二話 犬と鼠
『もしもし。』
電話に出た彼の声はいつも通りで、兎美はなんとなくそわそわした。
「も、もしもし、旭です。」
思わず名乗ると笑われる。知ってる、と。
免許の勉強を始めて2日が経っていた。勉強は苦手だが用意してくれた問題集に、律儀にいちいちコメントや覚え方を書いていてくれるのが楽しくて、気がつけばいつの間にかちゃんと勉強していた。彼が学生時代に得た知識で作ったというそれは、自分の知らない彼が顔を覗かせるから楽しい。
『どうした?どこかわからないところか。』
兎美は見えないとわかっていても頷いた。
「はい。ちょっとここと、ここがですね。」
訊くと、丁寧な解説が返ってくる。ふむふむ、と頷きながら兎美がメモを取っているところで、それは起きた。
『…おい、忠直、…が…だぞ、おい。』
うまく聞き取れないが、彼の声の奥で女の声がした。しかも呼び捨て。めちゃくちゃ気安い。兎美はついぎょっとした。
『悪い、旭。ちょっと待ってろ。』
しん、と彼がミュートにしたのか音がなくなる。彼女は携帯の画面を見つめて思わず正座した。
(……いやいや、ナオさんに気安い女の人がいたって全くおかしくないから。落ち着け、私には関係ない。)
そう、あの家で、寛いでる彼と女の人が一緒に過ごしていたって、何もおかしくない。そのまま、夜だから何か起こったって、健全な成人男性で、独身なんだから何もおかしくない。
(……考えるな、雑念を消せ、考えるな。)
自分も健全な成人女性で、独身で、2人で過ごしていた。それなのに何も、なんて考える頭を自分で殴った。
バタバタと1人で暴れていると、ふと、自分の部屋の収納の上に置いている一輪挿しが目に入る。それは、彼がくれたチューリップ。立ち上がって、それを眺めていると幾分か落ち着いた。
(私には、何か言う権利なんてないんだから。)
優しくその花弁に触れる。つやつやしてて、柔らかい感触。兎美はホッと息を吐く。
『旭、待たせて悪かった。……旭?』
携帯から彼の声が再び聞こえて、兎美は深呼吸を一回。それから応じた。
「はい。旭です。います。」
彼は特に何も思わなかったらしく、そのまま続きから解説してくれる。兎美は集中しようとするとすぐにモヤッとしてしまって、雑念を追い払うのに必死で、とりあえずメモだけはきちんと取った。
『あとは……これだけか。理解できたか?』
「はい。お忙しいところすみませんでした。」
皮肉を混ぜたつもりはない。それでも忠直は少し沈黙を作る。
『……旭、違うからな。誤解するなよ。』
兎美は一瞬固まり、すぐに笑い始めた。
「大丈夫です。というか、私にわざわざ言い含める必要はありませんよ。」
平気なフリをして利口な女を装う。今ばかりは犬でよかった。
「お時間取らせてすみません。ありがとうございました。」
こちらから切るのはどうかと思って待っていると、忠直が奥でため息をついたのがわかる。どうしたのだろうか、と様子を窺うと、彼がいや、と少し困ったような声で言った。
『悪い、なんでもないよ。また何かあれば訊け。おやすみ、旭。』
そう言ってから彼は電話を切った。兎美はなんとなく様子がおかしかったな、と思いながら携帯の画面を見つめる。
彼に好い人がいてもおかしくない。そのくらい、普通だ。モヤモヤしていたのに、最後の「おやすみ」で全部どうでもよくなってしまった。
(それを言ってもらえる立場にいるだけでも贅沢だから。)
兎美はぎゅっと携帯を抱き締める。そして問題集に向き直ると、見慣れ始めた彼の字。兎美は最後のページまでめくってふふふ、とにやける。そこには、彼の筆跡で「頑張れよ」と一言添えられているのだ。
兎美はメッセージを開いて、言いそびれた「おやすみなさい」を彼に送っておいた。
今日は朝から、ということで兎美は軽く欠伸をしながら異局に来ていた。前回と同じく、上森さんと下川さんが出迎えてくれる。
「あ、旭さん。おはようございます。永坂主任ならそのうち来られると思うので、そちらに掛けてお待ちください。そうそう、あそこに座ってる男の子、彼も今回参加するみたいですよ。」
示された先に、少し不機嫌そうな青年が座っていた。染めたてといった感じのツンツンした色素の薄い髪の毛。大きめの目。まだ10代かそこらに見える。
兎美はそこで忠直が前回言っていたことを思い出した。もう1人いるかもしれない、と。
(あ、ナオさんの予感当たっちゃったのか。)
気の毒なことにまた、『面倒事』が飛び込んできてしまったらしい。兎美は苦笑しながら、促された方向にある椅子に座った。
しばらくぼうっと、何も気にしてない顔をして待っていたが、先程からずっと視線が突き刺さるような気配。彼女はそろ、と青年の方を横目で見た。こちらをガン見している。
(……何か、しただろうか。)
気にしていない顔をするのにも限度がある。それに、まだ忠直の気配は遠かった。耐えきれずに兎美は口を開く。
「ええと、どうかしました?」
笑顔を作ってそちらを見る。目が合っても青年は動かない。というより固まっているようだった。
兎美は首を傾げる。どういう反応なんだろうか、これは。彼女は青年の座っている長椅子の方に近づいて、少しだけ距離を空けたところに座って彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、ですか?」
青年はビクッと肩を震わせ、のけぞる。そして彼女から目を逸らすと、言うことに悩んだのかしばらく口をもごもごさせて、決心したように吐いた。
「お、お前みたいなちびっこいのも『異能者』なのかよ。」
『お前』?『ちびっこい』?
「なっ!?そ、そこまでちびっこくないです!!平均ですもん!」
兎美は思わず身を乗り出して詰め寄る。青年はぎょっとしてさらにのけぞった。
「は、離れろ!近い!」
「撤回してください!というか、失礼じゃないですか!」
そのままギャーギャーと押し問答を続ける2人。受付の女性たちが少しおろおろし始めたくらいで。
「旭。芝谷。」
忠直が現れた。彼の一声で2人は同時に振り向く。
「こんなところで騒ぐな。迷惑だろう。」
普通に怒られた。兎美も芝谷と呼ばれた青年もしゅん、と落ち込む。
「すみません。」
項垂れた兎美。そっぽを向いた芝谷青年。忠直は違うタイプの犬が2匹いるな、なんて考えながら受付に謝ると、2人の方に近づいてきた。
「もう仲良くなったのか?楽しそうなのはよろしい。遅くなって悪かった。行こうか。」
仲良く?兎美は立ち上がって首を横にぶんぶん振る。
「な、仲良くないです!この人失礼です!」
憤懣やるかたなし、といった様子の彼女に向かって、忠直は人差し指を口に当てると、「しぃーっ」と示した。
「後で聞いてやるから落ち着きなさい。ほら、芝谷も立て。」
忠直の言葉に素直に従って青年は立ち上がる。兎美はその子ども扱いがすごく気に入らなくて、歩いていく忠直の背を睨みつけると、とりあえず大人しくついて行った。
3人はあの訓練施設を訪れていた。今度は一階の広めの一室だ。
「今日はまず実技演習を行う。午後から筆記演習だ。」
前回、体術は問題ないと言われた兎美だが、まったく練習していないのは怖かったので、忠直に頼んでおいたのだ。
「そういえば、2人は自己紹介がまだだったよな。一応名前くらい教えておけ。」
忠直に促されて、兎美は一定の間隔を空けて隣に立っている青年を見る。彼は兎美とあまり目を合わせないようにしているようだった。それにまたムッとしながら兎美は先に名乗った。
「旭兎美です。よろしくお願いします。」
ぺこり、と頭を下げる。確かに青年は兎美より10数センチほど背が高いようだが、忠直よりは低い。
(……ナオさんが大きいんだな。)
もうあまり意識していなかったことだが、見慣れきった無愛想な男は体格がいい。立っているだけでそこそこ威圧感がある。
「芝谷 円。……よろしく。」
対して円と名乗ったこの青年は、わりと愛嬌のある顔立ちで、生意気さは年相応なのだろう。無愛想なのは同じでも、出会った当初の忠直よりも近づきがたさはない。だから、余計になぜか突っかかりたくなってしまうのだ。
「芝谷。旭はお前より歳上だ。許可を得ているなら無粋なことは言わんが、あまり礼を欠いてやるな。」
兎美が不満げな顔をしている原因がわかっている忠直が苦笑しつつ、注意を入れてくれる。それを聞いた円が目を丸くした。
「は!?この人酒飲めるんすか!?」
「し、失礼じゃないですか!本当に!!そこまで子どもっぽいですか、私は!」
また言い合いを始めそうだった2人を止めて忠直は笑う。
「仲良くなれそうでいいな、2人とも。」
「「仲良くなりたくないです!」」
兎美には、綺麗にハモるのも、忠直がくすくす笑うのも腹立たしかった。
「じゃあ始めるか。まずはどちらからいこうか。」
体術指導といって何をするかというと単純な組み手である。本番ではもちろん『異能』の使用が許可されているが、今回は一旦素の身体能力を見たいということで、『異能』の使用なしというルール。
忠直と背中を合わせて戦うことはあったが、拳を向けることは無かった。だから、実は兎美は少し緊張していた。いや、少し違う。緊張と高揚が混ざり合った変な感じ。
忠直はそんな彼女の目を見てため息をつく。
「芝谷が先だな。」
指名された円は前に進み出ながら兎美の方をちらりと見た。
「……あの人、戦えるんですか?あんなんで?」
兎美はそこまで小柄ではない。平均身長より少し下といった具合である。ただ、痩せ気味なのだ。人の目に華奢に写るせいでつい、小さく見られがちになる。
忠直は気持ちはわかる、と目を細めた。
「人を見た目で判断するのは、特にこの『異能』のある社会ではおすすめしないな。ともすれば、あいつは俺より強いぞ。」
肩をすくめる忠直の評価を聞いて、円は目を丸くする。とてもそうは見えない。先程まで子どもじみた喧嘩をした相手が、目の前の男より強いなんて。
「まぁ、後で見ておけ。始めるぞ。気を抜くな。」
忠直の顔からスッと表情が消えた。彼の攻撃は読みづらい。大きい体躯に似合わない、繊細な流れで仕掛けてくる。
そもそも、忠直は『姿を消すことができる異能』の持ち主だ。当たる前提で動ける彼は、素早くないのにぬるりと相手のペースに入り込む。その動きは最小限でスマート。
だが、こちらは逆に冷静に攻撃を見極められて、円は焦った。つい、無駄な動きが増えてしまう。
「芝谷、焦るな。ちゃんと相手の行動を読め。」
見透かされてムッとする。忠直はあえて円を仕留めていないのだ。わかってはいるが、当たらない。ムキになると周りが見えなくなる。
「……ふむ。」
拳を突き出した瞬間、いなされて間抜けによろける。あ、と思ったときには遅く、胸ぐらを掴まれて投げられた。
背中に叩きつけられた感触。しかし、あまり痛くない。綺麗に投げられたようだ。円は放心した。遊ばれただけで終わってしまったような感覚に、悔しくて歯を食いしばった。
「お疲れ、芝谷。立てるな?」
忠直はパッパッと服の皺を伸ばす。息も上がっていない。それもそのはず、5分持たなかった。
「……はい。」
体を起こした彼に忠直は所感を伝える。
「悪くないな。相変わらずよく動ける方だ。だが、甘い。すぐ頭に血が昇る。『異能』を制御するには感情の制御も大切になる。落ち着くことを覚えろ。何かしらルーティンをつけたらいいかもしれない。」
悪くない、と言われたにも関わらず円は不満そうだった。忠直は一通り言い終えた後、軽く笑う。
「褒め言葉は素直に受け取れ。扱かれるのはまだまだこれからだからな。」
円は頷いて一礼すると退がった。
それを見届けてから忠直は兎美に目を向けた。そして、嫌な顔をした。
「えっ、なんですか、その顔!」
彼女はむくれる。円のときと態度が違う。
「……お前、やる気満々じゃないか。」
それの何が嫌なんだ、と眉間に皺を寄せると忠直にため息をつかれてしまった。
「お前に対しては手加減とか無理だからな。指導する余裕なんてない。」
兎美はキュッと目を細めると、腕捲りをする。それを見て忠直はさらに嫌な顔をした。どうやら、焚き付けてしまったようだ。
「上等じゃないですか。『異能』ありにしてあげましょうか?」
「何気なく煽るのをやめろ。『異能』ありにしたって、お前に対してはあんまり意味ないだろうが。」
言いつつ、忠直の体からゆる、と力が抜けた。こちらも腕捲りをする。やりたくはないが、やらないといけないと覚悟はしたらしい。
「……来い。」
それを皮切りに兎美は足を振り上げた。鼻先を掠めた攻撃に忠直はまた嫌な顔をする。
兎美の攻撃は速い。『異能』がない分、重たさはないが。
「お前な、訓練で的確に急所を狙うな!」
容赦もない。眼球を狙った一撃。思わず冷や汗をかく。
「当てないので大丈夫です!」
そう言い放つ兎美は実に楽しそうであった。お互い、なんとなく手の内が読まれている。だから、急所くらい狙っていかないと決着がつかない気がした。
忠直の方がリーチはずっと長い。だが、それにかまけていると兎美は懐に入り込んでくる。その首根っこを捕まえた。持ち上げるが、そのまま蹴りを放たれて、顎に喰らう。
「ッ。」
ほんと、彼女の身体能力はどうなっているのか。というより、忠直が掴むのがわかったのだろう。だから、それに合わせたのだ。
2人の組み手は、収拾がつかなくなってくる。だんだん、仕留めるための一撃というより、じゃれあいのようになり始めた。予想通り、お互い手が読めるので決着のつけようがないのだ。
だが、そんな膠着状態から、体力に劣る兎美がほんの少しよろけた。その隙を逃さず、忠直はその腰を捕まえ、ひょいっと持ち上げる。さすがに対応できず、兎美はじたばたした。
「やっと、捕まえたな。はぁ……。」
息を切らした忠直がため息をつく。
「なっ、決着ついてませんよ!何終わった感を。」
暴れる兎美だが、彼女も疲れているので彼の手から逃れるほどの体力がない。
「決着って……。そもそも俺はお前には体術指導は必要ないと言っていた。上出来だ。何も教えることはない。本番で間違っても急所に当てるなよ、ってくらいだ。」
とすっ、と降ろされて、乱れた服装を軽く整えられる。不満そうな兎美に対して、しょうがないな、というように忠直は彼女の前髪をめくって軽いデコピンをくらわせた。ちょっとだけ痛い。
「はい。決着。お疲れ。」
仕上げにぐしゃぐしゃ、と頭を撫でられる。それだけで絆されてしまって、兎美は大人しく礼を言って退がった。
「まず旭は問題ない。というよりもう相手をしたくない。疲れる。」
2人の前に立った忠直は先程の評価を述べ、円に目を向ける。
「だが芝谷。お前が3回も落とされた理由はなんとなくわかった。そうだな、旭、協力してくれ。」
私?と兎美は自分を指差した。忠直は頷いて、懐から『異能封じ』を取り出す。
「芝谷は誰かがいる前提で動けていない。周りが全く見えていないんだ。仲間との連携もだが、俺たちは誰かを助けないといけないことも多いからな。相手を拘束することができても、助けるべきであった人を死なせました、じゃお話にならないんだ。わかるな?」
忠直に振られて、円は大人しく頷いた。そういうふうに説明しながら、兎美を縛ろうとその手をとった忠直は、何かを思い出したように固まる。
「そういえば、俺がしない方がよかったんだったか。」
呟くように言われて、兎美は前回を思い出して赤くなった。
「べ、別にされるのは。」
平気です、という言葉はすぼんだ。手首のくびれを確認するようになぞられたからだ。ビクッと肩を跳ねさせると忠直は驚いたようで、悪い、と謝る。そして、円の方を見た。
「確認がてら、芝谷に頼むか。悪いが、よろしく。」
忠直が円に『異能封じ』を差し出すと、彼は明らかに狼狽える。
「え、お、俺ですか!?」
円は兎美の方を見た。彼女は忠直の言葉にホッとしているようで、円の方をけろりとした顔で見つめている。
「……やります。」
なぜかムッとしたように忠直から『異能封じ』を受け取ると、円は恐る恐るといったように兎美の手を取った。そして、それを見つめて固まる。
謎の沈黙が流れた。忠直と兎美は首を傾げる。
「ええと、芝谷くん?」
兎美の声に円はビクッと肩を跳ねさせた。そして、彼はどこかしどろもどろになりながら、言い放った。
「う、うるさい。めちゃくちゃ白くて細いとか、いや、う、やっぱりちびっこいじゃねえか!」
兎美のこめかみに青筋が立つ。やはり失礼である。しかもうるさいと言われるほど何も言っていない。
「ちびっこくないですってば!もう!」
怒ってそっぽを向く兎美。少し頰を染める円。それを見ていた忠直は吹き出した。
「芝谷、逆だ。落ち着け。」
あたふたし始める円の横について丁寧に確認をする忠直。その甲斐あって、なんとか拘束することができる。
「普段は、大丈夫なんだよな?芝谷。」
その手つきに不安を感じたのか忠直が一応確認をすると、円は真っ赤になりながら何度も頷いた。
「旭、痛くはないか?」
訊かれて兎美も頷く。少しきついが我慢できないほどではない。よし、と忠直は2人を連れて部屋の真ん中あたりに立った。
「今から、旭を要救護者に見立てて演習をしよう。旭、お前は動くなよ。まあ、そのために一応縛りはしたが。芝谷の近くに控えていろ。」
兎美は返事をして円の近くに移動する。
「芝谷は俺から旭を守りきれ。『異能』の制限なし。なんでもありだ。俺は使わない。制限時間は5分。」
円は兎美の位置を確認して、また彼女をじっと見つめた。何かの確認だろうと思って兎美は大人しく動かず、視線だけ逃がした。その先にいる忠直がまた笑いを堪えているのが気に入らなくはあったが。
「……大丈夫です。よろしくお願いします。」
円の言葉に忠直は静かに頷く。
「よし。始めるぞ。」
兎美の目に円の体に『力』が凝縮されるのが視えた。綺麗な『力』だ。それはぎゅっと引き絞られ、忠直に向かって放たれる。弾丸のように飛び出したそれは彼に当たって。
「……ッ。」
忠直が頭を押さえてよろけた。飛び出した円の蹴りをまともに喰らう、はずだったが、しっかりガードが間に合っている。
「……面白いな。」
円の『異能』は『振動』。『力』を引き絞って当てれば、対象に痺れのような感覚を与えることができるのだ。
忠直が体勢を立て直す前に円は飛び退いて兎美の方へ戻ってくる。彼はもう一度忠直を狙うが、今度は避けられた。
「遅い。俺に視られるようでは駄目だ。」
円の手が忠直の右肩に触れる。じぃぃん、と痺れて顔を歪める忠直だが、懐に入ってきていた円の脇腹を蹴り払った。
「『異能』に頼りすぎるな。動きが雑だ。」
忠直の目は冷静であった。『異能』ありになった途端、円は連発してくるので動きが雑になっている。
しかし、円の頭の中では先程忠直に体術で完敗しているので、『異能』でのハンデを生かすしかないという思考になっている。
忠直からの追撃を喰らう前に、苦し紛れに円は『異能』を放った。
わかりやすい攻撃だ。しかし、忠直は避けなかった。痺れの残る右腕で一際強いそれを受け止めて、さすがに膝をつく。
円は目を見開いた。
「なんで、避けないんですか。」
忠直が立ち上がる。その目には呆れが滲んでいた。
「はぁ……。おい、芝谷。旭は今どこにいる?」
円はそれを聞いてハッとする。兎美は今忠直の後方にいるのだ。彼が避ければ彼女に当たっていた。
もちろん兎美ならば避けることができたであろう。しかし、これは演習。本番では兎美の位置にいるのは。
「一旦中止だ。こいつが使い物にならん。」
忠直は右腕を指差してため息をついた。
「どうぞ。」
兎美は円にお茶を渡す。彼は彼女の方を見て、ハッと馬鹿にしたように笑った。
「慰めのつもりかよ。」
円は先程、忠直からきっちりと説教を食らったばかりなのである。忠直は電話をしてくると言って、2人に休憩時間を与えていった。
「わぁ、可愛くない。うちの弟みたいですね。水分補給大事ですよ。」
崩した姿勢で胡座をかいている円の隣に腰を下ろして、兎美は彼の眼前でぷらぷらとお茶のペットボトルを振る。鬱陶しかったのか円は口をへの字にしてそれを受け取った。
「こういうの、苦手ですか?」
兎美は2人の演習をずっと見ていたので、彼らがどう動いていたのかを知っている。
忠直は終始冷静で、まず兎美の位置を確認していた。円の初撃を食らったのはわざと。『異能』を見極めるためと、円が優勢な際にどう動くか見たかったからだ。
円は当たった瞬間に畳み掛けようと兎美から意識が逸れた。その後も最初の手応えに甘えて、周りが見えなくなってしまっていた。
彼は何かに焦っているように『異能』を使っていた。忠直すらも見えていないようだった。
「なんだよ、あんたも説教……ですか。」
一応敬語を使おうと思い直したらしい。もう遅い気もするが。そこは可愛らしくて兎美は微笑んだ。
「違います。手、出して。」
訝しげに出された手を兎美は握る。そして、円にほんの少しだけ『力』を流し込んだ。イメージは惣一の『異能』。優しく、包むような。
「冷静に視ましょう。『異能者』は人の『力』を視ることができます。こうしたら視えやすいでしょ?これが、目印です。守ってあげたい人の方を意識して。」
『異能者』の『力』は知っている人のものは覚えることができる。受けたことのあるものや、視たことのあるものなら特に。
「ね、これなら次は私を見失わないでしょう?」
にかっと笑いかけたとき、円の顔が真っ赤になっていることに気づいた。兎美は目を丸くして、慌てて手を離す。
「す、すみません!流し込みすぎましたか!?」
他人の『力』が流れ込みすぎて倒れた前科が2回ほどある兎美は本気で焦った。
「ち、違え!ッ、違います!見んな!」
顔を隠して兎美から距離を取ってしまう円。依然として赤いままなので、兎美はまだ心配そうにしている。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、つってんだ……つってんでしょう!」
大丈夫じゃないくらい思考回路はぐちゃぐちゃなようだが、喚ける程度には元気らしいので兎美ももう何も言わなかった。
その後、また演習を行ったが、1回目よりは幾分もマシで兎美のアドバイスはちゃんと効いたようだ。なぜか円は彼女の方を見なくなっていたが。
「午前中はここまでにしよう。午後からは筆記演習だな。」
忠直はそう言うと、2人に次の集合時間を伝える。兎美はこの後杷子と一緒にご飯を食べる約束があった。彼女が迎えにくるはずだ。
それぞれ解散という形になり、芝谷は慣れた様子で食堂へ向かっていった。3回試験を落としている彼は、この感じに慣れてしまっているのだ。
「ん。」
忠直は自分の荷物からひょい、と何かを取り出して兎美に渡した。可愛い赤の手ぬぐいに包まれたそれはお弁当である。
「わ、本当に作ってきてくれるなんて!」
彼女は顔を綻ばせて喜んだ。実は、実技にも参加したいと言ったところ、忠直がついでに作ろうかと言ってくれたのだ。
「男の手料理でそこまで無邪気に喜ぶのはお前ぐらいだよ。というか、今日は付き合わせた形になって悪かったな。手、見せてみろ。」
兎美は素直に片手を差し出す。数回縛られたので、縄の跡が少しわかりやすくついているのだ。忠直はそれを見て申し訳なさそうにした。
「痛くなかったか?」
その跡をなぞられて、兎美は弁当を取り落とすところだった。
「ちょ、ちょっときつかったくらいです。大丈夫です。」
そうか、と言って彼はすんなり離してくれる。普通に心配してくれているだけなのだ。他意はない、と言い聞かせて兎美はどうにか平常心を取り戻す。
「にしても、お前の相手はもうしたくないな。なんでそんなに強いんだ。」
彼のため息に混ざる疲労感。申し訳ないが、楽しかった兎美はニカッと笑って応じた。
「強いでしょう!頑張ってきたので!ナオさんに言ってもらえると私は倍嬉しいです。」
その笑顔に忠直は視線を彷徨わせる。本当に犬化が進んでいるのだ。気づいていないのだろうが。
「間違っても敵に回したくない。」
肩をすくめると、彼は遠くに近づいてきている杷子が見えることに気づいて、兎美の頭をわしゃわしゃ撫でた。
「じゃあ、また後で。いい子にしてろよ。」
最後の一言は余計だろう。その背中に文句の一つでもぶつけようかと思ったが、そのやり取りが嫌なわけではなかったので、むくれるだけにとどめておいてあげた。
「わー、いい天気ですね。」
今日もまた程よく暖かくて、心地の良い春の日だった。中庭のベンチに2人並んだ兎美と杷子は青空を見上げて伸びをする。
「お疲れ様です、杷子ちゃん。」
彼女にカフェオレを渡すと嬉しそうに笑ってくれた。杷子のお友達になりましょう宣言の後、2人はわりと会いやすい位置に住んでいることが判明し、下の名前で呼び合う程度には仲良くなっていた。
「兎美さんもお疲れ様です。主任の相手をされたんですよね?どうでした?」
組み手のことをざっくりと話すと杷子はふふ、と目を細める。
「相変わらずいいコンビですね。私もたまに相手をしていただくんですが、『異能』なしでは一本も取れたことないです。ありで勝率が4割くらいですかね……。どちらも主任は『異能』なしなので、とても強い方なんですよ。」
忠直ができる人だということは隣に立っていてわかっていたが、そこまでだとは。極力戦いたくないという顔をしながらきっちりしている。
兎美は手ぬぐいを解きながらほえーと口を開いた。彼に関してはまだまだ知らないことがたくさんありそうだ。
「わ、美味しそう!自分で作られたんですか?」
兎美の弁当を覗き込んだ杷子がパッと顔を明るくする。卵焼き、ミニトマト、蓮根のきんぴら、ブロッコリー、タコさんウィンナー、胡麻団子。それとご飯が詰められていた。
「……タコさんウィンナー……。」
兎美は思わず呟いた。あの男、芸が細かい。箸も容器も捨てられるもので、ふりかけも別にしてある。
「杷子ちゃん、これナオさん作です。」
2人で顔を見合わせてしまう。そして吹き出した。
「ナオさん、私のこと娘だと思ってないですか!?」
「いや、あの、彩気にされてて、本当に素敵ですが、うふふ、タコさん……。」
もしかしなくとも彼の弁当にもタコさんウィンナーが入っているのだろうか。すごく見たい。
「あの仏頂面でこんなことするんですよね、あの人。」
少し呆れたようで、でも兎美の横顔には嬉しいという感情が滲み出ている。そういう細工は嫌いではないのだ。忠直もそれをわかってやったのだろう。隣で見ている杷子は少し寂しげに微笑んだ。
「本当に、いいコンビですね。羨ましい。」
その言葉に兎美は気まずそうに杷子の方を見る。彼女は。
「……兎美さん、私に気を遣っちゃダメですよ?主任のことはあの、憧れみたいなものなので。」
それを察してすぐに否定してくれる。杷子は忠直のことが気になっていた時期があるのだ。いや、きっと今もそれが全部なくなっているわけではないのだろうが。
「だから、早く付き合っちゃってくださいね。」
兎美はまた弁当を取り落としかける。
「ち、ち、違う!本当に違うから!やめて、めちゃくちゃ恥ずかしくてお弁当食べれなくなります。」
忠直と付き合う、なんて。そんな。どうなるのだろう、と考えようとした心の中の自分を殴って、兎美は箸を手に取った。
「兎美さんは違っても……まぁ、外野が言うのは無粋ですね。でも、お2人とも『ナシ』ではないでしょ?どうです?」
『ナシ』ではない。その言葉は兎美の頰を紅潮させる。そういう観点で考えたことがなかった。自分が彼のそういう枠に入っているか、という話。
「……いや、でもナオさん、親しい女の人いるみたいですよ。」
先日の通話のときの『忠直』と彼を呼び捨てする、その間の親しい関係を表すような気安い声を思い出す。少なくとも並々ならぬ関係ではあるだろう。
「えっ、そうなんですか?知らなかった。早岐さんや御厨先輩なら知ってるかな。」
杷子が知らないということは、職場の人ではないのだろうか。訊いてみると難しい顔をされた。
「うーん、誰に対しても親切な方ですからね。同期の女性の方とは気さくに話してる姿を見かけなくもないですが、特別な関係かっていうと、そうではなさそうですよね。」
受付の女性たちへの対応や彼女たちの話を思い出して兎美はうんうんと頷く。
「そもそも、主任、最近まで恋愛に意識が向かない程度にはお忙しかったようなので。5年前、いやもう6年前と呼んだ方が正しいあの事件でかなり消耗していらっしゃいましたからね。」
杷子の言葉に兎美も頷いた。たくさんの大切なものを失った彼がボロボロになっていたことは彼女も知っているから。
しんみりしてしまった雰囲気を濁すために卵焼きを口に放り込む。甘めが好きだと言ったら、ちゃんと甘めにしてくれている。美味しい。
「というか、兎美さん的には『ナシ』じゃないんですか?」
思わず咽せる。逃げようとしていた話題を直球で投げられてしまった。
「……う、ノーコメントじゃダメですか。」
へえ。杷子がニヤつく。あえて掘り下げないのがまた恥ずかしくて、兎美は俯いた。
「うふふ、でも主任もうかうかしてられないでしょうね。」
何の話だろうと首を傾げると、杷子がにこにこしたまま言った。
「兎美さん、最近ちょくちょくここに来られてるじゃないですか。結構噂になってますよ、可愛い子がいるって。」
兎美はまた咽せてしまう。
「は!?」
赤くなって見上げてくるその顔は、杷子から見ても可愛いの部類に入るのに、男所帯で育ち、腕力も男より勝る兎美は自覚がないらしい。
「その自覚のなさもまた可愛いんでしょうけど、気をつけてくださいね。変な男に声をかけられたら私を呼んでください。」
ニコニコとこちらを見てくる杷子に、なじるような目を向けて、兎美は縮こまった。
午後の筆記演習は、兎美も円もあまり問題がないようであった。もう数回受けている円は慣れているのか、100点。兎美はもう少し、といった感じで、あと1ヶ月近くあるので全く問題ないだろうというのが忠直の意見。
「問題、ないですかね。」
3回受けた模擬試験で90点以上は1回だけ。次異局に来るのは、本番の3日前になってしまったので、それまでは自己学習。不安そうな顔をする兎美に、また新しい問題集を渡しながら忠直は笑った。
「大丈夫だ。特にお前は『野良』でまったくこのへんの知識がないのに、もう80点以上は取れているだろう。安心しろ。」
この前からよく聞く『野良』とは、成人までに『異能』に自覚がなかった者や未発見であった『異能者』の砕けた呼び名らしい。
「不安ならまた……いや、これからは出られないことがあるかもしれない。事前に連絡してくれるとありがたい。」
悪いな、と謝られて兎美の頭の中にあの女の声が浮かんだ。すぐに振り払って頷くが、モヤッとした何かが心の中に残る。忠直の顔を見ないようにして兎美は席に戻った。
「じゃあ2人とも。何もなければこれで終わるが大丈夫か?」
円も兎美も大人しく頷く。よし、と忠直は片付けを始め、2人の方に向き直る。
「また1ヶ月後、よろしく。芝谷はその期間にもまた来るだろうが、旭は来ないからな。何かあれば言ってくれ。では解散。」
そんな感じで、この日は解散となった。
「あれ、芝谷くんもこっち側なんですか?」
異局を出て、少し歩いたところで先に出ていた円に追いつく。彼は兎美の声に驚いたようで、恐る恐るといったように振り向いた。
「そんな怖がらなくても。噛み付きませんよ?別に。」
失礼なことを言わなければですけどね。そう付け加えると、円は少し笑ってくれる。少年らしさの残ったその顔に、兎美は微笑んだ。
「芝谷くんとナオさんって、どういう関係なんですか?」
並んで歩くことは拒まれなかったので、気になっていたことを訊いてみる。すると、怪訝な顔をされてしまった。
「知らなかったんですか。あの人は、高校時代の先生。」
そういえば、と兎美は忠直が言っていたことを思い出す。彼はたまに母校に非常勤の講師として出向くことがあるのだと。
「何の先生?」
質問を重ねると、円は少し緊張が解けてきたのかぺらぺら喋ってくれた。
「『異能学総論』の先生でした。非常勤だったけど、たまに体術指導もしてくれてました。永坂先生、めちゃくちゃ強えんだよ。」
組み手のときに円がそんなに抵抗なく忠直に向かっていけていたのは、指導されたことがあるかららしい。
にしても普通に教師として働くこともあるとは。本当に忙しい人だ。
「てか、あんたこそどういう関係ですか。彼女?……彼女っていうよりなんか、妹って感じだったけど。」
その言葉は兎美の胸にぐさりと突き刺さる。怒るというより、落ち込んだ。しかしあのお弁当やら犬扱いのせいで、何も否定できないのが悔しい。
「はい。付き合ってないです。1番近いのは友人、ですかね。それでいいと思います。」
それでいい、は自分に言い聞かせるようだったのも悔しい。兎美はモヤモヤを振り払って円の反応を見る。彼はなぜか少し嬉しそうだった。
「先生、あんたから見てどういう人ですか。」
抽象的な質問。兎美は少し悩んだ。
「優しい人ですよ。あと歳下に甘いです。真面目で、たぶん仕事もできる人だと思います。」
簡単な評価である。しかし、円は悩ましげに眉間に皺を寄せた。
「あの人さ、悪いことしそう?」
兎美は首を傾げる。
「それがどういう悪いことかはわかりませんが、できない人です。」
返答は早かった。円のニュアンスだと、たぶん犯罪とかそういう類の「悪いこと」だろう。取り締まる側にいる、というのもあるが、あの真面目な男が悪事に手を染めるとは到底思えない。
「なんでですか?」
聞き返すと円は難しい顔になった。
「いや。聞いてみたかっただけっす。」
変な質問だが、誰がどういうことを重要視しているかはわからないものだ。でも少し気になって、兎美はしれっと話を続けてみる。
「学校で悪い噂でもありました?あの人に。」
円は首を横に振った。
「むしろ、良い噂が多い人でした。本当に聞いてみたかっただけです。ただ、あの『予見家』と関わりがあるっていうから。」
『予見家』。どこかで聞いたような。しかし、耳馴染みはない単語である。
「よみけ?なんですか、それ。」
円はえ、という顔をした。知っていなくてはいけないことだっただろうか。
「あんた、知らないんですか?試験の問題で、まぁ掘り下げられることはないけど、出るじゃないですか。『異能者』の社会を確立した一家のことだよ。」
確かに、そういう問題もたまにあった気がする。でもよく覚えていなくて首をひねる兎美を見かねて、円が説明してくれる。
『予見家』とは、明治だか大正あたりに、国から『異能者』の権利を勝ち取った集まりのリーダーだったとか。代々『予知の異能』を受け継ぎ、それによって富を得て『異能』社会の運営にかなり深く絡んでいる、『始まりの一族』。
「へー、なんか、すごく面倒くさそう……。」
兎美はついそういう感想を抱いてしまった。
「というか、芝谷くんの口ぶりだと、今の『予見家』ってそんなによろしくない一族なんですか?話の中ではかなりお偉いさんみたいですけど。」
兎美の言葉に円は曖昧な答えを返す。
「なんというか、めちゃくちゃ優秀な『異能者』を輩出してはいるんすけど、良くない噂も多いというか。当主が絶対で、他の子どもは虐待じみた目に遭うとか。」
円の話は噂の範囲内ではあるようだったが、その噂の内容も確かにそんなによろしいものではなさそうだ。『異能者』の世界もいろいろあるのだなぁ、と兎美は少し忠直のことが心配になった。
「ナオさんが、そんな一家と。……うーん、私も知らないことは多いですからね。」
仕事の話ならしっかりしているので兎美に漏らすことはないだろうし、実は彼はあまり自分の過去の話をしない。惣一などとの繋がりから、学生時代の話はたまにしてくれるが、子どもの頃はどうだった、という話をあまりしないのだ。
「後ろ暗いことをする人ではないんですが、すごい巻き込まれ体質なんですよ。芝谷くんが聞いたのも、彼が巻き込まれた事についてなんじゃないでしょうか。」
そう言うと、円は少し納得したようだった。
2人は駅で分かれた。なんだかんだ、普通に会話ができる青年ではあるらしい。兎美に対する敬語は苦手なようだが。
(『予見家』、か。……頼ってくれ、って言うわりには私、まだナオさんのことよく知らないことも多いな。)
彼は大人だから、兎美のことを蔑ろにしたりはしない。ちゃんと考えてくれていることはわかる。
だが、やはりあの1ヶ月よりは踏み込める立場にいないのだ。兎美は喫茶店勤務、忠直は『特務課』の主任。地味な歳の差も、身長の差も、性別の差も、今は少しもどかしかった。
(もっと、近くにいたいのに。)
電車に揺られながらそんなことを考えてしまう。忠直はたまに危うい。だから、ちゃんとその手を掴んでいてあげたい。
(でも、それは、私じゃない方がいいかもしれない。)
兎美は自分の首をきゅっと押さえた。
「お疲れーっす。主任、コーヒー飲みます?」
夕方、『特務課』の事務所に戻ってきた一巳は、1人パソコンに向かっていた忠直に声をかけた。
「ありがとう、助かる。何も入れなくていいぞ。」
はーい、と答えながら一巳は砂糖とミルクをしっかり入れた。手間だろうと思って忠直は大体何も入れなくていいと言うのだが、こういうしっとりとした疲労感が顔に出ているときは、糖分を欲しがっていることを一巳は知っていた。
「……悪い。」
ありがとう、と言えばいいのに。美味しそうに一巳の淹れたそれを啜る上司は、少々面倒だ。
「今日はわんちゃん達の相手に、事務処理、そんで“あちらさん”との睨み合いですか。いやー、あんたもよくやるわ。」
忠直のデスクに腰をかけると、少し咎めるような顔をされるが、口に出して注意はされない。
「で、どうなんです?麗佳の馬鹿は家に帰ったんですか?」
痛いところを突くなぁ、と忠直は苦笑した。
「お嬢なら俺の家にいるよ。お前のお姉さんがしきりに申し訳なさそうにしている。連絡は取っていたりするのか?」
一巳は顔を顰めて首を振る。
「義姉とはそんなに仲良くないです。というか、俺がここにいる理由、あの家にいたくないからなんですから。」
一巳もコーヒーを啜った。その目はどこか遠くを見ている。その横顔を見た忠直は少し笑った。
「今は、案外それだけでもないだろ。」
悪戯っぽく笑う上司の視線の先にあるのは、御厨宵人のデスク。彼は最近は『捜査課』の方に回されていて、事務所にいることが少ないが、一巳と宵人は連携して動くことも多いので、2人ともはっきり認めはしないが仲が良い。
「さあね?ま、居心地は悪くない。最近は特に。」
一巳は忠直のデスクから降りて、忠直と視線を合わせる。
「あの事件以来、あんたにも人を揶揄う余裕が生まれたようで。アニマルセラピー恐るべし。」
ククッと喉奥で笑われて、忠直は少し笑えない。確かに最近周りをうろうろしては、遊んで欲しがっている可愛い『わんちゃん』のおかげで、だいぶ心に余裕が生まれているのは確かだ。だが。
「それで済まなさそうだから、困っている。俺は、お嬢の件次第でここからいなくなるかもしれないんだからな。全部の面倒は見てやれない。」
その顔は至って冷静であった。一巳も顔からスッと笑顔を消す。
「そんなに状況は厳しいんですか。」
忠直は眉間に皺を寄せた。
「厳しくはないが、嫌な感じがする。そろそろ俺も何かしらの嫌がらせを受けそうなんだよな。頭が痛い。」
つくづく気の毒な人だ。一巳はコーヒーを啜った。
「まぁ、世話になってる上司のためですからね。どうしようもなくなったら動いてあげますよ。晩飯1回分で。」
冗談めかして言うと、忠直は嬉しそうに微笑む。
「早岐はシチューが好きだったな。それくらいで動いてくれるなら、いくらでも作ってやるが。」
なんなら頼めば普通に作ってくれるのだろう。そういうところなんだよなぁ、と一巳はけらけら笑った。
「一巳。」
忠直が一巳を下の名前で呼んだ。嫌悪感剥き出しで応じると、忠直のその目は少し、何かに怯えている。だが、それがちゃんと一巳の方を向いたときには強い光が宿っていた。
「最悪、お前だけは逃がす。そのとき、ここと旭への説明を頼まれてくれないか。」
最悪なんて考えてほしくはないが、相手が不透明な以上、そのパターンもあり得るのだろう。だが一巳はフッと笑うと首を横に振った。
「やだね。そういうケツの拭き方はしてあげないよ、永坂のお兄ちゃん。」
随分懐かしい呼称だ。忠直も笑った。
「てか、俺のことを下の名前で呼ばないでくださいよ。好きじゃないんで。」
「お前は上の名前も好きじゃないだろ。……宵人には好きなように呼ばせているくせに、5つ上のお兄ちゃんには手厳しいな。」
やれやれ、と忠直は首を横に振る。一巳はため息をつくと、飲み終えたコーヒーのマグカップを洗うために立った。
「ま、最悪なんて考える前に頼ることを覚えてくださいね。シチューで俺を動かせるなんて、あんた以外に許されない贅沢ですから。」
「ああ、わかった。クソババアに動きはねえってことだな。」
予見 麗佳は苛立たしげに電話を切った。その後ろで護衛の早岐 夕鈴はおろおろしている。
「はぁー、くそッ、めんどくせえなぁ。さっさと尻尾出せってんだ、あの若作りクソババア。」
艶やかな黒髪。ぱっちりとした翡翠の目。ぷっくりした血色のいい唇。麗佳は美少女であった。しかし、その口からまろび出るのは女王様もびっくりの下品な暴言。
「さっさと忠直とガキこさえとくべきだったか。てかあの馬鹿遅くないか?」
まるで我が家のように彼女は忠直の家の冷蔵庫を漁る。程よく整えられていた冷蔵庫が少し荒れていた。麗佳のせいである。
「お、お嬢様、お世話になってる身でその言い草はないと思います。再三思ってはいたのですが。」
真っ当な指摘のはずなのに、夕鈴はほっぺを引っ張られた。
「うるせえなあ。あいつは俺様が好きなようにしていいように誂えられたお人形さんなんだよ。他のことへの口出しは許すが、忠直に関してだけは許さねえ。」
耳元で脅された夕鈴は頰を押さえると、しくしくと壁に向かって嘆き始める。それにけっ、と言ってから麗佳は雑にソファに座って、冷蔵庫から取り出した炭酸飲料を飲んだ。
「ほんっと、クソみてえな人生だわ。もう少し面白えこと起きねえもんかな。」
勝手に部屋から持ち出してきた忠直の読みかけの本をパラパラとめくっていたとき、ふと栞が目に入る。青と赤の蜻蛉玉のついた、兎美が贈った栞。
「……あいつがこんなもん、自分で買うわきゃねえよなぁ。ふん。懇切丁寧、大事にしてますってか。あんな種にしか価値がねえ肉人形にも愛情ってもんが存在したんだな。」
麗佳は勝手に栞をとってしげしげと眺める。
「おい夕鈴、またお前、忠直のストーカーして来い。旭兎美との接触があれば、その際は写真を撮れ。」
夕鈴は露骨に嫌そうな顔をした。それに気づかれてまた頰を引っ張られる。
「口出しは許さねえっつっただろうが!」
「お嬢様、私、何も言ってませぇん!」
「へっくしゅん!」
家で、兎美は1人くしゃみをした。誰かに噂でもされているのだろうか。
春の夜はまだ少しだけ冷える。咲いていたチューリップももう元気がなくなってしまった。兎美はなんとなく、窓から星を眺める。
(なぁんか、そろそろ嫌なこと起きそうだなぁ。)
ヴヴッと携帯が震える音。兎美はパッと明るい顔になってそれを確認する。
「はい、大丈夫です。楽しみにしてます、と。」
返信をして、ふと忠直の名前が目に入る。なんとなくあの電話以来、メッセージでも連絡をしていないのだ。
(……また、忙しくなるって言ってたな。)
メッセージをすれば、返信が待ち遠しくなる。電話をすれば、切りがたくなる。その感情の名前を兎美はまだ付けずにいた。
(本当はいけないんだよな。もう、距離を置いた方がいいんだろうな。)
だけど。視線を逸らした先に、目に入るように飾っている彼がくれたブレスレット。勿体なくて家で1人でつけては舞い上がるだけになってしまっている。
(足りない、って思うのは贅沢なのかな。)
ぎゅ、とブレスレットを手に取って胸に押し付ける。ひんやりとした金属の感触。それに触れるたびにつけてくれた彼の手の温もりを思い出す。
(私、案外強いでしょう。もっと巻き込んでくれてもいいのに。なんて、言えたら。)
そのとき兎美は無意識に喉のあたりをさすった。じくじくと、異様にそこが痛み始める。そこにべっとりと纏わりつく『力』を感じ、兎美は顔を強張らせた。
「……あはは、私、もう、これも許されないんだ。」
背中にべったりと脂汗が浮かんだ。思わず零れ落ちた笑い声は自分の耳にも不愉快で。兎美はゴホゴホと咽せた。ゴボッと何かが上がってくる感覚。手を見ると血がついていた。
彼女は顔を歪めて微笑みに似た何かを作る。
(……免許を取ったら、連絡を控えよう。)
そう決心して、兎美はそっとブレスレットを置いた。