三話 ざわめき
忠直と連絡を取らない1ヶ月はあっという間だった。本当に忙しいらしい彼は全く連絡を寄越して来ず、少し距離を取ろうと決めた兎美も連絡しなかったので、久しぶりに会うということで彼女は少し緊張していた。
(ちゃんと勉強はしてきたじゃない。大丈夫。)
忠直のくれた問題集は全部やったし、どうしてもわからないところは杷子や惣一、宵人を頼った。お陰様で大丈夫だろう、と3人が太鼓判を押してくれた。
試験の3日前。忠直と最後の確認をすると約束した日。異局を訪れた兎美は受付ですぐに捕まった。今日は上森さんと、下川さんではなく、中川 梨沙さんという、20代のメイクばっちりの女性がいた。
「あ!旭さん!あれ、本当なんですか?」
あれ、とは。兎美は首を傾げた。
「あれです、永坂主任が御結婚なさるって!」
は……?兎美は石化した。目を見開いたまま全く動けなくなる。思考停止しているのだ。
「なんか、婚約者がいらっしゃったとか。」
こんやくしゃ?新手のこんにゃくだろうか。兎美の頭はもはや正常な思考ができなくなっていた。
「旭さんじゃないんですよね?何も知らないんですか?もう籍とか入れて」
「はいはい、それ誤解だから。勘弁してねー。」
話を遮る声に兎美はハッとして、ぎこちなくその声の方向を見る。そこには、忠直の部下で『特務課』のメンツの1人、眼鏡に茶髪の少し軽薄そうな見た目の男・早岐 一巳がいた。
彼と兎美はあまり話したことはないが、一応名前と顔は知っている仲である。
一巳はどこか苛立っているようだった。そして、兎美を視界に入れるとニコッと作って笑う。
「こんにちは、旭さん。申し訳ないんだけどちょっと一緒に来てくれます?」
なんとなく威圧感があって、兎美はこわごわ頷いてついていった。
一巳は忠直が筆記試験の説明の際に使っていた小さめの会議室に入る。誰もいないことを確認して、兎美に中に入るように促して、ドアを閉める。
「旭さんさ、主任から何か聞いてる?」
兎美は一応携帯を確認する。何も連絡は入っていない。
「はー……まぁ、そうだよね。あんたに1番言いたくねえよなぁ。どうすっかなぁ。」
一巳はわりと真剣な顔で悩んで、兎美の方をチラリと見る。彼女は何が何だかわからなくて戸惑っていた。忠直が結婚?婚約者?誤解?もうどういうことだかわからない。
「とりあえず、今日の講義は俺が任されたんだよね。主任に。事情わかってるよしみで引き受けはしたんだけど、旭さん、このまま俺から講義受けても集中できないっしょ?」
兎美は頷いた。頭に冷水をかけられた気分なのだ。濡れたままでは気持ち悪い。
「これ、俺の連絡先。1時間で見つけられなかったら連絡して。そのときはもうしょうがないから俺で我慢してください。」
さらさら、とメモを書いて兎美に渡す。彼女はそれをじっと見つめた後、やっと口を開いた。
「見つけるってどういうことですか?」
兎美の目を見て、一巳はお、という顔をする。案外冷静な声色で訊かれたからだ。
「主任が姿消してるんだよ、今。受付で出欠確認して以来誰も見てない。でも、今日提出の書類はいつの間にか仕上がってるから、あの人『異能』使ってるんだわ。巧妙に痕跡消されて、よいっちゃんでも見つけられない、といった状況です。」
それは、それは。とても面倒な状況らしい。
「まあ、仕事してるからこちらとしては問題はないんだけど、旭さんのところに現れないのは重症だな。よっぽど堪えたんだろ、結婚の噂。」
一巳は同情を声に滲ませた。結婚。婚約者。これらが忠直をどう苦しめているのか、兎美は知らないが、彼のために動かない道理もない。
「ええと、見つけたとして、私、何も事情知らないし、それに早岐くんの口ぶりだと私に会いたくないんじゃないんですか?」
一巳はうーん、と唸る。そして、苦笑いを浮かべた。
「俺から話すのも、ねえ?ま、女心同様、男心も色々あるんですよ。丁寧に扱ってあげてもらえると。」
兎美が頷くのを見届けて、一巳は目を細める。
「じゃ、よろしくお願いします。俺は一旦事務所戻るんで、何かあったら連絡ください。」
彼はそう言って、部屋から出て行った。
兎美はそれを見送って部屋の鍵を閉めると、くるっと部屋の後ろの方を見つめる。さくさくさく、と歩いて行って。
「ほっ!」
それに向かって足払いをする。避けられた。
「ナオさん、無駄ですよ。私にはもう通用しないんで。」
兎美は苦笑した。彼女の目には、ずっと彼の姿が視えていたのだ。憂鬱そうに目を伏せて、この部屋の後ろに立っていた。
ゆら、と陽炎のように空気が揺らめいて、忠直が現れた。その顔は疲れ切っていて暗い。
「……旭、今日は」
「帰りませんよ。少なくともあなたを放置して帰る気はありません。帰るなら連れて行きます。」
深いため息。忠直は険しい顔つきで彼女を睨んだ。
「俺はお前に当たりたくない。今の俺は駄目なんだ。どうしようもなく機嫌が悪い。」
唸るような低い声はこちらを脅すようで少し怖い。見たことのない険しい顔だ。兎美はスッと真面目な顔になると、背伸びして彼の頰を摘んだ。
「じゃあ、あなたは誰に八つ当たりできるんですか?部下には絶対しないでしょうし、榊さんにもそんなことしないでしょう。可愛い後輩ですもんね。……ああ、あの夜いた女の人とかにしてもらうんですか?」
わざと煽られたとわかっていながら、忠直は兎美の肩を強く掴んだ。でも彼女は揺らがない。
「違うなら、私でいいです。いえ、私がいいでしょう。殴るも蹴るもお好きに。頑丈です。」
真っ直ぐな瞳は忠直を責めない。ただ受け入れている。彼はもう動けなかった。
「でも、あなたが辛いのは効きます。頑丈でも耐えられない。我慢しないで。」
掴んだ肩はその力に見合わず細い。それなのに、自分よりも強い目で。忠直は彼女の両肩を掴んで顔を伏せた。
「また組み手でもしますか?付き合いますけど。」
忠直は力なく笑って、でもすぐに項垂れてしまう。心配げに見つめる兎美に彼は小さい声で訴えた。
「……すまない、本当に、今日はもうきつい。」
表情は見えないが、その声から何かに苦しんでいることは伝わる。
「わかってますから。説明も要りません。だから、その、全部吐いちゃいましょう。」
そう言って、兎美は忠直の頰を撫でた。そのことで忠直の顔がぐっと歪む。耐えきれなくなったのか、彼の口から取り留めのない、どこにも向けようのない怒りが飛び出した。
「……ッ、もう、嫌なんだ。なぜ俺がこんな思いをしなきゃいけない。もう、疲れた。さすがに、堪える。くそ……。」
それは、彼の嘆きだった。どういうことかはわからない。でも兎美は何も訊かず、彼が遠慮した距離を詰め、壁に追いやって座らせた。そのまま、膝を割って中に入り込むと強く抱き締める。
「悪い、旭。ほんと、もう嫌だ。俺は、自分の意思でもう歩けるのに。いつまでも、あそこに縛りつけられたくないのに。」
彼の体が少し震えていた。こんな、弱々しい忠直を見たことがない。消えそうになっていたときともまた違う、もっと人間的な恐怖。兎美はただグッと引き寄せる。
何も知らない兎美にもたれかかっている。そのことが情けなくて、彼は苦しそうに歯を食いしばった。
「……いい加減、疲れたよ。俺は、俺の自我は、必要だったか。こんなものが、あるから。」
いつまでも苦しいんじゃないか。ぽつりと、切なく呟かれる。その声色は弱い。彼の事情は何もわからないのに、つい兎美は無意識に返していた。
「必要ですよ、私には。あなたがいないと困りますから。」
その言葉で忠直はハッとしたようだった。兎美は体を離して、忠直の前髪を退けると額に額を当てる。
「はい。永坂忠直さん。あなたを必要としている人がここにいます。」
互いの体温が温かい。兎美は額を離して、彼の両手を掴む。
「落ち着きました?駄目でもまだ付き合います。」
握って悪戯っぽく笑うと、忠直がそれを振り解いて兎美を掻き抱いた。彼女は少しびっくりしたが、すぐにその胸に体重を預け、背中に手を回すと、いつも彼がしてくれていたように一定のリズムで叩いた。
「悪い、旭。しばらく。」
このままで。兎美ははい、と応じてぎゅっと抱き締める。彼はそれを通して自分の形を確かめているようだった。
数分、そうしていただろうか。兎美が温かさで微睡み始めたくらいでぽんぽんと背中を叩かれる。もういい、という意味だろう。体を離して彼の顔を覗き込むと、彼は少しホッとしているようだった。
「悪かった、旭。本当に、すまない。」
彼は頭を抱えて深くため息をついた。兎美は体勢を崩して座っている忠直の隣で体育座りをする。
「大丈夫じゃなさそうですね。今回は私が手を握っていてあげましょうか?」
冗談めかして手を差し出すが断られた。これ以上は、ということらしい。
「……情けないな。お前には助けられてばかりだ。」
疲れてはいるようだが、その顔は幾分かいつも通りに戻っていた。兎美は安心して、とりあえずすごく気になっていたことだけ訊く。
「詳細は訊かないので、とりあえず結婚するかどうかだけ教えてもらっていいですか。」
忠直は顔を顰めた。
「しない。……しないようにする。」
兎美はガクッとずっこけるような気持ちになる。しないようにするとは。
「わりと婚約者とか結婚とか現実味のある話なんですか。ナオさんも大変ですね。」
あはは、と笑う兎美の頰を忠直は摘む。
「他人事だと思って笑いやがって。」
むにむにといじられて、痛くはないが彼との距離感がいつもより解けていて照れる。吐き出したことで彼の中で何かが緩んでいるのだ。
「ここ最近、必死に駆けずり回ってたんだがな。面倒なことしやがる……チッ。」
いつもより口調が荒い。最初よりはマシだが、やはり気が立ってはいるらしい。
「2日前くらいから、嫌な動きを感じ取ってはいたんだが、今日の朝にはもうこの噂を流されていた。岸さんや早岐が誤解を解いて回ってくれてはいるんだが、こういう噂ってのは厄介だからな。ほんと、頭が痛い。」
それで姿を消していたらしい。たぶん、当たり散らさないためであろう。誰かに訊かれるだけでその人に理不尽に当たってしまうことがわかっていたから。
「しかもお前が来る日とか、本当にタイミングが悪くて笑えてくる。いや、むしろ良かったのか。いずれにしろ、本当に取り乱して悪かった。」
忠直は兎美に向かって頭を下げた。
「いえ、あんまり溜め込まないでくださいね。」
兎美は忠直の袖をぎゅっと掴んだ。それに目を向けて、彼は少しだけ顔を歪める。
「……悪い。時間を無駄にしているな。」
今日はもう試験の3日前なのだ。時計を確認して、申し訳なさそうに言ってから立ち上がろうとする彼を押し留め、兎美は忠直と視線を絡めるとまた抱き締めた。
意表を突かれて彼は固まる。兎美の鎖骨あたりに顔を埋めるような形になって、柔らかさと甘い匂いに襲われた。
「無駄なわけないですよ。あなたが苦しんでたんですから。慰める役目くらいください。八つ当たりされても気にしません。」
よしよし、と彼の頭を撫でる。兎美はそれで満足したように彼から離れた。しかし、解放された忠直は、なぜかむっつりと彼女を睨みつけている。
「……お前な。」
苛立ちとは違う何か。彼は怒っているようだった。なぜなのかわからなくて兎美は目を丸くする。
「いや、もう、今日は俺のせいか。いい。ありがとう、旭。説明もできず悪いがマシになった。」
彼はぽんぽんと兎美の頭を撫でて立ち上がった。軽く伸びをすると、あ、と目を見開く。
「早岐に連絡してくる。迷惑をかけて悪かったと。」
そう言って彼は一旦部屋を出て行った。兎美は笑顔でいってらっしゃい、と見送って、しばらく黙り、ゴン、と壁に頭を打ちつけた。
(……婚約者とか、いるのか……。)
それも、噂になる程度進んだ相手。マメで気を許した相手にはとことん甘い彼。受付の女性陣の評価では「彼女がいない方がおかしい」と。
(弁えないといけない。距離を取るって決めたでしょ。……わかってるのに。)
簡単に乱されて兎美は情けなくなる。彼の辛そうな顔を見ると、つい体は勝手に動くのだ。何も抑えが効かなくなる。
特に、最近彼は出会ったときよりも笑ってくれるようになった。それを守りたいと思うのは、いけないことだろうか。
(様子、おかしかったな。婚約者さんと揉めでもしたのかな。いや、その前に“結婚しない”って、どういうことなんだろう。)
踏み込んでほしくなさそうだったので、つい『詳細は聞かない』と強がった。でも無理矢理でも聞いておくべきだったかもしれない。
うーん、と考えて兎美はそこでハッとあることに気づいた。そのとき、ガチャ、と忠直がドアを開けて戻ってくる。
「旭、今日の予定だが。」
説明を始めようとした忠直に向かって、兎美は美しい土下座を見せた。忠直は固まった。
「ほんっとうに、すみませんでした!!!」
後ろから覗く一巳が面白がるような顔でその光景を見ている。何が起こっているのかよくわからない忠直は、とりあえず兎美に顔を上げさせた。
「……急にどうした。」
兎美は顔を真っ赤にして、涙目で、自分の太腿あたりで拳を握りしめる。
「な、何も考えず婚約者のいるあなたに抱きつきました。ごめんなさい。他意はまっったくないとお伝えください。ほんと、すみません。」
“ごめんなさい、他意はまったくない”
わりとその言葉は忠直の胸にぐさぐさと刺さるのだが、必死な兎美は気づかない。
傍から見ていた一巳だけが耐えきれなくなって爆笑し始める。忠直は彼の笑い声を聞きながら頭を抱えた。
「……いや、うん。大体俺が悪いな。さすがに何も話さないとそうなるよな。……他意はないか。はぁ。」
そのため息はなぜか先ほどよりも重い。忠直は兎美を立たせて、席に着かせた。
「あのな、旭。今回掘り返されたのは、俺にとっては既に破談になっていた婚約の話なんだ。もう10年近く前になる。だから、今更だってすごく気が立った。それだけだ。お前は本当に何も悪くない。」
兎美はぽかんと口を開ける。
「なっ!?え?そうだったんですか!?なんでそれならそうと言ってくれなかったんですか!」
誤解とはそういうことだったのか。口調は怒っているが、彼女のその表情は安堵で満ちていた。
一巳はまた吹き出す。兎美の手前、もうげらげらと笑うことはなかったが、2人のやりとりが間抜けで面白かった。
「平静を欠いていた俺が悪い。そうだな。そう言えば良かったんだな。すまん。」
忠直は胃の痛そうな顔で兎美に頭を下げる。兎美は息を吐いて安堵した。今までにも色々と無意識のうちに彼に触れたことがあるので、それら全部を鑑みて、そのせいで揉めたなんてことだったとしたら、どうしようかと思ったのだ。
「な、なんだ。そっかぁ。」
兎美は胸を撫で下ろす。へにゃ、と気が抜けたように笑うと、忠直も少し笑ってくれた。
「だから、お前は目先の試験に集中してくれ。って、俺が言うことじゃないな。ほんと、悪かった。」
忠直はもう一度兎美に頭を下げて、一巳と場所を交代する。
「で、重ねて申し訳ないんだが、俺は方々(ほうぼう)に謝りに行ってくる。結局早岐に任せることになった。すまない。」
噂の揉み消しと、勝手な行動への謝罪らしい。彼も大変だな、と思いながらまたその背を見送った。
「というわけで、旭さんには申し訳ありませんが、俺にお鉢が回ってきたってわけです。」
一巳はやっと落ち着いたようで、目の端に浮いた涙を拭いながら兎美の方を見る。
「慣れてる池田やよいっちゃんじゃなくて悪いね。」
兎美は気にしていない、というように首を横に振った。
「早岐くん、今日はよろしくお願いします。」
ぺこ、と頭を下げる兎美。一巳は頷いて応じると、まず拘束法の確認から始めた。
宵人や杷子に付き合ってもらったので、ほぼ完璧だった。一巳はこうすると間違えにくい、という部分を教えるだけで済んだ。
「お、優秀だなあ、旭さん。俺も必要なかったんじゃない?」
ふざけて言ったのに、兎美は真面目に返す。
「そんなことはないですね。わかっている人が教えてくれるっていう安心感は、なにものにも代え難いですから。」
不器用そうなのに、彼女の手つきは練習を重ねたおかげか、あまり迷いがない。
「早岐くんがここにいてくれるだけでもありがたいです。たぶん、私の指導自体、結構無理してやってもらってたんじゃないですか?」
一巳はへえ、と目を細めた。そこにちゃんと気づいているとは。伊達に忠直の傍にいたわけじゃないということだ。
本来、『異能者』の登録の業務はそもそも部門が違う。『総務課』が多少関わるが、基本的には『就職』関連を担う部門の仕事なのだ。
それを、忠直が巻き込んだ詫びとして、より丁寧に兎美への指導を直々に行なっていた。
『特務課』自体、決まった業務があまりない課なので許されたことではあるが、忙しい彼は少し無理に詰め込んでいたのも事実である。
「そこはあんたが気にすることじゃないですけどね。巻き込んだのはこちらの責任だし、無理をしたくなったのはうちの主任ですから。」
俺らは上に従うだけなんで。そう言って一巳は肩をすくめた。
「それにですね、旭さんはちょっと主任のこと、買い被りすぎですよ。あの人、案外ちゃんと図々しい。損得勘定で動く人じゃないですが、利益を生まないことはしない。旭さんも気をつけてくださいね。」
その仕草や言葉から、兎美は一巳を面白い人だと思った。軽薄そうな感じに見えるのに、雰囲気に滲む疲労感と落ち着きが忠直に似ている。
「早岐くんは、ナオさんのこと信頼してるんですね。」
そう言うと、彼は少しだけ戸惑いを露わにした。
「……まあ、あの人に投げれば大抵のことは片付きますから。」
一巳は作り笑いの多い男だ。にこやかなように見えて、冷静に相手を観察するその目は笑っていない。
兎美は杷子や宵人から彼の話を聞くことも少なくないが、あまり私生活の見えない人、というのがそこから得た所感だった。こうやって話してみて、それが理解できる程度には背後に何かしらの闇を感じる。
「拘束法は大丈夫そうですね。じゃ、筆記いきましょ。」
最初の調子に戻って彼は、用意していた筆記の模擬試験用紙を兎美に手渡す。
しばらく解き進めて、ふとある問題が目に入る。
『予見家は代々『千里眼の異能』を受け継いでいる。』
(これは、×だよね。)
円の言っていた通り、問題集を解いていると、『予見家』に関する問題はたまに登場していた。
(わざわざこうして学ばせるほど、重要度の高い一族なんだろうか。)
ぼんやりと考えながら解き終わり、一巳に提出する。彼はサラサラっと採点を終わらせた。点数は96点。合格点である。
「お、大丈夫そうですね。」
うんうん、と彼は頷いてくれた。もう1枚用意してくれているというので、すぐに取り掛かっても良かったが、一応雑談を振るつもりで尋ねてみた。
「早岐くんは、『予見家』って知ってますか。」
一巳は怪訝な顔をした。
「もちろん、知ってますが。ほら、こうやって試験にも出てたでしょ?」
先程の問題を示されて、兎美は頷く。
「俺らにはあんまり関係のない、まさに天上人の一族。この異局の運営にも昔はかなり深く携わっていたらしいですけど、ま、今はあれですね。天然記念物みたいなもんです。普通に生きてりゃ『異能者』でも関わることはありません。どうして急に?」
彼女はどう答えるべきか悩む。『白状の異能』を持つ一巳には嘘は通用しない。別に正直に吐いても不都合なことはないが、忠直の預かり知らぬ場で、彼のことに関係することを訊いていいものだろうか。
「……主任から、何か聞きました?」
兎美の微妙な表情を見た一巳が目を細めた。その声色は先ほどよりも幾分か堅い。兎美は直感的に素直に事実を述べるべきだと察して、円とのやり取りをかいつまんで話す。
「いえ。ナオさんからは何も。ただ、彼がその『予見家』と関わりがあるという噂があるって、芝谷くんから聞いたので。」
一巳が何か考えに耽るようにふうん、と漏らした。
「まあ、あんたにはいずれ、って感じですけど、主任が何か言うまでそれは詮索しないでやってください。あの人の言った通り、旭さんはまず免許を取らないと二進も三進もいかんでしょ。」
ひらひら、と模擬試験の用紙を示されて兎美は苦笑いを浮かべる。一巳や忠直の言う通りだ。免許を取らなければ、外での使用はかなり制限される。これに集中しなければ、と兎美は用紙を見つめて意気込んだ。
「はい、もしもし。」
『もしもし。今日は悪かったな。』
その夜、すごく久しぶりに電話越しでの忠直の声を聞いた。結局一巳に最後まで付き合ってもらって、忠直にはあの後会えなかったのだ。待つのもどうかと思って、一巳に言伝を頼んでそのまま帰ったが、気にしてくれていたらしい。
「いえ。元気になったなら問題ないです。私も早岐くんに太鼓判貰えたんで。」
2枚目の模擬試験も90点以上は取れていた。これなら3日後も問題ないだろう。
『俺が教えると言ったのに、面倒を見られなくなるどころか、迷惑をかけてすまなかった。』
「あはは、こんなところでも謝罪ですか。大変ですね、ナオさん。『特務課』の皆さんや、榊さんに助けていただいたので大丈夫ですよ。」
そちらにも礼を言わないといけないな。電話越しで呟かれて、もうそれはいたちごっこになるからやめろと諭す。
「ねえ、ナオさん。」
兎美は静かなトーンで呼びかけた。忠直は何も言わない。彼がそっと兎美の言葉を待つ姿は容易に頭に浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
淡白な問いかけ。しかし、忠直は即答しなかった。
『……まだ、大丈夫だ。』
不安になる一言。でも兎美にとって、尋ねてはぐらかされるよりもずっといい返答だ。
『旭。』
今度はこちらが呼ばれる。兎美もはい、と言っただけで彼を待つ。
『……ありがとう。』
その感謝はいつになく染みた。知らない間に、互いが互いの不安を払拭している。思わず笑みが漏れた。
『ああ、そうだった。言い忘れるところだった。』
切ろうとした直前、少し慌てたように言われて兎美は止まる。これ以上何かあっただろうか。
『試験、頑張れよ。終わったら事務所に顔を出してくれると嬉しい。』
ずっと、問題集の彼の筆跡をなぞっていただけの言葉。それが耳元で響く。
「は、はい!1番に報告に行きます!」
思わず大きな声で言うと笑われる。でも、それだけ嬉しかったのだ。
試験当日、異能対策局にて兎美を出迎えたのは。
「よお!久しぶりだな、旭さん。」
『総務課』課長兼『特務課』課長代理の岸 裕二郎だった。予想外の人がいて驚く兎美と、けろりと頭を下げる隣の円。
今日の試験官は岸だった。彼は、戦闘の必要になる実技試験のあるときは駆り出されるらしい。今回は兎美も円も必要なので、包括的に試験官を請け負ったということだった。
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。」
丁寧にお辞儀をすると岸は嬉しそうに兎美に屈託のない笑みを向けた。
「よろしくお願いします。」
続いて円も頭を下げる。それに対しては少し不安そうな顔を見せる岸。
「芝谷の坊主、ちゃんと永坂に仕込まれてきたか?あいつは最終手段だぞ?」
岸は円の今までの試験も面倒を見ていたらしい。円は気まずそうに不安そうに、一応といった感じで頷いた。
先に筆記試験、その後実技試験といった流れになっているようで、兎美は少しハラハラしながら筆記を受けた。その場で採点され、こちらに受かっていれば実技にいけるらしい。
(大丈夫、大丈夫。みんな太鼓判押してくれたんだから。)
全く知らないわからない問題はなかった。だが、だからこそ不安になる。祈るような気持ちでドキドキしながら、結果を待った。
「2人ともお疲れさん、どっちも合格だ。訓練場に行くぞ。」
試験室にひょこっと顔を出した岸に、しれっと軽く言われて兎美は一瞬反応できなかった。円が席を立つ音で、なんとかハッとして立ち上がる。
筆記は問題なかったようだ。胸の中で喜びと感謝を噛み締めながら、兎美は実技の会場に向かった。
「じゃ、先に旭さん行こうか。」
拘束法は、すんなり終わった。兎美も円も問題なかったようだ。そして、2人は最後、実技試験に臨んでいた。今度は先に指名された兎美は歩み出すと深呼吸をして、ぺこ、と一礼。
「よろしくお願いします。」
岸の実力は未知数。今回は『異能』ありである。試験官は『異能』なしだが、どれくらいの出力が許されるだろうか。
その緊張が伝わったのか、岸はにやり、と口角を上げた。
「おっと、手加減はいらないぞ?誰が永坂に体術を仕込んでやったと思ってるんだ?」
初耳である。兎美が目を見開くと、岸は豪快に笑った。
「はっはっは、やっぱりあいつ言ってなかったか!俺はあいつの師匠ってやつだ。さすがにもう年齢的に厳しくて、負けが越しているが……そんじょそこらのお嬢さんに負けるつもりはないぞ。」
意図的な挑発。兎美の実力はなんとなくでも知っているだろうに。ただ、ここで乗らない兎美ではない。
「はい、そんじょそこらのお嬢さんじゃないので、全力で負かしてみせます!」
2人が構えて数秒。沈黙を破るように、ピッと円がホイッスルを鳴らした。
初動が肝心である。相手が何をしてくるかわからない場合、速攻で『異能』で押さえ込むのは、体力とウェイトに劣る兎美が取る常套手段。
『異能』を使おうと、バッと手を出した瞬間に、既に岸の膝が顔に迫っていて兎美は反射で避けた。冷や汗をかく。様子見なしだ。
「本来はその『異能』、食らっとかねえといけないんだがあ、あんたに対してそれをやると少々分が悪い。」
ニコッと笑いながらその猛撃。恐ろしい人だ。防戦一本に抑え込まれる。
忠直の師匠と言いながら、攻撃はその体躯を生かした力技。的確な一撃を叩き込む彼と正反対のスタイル。兎美の通常の蹴りではこちらの足の方が痛くなりそうだ。
読むまでもなくわかりやすいのに、避ける隙間が小さい。掠めた一撃が重い。『重さ』で押さえつければ、その勢いのまま振り切られて、こちらの方が危なくなるというパワープレイ。
それでもしばらく兎美は同じ攻防を続けた。相手が慣れるのをじっと待ったのだ。
岸がだんだん『重く』されても容易に対応できるようになったくらいで、彼女は切り替えた。
岸の蹴りが兎美の腹にまともに入った。避けられなかったことに驚いた岸が固まる。いや、その蹴りが止められている。
まずい、と気づいたときは遅かった。岸の体はひっくり返った。
兎美は切れた息を整えるために、はあ、と熱い息を吐いた。勝負はついた。
「……ははっ!お見事!油断した!」
地面に叩きつけられた岸はまた豪快に笑う。
最後、彼女が使ったのは『減らす方』。重い一撃なら、軽くしてしまえば痛くない。ここぞ、というときに蹴りに合わせて『異能』を使い、彼自身の体重を減らして投げた。
「『重くする方』を散々見せておいて、これはなかなか。いいな、旭さん、うちに来ないか?」
立ち上がって見つめてくるその目は半分本気だ。兎美は予想外のお誘いに驚いて狼狽える。
「ええと、あの。」
本気で悩む姿を見て岸は嬉しそうだ。兎美が困ったように見上げると、彼は緩んだ頰を引き締めて、真面目な声色で言う。
「わりと本当に欲しい人材だが、あんたを困らせたら永坂に怒られるからな。それに、あいつのことだから何かしら動いてはいそうだ。」
最後にぐしゃぐしゃと豪快に頭を撫でられた。忠直の優しさのあるそれと違う、岸らしい雑さ。
「お疲れさん、文句なしだな。おっと、悪い!うちの娘と同じくらいの歳だから、つい撫でたくなっちまうなぁ。うんうん、強い子があいつの傍にいてくれるのはありがたい。これからもよろしくな。」
髪をボサボサにされたが、その嫌味のない笑顔を見ると文句は出てこなかった。
「ありがとうございます。」
一礼して兎美は退がった。結果は円が終わった後にわかる。だから、あとは彼を見守るだけだ。
「よーし、芝谷の坊主。今の見てただろ。どうだった?」
始める前に岸に訊かれた円は兎美の方に視線をやる。
「すごかったっす。岸さんよりもずっと小さいのに、全く引けを取ってませんでした。……『力』の流れが、めちゃくちゃ綺麗でした。」
兎美は息をするように『異能』を使う。その刹那の切り替え、使い分けが、外から見ていると非常に美しいのだ。
「そうだったろう。あれほどの使い手はそういない。いいものを見れたな。」
岸がフッと笑って、構えろ、と示す。円は頷いて落ち着くために胸に手を置いて目を瞑る。
『君には期待しているよ。』
脳内に響く声。それに応えるために…。
『ね、これなら次は私を見失わないでしょう?』
突然、そう言って握られた手の温かさが想起されて円は混乱しかけた。心が掻き乱される。
目を開けて兎美の方を見ると、彼女は一旦きょとんとしたが、すぐに『がんばれ』と口パクで言ってくれる。
人の気も知らないで。円はムッと口を結ぶ。でも、彼女を見て自分の心臓が高鳴るのがわかった。彼女が視せてくれた『力』は、温かさはちゃんとまたここに。不思議と、心が落ち着いた。
「……行きます。」
スッと円の目が引き絞られた。
「よし、合否が出たぞ!」
試験を終えて、室内で結果を待っていた2人に岸が明るい顔でそう言った。彼は何かしらの資料を2人分持っている。兎美と円は顔を見合わせた。
「2人とも、合格だ。お疲れ様。」
思わずハイタッチをする。それを見て岸は嬉しそうに微笑んでいた。
その後は彼から説明を受ける。免許証になるものは、肌身離さずつけておくために、アクセサリーの形になっているらしい。事前に聞いていたことで、忠直はアンクレットだと教えてもらったことがある。
自分が持っているものでも構わないと言われたが、あのブレスレットを差し出す気にはなれず、兎美はイヤーカフを選んだ。円はピアスらしい。
「今日中に仕上がるとは思う。そう長くはかからんから、ここで待ってても構わんが……永坂が2人を待っていたぞ。」
岸の言葉で、2人は立ち上がった。
「ありがとうございました、岸さん。」
兎美はお礼もそこそこに、部屋を飛び出していく。円はその背を見つめ、何か覚悟したように息を吐くと、岸に頭を下げて出て行った。
「なんだなんだ、あいつら。……若いなぁ。」
1人フフッと笑ってから岸は手続きの書類を整え、部屋を後にした。
今は、昼休憩の時間だったらしい。兎美が息を整えて『特務課』の事務所に入ると、忠直しかいなかった。
彼は顔を上げて、彼女の明るい顔を見て大体のことを察する。飛び付かんばかりに寄ってきた兎美に笑いかけると、立ち上がり、早々にその頭を撫でた。
「聞くまでもないな、おめでとう。」
「言わせてくださいよ。受かりました!」
さながら、褒めて、と要求する子犬のようで。よくやった、と撫でてやると兎美は嬉しそうに微笑む。
「それで、あの。」
兎美が何かを言いかけたそのとき。バンッと追いついてきた円が荒めにドアを開け、ずんずんと忠直に向かって歩いてきた。ドアは優しく扱え、と言う間もなく、彼は忠直に詰め寄る。
「永坂先生。俺も受かりました。」
それを聞いて、忠直はまた頬を綻ばせる。
「それは」
「なので、また俺と手合わせしてください!」
忠直に何か言わせる隙を与えず、彼は真っ直ぐにそう言った。
そして、その勢いに気圧されて固まった忠直から目を逸らすと、兎美の両手を掴んで円は口を開く。
「旭兎美さん、もし、俺が先生に勝ったら、俺とデートしてください!」
円の目は真剣そのものであった。逸らせなくて兎美はぽかん、と口を開ける。
しばらくその場に沈黙が流れた。
「……それ、俺に勝つ必要あるのか。」
思わず忠直の口からまろび出た呟き。円は兎美の手を離して、彼の方をキッと睨みつける。
「俺、この人の前で先生に負けました。情けない姿を晒したんです。それを払拭しないと、好きだって言えません。」
忠直は頭を抱えた。もう言っているではないか。
「外の訓練場で待ってます。逃げないでくださいね!」
円はそれだけ言って、走って行った。ぽかん、とその背を見つめる兎美。頭を抱える忠直。
「……はぁ。」
忠直のため息で兎美はやっと我に帰る。
「行くぞ、旭。主役がいないのは可哀想だ。」
彼はため息混じりにそう言うと、事務所の戸締りをサッと済ませて、ドアを開ける。まだ、よく状況を噛み砕けないまま、兎美は忠直とともに訓練場へ向かった。
外の訓練場には、なぜかギャラリーがいた。なぜ。混乱する兎美の隣に、宵人が現れる。
「お疲れ様です。おめでとうございます、旭さん。」
彼にも筆記の勉強と拘束法の練習で助けてもらった。こちらこそ、と頭を下げると宵人は微笑んでくれた。
「で、御厨くん。これどういう状況ですか。」
彼は苦笑しながら事の経緯を説明してくれた。
まず、忠直の前に円の面倒を見ていた人に、円が兎美のことを相談。
面白がって、冗談半分で忠直に喧嘩を売れと唆す。
真面目かつ負けず嫌いな円は簡単に焚き付けられる。
「あいつマジでやったのか!」その人が興味本位で訓練場へ。
そんな感じで伝播してこんな騒ぎになったらしい。昼休みだったことも仇となった。
兎美は頭を抱えた。
「で、お姫様、ご感想は?」
宵人の隣から違う声。一巳がいたのだ。揶揄う気満々の表情に、兎美は顔を顰める。
「なんと言ったらいいのかわかりません。これ、なまじナオさんの『結婚騒動』より面倒くさいことになるのでは。」
同感と言ってから一巳はけらけら笑い出した。
「下手すれば主任は旭さんというカノジョができたから、婚約者と揉めて強引に噂流されたとか言われますよね。しかもその上、新入りからカノジョを略奪されかけていると。うわー、可哀想。」
完全に面白がっている。宵人と兎美が呆れたように彼を見た。
「ま、何はともあれ、旭さんおめでとうございます。」
そういう緩急は少しずるい。ありがとうございますと返して、兎美は2人に簡単な菓子の詰め合わせを渡した。
「ナオさんから、皆さん、甘いものは苦手じゃないと伺ったことがあるので。うちのやつです。手伝ってくださってありがとうございました。」
本当は杷子にも渡したかったのだが、彼女はこの場にいないようだ。それを察したのか宵人が教えてくれる。
「異局はですね、たまに男どもが男子校の悪ノリってやつに全力になるんですよ。上下関係が学生時代から続いてたり、俺みたいに子どもの頃から知られてる奴もいるので、仲が良いだけに変な団結力があります。」
確かに、騒いでいるギャラリーたちは楽しそうである。忠直は非常に嫌そうな顔をしているが。
「こんなところでも、あの人巻き込まれ体質なんですね。」
思わず同情してしまう。だが、それを聞いた一巳と宵人は顔を見合わせて笑い始めた。
「いえ、こういう悪ノリに巻き込まれるのはすごく珍しいですよ。あの人、回避できることはちゃんと回避するんで。今回は、まあ、看過し難い事情だったってことですね。あとは歳下に甘いから。」
一巳がニヤニヤしている理由はよくわからない。だが、とりあえず面倒くさいことになっていることだけはわかる。
「旭さんはどっちに勝って欲しいんですか?」
珍しく、宵人の目も悪戯っぽく光っている。え、と兎美は視線を泳がせた。
「そ、それは。」
訓練場の真ん中で、向かい合って何かを喋っている2人を見る。忠直は一切ギャラリーの方を見ないようにしているが、円とふと、目が合った。彼はじっとこちらを見つめてくる。その真っ直ぐさに息を呑んでしまった。
「……神のみぞ知るってことで……。」
「先生、手加減なしでお願いします。『異能』ありで。」
忠直と対峙した円はそう言った。目の前の男は腰に手を当てておいおい、とため息をつく。
「俺の『異能』くらいは縛っておけ。本当に秒で終わることになるぞ。」
それは、円を馬鹿にしているわけではない。忠直も伊達にここまで最前線を生き抜いてきたわけではないのだ。
『特務課』は、何かしら、特殊な変わった『異能』を持つ『異能者』の受け皿。テレパシーや瞬間移動など、大半の『異能者』が持ちやすいものでも、わかりやすいものでもなく、扱いづらい『異能』を持った者が流れ着く。
そのため、『異能』を推測されにくく、敵に行動を悟られにくいので、『異能者』による大きな事件が起こったときは、最前線を任されやすい。初手から殺しにかかってくる者もいる。自分より格上とぶつかることもあった。
そんな事務処理から荒事までこなさなければならない課で、忠直はしばらく1人で生き抜いてきたのだ。嫌でも強くならざるを得なかった。
手加減なし、ということは、『異能』ありでの全力の彼とぶつかることになる。
しかし、円はそんなことは知らない。煽られたと思ってさらにムキになる。
「俺のこと、舐めてるんですか。今回は、守るとかじゃなくて、本当に容赦なしの真剣勝負です。周りのことは気にしない。それなら、俺は強い。」
忠直はどうするかなぁと空を見上げた。勝っても負けてもなんとも言えない状況になるのはかなり苦手で。だが、手加減でもしようものなら後でどう言われるかわからない。それほどに円は真っ直ぐだ。
「先生は、旭さんのことどう思ってるんですか。」
ふと、投げられた質問。忠直が答える前に円が遮る。彼の目は兎美の方に向いていた。
「俺は好きです。一目惚れでした。可愛いし、あったかくて、柔らけえし、あんな細いのに強くて綺麗で。あの人を守れるくらい強くなります。」
その若さが眩しい。俺も歳を取った、と忠直は苦笑いを浮かべた。
「……あいつはな、守られてくれるような殊勝なタマじゃない。苦労するぞ、芝谷。」
兎美の方は見ない。見ずともわかる。たぶん、目が合えばこの目の前の青年にすごく大人げない勝ち方をしてしまうだろう。
「それなら尚更、全力のあんたに勝てないと。ぶつかってみないと。」
円の目は真っ直ぐだ。壁を設定したからには越えたい。がむしゃらにやれば、万に一つでも勝ち目があるかもしれない。そんな顔だ。
いい青さだ。忠直は微笑んだ。
「その真っ直ぐさ、どこかで折れるなよ。前に俺は言ったはずだ。お前が扱かれるのは、これからだ、と。」
忠直はフッと体から力を抜いた。
「おいで。その目に免じて、真剣に応えてやろう。」
忠直はあえて、彼を格下扱いしたのだ。円はその挑発に乗った。
ダン、と踏み出した円の足から地面に伝わる振動。油断していたギャラリーが転がった。
ズゥゥゥン、と広範囲に引き伸ばされた『力』。円は簡易的な地震を起こしたのだ。地に足がついている以上、逃れようがない。足から伝わる振動で、相手は痺れて動けなくなる。
はずだった。
しかし、一瞬で円は忠直を見失った。慌てて彼の気配を探る。
「面白い使い方もできるんだな。」
声は背後から聞こえた。円が振り向くよりも早く、じわ、と掴まれた肩が熱くなる。
ドッ ドッ ドッ ドッ ドッ
心臓の音が耳の中で響く。緩慢とした鼓動。気持ちが穏やかに、緩やかに眠たくなる。まずい、と思いながらも円は抗う術を持たなかった。
円が引き摺り込まれたそこは、真っ暗だった。ときどき光の差し込む、深海の如き穏やかさ。脳が揺れる。心臓の鼓動が、ぐらぐらと全身を揺らす。自分がぎゅー、と小さくなって、押し込まれていく感覚。抗えない眠気に、円はぐらり、と体を揺らした。
「おやすみ。」
勝負は本当に『秒』だった。円が踏み出した瞬間に忠直は消えた。揺れが止んだくらいで円の背後に現れた彼は、その肩に手を当てた。すると、円の体が揺れて、地に伏せる前に忠直が抱え上げた。
忠直は、自分の中にいくつかの感情のチャンネルを持っている。それに『合わせる』ことで、触れた相手をその感覚に引き摺り込むことができるのだ。先日の事件のとき、兎美を落ち着けるのにも使っていた。
ヤジを飛ばしていた人々は、あまりの瞬殺具合に皆、言葉を失った。
忠直はそのままギャラリーの方へ歩み寄ってくる。
「……満足か。」
円をベンチの上に寝かせて、静かにそう言い放った。誰も声を出せない沈黙。それを破ったのは。
「やだー!主任大人げなーい!」
一巳の声だ。それを皮切りにギャラリーは騒ぎ始める。
「そうだそうだー!」
「容赦なさすぎだ!」
「デートくらい新入りにさせてやれよ!」
「というか、俺たちにもデートさせろ!」
「永坂ばっかり可愛い子と戯れてずりぃんだよ!俺は池田ちゃん派だー!」
「俺にはほっぺにちゅーしてくれ!」
この流れは。忠直は顔を引き攣らせ、一巳を睨みつけた。彼は、狙い通りというようにニヤリ、と笑う。
「おい、一巳!ここで誰かが茶々を入れるのは、芝谷に失礼だろうが!」
宵人のフォローは遅かった。
ギャラリーの中でも、20代30代の男たちが兎美をバッと取り囲む。
「「旭さん!永坂に勝ったら俺たちともデートしてください!!」」
悪ノリここに極まれり、である。忠直は顔を顰めて頭を抱えた。
兎美の返答も聞かず、男たちは早々におっぱじめようと、じり……と忠直ににじり寄る。
「おい、あいつ押さえつけろよ。」
「数でいけばいける。」
「その後はお前らも敵だからな!」
渦巻く煩悩の中心にいる忠直は、こめかみを押さえながら、長いため息をついた後。
「はいはい、わかりましたよ。お前らにも手加減はいらねえってことだよな。」
彼の表情は見えなかった。
その後はもう、しっちゃかめっちゃかだった。兎美は、宵人、一巳と並んで忠直が気持ちいいぐらい洗練された動きで、屈強な男たちをのしていく光景を眺めていた。途中で杷子も加わる。
「なんか、すごいことになってるって聞いたんですが……まさか、主任が暴れてらっしゃるとは。」
彼女は目を丸くしていた。こういう騒動は本当に珍しいらしい。
「まー、主任もいい息抜きになったっしょ。事務仕事と結婚騒動で相当、鬱憤溜まってたからな、あの人。」
この騒動を作り出した原因である一巳はけらけら笑っていた。
呆れた宵人がその頭を強めにはたくと、彼の首根っこを掴む。
「は!?ちょ、よいっちゃん何する気!?」
「旭さん、こいつ軽くしてください。投げ込んできます。ついでに相手してもらってきます。」
ずりずりと引きずられていく一巳。兎美はもうなんとでもなれ、と言われた通りにして、彼が投げられる様を穏やかに見守った。
「杷子ちゃんは行かなくていいんですか?」
いつの間にか忠直は、半分ほど片付けていて、残った連中と途中参加の宵人と一巳のコンビに苦戦しているようだった。
「いえ、私は。さすがにあの手のつけようがなさそうな主任のところに飛び込む勇気はないです。」
そうですか、と言って兎美は駆け出していく。杷子は目を見開いてその背を見送った。
「とうっ!」
忠直の背を狙おうとしていた男の背中を、兎美が蹴り上げた。
彼は少しだけ口角を上げると兎美の方を見もせずに、呆れたように言った。
「お前のためなんだが。」
「来るのわかってて止めなかったじゃないですか。」
最初からその場にいたかのように、兎美は忠直の援護に入る。揉みくちゃなので、もう誰も兎美の乱入を気にする者はいなかった。
「よくもまあ、こんな汗臭い場所に飛び込んでくるよな。物好きめ。」
そう言いつつ、とん、と背中がぶつかった。2人でちゃんと暴れるのは、先日の事件以来だ。
スッと背後から消えた気配がどこに行くのか、兎美には視える。彼の狙う先を押さえつけ、現れたその背を使って、掴もうとしてきた相手の上から蹴りを叩き込んだ。
最後に残ったのは宵人と一巳。なんだかんだ、全員楽しそうだ。
「私も行けばよかったかなぁ。」
ぼそりと呟いた杷子の横で、むくりと円が起き上がった。
「……どうしてこんなことに。」
彼は悲しい独身男たちの屍の山と、じゃれ合う4人を見つめて呆然とする。
「あ、起きたんですね、芝谷くん。ようこそ、『特務課』へ。」
杷子が1つの封筒を彼に差し出した。それは、配属先の書かれた書類。
「『人事課』に託されました。ふふ、こんな賑やかな課です。よろしく。」
芝谷 円を『特別異能業務課』に配属する。
そんな旨のことがつらつらと書かれた書類。円はそれを封筒に片付けて、ぼーっと、これから上司になる男たちを眺めた。
「……さすがに、疲れた。」
忠直はしゃがんで息を吐いた。最後の意地で膝を突きはしなかったが、体がだるい。
「お疲れ様です。立てます?」
兎美に手を差し出されて、大人しく甘えた。最後に残った宵人と一巳は強敵であった。何せ、2人でいると連携が上手いのだ。それに、宵人の目には忠直の『異能』が通用しにくい。
「いやー、すごいなぁ。死屍累々(ししるいるい)ですね。楽しかった。」
忠直は隣で伸びをする兎美を呆れた目で見つめた。
「これで楽しかった、って感想が出るから呆れたもんだ。」
兎美は心外という顔をして、忠直の肩をどつく。
「久しぶりでしたからね、背中を預けてもらうのは。」
「お前は俺の背中を蹴り上げて踏み台にしてただろう。」
そこでやっと忠直はフッと笑顔を見せた。兎美も笑うと彼の腕を引く。
「ナオさんは私に何をして欲しいんですか。」
そういえばそういう目的で戦っていたんだったか。そんなことは忠直の頭からすっかり抜けていた。
「……俺は特に何も約束していないからいい。連中の言に乗っかるのは癪だが、結局大人げなかったらしいからな。芝谷の方にちゃんと向き合ってやれ。アホどもが入ってきたせいで有耶無耶に、は気の毒だ。」
忠直が顎でしゃくった先には、こちらをじっと見つめている円がいる。兎美は彼の真剣な目を思い出して頷くと、彼の方へ向かって走った。
「芝谷くん。」
兎美は立ち上がった彼と向き合う。空気を読んだ杷子は離れてくれた。
「私は、今、恋愛とか考えていなくてですね。前向きな返事はできません。ごめんなさい。」
頭を下げ、上げて見えた円の顔は。
「……それは、先生とも別になんともないってことですか?」
依然として変わらなかった。むしろ、まだチャンスがある、と漲っているようだった。兎美はその真っ直ぐさに狼狽える。
「な、ナオさんは、その。私が一方的に、ちょっと気になるだけです。……でも、いずれにしろ、芝谷くんのことは。」
その先は言うな、とばかりに円に手を掴まれた。
「まだ、俺に1%でも残ってるなら、振らないでください。だって、出会ったばっかりだから、振られるのなんて当たり前です。いつか、振り向かせてみせます。」
これは。兎美ははぐらかせない、と首を横に振った。喉が、痺れ始めている。でも、こんな真っ直ぐな子にくらい言わないと。彼女は円の手を解いた。
「それは、ダメです。私、その『いつか』には応えられ、ませんから。あなただけじゃなく、ナオさんでも、です。ごめんなさい。」
言い終わって、兎美は咽せかける。しかし、痛みを堪えてなんとか微笑み、深く頭を下げた。
その様子から何かを察したのか、彼はそっと引き下がってくれる。顔を上げると切なそうな目と目が合って胸が痛くなるが、振った側が傷つくわけにはいかない。
走り去っていくその背中に何も言うことはできず、兎美は少し項垂れた。
特務課の面々は、伸びている人々の手当てに回っていた。兎美はそれに混ざる気分にはなれなくて、付近にあったベンチに座ってただ眺める。
さわさわと、5月の風が木々を揺らした。昼休みが終わり、静寂が訪れたこの場は静かで木陰と日向の塩梅が心地よい。
雲が流れていく。少しずつ、倒れていた人々が起き上がり始めたのが見えたくらいで、兎美は後ろから声をかけられた。
「よ、旭さん。だいぶお疲れのようだ。」
岸だった。兎美が免許を取りに来なかったのでわざわざここまで来てくれたらしい。
「永坂が派手に暴れたんだって?あいつもまだ若いな。」
彼が紙袋と共に差し出してくれたお茶のペットボトルは冷たい。飲む気になれず、ただ手の中で弄んでいると岸も隣に座って、忙しなく動く彼らを眺めた。
「うちの悪ノリに付き合わせてすまないな。あと、芝谷をちゃんと振ってやってくれてありがとうな。」
なんでそのことを。兎美が驚いて岸の方を見ると、彼は穏やかな目でニヤリと口角を上げる。
「目を腫らして俺んとこに免許取りに来たからよ。大方わかった。……あんたが落ち込まなくていい。期待を持たせる方が残酷なこともある。」
さわさわと、風が前髪を揺らす。この心地よさももうすぐ梅雨になって、じっとりとしてしまうのか。
じんわりと体に染みる沈黙。兎美の頭の中には、先程の円の切ない顔が残っていた。でも、考えているのは別の人のこと。
「……岸さん、私、ナオさんにもひどいことをするかもしれません。いや、現在進行形でしているのだと思います。」
それは、無意識のうちに口から飛び出していた。なぜ、岸にそんなことを言おうと思ったのかはわからない。彼なら何も言わずに聞いてくれると思ったのかもしれない。
兎美の視線の先にいる忠直は、起き始めた人々を正座させ、説教を始めていた。呆れたような表情で、大人の悪ノリで円の真剣な想いを踏み躙るな、と。
遠く聞こえるその声は、誰かのためにはいつだって真っ直ぐなのだ。
「そんな、私を、彼は許してくれるでしょうか。」
岸は兎美の表情を窺って、ふむ、と顎を撫でた。少し間をおいて、彼は口を開く。
「……旭さん、俺にはな、2人、娘がいるんだ。」
何の話だろうか。隣の壮年の男性は、少し物悲しい顔をしている。
「どちらももう成人しててな。あんたくらいの歳の子らなんだが、本当はその下にもう1人、男の子がいた。」
過去形、ということは。
「死産ってやつだ。その影響で俺は荒れに荒れてな。『捜査課』でばりばり前線にいた時代だったが、頭に血ぃ昇っちまって、とんでもねえミスをした。新人らの命を棒に振るところだったんだ。」
岸の視線が忠直に向いた。そして、細まる。
「そのとき、命令違反を起こして、新人どもを救ってくれたのが永坂だ。というか、その新人の中にいたんだ、あいつは。まだミスに気づいていなかった俺は、永坂を叱り飛ばした。そのときあいつ、なんて言ったと思う?」
命令違反を起こした、ということは岸のミスに気づいたということだろう。反論したのだろうか、逆ギレしたのだろうか。でも、どちらも忠直らしくない。彼ならば。
「……素直に謝った、とか?」
岸は、くしゃ、と笑った。
「大正解。あいつは素直に俺に対して頭を下げた。その後、ミスに気づいた俺が謝りに行ったら、『命令違反は良くないことなので、岸さんは間違っていないと思います。そしてあなたのミスを叱るのは俺の役目じゃないので。』と返された。」
すごく、無機質な態度だ。間違ったことは言っていない。しかし、他人のミスで命を棒に振られ、その上叱られたのに、その態度は少し無機質すぎやしないだろうか。
「変なやつなんだ、あいつは。自分の受けた傷よりも、他人の受けた傷の方が痛い。理不尽な怒りをぶつけられたことは、新人どもを救えたことに比べたら、どうでもよかったらしい。」
一旦そこで言葉を切る。岸の視線に気づいて兎美が見返すと、彼は彼女を安心させるような優しい顔をしていた。
「あいつにとっては、お前さんがいてくれるだけで幸せだったりする。それを失ってしまったとしても、お前さんのくれた幸せを忘れるやつじゃない。だから、あまり気にしなくていい。好きに振り回してやってくれ。あいつが自己主張をしている相手は久しぶりなんだ。」
それだけ言うと岸はまた忠直の方に視線を戻す。兎美もそちらを見ると、やっと説教が終わったのか、ぞろぞろと解散し始めていた。
「急にこんな話をしてしまってすみませんでした。ありがとうございます。」
申し訳なくなってきた兎美がぺこ、と頭を下げる。すると、岸はいやいや、と両手を振った。
「気にしなくていい。あいつは俺の大事な息子みたいなもんだからな。こちらこそ、こんなおっさんに付き合ってくれてありがとうな。」
彼は悪戯っぽく笑った。兎美が顔を上げると、忠直がすぐそこまで来ているのが見える。彼は少し離れたところで岸に向かって頭を下げた。
「おう、永坂。大層な大立ち回りだったらしいじゃねえか。今度また俺の相手もしてくれ。」
岸は立ち上がって彼に近づいていくと、何やら話をし始める。
兎美は手の中で少し温くなったお茶を口に含んだ。汗の引いた体は今更疲労感を訴え始める。
(なんだか、すごく眠たいな。)
ふわあ、と間抜けに欠伸をして背伸びをした。
「大きな欠伸だな。」
いつの間にか岸と話し終えていた忠直が目の前に立っている。兎美は恥ずかしくなって、今更口に手を当てた。
「怪我は?擦り傷程度か。」
暴れ回ったときのものだろう。忠直は兎美の前にしゃがむと、見える部分の傷を消毒液を染み込ませたガーゼで拭いて、絆創膏を貼った。
「ナオさんの方がひどかったんじゃないんですか?ご自分の手当ては?」
御厨にしてもらった。それだけ言って、彼は兎美の隣に座る。
「疲れた。」
誰もいなくなった訓練場。2人で並んでぼーっとする。
「お仕事に戻らなくていいんですか?」
兎美が訊くと、嫌そうな顔をされた。
「ちょっとくらいサボってもいいだろ。早岐がいつの間にか手を回してて、『特務課』は訓練中ということになっている。」
悪知恵がはたらく一巳らしい手回し。だが、そのおかげで忠直の顔には幾分か余裕が生まれている。
「まったく。大人の悪ノリで、あいつの大事な想いを蔑ろにしやがって。こういうところはどうかと思うぞ、俺は。」
呆れ切った口調だ。そこに関しては当事者である兎美は特に笑えなくて、ただ聞くだけにしておいた。
「旭、そういえばまだつけてないのか。」
耳を示されて、兎美はあ、と口を開く。先ほど岸に渡された紙袋の中にいくつかの資料と、箱。中には免許証となるシルバーのイヤーカフが入っている。
「すごいですね。これが免許!画期的。」
きゃっきゃっと無邪気に喜ぶ彼女の顎を、忠直はそっと押さえた。するり、と邪魔な髪を耳にかけられる。動けない兎美の手の中の箱を忠直が奪うと、左耳に冷たい感触。
「ああ。いいんじゃないか。」
そっと手が離れていく。その瞬間、兎美は忠直と距離を取り、ベンチの端っこに素早く移動した。
「あ、あ、ああ、ありがとうございます。」
しどろもどろになって目を伏せる。兎美が横目で忠直の動向を確認すると、彼は少しショックだったようで、自分の手をじっと見て、
「悪い、汗臭かったか。」
と謝ってくる。匂いとか、そういうことを考える隙も与えなかったくせに。睨んだって彼には伝わらないだろう。兎美は悔しくなって、むくれた。
「そういうんじゃなくて、急に触られると驚きます。いくら犬みたいだからって。」
いじけたように言うと、忠直は少し悩むように腕を組んで黙ってしまう。
停止した彼に、もう一度そろ、と寄って行ってつんつん、と爪先でその靴をつついてみる。忠直はそれを見て視線を彷徨わせると、頬杖をついた。
「犬って最初に呼称したのは俺だったかな。」
いつだったか。たぶん、共同生活中だろう。忠直は兎美をはぐらかすつもりで『忠犬』という言葉を使った。だんだん、冗談抜きで彼女が懐いた犬のような可愛さを見せ始めたのは予想外だったが。
「……それは、間違いだったかもな。」
忠直が頬杖をついたまま兎美の方を向く。さわさわと木々のざわめき。彼は見たことのない顔をしていた。
「なあ、旭。話があるんだ。」