…そういうこともあるのかな…」

「そ…そうなのかな…」

「ごめんごめん沙和!別にそうだって決まったわけじゃなくて!違うよ!そこで落ち込まなくていいから!ね?!」

「うん…でもやっぱりそうなのかも…。そういうことに興味あっただけなのかな…」

「わ、分かんないけど…。それ以外は?その前になんかあったりした?」

「手繋いだり…キ、キスしたりはしてた…。それは全部相手から…」

「そうなんだ…。でも好きって言われてはないってこと?」

「うん…」

「そっかー…」

詠美は、困惑した表情でなんとか必死に私の話を受け止めようとしていた。一方の私は人に話したことで改めて出来事に対する実感が湧いて、なんだかとても恥ずかしくなり、シェイクをがぶがぶと飲んだ。

しばらくして、考え込んでいた詠美が顔を上げた。

「こんなこと言うのはおせっかいだと思うし、別に沙和は解決策とか求めてないのかもしんないけど」

「うん」

「そのままの状況を引きずるのは良くないと思う…。私は相手のこと知らないからあれだけど…今のままだと、沙和が都合よく利用されるだけになっちゃうかもしれない」

「そう…なのかな」

「別に今すぐどうにかしなきゃいけないわけじゃないけど、いつかは、ちゃんとけじめつけたほうがいいんじゃないかな」

「けじめ?」

「ちゃんと告白して、相手の気持ち確かめるとか」

「告白…」

しようかと考えたことがないわけではなかった。でも、そもそも女同士だし、私だけがそういう目で見ていたとしたら、と考えると耐えられなかった。もし拒絶されたら、麻衣子との関係が崩れてしまったら、と結局躊躇ってしまっていたのだ。

「沙和にこんな話するの、ただの嫌味になっちゃうかもけど、私佐藤と初めてした時、好き同士じゃないとセックスってダメなんだなって思った」

「そうなんだ…」

「好き同士だから気持ちいいとかそういうことじゃなくて…。うまく言えないけど、セックスも一種のコミュニケーションだから、お互い同じ気持ちじゃない時にするべきじゃないなって」

「…」

「ごめん、沙和を責めてるつもりは全くないの。つまり…私は沙和に、その人と気持ちを確かめ合った上でセックスをしてほしいなと思って。じゃないと多分、最終的にあんまりうまくいかないし…」

「そうだよね…」

「多分、今のままだと沙和が幸せになれない…。私はとりあえず、沙和が幸せになれる方法を取ってほしいなって、思う…」



 告白することにしよう。

 詠美と別れて帰路についた私はそう決心した。

 詠美と話したことで、私は気持ちをなんとなく整理することができた。麻衣子に都合よく利用されているとは思わなかったが、このままの状況が続くのは間違いなく嫌だった。セックスできたことは正直嬉しかったのだけど、詠美が言っていたような幸せな状態でのセックスが望ましいのではないかと思った。

これは私の思い上がりかもしれなかったが、今までの傾向から行くと今後も私と麻衣子はセックスすることになる可能性があった。手を繋ぐのもキスをするのも、初めてした時以来習慣的に行われるようになったことだったからだ。私は麻衣子と思いを確かめ合った上でそうなりたかった。

そのためにはやはり、一度思いを伝えることが大切だろう。そう考えて、いてもたってもいられなくなった私は、明日の放課後に思いを伝えようと決意した。

しかし、翌日から麻衣子は私と距離を置くようになった。


「京子、昨日の数学ノート見せてくれない?」

「いいよ〜。麻衣子大丈夫?元気なった?」

「うん!なんかね、消費期限切れてたケーキ食べたら、お腹下しちゃったの…」

「あははは!そうだったんだ〜。麻衣子ってそんなことするんだ、意外だね」

「実は大雑把代表O型なんだよねぇ〜」

 いつもなら私に見せてと頼んでくるところだった。その時はまだ、私が気恥ずかしかったのもあってむしろホッとしていたのだけど、麻衣子はその日1日、移動教室も休み時間も、私ではなく京子と行動を共にしたのだった。

「沙和、麻衣子と喧嘩でもしたの?」

 麻衣子に置いてきぼりにされ一人で帰ろうとしていたところに、詠美がやってきた。

「いや…喧嘩はしてないと思う…」

「思う?」

「してない、してない!」

 結局その日は麻衣子と話せず、私の必死の決意は空回りしてしまった。

 もしかしたら麻衣子も気まずかったのかもしれない。明日また頑張ろう。少し不安に思いつつも、その日はそう考えて家に帰った。

 しかし、次の日も、その次の日も麻衣子は京子と一緒に過ごしていた。というか、私を避けていた。気まずいせいなのか、それ以外に何か理由があるのかは分からなかったが、間違いなく避けられていたし、明らかに目を見てくれなかった。私たちの様子がおかしいことに気付いた詠美と京子が、なんとか4人で行動するよう気を使ってくれたのだけれど、麻衣子は依然として私の目を見なかった。

 


そんな状態が一週間ほど続き、気づけば11月も中旬になっていた。着々と受験が近づいて来ているのに、麻衣子とのことで頭がいっぱいで私は全然勉強に集中できていなかった。

前に麻衣子が放課後一緒に勉強をしてくれなかったときは、見捨てられたような気がしてただただ不安になっていた。けれど、そのときの私は不安な気持ちを通り越して麻衣子に苛立ちはじめていた。麻衣子の言動に振り回されて気持ちが落ち着かないことに、疲れ始めてすらいた。

もし麻衣子が来週もあんな態度を取ってきたら、流石に強引にでも理由を聞くようにしよう。詠美たちに協力してもらって、なんとか2人になろう。私はそう決めた。

そして翌日、私はまた出鼻をくじかれたのだった。

「おはよう沙和!」

「おっ…‥おはよう…」

 何事もなかったように麻衣子は私に話しかけてきた。前の週は私を視界に捉えてすらいなかったのに、記憶を失ったのではないかと思うほどあっけらかんと麻衣子は挨拶をしてきた。

「沙和、1時間目移動だよね?行こ!」

「うん…」

 苛ついた気持ちをぶつけようと思っていたのに、あまりにあっけなく元どおりになってしまったので拍子抜けした。詠美たちに「仲直りできてよかったね!」と言われたのだけど、何というのが正解なのか分からなかった。

 そうして1日普段通りに過ごしているうちに、先週のことは夢だったのではないかという気すらしてきて、私はもう悩むのをやめてしまった。麻衣子と仲良くできるのならそれでいいか…と思った。思ったというか、そう思うようにして、頭にモヤをかけることにしたのだった。

 なぜなら私は受験生で、勉強をしなければいけない状況だった。恋愛に気を取られて貴重な勉強期間を無きものにしてしまったことを、反省しなければいけなかった。また麻衣子と一緒に放課後に勉強をする生活に戻るべきだった。

 そう思ったのもつかの間、私と麻衣子の日常は一瞬にして終わりを迎えた。



 再び麻衣子と放課後を共に過ごす生活が始まって2、3日経ったころ、麻衣子はまた私にキスをしてきた。

 それは以前と同じように突拍子のないキスだった。前触れなくキスをして、麻衣子はいつも通りに微笑んだ。

麻衣子に恋をした時に香った、甘いコーヒーの匂いが鼻を抜けた。黒くてサラサラした髪、三年間着て馴染みきった制服、湿った唇。それらの全てから漂うその香りが、一気に私のトリガーを引いた。

「…んなの」

「え?」

「なんなの、どういうつもりなの?なんでキスするの?」

「さ、沙和?」

「なんのつもりだって言ってんの!なんでまたキスしてくるわけ?!急に手繋いできて、キスしてきて、セックスして!!と思ったら急に無視するようになってさぁ!麻衣子が何考えてるのか全然わかんないんだけど!!」

「…」

「ねえ、答えて!麻衣子の行動の意図を教えてよ!私麻衣子と友達になって、それからずっと麻衣子のこと分かんない!いっつも心のうちは隠したままで…私と本心で話したことないよね?!ねえ、私のことどう思ってんの?!」

「沙和、落ち着いて」

「は?!なんでこの状況でそんなっ…」

「落ち着いて」

 麻衣子の静かな声が空気を止めた。全身に矢が刺さったように私は身動きが取れなくなった。麻衣子の香りの苦い部分が私を縛り上げた。

「沙和は私のことどう思ってるの?」

「っ…」

「どういう目で見てるの?」

 どういう“目”で見てるの?って?

 その時の私の顔は完全に紅潮していた。混乱で少し視界が揺らいでいるのを感じながら、私は精一杯声を振り絞った。

「…答えたくない」

 その瞬間の麻衣子は、私の前に絶対的に立ちはだかる王のようだった。私を強い視線で見つめ、凝固させていた。

「私は沙和のこと、どうとも思ってないよ」

「…!」

「何とも思ってない」

 …何とも思ってない。

その言葉を聞いた瞬間、揺らいでいた世界が静止し、私の怒りと恐れは一瞬にして消え去った。

 私は一体、この人の何に執着していたのだろうか。何に期待して、何を求めていたのだろうか?

私は、そういった感情が全て私のエゴに過ぎなかったということを悟った。私はその時初めて人から拒絶されることを知り、それと同時に人を拒絶することを知った。

「……さようなら」

「さようなら」

 じゃあねでもなくまたねでもない「さようなら」が、私と麻衣子の最後の会話だった。



 それから私と麻衣子は一切口を聞かなくなった。

 流石に喧嘩したでは済まなかったし、また詠美たちが気遣って4人で行動するように仕向けてくれるのも避けたかったから、私はまた放課後に詠美とマックに行った。

 どこまで話すべきか迷っていると、再び詠美は全てを見透かしたエスパーの目で私を見てきた。

「沙和、すごい辛いことあったんじゃない?」

「えっ…そう見える?」

「うん。別に私じゃなくても、誰が見ても今の沙和は辛そうな顔してる」

「そうかな…」

「京子も心配してた。なんか沙和の顔がやつれてるー、って。多分通りすがりの人が見ても思うよ」

「そんなに…?あはは…困ったなぁ…」

「…どうしたの?」

「別に、落ち込んでるとかじゃないよ。辛くもないかな。なんか疲れたっていうか…」

「…麻衣子?」

「…分かる?」

「分かるってか…また最近麻衣子、京子のとこ行くようになったし。また喧嘩して、それでやつれてるのかなって…」

「さすが詠美だね…なんでもお見通しじゃん…」

「見通しちゃったかー…。なんでまた喧嘩したの?」

「今日は…それを言っとこうかなって思ってマック来たんだけど…」

「うん」

「なんていうのかな…縁切った?っていうか、もう友達じゃなくなっちゃったかなって感じ…みたいな…?」

 そして私は、詠美に麻衣子とのことを全て話した。前に話したセックスした人が麻衣子だということも、私が麻衣子をそういう意味で好きだったということも。

その時の私は、泣きたいのに涙が乾き切ってしまったような、そもそも泣きたいのかも分からないような状況で、多分結果として酷い顔をしていたと思う。

身近な友達のそれなりに重たい内容を淡々と聞いてくれた詠美に、私は心から感謝した。



「そっか…。いや、正直今の話だと、私も本当に麻衣子が何考えてるのか分かんないわ」

「エスパーでも分かんないならそりゃ分かんないよね…」

「エスパー?」

「あ、いや、何でも」

「でもあれかな…麻衣子って、そもそもあんまり本心出さないタイプではあるよね」

「そうなのかな」

「明るくてノリいいけど、元からそうってわけではなさそう。そういう風に振舞ってるんじゃないかなって、ちょっと思ってた」

「なるほど…」

 麻衣子が本心を出さないタイプだというのは、それまであまり考えたことがなかったなと思った。私のことをどう思っているのかだけを気にしていたけれど、それ以前に麻衣子がどんな人なのか考えたことはなかった。その時になって気が付くのは、あまりにも遅かったけれど。

「私、沙和とはもっと素で仲良くなれてるのかなーって勝手に思ってた。沙和は、もっと麻衣子のこと分かんなかったんだね…」

「うん…」

感情を吐き出して、私は何か憑いていたものが取れたように体が軽くなるのを感じた。一連の出来事を人に話して俯瞰することで、気持ちの整理がついたのだろう。全てを受容してくれた詠美のおかげで、私は何とかその状況から立ち直ることが出来た。

「なんか、そういうもんなのかな、人って」

「そういうもんって?」

「うまく言えないけど、相手が何考えてるか理解しようだなんて思うのは、傲慢なのかもなって。私も佐藤が考えてること、全部は分からないし。分かった気になる方がまずいんだよ、きっと」

「傲慢、かぁ…」

「だから、沙和が麻衣子のこと分からないのも、当たり前のことだよ。…大丈夫、大丈夫だよ」

 そう言いながら詠美は優しく私の頭を撫でた。その優しさで凍った心が溶けて、私はやっと泣くことが出来たのだった。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 「沙和さん?どうしたの?」

「あ…。ご、ごめん、ぼーっとして…」

完全に忘れ去っていた出来事を、一瞬にして思い出してしまった。

24歳、社会人2年目。地方の銀行員である私にとって、その高校時代の思い出は完全に古びたものになっていたはずだった。

もちろん出来事として記憶してはいたけれど、その時の感情や身体に受ける衝撃を、これほど鮮明に感じたのはいつぶりだろうか。

これがフラッシュバックというものだろうか。


今日は、最近付き合い始めた彼女と初めて夜を共にしている。

大学時代の後輩である加藤杏奈に告白されたのは、つい先日のことだった。

『ねぇ沙和さん。私の、恋人になってくれませんか?』

杏奈はサークルの後輩だ。私たちは大学時代からよく遊んでいて、社会人になってからも定期的に飲みに行く間柄だった。

杏奈は、目がくりっと大きくてロングヘアが綺麗で、誰もが可愛いと思うような愛らしい女性だ。いつでも勤務先のアパレル企業の新作に身を包み、綺麗なネイルを光らせ、枝毛一つない艶やかな髪の毛を保っている。

そんな杏奈に告白されたことが、私は本当に嬉しかった。

『うん…。うん…!なる…!』

杏奈と一緒にいることはとても楽しい。私たちは驚くほどに波長が合うし、趣味も合う。一方で食の好みやファッションセンスは全くと言っていいほど合致しないのだけど、そんな違いさえも互いへの関心につながるような、非常に良い関係性を築けていたりする。

そんな杏奈とベッドに潜り込み、肌に触れたところで、高校時代の出来事が急激に蘇ってきたのだ。

「ねぇ沙和さん、今、なんか他のこと考えてたでしょ」

「えっ…いやっ…別に…?」

「うっそだぁ、今ギクって音しましたよ。バレバレです」

「うっ…」」

「もう、私たちがこれから何すると思ってるんですか!そういうムードだったでしょ〜!」

「ごめんなさい…」

杏奈に心のうちをズバリ言い当てられ、私はとてもばつが悪くなった。冷静に考えて最悪かもしれない。初めてする雰囲気になったときに、昔やった相手のことを思い出すなんて…。

杏奈はそんな反省心すら読み取ったのか、笑って私のことを許してくれた。

「ふははっ、沙和さんのそういう正直なところ好きですよ。かわいい」

「ありがと…。いやでも、私が悪いよ。せっかく杏奈とこうしてるのに、他のこと考えちゃって…」

「ちなみに、何考えてたんですか?」

「うーんとね…あの…最低なやつだから…杏奈に嫌われちゃうかも…」

「え〜?そんな酷い内容なんですかぁ?ううっ…悲しい…」

「あぁっ!やっぱ嘘!大したことじゃないです!」

「じゃあ何?」

「え…っとぉ…」

 逃げ道がなくなってしまった私は、あさっての方向を見ながらどうしようかと考えた。何を言っても墓穴を掘ってしまう自信しかない。杏奈とは気のおけない間柄で、比較的何でも話せるのだけど、さすがにこれを話すのはいかがなものか…。

「まぁ人間だし、最低な時もありますよね。私も最低な時ありますよ」

「…私は最低だけど、杏奈はそんなことないよ。杏奈は素敵な人だよ」

「もう沙和さん好きぃ〜。…でも、沙和さんから見たらそうかもだけど、そうじゃないところで最低だったりしますよ」

「…例えば?」

 そう聞いた私を見て、杏奈はにやっと口角を上げた。

「わ、沙和さんずるい。私の話にシフトしてきた」

「べ、別にそういうつもりじゃないよ。…いや、なんかもう、全体的に私が悪いよね。…怒らない?」

「怒らない。大丈夫ですよ」

「高校の時に…初めてした人のこと…思いだし…て…」

杏奈は大きな目をぱちくりさせて、いひひっ、と変な笑い方をした。

「よかったです、思ってた五倍くらい可愛い内容でした」

「可愛いかなぁ…。やっぱり最低じゃない?だって目の前に杏奈がいるのに…」

「最低じゃないですよ。ねぇ、ちょっと興味ありますその話」

「聞いてどうするのぉ…」

「だって、なかなか人の初エッチの話聞くことなんてなくないですか?相手男?」

「…女だよ」

「あ、以外。沙和さん、男も恋愛対象でしょ?普通に男なのかなって思ってた」

「その人とそうなるまでは、男としか恋愛しないと思ってたな」

「へぇー、じゃあ、私が今沙和さんと付き合えてるの、その人のおかげだ。もしその人がいなかったら、女好きになってなかったですか?」

「そうだね…多分そうなんだろうなぁ」

「じゃあ感謝だなぁ。私はまぁ、女しか好きになったことないから、何もなくても沙和さん好きになってたけど、沙和さんが好きになってくれたのはその人のおかげだ」

「んー、違うと思う」

「え?」

「別にその人がいなくても、杏奈に出会いさえすれば好きになってたんじゃないかな。むしろ私は、杏奈も同性が恋愛対象だってのに感謝しなきゃ」

「えへへへっ」

 はにかんで笑う杏奈が可愛くて、私はその唇にキスをした。柔らかな唇が私を受け入れて湿った。

「…ちなみに…杏奈の初めてはどんなだった…?」

「聞いちゃいますぅ?」

「気になりますぅ…。あ、でも、言いたくなかったら全然!」

「へへっ。別に、楽しい話ではないですよ」

「私もその、初めてした人とは、全く楽しい感じじゃなかった。だからそれは全然大丈夫だよ」

 杏奈は、じゃあ言っちゃおうかなぁ〜と言って、頭を掻きながら下を向いた。合わせて視線を下げた私は、杏奈のペディキュアが剥げていることに気が付いた。

「初めては、男でした」

「そう、なんだ」

 私はシンプルに驚いてしまった。

 杏奈の恋愛対象は完全に同性だ。学生の頃に男と付き合ったことがあるとは言っていたが、まさかそこまでしたとは。

「前に言ったことありますよね、男苦手だって」

「そう、だね。まあ杏奈、普通に男の人と仲良かったりはするよね。でも恋愛対象ではないってことでしょ?」

「大学入った後くらいから、やっと仲良くできるようになったんです。それまでは割と、話すらできない感じでしたよ」

 杏奈は深く息を吐いた。

「男のイチモツ見たら気持ち悪くなっちゃって。それまでは別に、好きにはなんなくてもセックスくらいはできるだろ、と思ってたんですけど、それすらもできなくて」

「…それすら、なんてことじゃないよ。すごく大事なことだよ。だからできなくても仕方ないっていうか…無理なものは無理だよ」

「そうですよねぇ…。大人になって、やっとそう思えるようになりました。でもそれまではなんか、男とセックスできないのって、人間としての欠陥な気がして」

「欠陥、かぁ」

 杏奈はどこか遠い目で足のつま先を見つめながら、剥げたペディキュアをカリカリと削った。

「そのとき、気持ち悪くなって吐いちゃって…。それで、ついでに、話せなくなっちゃったんですよ」

「そっかぁ…」

「私…その人のこと友達としてめちゃくちゃ好きだったんです。すっごい素敵な人で…付き合う前も付き合った後も、すごく優しくしてくれて」

 私は杏奈の声が強張っていることに気がついた。どんどんと剥げていくペディキュアと遠のいていく視線を見て、私は杏奈の体をこちらに引き寄せた。それに答えて頭を肩に乗せてきたから、そっと髪に指を通した。

「でも、話せなくなっちゃった。顔も見れなくなって、その人以外の男も、みんなアレついてんだって思ったら、なんか怖くなって…」

「うん」

「でもその人、私のこと切らないで、頑張ってくれたんですよ。無理じゃなくなるまで待つよって、別れないでいてくれたんですけど、無理な…ままだったんですよ」

「うん…」

「それで逆にしんどくて……もう無理だから、話しかけないでって…言って」

 私の体にしなやかな重みがのしかかってきた。杏奈は首に手を回して、私にだらりと全体重を預けた。私はその背中に手をやって、背骨のあたりをゆっくりとさすった。

「好きでもなんでもないから…って言った…」

 杏奈はそう言って頭をこすりつけた。彼女の柑橘系のシャンプーが香った。

 そして私は、数年ぶりにあの甘いコーヒーの香りを思い出した。

 正確には香りそのものではなく、そういった香りがあったという記憶を、だ。そうだ、私もあの時、似たようなことを言われた気がする。

「思い出した」

「え?」

「言われたんだ、何とも思ってないって…。その、初めてした人に」

「何とも思ってない…」

「うん…。私のことどう思ってるのかって聞いたら、そう言われたの。その子…高校の同級生だったんだけど、その子のことが好きで」

「うん」

「その、ヤったのも私の方から、ムラムラ…しちゃってなんだけど」

「ふひひっ。あ、ごめんなさい。ムラムラって言うの可愛いなぁと思って…」

 私はもお〜、と言いながら杏奈を小突いた。少し元気になったみたいで安心した。

「その子…何考えてるか全然わかんなくて…。向こうからキスしたりしてたのに、ある日突然無視されたり、かと思えばまた普通に話しかけてきて」

「生理かぁ?とかこの時代に言ったら、各方面で大炎上ですね」

「あははは。まぁでも、もしかすると、そういう気分の落ち込みはあったのかもしれないよね。受験もあったし…。ただ、その時の私はそんな配慮する余裕なくて。好きだしそういうことしてるのに、相手の気持ちが分からなかったから、抑えられなくってさぁ…」

「それでどう思ってるか聞いて、何とも思ってないって?」

「そう…」

 杏奈は私の髪の毛を指でクルクルと巻き取りながら、しばらく黙り込んだ。私は沈黙の中、すっかりペディキュアが取れた杏奈の足の爪を人差し指で撫でた。

 しばらくして、杏奈は私の髪の毛を放し、口を開いた。

「なんか…その人の気持ち分かるかも」

「え!?これだけの情報で分かるの!?私が散々考えても分からなかったのに…!?」

「いひひっ。いや、何となくですよ?あと沙和さんがどんな人かってのも加味して考えたら」

「え…私ってどんな人なの?」

「沙和さんはね…めっ…っちゃくちゃ分かりやすい人です」

「えぇっ!」

「喜怒哀楽が全部顔に出ます」

「嘘ぉ…」

 そう言われてみれば、何となく心当たりがあるような気がする。高校時代から詠美には沢山心を読まれてきたが、それに限らず、落ち込んでいる時には何も言わずとも色んな人に励まされることが多かった。詠美が特別エスパーなんじゃなくて、単に私が分かりやすかったということなのか…?

「今も完璧に、悲しいって顔してます。だから多分その人…沙和さんに好きだと思われてること、分かってたんじゃないですか?」

「えぇーっ…」

「多分好き好きオーラ出してたんですよ。でもって、沙和さんって優しいでしょう?」

「いやっ、別にそんなことは…」

「優しいんです。謙遜は不要です。で、多分、その人は自分に自信ないタイプの人だと思います」

「なんで…?」

「私がその、元彼?に、酷いこと言った心理と似てる気がして。自分に自信がないときに好かれたり優しくされるのって、しんどいんです。自分なんかがその優しさを享受してるのが場違いな気がするんですよ」

 そういえば詠美が、彼女はわざと明るく振舞っているんじゃないかと言っていた気がする。私の見えていない部分で、彼女は自分を否定して生きていたんだろうか。

「沙和さんに好かれて優しくされて、嬉しいけどしんどいから、突き放したんじゃないかなー…って思います」

「…しんどかったのかな」

「いやっ、全部想像ですよ?!自分に重ねて考えたただの妄想なので!間に受けなくていいやつです!」

「ううん、なんかちょっと納得した。ただ…もしそうだったとしたら、私全然その人のことちゃんと見てなかったなぁ…」

 思えばあのときの私は、自分がどう思われているのかばかり考えて、彼女の思いを全く考えていなかった。恋愛対象だったとはいえ友達だったのだから、もう少し相手を慮れていたら、結果は変わっていたのだろうか?

「多分、相手の本当の姿が見えてなかったんだ。自分が好きだってことしか考えられてなかったんだよ。好きを…押し付けてたんだろうね」

「好きを押し付ける…かぁ…」

「もしかしたら、杏奈の元彼もそうだったのかも。…自分の好きって気持ちが先行しちゃうんだよ。あ、これも妄想だから!気にしないで!」

「うひひっ。でもそれで言うなら…その沙和さんの同級生、多分そのあと本当に後悔したと思いますよ。自分から遠ざけたくせに、いざ遠くに行ったら困るんですよ。…ワガママな子供みたい」

「もしそうなら…ちょっと嬉しいかも」

「え?」

「私もその人を傷つけられた、ってことだもんね」

「…わ、沙和さん大人気ない〜」

 なんだと〜!と言いながら、私は杏奈の髪の毛をわしゃわしゃと揉んだ。やめて〜!と言って笑う杏奈の愛しい笑顔がそこにはあった。

「沙和さん」

「ん?」

「私は絶対、沙和さんのこと突き放したりしないよ」

「うん…。私も杏奈を突き放さないよ。嫌って言っても離してあげない」

 


もし私たちが子供のままで出会っていたら、私たちはお互いを傷つけ合うだけの関係になっていたかもしれない。

 でも、大人の私たちは、相手を傷つけない方法を知っている。傷つけて傷つけられたから、そうしない方法を持っている。大切に大切に、愛し合う方法を持っている。

だから私たちは大丈夫。

私たちは、私たちを支えあいながら生きていく。


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