八話 もう1組の
昔から変なやつだと思っていた。一巳にとって、その5つ上のお兄ちゃんは自分の世界に初めて現れたイレギュラーだった。
予見家では、生まれた子どもにその月の数字と干支をくっつけた名前をつける。囚人番号のようだ、と一巳は思ったことがある。
今はそうでもないが、昔は産まれる子どもの数が多かったのだ。そのため、いちいち名前を考えていられなかったらしい。最低な理由だ。最低な家だ。一巳は『予見家』のすべてが大嫌いだった。
「お前はね、私の期待なんだよ。」
母親はしきりにそう言った。麗佳が産まれるまで、次期当主は一巳になるだろうと言われていたからだ。
予見令悟の子どもは4人。一巳、麗佳は1人っ子で、あとは辰五、酉七の2人兄妹。後者2人は当主になれないことが決定しているのに産まれたようなもので、予見家での立場は非常に気の毒であった。
一巳は家の中で、母親しか信用していなかった。自分のことで精一杯な兄妹たちも、麗佳のことしか眼中にない父親も嫌いで、彼らが躍起になって『異能』を発現させようとしているのを一巳はくだらないと思っていた。
『予見』の子どもたちは曲がりなりにも『予知の異能』を持つ。そういう教育を受けるからだ。ただ、それを制御できるかというと別で、『予知夢』なんかはハズレ。いつ見れるかわからない『予知』など役に立たない。
見たいものを見たいときに見れる『予知』。それが当たりと言われ、当主の『眼球』によって、より強い『力』を得るのだ。
「一巳、大丈夫。申なんかに負けないで。あなたはより強い、質の高い『力』を持っているんだから。」
母親の膝の上は温かかった。彼女が望むなら、サボりがちな授業にも参加してやったし、嫌いな兄妹たちと食膳を並べた。愛想笑いを覚えて、女中たちに素直なフリだってしてやった。
でも、やはり面倒なものは面倒で。集中できなくなった一巳はある日、午後の授業をサボって、家を探検した。『予見家』は広い。一巳は知らない場所に迷い込んだ。そこは敷地内から少し離れた場所にある庵で、日のよく当たる温かいところだった。彼はそこで昼寝を始めた。
どのくらい寝ていたのだろうか。目を覚ましたときには夕焼けが美しい時間帯だった。体を起こすと、ブランケットがぱさりと落ちる。顔を上げると、そこに10歳の永坂忠直がいた。
「おはよう。」
彼は読んでいた本から顔も上げずにそう言った。一巳も思わずおはよう、と返す。
「……誰?」
一巳にとって彼は見たことがない少年だった。その頃、忠直の立場は令悟がひた隠しにしていたので、予見家の中では限られた人間しか彼のことを知らなかったのだ。
「永坂忠直。」
淡々と名乗る。一巳は覚えたばかりの愛想笑いを浮かべ、ちゃんと名乗ってあげた。
「僕は予見一巳。お兄ちゃんはどうしてここに?」
尋ねると、忠直はやっと本を閉じる。ニコッと笑うその顔は自然だった。
「令悟さんと勉強してた。お前、サボりか。」
忠直は一巳のことを知っていたのだ。令悟によって、いずれ自分の兄弟になると紹介されていたから。直接会ったことはなかったが、顔を覚えていた。
「問題児、ってやつだな。」
くすくすと笑われて一巳は不快になった。もちろん、笑われたこともだが、その笑顔の自然さが嫌だった。当たり前のように笑うことを許されてきた顔。自分のように誰かに媚びを売るために覚えたものじゃないから。
「1人で帰れるか?送って行こうか。」
彼はそう言って立ち上がると、一巳の返事も聞かずに彼の手を引いて、家の方向に歩き始める。
そういうふうに優しく手を握ってくれたのは今まで母親しかいなくて、一巳はとても戸惑った。でも、嫌じゃなかった。
それから、一巳は忠直の元にたまに顔を出すようになる。彼は一巳が来ると嬉しそうに相手をしてくれた。
たまに、麗佳もいた。彼は2人が喧嘩を始めると諌め、まとめて相手をしてくれた。
彼と遊んでいるうちに不快だったはずのあの笑顔を、いつの間にか自分も浮かべるようになっていて一巳は驚いた。
忠直は何も求めない。遊んで、と要求すれば遊んでくれるし、膝を貸してくれて背中を撫でてくれることもあった。我儘を聞いてくれると思えば、してはいけないことはきちんと叱ってくれた。そういう普通の距離感が、麗佳にも自分にも暖かかったのだ。
じきに、彼が麗佳と婚約していることを知って、彼がこの家にいてくれるならば悪くない、とまで思ったほど、一巳は永坂のお兄ちゃんが好きになっていた。
一巳が8歳になる年に、忠直の『躾』が始まった。当時の一巳はまったくわかっていなかったので、忠直が多忙になってしまって寂しかった。
彼が浮かない顔をするようになっていたことには気づいた。あの笑顔をあまり見せなくなっていたから。一巳は幼いながらも異変を感じ取ったのだ。それでも庵を訪れれば、沈んだ顔を見せないようにして忠直は遊んでくれる。それが、とても嫌だった。
ある、夜のことだった。『躾』が夜に行われていることは知っていた。恐る恐る部屋を抜け出し、一巳は庵に忍び込んだ。
嫌な感じだった。香が焚いてあるのか、ムッとするような甘い匂い。男女の吐息。忠直の、呻き声。中は覗かなかった。すごく怖くて逃げ出して、庵の外で誰かが出てくるのを待つ。
普段は令悟についている女中が2、3人出てきて、あたりはしん、と静かになった。一巳はもう一度庵の中に入った。
部屋は既に片付いていて、忠直は1人、放心したように窓の外を見つめていた。
「永坂のお兄ちゃん。」
声をかけると、忠直は驚いたように一巳に駆け寄る。
「駄目だろうが、一巳。お母さんが心配するぞ。」
叱る口調に力がない。その表情も暗い。一巳は励ますために抱き着いたのに、逆に慰められてしまった。いつの間にか涙が流れていたのだ。
「お兄ちゃん、何をされてたの。」
泣きながら訊くと、忠直は困ったように眉尻を下げるだけ。彼は布団を敷き直して一巳を招き入れてくれた。
「もう寝る時間だろう。お前のお母さんには俺が説明するから。おやすみ、一巳。」
ぽんぽん、と背中を撫でてくれる手は優しい。でもその体に残る甘い匂いが不快でたまらなかった。
忠直の笑顔を奪った『躾』が許せなかった。
翌日、一巳は1人の女中に近づいた。忠直と、何をしていたのか問い詰めるためだ。もちろん彼女ははぐらかした。でも、一巳も必死だった。だって、お兄ちゃんは笑わなくなってしまったのだ。もう一度、彼の笑顔が見たかった。それだけだったのに。
一巳の『異能』が発現した。それは、数十年ぶりの出来事。『予見家』でありながら、『予知』以外の『異能』を持ったのだ。
彼の『力』を浴びた女中は、洗いざらい、話さなくていいことまで吐いた。『白状の異能』の制御が効かなかったのだ。
そのせいで、瞬く間に家中に一巳のことは広まった。『廃棄』行きが出た、と。
『予見家』で産まれた子どもは『予知の異能』を必ず持つことになる。はずなのだが、時々全く別の『異能』を持つ者も出てくる。これまた最低な風習で、その者たちは『忌み子』として、分家の『早岐家』へと捨てられるのだ。
一巳はこの騒動に怯え、母親の元へ走った。ただ、頭を撫でて欲しくて。慰めて欲しくて。
「この、失敗作。二度と私に顔を見せないで。」
そんな彼に母親はそう言い放った。彼女は令悟に執着していた。自身の嫡男が当主の座に就けば、彼が振り向いてくれると思っていたから一巳に期待していたのだ。だが、彼は『廃棄』。もう用済みだと言うように彼の頰を張り飛ばして、部屋から追い出した。
幼い一巳は立ち尽くすしかなかった。呆然として、自分がどこにいるのかもわからなくて、気がつけばあの庵に着いていた。
「ごめん、一巳。ごめん。俺のせいだ。」
忠直は彼が欲しかった熱をくれた。頭を撫でてくれた。でも、一巳の絶望は拭えなかった。それを見た忠直は、昨夜よりもよっぽど苦しそうな顔をしていて、そのことも一巳の心に影を落とす。
一巳の『早岐家』行きは着々と進んだ。彼はそれまでずっと忠直の庵で過ごした。忠直は、ここで暮らしているわけではないのに、一巳がここを離れるその日まで、家には帰らなかった。
家の中では1つも居場所がなかった。自分よりももっと幼い麗佳ですら、事の大きさをわかっているようで、一巳に自分のお菓子を渡して励ましてきた。
最早悲しくはなかった。この、『予見』という家がひたすら憎かった。忠直や麗佳が、この先苦しみ続けるのも許せなかった。でも、幼い自分にはどうすることもできない。
「一巳、元気でな。助けになれなくてごめん。これを渡しておく。どうしようもなくなったら、うちにおいで。」
最後の日、忠直は1枚のメモを渡してくれた。そこには彼の祖父母の家の住所が書かれている。
頭を撫でてくれた。温かくて優しい彼はこの一件でますます笑わなくなっていて、一巳もますますこの家が憎かった。死ぬほど憎かった、のに。
「はー、人生ってやっぱクソだな。」
ごろり、と寝転がった。藺草の匂いが非常に不愉快で、一巳は顔を顰める。
「……ごめんな、お兄ちゃん。こうなっちまうなら、もっと早く突き出しておくべきだったなぁ。」
大好きなお兄ちゃんがいた大嫌いな庵はもう甘い匂いはしない。今の自分には狭いくらいだ。
「つくづく神様ってやつはいねえよな。はー、なんで主任に厳しいかね、この世界。」
一巳は頬杖をついて、深いため息をついた。
麗佳が兎美の家に居候を始めてから、数週間が経っていた。時は進んで、8月になってしまった。その間にとんでもないことが起こった。
「は!?一巳が消えたぁ!?」
麗佳が護衛からの報告を聞いてそう叫んだのだ。麗佳と一巳の関係は聞かされていなかった兎美は、そこで早岐一巳が予見麗佳の腹違いの兄だと知って驚いた。
「おいおいおいおい、まずいなぁ、そりゃあ。というか、忠直は大丈夫なのかよ。はー、どうなってやがるんだ、こりゃ。」
珍しく麗佳は派手に狼狽えている。この1ヶ月で事件にはあまり進展がなく、麗佳の母親にも動きはなく、忠直からも大した報告は上がっていなかった。
そんな折に、一巳が令悟襲撃の手引きをした、と疑いがかけられたのだ。彼が異局に捕まったならまだ良かったのだが、その噂が流れた直後、彼は失踪した。
「チッ、あの馬鹿。たぶん、忠直にも知られねえように首突っ込んでたんだろうな。それで、何かに気づいた。だからこんな強引に口封じを受けたってわけだ。」
口封じという単語に兎美は目を見開く。
「早岐くんが、殺されたってことですか!?」
思わず叫ぶと、麗佳に頰を摘まれた。
「うるせえ、馬鹿。死んではいねえ。だが、どうなってるのかはわからん。」
一巳が。兎美はぎゅっと心臓を押さえた。知り合いの身に危険が及ぶということはあまり良い気がしない。特に宵人のことが心配であった。
「ただ、これは大チャンス。あのすっとこどっこいは案外使えるからな。たぶん、何かを嗅ぎつけたからこんなことになったんだ。よし、旭兎美。動くぞ。」
麗佳はパンッと自分の太腿を叩いた。兎美もしゃきっと座り直す。
「内々のことは、忠直がなんとかするだろ。だが、この一件、うちの家が噛んでる。俺様はわかる。で、旭兎美、お前忠直の『異能』使えるらしいじゃねえか。」
兎美は固まった。それは、まさか。
「おう、潜入してこい。」
忠直の『異能』で姿を消した兎美が『予見家』に潜入し、めぼしい話を盗み聞きしろというのだ。
「いや、あの、いろいろ無理があります。というか、それあの人に頼んだら全部丸く収まるでしょ!?」
麗佳は首を横に振った。
「駄目だ。うちはな、クソみてえな家だが、『異能』の一族としては優秀なんだ。忠直はもう覚えられている。顔も、『力』もな。それにあいつは感度が悪い。」
『異能者』には、『力』を視たり感じ取ることができるが、その感度にも差があるのだ。
『特務課』の御厨宵人はずば抜けてそれが高い。微量でも感じ取り、見分ける。兎美もそれには劣るが感度は高い方で、惣一などがそれに次ぐ程度。
忠直は下の上程度。兎美の『力』というか、気配にだけは去年の経験から敏感になっているが、その他はあまり感じ取れない。いつもは経験則で読んでいる。
「それじゃあ駄目なんだよ。それに、今はあいつにとって異局内で何かを見つける絶好のチャンスなんだ。愚兄を消すために動いた奴がいるかもしれねえからな。」
そこまで言った麗佳は錠剤のシートを取り出す。黒に似た暗い青。忠直の色だ。
「こいつは異局内の『発明課』の作品。忠直の『力』を薬にしたもの。あいつの『異能』は難しすぎて誰も扱えなかった代物だ。」
ぽいっと投げて渡される。兎美はキャッチしたはいいものの、狼狽えた。
「使ったことがあるって言っても、一回だけ、それも土壇場で、です。いけますかね?」
事件の最後、水原壱騎と黒川唯子を救うために“無意識に”使っただけ。しかもそのときは、忠直が止めなければ消えていただろう。
「……あいつ呼ぶか?」
麗佳のそれはほぼ脅しに等しい。兎美はうっ、と黙り込み、そのシートを見つめた。
「今、やってみていいですか?」
一粒でどれくらい保つのかはわからないが、数に余裕はありそうだ。麗佳の許可を取り、兎美は意を決して1つ服用してみる。
(……あ。)
とても、懐かしい感覚。つい左手首を見た。もう何もないのに、そこにあのときは常に感じていた気配がした。
だが、ブレる。すぐに自分を見失いそうになった。体が泥のように重たくなって、地面と一体化しようとする。
ガンッ
兎美はなんとか頭を机に打ちつけて踏みとどまった。非常に危なかった。
「……駄目か?」
その様子を見ていた麗佳が険しい顔つきになる。
兎美は迷った。もうあれは捨てようと思っていたのに。
「心当たりがあります。あれがあれば、もしかしたら。」
そう言って取り出したのは、大事に大事にしまっていた1つのケース。中には向日葵のブレスレット。見るだけで眉間に皺が寄る。もう2度と開けないはずだった。
「麗佳、つけてくれませんか?」
何かを察したような顔をしていた彼女に『左手首』を差し出す。冷たい金属の感触と人の手の温もり。あの春の日を思い出した。
もう一度、錠剤を手に取る。彼の色だ。もう随分遠くなってしまった気がする黒い青だ。あのときは半径2メートル以内にいつも存在していた。
左手首の違和感で、そのときの感覚を思い出す。眠るとき、寝返りをうてばバレてしまった。強く引けば近くに来てくれた。その振動で彼が笑っていることに気づくようになった。
『旭』と彼が名前を呼んでくれれば、自分がちゃんとここに存在しているような気になれた。
ごくん、と薬を飲み込む。じわ、と広がっていく感覚に思わず目を閉じる。体がふわふわして、また、泥のように重くなって……
シャラシャラとブレスレットが揺れた。
兎美はハッとして目を開けた。自分があるようでない感覚。目の前の麗佳に手を振ってみるが、彼女は真顔のまま、こちらを眺め続けている。
(成功、した。)
解除の仕方はなんとなくわかっていた。ブレスレットを外す。すると、じんわり体に熱が戻ってきた。
「お、やるじゃねえか。」
麗佳は嬉しそうに褒めてくれた。これを利用すればいけないことはなさそうだ。
ただ、彼に無性に会いたくなってしまうことだけが問題だった。
朝、出勤すると異局の前で円が誰かと話していた。宵人は目を丸くする。あの生意気な新人が、目を輝かせてすごく無邪気な顔をして応対していたから。
「豊口さん、俺『特務課』に入ったんです!きっと、あなたの期待に応えられるようになります!」
宵人に気づいていないようだ。なんとなく、入りづらくて彼は隠れた。
「そうか。円ならやれると思っていたよ。ふふふ、3回も試験に落ちちゃったときはどうなることやらと思ったのにね。」
豊口と呼ばれたその男は柔らかい声をしていた。眼鏡をかけていて、品のいい男前だった。宵人は彼に少し見覚えがある気がした。
彼と円との空気感は親子か兄弟のようで、宵人はそんな相手があいつにもいたのか、と少し意外であった。
「そ、それは、すみません。でも、永坂先生にも接触できました。あの人、なんか忙しいらしくて全然相手してくれないんですけど。」
今、円は訓練と雑用漬けの生活を送っている。『特務課』として動く仕事があまりないからだ。忠直や一巳は個人的に忙しくしているらしく、宵人と杷子が主に面倒を見ているが、まあ、生意気で。なかなか手を焼いていた。
「そうか……。大丈夫、円ならすぐに彼に追いつけるよ。円、期待しているからね。」
そう言って豊口は円の頭を撫でて去っていく。円は彼に撫でられたことで、にへにへしてした。その様子はどこか兎美を彷彿とさせて、宵人は寂寥感に駆られる。
忠直は、兎美と出会ってからよく笑うようになっていた。元々部下には優しい人であったが、そうではなくて、もっと素の部分が見えるようになっていたのだ。
彼女と何かあったことにはすぐに気づいた。一巳や杷子も同様であった。忠直の態度は変わらなかった。落ち込みも憤りもしていなかった。でも、少しの違和感。
宵人はそれにすごく見覚えがあった。笑顔が少ないのだ。まるで、6年前のあのときや、宵人が『特務課』で働き始めたくらいのように。
(早く、旭さんとナオ兄が並んで立ってるのが見たい。)
朝から少し憂鬱な気分になってしまった。ひとつ、ため息をついて彼はまだにへにへしている円に声を掛ける。
「おはよう、まめ。」
そう言うと、円はすごくムッとした顔になった。
「なんなんすか、そのあだ名。マジで嫌です。」
第一声がそれか。宵人は彼の頭を小突いた。
「まずは挨拶をしろ。ま、それでもあだ名に関して撤回はしてやんないけど。」
不服そうに一応挨拶をしてきた円を連れて、一緒に受付に向かう。すると、上森さんがなぜか非常に同情するような目で見てくる。違和感を感じながら出欠確認を済ませ、『特務課』の事務所へ向かう道中、他部署の同期に呼び止められた。
「おい!御厨!早岐が殺人幇助で行方不明ってマジか!?」
一瞬、思考が停止した。頭が真っ白になった。
「……はあ!?んなこと聞いてねえよ!なんだそれ!」
宵人は思わず叫ぶ。横の円を見るが、彼も戸惑っているようだった。
(……クソッ、マジか。)
宵人は険しい顔をして、事務所へ急いだ。
「忠直さん!一巳いますか!?どういうことですか!?」
事務所には既に忠直と杷子がいて、2人とも険しい顔つきであった。
「おはよう、御厨、芝谷。座れ。できる範囲で説明する。」
質問を許さない強い口調。どうやら彼も結構参っているらしい。2人は言われた通りに大人しく席に着いた。
「まず、お前たちも聞いたようだが、早岐が行方不明だ。昨夜、早岐が1月に『予見家』で起こった殺人事件の幇助を行ったという情報が入った。すぐに昨日非番だった彼に連絡をしたが、繋がらなかった。家にも帰っていないようで、2日前にここを出てからの足取りが掴めない。何か知っている者は。」
沈黙の間も与えず、珍しく杷子が真っ先に口を開く。
「『予見家』の事件は、私たち、無関係な話ではなかったんですか?1月も概要をさらっと説明されて、他部署に回されましたよね。なんで、早岐さんが今更……。」
忠直は頷いた。『予見家』は異局が基づいている法の外に存在する一族で、あまり内部のことには口を出せない暗黙の了解がある。だから、忠直は部下たちを巻き込まず、麗佳と個人的に動いていたのだ。
「悪い。あまり詳細な説明はできないが、早岐も俺も『予見家』に関わる人間で、1月からずっとこの件に追われていたんだ。俺たちにとっては今更ではない。」
宵人、杷子が目を見開いた。そんな話、聞いたことがなかったから。
「混乱させて申し訳ないとは思うが、あの家に関してはあまり話せないことが多いんだ。早岐のことを何も知らないなら、この一件は俺に預けてくれると」
「ちょっと待ってください。」
遮ったのは円だった。その場にいる全員が驚く。
「そうやって逃げる気ですか。納得できない。説明できないけど情報を提供しろ、はちょっと無理があると思うっす。」
その言葉に全員が黙り込んだ。忠直は難しい顔をしている。
「1月のことも話せないんですか。なんで隠すんすか。」
忠直を糾弾するような口調になり始めた。杷子がハラハラして、他の3人の顔を見回す。忠直は案外涼しい顔をしていた。円はそんな彼を睨みつけている。宵人は顔を伏せてしまっていて、表情は窺い知れなかった。
「なんか後ろめたいことでもあるんすか。その無表情、マジで何も伝わんないんですよ。」
どんどん感情論で話が逸れて行く。
「『予見家』って、あんまりいい噂ないっすよね。関わりって、どういう関わりですか?」
忠直はじっと円を見つめていた。
「お前には関係ない。新人で、まだこの件にも首を突っ込んでいい力量はないだろう。」
その言葉に宵人と杷子がえ、という顔をする。
「……ガキだと思ってはぐらかすんすか。」
円の目に怒りが滲む。もう完全に冷静ではない。睨み合いののち、逸れ始めた話を軌道修正するために、忠直が口を開こうとした。
「……そうやって旭さんも傷つけたんですか。」
しかし、円が早かった。その声色は私情まみれだ。忠直はピクッと眉を動かす。
「旭は関係ないだろう。……フラれたお前は特にな。」
ピシッと場の空気が凍った音が確かに聞こえた。円のこめかみに青筋が立つ。杷子は震え上がった。
最後の一言は絶対に余計だった。忠直は怒っているのだろうか。あまりにも淡々と言ったので彼の意図は読めなかった。
「俺は、あんたのこと嫌いです。そのスカしたツラが心底ムカつくんですよ。まったく信用できません。あんたは」
「やめろ、芝谷。うるさい、今は一巳の話だったろうが。」
遮ったのは宵人だった。彼は円を睨みつけ、忠直も睨みつけた。その冷たい視線にはさすがに忠直も少しショックを受ける。
「主任もです。どうしたんですか、あなたらしくない。……冷静じゃないならあなたに話せることはない。頭冷やしてもう一回呼び出してください。こっちも暇じゃない。」
そう言うと、彼は立ち上がって事務所を出て行った。それに続くように、円も飛び出していった。
「すみません、主任。私だけ聞いても意味がないので、芝谷くんを宥めてきます。」
そう言って杷子も出て行った。
しん、と事務所が静かになる。忠直ははあ、と深くて長いため息を吐いて、1人で苦笑いを浮かべた。
「ったく、あいつ、面倒くせえことだけ残していきやがって。」
彼の手には1枚のメモ。そこにはミミズののったくったような文字というより線のようなものが書かれていた。
「慣れないことはするもんじゃないな。さて、どう動くか。」
気は進まなかった。こうやってルールを犯して、そうまでしてどこまで何かが得られるかなどわからない。
(それでも、動かないとやってらんねえんだよ。)
宵人は看守にぼそぼそ、と何かを言い含める。彼は頷いて奥に入っていった。
罪を犯した『異能者』の収容所は異局から少し歩いたところにある。その運動場で宵人は1人、とある人物を待った。
「よ、待った?」
彼氏のようなセリフを吐く彼に向かって、嫌悪感を剥き出しにする。
「おはよう、クソ兄貴。」
兄弟は向かい合った。
御厨 隼人。宵人の兄で、兎美と忠直が出会った事件を起こした水原壱騎の一味の幹部。今はこの収容所に服役している。
看守が近づいてきて、隼人の拘束を外した。これは特例中の特例。ガラス越しの対面でもなく、拘束も解かれた。この兄弟はこの収容所のお偉いさんにも子供の頃、可愛がられていたことがある。そのため、少し融通が効くのだ。
「楽しい模範囚ライフはどうだ。」
「何かをするたびにこれが人に迷惑をかけてる、って思わないでいいからマシだな。5年間クソみたいに胃が痛かった。」
真面目に返されて面白くない。宵人は肩をすくめた。
「にしてもどういう風の吹き回しだ、愚弟。これまでまったく顔も出さなかったくせに。母さんはちょくちょく顔見に来てくれてるんだぞ。薄情な奴め。」
隼人が近づいてくる。少し痩せただろうか。でも、彼の言う通りその顔からは纏わりついていた闇のようなものが消え失せている。どこか、雰囲気もさっぱりしたようだ。
「……俺の『相棒』が面倒くせえことになったんだ。」
忠直には、あの場では話さなかったことだ。
1週間ほど前に、一巳に急に「飲みに行こう」と誘われた。彼から誘われるのは非常に珍しく、宵人は何かあったか、と不安になりながらも乗った。
「よいっちゃんさ、俺を一巳って呼ぶよな。」
適当な居酒屋で枝豆をつまみながら、隣の男は独特な雰囲気を放っていた。なんとなく、宵人は尻心地の悪い気分になる。いつもの一巳だが、こそばゆい話をされそうな気配があった。
「お前が嫌がったからな。」
彼らは『特務課』に同時期に配属された同僚。当初は非常に仲が悪かった。忠直は2人に手を焼いていたのだ。
「……半分嘘だなぁ。他に何かあったでしょ、理由。」
一巳の言葉に宵人はげんなりした。やはりこそばゆい話ではないか。そういうの苦手なんだ。
「…………嫌がるから呼んだのがきっかけだけど、そのときお前の素が見えたから呼び続けた。」
笑い飛ばされるかと思ったのに、一巳はふうん、と言っただけ。なぜかセンチメンタルなようだ。
宵人は何も言わずにちびちびと酒を舐めた。きゅっと喉を締める感覚。彼は辛い酒は苦手なのに、一巳は好きなのだ。
「……ッあー、なんだよもう!告白前かよ、この雰囲気。面倒くせえな。」
嫌いな酒の勢いで一巳を睨みつけると、彼はきょとんとしている。
「そういうの、好い仲のやつとやれっての。話したいならさっさと話せよ。……お前さ、ほんっと、自分の本音晒すの苦手だよな。今更俺がお前に何か言うかよ。いつも言ってるだろうが、嫌味なら。」
強く噛みすぎて枝豆の房が破れた。ぐりゅ、と甘皮まで出てきて、口の中に硬い何かが残る。
「……ふん。本当にムカつく。」
もごもごする彼に空いた皿を差し出しながら一巳は拗ねたようにそう言った。なんでそんな顔をされるのかわからなくて宵人は戸惑う。
「俺はさ、もっとこう、ソツなく生きていたいんだけど、お前とか主任とかって、もうどんどん面倒臭い方向に突っ込んでくじゃん?俺がいつもどんだけ苦労してると思ってるの?」
急に糾弾されても。戸惑いつつも、宵人は黙ってただ枝豆をつまんだ。
「お前らみたいな奴らがワリ食うの、嫌だなって思ってんの。だけど、宵人は俺が1人でやると怒るじゃん。」
一巳は頬杖をついて、こちらを睨みつけてくる。
「迷惑だわ、本当。お前って迷惑なやつ。」
結局何が言いたいのか。普段の愚痴か?と宵人が一巳の様子を窺うと、彼はまたあのおセンチな表情に戻っていた。
「たぶん近いうちに俺の身に何かが起きる。それが何かはわからない。ただ、ちょっとやらかした。」
本題はそれか。宵人は黙って一巳の言うことに耳を傾ける。
「そのとき、俺は8割死んでない。だから、追わず、探さず、待て。」
彼は眉間に皺を寄せた。一巳は詳細は聞くな、という顔をしている。
「……また、1人でやってたのか。」
宵人が呟くように責めると、一巳は弁解したじゃん、とバツが悪そうに目を逸らした。
一巳と宵人の付き合いはもう5年目になる。だが、宵人は彼の学生時代やその生い立ちなどは全く知らない。聞いて欲しくなさそうだったし、一度軽く訊いたら喧嘩になったからだ。
でも、それでも忠直の指揮下、背中を預け合える程度にはわかり合っている。わかっているからこそ、1人でやる一巳が許せないのだ。でも。
「今回は許してやるよ。ギリギリだけどな。いつものお前ならそれすらも言わずに、いつの間にかなんとかしてたはずだから。」
少しホッとしたような顔の彼に、ただ、と付け加えた。
「ただし、8割じゃなくて10割にしろ。そんで待てって言ったからには助けも求めろ。人に迷惑って言うなら、お前も迷惑かけることを覚えろバーカ。」
その罵倒は。一巳はプッと吹き出して、大笑いし始める。
「ほーんとよいっちゃんってさぁ、俺のこと大好きなんだね。ハグくらいしてあげようか。」
いつもの調子に戻った一巳。宵人はげんなりした顔をして拒否しながらも、どこか安心していた。
「いらねえ、汚ねえ、近づくな。」
冗談だとわかりつつ、本気で遠ざけてはおく。あっさり身を引いた一巳はくいっと酒を煽った。宵人もフン、と鼻を鳴らして枝豆に手を伸ばす。
「……よいっちゃん、ありがとね。」
また、こそばゆいトーン。宵人は再び房を破ってしまった。硬い皮が不快である。
「ちゃんと頼らなかったら俺がお前を殺す。」
本末転倒だ。でも一巳はツッコまずに宵人の方に空いた皿を差し出した。
そんな会話を思い出して、目を伏せる。一巳がほぼ初めて、自発的に自分を頼ってくれたのだ。
「だから、恥を忍んでお前に頼みがあって来た。俺と戦え。」
宵人の目は真剣であった。隼人はほう、と目を細めて自分の手を見る。先ほどまでそこにあった手錠は『異能封じ』の一種。あれがあると『異能』は使えなくなる。それが外されたということは。
「ふうん。お前、あの兄ちゃんと2人で俺相手にいっぱいいっぱいだったの忘れたの?ついでに外部での『力』の操作ができないお前が、うちの蛇ちゃんたちと戯れるのは自殺行為だろ。忠直サンくらい連れてくるべきだったな。」
まったくの正論である。宵人を馬鹿にしているわけではない。隼人の『異能』で影から生み出される『蛇』は彼の『力』の塊で、『力』をぶつけることによって相殺できる。
だが、宵人はそもそも内部での『力』の操作には長けているが、外部はてんでダメで『異能』として発現していない。
つまり、『蛇』に対してなすすべがないのに、一般人でもないのでその干渉も拒めないのだ。隼人のような『異能者』からすれば、いいカモなのである。
「それが、ダメなんだよ。いつまでも忠直さんや一巳におんぶに抱っこで、池田にすら守られてるなら、俺は『捜査課』の日陰や『情報課』に行った方がよっぽどマシだった。でも、俺だって『特務課』の一員だから。」
それを聞いて隼人はふうん、と目を細める。宵人の意図が読めたのだ。
「お前、自分の『異能』が欲しいんだ?」
宵人は素直に頷いた。
その瞬間、ぐるんっと足に2体、蛇が巻きついてくる。速い。ギリッと締まる。
だが、そんなに痛くなかった。確かに拘束はされているが、痛みのない程度である。
「今な、俺全力で締めつけてるんだわ。わかる?」
宵人はえ、と目を見開いた。そんなはずはない。あの屋敷で兎美を締め付けたとき、彼女は拘束を解くために自分の『異能』を自分にぶつけなければいけなかったほどであった。これが全力なはずがない。
「『異能』ってのは感情にも左右されやすいし、願望にも左右されやすい。壱騎サンなんか、事件をきっかけに『異能』が使えなくなったり、変わったりしただろ。そういうもんなんだ。不安定で、難しい。」
隼人はちょいちょいっと、蛇に戻ってくるように指で示す。だが。
「あー、ほら、もう。離れろって。」
宵人から離れようとしない。痛みはないが、これは、擦り寄られている。
隼人はほんの少し照れたように頭を掻いた。
「俺の『異能』な、今は4匹の蛇を出せる。攻撃も拘束も自由自在ってわけだが……これ、何の数かわかるか?」
宵人は首を振った。かがんでまだ足にすりすりしている蛇を撫でてやると、その真っ黒いのは嬉しそうに頭を差し出してくる。
「大事な人の数だ。その蛇どもはな、相手によって出力が変わる。他人なら容赦はないが、お前みたいな身内には、めちゃくちゃ甘くなるんだよ。せいぜい縛りつけられる程度。お前、俺に攻撃されてもそんなに傷はひどくなかっただろ。」
言われてみれば、と宵人は頷く。横でダラダラ血を流していた一巳に対して自分はけろりとしていた。唾つけときゃ治るか、と。
「お前や親父、母さんを守るための『異能』なんだよ。だから、守るべきお前にはあまり通用しない。ほら、そろそろ戻ってこいって。」
宵人の腕まで上がってきていた2匹の蛇は、持ち主に向かってシャーッと威嚇した。代わる代わる撫でてもらってご満悦なようだ。
「兄貴は可愛くねえけど、こいつらは可愛い。」
蛇と戯れる弟を、隼人は呆れたように見つめる。
「ったく。まぁ、いいけどな。……宵人、お前はすげえ中途半端なんだよ。」
彼の言葉に宵人は眉を顰める。そんなこと、初めて言われた。
「お前はたぶん、『異能』が発現してねえってわけじゃねえんだと思う。だが、制御ができねえそれは『異能』とは呼べない。お前のその『目』、なんつーか、『力』が歪な使われ方してんだよな。」
隼人の言う通りである。宵人は視ようと思って視ているわけではない。視えてしまうのだ。
もちろん、集中が必要なこともある。でも彼は視ないということができない。普通、『異能者』であっても『力』は視ようとしなくては視えないもの。
「お前ん中で何が起こってんのかはわかんねえんだけど、もう一押しなんだとは思うんだわ。今、俺とやったって何にもならねえよ。クサいこと言うが、『自分の思い』っていうの見直してから来い。」
宵人は嬉しそうに自分の手に擦り寄る蛇を見つめた。これが、隼人の『異能』。大事な人を守るためのもの。
自分にも何かあっただろうか。視えるようになったのはいつだったか。
一巳や忠直の力になるにはどうしたいのか。
(俺の、したいこと。)
「御厨、そろそろ。」
看守に声をかけられてハッとする。約束の時間が迫っていたのだ。隼人に再び手錠がつけられた。
「じゃあまたな、宵人。」
ひらひらと手を振る隼人。名残惜しそうにしながら彼の影に蛇は吸い込まれていった。
予見家は電車とバスを乗り継いで行った場所の、とある山中にあった。すごく出入りのしにくい場所だ。
兎美は1人、麗佳に教えてもらった裏口に回り込んで、そっと左手首を押さえた。チリチリとそこでは向日葵のブレスレットが揺れる。
麗佳の『異能』は『予感』。今回のことを例にとれば、一巳が死んでいるか否か、このことに予見家が噛んでいるか否か。そういうことを見分けることができる。だから彼女の見立てによれば、ここに一巳がいることは確定であった。ただ、どういう状態かはわからない。できれば救出もしたいところなのだが。
(早岐くんの『力』は視たことないし、麗佳の地図に頼るしかないか。)
兎美は出る前に麗佳に持たされた手書きの地図を見る。……絵心はないようだ。すごく抽象的でわかりづらい。とりあえず構造だけはわかるので、まずは1番大きなところに入ってみることにした。
錠剤を手に取る。持続時間はこの1粒に詰まった忠直の『力』の量の分だけ。兎美には大体1時間程度だとわかっていた。彼の『力』を体に取り入れることはもう大した問題ではない。2人の『力』は今でも混ざり合っているから。ただ、扱いが難しい。一歩間違えれば空気と化して消える綱渡り。
(すみません、ナオさん。あなたに頼ります。守ってください。)
楕円形をしたそれを持っていた水で流し込む。じわ、と落ち着く感覚。シャラ、と冷たい金属の感触。兎美はゆらりと陽炎のように揺らめいて消えた。
「あれ、鷹の爪って切らしてました?」
「確か佐藤さんが持っていってましたよ。」
「ちょっと、こっち洗ってないじゃない。」
予見家内部は古い造りの和風な雰囲気で、時代劇などにそのまま使えそうであった。その厨房で、昼食の支度なのか人々が忙しそうに働いている。兎美はそこの片隅に立っていた。
他愛無い話の中で、「一巳が戻ってきている」という噂話を聞いた。その人たちを追ってきたところ、ここに辿り着いたのだ。
「このところ、物騒で嫌よね。」
「ほんと。当主様はもちろんだんまりだし、麗佳様もどこほっつき歩いてんだか。そろそろ終わりかね、この家も。」
話題の大半はこんな感じの愚痴のようなものが多い。でも、そのおかげで麗佳の話の中だけであったこの家の状況がちゃんと肉を持って兎美の頭の中に染みる。
「この間、あの、『お気に入り』も帰ってきたらしいわよ。」
「『お気に入り』?」
「ほら、当主様が一時期囲ってた、あの背の高い子。とうとう麗佳様に子どもでも産ませる気かね。」
「……ああ。あの子も気の毒よね。結構男前に育ったらしいけど、所詮使い捨ての種馬扱いだからねえ。」
「勿体無いわよね。麗佳様が飽きたらうちの娘なんてどうかしら。礼儀正しくて、私たちにも優しい子だったもの。」
「いや、あの子は酉七様がご執心だったはずよ。麗佳様にとって御不要になったら、そちらに囲われるでしょう。」
兎美は耳に入ってきたそれに、思わず眉間に皺を寄せた。忠直の話題だと察せられたからだ。やはり、そういう扱いを受けてきたのか。集中しなくてはいけないと思いつつ、気になって聞いてしまった。
「奥方様が麗佳様に早く子どもを産んで欲しいみたいだからねえ。それで次期当主を決めたいんでしょう。お気持ちはわかるわね。ほら、麗佳様って、おてんばでいらっしゃるから。」
「……奥方様、今更口を挟んできたの、不倫してるって噂あるのよ。」
という、下世話な話題も多い。一夫多妻のようなことをしている家だ。ゴシップには事欠かないのであろう。
「おいそこ!喋ってないで配膳して!」
怒鳴り声に兎美も肩を跳ねさせた。昼食の準備ができたらしい。兎美は人の流れを観察する。当主、奥方が住まう方向に膳が2つ、別邸の方向に4つ。
だが、その場にもう1つ膳が残っている。粗方人が出払った後、1人の女中がそろりと入ってきてそれを持つと、全く違う方向へ歩き始めた。麗佳の地図によると、そちらには小さな建物があるはずだ。
兎美は最後に残った膳を抱えたその人についていく。庭園やら竹藪やらがあって、少し入り組んでいる道を歩いて5分は経っただろうか。小さな“庵”が現れた。
彼女は膳を抱えた人と分かれて、庭の方向に歩く。縁側から中に入り、するりと壁を擦り抜けた。
「!」
思わず声が漏れかけて口を塞ぐ。
4畳程度の部屋に、一巳が1人でぽつんと座って、膳に手をつけていた。和服姿でいつもの軽薄さは鳴りを潜めている。
ちょうど女中が出て行くところで、兎美は一応部屋の周りを見回してみた。やはり、監視がいるようだ。迂闊なことはできない。
いつ姿を現そうか考えていると、一巳と目が合った。驚いて固まる。偶然かとも思ったが、彼は目を逸らさない。
一巳はメモを手に取ると、さらさらと何かを書いた。
『誰だ』
兎美はブレスレットに手をかけて外す。一巳は彼女の顔を見て、予想外、とでも言うように目を丸くして、すぐに微笑む。最高の配役だ。
『声は出さないでください。必要なことを書きつけます。主任に渡してください。』
兎美は頷いて彼がそれを終えるのを待つ。渡されたメモには、ミミズののったくったようなただの線が書かれていた。よくわからないが、忠直には伝わるのであろう。
『主任に渡すのはそれだけで、他は捨ててください。俺はまだここにいます。然るべきタイミングは麗佳がわかります。』
再び、兎美は頷く。破られたメモをしっかり握り締めると、錠剤を手に取った。
彼女が消える直前、何か思い出したように一巳はさらさらさら、ともう1枚メモを渡してくる。
『よいっちゃんによろしく。まだ、待て、と。』
兎美はにこり、と微笑んだ。