表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Throat  作者: 洋巳 明
10/27

九話 噛み付く


「で、メモは忠直に届いたようだが、ここでお前さんに悲報だ。異局に行ってもらう。」

 食後の片付けのときだった。麗佳からそう告げられた兎美は洗っていた皿を取り落とす。ガシャン、と大きな音が鳴って麗佳が顔を顰めた。

 これは、兎美が予見家への潜入を成功させてから翌日の夜こと。忠直が部下たちと険悪なムードになったその日である。

「や、約束が違うじゃないですか!!」

 掴みかからんばかりの勢いでそう言うと、麗佳は流石に申し訳なさそうな顔をした。

 異局には忠直がいる。行けばほぼ確実に会うだろう。突き出さないと言ったではないか。

「忠直の休みの日は探りを入れてある。その日は誰かしら他の知り合いに案内を頼みゃいい。あいつにはまず会わねえよ。」

 それを聞いて少しホッとする。シンクに落とした皿が割れていないか確かめ、兎美は泡を洗い流し始めた。そんな彼女を麗佳が何か言いたげな視線を向ける。

「……なんですか。」

 ムッとしたように言うと、麗佳は苦笑いを浮かべた。

「そろそろ会いたくならねえの?」

 兎美は思いっきり目を泳がせる。会いたくなんて、そんな。

「私から去ったんです。会いたくなるわけないじゃないですか。」

 大嘘だ。会う約束をしていたときの1ヶ月はあっという間だったのに、この1ヶ月は死ぬほど長かった。

「ふーん。ならいいけど。」

 その横顔は全然そう思っていなさそうだったが、麗佳が無理に会うことを薦めることはなかった。

「俺様の用事ってのが、あの錠剤をくれたやつに会って欲しいんだわ。『発明課』の課長の安保あんぽって女。そんくらいのおつかいはできるだろ?」

 兎美は頷いた。何の用で、と訊けばきっと「会えばわかる」と返されるのはわかっていたのでそれだけにしておく。

「ちょうどいいです。案内役にも当てがありますし。……さすがにそろそろ顔を出さないと、心配されそうで。」

 どうせ忠直と何かあったことくらいはバレている。察しの悪い彼らではない。

「じゃあそっちは任せる。俺様は1人寂しくパズルでもやってるからよ。」

 兎美の部屋には娯楽があまりない。余計なものは持たないようにしていたせいだ。

 麗佳が暇そうだったので難しくて放置していたパズルを薦めたら、案外ハマったらしい。夕鈴に頼んでいくつか新しいものが増えていた。

「あ、麗佳。今日の夜、私ちょっと出てくるので誰か来ても開けないようにしてくださいね。」

 受け流してくれると思ったのに、麗佳は怪訝な顔をした。

「あ?もう結構暗いのに?お前さんも一応オンナノコってやつなんだから、最低限は気をつけておいた方がいいと思うぞ。」

 彼女は変なところで世話焼きというか、お節介みたいなところがある。兎美はくっくっと喉奥で笑って、ありがとうございます、と返した。



「夕鈴、ちょっといいか?」

 忠直は自室の隣の部屋、以前兎美が暮らしていた部屋のドアをノックした。すぐに夕鈴が顔を出す。

「はい、どうされましたか、忠直様。」

 様はやめろ、と忠直は渋い顔をする。予見の分家である早岐家は、もともと予見で『忌み子』とされた子どもの送り先であったが、そこから時代が進むにつれて、彼らは予見家の護衛を務める人間を輩出する一族になった。つまり、予見に従っているのだ。

 忠直は予見家に入り、麗佳の婿となる予定であったので、その実態がどうであれ早岐にとっては『旦那様』に当たる彼もまた、主人判定を受けるらしい。

「お前もなかなか大変だよな。様付けはさすがに勘弁して欲しいが、まぁ、他は何も言うまい。それで、お嬢に『そろそろ動くからお前も巻き込む』と、伝えてくれるか?状況の説明も頼む。」

 はい、とかしこまった様子で答える彼女は、先の事件で父を殺されている。令悟の護衛は彼女の父が務めていたのだ。

「俺の家だから、なかなか難しいだろうが、たまには息を抜いておけよ。麗佳の元に返してやれなくてすまない。」

 ぺこり、と頭を下げる彼を見ながら、夕鈴はため息をつく。

「相変わらず人のことばかりですね、忠直さん。」

 呆れたような一言。

「そうだな、でも俺はそちらの方が性に合っててな。」

 忠直は笑って返した。




 夏の夜は不思議な匂いがする。不透明で、雨上がりみたいな、そんな。

 じっとりと嫌な汗の滲むこんな気温の日にあんなに穏やかな人が産まれたのか。

 夜の公衆電話のボックスの中は少し怖い。暗くて、何かが覗いてきそうで。

 緊張で死にそうで。

 11時59分。あと、1分。何度も頭の中で唱えながら歩いてきたので、その番号は覚えてしまった。

 大事なことは覚えている彼のことだ、と思いつつ、逃げた自分との約束なんて待ってくれているだろうか。

 ぽ、ぽ、ぽ、ぽ、と間抜けな音。100円玉が使えるか不安で積み重ねた10円を見つめながら。

 

 プルルルル プルルルル プルルッ


『はいもしもし。永坂です。』


 そうだった。最後に怒っていない彼の声を聞いたのも電話越しだった。泣きそうになったのを堪える。一言、一言言えばいいだけだから。

「……お誕生日、おめでとうございます。」

 かけるのを躊躇いすぎて時刻は0時1分。一言だけでもう切るつもりだったのに。

『……やっぱり贅沢じゃないか。ありがとう、旭。』

 そのとき聞いた彼の声はもう一生忘れないだろう。顔が見たかった。とても会いたくなった。あなたがどれだけ幸せそうな声を出したか教えてあげたかった。

『わざわざ公衆電話からかけたのはバレないためか?芸が細かいな。今の飼い主に仕込まれたのか。』

 揶揄からかいに混じる嫉妬に気づいてしまう自分が嫌で、もう切ろうとしたのに。

『旭、1つだけ聞いてくれないか。』

 そのお願いはずるい。電話越しでも彼の肉声には弱くて、無意識に10円玉を押し込んでいた。


『俺は、お前のことを諦める気はない。お前のことが好きだよ、旭。』

 

 思わず、返す。


「馬鹿なんじゃないですか。辛くなるって言ったじゃないですか。あなたはそんなに器用じゃないもの。」


『そうだな。でも、お前、俺のこと好きだろ。』


「ッ。嫌いです!大嫌いです!」


 ムキになって、途切れないように10円玉を押し込む。


『そうか。それが本気じゃない限り、身を引いてやる気はない。』


「本気です!あなたなんて、嫌い。約束したから、約束は守らないといけないから、電話をかけただけです。」

 

『ああ。覚えていてくれて嬉しかったよ。』


「ッ、ば、馬鹿!」


『そうかもな。』


「馬鹿、バーカ!ロリコン!」


『おいおい、飼い主に言っておけ。うちの子に変なこと教えるなって。』


「誰があなたの子ですか!」


『そうだったな。子どもでも犬でもないんだもんな。可愛くて強い、俺の相棒だもんな。』


「……き、嫌いです。本当に大嫌いです。そういうところが、本当に嫌です!」


『ん。俺は好きだよ、大好きだ、旭。お前のそういう面倒くさいところも、全部。だから俺のことを本気で嫌いになるか、もしくは。』


『諦めてさっさと俺のところに落ちてこい。』


 ……ツーツーツーツー


 最後、10円玉を入れるのを忘れていた。いや、積み上げていたはずのそれはもう残り1枚で。

 悔しくて唇を噛んだ。頰が熱い。電話をかけたとき最初に聞こえた声も、久しぶりの掛け合いのときの言葉も兎美の心臓を走らせた。喉の痛みを気にする間もないほど、立て続けに想いを浴びせかけられた。

 避け続けていた分、彼を感じたときの反動がきつい。こんなにも胸が高鳴るなんて知りたくなかった。とっくに落ちているのに、今すぐにでも家にまで押しかけてしまいたいのに。

(……ほんと、馬鹿。)

 振り回された結論があれなんて、ずるい人。ムキになった兎美に視線を合わせて、一緒にムキになってくれたのだ。

(辛くなるって言ったじゃない。しんどくなるって言ったじゃない。)

 そんなこと織り込み済みで、兎美が彼のことを好きなのもわかった上で言われた。だからこそ受け入れたくないのに。

(私にはあんなこと言ってもらう資格はないのに。)

 

(……あいつは、わかりやすすぎるな。)

 自室で1人、忠直はため息をついた。兎美の気持ちはわかる。自分も彼女の立場であれば、大事に思ってくれる人ほど遠ざけたくなっただろう。終わりの知れている恋ほど不毛なものはない。

 それでも、電話越しの彼女は可愛すぎたのだ。もしもし、と言った忠直の声に一瞬惚けて、思い出したかのように祝いの言葉を告げた。その後の掛け合いでは、いちいち忠直の言葉に肩を跳ねさせる姿が想像できた。

 嫌いの一点張りになった兎美はムキになっていて、きっと次会えばまだ意地になっている彼女が見れるはずだ。

 悪くないな、と思ってしまった。あの朝のように泣きながら苦しまれた方がきつい。子どものように肩をいからせて、「嫌い」に聞こえないそれをぶつけられた方がよっぽどいい。

 襲われたのはこちらだったのに、酔った彼女に理不尽な怒りをぶつけられた。次の日、自分の言いたいことだけ言った彼女に逃げられた。それでもこうなのだから、自分にはもう彼女を手放すことを諦めた方が性に合っている。忠直はそういう結論を出した。

(一緒にいられるのが1日でも、1秒でもいい。あいつの事情が何だっていい。どうせ俺はあいつのことを嫌いになんてなれない。)

 どういう関係でもよかった。ただ、彼女に傍にいて欲しいだけ。

(死ぬのが本当なら、あいつが、独りで逝くのは耐えられないんだ。せめて、それまででも、一緒にいてやりたい。)

 今日の約束を覚えていたら容赦はしてやらないと決めていたのだ。

 漫然と手の中に握りしめていた栞を眺める。黒に似た青と落ち着いた赤の蜻蛉玉とんぼだま。その赤は知ってか知らずか、彼女の色に近い。今まで寂しさを紛らわせるために眺めていたのに、今日ばかりはどうしようもなく彼女に会いたくなってしまうのでそっと仕舞い込んだ。




 久しぶりに異局の前に立った。5月以来なので大体3ヶ月ぶりだ。

「旭さん、こんにちは。お久しぶりです。」

 出迎えてくれたのは宵人。彼は嬉しそうに応じてくれた。

「こんにちは、御厨くん。急にすみませんでした。」

 一巳からの伝言もあったので彼に案内役を頼んだのだ。彼は快く応じてくれた。

「『発明課』の方に用事なんですよね。行きましょうか。」

 兎美は頷いて、一緒に異局の中に入って行った。


「忠直さんには会いたくないんですね。」

 歩きながら、ギクッと兎美は肩を震わせた。その話題になるだろうと予想はしていたが、実際訊かれると、申し訳なさと振り回した罪悪感に駆られる。

「はい。ごめんなさい。ご迷惑をおかけしています。」

 しゅん、と項垂れる兎美に対して宵人は微妙な顔をした。

「いえ、忠直さんは仕事に私情を持ち込まない人なので実害はありませんでしたよ。まあ、普通に俺からの連絡も蹴られたのはショックでしたけど。」

 またギクッと。実は宵人は2回ほど飲みの誘いをしてくれていた。ただ、酒でやらかした自覚はあるし、気分にもなれなくてどちらも曖昧に蹴ってしまったのだ。

「それは本当にごめんなさい。御厨くんが嫌だったわけじゃないんですよ。」

 否定すると苦笑される。

「今回は忠直さんが嫌だったって言われる方が傷付きますね。」

 何も言えなくて口をつぐむ。嫌悪感からくる拒絶ではなく、絆されてしまいたくないという方面の会いたくない、ではあるが。

「にしても、安保さんに用事ってどうされたんですか?」

 兎美の表情を見て話題を変えてくれるこの1つ下の青年は優しい。それに甘えて彼女は話題に乗った。

「私も依頼で動いてるのであまり詳しいことは言えないんですけど、なんか会いたがられてるとかなんとか。ちょうど彼女の作品にお世話になったのでそのお礼も兼ねて。」

 あの錠剤のことである。あれは『発明課』の研究の賜物たまもので、他人の『異能』や『力』を使えるようになる作品。ただし、忠直の『異能』のように扱いが難しいものは、使える人間が限られるどころか誰も使えないなんてこともあるが。

「安保課長すごい方なんですよね。その実績もですけど、彼女自体も。」

 含みのある言葉だ。どこかひっかかるので彼の方を見ると、宵人は微妙な表情をしていた。

「どういう方なんですか?」

 一応訊いてみる。

「なんというか、会えばわかりますよ。というより、説明が難しいんですよね。すごい自由人というか、独特な方です。」

 会うのが少し不安になる言葉だ。兎美の頭の中に研究にしか興味がないマッドサイエンティストのような人物像が浮かぶ。 

「そこを曲がればすぐですね。」

 角を曲がったそこに、“『異能対策開発課』←『発明課』と呼びたまえ!”と書かれた紙が貼られたドアがあった。すでに独特である。

 宵人がドアを開けてくれた。恐る恐る中に入ると、デスクがずらりと並んでいる。人はまばらだった。

「おはようございます、安保課長いらっしゃいますか?」

 宵人が近くにいた人に訊く。すると、奥を示された。そのドアには準備室と書いてある。いつものところか、と彼は頷いて、兎美についてくるように言うと、ノックした。


「ああ。入りたまえ。」


 落ち着いた低めの女性の声。ドアを開けると、ごちゃごちゃした部屋だった。出汁だしのような匂いがむんわりと充満している。ラックにはさまざまな太さの『異能封じ』の縄や手錠。何が入っているのかわからない錠前付きのロッカー、資料の詰まった棚。

 その一角にデスクが置いてあって、こちらに背を向けて座っている痩せた女性が1人。その人はドアが閉まる音を聞いて、くるり、と椅子を回転させてこちらを向いた。

「おはよう、宵人くん、旭くん。まあ、適当にかけたまえ。そのへんに椅子があったはずだから。」

 言われた通り、見回すとたくさんの折りたたみ椅子が立て掛けてある。宵人が2脚持ってきてくれて、その1つを受け取ると、兎美は座った。

「わざわざ御足労願って申し訳なかったね。お茶でもどうぞ。梅昆布茶しかないけど飲めるかね?無理なら外の子たちに声をかけてコーヒーをもらってきたまえ。変なもの盛られたくないならおすすめしないが。」

 兎美がギョッとする横で宵人は呆れたように口を開く。

「俺はともかく、お客さんにそれはやめてください。」

 まともな意見だ。しかし、目の前の女性は面白くないな、というように肩をすくめる。

「客だからって危機感を持っておかないと、『異能』社会では何でも起こるから。まあ、名乗りもしていないうちから説教はやめておこう。私は安全保障の安保あんぽ 八千代やちよだ。この『発明課』で課長をやらせてもらっているよ。よろしくな。」

 不健康そうな目周り、丸眼鏡、短く切られた髪。40代くらいだろうか。岸よりは歳下だが、忠直よりは歳上といった塩梅の女性。

「旭兎美です。よろしくお願いします。」

 兎美が名乗ると、こっくりと頷かれた。

「ああ。君のことはお嬢様から聞いているよ。永坂くんの『異能』を使えるなんてすごいな。是非感想を聞かせてほしくてね。それで呼び出したんだ。」

 隣の宵人がああ、と納得したような声を漏らした。

「旭さん、被験体にされたんですか。」

 微妙に失礼な言い方のような気もしたが、八千代の反応を見るとあながち間違ってもいなさそうである。

「あれはね、誰も使いこなせなくてね。何も起こせない『異能者』が大半、消えかけたのが少しといった具合だったから、失敗作に等しかったんだけど、まさか使える人間が現れるなんて。」

 八千代の目がきらきらと輝いた。興味津々といったようすである。

「そもそも私はね、旭くんにずっと会いたかったんだが、永坂くんに止められていてね。今日は心ゆくまで根掘り葉掘り訊いていいということだから、宵人くんは付き合わなくてもいいよ。」

 根掘り葉掘り、そんなことは聞いていない。心の中で麗佳を睨みつけつつ、兎美は少し緊張した。

「2人っきりはどうかと思いまして。課長が変なことしたら止めますからね。」

 宵人が呆れたようにため息をつく。慣れているような対応だ。

「ムムッ、私とて失礼なことはしないさ。ちょっとばかりお話を聞くだけじゃないか。そんな目で見るのはやめたまえ。」

 心外だ、と言わんばかりに首を横に振る。悪い人ではなさそうだが、その瞳の奥に惣一と似たものを感じた。研究者の顔だ。

「で、時間が惜しい。旭くん、飲んだ所感は?苦かった?甘かった?飲んだ瞬間に『異能』が使えたかね?持続時間は?飲んだ際に起こった異常等もあれば合わせて頼む。あとは、それから……。」

 怒涛のように溢れてきた八千代の質問。兎美はなんとか取りこぼさないように答えていった。たまに手を見られたり、腰回りを撫でられたりして、ふむふむと頷かれたのは本当に意味がわからなかったが、最終的に安保は満足したように椅子に戻った。

「なるほど、いいな。水原くんの今の『異能』も保管しておくべきかもしれない。」

 忠直と兎美が『力』を共有したりすることができるのは、水原壱騎の『異能』で繋がれていたからである。研究対象が増えたなぁとぶつぶつ言いながらメモを取る八千代。

「永坂くんの情報も更新しなくてはな。死ねない理由が変わっていそうだ。御厨くん、最近の彼はどうかね。」

 横で興味深そうに2人のやりとりを見ていた宵人に八千代が話を振る。

「死ねない理由を求めない程度には健全になられてますよ。最近会われてないんですか?」

 八千代は首を横に振った。

「いや、ちょくちょく顔を出してはくれるが、前ほど追っかけ回せなくなってな。一時期追いかけっこしてた身としては寂しい限りだよ。」

 追いかけっこ?と首を傾げる兎美に、八千代が梅昆布茶を啜りながら教えてくれる。

「死にそうな顔をして駆けずり回っていたから、被験体にしようと追いかけ回していたんだ。懐かしいな。岸くんに怒られたんだ。」

 死にそうな顔をしている人間って追いかけ回すものなのだろうか。兎美と宵人は顔を見合わせた。

「何はともあれ、旭くんはあれを使いこなせたようでよかったよ。残りも好きにしたまえ。どうせ君以外使えないからな。消えないように気をつけて。」

 一応持ってきていた錠剤のシートを眺めて、兎美は目を細める。使えるのが自分だけ、ということが少しだけ嬉しい。そんなときだった。

「それで、お嬢様が君を寄越したということはーーーーー」

 八千代の声は途中から聞こえなくなった。兎美が近づいてくる気配に気づいてしまったからだ。

 がたん、と急に立ち上がった兎美。八千代と宵人が驚いたように彼女を見る。

「みみ、御厨くん、体貸して!」

 宵人を立ち上がらせてその後ろに隠れた。何のことだ?と訝る2人に何も言わず、ただ、彼の背中をぎゅっと掴んだ。近づいてくる気配は、真っ直ぐここに向かっていて。

(や、や、約束が違う!)

 兎美は目を瞑った。


「八千代さん、取り込み中に悪い、急ぎの用事が……御厨?」

 

 入ってきたのは忠直だった。私服でなぜか少し慌てている。彼は宵人に気づき、そして。

「ああ、旭も来ていたのか。こんにちは、2人とも。」

 けろり、と挨拶をして八千代に向き直る。

「悪いが、G以上の『異能封じ』を3本程度用意してもらっていていいか。」

 今日は非番ではなかったのか。完全に仕事モードである。

「G以上?硬いな。何があったんだい?」

 尋ねられて忠直は苦笑いを浮かべた。

「ちょっとな。詳細は後で。榊に追われているんだ。」

 惣一に?兎美と宵人は顔を見合わせた。忠直がそれに気づいて顔を強張らせる。

「忠直さん、怪我ですか?」

 明らかに右腕を隠した。肘くらいまで袖のある服を着ている彼は、その下に何かを隠しているのだ。

「大したことない。」

「追われるほどですよね?」

 逃げを許さない声色で宵人が訊く。

「他に怪我人がいる。自分の応急処置はした。」

 そっち優先だ、と言わんばかりの態度だ。

 そんな彼の袖を捲り上げたのは兎美だった。裂けた袖の下から現れたガーゼは既に血に染まっていて、もう少ししたらしたたり落ちてきそうだ。

 何か言うつもりなどなかったのに、思わず兎美の体は動いていて、唇を噛み締めた。大したことない傷からこんなに血が出るか。

 不意に、ぽすっと頭に手が乗った。兎美が驚いて見上げると、忠直は見慣れた無表情。

「嫌いな奴に向かってそんな顔するな。」

 大丈夫だと示すように撫でられた。

「永坂くん、こいつでいいかい?」

 ラックの方向から戻ってきた八千代から縄を受け取ると、忠直は彼女にぺこりと頭を下げる。

「いつも悪いな。後でまた来る。」

 彼はそれだけ言って、兎美が何も言えないうちに去っていった。

「あ!忠直さん、ちょ!」

 宵人が呼び止めようとしたが、忠直は明らかに聞こえていないフリをしていた。

「ったく、あの人も相当だな。旭さん、すみません。どうせ俺も呼び出されるので追ってきます。」

 そう言って駆け出して行こうとする彼を慌てて呼び止めて、兎美は一巳から預かったメモを渡す。

「経緯は話せないんですけど預かりました。早岐くんは身動きはとれませんが、元気です。」

 メモに目を通して、宵人はフッと笑った。それは確かに見慣れた筆跡。どうして兎美が持っているか、そんな無粋なことは考えなかった。

「ありがとうございます。……旭さんもお気をつけて。あんたに何かあったら、忠直さんがさっきのあんたみたいな顔しますから。」

 宵人はぺこりと頭を下げて忠直を追うように走っていく。

 残された兎美は彼の言葉でモヤモヤしたものが胸のあたりを占めるのがわかって、ぎゅっとそこを握りしめた。

 久しぶりに顔を見た。相変わらずの無表情と抑揚のない落ち着いた低い声。疲労の染み付いた顔、その腕から滴り落ちそうだった血は赤々としていた。

 心配する権利もない。だけど、嫌な感じだった。自分の預かり知らぬところで彼が怪我をするのは、心臓を鷲掴みにされるような気持ちにされる。

「ふむ。彼は相変わらずのようだな。君は行かなくてよかったのかい?旭くん。」

 八千代は見慣れている、とでもいうように表情を変えていなかった。

「……私には、関係ないことなんで。」

 あの封筒は仕舞い込んでいる。忠直の仕事に口を出していい理由が兎美にはない。

「なら、話を続けるが、ふむ。とりあえず梅昆布茶でも飲みなさい。永坂くんより青い顔をしているぞ。」

 ずい、と差し出された紙コップ。兎美はおずおずとそれを受け取って、会釈えしゃくした。昆布の落ち着く香りと梅の風味。

「君は彼のい人だったんだな。なるほど、こんなに格別の研究対象なのに、差し出したがらないわけだ。」

 もう吹き出さなかった。忠直の気持ちははっきり聞いたから。

「……違います。私、あの人のこと嫌いなので。」

 八千代は目を細める。それは、まるで何か微笑ましいものを見る表情で、兎美は目を逸らした。落ち着いた対応をされると、途端に自分がいかに子どもじみたことをしているのか浮き彫りになってしまう。

「ふふ、そうかそうか。それで、話の続きだが。」

 さらりと受け流される。兎美は少し目を伏せて彼女の話に耳を傾けた。

「お嬢様に、頼まれていたものは作ることができそうだと伝えてくれ。なかなか面白い挑戦だった、と。」

 何の話かはわからないが、麗佳には伝わるのだろう。兎美は頷きながらメモを取る。

「あとはだな、……と……についてだが、これは。」

 あれ?と思った。おかしい。意識が遠のく。すごく眠たいのだ。

「……?あんぽさん、すみません、私。」

 頭がぐらぐら揺れた。八千代が自分の顔を覗き込んでいる。

「ふむ、効きが早いな。」

 効き?もう座っていられなくて、兎美は八千代の太腿へ突っ伏した。

「言ったはずだぞ、客だからって危機感を持っておけ、と。」

 よしよし、と頭を撫でられる。彼女の言葉がどういうことか理解したくらいで、兎美の意識は闇に吸い込まれていった。



 心地よい揺れ、いい匂い、温もり。全部覚えがありすぎるもので、兎美は何も思わなかった。

「今日は悪かったな、御厨。」

 そう言いながら、彼は兎美を助手席に下ろす。彼女の腕を解くときちんと座らせて、忠直はドアを閉めた。

「いえ。どうせうちに回ってきてたでしょう。また、『東山組』ですか。……一巳といい忠直さんといい、もう少し俺たちにも事情を説明してくれませんかね。」

 宵人になじるような目で見られて、忠直は苦笑いを浮かべるしかない。

「この前、芝谷をあの場では制しましたけど、どうせ巻き込むことになるなら、ちゃんと言っておいてくださいね。あんたらは多少勝手な行動が多い。」

 その目に滲む心配と不満。忠直は悪い、と頭を下げた。

「わかってはいるんだが、話せないことが多すぎてな。『予見』はすごく面倒なんだ。」

 不服そうではあるが、宵人もこの場で問い正すつもりはないようだ。彼は何も言わずにそっと一巳のメモを忠直に見せる。

「どうせ忠直さんはあいつが無事なことをもう知っているんでしょうけど、一応こういうものを旭さんづてに受け取りました。」

 宵人は忠直と目を合わせた。この無茶しがちな上司には、ちゃんと伝えておきたい。

「俺はあいつを助けたいです。そんで、忠直さんの助けになりたいです。話せる範囲でも何でもいいんでちゃんと巻き込んでください。」

 一巳の文字を見て、忠直は目を細めた。

「そうか、あいつ、宵人に頼れるんだな。……ああ、わかった。ただ、俺からも少し待ってくれと言っておく。ちゃんと、お前と池田は巻き込むから。」

 含みのある表現。宵人は怪訝な顔で忠直を見る。彼は複雑な表情をしていた。何かしら意図があって話していなかったらしい。

「わかりました。信頼してます。」

 宵人は頷いて頭を下げた。忠直は彼にもう一度謝ってから車に乗り込む。宵人が小さく手を振ってくれた。それに笑いかけて、車を発進させた。


 非番の日だったのに、もう空は暗い。

 今日、忠直は惣一の元を訪れていた。少し遅れた誕生日プレゼントを用意していると言ってくれたので、向かったのだ。

 ホテルに行く途中で、惣一の愛人を見かけた。彼女は出てきたところだったらしい。挨拶をしておこうと近づいたとき、彼女が3人の男に襲われた。もちろん、遅れをとる忠直ではない。すぐに押さえつけられるはず、だったのに様子がおかしかった。

 普通なら落とせている一撃で相手は落ちなかった。油断したわけではない。ただ、1人の男に拘束を千切られて、忠直は腕をざっくり刺された。有り得ないことだった。彼の『力』は視た感じ、その拘束を千切れるほどの強さではなかったのに。

 異常だ、とすぐに気づいた。忠直はできるだけ男たちを堅く縛り上げ、ホテル側に協力してもらって、暴れる彼らを一旦閉じ込めた。愛人が軽傷を負っていたので、彼女を惣一に任せようとしたら、腕を見られて烈火の如く怒られた。

 それを振り切って、そこまで遠い位置ではなかった異局へと車を走らせ、あの状況に至ったのだ。

(……なかなか、相手は面倒だな。)

 男たちは『東山組』の構成員。どうやら、何かしらの『薬』を盛られていたらしい。『力』を強化し、身体能力を底上げするようなもの。危険性の高い非合法なものだろう。相手はそんなものまで持ち出してきた。麗佳が現れないことに痺れを切らし始めたのだ。

 忠直は横目で助手席で眠る兎美を見る。麗佳とは長い付き合いだ。彼女の考えていることは大体読めるので、麗佳が兎美の元にいる可能性が高いとは思っていた。だから、そのうち会うことにはなると思っていたが。


『永坂くん、遅めの誕生日プレゼントだよ。』

 八千代は異局に戻ってきた忠直に対してそう言った。彼女のかたわらには眠る兎美。八千代のやりそうなことはなんとなくわかる。だから、忠直は深いため息をついた。

『人にほいほい薬を盛ってはいけません。俺のためでもやめてくれ、八千代さん。だから、あんたよく誤解されるんだぞ。』

 八千代は気遣いが下手くそすぎるのだ。忠直のために、兎美と2人きりで話せる時間を設けてくれようとしたのだろう。だが、このやり方ではこじれる。

『嬉しくないのかい?』

『嬉しくない。だが、あんたの気持ちはわかってる。いつもありがとうな、八千代さん。』

 兎美をおぶる。嬉しくないとは言ったが、久しぶりのその重みに高揚した。勝手に絡まる手もずるい。

『それはすまなかったな。仲直り、できるといいな。』

 八千代は梅昆布茶を啜りながら、ひらひらと忠直に向かって手を振った。


「旭、起きてるだろ。」

 ビクッと彼女の肩が震えた。兎美はゆっくり目を開けて姿勢を正すと、忠直の方を絶対見ないように窓の外に目を向ける。

「元気そうでよかった。お嬢……麗佳が世話になっているようだな。」

 またビクッと。でも彼女は絶対に声を発すまいとしているらしい。忠直がいくつか当たり障りのない話題を振っても無視された。

「八千代さんが悪かったな。あの人に悪気はないんだ。危ない薬ではなかったようだし、強いて言えば俺のせいだ。許してくれ。」

 彼がそう言うと、兎美は何も言わずにただため息をついた。

「あと、あの日のことはちゃんと謝りたかった。追い詰めて、すまなかった。」

 その言葉には彼女も反応を示す。何かを堪えるように息を吸って、絞り出すように言った。

「……私は謝りませんよ。」

 構わない、と返すと彼女は顔を歪める。顔にごめんなさい、と書いてあるのにどうしても忠直には意地を張りたいらしい。

 無言のドライブ。ほんの少し遠回りをしてみたが、この分だと変な気まずさが続くだけか。忠直はため息をついて、無駄な足掻きはやめて、兎美の家の方向にハンドルを切った。

 見慣れた道。数回送ったことがあるので、彼女も家の付近だとわかったらしい。躊躇いがちに兎美は口を開いた。

「……腕、どうなったんですか。」

 気にしていたらしい。あの後、惣一の元へ戻ったら、彼は仁王立ちをして忠直を待ち受けていた。デコピンを2発くらった。

「なんだ。心配してくれるのか。」

 彼女の顔を見ればわかることだが、あえて訊く。それくらいの意地悪は許されていいだろう。

「……やっぱり何も言わなくていいです。」

 その気配を感じ取ったのか、兎美はムッとしていた。

「榊にくらいは連絡をとってやれ。今回のことで、またあいつも動きにくくなってしまったが、お前にすごく会いたがっている。……避けるのは俺だけにしておいてくれ。」

 兎美の喉がグッと鳴る。はあ、と呆れたようなため息。

「ほんと、さっきといい、人のことばっかり。だから、私に嫌われるんです。こうやってまた、普通に車に乗せて送ってくれるし。優しくされるのは嫌って言いましたよね。」

 嫌な言い方だ。わざとだろう。

「嫌いじゃないくせに。」

 フッと笑うとまた彼女は不機嫌そうに黙り込んだ。

「あと、無防備に寝顔を晒して、車に乗せられているのはどっちだ。家に連れ込まれたかったか?」

 半分本気ではあったが、兎美には鼻で笑われる。

「何もしないくせに。」

「何かして欲しいのか。」

 少し睨みつけると、彼女がぎょっとしたようにこちらを見たのがわかった。忠直は路肩に車を停め、兎美の方を見つめる。

「お望みなら、どうにでもしてやるが。お前が俺を好き勝手に振り回して、好きなように遠ざけたんだ。俺が好きなようにしても責められないよな、旭?」

 頰に伸ばされる忠直の手。兎美は慌てたようにそれから逃げる。だが、ここは密室だ。顔を伏せるくらいしか逃げる手段などない。忠直に手を引く気はもうなかった。

 兎美の顎を掴んで顔を上げさせる。逸らせないことがわかると、途端に彼女の目から強気だったはずの何かが消え去る。

「……前に言っただろう。あまり無防備を晒されると噛みつきたくなる、と。」

 ちゅ、と。柔らかい感触が兎美の額に。キスされた、と遅れて気づく。

 体を離した彼と目が合った。じっと、何かを窺う目つき。兎美は一瞬惚けたようにそれを見つめてしまった。

「……ッ、触んないでください!」

 だがすぐに、思い出したかのように彼を押しのける。案外、簡単に忠直は退いた。

「そんな赤い顔してたら説得力がないな。」

 軽く笑って、忠直はまた車を動かす。兎美は自分の額を押さえた。確かに、ものすごく顔が熱い。隣の彼を睨みつけるが、涼しい顔をしている。

「調子に乗らないでください。こんなの、誰にされたってびっくりしてこうなりますから。」

 怒ったような口調で、どうにかバレないように。強気な態度なんて突き崩されればイチコロで、額に軽くキスされただけでももう。

「そうか。旭、煽るのも大概にしておけよ。お前が強情になればなるほど、俺も引けなくなる。これ以上何もされたくないなら、あまり可愛い反応をするな。」

 こちらはこんなにも必死なのに、全然表情の変わらない忠直が憎かった。

「そろそろ着くから真面目な話をするが、お前も覚悟をしておいてくれ。ご心配に預かった腕の傷、あんなもんじゃ済まないほどでかいことが起こる。お嬢を頼んだ。」

 彼の目が一瞬、兎美に向く。目を逸らしている彼女を見て微笑んだ。

「俺はお前に頼るぞ。嫌われていたって、お前しか背中を預けられる人間はいない。」

 兎美は何も言わなかった。

 車が停まった。家のすぐ近くだ。顔を見られたくなくて、兎美は無言で一回だけ会釈して降りた。車が去るのも見送らず、駆け足で階段を登って、ドアの少し手前でずるずると膝から崩れ落ちる。

(頭が、真っ白になる。)

 今回はもう、息を吹き掛けられるでは済まなかった。しっかり自分の額に触れた唇。

(どれだけずるいのか、わかってやられた。)

 心臓が今更走り始める。遅れて喉が痛み出す。でも、それ以上に額に残った甘い感覚が強くて、もう次に会えたら何も耐えられなくなる気がして怖かった。

 なんとかグッとそれを押さえ、兎美は麗佳の待つ家へ帰るのだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ